【完結】婚約破棄される前に察して距離を置いていたら、幼なじみの第三王子が本気になっていました〜義妹と元婚約者? もう過去の人です〜

井上 佳

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第8話 それでも私は侯爵家の娘

秋季舞踏会まで、あと三日。
私は、自室でドレスを整えている。
鏡に映る自分を見つめながら、心の中で確認する。

「私は、ヴァルディス侯爵家の長女」

そう。
私は選ばれなかったのではない。
単に、合わない婚約が終わるだけ。

「お嬢様、お似合いです」

マルティナが、ドレスの裾を整えながら言う。

「ありがとう」

私は、鏡の中の自分に微笑みかける。
銀に近い淡い金髪。青灰色の瞳。背筋を伸ばした、気品ある佇まい。

――私は、ヴァルディス侯爵家の長女。それだけは、誰にも奪えない。

「お嬢様」

マルティナが、真剣な表情で言う。

「当日、何があっても――私はお嬢様の味方です」
「......ありがとう、マルティナ」

私は、彼女の手を握る。

「あなたがいてくれて、本当に良かった」

マルティナは、少し照れたように視線を逸らす。

「当たり前のことです」


その夜。父の書斎から、呼び出しがあった。

「エレノア、入りなさい」
「失礼します」

父は、書類を整理しながら言う。

「秋季舞踏会のことだが」
「はい」
「......一人で出席するのか」
「はい」

私は、迷いなく答える。
父は、深くため息をついた。

「すまない。私がもっと早く、リリアナとセレナを――」
「お父様」

私は、父の言葉を遮る。

「これは、お父様の責任ではありません」
「だが――」
「むしろ、感謝しています」
「......え?」

父は、一瞬呆然として――それから、小さく笑った。

「......お前は、本当に強いな」
「お母様から、受け継ぎました」

私は微笑む。
母――。六歳の時に亡くなった、優しく強い人。

「お母様も、きっとこう言うでしょう。『エレノア、背筋を伸ばして。あなたは侯爵家の娘なのだから』と」

父は、優しく笑った。

「......ああ、確かにそう言うだろうな」
「ですから、お父様。ご心配なく」

私は一礼し、書斎を後にした。


廊下を歩いていると――。

「......エレノア様」

小さな声。
振り返ると、義母――セレナが立っていた。
儚げな美貌と、淡い色の髪。病弱そうな雰囲気をまとった、薄幸系美人。

「セレナ様」
「あの......リリアナのことで」

彼女は、申し訳なさそうに俯く。

「私が、ちゃんと教育できていれば......」
「いいえ」

私は、穏やかに首を振る。

「リリアナは、もう大人です。自分の行動に、責任を持つべきでしょう」
「でも――」
「セレナ様」

私は、彼女を見つめる。

「あなたは、悪くありません。むしろ、私は感謝しているんです」
「......え?」
「私は、ディートリヒとは合わないって思っていたので」

私は笑う。
セレナは、涙を浮かべる。

「......エレノア様は、本当にお優しい」
「優しいんじゃなくて、本音ですよ」

私はあっけらかんと答えた。

セレナは、小さく笑って去っていった。

――弱い人だ。だが、悪い人ではない。
彼女も、被害者なのかもしれない。
そう思うことが、時々ある。


セレナ・グレイス。
父が再婚した相手であり、私の義母。
元々は、グレイス子爵家の三女だった。
名門でもなく、貧しくもない。

だが、三女という立場は、貴族社会では曖昧だ。
政略結婚の駒としても使われにくく、
かといって、自由が与えられるわけでもない。

そんな彼女が選んだのは――
恋愛結婚だった。

相手は、王宮騎士。
爵位こそ騎士爵だが、実力で地位を得た、誠実な男だったと聞く。

ただ一つ、問題があった。
彼には、前妻との間に生まれた娘がいた。

――それがリリアナ。

グレイス家は反対した。
連れ子のいる騎士との結婚など、家に益はないと。

それでも、セレナは彼を選んだ。
愛していたのだと思う。
そして、その愛の延長として、
前妻の子であるリリアナも、我が子のように愛したのだろう。

だが、幸福は長く続かなかった。
騎士は戦地で命を落とす。
突然の訃報。
残されたのは、若い未亡人と、幼い娘。
実家に戻る道は、事実上、閉ざされていた。
グレイス家の血を一滴も引かない子を連れて帰ることは、
家の体面上、許されなかった。

そこに差し伸べられたのが、父アルベルト・ヴァルディス侯爵の手。

子爵家当主であるグレイス子爵の温情もあり、
彼女は父と再婚することになる。

行き場を得た。

だが、居場所を得たとは限らなかった。

貴族社会の作法。
侯爵家の女主人としての立場。
次期侯爵である私という存在。

彼女には、すべてが重すぎた。

だからだろう。
彼女は、娘に依存するようになった。
愛していた。
間違いなく、愛していたのだと思う。

だが――

正しさを教える強さが、なかった。

「いけませんよ」と言う代わりに、微笑んでしまう。
「それは違う」と諭す代わりに、目を伏せてしまう。

その弱さが、
リリアナを“侯爵家のお姫様”だと勘違いさせた。

私は、セレナを憎んではいない。
だが、理解したからといって、
すべてを許せるわけでもない。
弱さは、免罪符ではないのだから。

それでも――
彼女もまた、この物語の中で、
救われなかった一人なのだと思っている。

だから私は、
彼女を断罪しない。

ただ、
距離を置くことを選んだ。

それが、次期侯爵としての、
そして一人の人間としての、
私なりの答えだった。



私は、自室に戻る。窓から、月を見上げる。

「......もうすぐね」

すべてが、終わる。そして――新しい何かが、始まる。

その時。ふと、レオニス殿下の顔が浮かんだ。
金色の瞳。穏やかな微笑み。

そして――あの日、私に言ってくれた言葉。

「君は、間違っていない」

――なぜだろう。あの方の言葉だけが、胸に温かく残る。

「......ありがとうございます、レオニス様」

私は、小さく呟いた。
誰にも聞こえない、小さな感謝の言葉を。
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