【完結】婚約破棄される前に察して距離を置いていたら、幼なじみの第三王子が本気になっていました〜義妹と元婚約者? もう過去の人です〜

井上 佳

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第33話 過去との決別

ルーゼン侯爵領内の、小さな町。

ここは、石畳の道が続く静かな町だ。商店が並び、人々が行き交う。貴族の住む城下町とは違い、ここは庶民の町。

俺――ディートリヒは、父が用意してくれた家で暮らしている。町の端にある、小さな二階建ての家。木造で、壁には経年劣化のひび割れが見える。

「……はあ」

朝、目を覚ますと――見慣れない天井が目に入る。白い漆喰の天井で、シミがいくつか浮かんでいる。もう一ヶ月も経つのに、未だに慣れない。侯爵家の豪華な部屋とは違う。天蓋付きのベッド、絹のカーテン、豪華な家具――それらは、もう遠い過去だ。今あるのは、小さく質素な家。使用人もいない。すべて、自分でやらなければならない。

「……起きたわよ、ディートリヒ」

隣で、リリアナが不機嫌そうに言う。彼女は、髪を乱したまま起き上がる。かつては、侍女が髪を整えてくれていた。だが――今は、誰もいない。

「ああ」

俺は、ベッドから起き上がる。体が重い。毎日の肉体労働で、筋肉痛が続いているからだ。

「朝食、作ってよ」

リリアナは、それが当然というような口調だ。

「……わかった」

俺は、階段を下りて台所へ向かう。狭い台所には、古びた木製のテーブルと、簡素な調理台があるだけだ。かつては、料理人が豪華な朝食を用意してくれたものだが――今は、俺が作るしかない。
パンと、残り物の野菜を煮込んだだけの簡単なスープ。これが、俺たちの朝食だ。

「……こんなの、食べられないわ」

リリアナが、階段を下りてきて、不満そうに言う。彼女は、スープを一口飲んで――顔をしかめる。

「贅沢は言えないだろう」

俺は、ため息をつく。

「でも――」
「リリアナ」

俺は、彼女を見つめる。

「俺たちは、もう貴族じゃない」
「……っ」

リリアナの顔が、こわばる。

「ただの平民だ」

その言葉に、リリアナは黙り込む。彼女は、スープに視線を落とす。沈黙が、部屋を支配する。最近、俺たちの間には沈黙が増えた。もう会話がほとんどない。あるのは、不満と諦めだけだ。


俺は、町で働いている。父の温情で、町の商店を紹介してもらった。雑貨を扱う店で、店主は中年の男だ。厳しいが、公平な人物だ。

「ディートリヒ、これ運んでくれ」

店主が、重い荷物を指さす。小麦粉の袋だ。一袋、十キロ以上ある。

「はい」

俺は、荷物を持ち上げる。重い。腰に、負担がかかる。貴族の頃は、こんなことしたことがなかった。使用人が、すべてやってくれた。だが――今は、これが俺の仕事だ。荷物を倉庫に運び、整理する。汗が、額を伝う。息が、上がる。

店で働くようになって一ヶ月。最初の頃は、こんな簡単な作業でも息が切れた。今は少しマシになったが、それでも体は悲鳴を上げている。貴族として育った体は、肉体労働には向いていなかった。

「ご苦労さん」

店主が、仕事が終わった後、給料を渡してくれる。銀貨、数枚。わずかな金額だ。侯爵家で使っていた小遣いの、十分の一にも満たない額だが――これで、生活するしかない。

「……ありがとうございます」

俺は、頭を下げた。店主は、満足そうに頷いて――奥へ引っ込む。俺は、銀貨を握りしめて――家へ帰る。


家に帰ると――リリアナがいない。

「……また、出かけたのか」

彼女は、最近よく外出している。「町で、友達ができた」と言っていたが――俺は、噂を聞いている。

リリアナが、町の小金持ちたちに媚びを売っていること。見た目が可憐だから、チヤホヤされていること。そして――簡単に、男たちに身を許していること。

「……」

俺は、何も言えない。言ったところで、何が変わるというのだ。これが――愛のために選んだ結果だ。エレノアとの婚約を破棄して、リリアナを選んだ結果が、これだ。俺は、何を手に入れたかったんだろう。
公爵夫人? いや、それも幻想だった。侯爵家を継ぐ? それも、長子継承制の前では無意味だった。ただ――リリアナを愛していると思っていた。それだけで、すべてを捨てた。だが、今――愛など、どこにもない。



夜遅く、リリアナが帰ってきた。扉が開く音がする。

「ただいま」

リリアナの声が、明るい。俺は、椅子に座ったまま、彼女を見る。彼女は――新しいドレスを着ている。派手な色の、高そうなドレスだ。

「……どこに行っていた」
「町よ」

リリアナは、あっさりと答える。鏡の前に立ち、髪を整え始める。その仕草は、まるで何も悪いことをしていないかのように自然だ。

「友達と、お茶してたの」
「……そうか」

俺は、それ以上何も聞かない。聞いても、意味がないから。リリアナは、もう俺の言葉など聞いていない。彼女が求めているのは、贅沢な暮らしだけだ。俺ではない。

「それより、ディートリヒ」

リリアナが、振り返る。甘い声で言う。

「お金、ちょうだい」
「……金?」
「ええ。ドレス、買いたいの」

彼女は、当然のように言う。まるで、俺が金を持っているのが当たり前だとでも言うように。

「ドレス?」

俺は、呆れる。そもそも、今着ているそれはいったい何なんだ?

「俺たちには、そんな金はない」
「でも――」
「金が欲しいというなら働くか、その豪華なドレスを売ったらどうだ」

俺は、きっぱりと言う。もう、何度も同じやり取りを繰り返している。リリアナは、現実を見ようとしない。
リリアナは、不満そうに唇を尖らせた。

「これは売れないわよ。友達に、もらったんだから」

そういって、リリアナは階段を上がっていく。部屋の扉が、バタンと閉まる。
俺は――深くため息をついた。テーブルに肘をつき、頭を抱える。

「……エレノア」

ふと、彼女の名を呼んでいた。銀に近い淡い金髪。青灰色の瞳。誇り高く、強く、聡明な女性。

俺は――彼女を失った。そして、今――何も残っていない。
エレノアと話をしていた時、彼女はいつも領地のことを考えていた。領民のこと、税収のこと、交易のこと。俺は、それを「つまらない」と思っていた。
だが――今なら、わかる。彼女は、責任を果たしていたんだ。侯爵家の当主として、領地を治める責任を。俺には、その責任を理解する力がなかった。

「……俺は、何をしていたんだろう」

後悔しても、遅い。すべては――俺の選択の結果だ。

窓の外を見る。暗い夜空に、星がいくつか輝いている。
だが――その光は、遠い。俺には――届かない。



翌日、町の市場。野菜を売る老婆たちが、囁き合っている。

「あの可愛い娘、また商人と一緒だったわよ」
「ああ、リリアナって娘だろう?」
「そうそう。見た目は可憐なのにね」
「簡単に男に媚びを売るって、噂よ」

老婆たちは、顔を寄せ合う。

「あの男――ディートリヒも、可哀想にね」
「ああ。真面目に働いているのに」
「でも、妻があれじゃあね」

町の人々は、同情しつつも――距離を置き始めている。二人は――愛のために、すべてを失った。

そして、何も得られなかった。
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