月の華診療所

花輝夜(はなかぐや)

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薔薇の耳飾り1

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けたたましく通り過ぎるトラックが土埃を立てていく。
歩道を舐めるように見つめるタクシーはバスに追い立てられ慌ててスピードをあげ、バス停に並んでそれを眺める学生を老人が無遠慮に押しのけた。
他人に関心のないこの街をイヤホンで遮って通り過ぎる。心に余裕があったらきっと素敵な街にも見えるのだろう。
わたしはひとつため息をついて誰の曲かもわからないロックを流した。
電車を逃せば待ち時間は人気アトラクションにも引けを取らないような場所から、この街に越してきて3年が経った。電車の待ち時間はカップラーメンが出来るよりも短くなったが、人は下手な遊園地よりも増えた。
都会には未だ馴染めない。早歩きもお洒落な筆記体の看板にも怯えて人通りの少ない道を選んで歩く癖が抜けないのだ。
わたしはまたため息をつきながら辻を曲がって閑静な細い通りへ出た。
静かな家を選んだ結果、こんな寂れた裏道がわたしのホームグラウンドになってしまった。
蝉の声と滲むような暑さにせっつかれながら鍵を取り出し、オートロックを開ける。入口すぐの掲示板に見慣れない張り紙があった。
「…お悩み、治します?」
漢方薬局に貼ってあるような古ぼけた紙に華奢な文字でそう書いてある。ラミネートされた水道修理やごみ捨て曜日の張り紙の中で、それだけが異様に目立っていた。
昨日まではなかったはずだ。
「それね、今日の朝、綺麗なお嬢さんが貼りに来たんよぉ。」
「うわっ、か、管理人…」
急に話しかけられ、驚いて飛び上がる。掲示板の向かいにある管理室からアパートの管理人がこちらをのぞいていた。
「結構若い子やったけど…なんかそっちの道の奥に最近怪しい雑貨屋が出来たん知ってる?」
「あぁ…月ノ華雑貨店?」
「そうそう」
その雑貨屋は蝉が鳴き始めた頃、元はよくわからないブティックだった場所でひっそりと開いた店だった。
看板には「月ノ華“診療所”」と書いていたが、近所の新しい物好きマダムによればアクセサリーを売っている様子だとのことだ。
その噂のせいでこの辺りでは「雑貨屋」と呼ばれている。わたしも一度中から若い女性が出てくるのを見たが、到底薬とは思えない可愛らしい包み紙を抱えていたため「診療所」という名前の雑貨屋なんだろうと思っている。
店から出てきたその女性はあまりに幸せそうな顔をしており、いつか行ってみたいと興味はあったのだが、忙しくてうっかり忘れていた。
「張り紙しに来た子はあそこのご店主さんなんやって。若いのにねえ」
「へえ。…これ、広告ですかね?アクセサリーショップやのに治します、って何やろ。それに悩みは解決であって、治すもんでは…」
張り紙に指を添わせて睨めっこするわたしに管理人は声を立てて笑う。わかってる、深く考えすぎる悪い癖だと言うんだろう。
「そういう設定なのか、もしくは…アクセサリーの修理かもしれへんで」
「あぁ…修理は有り得るかも。アクセサリーのお医者さま…お悩みってのがアクセサリーの破損やとして…でもそうするとなおすの字がちゃうやんな。うーん」
更にとやかく考え込んでしまったわたしに管理人はもう声をかけなかった。
わたしももう気にしないことにして、部屋に戻る。しかしシャワーを浴びても釈然とせず、クーラーをつけて服を着替えても納得がいかない。頭の隅にあの張り紙がずっとはりついて剥がれないようだった。
「一回、行ってみるに限るかもなあ」
独りごちて玄関に舞い戻る。自分の性格は自分が一番よくわかっているものだ。
靴を履き直して鍵入れに手を突っ込み乱暴に引き抜いたとき、何かが引っかかって落ちる音がした。
「あ…」
控えめに輝く華奢な金に、薄いピンクのベールがかかった石が散りばめられたブレスレット。幸い落下の衝撃で割れることも曲がることもなかったが、心の玻璃には大きなヒビが入った。
「これ…こんな…とこに、あったんか」
恐る恐る拾い上げて砂を払う。
心の玻璃のヒビが広がるように音を立てる。愛おしくて、苦しい衝動が喉のすぐそこまで迫り上がってきた。
「治します…ね」
どこも壊れていないそのブレスレットと壊れそうな気持ちをなんとなくズボンのポケットに押し込んで、わたしは大股で家を出た。
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