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第六章:流れる鼓動、重なる願い
第93話・忠誠の名を借りた逃避
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陽も落ち、城のサロンには静寂が満ちていた。
皆がそれぞれの時間を過ごす中、ユリウスは棚の前で本を手に取りながら、ふと視線を横に流した。
その先にいたのは──ヴィクトル。
ルナフィエラの姿が見えなくなってからしばらくの間、ヴィクトルはただ窓の外を見つめていた。
月明かりが差し込む横顔は静かで、崩れのない無表情。
けれど、ユリウスの目は、ごく僅かな“違和感”を見逃さなかった。
(……呼吸が、浅い)
ごく一瞬、窓硝子に映る己の顔を見たかと思えば、すぐに視線を逸らす。
本来なら、ルナフィエラを一瞬たりとも見逃さぬ彼が。
いまはそこにいない“主”の面影を、黙って追いかけているように見えた。
「……ヴィクトル」
ユリウスは、わざと距離を詰めず、柔らかな声で問いかける。
「君、本当は……苦しいんじゃない?」
ヴィクトルは微動だにしなかった。
けれど、その目がかすかに揺れたのをユリウスは見逃さなかった。
「ルナに想いを伝えたい。でもそれは、仕える者として越えてはいけない一線──君はそう思っているんだろう?」
静かな言葉が、空気を震わせる。
「でも、僕たちは越えてる。君の目の前で、堂々と。……それでも、君は何も言わない。だからこそ、余計に……わかってしまうんだよ」
黙したまま、ヴィクトルが強く拳を握る。
その震えが、彼の葛藤を物語っていた。
「ルナは、君の“忠誠”より、“本音”を知りたがってると思うよ」
ユリウスの言葉に、ヴィクトルの肩がわずかに動いた。
「君が自分を抑え込むたびに、ルナは“なぜ?”と戸惑ってる。……ねえ、君はそれでも“騎士”でいたいの?」
沈黙が落ちる。
けれど、それは拒絶ではなく、迷いの沈黙だった。
ユリウスはそれ以上、何も言わずに歩み去る。
扉の前で一度だけ立ち止まり、後ろを振り返ることもなく静かに告げた。
「……このままだと、君が一番遠くなるよ。ルナの心から」
──扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残されたヴィクトルは、月光の中でひとり立ち尽くす。
表情はなかった。
けれど、胸の奥では何かが、確かに軋んでいた。
夜風が静かに吹き抜ける回廊。
ルナフィエラはひとり、城の中庭を歩いていた。
冷えた風が頬を撫で、彼女は仰ぎ見た空に微笑みを浮かべる。
その笑みは、どこか虚ろだった。
昼間に流した涙の痕を隠すように、
彼女はあえて、ひとりになっていた。
その背後――
柱の陰からそっと様子をうかがうように立つ、黒衣の男の姿。
ヴィクトル・エーベルヴァイン。
ルナフィエラの姿を見つけた瞬間、思わず歩み寄りかけて、しかしその足を止めてしまう。
その手は、わずかに空を切っただけで、何も掴まない。
(……泣いて、いたんだ)
わずかに残る痕跡が、彼女の瞳の端に微かに残っていた。
今は笑っているようでいて、笑っていない。
そんな虚ろな微笑みが、ヴィクトルの胸をひどく締めつけた。
(声を、かけたい)
慰めたい。
「どうした」と問いたい。
抱きしめて、「もう大丈夫だ」と言いたい。
けれど、それは……主に対して、許される行為だろうか。
(違う……それは、俺の欲だ)
彼女のためではない。
“触れたい”のは、自分のほうだ。
“声をかけたい”のも、自分の都合でしかない。
それは、主に仕える騎士として──あってはならぬ行為。
(俺は、従者。騎士。……彼女の剣であって、それ以上では……)
けれど今や、その誇りが“鎖”のように心を締めつけていた。
ルナフィエラがふとこちらを振り返る気配に、ヴィクトルは思わず身を隠す。
己の行動に、心底嫌気が差す。
(彼女は……気づいているだろうか)
いつもはすぐに駆け寄っていたはずの自分が、今日は距離を取っていることに。
いや、気づいてしまったからこそ、あんなふうに泣いたのではないか。
「傍にいてほしい」と願っていた者が、
沈黙を選んだそのことに、傷ついたのではないか。
それでも、足は動かなかった。
ルナフィエラがまた、そっと背を向けて歩き出す。
遠ざかっていくその後ろ姿に、ヴィクトルは声をかけられないまま、ただ見送るしかなかった。
「…………ルナ、様」
小さく漏れたその呼び名は、風にかき消されて届かなかった。
彼女が背を向けるたび、距離が広がっていく気がする。
けれどそれを、止められない。
──それが、ヴィクトルの今の罪だった。
皆がそれぞれの時間を過ごす中、ユリウスは棚の前で本を手に取りながら、ふと視線を横に流した。
その先にいたのは──ヴィクトル。
ルナフィエラの姿が見えなくなってからしばらくの間、ヴィクトルはただ窓の外を見つめていた。
月明かりが差し込む横顔は静かで、崩れのない無表情。
けれど、ユリウスの目は、ごく僅かな“違和感”を見逃さなかった。
(……呼吸が、浅い)
ごく一瞬、窓硝子に映る己の顔を見たかと思えば、すぐに視線を逸らす。
本来なら、ルナフィエラを一瞬たりとも見逃さぬ彼が。
いまはそこにいない“主”の面影を、黙って追いかけているように見えた。
「……ヴィクトル」
ユリウスは、わざと距離を詰めず、柔らかな声で問いかける。
「君、本当は……苦しいんじゃない?」
ヴィクトルは微動だにしなかった。
けれど、その目がかすかに揺れたのをユリウスは見逃さなかった。
「ルナに想いを伝えたい。でもそれは、仕える者として越えてはいけない一線──君はそう思っているんだろう?」
静かな言葉が、空気を震わせる。
「でも、僕たちは越えてる。君の目の前で、堂々と。……それでも、君は何も言わない。だからこそ、余計に……わかってしまうんだよ」
黙したまま、ヴィクトルが強く拳を握る。
その震えが、彼の葛藤を物語っていた。
「ルナは、君の“忠誠”より、“本音”を知りたがってると思うよ」
ユリウスの言葉に、ヴィクトルの肩がわずかに動いた。
「君が自分を抑え込むたびに、ルナは“なぜ?”と戸惑ってる。……ねえ、君はそれでも“騎士”でいたいの?」
沈黙が落ちる。
けれど、それは拒絶ではなく、迷いの沈黙だった。
ユリウスはそれ以上、何も言わずに歩み去る。
扉の前で一度だけ立ち止まり、後ろを振り返ることもなく静かに告げた。
「……このままだと、君が一番遠くなるよ。ルナの心から」
──扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残されたヴィクトルは、月光の中でひとり立ち尽くす。
表情はなかった。
けれど、胸の奥では何かが、確かに軋んでいた。
夜風が静かに吹き抜ける回廊。
ルナフィエラはひとり、城の中庭を歩いていた。
冷えた風が頬を撫で、彼女は仰ぎ見た空に微笑みを浮かべる。
その笑みは、どこか虚ろだった。
昼間に流した涙の痕を隠すように、
彼女はあえて、ひとりになっていた。
その背後――
柱の陰からそっと様子をうかがうように立つ、黒衣の男の姿。
ヴィクトル・エーベルヴァイン。
ルナフィエラの姿を見つけた瞬間、思わず歩み寄りかけて、しかしその足を止めてしまう。
その手は、わずかに空を切っただけで、何も掴まない。
(……泣いて、いたんだ)
わずかに残る痕跡が、彼女の瞳の端に微かに残っていた。
今は笑っているようでいて、笑っていない。
そんな虚ろな微笑みが、ヴィクトルの胸をひどく締めつけた。
(声を、かけたい)
慰めたい。
「どうした」と問いたい。
抱きしめて、「もう大丈夫だ」と言いたい。
けれど、それは……主に対して、許される行為だろうか。
(違う……それは、俺の欲だ)
彼女のためではない。
“触れたい”のは、自分のほうだ。
“声をかけたい”のも、自分の都合でしかない。
それは、主に仕える騎士として──あってはならぬ行為。
(俺は、従者。騎士。……彼女の剣であって、それ以上では……)
けれど今や、その誇りが“鎖”のように心を締めつけていた。
ルナフィエラがふとこちらを振り返る気配に、ヴィクトルは思わず身を隠す。
己の行動に、心底嫌気が差す。
(彼女は……気づいているだろうか)
いつもはすぐに駆け寄っていたはずの自分が、今日は距離を取っていることに。
いや、気づいてしまったからこそ、あんなふうに泣いたのではないか。
「傍にいてほしい」と願っていた者が、
沈黙を選んだそのことに、傷ついたのではないか。
それでも、足は動かなかった。
ルナフィエラがまた、そっと背を向けて歩き出す。
遠ざかっていくその後ろ姿に、ヴィクトルは声をかけられないまま、ただ見送るしかなかった。
「…………ルナ、様」
小さく漏れたその呼び名は、風にかき消されて届かなかった。
彼女が背を向けるたび、距離が広がっていく気がする。
けれどそれを、止められない。
──それが、ヴィクトルの今の罪だった。
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