純血の姫と誓約の騎士たち〜紅き契約と滅びの呪い〜

来栖れいな

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第六章:流れる鼓動、重なる願い

第94話・あと一歩が、踏み出せない

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ルナフィエラは、自室のソファに膝を抱えて座っていた。

昼間の涙はもう乾いていた。
けれど、胸の奥に残るもやは、いまだ晴れそうになかった。

(……ヴィクトル)

心の中で名前を呼ぶだけで、少し胸が痛んだ。

いつだって、誰よりも早く気づいてくれていた。
ほんのわずかな異変さえ見逃さず、すぐに駆け寄ってくれた。
けれど──今日は、違った。

皆が心配してくれていた中で、彼だけが遠くにいた。
見守るでもなく、声をかけるでもなく。
ただ、静かに影に紛れるように、そこにいただけだった。

(どうして……?)

問いは、答えのないまま、何度も胸の中を巡る。
ふと、指先が震えているのに気づいて、ルナはぎゅっと膝を抱きしめ直した。

(やっぱり…何か……怒らせるようなこと、したのかな……)

思い返す。
ここ最近のやり取り、言葉、行動──でも、明確な理由は浮かばない。

ただ一つ、引っかかるのは――
ここ最近、ユリウスやフィンと少しだけ距離が近かったこと。
それを、ヴィクトルは見ていた。

(……まさか、それで?)

でも、そんなはずない。
ヴィクトルは、そんなことで怒る人じゃない。
……なのに。

「……近くにいて、ほしかったのに」

小さく漏れた声は、誰に届くこともなく宙に消える。
きゅう、と胸が締めつけられた。

(……それとも…嫌われたのかな)

浮かびかけた疑念を、頭では否定しているのに、心が勝手に想像してしまう。
ヴィクトルの冷たい背中。
自分から目を逸らす視線。
何も言ってくれない、その沈黙。

ルナフィエラは、知らず知らずのうちに、小さく震えていた。
それは、寒さではなかった。

心の奥にぽっかりと空いた隙間に、冷たい風が吹き込むような……
そんな、言いようのない孤独だった。


夜も更け、月の仄かに淡い光が部屋の床を照らしていた。
ルナフィエラはいつものように大きなベッドの上、フィンの腕の中で静かに横になっていた。

「……苦しくない?」

優しい声とともに、フィンがそっと彼女の髪を撫でる。
その仕草は本当に優しくて、心地よくて、安心できるはずなのに──。

(……ごめんね、フィン)

ルナフィエラの瞼は閉じていたが、眠りは浅く、心の奥では別の誰かのことばかりが渦巻いていた。

言葉にできない違和感。
説明のできない寂しさ。
どれもがルナフィエラを眠らせてくれず、ただ静かにフィンの胸の中で目を閉じているだけだった。

「……ルナ?」

気づいたのか、フィンが小さな声で呼びかけてくる。
彼女は小さく首を横に振り、聞こえないふりをした。
優しい腕に包まれているのに、そこに安らぎきれない自分が、情けなくて、どうしようもなくて──

(こんなこと、思っちゃいけないのに……)

それでも、心はヴィクトルのことでいっぱいだった。
彼の視線、彼の沈黙、彼の距離……
そのすべてが、今夜のルナフィエラを縛っていた。


——翌朝。
食堂に入ると、ユリウスとシグがすでに席についていた。
ルナフィエラは少し迷った末、フィンの隣に腰を下ろす。

「ルナ…昨日、ちゃんと眠れた?」

「……うん。フィンのおかげで、あったかかった」

微笑んでそう返したものの、心の奥はざわついていた。

(……ヴィクトルは、今日も……)

ルナフィエラの視線が、つい扉の方を探してしまう。

まもなく、いつも通りの足音と共に、静かに扉が開いた。

「……失礼します」

落ち着いた声。
そこにいるだけで空気が張るような、変わらぬ気配。
だけど──

「……おはようございます、ルナ様」

彼の言葉は、どこか距離のあるものに感じられた。

「っ……おはよう……」

思わず視線を落とし、言葉が掠れた。
彼のほうを見ることも、できなかった。

(……ヴィクトル、前は……もっと優しく声をかけてくれたのに)

今のヴィクトルは、少し離れた席に座り、視線をルナフィエラに寄越すことすらない。

パンを取ってくれたフィンの手にすがるように「ありがとう」と呟く。
無意識に、安心できる相手に寄ってしまっていた。
昨日からずっと、ヴィクトルの沈黙が、怖かった。

しかし、ルナフィエラは──知らなかった。


ヴィクトルのほうもまた、
「もう一歩でも近づけば、ルナを苦しめてしまうかもしれない」と、
自らを強く、強く押しとどめていたことを。

想いはすぐ近くにあるのに、
ほんの一歩が踏み出せない。

そんなふたりのすれ違いは、
静かな朝の食堂に、切なさだけを残していった。
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