病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第8話・行き場のない心のゆく先

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昼前の病室。
カーテン越しに、淡い光がゆっくりと差し込んでいた。

かすかな衣擦れの音——
その微細な気配に、琴葉はゆっくりとまぶたを開いた。

「……すみません。起こしてしまいましたね」

枕元から落ちてきたのは、静かで柔らかな声。
視界がはっきりすると、そこには奏一が立っていた。

声を出そうとしたが——
喉が酷く渇いていて、うまく音にならない。

それに気づいた奏一が、すぐにポットへ手を伸ばした。

「少し水分を取りましょう」

コップに水を注ぎ、ベッドの高さへ合わせて差し出してくれる。

「焦らなくていいので、ゆっくり」

琴葉は両手で受け取り、ごくり、と喉を湿らせた。
それだけで少し呼吸が軽くなる。

「……ありがとう」

かすれた声に、奏一は小さく頷く。

「気分はどうですか。熱はまだ少しありますが……今朝よりは楽そうですね」

「……うん。薬が効いたみたい」

まだ身体は重いものの、息苦しさはなかった。
その変化を感じ取ったように、彼の表情がわずかに和らぐ。
だが、淡々と、丁寧に呼吸と顔色を確認する。

ほんのわずかな沈黙ののち——
奏一は姿勢を正し、言葉を選ぶように口を開いた。

「お母様が、今朝早くから来院されています。
控室で、ずっと琴葉さんの目覚めを待っておられます」

琴葉のまつげがわずかに揺れる。
胸の奥に、重い痛みが落ちた。

(……来てるんだ)

昨日の言い合いも、飛び出した記憶も、まだ胸のどこかに刺さったまま。
奏一はそんな琴葉の表情の揺れを、静かに受け止めながら続ける。

「……少しだけ、お顔を見たいと仰っています。
琴葉さんがよければ、お呼びしますが……いかがですか」

一切の強制がない声だった。
あくまで“選択肢として差し出された”だけの、静かな問い。

(……会いたくない)

でも——拒めばもっと拗れる。
母の性格も、心配性も、負の連鎖も――誰より知っている。

琴葉はしばらく視線を落とし、乾いた喉をひとつ鳴らした。

「……会う」

ほんの少し震えた声だった。
奏一のまつげが静かに伏せ、静かに頷く。

「……わかりました。すぐお呼びします」

丁寧に一礼して、そっと部屋を出ていった。

扉が閉まったあと——
琴葉は布団を握りしめ、小さく息を吐いた。
逃げたいのに逃げられない。
どこにも、明確な正しさなんてない。

ただ、胸の奥がひりつくように痛んでいた。


扉がノックされ、小さく開く音がする。
息を吸ったところで、母が小走りに駆け寄ってきた。

「琴葉……よかった、無事で……!」

ベッドに近づき、すぐに琴葉の手を取ろうとする。
その動きに、琴葉は反射的に肩を強く引いた。

「……触らないで」

母の手が空中で止まる。

「ちょっと、なに言ってるの。昨日あんなふうに飛び出して……どれだけ心配したと思ってるのよ」

「心配じゃない。監視してるだけでしょ」

母の表情が固まる。

「そんな言い方――」

「いつもそう! “心配だから”“あなたのためだから”って全部決めつけて!
私の気持ち、聞いたこと一度でもある!?」

「琴葉!」

声がぶつかり合い、空気が一気に重くなる。
微熱で赤い頬が、さらに熱を帯びていく。

奏一は黙って二人を見ていた。
その視線は冷静だったが、奥には緊張の色が浮かんでいる。

「落ち着きなさい、琴葉! なにかあったらどうするの。
あなたの身体は普通じゃないのよ! 放っておけるわけないでしょう!」

「もう嫌! ママの顔なんて見たくない!」

母の言葉ももう届かない。
怒りと悲しみがごちゃ混ぜになって、琴葉の瞳は涙で濡れていた。

その時――

「……琴葉さん」

低く、静かな声が部屋に響いた。

いつもの穏やかさではない。
抑えた怒気を含んだ、冷たい声。

琴葉はびくりと肩を震わせ、反射的に顔を上げた。
奏一は表情を変えず、ただ目だけが鋭い光を帯びている。
温度が一気に下がったような、静かな圧。

「これ以上、興奮すれば再び発作を起こします。
……落ち着いてください」

琴葉は思わず息を呑む。
怖いはずなのに、不思議と心拍が落ち着いていった。

「お母様」

奏一は静かに視線を向ける。

「申し訳ありません。このままでは症状が悪化します。
一度、外でお待ちいただけますか」

母は逡巡したが、奏一の目を見て小さく頷く。
扉が静かに閉まり、部屋に再び静寂が戻った。


しばらく沈黙流れる。
奏一がゆっくりと口を開いた。

「……琴葉さん」

「……なに」

「このまま、ご実家に戻るのは難しいでしょう。
精神的にも、体調的にも」

「……帰らない。あんなの、もう無理」

彼は小さく頷き、淡々と告げる。

「では――しばらく、私のもとで過ごしませんか」

琴葉が顔を上げる。

「え……?」

「心配いりません。あくまで“治療の一環”としてです。
今の琴葉さんには、静かに休める場所が必要だと思います」

「でも、そんなの……結局、監視でしょ。ママと何も変わらない」

「そう感じても構いません」

一瞬、息が止まる。

「けれど、今のままご実家に戻れば、また同じことの繰り返しです。
心が擦り切れ、体調を崩す。――それは、望ましくない」

「じゃあ、どうすればいいの」

「あなたが選んでください」

「……え?」

「お母様のもとへ戻るか、私のところに来るか。
どちらが“まだマシ”かは、琴葉さんが一番わかっているはずです」

声は静かで優しい。
けれど、逃げ場のない言葉だった。

琴葉は視線を落とし、唇を噛む。
息を吸うたび、胸の奥が痛む。

(どっちを選んでも、自由にはなれない)

それでも、昨夜の家の空気を思い出すと――もう戻ることはできなかった。

「……わかった。そっちに行く」

小さく呟くように言った。
奏一はわずかに目を伏せ、静かに頷く。

「……わかりました」

その声音は柔らかく、それ以上の感情を見せない。
けれど、ほんの一瞬、瞳の奥に微かな安堵が揺れた。
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