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第7話・守りたい気持ちが、静かに軋む朝
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翌朝ー。
カーテン越しに柔らかい朝の光が差し込んでいた。
外は雨上がりのような湿気を含んだ空気。
病室の時計は、すでに9時を回っている。
琴葉はゆっくりとまぶたを開き、重たく息を吐いた。
全身が鉛のように重い。
額に触れると、微かな熱。
喉が痛く、体の芯がだるかった。
(……無理したから、だよね)
昨日のことを思い返すと、胸の奥がきゅっと痛む。
あんなふうに怒鳴ったのは初めてだった。
そこへ、軽いノックの音がして、白衣姿の奏一が入ってきた。
淡いグレーのシャツが白衣の隙間からのぞいている。
夜よりも表情は柔らかかったが、目の奥に残る疲労は隠しきれていない。
「おはようございます、琴葉さん。気分はいかがですか」
「……少し、だるい」
「熱が少し上がっていますね。37度2分。
検査の結果も踏まえて、今日は安静にしていましょう」
そう言いながら、聴診器を胸に当てる。
鼓動の音が、静かに二人の間に響いた。
「呼吸は落ち着いていますね。朝食は軽めに用意していますが……食べられそうですか」
「……うん、食べる」
お粥のほんのりと温かい香りに、少しだけ心がほどける。
食後、薬を飲み終えた琴葉は、ベッドに背を預けた。
「少し横になってください」
「……うん」
素直に頷いた自分に、ほんの少しだけ驚く。
今はただ、言葉を返す気力がなかった。
彼女がまぶたを落とし、眠ったのを確認すると、奏一は静かに病室を出た。
ナースステーション近くの控室では、すでに母が来ていた。
昨夜、琴葉を保護した直後に奏一が連絡を入れたため、母は夜明けとともに駆けつけてきたのだ。
「先生……琴葉は……?」
母の声は震え、目の下に深い隈が浮かんでいる。
眠れぬまま朝を迎えたことが一目でわかった。
奏一はカルテを閉じ、落ち着いた声で答えた。
「容体は安定しています。
昨夜、来院してすぐ処置を行いましたので、大事には至っていません」
「……よかった……本当に……」
母は胸に手を当て、安堵の息を吐いた。
奏一は、すぐには続けず、短く間を置いた。
「ただ、疲労とストレスの影響が大きいようです。
先ほど薬を飲んで、今は深く眠っています」
「会わせていただけませんか?顔だけでも……」
必死な表情だった。
だが奏一は首を横に振る。
「――今は、起こしてしまうほうが負担になります。
目が覚めるまで、少しだけお待ちいただけませんか」
母は唇を結び、短く頷いた。
「……わかりました。先生がそう仰るなら」
「ありがとうございます。目を覚ましたらすぐにお知らせいたします」
言葉を交わすと、母は椅子に腰を下ろし、そっと胸に手を当てた。
その仕草は、長い時間ずっと気を張っていた人のものだった。
母への説明を終えたあと、奏一は控えめに頭を下げ、控室を後にする。
医局へ戻る途中、無意識のうちに足がナースステーションの前で止まってしまった。
モニターの一角に、琴葉のベッド番号が点灯している。
心電図、心拍、呼吸数、酸素飽和度――
すべて基準値内。
何度見直しても、数値は安定していた。
(……大丈夫だ。今は、落ち着いている)
そう確認しただけで、胸の奥の張りつめていたものが少し和らぐ。
医局に戻ると、机の上には書類が積まれていた。
外科チームから回ってきた症例、改善案の検討、来週のオペ予定――
いつもなら迷いなく処理できる内容ばかりだ。
なのに、文字が頭に入ってこない。
(……集中できていないな)
気がつけば、再びナースステーションへ向かっていた。
さきほどと同じモニターを見つめ、わずかな変化でも拾おうとするように目を凝らす。
「遠野先生」
後ろから柔らかな声で看護師に呼び止めたられた。
「何か変化があれば、すぐにお呼びします。
……大丈夫ですよ、今は落ち着いていますから」
その言葉に奏一はわずかに息を吐き、短く頷いた。
「……お願いします」
医局に戻り、再度書類に目を落とす。
ペン先は紙の上を動くはずなのに、思考だけが別の場所に引き戻される。
——落ち着いた波形。安定した心拍。
(……また見に行きたい)
自分の中の声に、思わず苦笑が漏れる。
さっき看護師にやんわり釘を刺されたばかりだ。
これ以上繰り返せば、不自然に決まっている。
ほんの少しだけ椅子が軋んだ。
立ち上がりかけた足を、そっと引き戻す。
(……我慢だ)
静かに息を吐く。
それでも胸の奥のざわめきは、完全には消えてくれなかった。
カーテン越しに柔らかい朝の光が差し込んでいた。
外は雨上がりのような湿気を含んだ空気。
病室の時計は、すでに9時を回っている。
琴葉はゆっくりとまぶたを開き、重たく息を吐いた。
全身が鉛のように重い。
額に触れると、微かな熱。
喉が痛く、体の芯がだるかった。
(……無理したから、だよね)
昨日のことを思い返すと、胸の奥がきゅっと痛む。
あんなふうに怒鳴ったのは初めてだった。
そこへ、軽いノックの音がして、白衣姿の奏一が入ってきた。
淡いグレーのシャツが白衣の隙間からのぞいている。
夜よりも表情は柔らかかったが、目の奥に残る疲労は隠しきれていない。
「おはようございます、琴葉さん。気分はいかがですか」
「……少し、だるい」
「熱が少し上がっていますね。37度2分。
検査の結果も踏まえて、今日は安静にしていましょう」
そう言いながら、聴診器を胸に当てる。
鼓動の音が、静かに二人の間に響いた。
「呼吸は落ち着いていますね。朝食は軽めに用意していますが……食べられそうですか」
「……うん、食べる」
お粥のほんのりと温かい香りに、少しだけ心がほどける。
食後、薬を飲み終えた琴葉は、ベッドに背を預けた。
「少し横になってください」
「……うん」
素直に頷いた自分に、ほんの少しだけ驚く。
今はただ、言葉を返す気力がなかった。
彼女がまぶたを落とし、眠ったのを確認すると、奏一は静かに病室を出た。
ナースステーション近くの控室では、すでに母が来ていた。
昨夜、琴葉を保護した直後に奏一が連絡を入れたため、母は夜明けとともに駆けつけてきたのだ。
「先生……琴葉は……?」
母の声は震え、目の下に深い隈が浮かんでいる。
眠れぬまま朝を迎えたことが一目でわかった。
奏一はカルテを閉じ、落ち着いた声で答えた。
「容体は安定しています。
昨夜、来院してすぐ処置を行いましたので、大事には至っていません」
「……よかった……本当に……」
母は胸に手を当て、安堵の息を吐いた。
奏一は、すぐには続けず、短く間を置いた。
「ただ、疲労とストレスの影響が大きいようです。
先ほど薬を飲んで、今は深く眠っています」
「会わせていただけませんか?顔だけでも……」
必死な表情だった。
だが奏一は首を横に振る。
「――今は、起こしてしまうほうが負担になります。
目が覚めるまで、少しだけお待ちいただけませんか」
母は唇を結び、短く頷いた。
「……わかりました。先生がそう仰るなら」
「ありがとうございます。目を覚ましたらすぐにお知らせいたします」
言葉を交わすと、母は椅子に腰を下ろし、そっと胸に手を当てた。
その仕草は、長い時間ずっと気を張っていた人のものだった。
母への説明を終えたあと、奏一は控えめに頭を下げ、控室を後にする。
医局へ戻る途中、無意識のうちに足がナースステーションの前で止まってしまった。
モニターの一角に、琴葉のベッド番号が点灯している。
心電図、心拍、呼吸数、酸素飽和度――
すべて基準値内。
何度見直しても、数値は安定していた。
(……大丈夫だ。今は、落ち着いている)
そう確認しただけで、胸の奥の張りつめていたものが少し和らぐ。
医局に戻ると、机の上には書類が積まれていた。
外科チームから回ってきた症例、改善案の検討、来週のオペ予定――
いつもなら迷いなく処理できる内容ばかりだ。
なのに、文字が頭に入ってこない。
(……集中できていないな)
気がつけば、再びナースステーションへ向かっていた。
さきほどと同じモニターを見つめ、わずかな変化でも拾おうとするように目を凝らす。
「遠野先生」
後ろから柔らかな声で看護師に呼び止めたられた。
「何か変化があれば、すぐにお呼びします。
……大丈夫ですよ、今は落ち着いていますから」
その言葉に奏一はわずかに息を吐き、短く頷いた。
「……お願いします」
医局に戻り、再度書類に目を落とす。
ペン先は紙の上を動くはずなのに、思考だけが別の場所に引き戻される。
——落ち着いた波形。安定した心拍。
(……また見に行きたい)
自分の中の声に、思わず苦笑が漏れる。
さっき看護師にやんわり釘を刺されたばかりだ。
これ以上繰り返せば、不自然に決まっている。
ほんの少しだけ椅子が軋んだ。
立ち上がりかけた足を、そっと引き戻す。
(……我慢だ)
静かに息を吐く。
それでも胸の奥のざわめきは、完全には消えてくれなかった。
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