病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第97話・一歩目の手触り

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「次は、包丁ね」

母の声が、少しだけ引き締まる。

「ここは、ちゃんと見て」

まな板の上に置かれた小松菜を示しながら、母は続ける。

「指は丸める。刃の近くに出さない」

「急がない」

「1回1回、確認する」

琴葉は真剣な表情で頷く。
一口大に切るたび、包丁を置き、位置を確かめる。

「……緊張する」

「それでいいのよ」

母は、すぐにそう言った。

「包丁は、慣れても油断しないこと。怪我しないのが、いちばん大事なの」

その言葉に、琴葉は小さく息を吐く。
キッチンには、穏やかな時間が流れていた。

まだ上手くはできない。
でも、どうすればいいのかは、少しずつ分かってきている。

琴葉は、切り揃えた小松菜を見て、心の中で思った。

(……ちゃんと覚えよう)

焦らず、無理せず。
でも、投げ出さずに。

そんな気持ちで、特訓初日の朝は静かに進んでいった。


そして、夕食の時間。

キッチンから漂ってくる匂いは、いつもより少しだけ違っていた。
甘辛いはずの照り焼きの香りに、、ほんのり焦げた匂いが混じっている。

琴葉は慌てて、フライパンの中を覗き込んだ。

「……あ」

表面が、思った以上に色づいている。
というより、ところどころ黒い。

(やっちゃった……)

隣で見ていた母は、何も言わずに火を止めてくれた。

「大丈夫よ。今日はこれでいきましょう」

そう言って、皿を差し出す。

卵焼きは、さらに分かりやすかった。
巻こうとするたびに崩れて、形にならず、結局“卵焼きだったもの”の集まりになっている。

それを皿に盛りながら、琴葉は小さく息を吐いた。

「……ごめんなさい」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

「いいのよ」

母は、あっさりと言って他の料理を並べる。

小松菜のおひたしと味噌汁、白いご飯。
食卓だけ見れば、ちゃんと夕食だった。

ただ、主菜と卵が、少しだけ主張している。

「いただきます」

父が、いつも通りの声で言った。

琴葉は箸を持ったまま、父の様子をちらりと窺う。

まず、照り焼き。
箸で一切れ取り、口に運ぶ。

一瞬だけ、父の動きが止まる。

(……やっぱり)

そう思った瞬間。

「うん」

父は、普通に頷いた。

「少し香ばしいが…」

それだけ言って、もう一口食べる。

「でも、ちゃんと火は通っているし、味もしっかりしている」

「……ほんと?」

思わず、琴葉が聞き返す。

「本当だ」

父は迷いなく言った。

「照り焼きだな。ちゃんと」

次に、卵焼き――だったもの。
箸で適当にすくって、口に運ぶ。

「……あ」

父が、少しだけ目を丸くする。
琴葉の心臓が、きゅっと縮んだ。

「これは……」

「ご、ごめん!ちゃんと巻けなくて……!」

被せるように言うと、父はすぐに首を振る。

「いや、違う」

一拍置いて、続ける。

「出汁が、ちゃんと効いてる」

母が横で、ふっと笑う。

「形はね、まだまだだけど」

「だが、味はいい」

父はそう言って、もぐもぐと食べ続ける。

「初日だろ」

当たり前みたいに。

「初日で、これなら十分だ」

琴葉は、思わず箸を持つ手を止めた。

責められない。
でも、無理に褒められもしない。

ただ、食べられている。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「……パパ、ありがとう」

小さく言うと、父は照れたように咳払いをした。

「また、明日楽しみにしている」

それだけ言って、ご飯を食べ続ける。
母は何も言わず、琴葉の前に味噌汁を置いた。

「……うん。明日も、やる」

母は、少しだけ笑って言う。

「ええ、その調子よ。今日はゆっくり休みなさい」

「うん、無理はしない」

琴葉は頷いて、ようやく箸を動かした。

焦がしてしまった照り焼き。
形にならなかった卵焼き。

それでも、不思議と、味はしっかり分かる。

まだ上手くはできない。
でも、確かに一歩目だった。
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