病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第99話・ちゃんと、届いた

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母が、いつもと変わらない声で言った。

「先生、どうぞ座ってください」

その一言で、空気がゆるやかに整う。

奏一は軽く会釈して、勧められた席に腰を下ろす。
背筋は自然に伸びているけれど、どこかいつもより静かな様子。

琴葉は、その隣に座る。

――途端に、心臓の音が近くなった。

(……落ち着いて)

自分に言い聞かせるように、小さく息を吸う。

テーブルの上には、白いご飯と味噌汁。
そして、それぞれの前に、同じ器が並んでいる。

鶏の照り焼き。
だし巻き卵。
小松菜のおひたし。

一人分ずつ、きちんと盛られた皿。

(ちゃんと……できているよね)

琴葉の視線は、無意識に自分の前の皿へ落ちる。

照り焼きは焦げていないか。
卵は、形が崩れすぎていないか。
小松菜は、水っぽくなっていないか。

何度も確認したはずなのに、落ち着かない。

その様子を、母は何も言わずに見ていた。
急かすことも、補足することもない。

父が、にこやかに言う。

「じゃあ……」

一拍、置いてから。

「いただきます」

母と奏一も、静かに続く。

「いただきます」

琴葉は、ほんの一瞬だけ言葉が遅れた。
胸の奥に、ぎゅっと力が入る。

――奏一のために作ったご飯。

完璧にはできなくて、不安も残っている。
でも、頑張って、ここまでやった。

(……大丈夫)

「……いただきます」

少し小さな声だったけれど、確かに。


奏一は、料理を一通り見渡してから、自然な動きで箸を取った。
迷う様子もなく、照り焼きへ伸ばす。

琴葉の心臓が、どくん、と鳴る。

一口。

奏一は噛んで、少しだけ視線を落とす。
すぐには何も言わない。

ほんの数秒のはずなのに、やけに長く感じた。
琴葉は息を詰めて、奏一の横顔を見つめてしまう。

「……」

言葉が出る前に、耐えきれず、口を開いた。

「……こ、焦げてない?」

自分でも、少し情けないと思う。
でも、聞かずにはいられなかった。

奏一は箸を置き、琴葉の方を見る。
やさしく目を細めて、静かに頷いた。

「焦げていませんよ」

そう言ってから、もう一度照り焼きに箸を伸ばす。

「ちゃんと、火も通ってます」

二口目を食べて、ようやく口元がわずかに緩んだ。

「……美味しいです」

その一言に、琴葉の肩から、ふっと力が抜ける。

「ほんと?」

「はい」

短く、でも迷いのない返事。

琴葉は胸に手を当てて、小さく息を吐いた。
その様子を見て、母がくすっと笑う。

奏一は、次にだし巻き卵に箸を伸ばした。

また、一口。
今度は、さっきよりも少し長く噛む。

琴葉の視線が、自然と奏一の箸先に集まる。

「……」

やっぱり、我慢できない。

「……ぐちゃって、してない?」

ほとんど囁くみたいな声だった。
奏一は、思わず微笑んでしまう。

「形は、少しだけですね」

「……そうだよね。やっぱり、上手くいかなくて……」

「でも、出汁がきれいに出てます」

その言葉に、今度こそ琴葉の目が見開かれる。

「ほんとに?」

「はい。優しい味です」

そう言って、もう一口。

「……これは、何個でも食べられそうですね」

向かいで、父が小さく頷いた。

「ああ。ちゃんとだし巻き卵だ」

その一言で、張り詰めていた空気が、すっと緩む。
琴葉は、ようやく息を吐いた。

「……よかった」

小さくこぼした声は、安堵そのもの。
琴葉は、ようやく自分の箸を取る。

さっきまでの張り詰めていた緊張が嘘みたいに、照り焼きを一口。
味を確かめるというより、ほっとするために。

「……うん、美味しい」

小さく呟いて、今度はだし巻き卵に箸を伸ばす。
形は少し不揃いでも、ちゃんと出汁の味がする。

胸の奥が、じんわりと温かくなった。


食事が一段落したころ、奏一がふと琴葉の方を見る。

「……今日の食事は」

少しだけ、言葉を選ぶ間があって。

「琴葉さんが、作ったんですか?」

琴葉は一瞬だけ目を瞬かせてから、素直に頷いた。

「うん。ママに、教えてもらって」

それだけのやりとりなのに、奏一はすぐには何も言わなかった。

視線を落とし、ほんのわずかに息を吐く。
何かを噛みしめるような、その沈黙。

「……そうですか」

やがて静かにそう言って、再び琴葉を見る。

「ありがとうございます」

その言葉は、料理に対してでも、教えてくれた母に対してでもなく。

――琴葉自身に向けられているのが、はっきり分かった。

琴葉の胸が、きゅっと締まる。

「……どういたしまして」

そう返す声は、少しだけ震えていたけれど。
それを、誰も指摘しなかった。

ただ、食卓には、穏やかな空気が流れていた。
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