病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第5話・誰かのためじゃなく、私のために

それは、梅雨入り前の、蒸し暑い日だった。
琴葉は、疲れ切った顔で帰宅した。
期末レポート、ゼミ発表、そして寝不足。
体力に自信のない彼女にとって、夏の始まりはじわじわと堪える。

リビングのドアを開けると、ひんやりとした冷房の風と母の声が迎えた。

「琴葉、おかえり。手、洗った?マスクは?今日はゼミだったわよね?無理しなかった?」

「うん。洗ってくる」

返事だけして、鞄を置き、洗面所へ。
いつも通りのやり取り。

手を洗って戻ると、テーブルには消化の良さそうな夕食が並んでいた。

「……いただきます」

淡々と箸を取る琴葉の前で、母は向かいに座りながら、じっと彼女の顔色を窺っていた。

「なんだか、疲れてるわね。……大学、無理しなくてもいいのよ? 体調第一なんだから」

「……うん。わかってる」

口ではそう言いながらも、胸の奥にじわじわと熱がたまっていく。

いつだってそうだ。
体調を理由に、何かを止められる。
自分で選ぼうとすると、「あなたのため」と言って遮られる。

それが正しいことだと、頭では理解している。
でも、心のどこかでずっと――悲鳴を上げていた。


そして――その日、母は何気なく言った。

「ねえ、そろそろ将来のことも考えないと。
結婚だって、遠野先生のところなら安心できるし……」

カチャン、と琴葉の箸が落ちた。

「――は?」

「だって、先生ならあなたの病気のこと全部わかっているし、何かあってもすぐに対応できるのよ。あなたも、慣れてきたでしょう? 少しは歩み寄らないと」

「歩み寄る? 誰に?」

「遠野先生に決まってるでしょう。あの方はね、あなたを“守って”――」

「違うよ」

声が、震えた。

「“守る”って言えば聞こえはいいけど、全部、勝手に決めてるだけじゃん。
私の人生なのに、なんでママとか、先生とかが勝手に決めるの?」

母が驚いたように目を見開く。
琴葉が、母親に対してこんなふうに声を荒らげたのは初めてだったから。

「落ち着いて。興奮すると体調が――」

「もう体調、体調って、うるさい!」

椅子を蹴るように立ち上がった瞬間、涙がこぼれそうになる。

「私だって、普通に大学行って、友達作って、カフェ行って、好きな人と恋して、ケンカして、泣いて……そういうの、全部やってみたかった!
でも何一つできない。やろうとすると“心臓が”“発作が”“命が危ない”って――もう、疲れた!いい加減にして!」

母が慌てて立ち上がり、琴葉の手を取ろうとする。

「ねえ、琴葉、お願い…深呼吸して。倒れるわよ」

「……だったら倒れればいいじゃん」

その一言で、母の顔がさっと青ざめた。
それでも琴葉は、もう止まれなかった。

「私……もう、限界なの」

声を震わせながら、琴葉は母の手を振り払う。
その目は、泣いているのにどこか冷めていた。

「この家にいたら、何も変わらない。だから――もう出ていく」

「なに言ってるの、夜よ!? 行くあてなんて――」

「行き先なんて、どうでもいい!」

そのまま玄関へ向かう。
足元に並んだスニーカーを履き、鞄を肩に掛けた。
スマホ、財布、薬、学生証――大学帰りの荷物だけ。
それでも構わなかった。

玄関の外に一歩出た瞬間、胸の中の空気が弾けたように軽くなる。

(どこに行こう……)

考えても浮かばない。
けれど、このまま家には戻れなかった。

駅までの道を歩くうちに、息が乱れていく。
身体が重く、視界が霞む。
それでも足を止めず、定期券を握りしめた。

(病院……)

考えるより先に、その言葉だけが浮かんでいた。
冷房の効いた待合室。
薬の匂い。
――少なくとも、あそこなら倒れても誰かが見つけてくれる。

電車に揺られながら、まぶたの裏が熱を帯びる。
車窓の灯りが流れて、意識が遠のきそうになった。

そして、気がつけば――
病院の夜間入口の前に立っていた。

自動ドアが開いた瞬間、冷たい空気が頬を撫でる。
一歩、二歩と中に入ったところで、足がもつれた。

「すみません……」

掠れた声が、かろうじて漏れる。
看護師たちが一斉にこちらを向き、ざわめきが広がった。

「ちょっと! この子顔真っ青よ、車椅子持ってきて!」
「脈、取れる? 呼吸浅い!」

周囲が騒がしくなる中、琴葉は視界の端で人影を見た。
白衣の裾が揺れる。

「――遠野先生!」

誰かの声が響いた瞬間、世界がゆっくりと揺れた。
ぼやけた視界の中で、彼の低い声が聞こえる。

「……琴葉さん」

その名を呼ぶ声に、張り詰めていた心がふっと緩む。
崩れ落ちる身体を、温かな腕が受け止めた。

ひんやりとした空気に包まれながら、その瞬間だけ、確かに安堵の匂いがした。
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