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第54話・やさしさが痛くなる日
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その休日は、久しぶりに天気がよかった。
梅雨の合間の貴重な晴れ間に、部屋でじっとしていられなくなって——
澪は、ふらりと電車に乗っていた。
(……会えるかどうかはわからないけど)
特別な用事があるわけではない。
けれど、ここ最近、徐々に距離を置いてしまっている自分の中で、
言葉にできないもやもやが、形にならないまま残っていた。
(ちゃんと顔を見て、話せたらいいな……)
そんな気持ちを胸に、崇雅のマンションの前まで来たそのときだった。
目の前に停まっている、黒塗りの高級車。
運転手がドアを開けると、重厚な雰囲気のスーツ姿の男性が現れる。
続いて、品のある装いの若い女性が車から降り立った。
(……誰だろう?)
ただならぬ気配を感じたその瞬間、マンションのエントランスから崇雅が出てきた。
「……父さん、どうして急に」
「事前に連絡は入れた。返事がなかったから、直接来ただけだ」
澪は慌てて建物の陰に身を隠す。
(お父さん……?)
男性の鋭い目線が崇雅を射抜く。
その隣に立つ女性は、どこか所在なさげに微笑を浮かべていた。
「紹介しておこう。こちらお前の婚約者で志帆さんだ。父方の旧知の家の娘でな。
品もあるし、育ちも申し分ない。将来的なことも視野に入れて……」
「その必要はないと、何度も申し上げているはずです」
「不必要の話ではない。家を背負う自覚が、足りないと何度言えばわかる。次男としてのお前にも“相応しい相手”というものがあるんだ。」
「家は兄さんが継ぐでしょう。私に求められる役割はもうないはずだ」
崇雅の声が、低く、明確に響いた。
「そうやって逃げて、何年経った? そろそろ現実を見ろ。
このまま35を超えても結婚のひとつもせず、自由にやっていくつもりか?」
「……」
崇雅は黙ったまま、やりとりを受け流しているように見えた。
(……崇雅さんに…相応しい相手…?)
(あの女性が、“婚約者”……?)
耳にした言葉の断片が、心の中で静かに突き刺さる。
胸が、きゅっと締めつけられた。
崇雅は、澪のことなど一言も口にしていなかった。
(言えないよね……私ことなんて)
そう思った瞬間、さらに胸がきゅっと痛んだ。
たった数メートルの距離にいるのに、
ふたりの間にはまるで別の世界があるように思えた。
澪は静かにその場を離れた。
呼吸が浅くなっていることに気づかないふりをして。
その日、崇雅は澪に連絡を取ろうとしたが、返事はなかった。
彼の中で、何かがおかしいという感覚がじわりと広がっていく。
けれど、澪が“すべてを見ていた”ことを、彼はまだ知らなかった。
——————
月曜の朝。
気圧のせいか、それとも心の重さか、
目覚めた瞬間から身体が鉛のように重たかった。
(……行きたくない)
ただ、会社を休む理由はない。
逃げることもできない。
——顔を合わせれば、何かを言われる。
それが怖かった。
「婚約者」
「ふさわしい相手」
「家柄が釣り合う人」
その言葉が脳裏に焼き付いて、崇雅の顔をまともに思い出せない。
(……でも、行かなくちゃ)
腹を決めて家を出たが、足取りは重かった。
始業直前のオフィスは、いつもと空気が違っていた。
会議室のドアが開け放たれ、電話のコール音が鳴り続けている。
フロア全体がピリついたような慌ただしさに包まれていた。
「……すみません、あの、この状況は……?」
近くにいた先輩に小声で尋ねると、
先輩は一瞬、眉を寄せたあと、小さく頷いた。
「ああ、聞いてない? あのトラブル、大きくなってて。
今朝早く、東條部長と担当者、あと数名で現地に向かったらしいよ。数日は戻れないかもって」
「……そうなんですか」
また、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
寂しさ。
声を聞きたかった気持ち。
それでも、どこかでホッとしてしまったことに、自分で戸惑った。
(……いないんだ)
崇雅の不在は、澪にとって痛みと安堵の両方をもたらしていた。
(いないなら……今は、考えなくて済む)
けれど、それが一時しのぎでしかないことも、澪はもうわかっていた。
崇雅が不在となった月曜から、日々は容赦なく過ぎていく。
彼が現場に入っているとはいえ、全体の仕事量が減るわけではない。
澪にも、容赦なく資料作成や問い合わせ対応のタスクが降ってくる。
(……考える暇もないくらい、仕事は待ってくれない)
その忙しさに紛れるように、必死に目の前の業務に集中した。
ミスはできないし、取りこぼしも許されない。
けれど、どれだけ忙しくても、ふとした瞬間に意識が逸れてしまう。
パソコン画面の右下。
ポップアップ通知のアイコンが、静かに何度も点滅していた。
——《東條崇雅》
・「着いた。こちらの問題は想定より深刻だ。澪の方は大丈夫か?」
・「昼、ちゃんと食べたか」
・「今日は雨がひどいから気をつけて帰れよ」
・「返事がないのはわかってる。でも無理しないでほしい」
・「……少しでいい。声が聞きたい」
全部、既読にはしていない。
けれど、通知が来るたびに手が止まり、呼吸が乱れる。
(優しい……いつもと変わらない)
なのに、胸の奥が痛い。
どうしても“あの光景”が頭を離れない。
(私じゃ、だめなのかな)
(言ってくれなかったのは、私が……ふさわしくないから?)
そんなはずない、と信じたいのに、
差し伸べられる手に、自分から触れてはいけないような気がした。
帰りの電車。
スマホの画面を伏せたまま、澪は静かに目を閉じた。
彼は、何も悪くない。
でも、彼の世界に自分がいていいのか、答えが出せないまま——
澪はただ、時間が過ぎていくのを待っていた。
梅雨の合間の貴重な晴れ間に、部屋でじっとしていられなくなって——
澪は、ふらりと電車に乗っていた。
(……会えるかどうかはわからないけど)
特別な用事があるわけではない。
けれど、ここ最近、徐々に距離を置いてしまっている自分の中で、
言葉にできないもやもやが、形にならないまま残っていた。
(ちゃんと顔を見て、話せたらいいな……)
そんな気持ちを胸に、崇雅のマンションの前まで来たそのときだった。
目の前に停まっている、黒塗りの高級車。
運転手がドアを開けると、重厚な雰囲気のスーツ姿の男性が現れる。
続いて、品のある装いの若い女性が車から降り立った。
(……誰だろう?)
ただならぬ気配を感じたその瞬間、マンションのエントランスから崇雅が出てきた。
「……父さん、どうして急に」
「事前に連絡は入れた。返事がなかったから、直接来ただけだ」
澪は慌てて建物の陰に身を隠す。
(お父さん……?)
男性の鋭い目線が崇雅を射抜く。
その隣に立つ女性は、どこか所在なさげに微笑を浮かべていた。
「紹介しておこう。こちらお前の婚約者で志帆さんだ。父方の旧知の家の娘でな。
品もあるし、育ちも申し分ない。将来的なことも視野に入れて……」
「その必要はないと、何度も申し上げているはずです」
「不必要の話ではない。家を背負う自覚が、足りないと何度言えばわかる。次男としてのお前にも“相応しい相手”というものがあるんだ。」
「家は兄さんが継ぐでしょう。私に求められる役割はもうないはずだ」
崇雅の声が、低く、明確に響いた。
「そうやって逃げて、何年経った? そろそろ現実を見ろ。
このまま35を超えても結婚のひとつもせず、自由にやっていくつもりか?」
「……」
崇雅は黙ったまま、やりとりを受け流しているように見えた。
(……崇雅さんに…相応しい相手…?)
(あの女性が、“婚約者”……?)
耳にした言葉の断片が、心の中で静かに突き刺さる。
胸が、きゅっと締めつけられた。
崇雅は、澪のことなど一言も口にしていなかった。
(言えないよね……私ことなんて)
そう思った瞬間、さらに胸がきゅっと痛んだ。
たった数メートルの距離にいるのに、
ふたりの間にはまるで別の世界があるように思えた。
澪は静かにその場を離れた。
呼吸が浅くなっていることに気づかないふりをして。
その日、崇雅は澪に連絡を取ろうとしたが、返事はなかった。
彼の中で、何かがおかしいという感覚がじわりと広がっていく。
けれど、澪が“すべてを見ていた”ことを、彼はまだ知らなかった。
——————
月曜の朝。
気圧のせいか、それとも心の重さか、
目覚めた瞬間から身体が鉛のように重たかった。
(……行きたくない)
ただ、会社を休む理由はない。
逃げることもできない。
——顔を合わせれば、何かを言われる。
それが怖かった。
「婚約者」
「ふさわしい相手」
「家柄が釣り合う人」
その言葉が脳裏に焼き付いて、崇雅の顔をまともに思い出せない。
(……でも、行かなくちゃ)
腹を決めて家を出たが、足取りは重かった。
始業直前のオフィスは、いつもと空気が違っていた。
会議室のドアが開け放たれ、電話のコール音が鳴り続けている。
フロア全体がピリついたような慌ただしさに包まれていた。
「……すみません、あの、この状況は……?」
近くにいた先輩に小声で尋ねると、
先輩は一瞬、眉を寄せたあと、小さく頷いた。
「ああ、聞いてない? あのトラブル、大きくなってて。
今朝早く、東條部長と担当者、あと数名で現地に向かったらしいよ。数日は戻れないかもって」
「……そうなんですか」
また、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
寂しさ。
声を聞きたかった気持ち。
それでも、どこかでホッとしてしまったことに、自分で戸惑った。
(……いないんだ)
崇雅の不在は、澪にとって痛みと安堵の両方をもたらしていた。
(いないなら……今は、考えなくて済む)
けれど、それが一時しのぎでしかないことも、澪はもうわかっていた。
崇雅が不在となった月曜から、日々は容赦なく過ぎていく。
彼が現場に入っているとはいえ、全体の仕事量が減るわけではない。
澪にも、容赦なく資料作成や問い合わせ対応のタスクが降ってくる。
(……考える暇もないくらい、仕事は待ってくれない)
その忙しさに紛れるように、必死に目の前の業務に集中した。
ミスはできないし、取りこぼしも許されない。
けれど、どれだけ忙しくても、ふとした瞬間に意識が逸れてしまう。
パソコン画面の右下。
ポップアップ通知のアイコンが、静かに何度も点滅していた。
——《東條崇雅》
・「着いた。こちらの問題は想定より深刻だ。澪の方は大丈夫か?」
・「昼、ちゃんと食べたか」
・「今日は雨がひどいから気をつけて帰れよ」
・「返事がないのはわかってる。でも無理しないでほしい」
・「……少しでいい。声が聞きたい」
全部、既読にはしていない。
けれど、通知が来るたびに手が止まり、呼吸が乱れる。
(優しい……いつもと変わらない)
なのに、胸の奥が痛い。
どうしても“あの光景”が頭を離れない。
(私じゃ、だめなのかな)
(言ってくれなかったのは、私が……ふさわしくないから?)
そんなはずない、と信じたいのに、
差し伸べられる手に、自分から触れてはいけないような気がした。
帰りの電車。
スマホの画面を伏せたまま、澪は静かに目を閉じた。
彼は、何も悪くない。
でも、彼の世界に自分がいていいのか、答えが出せないまま——
澪はただ、時間が過ぎていくのを待っていた。
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