【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

文字の大きさ
56 / 168

第54話・やさしさが痛くなる日

しおりを挟む
その休日は、久しぶりに天気がよかった。

梅雨の合間の貴重な晴れ間に、部屋でじっとしていられなくなって——
澪は、ふらりと電車に乗っていた。

(……会えるかどうかはわからないけど)

特別な用事があるわけではない。
けれど、ここ最近、徐々に距離を置いてしまっている自分の中で、
言葉にできないもやもやが、形にならないまま残っていた。

(ちゃんと顔を見て、話せたらいいな……)

そんな気持ちを胸に、崇雅のマンションの前まで来たそのときだった。

目の前に停まっている、黒塗りの高級車。
運転手がドアを開けると、重厚な雰囲気のスーツ姿の男性が現れる。
続いて、品のある装いの若い女性が車から降り立った。

(……誰だろう?)

ただならぬ気配を感じたその瞬間、マンションのエントランスから崇雅が出てきた。

「……父さん、どうして急に」

「事前に連絡は入れた。返事がなかったから、直接来ただけだ」

澪は慌てて建物の陰に身を隠す。

(お父さん……?)

男性の鋭い目線が崇雅を射抜く。
その隣に立つ女性は、どこか所在なさげに微笑を浮かべていた。

「紹介しておこう。こちらお前の婚約者で志帆さんだ。父方の旧知の家の娘でな。
品もあるし、育ちも申し分ない。将来的なことも視野に入れて……」

「その必要はないと、何度も申し上げているはずです」

「不必要の話ではない。家を背負う自覚が、足りないと何度言えばわかる。次男としてのお前にも“相応しい相手”というものがあるんだ。」

「家は兄さんが継ぐでしょう。私に求められる役割はもうないはずだ」

崇雅の声が、低く、明確に響いた。

「そうやって逃げて、何年経った? そろそろ現実を見ろ。
このまま35を超えても結婚のひとつもせず、自由にやっていくつもりか?」

「……」

崇雅は黙ったまま、やりとりを受け流しているように見えた。

(……崇雅さんに…相応しい相手…?)
(あの女性が、“婚約者”……?)

耳にした言葉の断片が、心の中で静かに突き刺さる。
胸が、きゅっと締めつけられた。

崇雅は、澪のことなど一言も口にしていなかった。

(言えないよね……私ことなんて)

そう思った瞬間、さらに胸がきゅっと痛んだ。

たった数メートルの距離にいるのに、
ふたりの間にはまるで別の世界があるように思えた。

澪は静かにその場を離れた。
呼吸が浅くなっていることに気づかないふりをして。


その日、崇雅は澪に連絡を取ろうとしたが、返事はなかった。

彼の中で、何かがおかしいという感覚がじわりと広がっていく。
けれど、澪が“すべてを見ていた”ことを、彼はまだ知らなかった。


——————

月曜の朝。
気圧のせいか、それとも心の重さか、
目覚めた瞬間から身体が鉛のように重たかった。

(……行きたくない)

ただ、会社を休む理由はない。
逃げることもできない。

——顔を合わせれば、何かを言われる。

それが怖かった。

「婚約者」
「ふさわしい相手」
「家柄が釣り合う人」

その言葉が脳裏に焼き付いて、崇雅の顔をまともに思い出せない。

(……でも、行かなくちゃ)

腹を決めて家を出たが、足取りは重かった。


始業直前のオフィスは、いつもと空気が違っていた。
会議室のドアが開け放たれ、電話のコール音が鳴り続けている。
フロア全体がピリついたような慌ただしさに包まれていた。

「……すみません、あの、この状況は……?」

近くにいた先輩に小声で尋ねると、
先輩は一瞬、眉を寄せたあと、小さく頷いた。

「ああ、聞いてない? あのトラブル、大きくなってて。
今朝早く、東條部長と担当者、あと数名で現地に向かったらしいよ。数日は戻れないかもって」

「……そうなんですか」

また、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

寂しさ。
声を聞きたかった気持ち。
それでも、どこかでホッとしてしまったことに、自分で戸惑った。

(……いないんだ)

崇雅の不在は、澪にとって痛みと安堵の両方をもたらしていた。

(いないなら……今は、考えなくて済む)

けれど、それが一時しのぎでしかないことも、澪はもうわかっていた。


崇雅が不在となった月曜から、日々は容赦なく過ぎていく。

彼が現場に入っているとはいえ、全体の仕事量が減るわけではない。
澪にも、容赦なく資料作成や問い合わせ対応のタスクが降ってくる。

(……考える暇もないくらい、仕事は待ってくれない)

その忙しさに紛れるように、必死に目の前の業務に集中した。
ミスはできないし、取りこぼしも許されない。

けれど、どれだけ忙しくても、ふとした瞬間に意識が逸れてしまう。

パソコン画面の右下。
ポップアップ通知のアイコンが、静かに何度も点滅していた。

——《東條崇雅》
・「着いた。こちらの問題は想定より深刻だ。澪の方は大丈夫か?」
・「昼、ちゃんと食べたか」
・「今日は雨がひどいから気をつけて帰れよ」
・「返事がないのはわかってる。でも無理しないでほしい」
・「……少しでいい。声が聞きたい」

全部、既読にはしていない。
けれど、通知が来るたびに手が止まり、呼吸が乱れる。

(優しい……いつもと変わらない)

なのに、胸の奥が痛い。
どうしても“あの光景”が頭を離れない。

(私じゃ、だめなのかな)
(言ってくれなかったのは、私が……ふさわしくないから?)

そんなはずない、と信じたいのに、
差し伸べられる手に、自分から触れてはいけないような気がした。


帰りの電車。
スマホの画面を伏せたまま、澪は静かに目を閉じた。

彼は、何も悪くない。
でも、彼の世界に自分がいていいのか、答えが出せないまま——
澪はただ、時間が過ぎていくのを待っていた。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)

久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。 しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。 「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」 ――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。 なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……? 溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。 王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ! *全28話完結 *辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。 *他誌にも掲載中です。

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―

七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。 彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』 実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。 ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。 口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。 「また来る」 そう言い残して去った彼。 しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。 「俺専属の嬢になって欲しい」 ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。 突然の取引提案に戸惑う優美。 しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。 恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。 立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。

定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました

藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。 そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。 ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。 その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。 仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。 会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。 これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。

Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜

yuzu
恋愛
 人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて…… 「オレを好きになるまで離してやんない。」

憧れの小説作家は取引先のマネージャーだった

七転び八起き
恋愛
ある夜、傷心の主人公・神谷美鈴がバーで出会った男は、どこか憧れの小説家"翠川雅人"に面影が似ている人だった。 その男と一夜の関係を結んだが、彼は取引先のマネージャーの橘で、憧れの小説家の翠川雅人だと知り、美鈴も本格的に小説家になろうとする。 恋と創作で揺れ動く二人が行き着いた先にあるものは──

恋に異例はつきもので ~会社一の鬼部長は初心でキュートな部下を溺愛したい~

泉南佳那
恋愛
「よっしゃー」が口癖の 元気いっぱい営業部員、辻本花梨27歳  ×  敏腕だけど冷徹と噂されている 俺様部長 木沢彰吾34歳  ある朝、花梨が出社すると  異動の辞令が張り出されていた。  異動先は木沢部長率いる 〝ブランディング戦略部〟    なんでこんな時期に……  あまりの〝異例〟の辞令に  戸惑いを隠せない花梨。  しかも、担当するように言われた会社はなんと、元カレが社長を務める玩具会社だった!  花梨の前途多難な日々が、今始まる…… *** 元気いっぱい、はりきりガール花梨と ツンデレ部長木沢の年の差超パワフル・ラブ・ストーリーです。

処理中です...