70 / 168
第68話・ふたりの距離は、今日またひとつ
澪は静かにモニターを閉じ、机の上の書類をまとめ始めた。
(今日は……このくらいで、切り上げよう)
ギプス生活にも多少は慣れてきたものの、右手が使えないぶん、やはり疲れやすい。
まして今日は、昼休みの“あれ”で精神的にもどっと疲れていた。
(……どうして、あんなことしたのか……まだ、よくわかんない)
顔が熱くなるのを感じながらバッグを手に取ったとき、不意に視線を感じた。
顔を上げると、少し離れた部長席から崇雅がこちらを見ていた。
視線が重なったのはほんの数秒。
彼は何かを決めたようにノートパソコンを閉じ、立ち上がった。
(え……まだ、終わってなかったんじゃ……?)
戸惑う澪の前に、すっと彼が現れる。
「帰るのか?」
「……はい。あの、部長は?」
「切り上げる」
それだけを言うと、崇雅は自然な動作で澪の隣に並び、歩き出す。
無言のままふたりでフロアを出ると、後ろから小さな声が聞こえた。
「やっぱり……そうなんだ」
「もう隠してないって感じよね」
「うん、むしろ堂々としすぎてて清々しいまである」
澪は背筋を伸ばしたまま、内心ではわたわたと狼狽えていた。
(何も……何も言ってないのに!)
でも、隣にいる崇雅の存在が、不思議と心を落ち着かせてくれる。
もう、この関係を否定する理由なんてない。
彼はいつも、正面からまっすぐに向き合ってくれる。
たとえそれが、人目につく場所でも。
「……今日は、どこかで夕飯、買って帰りますか?」
そっと問いかけると、彼は迷いなく頷いた。
「ああ。澪が食べたいものにしよう」
その一言に、胸がきゅうっとなる。
思わず口元が緩みながら、澪は崇雅と並んで会社をあとにした。
夜。
夕飯は近所の惣菜店で買った和食の詰め合わせ。
それをふたりで分け合い、ささやかな団らんの時間を過ごした。
食器を片付け終えたあと、澪はソファに座り、崇雅の淹れてくれた紅茶を両手で包む。
ギプスの腕をクッションに預けながら、そっと彼の横顔を盗み見る。
「……あの、今日の昼のことですけど」
「ん」
「“澪”って……みんなの前で呼びましたよね?」
崇雅は特に悪びれた様子もなく、「ああ」と頷いた。
「……どうして今さら…あんなふうに…?」
崇雅は少し黙ってから、マグカップに口をつける。
「業務中のけじめはつけているつもりだが、昼休みやプライベートの時間まで隠す理由はない」
「でも、わたしたち、今まで……」
「我慢していた。けど、もう限界だった」
「……えっ」
「澪、よく男ともランチに行くし」
「……それって、嫉妬ですか…?」
「当然だ。澪は俺の女だ」
あまりに真っ直ぐな物言いに、澪は思わずむせそうになった。
「っ……もう、そういう言い方しないでください……!」
顔を赤くしながら抗議しても、崇雅は無表情のままコーヒーを飲んでいる。
だけど——ほんの少しだけ、耳が赤く見えた。
(……ずるい)
強引で、甘くて、たまに子どもみたいで。
でも、そんなところも含めて——もう全部好きになってしまっていた。
しばらくして、崇雅が静かに立ち上がる。
棚から小さな鍵を取り出して、澪の前に差し出した。
「……これ」
差し出されたのは、銀色の合鍵だった。
「……これって……」
「澪の分。鍵がないと、俺が不在の時に出入りしづらいだろう」
「……ありがとうございます。でも、なんか……急ですね」
「急か?」
「だって、正式に“渡す”って、なんだか……同棲みたいで……」
崇雅は鍵を持ったまま澪を見つめる。
「してるだろう、実質」
「う……」
「俺は、これからもここにいてほしいと思ってる」
低く落ち着いた声と、真っ直ぐなまなざし。
澪はその視線に一瞬で心を掴まれ、そっと合鍵を受け取った。
「……大事にします」
小さく微笑む彼女に、崇雅は何も言わず、隣に座り直す。
静かなリビングに、テレビの音だけが淡々と流れていた。
「……なんか、不思議ですね」
「何が」
「こうして一緒にいるのが、もう当たり前みたいになってるのに、鍵をもらったらちょっと……実感が湧いたというか」
「遅い」
「っ……もう、そういうとこ!」
澪は照れ隠しのように彼の腕に額を押しつけた。
崇雅は無言で腕を回し、そっと肩を抱き寄せる。
「……嬉しかった?」
「……はい」
ぽつりと返した声は、小さく、でもとても素直だった。
その後は特に会話もなく、ふたりでテレビを眺めるだけの時間。
けれど、空気は穏やかで、温かかった。
やがて、澪が少し体勢を崩す。
「……あ、ごめんなさい、ちょっと眠くなってきました」
「まだ22時にもなってない」
「今日、早朝から準備があったじゃないですか。案件の関係で……」
「ああ、そうだったな」
崇雅はそのまま澪を抱き寄せ、頭を撫でる。
「寝ていい。後でベッドに運ぶ」
「……また、そうやって甘やかして」
「甘やかすに決まってる」
澪は小さく笑い、目を閉じた。
彼の胸元に身を預けながら、鼓動の音を聞いていると、自然と眠気が深まっていく。
(……崇雅さんと、いるのが当たり前になっていくのかな)
そんな未来が、怖くなくなった。
むしろ、ずっとこんなふうに寄り添っていけたらと、心から思える夜だった。
(今日は……このくらいで、切り上げよう)
ギプス生活にも多少は慣れてきたものの、右手が使えないぶん、やはり疲れやすい。
まして今日は、昼休みの“あれ”で精神的にもどっと疲れていた。
(……どうして、あんなことしたのか……まだ、よくわかんない)
顔が熱くなるのを感じながらバッグを手に取ったとき、不意に視線を感じた。
顔を上げると、少し離れた部長席から崇雅がこちらを見ていた。
視線が重なったのはほんの数秒。
彼は何かを決めたようにノートパソコンを閉じ、立ち上がった。
(え……まだ、終わってなかったんじゃ……?)
戸惑う澪の前に、すっと彼が現れる。
「帰るのか?」
「……はい。あの、部長は?」
「切り上げる」
それだけを言うと、崇雅は自然な動作で澪の隣に並び、歩き出す。
無言のままふたりでフロアを出ると、後ろから小さな声が聞こえた。
「やっぱり……そうなんだ」
「もう隠してないって感じよね」
「うん、むしろ堂々としすぎてて清々しいまである」
澪は背筋を伸ばしたまま、内心ではわたわたと狼狽えていた。
(何も……何も言ってないのに!)
でも、隣にいる崇雅の存在が、不思議と心を落ち着かせてくれる。
もう、この関係を否定する理由なんてない。
彼はいつも、正面からまっすぐに向き合ってくれる。
たとえそれが、人目につく場所でも。
「……今日は、どこかで夕飯、買って帰りますか?」
そっと問いかけると、彼は迷いなく頷いた。
「ああ。澪が食べたいものにしよう」
その一言に、胸がきゅうっとなる。
思わず口元が緩みながら、澪は崇雅と並んで会社をあとにした。
夜。
夕飯は近所の惣菜店で買った和食の詰め合わせ。
それをふたりで分け合い、ささやかな団らんの時間を過ごした。
食器を片付け終えたあと、澪はソファに座り、崇雅の淹れてくれた紅茶を両手で包む。
ギプスの腕をクッションに預けながら、そっと彼の横顔を盗み見る。
「……あの、今日の昼のことですけど」
「ん」
「“澪”って……みんなの前で呼びましたよね?」
崇雅は特に悪びれた様子もなく、「ああ」と頷いた。
「……どうして今さら…あんなふうに…?」
崇雅は少し黙ってから、マグカップに口をつける。
「業務中のけじめはつけているつもりだが、昼休みやプライベートの時間まで隠す理由はない」
「でも、わたしたち、今まで……」
「我慢していた。けど、もう限界だった」
「……えっ」
「澪、よく男ともランチに行くし」
「……それって、嫉妬ですか…?」
「当然だ。澪は俺の女だ」
あまりに真っ直ぐな物言いに、澪は思わずむせそうになった。
「っ……もう、そういう言い方しないでください……!」
顔を赤くしながら抗議しても、崇雅は無表情のままコーヒーを飲んでいる。
だけど——ほんの少しだけ、耳が赤く見えた。
(……ずるい)
強引で、甘くて、たまに子どもみたいで。
でも、そんなところも含めて——もう全部好きになってしまっていた。
しばらくして、崇雅が静かに立ち上がる。
棚から小さな鍵を取り出して、澪の前に差し出した。
「……これ」
差し出されたのは、銀色の合鍵だった。
「……これって……」
「澪の分。鍵がないと、俺が不在の時に出入りしづらいだろう」
「……ありがとうございます。でも、なんか……急ですね」
「急か?」
「だって、正式に“渡す”って、なんだか……同棲みたいで……」
崇雅は鍵を持ったまま澪を見つめる。
「してるだろう、実質」
「う……」
「俺は、これからもここにいてほしいと思ってる」
低く落ち着いた声と、真っ直ぐなまなざし。
澪はその視線に一瞬で心を掴まれ、そっと合鍵を受け取った。
「……大事にします」
小さく微笑む彼女に、崇雅は何も言わず、隣に座り直す。
静かなリビングに、テレビの音だけが淡々と流れていた。
「……なんか、不思議ですね」
「何が」
「こうして一緒にいるのが、もう当たり前みたいになってるのに、鍵をもらったらちょっと……実感が湧いたというか」
「遅い」
「っ……もう、そういうとこ!」
澪は照れ隠しのように彼の腕に額を押しつけた。
崇雅は無言で腕を回し、そっと肩を抱き寄せる。
「……嬉しかった?」
「……はい」
ぽつりと返した声は、小さく、でもとても素直だった。
その後は特に会話もなく、ふたりでテレビを眺めるだけの時間。
けれど、空気は穏やかで、温かかった。
やがて、澪が少し体勢を崩す。
「……あ、ごめんなさい、ちょっと眠くなってきました」
「まだ22時にもなってない」
「今日、早朝から準備があったじゃないですか。案件の関係で……」
「ああ、そうだったな」
崇雅はそのまま澪を抱き寄せ、頭を撫でる。
「寝ていい。後でベッドに運ぶ」
「……また、そうやって甘やかして」
「甘やかすに決まってる」
澪は小さく笑い、目を閉じた。
彼の胸元に身を預けながら、鼓動の音を聞いていると、自然と眠気が深まっていく。
(……崇雅さんと、いるのが当たり前になっていくのかな)
そんな未来が、怖くなくなった。
むしろ、ずっとこんなふうに寄り添っていけたらと、心から思える夜だった。
あなたにおすすめの小説
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました
藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。
そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。
ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。
その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。
仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。
会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。
これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
イケメンエリートは愛妻の下僕になりたがる(イケメンエリートシリーズ第四弾)
便葉
恋愛
国内有数の豪華複合オフィスビルの27階にある
IT関連会社“EARTHonCIRCLE”略して“EOC”
謎多き噂の飛び交う外資系一流企業
日本内外のイケメンエリートが
集まる男のみの会社
そのイケメンエリート軍団のキャップ的存在
唯一の既婚者、中山トオルの意外なお話
中山加恋(20歳)
二十歳でトオルの妻になる
何不自由ない新婚生活だが若さゆえ好奇心旺盛
中山トオル(32歳)
17歳の加恋に一目ぼれ
加恋の二十歳の誕生日に強引に結婚する
加恋を愛し過ぎるあまりたまに壊れる
会社では群を抜くほどの超エリートが、
愛してやまない加恋ちゃんに
振り回されたり落ち込まされたり…
そんなイケメンエリートの
ちょっと切なくて笑えるお話
男に間違えられる私は女嫌いの冷徹若社長に溺愛される
山口三
恋愛
「俺と結婚してほしい」
出会ってまだ何時間も経っていない相手から沙耶(さや)は告白された・・・のでは無く契約結婚の提案だった。旅先で危ない所を助けられた沙耶は契約結婚を申し出られたのだ。相手は五瀬馨(いつせかおる)彼は国内でも有数の巨大企業、五瀬グループの若き社長だった。沙耶は自分の夢を追いかける資金を得る為、養女として窮屈な暮らしを強いられている今の家から脱出する為にもこの提案を受ける事にする。
冷酷で女嫌いの社長とお人好しの沙耶。二人の契約結婚の行方は?
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?