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番外編・ふたりで迎える日まで③
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妊娠14週を過ぎた頃。
つわりのピークを越えたとはいえ、まだ体調には波があった。
それでも、朝の吐き気は随分と軽くなり、食事も少しずつ摂れるようになってきた。
澪は崇雅と相談し、在宅勤務から徐々に出勤へ切り替えることを決めた。
それに合わせて、会社にも正式に妊娠を報告することにしたのだ。
人事への報告は、崇雅が事前に行ってくれた。
直属の上司であり、夫である崇雅が、澪の体調や業務状況を丁寧に説明してくれたおかげで、会社側の受け入れ態勢もスムーズだった。
復帰当日の朝。
久しぶりに出勤する澪を、崇雅はいつもより少し早く会社に連れてきた。
出社後すぐに澪の体調を確認しつつ、部署のメンバーへ向けて報告を行う。
「みんな、朝の忙しい時間にすまない。少しだけ時間をくれないか」
崇雅の声に、メンバーたちが手を止めて顔を上げる。
チームとしての結束が強い部署だからか、空気はどこか温かい。
「今日から、結城は出社勤務を再開する。そして――」
言葉を切った崇雅が、隣に立つ澪へと視線を送る。
それを受けて、澪は軽く会釈してから口を開いた。
「このたび、新しい命を授かりました。まだ安定期に入ったばかりで、体調を見ながらとなりますが、これまで通り業務を続けていきたいと思っております。
ご迷惑をお掛けすることもあるかと思いますが、引き続き、よろしくお願いいたします」
一瞬の静寂のあと、あたたかな拍手が起きた。
「おめでとうございます」
「すごくお似合いの夫婦に、赤ちゃん……嬉しいなあ」
「無理しないでね。業務はカバーするから!」
次々と祝福の声が上がり、澪は少し目を潤ませながら頭を下げた。
――正直、不安もあった。
けれど、こうして迎え入れてくれる職場に、心から感謝した。
ふと隣を見れば、崇雅がいつもと変わらぬ落ち着いた表情で澪を見守っている。
ただ、誰にも気づかれないように、指先がそっと澪の指に触れた。
“お疲れさま。よく頑張ったな”
言葉にしなくても、その想いは確かに伝わってきた。
——————
妊娠報告から数日後。
社内も徐々に日常を取り戻していた頃、人事部から澪へ呼び出しが入った。
崇雅と共に会議室へ向かうと、産休までのスケジュールや有給休暇の扱いについての説明が始まった。
「有給が現時点で、32日分残っていますね」
人事担当がそう言って資料を確認しながら、澪を見る。
「産前休業に入る前に、全て消化することも可能です。もちろん、無理のない範囲で」
「でも、それを全部使ったら……あと3ヶ月も働けない、ということですよね?」
思わず口をついて出た言葉に、澪自身が驚いた。
そんなはずじゃなかったのに、と気づかされる。
(残り少ないとは思ってた。でも、そんなに短いなんて……)
業務の引き継ぎ、最後にちゃんと自分の手でやり遂げたいこと、プロジェクトメンバーや後輩たちへの思い。
それらが胸の中でせめぎ合う。
「……引き継ぎとか、今のプロジェクトとか、いろいろ途中で離れるのは、やっぱり少し……」
困ったように澪が視線を落としかけた時だった。
隣にいた崇雅が、何の迷いもなく言葉を継ぐ。
「有給は全部使わせます。業務は、こちらで調整しますので」
「え……」
顔を上げる澪に、崇雅は揺るぎのない声で続ける。
「体調と安全第一だ。業務も引き継ぎも、俺が責任を持って進める。問題ない。澪は安心して休みに入っていい」
強引なくらい、きっぱりとした言葉。
それが崇雅らしい、と澪は小さく息をついた。
人事担当もその言葉に頷き、話し合いはスムーズにまとまった。
会議室を出たあと、エレベーター前で澪がつぶやく。
「……ほんと、私の気持ちも聞かずに勝手に決めてしまって……」
「聞いていた。そして、焦っていた。だから止めた。無理していいことなんてひとつもない」
あまりにもさらりと返されて、反論もできなくなる。
「……崇雅さんらしいです」
頬をふくらませて言うと、崇雅は少し笑って、エレベーターのボタンを押した。
「当たり前だ」
自然に自分の体調と未来を守ろうとしてくれる夫の隣で、澪は苦笑しつつも、ほんの少しだけ体を預けた。
“任せてもいい”と思える人がそばにいるという安心感。
その重みに、心が少しずつほぐれていった。
つわりのピークを越えたとはいえ、まだ体調には波があった。
それでも、朝の吐き気は随分と軽くなり、食事も少しずつ摂れるようになってきた。
澪は崇雅と相談し、在宅勤務から徐々に出勤へ切り替えることを決めた。
それに合わせて、会社にも正式に妊娠を報告することにしたのだ。
人事への報告は、崇雅が事前に行ってくれた。
直属の上司であり、夫である崇雅が、澪の体調や業務状況を丁寧に説明してくれたおかげで、会社側の受け入れ態勢もスムーズだった。
復帰当日の朝。
久しぶりに出勤する澪を、崇雅はいつもより少し早く会社に連れてきた。
出社後すぐに澪の体調を確認しつつ、部署のメンバーへ向けて報告を行う。
「みんな、朝の忙しい時間にすまない。少しだけ時間をくれないか」
崇雅の声に、メンバーたちが手を止めて顔を上げる。
チームとしての結束が強い部署だからか、空気はどこか温かい。
「今日から、結城は出社勤務を再開する。そして――」
言葉を切った崇雅が、隣に立つ澪へと視線を送る。
それを受けて、澪は軽く会釈してから口を開いた。
「このたび、新しい命を授かりました。まだ安定期に入ったばかりで、体調を見ながらとなりますが、これまで通り業務を続けていきたいと思っております。
ご迷惑をお掛けすることもあるかと思いますが、引き続き、よろしくお願いいたします」
一瞬の静寂のあと、あたたかな拍手が起きた。
「おめでとうございます」
「すごくお似合いの夫婦に、赤ちゃん……嬉しいなあ」
「無理しないでね。業務はカバーするから!」
次々と祝福の声が上がり、澪は少し目を潤ませながら頭を下げた。
――正直、不安もあった。
けれど、こうして迎え入れてくれる職場に、心から感謝した。
ふと隣を見れば、崇雅がいつもと変わらぬ落ち着いた表情で澪を見守っている。
ただ、誰にも気づかれないように、指先がそっと澪の指に触れた。
“お疲れさま。よく頑張ったな”
言葉にしなくても、その想いは確かに伝わってきた。
——————
妊娠報告から数日後。
社内も徐々に日常を取り戻していた頃、人事部から澪へ呼び出しが入った。
崇雅と共に会議室へ向かうと、産休までのスケジュールや有給休暇の扱いについての説明が始まった。
「有給が現時点で、32日分残っていますね」
人事担当がそう言って資料を確認しながら、澪を見る。
「産前休業に入る前に、全て消化することも可能です。もちろん、無理のない範囲で」
「でも、それを全部使ったら……あと3ヶ月も働けない、ということですよね?」
思わず口をついて出た言葉に、澪自身が驚いた。
そんなはずじゃなかったのに、と気づかされる。
(残り少ないとは思ってた。でも、そんなに短いなんて……)
業務の引き継ぎ、最後にちゃんと自分の手でやり遂げたいこと、プロジェクトメンバーや後輩たちへの思い。
それらが胸の中でせめぎ合う。
「……引き継ぎとか、今のプロジェクトとか、いろいろ途中で離れるのは、やっぱり少し……」
困ったように澪が視線を落としかけた時だった。
隣にいた崇雅が、何の迷いもなく言葉を継ぐ。
「有給は全部使わせます。業務は、こちらで調整しますので」
「え……」
顔を上げる澪に、崇雅は揺るぎのない声で続ける。
「体調と安全第一だ。業務も引き継ぎも、俺が責任を持って進める。問題ない。澪は安心して休みに入っていい」
強引なくらい、きっぱりとした言葉。
それが崇雅らしい、と澪は小さく息をついた。
人事担当もその言葉に頷き、話し合いはスムーズにまとまった。
会議室を出たあと、エレベーター前で澪がつぶやく。
「……ほんと、私の気持ちも聞かずに勝手に決めてしまって……」
「聞いていた。そして、焦っていた。だから止めた。無理していいことなんてひとつもない」
あまりにもさらりと返されて、反論もできなくなる。
「……崇雅さんらしいです」
頬をふくらませて言うと、崇雅は少し笑って、エレベーターのボタンを押した。
「当たり前だ」
自然に自分の体調と未来を守ろうとしてくれる夫の隣で、澪は苦笑しつつも、ほんの少しだけ体を預けた。
“任せてもいい”と思える人がそばにいるという安心感。
その重みに、心が少しずつほぐれていった。
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