顔がイイだけのチャラ男なんて、大嫌いです! 〜カタブツ営業職女子が、美貌の新入社員に堕ちるまで〜

冬島六花

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第1章 心を惑わす新入社員

1.1.メンターの憂鬱(2,828字)

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 午後四時前のオフィスには、コーヒーのほろ苦い香りと、パソコンの打鍵が響く。  
 汐崎沙月しおざきさつきはデスクに座り、赤ペンを握る手を止めてふと窓の外を見やる。十七階からの景色には、ビルの隙間に沈みかけた夕陽がガラスに映え、オレンジと紫のグラデーションを描いていた。  
 スーツの袖口からのぞく白いシャツに、細い指先。控えめなベージュのネイル。清潔感と理知的な印象の彼女は、社内でも〝近寄りがたい〟と評されることが多い。

「沙月さん、これ、ちょっと見てもらえます?」

 軽やかな声が背後から響いた。振り返ると、新入社員の千堂絢斗せんどうけんとが立っていた。  
 少し長めのウェーブがかった栗色の髪が、柔らかく額にかかっている。シャツのボタンは二つ外れ、タイを外した首元からのぞく鎖骨に、若さと色気が滲んでいた。  
 片手に持ったタブレットには、営業資料らしき画面。沙月は一瞬、彼の甘く爽やかな香り――おそらくシトラス系の香水――に気を取られそうになったが、すぐに表情を引きしめた。

「……見せる前に、自分でチェックした?」

 冷静な口調。まるで氷が溶けかけたグラスの縁のような鋭さ。絢斗は、にかっと笑って肩をすくめた。

「うん、したっす。でも……やっぱ沙月さんに見てもらった方が安心なんで。完璧主義者って噂、ほんとでしたね?」

 その軽口に、沙月の眉がピクリと動く。  
 タブレットを受け取ると、画面をスクロールしながら資料に目を通す。フォントの統一感がない。グラフの配色が浮ついている。そして――。

「ここ、数字間違ってる。関数のミスじゃない? クライアントに出してたら、大問題よ」

 端的な指摘に、絢斗の目が見開かれる。

「うわ、マジっすか」

 そう言うなり、彼はすっと沙月の隣にしゃがみ込んだ。

(え? その体勢?)

 ――距離が、近い。  
 椅子の脚に彼の膝が軽く触れ、シャツ越しに感じる体温が、沙月の集中をわずかにかき乱す。  
 静かな空調音、遠くの笑い声。そんなオフィスのざわめきの中、二人の間にふっと緊張が漂った。

「次からは、ちゃんと仕上げてきて。私は、遊びでメンターやってるわけじゃないの」

 顔を背けて資料を突き返すと、絢斗は立ち上がりながら、軽くウインクを投げた。

「了解っす。……でも沙月さんのチェック、厳しい中に優しさもあって……クセになりそうです」

 その言葉の後、彼の指が、タブレットを渡すついでのように彼女の手の甲に一瞬だけ触れた。

(な、なに? 熱い……) 
   
 偶然か、それとも――。  
 沙月の指先が反射的に震え、胸の奥がひときわ強く跳ねた。

「じゃ! 資料、ちゃんと修正してきますね」

 次の瞬間、ちょうど四時になり、昼間よりもまぶしい光の蛍光灯が一斉に点灯する。
 カチッという音とともに、絢斗の背中がガラスに映し出される。  
 沙月は唇を軽く噛み、冷めきったコーヒーカップにそっと手を伸ばした。舌先に触れた液体の苦さが、妙に心に残る。

「……新入社員のくせに、生意気なんだから」

 呟いた声は、自分でも驚くほど小さい。  
 沙月は、手にしたままのコーヒーカップを見つめながら、絢斗の後ろ姿に目を奪われていた。  
 蛍光灯の白い光が彼の茶色い髪に反射し、まるで舞台のスポットライトを浴びている俳優のように見える。軽い足取りで同僚のデスクに立ち寄り、笑い声を残して去っていく。  
 その背中に、思わず小さな溜め息が零れた。  
 カップの縁に残ったリップの跡が、薄いピンクに光っている。胸の奥が、じりじりと焦げるような感覚に包まれた。
  
(……嫌いだ。ああいうタイプ、本当に嫌い)

 沙月が勤める〝カルテット・リンクス〟は、企業や店舗などの法人向けにレジシステムや事務機器のリースを行っている。創業二十年目の、業界では比較的若い企業だが、IT技術部と営業部の社員による手厚いサポート、そして業務コンサルティングサービスの組み合わせで、ここ数年は特に成長している。  
 営業部のエースとして六年目。数字とロジックを積み重ねて築いた信頼は、彼女にとって何よりの誇りだった。クライアントとの交渉では、落ち着いた声と鋭い目つきが最大の武器。  
 完璧に調った資料と、秒単位で管理されたスケジュール。それが沙月にとっての〝信頼〟だった。  
 そんな彼女にとって、絢斗の存在は――まるで異物だった。

 社内には〝メンター〟と〝メンティ〟という、擬似的な師弟制度がある。
 メンターを務める中堅社員が、メンティの新入社員の専属の指導役として、つきっきりで仕事をサポートし、導くのだ。
 沙月がメンターになった日、そして絢斗がメンティとして配属された日を、沙月は今でもはっきりと覚えている。三週間前、新人研修の最終日。  
 部長がタバコの匂いを染み込ませたファイルを、無造作に沙月に手渡してきた。

 ――今年の我が部の新人は、千堂絢斗。汐崎、悪いがお前が面倒を見てやってくれ。
  
 無言でファイルを受け取り、開いた瞬間、冷えた指先がさらに冷たくなるのを感じた。  
 経営学部、広告論ゼミ。テニスサークルの副幹事長。社交的で明るい性格。――まるで就活マニュアルに出てきそうな経歴。  
 きっと中身は軽薄。営業職として数々の人間を見てきた沙月の予感は、的中するだろう。

(……嫌な気しかしない)

 ファイルの記載を目で追いながら、指先はカタカタと震えていた。

 初対面の日、彼は会議室に遅れてやって来た。
  
 ――すみませーん、道間違えちゃって!
  
 無邪気な声とともに現れた絢斗は、少し乱れたシャツの襟元から汗ばんだ首筋をのぞかせていた。香水と汗が混ざった匂いに、沙月は思わず眉をひそめる。

「千堂絢斗っす。えーっと、俺の長所は……コミュ力おばけなところっすかね。広告論で培ったアイデアを営業に活かしたいっす!」

 そう自己紹介してあっけらかんと微笑み、隣の新人がくすくすと笑う中、沙月は無表情のままメモを取りながら、内心で呟いていた。
  
(チャラい。軽薄。私の時間と労力を無駄にする気しかしない)

 それからの三週間、絢斗は期待を裏切らなかった。むしろ、予想を超えてくる。
 まず、彼は沙月のことを、下の名前で呼んだ。そういうノリからして、沙月は苦手だ。
 そして肝心の仕事面。提出物の締め切りは守らない。資料は雑。クライアント名を間違えるという初歩的ミスさえした。
 休憩室では、スナック菓子を頬張りながら同僚と笑い合う声が、壁越しに響いてくる。
 そのたびに沙月の眉間には、決まって小さなしわが刻まれた。  
 あの〝誰とでもすぐ仲良くなるノリ〟が、彼女の生真面目な世界を土足で踏み荒らしていくようで、たまらなかった。

 今、絢斗の後ろ姿が視界から消え、静寂が戻る。
 沙月はコーヒーカップをデスクに置くと、気持ちを落ち着けるため、深く息を吸う。
  
「どうして私が、あんな子のメンターに……」
  
 ふっと漏れた独り言に、自分でも驚いた。
 そしてなぜか、あのウインクが脳裏にちらつく。
 思わず目を閉じ直し、首を振ってその記憶を振り払った。
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