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第1章 心を惑わす新入社員
1.2.プロフィールに揺れる視線(1,698字)
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沙月はデスクの端に置かれたファイルに指を伸ばした。ざらりと乾いた紙の感触と、インクのかすかな匂いが指先と鼻をくすぐる。蛍光灯の光がファイルの表紙で白く弾け、一瞬、視界が霞んだ。「千堂絢斗」――太字のゴシック体で印字されたその名前が、黒々と彼女を睨んでいる。沙月は唇を引き結び、ページをめくった。紙の端をなぞった爪が、小さく擦れる音を立てた。
TOEIC900点。ゼミでは産学協同事業で町興しに尽力。テニスサークルでは副幹事長として仲間をまとめる。 長期休暇中はバックパッカーとして世界中を旅し、見聞を広めた。
目で追うたびに、眉間の皺が深まっていく。どれも立派な経歴。だが、どこか噛み合っていない。パズルのピースを無理やり押し込んだような、バラバラの履歴。就活のために彩られたプロフィールにしか見えなかった。
(テニスサークルの副幹事長? じゃあ、夏休みは練習漬けじゃないの? 世界中を旅する余裕なんて、どこにあるのよ)
ファイルを握る指に、知らず力がこもる。紙が小さく軋んだ。鼻の奥に、なぜか焦げたラバーの匂い――テニスコートでラケットを振るう彼の姿がよぎり、すぐに打ち消す。
そして、履歴書の写真。
茶色く軽くウェーブのかかった髪。整った眉、切れ長の瞳。唇の端には、わずかに癖のある笑み。
沙月の視線が写真に吸い寄せられ、次の瞬間、胸の奥で何かがチリッと音を立てた。
(なんだろう……見ているだけで、ムカムカする。なんで、こんなに顔が整ってるの? こんな見た目の子、うちの会社に必要だった? ……こんな子、必要ないわよ)
ファイルを乱暴に閉じる。紙が擦れ、静かなオフィスに乾いた音が響いた。
沙月は、絢斗が大嫌いだ。
あの軽薄な笑顔。甘ったるいシトラス系の香水。ミスを指摘しても悪びれもせず笑ってごまかす態度。
全部が、整然とした自分の世界に土足で踏み込んでくる。
椅子の背にもたれ、目を閉じる。少しでも心を落ち着けたかった。
(あの子と、どうやったら上手く、つきあっていけるの?)
でもそのとき、背後から聞こえてきた。
「沙月さん、今日、お先に失礼していいっすか?」
「どうぞ。……あのね、絢斗くん、仕事が終わったら、先輩に伺いを立てずに退社して大丈夫よ」
絢斗の元気な声。無邪気な質問の背後に見え隠れする、細やかな気遣い。
沙月の胸が、また、ちりり、と熱くなる。
(嫌いなはずなのに。なのに、どうして――こんなに気になるの)
心の中に巣くった感情を、沙月はうまく整理できないままだった。
「なるほど、了解っす! じゃあ沙月さん、そして皆さん、おつかれさまでした!」
声が、跳ねるように届いた。
思わず目を開ける。
絢斗だった。デスクの間を軽やかに歩き、同僚に手を振って笑いながら去っていく。白いシャツの袖が揺れ、茶色い髪が蛍光灯の下できらめく。
視線が思わずその背中に絡まり、沙月は慌ててペンを手に取った。
なのに、胸のざわつきは収まらない。
(……大嫌いなのに)
また、記憶は過去に引き戻される。
――おはようございます!
明るく挨拶されるたび、耳に残る声。
エレベーターで偶然一緒になった朝、重たいバッグを自然に持ってくれた、あの感触。
遅くまでクライアント対応が続いた夜、机に置かれた小さなスナック菓子の袋。何も言わずに置いていったくせに、さりげない優しさが、やけに記憶にこびりつく。
ペンを握る手に力を込める。ノートの端に、意味のない線がいくつも刻まれていく。インクの苦味が鼻に届き、呼吸が浅くなった。
窓の外では、夕陽が高層ビルの隙間に沈みかけていた。オレンジと紫の光が窓ガラスに滲み、オフィスを染めていく。
沙月は、唇を軽く噛んだ。視線の先には、冷めきったマグカップ。
縁に残るピンクのリップが、蛍光灯に照らされてかすかに光る。
(嫌い。本当に、心の底から、嫌い……)
そう思うたびに、なぜか、絢斗の去った廊下の先に目が奪われる。
その理由を、まだ沙月自身、把握していなかった。
TOEIC900点。ゼミでは産学協同事業で町興しに尽力。テニスサークルでは副幹事長として仲間をまとめる。 長期休暇中はバックパッカーとして世界中を旅し、見聞を広めた。
目で追うたびに、眉間の皺が深まっていく。どれも立派な経歴。だが、どこか噛み合っていない。パズルのピースを無理やり押し込んだような、バラバラの履歴。就活のために彩られたプロフィールにしか見えなかった。
(テニスサークルの副幹事長? じゃあ、夏休みは練習漬けじゃないの? 世界中を旅する余裕なんて、どこにあるのよ)
ファイルを握る指に、知らず力がこもる。紙が小さく軋んだ。鼻の奥に、なぜか焦げたラバーの匂い――テニスコートでラケットを振るう彼の姿がよぎり、すぐに打ち消す。
そして、履歴書の写真。
茶色く軽くウェーブのかかった髪。整った眉、切れ長の瞳。唇の端には、わずかに癖のある笑み。
沙月の視線が写真に吸い寄せられ、次の瞬間、胸の奥で何かがチリッと音を立てた。
(なんだろう……見ているだけで、ムカムカする。なんで、こんなに顔が整ってるの? こんな見た目の子、うちの会社に必要だった? ……こんな子、必要ないわよ)
ファイルを乱暴に閉じる。紙が擦れ、静かなオフィスに乾いた音が響いた。
沙月は、絢斗が大嫌いだ。
あの軽薄な笑顔。甘ったるいシトラス系の香水。ミスを指摘しても悪びれもせず笑ってごまかす態度。
全部が、整然とした自分の世界に土足で踏み込んでくる。
椅子の背にもたれ、目を閉じる。少しでも心を落ち着けたかった。
(あの子と、どうやったら上手く、つきあっていけるの?)
でもそのとき、背後から聞こえてきた。
「沙月さん、今日、お先に失礼していいっすか?」
「どうぞ。……あのね、絢斗くん、仕事が終わったら、先輩に伺いを立てずに退社して大丈夫よ」
絢斗の元気な声。無邪気な質問の背後に見え隠れする、細やかな気遣い。
沙月の胸が、また、ちりり、と熱くなる。
(嫌いなはずなのに。なのに、どうして――こんなに気になるの)
心の中に巣くった感情を、沙月はうまく整理できないままだった。
「なるほど、了解っす! じゃあ沙月さん、そして皆さん、おつかれさまでした!」
声が、跳ねるように届いた。
思わず目を開ける。
絢斗だった。デスクの間を軽やかに歩き、同僚に手を振って笑いながら去っていく。白いシャツの袖が揺れ、茶色い髪が蛍光灯の下できらめく。
視線が思わずその背中に絡まり、沙月は慌ててペンを手に取った。
なのに、胸のざわつきは収まらない。
(……大嫌いなのに)
また、記憶は過去に引き戻される。
――おはようございます!
明るく挨拶されるたび、耳に残る声。
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遅くまでクライアント対応が続いた夜、机に置かれた小さなスナック菓子の袋。何も言わずに置いていったくせに、さりげない優しさが、やけに記憶にこびりつく。
ペンを握る手に力を込める。ノートの端に、意味のない線がいくつも刻まれていく。インクの苦味が鼻に届き、呼吸が浅くなった。
窓の外では、夕陽が高層ビルの隙間に沈みかけていた。オレンジと紫の光が窓ガラスに滲み、オフィスを染めていく。
沙月は、唇を軽く噛んだ。視線の先には、冷めきったマグカップ。
縁に残るピンクのリップが、蛍光灯に照らされてかすかに光る。
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