隣の他人

文月 青

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本編

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曇り空が広がっている。どんよりと重いその様子は、梅雨が近いことを示していた。まもなく六月も半ば。じめじめした湿気を含んだ時期に入る。

「そうか。ようやく身も心も結ばれたか」

勤務先の駐車場付近で一緒になった星と、従業員の通用口に向かって歩きながら、私は瀬戸との顛末を話していた。
遅番出勤の私に対し、星は朝から会議を一つ終えての職場入り。雨が降りださなくてよかったと胸を撫で下ろしている。

「いや、心はともかく、身はまだ」

私はこめかみを押さえつつ口ごもった。星がすかさず横目で睨む。

「また訳の分からんことを」

物事には本当にタイミングがあるのだと思う。瀬戸と意思の疎通ができた日、茜の来襲というおまけはあったものの、それらしい雰囲気は取り戻せた。ただ仕切り直しで瀬戸がシャワーを浴びている間に、私は疲れて眠りこけてしまったのである。つまり瀬戸一人が悶々とした添い寝止まり。

その後も私の生理や瀬戸の出張が続き、終いには藤沢に焚きつけられた瀬戸のお母さんが、私達がすぐにも結婚すると勘違いしてしばらく泊まり込み(孫ができたと早合点したらしい)、そういう機会は逸したままだった。瀬戸のお母さんに事情を繰り返し説明して、ようやく自宅に戻ってもらったのが今日の朝。

「早く孫の顔を見せてね」

分かっているのかいないのか、最後まで催促するのを忘れないお母さん。いもしない孫フィーバーにげんなりした瀬戸が、果たして子作りに直結した行為をどう捉えているかは謎だが。気遣って体に良い物を作ってくれたのは、美味しくて嬉しかったんだけどね。一気に甘い気分は吹き飛んだ。

「お月さん、身が繋がるまでまた十年かかるんじゃねーの?」

「恐ろしいこと言うな」

茶化しただけの星の台詞があながち冗談に聞こえなくて、私は勢いよく彼の背中を叩いた。



その夜遅く帰宅すると、瀬戸の部屋の灯りは消えていた。星とお盆の販売計画の見直しをした後に、退職するパートさんの送別会に顔を出していたので、気づいたらいつもより大分時間が過ぎていた。朝からばたばたしていたし、きっと今日は瀬戸も本当に急ぎの仕事がないのだろう。

忍び足で廊下を進みキッチンの冷蔵庫を開ける。瀬戸のお母さんが作り置きしてくれた鉄分豊富のおかずがいっぱい入っていた。妊娠中は貧血になりやすいからと野菜やら豆やらどっさり買い込んで、瀬戸に文句を言われても張り切って調理していた姿が目に浮かぶ。

高校時代に瀬戸の実家に遊びに行っていた頃も、いつもあたふた慌てているイメージがあったけれど、今回はこちらもかなり驚かされた。

「最初はどっちでもいいからね」

子供ができていないと知ってがっかりしているお母さんに、さすがにまだしていませんとは言えない。

私は冷蔵庫のドアを閉めて自室に向かった。部屋が二つしかないので昨夜まではお母さんは私と一緒に寝起きしていた。お母さんは夫婦が別室なんてと訝っていたけれど、そもそも籍なんて入れてないからと強調したら、何故か今度は瀬戸が不機嫌になるという次第で、部屋割り一つで揉めに揉めたのが何だかおかしかった。

「ただいま」

うたた寝しながら待っていたお母さんを思い出し、私は誰もいない自分の部屋のドアを開けた。

「遅い」

電気のスイッチを点けた途端低い声が返り、びっくりして後ろに飛び退る。何者かと構える前にベッドに背を預けて座っている瀬戸が目に入った。

「何してるの」

瀬戸が私の部屋にいたのは初めてなので、それだけでもかなり脈が大暴れしているというのに、

「母さんに先越されて癪だから」

当の本人は母親が先に私の部屋に入ったことが面白くなくて子供みたいに拗ねている。私は苦笑しながらドアを閉め、ほんの少し迷ってから瀬戸の隣に座った。

「斗田はさ、やっぱり部屋は別々の方がいいか?」

当然のように肩を抱き寄せて瀬戸が訊ねる。飲んできたなとくんくん匂いを嗅ぐのはやめてほしい。

「生活時間帯も休みも重ならないからね。別の方がストレスは少ないんじゃない」

今となっては疑わないけれど引っ越してくるときは、数多の女性が入った瀬戸の部屋には近寄りたくないという気持ちが強かったから、友人云々がなくても同部屋は断固拒否していたと思う。短期間とはいえ実際暮らしてみても、起床時刻一つ合わないことを考えると、無理に足並みを揃えようとすればお互いに気疲れが生じるような気がする。

「変なところで冷静だな」

つまらなそうに瀬戸がため息をついた。どさくさに紛れてあちこち触る手を叩き落とす。

「俺は一緒がいいんだけど。こんなの家庭内別居みたいだし」

「結婚もしていないのに、子供やら別居やら。似た者親子だ」

「うるさい」

口を尖らせつつ瀬戸が立ち上がって灯りを暗くした。

「それは追々検討するとして」

嫌な予感に体を硬直させた私を引っ張り上げてそのままベッドに傾れこむ。

「まずは重要案件を」

冗談じゃない。こっちは汗だくでしかもお酒や煙草塗れ。この状態であんなことやこんなことは勘弁願いたい。焦って逃げ出そうとする私に、瀬戸はいきなりデコピンを食らわせた。

「こうお預けばっかり食らっていると、トラウマになりそうなんだよ」

暗がりでも分かる眉を八の字に下げた情けない表情に、私は額の痛みも忘れて吹き出した。

「笑うな」

怒った口調で咎めながらも瀬戸は優しく私の髪を撫でる。やがて躊躇いながら確かめるように呟いた。

「駄目か?」

先日の強引さは形を潜め、ただ私の答えだけを待っている。

「しょうがないなぁ」

あまりにも切実な様子に腹を括って頷くと、瀬戸はゆっくり静かに私に覆い被さってくる。言葉もなくみつめあった後に目を閉じれば柔らかなものが唇に触れた。十年想い続けた誰よりも大切な人。

「月子」

耳元で優しく囁かれる自分の名前を聞きながら、私はこの夜初めて幾度も夢見た瀬戸の熱と体の重みを感じていた。
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