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本編
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目覚まし時計の針は六時を指していた。ベッドからのろのろと起き上がってカーテンを開けると、明るい光が部屋中を包む。私は数秒ぼおっと立ち尽くしてからドアを開けた。隣室からは物音一つしない。昨夜も遅くまで仕事をしていたようだから、瀬戸はまだ眠っているのだろう。私はできるだけ足音を忍ばせてキッチンに向かった。やかんを火にかけてからこれまた何の変哲もないダイニングテーブルに突っ伏す。
眠い。子供の頃から朝には弱かったが、ここ数日いろんな意味で寝不足なので結構辛い。私はずきずき痛む頭を軽くもたげ周囲に視線を巡らした。この2DKのアパートは二カ月程前から瀬戸が一人で住んでいたもので、玄関を入って右側にトイレや浴室とダイニングキッチンが連なり、それらに向かい合うようにして六畳の洋室が二つある。瀬戸は元々玄関に近い方の洋室しか使っていなかったので、空いている部屋を当然のように私に宛がった。
葛藤はあれど無謀とも言える提案を受け入れ、それまで住んでいたアパートを引き払って引っ越してきたのが一週間前。荷解きと仕事でお互いに忙しく、ろくに話もしていなかっただけに、新たな住処としての実感は全く涌かない。ただ渡された合鍵だけがこの状況が現実だと物語っていた。
やかんがお湯が沸いたことを知らせたとき、ふいにもう一方の部屋の扉が開いた。白いTシャツにスウェットパンツという私とさほど違わない出で立ちで現れた瀬戸は、不機嫌極まりない表情でこちらを見下ろすと、立ち上がった私と入れ替わるように席に着いた。
「相変わらず色気ねーな」
「お互い様」
挨拶代わりの一言を軽く流しながら火を止め、自分で持ち込んだマグカップにコーヒーを淹れる。寝に帰るだけで自炊をしないからなのか、キッチンには必要最低限の食器や道具しか揃っていない。家具の少なさも手伝って家全体が殺風景に感じる。
この部屋を借りたと打ち明けられたとき、とうとう瀬戸も身を固めるつもりになったのかと勝手に思った。だから誘われてもここには足を踏み入れないようにしていたのに、いざ来てみたら人が暮らしている匂いどころか、女性の痕跡すらなくて驚いた。瀬戸はかつての恋人達とここでどんなふうに過ごしていたのだろう。それとも。
「インスタントだけど」
考えの行き着いた先にへこみながらも、私は陸揚げされた鮪のようになっている瀬戸の前にマグカップを差し出した。彼は一瞬目を見開いたが黙ってカップを受け取り口をつけた。コーヒーの湯気のお陰か表情が幾分和らいだように見える。
「珍しく早起きだな。朝飯でも作ってくれるわけ?」
瀬戸が意地の悪い笑みを浮かべて訊いた。私は無言で冷蔵庫を物色し、昨日のうちに自分で詰め込んでおいた食材を何点か取り出すと、これまた自分で持ち込んだフライパンで調理を始めた。
「自分の分だけかよ」
用意した一人分の朝食を口に運ぶ私を、瀬戸が爆笑しながら眺める。彼は私の寝起きの悪さと家事能力の低さを知っていて揶揄ったのだ。しかも皮肉なことに食事は三食きっちり取る主義なので、金銭面の上でも自炊は免れない。下手なくせに食事を作るという悪循環が常に生じている。
「誰があんたの飯なんか作るか」
そんなもの自分の女に用意してもらえ。続けてしまいそうになった言葉を飲み込んで、誤魔化すように更にご飯をかき込む。形の崩れた卵焼きが悲しい。
「安心しろ。お前に家庭的なことは期待していない」
結婚願望はないくせに、のらりくらりと楽しいおつきあいだけを追求していく男が何を言う。
「せめてここであんたの彼女と鉢合わせするのだけは阻止してほしいもんだわ」
「誠意を持って対処させて頂きます」
わざとらしくテーブルに平伏した瀬戸は、残りのコーヒーを飲み干すと慌てて立ち上がり、ごちそうさんと言って自分の部屋に戻った。
そこで「斗田がいる間は女を連れ込まない」とは間違っても口にしないんだもんな。
私はそっと息を吐いて箸を置いた。一緒に暮らすといえど夫婦でもなければ恋人でもない。要はただの同居人。その程度の相手に配慮するために、女性関係を断ち切る義理などなくて当然だ。瀬戸でなければ私もきっとそう思えただろうか。
「自分と一緒に住んでいるのに、瀬戸君がつきあうのは他の女なんだよ。目の前でそんなことされて耐えられるの?」
今回の同居に踏み切ることを決めたとき、強硬に反対した花嫁の言葉が耳に蘇る。
友人としてつきあい始めてすぐに私は瀬戸に惹かれた。女にはだらしないし口も悪いけれど、そういう面も含めて私には嘘をつかず誠実だったから、そんな彼の隣りに当然のようにいられることが凄く嬉しかった。でもそれが仇になった。親しくなればなるほど私はその立ち位置を失うのが怖くなり、瀬戸の特別になりたいという想いとは裏腹に本音を告げることができなくなった。
もちろん二人でお酒を飲んだ後にどちらかの家に泊まっても、酔った挙句の過ちすら起きない現状も大きかった。瀬戸にとって私が女であって女でない事実を突き付けるように、この十年男女の関係に陥ったことは一度もないのだから。
何年前だったろう。不毛な片想いに終止符を打とうと、他の人とつきあってみたことがあった。相手は皆いい人達だったと思う。なのに誰とも長続きしなかった。比べていたわけではないけれど、親密になろうとすればするほど瀬戸の存在が顕になるのだ。そこで私は自分がもう瀬戸を嫌いになれないことを悟った。
瀬戸とは違った意味で、そして瀬戸ほどではなくても、無意味な短いつきあいをするだけに終わった私は、これ以上無理に他に目を向けることを諦めた。でもこのまま友人という関係を維持していくのもそろそろ辛いし、いっそのこと瀬戸が結婚して引導でも渡してくれないだろうか。そう願っていたところに持ちかけられたのが今回の同居。
決めるまでに一月悩んだ。事情を知っている人達は花嫁を筆頭に全員反対した。この同居が何をもたらすのかは定かでないが、解消するときに私が瀬戸を失うことだけは分かっている。
「もう出るから」
瀬戸がスーツに着替えて再び部屋から姿を見せた。それだけ言ってさっさと玄関に向かう。私はほんの少し迷ってから鈍い動作で立ち上がった。靴を履いている瀬戸の背中を眺めて、毎日ではなくてもこんなふうに見送ることができるのかと思ったら、ひとりでに口元が緩んでしまう。あぁ矛盾。
そんな邪な気持ちに内心身もだえているといきなり彼が振り返った。鳩が豆鉄砲を食らったような顔でしばし立ちつくしていたが、やがて勝ち誇ったような笑みを浮かべ、
「行ってくる」
これまた私が勝手に壁にかけた鏡を指さして出ていった。そこには顔を洗っていなければ歯も磨いていない、寝癖バリバリの不細工な女が映っていた。これでは百年の恋だって冷めるに違いない。
眠い。子供の頃から朝には弱かったが、ここ数日いろんな意味で寝不足なので結構辛い。私はずきずき痛む頭を軽くもたげ周囲に視線を巡らした。この2DKのアパートは二カ月程前から瀬戸が一人で住んでいたもので、玄関を入って右側にトイレや浴室とダイニングキッチンが連なり、それらに向かい合うようにして六畳の洋室が二つある。瀬戸は元々玄関に近い方の洋室しか使っていなかったので、空いている部屋を当然のように私に宛がった。
葛藤はあれど無謀とも言える提案を受け入れ、それまで住んでいたアパートを引き払って引っ越してきたのが一週間前。荷解きと仕事でお互いに忙しく、ろくに話もしていなかっただけに、新たな住処としての実感は全く涌かない。ただ渡された合鍵だけがこの状況が現実だと物語っていた。
やかんがお湯が沸いたことを知らせたとき、ふいにもう一方の部屋の扉が開いた。白いTシャツにスウェットパンツという私とさほど違わない出で立ちで現れた瀬戸は、不機嫌極まりない表情でこちらを見下ろすと、立ち上がった私と入れ替わるように席に着いた。
「相変わらず色気ねーな」
「お互い様」
挨拶代わりの一言を軽く流しながら火を止め、自分で持ち込んだマグカップにコーヒーを淹れる。寝に帰るだけで自炊をしないからなのか、キッチンには必要最低限の食器や道具しか揃っていない。家具の少なさも手伝って家全体が殺風景に感じる。
この部屋を借りたと打ち明けられたとき、とうとう瀬戸も身を固めるつもりになったのかと勝手に思った。だから誘われてもここには足を踏み入れないようにしていたのに、いざ来てみたら人が暮らしている匂いどころか、女性の痕跡すらなくて驚いた。瀬戸はかつての恋人達とここでどんなふうに過ごしていたのだろう。それとも。
「インスタントだけど」
考えの行き着いた先にへこみながらも、私は陸揚げされた鮪のようになっている瀬戸の前にマグカップを差し出した。彼は一瞬目を見開いたが黙ってカップを受け取り口をつけた。コーヒーの湯気のお陰か表情が幾分和らいだように見える。
「珍しく早起きだな。朝飯でも作ってくれるわけ?」
瀬戸が意地の悪い笑みを浮かべて訊いた。私は無言で冷蔵庫を物色し、昨日のうちに自分で詰め込んでおいた食材を何点か取り出すと、これまた自分で持ち込んだフライパンで調理を始めた。
「自分の分だけかよ」
用意した一人分の朝食を口に運ぶ私を、瀬戸が爆笑しながら眺める。彼は私の寝起きの悪さと家事能力の低さを知っていて揶揄ったのだ。しかも皮肉なことに食事は三食きっちり取る主義なので、金銭面の上でも自炊は免れない。下手なくせに食事を作るという悪循環が常に生じている。
「誰があんたの飯なんか作るか」
そんなもの自分の女に用意してもらえ。続けてしまいそうになった言葉を飲み込んで、誤魔化すように更にご飯をかき込む。形の崩れた卵焼きが悲しい。
「安心しろ。お前に家庭的なことは期待していない」
結婚願望はないくせに、のらりくらりと楽しいおつきあいだけを追求していく男が何を言う。
「せめてここであんたの彼女と鉢合わせするのだけは阻止してほしいもんだわ」
「誠意を持って対処させて頂きます」
わざとらしくテーブルに平伏した瀬戸は、残りのコーヒーを飲み干すと慌てて立ち上がり、ごちそうさんと言って自分の部屋に戻った。
そこで「斗田がいる間は女を連れ込まない」とは間違っても口にしないんだもんな。
私はそっと息を吐いて箸を置いた。一緒に暮らすといえど夫婦でもなければ恋人でもない。要はただの同居人。その程度の相手に配慮するために、女性関係を断ち切る義理などなくて当然だ。瀬戸でなければ私もきっとそう思えただろうか。
「自分と一緒に住んでいるのに、瀬戸君がつきあうのは他の女なんだよ。目の前でそんなことされて耐えられるの?」
今回の同居に踏み切ることを決めたとき、強硬に反対した花嫁の言葉が耳に蘇る。
友人としてつきあい始めてすぐに私は瀬戸に惹かれた。女にはだらしないし口も悪いけれど、そういう面も含めて私には嘘をつかず誠実だったから、そんな彼の隣りに当然のようにいられることが凄く嬉しかった。でもそれが仇になった。親しくなればなるほど私はその立ち位置を失うのが怖くなり、瀬戸の特別になりたいという想いとは裏腹に本音を告げることができなくなった。
もちろん二人でお酒を飲んだ後にどちらかの家に泊まっても、酔った挙句の過ちすら起きない現状も大きかった。瀬戸にとって私が女であって女でない事実を突き付けるように、この十年男女の関係に陥ったことは一度もないのだから。
何年前だったろう。不毛な片想いに終止符を打とうと、他の人とつきあってみたことがあった。相手は皆いい人達だったと思う。なのに誰とも長続きしなかった。比べていたわけではないけれど、親密になろうとすればするほど瀬戸の存在が顕になるのだ。そこで私は自分がもう瀬戸を嫌いになれないことを悟った。
瀬戸とは違った意味で、そして瀬戸ほどではなくても、無意味な短いつきあいをするだけに終わった私は、これ以上無理に他に目を向けることを諦めた。でもこのまま友人という関係を維持していくのもそろそろ辛いし、いっそのこと瀬戸が結婚して引導でも渡してくれないだろうか。そう願っていたところに持ちかけられたのが今回の同居。
決めるまでに一月悩んだ。事情を知っている人達は花嫁を筆頭に全員反対した。この同居が何をもたらすのかは定かでないが、解消するときに私が瀬戸を失うことだけは分かっている。
「もう出るから」
瀬戸がスーツに着替えて再び部屋から姿を見せた。それだけ言ってさっさと玄関に向かう。私はほんの少し迷ってから鈍い動作で立ち上がった。靴を履いている瀬戸の背中を眺めて、毎日ではなくてもこんなふうに見送ることができるのかと思ったら、ひとりでに口元が緩んでしまう。あぁ矛盾。
そんな邪な気持ちに内心身もだえているといきなり彼が振り返った。鳩が豆鉄砲を食らったような顔でしばし立ちつくしていたが、やがて勝ち誇ったような笑みを浮かべ、
「行ってくる」
これまた私が勝手に壁にかけた鏡を指さして出ていった。そこには顔を洗っていなければ歯も磨いていない、寝癖バリバリの不細工な女が映っていた。これでは百年の恋だって冷めるに違いない。
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