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連れていかれたのはワンルームのアパートだった。もっと派手な生活をしているのかと勝手に想像していたが、室内には所狭しと難しい本や資料が散らばっており、女性を招くスペースなどありはしない。もっともベッドの上は空いていますが。
「適当に座ってろ」
部屋の中央に置かれたテーブルの周囲を足で蹴散らし、先生は二人分のスペースを作る。というかそのテーブルの上ですら、表面がすっかり隠れている。涼しい顔で授業を行っている姿しか知らなかったけれど、意外と勉強熱心だったことが発覚した。
やはり片付いていないキッチンでお湯を沸かす、かつての恩師の背中をそっと盗み見る。
音無先生は私が高三に進級した春、新卒の数学教師として母校に赴任してきた。担任は受け持っていなかったので、関わるのは担当の数学の授業のみ。でもその週に数回のほんの短い時間が、私にとっては至福のときでもあり地獄でもあった。
何故なら私は極端な文系人間。数学など敵に等しい赤点ぎりぎりの教科。当然授業は苦痛の連続。回答を求められたら気絶する。だから数学教師も大の苦手だった。それなのに好意を抱いてしまったのは、クラス全員の宿題のプリントを携えて訪れた教科準備室で、子供のようなあどけない表情で、無防備に昼寝を貪る先生に目を奪われたせい。
表情があまり変わらなくて口も悪い、何よりデブやハゲ以上に嫌いな数学の権化。そんな男の人がさらさらの髪を春の風に揺らして微睡む様は、彼氏いない歴イコール年齢の私の心臓を打ち抜いた。つまり一目惚れ。
高校生になって初めて好きになった人が、よりによって数学教師とは皮肉だと、友達は前途多難の恋を憐れんでいたけれど、私はそれ以来質問という名目で、時々教科準備室に籠る先生に会いに行った。もちろん同様の女子は他にもたくさんいて、ドアをノックする前に踵を返したことも数知れず。それでもめげずに通うくらいには慕っていた。
夏休みが終わった頃だったろうか。先生が一年生の女の子に告白されたという噂を耳にした。おそらくはぐらかされるだろうと思いつつも、駄目もとで真偽の程を確かめてみると、先生はあぁとぼやいて頭を掻いた。
「事実だが断った」
「どうしてですか?」
告白した女の子には申し訳ないが、安堵したの半分他人事ではないの半分で、私は不躾にもその理由を訊ねていた。
「現役の教え子はアウト。俺器用じゃないから、隠してつきあうなんてまず無理。第一気まずくなるだろ」
モラルがどうこうというレベルの問題ではないのが、音無先生の音無先生たる所以だ。要するに私の在学中は先生は他の生徒とつきあわない。でも私のことも眼中にない、と。
「あれ、じゃ先生同士はありですか?」
自分が高校生なのでつい生徒中心に考えてしまうが、先生の恋人に該当するのはむしろ社会人の女性。生徒とつきあう確率の方がよほど低い。それ以前に現在特定の人物がいたらこの場で失恋決定だ。
「好きになったら動くかもしれんが、同じ学校はパス。別れたときやっぱり気まずい」
何故別れる前提で考えるのか謎な人である。
「今は一人が気楽でいい」
本人の方から貴重な情報をもたらされ、小躍りしたい衝動に駆られている私に、先生は意地悪な笑みを口元に浮かべて言った。
「律も在学中は告るなよ。必ず卒業してからにしろ」
どきんと跳ねる鼓動に焦る私。
「冗談じゃない。そんなもんしねーよ」
誤魔化すために先生の口真似で否定すると、目の前の人はおかしそうに眦を下げた。揶揄われているのは重々承知している。けれどその台詞は私に僅かな希望を与えてくれた。なのにいざ卒業したら、告白する機会さえも逸してしまったけれど。
「コーヒーでいいよな」
どこから出してきたのか、贈答品のようなカップを手渡される。私は素直に受け取って一口飲んだ。教科準備室に備えていた物と同じ銘柄のインスタント。先生は感傷に浸る私の邪魔をするように、使い慣れたカップ片手に隣に腰を下ろした。
「どうしてたんだ」
「大学に行ってました」
「ふざけんな」
険悪なムードが室内に漂っている。もう生徒じゃないから敬語は要らないんだな、と場にそぐわないことをぼんやり考える。
「学校に会いにくるくらいはしろよ」
「それこそどうして」
今度は私が訊き返した。私達はただの教師と生徒に過ぎないのに、ご機嫌伺いをしなくてはいけないのだろうか。音無先生に罪はない。けれどこの人を忘れるために、少なくとも努力はしたのだ。佐々岡を半ば犠牲にしてまで。
「待ってたんだよ」
忌々し気に先生が呻く。そういえば車の中でも待ちぼうけがどうとか洩らしていた。
「卒業式の日も、その後の一年も。律が俺の前に現れるのを今日まで」
屈辱だ、こんな小娘に振り回されるとは。そう続けた先生のほんのり赤い顔を、私は珍獣でも目にしたような信じられない面持ちでみつめた。
「適当に座ってろ」
部屋の中央に置かれたテーブルの周囲を足で蹴散らし、先生は二人分のスペースを作る。というかそのテーブルの上ですら、表面がすっかり隠れている。涼しい顔で授業を行っている姿しか知らなかったけれど、意外と勉強熱心だったことが発覚した。
やはり片付いていないキッチンでお湯を沸かす、かつての恩師の背中をそっと盗み見る。
音無先生は私が高三に進級した春、新卒の数学教師として母校に赴任してきた。担任は受け持っていなかったので、関わるのは担当の数学の授業のみ。でもその週に数回のほんの短い時間が、私にとっては至福のときでもあり地獄でもあった。
何故なら私は極端な文系人間。数学など敵に等しい赤点ぎりぎりの教科。当然授業は苦痛の連続。回答を求められたら気絶する。だから数学教師も大の苦手だった。それなのに好意を抱いてしまったのは、クラス全員の宿題のプリントを携えて訪れた教科準備室で、子供のようなあどけない表情で、無防備に昼寝を貪る先生に目を奪われたせい。
表情があまり変わらなくて口も悪い、何よりデブやハゲ以上に嫌いな数学の権化。そんな男の人がさらさらの髪を春の風に揺らして微睡む様は、彼氏いない歴イコール年齢の私の心臓を打ち抜いた。つまり一目惚れ。
高校生になって初めて好きになった人が、よりによって数学教師とは皮肉だと、友達は前途多難の恋を憐れんでいたけれど、私はそれ以来質問という名目で、時々教科準備室に籠る先生に会いに行った。もちろん同様の女子は他にもたくさんいて、ドアをノックする前に踵を返したことも数知れず。それでもめげずに通うくらいには慕っていた。
夏休みが終わった頃だったろうか。先生が一年生の女の子に告白されたという噂を耳にした。おそらくはぐらかされるだろうと思いつつも、駄目もとで真偽の程を確かめてみると、先生はあぁとぼやいて頭を掻いた。
「事実だが断った」
「どうしてですか?」
告白した女の子には申し訳ないが、安堵したの半分他人事ではないの半分で、私は不躾にもその理由を訊ねていた。
「現役の教え子はアウト。俺器用じゃないから、隠してつきあうなんてまず無理。第一気まずくなるだろ」
モラルがどうこうというレベルの問題ではないのが、音無先生の音無先生たる所以だ。要するに私の在学中は先生は他の生徒とつきあわない。でも私のことも眼中にない、と。
「あれ、じゃ先生同士はありですか?」
自分が高校生なのでつい生徒中心に考えてしまうが、先生の恋人に該当するのはむしろ社会人の女性。生徒とつきあう確率の方がよほど低い。それ以前に現在特定の人物がいたらこの場で失恋決定だ。
「好きになったら動くかもしれんが、同じ学校はパス。別れたときやっぱり気まずい」
何故別れる前提で考えるのか謎な人である。
「今は一人が気楽でいい」
本人の方から貴重な情報をもたらされ、小躍りしたい衝動に駆られている私に、先生は意地悪な笑みを口元に浮かべて言った。
「律も在学中は告るなよ。必ず卒業してからにしろ」
どきんと跳ねる鼓動に焦る私。
「冗談じゃない。そんなもんしねーよ」
誤魔化すために先生の口真似で否定すると、目の前の人はおかしそうに眦を下げた。揶揄われているのは重々承知している。けれどその台詞は私に僅かな希望を与えてくれた。なのにいざ卒業したら、告白する機会さえも逸してしまったけれど。
「コーヒーでいいよな」
どこから出してきたのか、贈答品のようなカップを手渡される。私は素直に受け取って一口飲んだ。教科準備室に備えていた物と同じ銘柄のインスタント。先生は感傷に浸る私の邪魔をするように、使い慣れたカップ片手に隣に腰を下ろした。
「どうしてたんだ」
「大学に行ってました」
「ふざけんな」
険悪なムードが室内に漂っている。もう生徒じゃないから敬語は要らないんだな、と場にそぐわないことをぼんやり考える。
「学校に会いにくるくらいはしろよ」
「それこそどうして」
今度は私が訊き返した。私達はただの教師と生徒に過ぎないのに、ご機嫌伺いをしなくてはいけないのだろうか。音無先生に罪はない。けれどこの人を忘れるために、少なくとも努力はしたのだ。佐々岡を半ば犠牲にしてまで。
「待ってたんだよ」
忌々し気に先生が呻く。そういえば車の中でも待ちぼうけがどうとか洩らしていた。
「卒業式の日も、その後の一年も。律が俺の前に現れるのを今日まで」
屈辱だ、こんな小娘に振り回されるとは。そう続けた先生のほんのり赤い顔を、私は珍獣でも目にしたような信じられない面持ちでみつめた。
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