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散った桜の花びらで道路が埋められていた。遠目には綺麗な絨毯だけれど、雨が降ると途端に汚くなってしまう。そんな春の風物詩を竹ぼうきでせっせと掃きながら、はらはらと儚げに舞い降りてくる花びらに嘆息する。いつまで経っても終わらない仕事だ。
「また一人で外掃除をしてるんですか? 一ノ瀬さん」
従業員の通用口から姿を見せたバイトの富沢悟くんが、竹ぼうきを手に腰を叩く私に眉を顰める。
「みんなは家庭があるから。私は独身だしお金も稼げるし、ちょうどいいの」
「嫌なときはそう言わないと、面倒な仕事ばかり押しつけられますよ」
憮然とした表情できっぱり告げてから、富沢君はお疲れさまでしたと頭を下げて帰っていく。私は思いっきり伸びをして、再び竹ぼうきを動かし始めた。
一人暮らしをするアパートから車で二十分程の所に、昔からの鄙びた温泉街がある。山と緑だけの、これといった観光施設もコンビニすらもない田舎だが、その静かな環境が穴場として知られ、主に年配客のリピーターでそこそこ賑わっている。
私はそのうちの一つ、眼病に効能があると有名な旅館「桜屋」で、二年前から清掃担当として働いている。主な仕事は客室や浴場等館内清掃で、勤務時間は九時から十四時までだが、窓拭きや草むしり、落葉掃き等の外回りを整える際や、連休や観光シーズンで満館になるときは、夕方まで残業となる場合もある。
富沢くんは私とほぼ同時期に雇われた二十一歳の大学生で、土、日や夏休みなどの長期休暇にシフトに入っている。同じアルバイトの佐藤くんと友達らしく、冗談なのか本気なのか、年上の彼女との結婚資金を貯めていると話していた。
「いくつ年上なの?」
何気なく訊いたらあっさり六歳という答えが返ってきた。家が近所で家族ぐるみのつきあいがあるらしい。当然社会人で既に仕事を持っている。お互い他の人とつきあう一幕もあったが、現在は上手くいっているのだそうだ。
「こいつ一途なんだよ」
佐藤くんが茶化していたけれど、実際は相当な葛藤があったと思う。
「一ノ瀬さんは彼氏は? 結婚しないの?」
富沢くん達からも同僚からも、最初の頃はよくこの質問をされたけれど、男っ気が全くないと分かってからは誰も口にしなくなった。「桜屋の姥桜」と陰口を叩く従業員がたまにいるけれど。
仕事を終えてアパートに帰るなり、私はベッドに傾れ込んだ。桜の花びらの掃き掃除は思いの外時間がかかった。もう腕がぱんぱんだ。勤務したばかりの頃は竹ぼうきなどろくに使った経験がなく、素手で箒を持って手の平に豆を作ったことがあった。あれはかなり痛かった。
仰向けになって、古びたワンルームの天井に両手を翳す。手荒れはずいぶん治ったけれど、まだカサカサしているのが分かる。毎日水仕事をしている証拠だ。
「仕事のせいなら恥じることないだろ」
ふと合コンで隣り合っただけの彼の言葉が蘇る。みっともなかったであろう私の手に、嫌悪感を顕にしなかったことに驚いた。悪戯に優しい人ではなかったけれど、正直な語り口はとても好ましく、男の人に対してそんな気持ちが湧いたのは、酷く久し振りのことだった。
ゆっくり手を下ろして目を閉じる。桜屋に就職する少し前に、私は三年の結婚生活を終わらせた。特に波風も立たない穏やかな日々だったけれど、それはそのまま退屈に繋がった。夫は外に女性を作り、子供がいなかった私はそれを責めもせずに受け入れた。
「なぎさはいつもにこにこ笑っているけれど、本当に嬉しいのか楽しいのか俺には分からなくなった」
疲れて帰ってきた夫が安らげるよう、不快にならぬよう、何より機嫌を損ねぬよう、常に気持ちを平らにしていたつもりだったのに、夫にはむしろそれが苦痛だった。怒りも悲しみも訴えられない方が辛い、と。
きっかけは友人主催の飲み会だった。彼女の同期である夫は明朗快活で仕事もできる、人の輪の中心にいるような人だった。よもや自分なんかには関わってこないだろうと、友人と美味しいお酒を楽しんでいたら、いきなり話しかけられたのでびっくりした。
それからあれよあれよという間につきあうことになり、想像もしていなかったプロポーズを受けた。
「なぎさの控えめで笑みを絶やさないところに惹かれた」
何の取柄もない私を、唯一認めてくれた男性だった。だから嫌われたくなかった。何があっても笑顔でい続けた。それが仇になった。
私はいつもそうだ。どんなに頑張っても周囲に嫌な思いをさせてしまう。迷惑をかけたくなくて足並みを揃えているときでさえ、その要領の悪さに愛想をつかされる。けれどどうすればいいのか分からない。いっそのこと一人きりで生きていけたらいいのに。
そんな矢先に現れた、きっともう二度と会うことはないだろう人。彼のお陰で冷たい夜も、ほんの少しぬくもりを感じて過ごせるような気がした。
「また一人で外掃除をしてるんですか? 一ノ瀬さん」
従業員の通用口から姿を見せたバイトの富沢悟くんが、竹ぼうきを手に腰を叩く私に眉を顰める。
「みんなは家庭があるから。私は独身だしお金も稼げるし、ちょうどいいの」
「嫌なときはそう言わないと、面倒な仕事ばかり押しつけられますよ」
憮然とした表情できっぱり告げてから、富沢君はお疲れさまでしたと頭を下げて帰っていく。私は思いっきり伸びをして、再び竹ぼうきを動かし始めた。
一人暮らしをするアパートから車で二十分程の所に、昔からの鄙びた温泉街がある。山と緑だけの、これといった観光施設もコンビニすらもない田舎だが、その静かな環境が穴場として知られ、主に年配客のリピーターでそこそこ賑わっている。
私はそのうちの一つ、眼病に効能があると有名な旅館「桜屋」で、二年前から清掃担当として働いている。主な仕事は客室や浴場等館内清掃で、勤務時間は九時から十四時までだが、窓拭きや草むしり、落葉掃き等の外回りを整える際や、連休や観光シーズンで満館になるときは、夕方まで残業となる場合もある。
富沢くんは私とほぼ同時期に雇われた二十一歳の大学生で、土、日や夏休みなどの長期休暇にシフトに入っている。同じアルバイトの佐藤くんと友達らしく、冗談なのか本気なのか、年上の彼女との結婚資金を貯めていると話していた。
「いくつ年上なの?」
何気なく訊いたらあっさり六歳という答えが返ってきた。家が近所で家族ぐるみのつきあいがあるらしい。当然社会人で既に仕事を持っている。お互い他の人とつきあう一幕もあったが、現在は上手くいっているのだそうだ。
「こいつ一途なんだよ」
佐藤くんが茶化していたけれど、実際は相当な葛藤があったと思う。
「一ノ瀬さんは彼氏は? 結婚しないの?」
富沢くん達からも同僚からも、最初の頃はよくこの質問をされたけれど、男っ気が全くないと分かってからは誰も口にしなくなった。「桜屋の姥桜」と陰口を叩く従業員がたまにいるけれど。
仕事を終えてアパートに帰るなり、私はベッドに傾れ込んだ。桜の花びらの掃き掃除は思いの外時間がかかった。もう腕がぱんぱんだ。勤務したばかりの頃は竹ぼうきなどろくに使った経験がなく、素手で箒を持って手の平に豆を作ったことがあった。あれはかなり痛かった。
仰向けになって、古びたワンルームの天井に両手を翳す。手荒れはずいぶん治ったけれど、まだカサカサしているのが分かる。毎日水仕事をしている証拠だ。
「仕事のせいなら恥じることないだろ」
ふと合コンで隣り合っただけの彼の言葉が蘇る。みっともなかったであろう私の手に、嫌悪感を顕にしなかったことに驚いた。悪戯に優しい人ではなかったけれど、正直な語り口はとても好ましく、男の人に対してそんな気持ちが湧いたのは、酷く久し振りのことだった。
ゆっくり手を下ろして目を閉じる。桜屋に就職する少し前に、私は三年の結婚生活を終わらせた。特に波風も立たない穏やかな日々だったけれど、それはそのまま退屈に繋がった。夫は外に女性を作り、子供がいなかった私はそれを責めもせずに受け入れた。
「なぎさはいつもにこにこ笑っているけれど、本当に嬉しいのか楽しいのか俺には分からなくなった」
疲れて帰ってきた夫が安らげるよう、不快にならぬよう、何より機嫌を損ねぬよう、常に気持ちを平らにしていたつもりだったのに、夫にはむしろそれが苦痛だった。怒りも悲しみも訴えられない方が辛い、と。
きっかけは友人主催の飲み会だった。彼女の同期である夫は明朗快活で仕事もできる、人の輪の中心にいるような人だった。よもや自分なんかには関わってこないだろうと、友人と美味しいお酒を楽しんでいたら、いきなり話しかけられたのでびっくりした。
それからあれよあれよという間につきあうことになり、想像もしていなかったプロポーズを受けた。
「なぎさの控えめで笑みを絶やさないところに惹かれた」
何の取柄もない私を、唯一認めてくれた男性だった。だから嫌われたくなかった。何があっても笑顔でい続けた。それが仇になった。
私はいつもそうだ。どんなに頑張っても周囲に嫌な思いをさせてしまう。迷惑をかけたくなくて足並みを揃えているときでさえ、その要領の悪さに愛想をつかされる。けれどどうすればいいのか分からない。いっそのこと一人きりで生きていけたらいいのに。
そんな矢先に現れた、きっともう二度と会うことはないだろう人。彼のお陰で冷たい夜も、ほんの少しぬくもりを感じて過ごせるような気がした。
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