バツイチの恋

文月 青

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意外な程修司さんは取り乱していなかった。よくここにいるのが分かったなと、私を助手席に座らせてからも、ただじっと前方を眺めている。暗闇の中、雨も降っていないけれど、何故か修司さんの心があの日ーー香さんと二人で過ごした日に、還っているような気がした。

「悪かったな。家がごたごたして煩いから、嫌気がさして出てきただけなんだ」

私の方を見ずに修司さんが謝った。離れた所にある外灯に、光に導かれた虫が集まっている。

「悟だろ? どこまで聞いた?」

「富沢さんがふらっと出て行ったところまで」

「ずいぶん端折ったな」

私の気持ちを知ってか知らずか、修司さんは小さく笑みを洩らした。香さんがご主人のご両親と揉めているとか、ご主人ともぎくしゃくしているとか、修司さんが堪えているだろう話題は口にしたくなかった。

「びっくりしただろ、うちの母親達」

そこに関しては素直に頷いた。修司さんと香さんの結婚を夢見るのはともかく、円満な家庭に波風を立てるのには本当に驚いた。

「離婚したばかりの頃にさ、母さんに言われたことがあるんだよ」

ゆっくり修司さんが私を振り返る。夜の暑さを払うように微かに風が吹いた。

「香ちゃんがいないと、修司は一生独身になっちゃうからね」

思わず息を呑んだ。皮肉なことに真実を突いている。形はどうあれ香さん以外の人となら、誰が相手でも修司さんは本物の夫婦にはならないだろう。

「意図したものではないにせよ、その頃から香姉の旦那さんにお見合い写真を準備し始めた。結果的に俺が母さん達をけしかけてしまったのかもな」

吐き出されたのは重いため息。自分を責めているのだろうか。

「香姉も旦那さんに申し訳なくてさすがに参ってる」

自宅にご主人のご両親がいるため家を空けるわけにもいかず、修司さんや実家とはとりあえず電話でやり取りしているのだそうだが、いつでも戻ってらっしゃいと手ぐすね引いて待っているお母さんに、香さんはなす術もなく針の筵の中に身を置いているのだという。

現在仕事を終えた香さんのお父さんが、急遽お詫びに伺っているものの、この騒動が丸く収まるという希望的観測は、今回ばかりは咲さんも富沢くんも持てずにいるらしい。

「ご主人は怒っているんですか?」

「いや。だから余計なことを考えている香姉を宥めている最中」

「余計なこと?」

「このまま結婚生活を継続していいものかどうか」

それはご主人との離婚を視野に入れているということだろうか。お互いの間には何の不満もないのに。そしてそれは自ずと修司さんの努力が水の泡に帰すことを意味している。

「自暴自棄になっているだけなんだろうけど、香姉が言うんだ」

ふっと修司さんが自嘲気味に笑む。

「こんなことなら修司と結婚しておけばよかったのかな、と」

私は大きく目を見開いた。

「バツイチ子供ありになるけど、いい? って」

あまりのことに言葉が出なかった。

「こっちの方が参るよなあ、今更そんな、そん、な…」

いきなり修司さんが両手でハンドルを叩きつけた。

「どうして今になってそんなこと言うんだよ。香姉が俺のことを好きになってくれるのなら、バツイチだろうが子供がいようが、全部ひっくるめて受け止めるのに!」

そのまま顔を伏せてしまう。俺を必要としていないくせに…届いたくぐもった呟きが胸に刺さる。香さんの気持ちが分からないわけじゃない。彼女もきっとにっちもさっちもいかなくて、家族の中で唯一自分の味方であった修司さんに甘えて縋っただけなのだ。

そしていつもの修司さんなら、香さんの望むように慰めることも励ますこともできた。直接解決には至らなくても、彼女を笑顔にしてあげることはできた。そのために気持ちは常に寄り添ってきたのだから。

なのに香さんは告げてしまった。修司さんが隠し続けてきた想いを知らなかったとはいえ、彼が一番聞きたくなかったことを。これまで修司さんが願ってきた香さんの幸せを、幸せにすることができない自分に委ねようとする嘘を。

それが本心だったならどんなにか嬉しかっただろうに。

修司さんのために私にできることはないのだろうか。どんなことでもいい。修司さんが私の子供の頃からの呪縛を解いてくれたように、目の前の彼が少しでも救われるなら。

私はおずおずと手を伸ばした。小刻みに震える肩に触れようとして、途中で右手を強く握り締める。そうして浮いたままの手を、ハンドルに添わせた修司さんの右手に重ねた。弾かれたように顔を上げた彼にゆっくり頷く。

「大丈夫です」

何が大丈夫なのか分からない。こんなときに安らげる言葉さえ持たない自分がもどかしい。でも傍にいるという気持ちだけは伝えたかった。

修司さんはくしゃっと表情を歪めて俯いた。やがて力が抜けたようにハンドルからだらんと腕が落ちる。そのとき彼の左手は私の右手に繋がれた。私はそれまでいないと思っていた神様に、生まれて初めて祈った。

ーーどうか傷ついた子供のようなこの人を守れるだけの力を私に下さい。



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