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凩編
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ーーおーれは紳士、じぇーんとるまーん。
唱える俺はリサイタル前のジャイアンか。真っ暗な家に帰宅して、着替えもせずにリビングのソファに身を沈める。室内が散らかっていても飯なんかなくても、日和の笑顔があればそれだけで疲れも吹き飛んだのに。
「すみません、今日も遅くなります」
闇の中で光るスマホには毎日同じ文字が並ぶ。ここ一週間、日和は残業が続いている……ことになっている。連絡を必ず入れてくるので、無駄に探し回る振りもできず、俺はこうして待っているしかない。
二度目のキスをした翌日、一睡もできずに朝を迎えると、日和は何事もなかったように、ベッドの中でおはようございますと笑った。理由に心当たりはないが、前夜酷く傷つけたような気がしていたので、正直喋ってくれたことにほっとした。
けれどその夜から日和は、二十一時を過ぎた頃に帰ってくるようになった。残業ということにしているが、それが嘘なのはこっそり買物に行って知っている。
ーーバイト仲間と遊びに行ってんだろうな。
毎回ではなくとも日曜日が休日の俺と、シフト制で主に平日に休む日和では、丸一日一緒にいられる日は少ない。考えてみれば知り合ってから二人揃って外出したのは、家電量販店に冷蔵庫を見に行ったときくらいだ。
飯も俺が作るから外食もしない。プレゼントの類を渡したこともない。同居できた喜びに浸っていたが、生活費を入れている日和にとっては、この暮らしにさほどメリットはないだろうし、実はつまらなかったのかもしれない。
ーー誰かをここまで恋うる日が来ようとは。
皮肉なものだ。適当な扱いをしても寄ってくる女はいるのに、欲しい女には見向きもされずに踠いている。
自嘲気味に笑んだとき、手にしていたスマホがけたたましい音を鳴らした。日和かと身を起こせば同期の井上。
「お嬢さんはご帰還か?」
開口一番触れて欲しくない話題を持ち出す。
「いいえ。友達と会っているのでしょう」
スーツが皺になったと余所事に囚われていると、
「それは見当違いのようだぞ、凩。お嬢さんの足取りは白紙だ」
神妙ながらも焦りを滲ませる口調。彼の話によると、終業後にバイトに復帰した篠原から道重に連絡があり、日和はバイト仲間とは一切連んでいないという。
「バイトが終わると挨拶もそこそこに、急いで帰っていたらしい。行先も用件も誰も知らない」
では日和は一体どこで何をしているのだ。たった今も。
「物分かりのいい大人も結構だが、それでお嬢さんを失くしたら意味がないんじゃないのか。振られて泣く凩を慰めるのも、なかなか面白そうではあるが」
失くすの一言に居ても立っても居られなくなり、俺は電話も切らずにリビングを飛び出した。
「ただいま」
呑気な声と共に日和が姿を見せたのは、ドアを開けようとノブに手をかけたときだった。
「今まで、どこにいたんです」
時刻はまもなく二十時になる。今日は幾分早く帰宅した日和に、俺は保護者面して詰問する。
「えーと、実家です」
リビングのソファに並んで腰かけた日和は、少々気まずそうに膝の上で組んだ手を動かしている。
「どうして嘘をついたんですか? それに実家とはまた……」
就職してから日和は一度も帰省していないと聞いていた。なのに俺と同居を始めた途端に実家に戻るとは。まさかここに帰ってくるのが嫌になったのか?
「てっきりバイト仲間と一緒だと思っていたのですが」
帰宅拒否されるくらいなら、その方がまだましだったかもしれない。
「もの凄く失礼ですね、凩さん」
打ちひしがれている俺に日和が憤慨した。
「私はそんなに信用ないんですか? 凩さんがいるのに、他の男の人と出かけるわけないでしょう! 誰かさんと違って据え膳なんて頂きませんから!」
ぐうの音も出ない。すみませんと謝るしかない俺。
「実家には解約のお願いに行っていたんです」
「解約?」
意図することが掴めなくて首を捻った。以前住んでいたアパートなら既に引き払っている。
「結婚でも仕事でもそれがどんなことであっても、長閑さんが他の何かを選択しようとしたときに、自分が成長の枷になるようだったら、潔く身を引くとお約束します」
一言一句違わずに暗唱された言葉に、俺は恥ずかしさのあまり泡を吹きそうだった。
「な、何故それを……」
「母に教えられました。拉致された次の日に」
一ヶ月前には知っていたということか? 本気で穴があったら入りたい。格好悪過ぎるだろう。
「で、ですが解約とは一体?」
内心狼狽えまくりのくせに、なけなしのプライドを総動員して、懲りずに大人の威厳を保つ。
「どこかのおじさんが自らに課した約定に縛られて、Hなこともできずに悶々としているからでしょうが!」
ぎょっとする俺を嘲笑うかのように、スーツのポケットのスマホから、くぐもった複数の喝采が届いた。
唱える俺はリサイタル前のジャイアンか。真っ暗な家に帰宅して、着替えもせずにリビングのソファに身を沈める。室内が散らかっていても飯なんかなくても、日和の笑顔があればそれだけで疲れも吹き飛んだのに。
「すみません、今日も遅くなります」
闇の中で光るスマホには毎日同じ文字が並ぶ。ここ一週間、日和は残業が続いている……ことになっている。連絡を必ず入れてくるので、無駄に探し回る振りもできず、俺はこうして待っているしかない。
二度目のキスをした翌日、一睡もできずに朝を迎えると、日和は何事もなかったように、ベッドの中でおはようございますと笑った。理由に心当たりはないが、前夜酷く傷つけたような気がしていたので、正直喋ってくれたことにほっとした。
けれどその夜から日和は、二十一時を過ぎた頃に帰ってくるようになった。残業ということにしているが、それが嘘なのはこっそり買物に行って知っている。
ーーバイト仲間と遊びに行ってんだろうな。
毎回ではなくとも日曜日が休日の俺と、シフト制で主に平日に休む日和では、丸一日一緒にいられる日は少ない。考えてみれば知り合ってから二人揃って外出したのは、家電量販店に冷蔵庫を見に行ったときくらいだ。
飯も俺が作るから外食もしない。プレゼントの類を渡したこともない。同居できた喜びに浸っていたが、生活費を入れている日和にとっては、この暮らしにさほどメリットはないだろうし、実はつまらなかったのかもしれない。
ーー誰かをここまで恋うる日が来ようとは。
皮肉なものだ。適当な扱いをしても寄ってくる女はいるのに、欲しい女には見向きもされずに踠いている。
自嘲気味に笑んだとき、手にしていたスマホがけたたましい音を鳴らした。日和かと身を起こせば同期の井上。
「お嬢さんはご帰還か?」
開口一番触れて欲しくない話題を持ち出す。
「いいえ。友達と会っているのでしょう」
スーツが皺になったと余所事に囚われていると、
「それは見当違いのようだぞ、凩。お嬢さんの足取りは白紙だ」
神妙ながらも焦りを滲ませる口調。彼の話によると、終業後にバイトに復帰した篠原から道重に連絡があり、日和はバイト仲間とは一切連んでいないという。
「バイトが終わると挨拶もそこそこに、急いで帰っていたらしい。行先も用件も誰も知らない」
では日和は一体どこで何をしているのだ。たった今も。
「物分かりのいい大人も結構だが、それでお嬢さんを失くしたら意味がないんじゃないのか。振られて泣く凩を慰めるのも、なかなか面白そうではあるが」
失くすの一言に居ても立っても居られなくなり、俺は電話も切らずにリビングを飛び出した。
「ただいま」
呑気な声と共に日和が姿を見せたのは、ドアを開けようとノブに手をかけたときだった。
「今まで、どこにいたんです」
時刻はまもなく二十時になる。今日は幾分早く帰宅した日和に、俺は保護者面して詰問する。
「えーと、実家です」
リビングのソファに並んで腰かけた日和は、少々気まずそうに膝の上で組んだ手を動かしている。
「どうして嘘をついたんですか? それに実家とはまた……」
就職してから日和は一度も帰省していないと聞いていた。なのに俺と同居を始めた途端に実家に戻るとは。まさかここに帰ってくるのが嫌になったのか?
「てっきりバイト仲間と一緒だと思っていたのですが」
帰宅拒否されるくらいなら、その方がまだましだったかもしれない。
「もの凄く失礼ですね、凩さん」
打ちひしがれている俺に日和が憤慨した。
「私はそんなに信用ないんですか? 凩さんがいるのに、他の男の人と出かけるわけないでしょう! 誰かさんと違って据え膳なんて頂きませんから!」
ぐうの音も出ない。すみませんと謝るしかない俺。
「実家には解約のお願いに行っていたんです」
「解約?」
意図することが掴めなくて首を捻った。以前住んでいたアパートなら既に引き払っている。
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一言一句違わずに暗唱された言葉に、俺は恥ずかしさのあまり泡を吹きそうだった。
「な、何故それを……」
「母に教えられました。拉致された次の日に」
一ヶ月前には知っていたということか? 本気で穴があったら入りたい。格好悪過ぎるだろう。
「で、ですが解約とは一体?」
内心狼狽えまくりのくせに、なけなしのプライドを総動員して、懲りずに大人の威厳を保つ。
「どこかのおじさんが自らに課した約定に縛られて、Hなこともできずに悶々としているからでしょうが!」
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