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本編
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どうせ今夜も和成さんは遅いだろうから、晩ご飯は昨夜の残りのカレーでいいかな。涙を双眸にためて俯く先輩と、和成さんの身の潔白を訴える島津さんと別れて帰宅した私は、ろくに観もしないテレビをつけたまま洗濯物を畳んでいた。
へのへのもへじさんの正体が明かされてすっきりしたのはいいけれど、私はいつまでこの家に住んでいていいのだろう。和成さんのことだから私に責任を感じて、現状維持なんて最悪の形にならなければいいけれど。
「希さん!」
畳み終えた洗濯物を手に立ち上がろうとしたら、もの凄い勢いで玄関のドアが開く音がした。何故か私の名前を連呼しながら、その人物はリビングに転がるように飛び込んでくる。
「あぁ、いた」
人の顔を見るなり残念そうに床に頽れる和成さん。
「てっきり出ていったかと」
洗濯物を放り出し、私は両手で頭のてっぺんを押さえた。
「もう出ていかないと駄目ですか?」
さすがにまだ持ち物の整理も荷造りにも取りかかっていない。兄夫婦が同居中の実家に戻るのは難しいので、せめて仕事と住む所が見つかるまで猶予が欲しい。
「違いますよ! 何を言ってるんですかあなたは!」
珍しく和成さんが声を荒げた。
「そういえば今日は早いんですね」
夕食に間に合う時間に帰ってきたのは久しぶりだ。
「ご飯は残り物のカレーですけど食べます?」
カレーを温めるべく再び立ち上がりかけた私の手を、和成さんはがっしり掴んで床に座らせた。
「島津から聞きました」
慌てている理由が分かったものの、心なしか和成さんは怒っているように見える。
「俺が主任を想い続けているなんて、どうしてそんなこと考えていたんですか」
「どうもこうも事実」
「無根です!」
やはり怒っている。それも猛烈に。普通なら浮気した夫に対して立場が上なのは妻なのだろうが、私の場合怒るのは筋違いな気もするし、かと言って怒られる側に回るのも納得がいかない。
「そもそもいつから主任の存在を知っていたんですか? その、見張っていたというか」
和成さんはバツが悪そうに言い淀む。旦那の浮気を追跡なんてまだ昼ドラを引きずっている。
「先週です。ただ主任さんと指輪の女性が同一人物だと知ったのは今日ですよ。島津さんのお陰で謎は全て解決した」
「そうじゃなくて!」
探偵アニメの名台詞を真似したのに、和成さんはうけるどころか苛々と頭を掻きむしった。だから何故私が怒られるの。
「俺が浮気したと疑っていたんですか? 離婚するだなんて」
ぼそぼそ呟きつつじとっとこちらを睨む。本気の間違いでしょうと指摘できる雰囲気ではなさそう。
「場合によってはそういう形もありかなあと。ただ指輪の女性以外の人を和成さんが好きになったのが信じられなくて。同一人物だと知って妙に安心しました」
「嘘でもそんなこと言わないで下さい!」
そんなことってどんなことだろう。眉間に皺を寄せる私に和成さんが大仰にため息をつく。
「まずはっきりさせておきます。俺と主任は何でもありません」
「よりがもどったんじゃ」
「ありません!」
いつも落ち着いているだけに感情的な和成さんは面白い。コントのやり取りみたいでおかしくなってきた。
でも和成さんと主任さんが肩を並べて颯爽と歩く姿は、いかにも仕事ができる二人という感じで本当に格好よくてお似合いだったのだ。現在の関係がどうあれ深い信頼で結ばれているのだと思う。そういえばいろんな分野に秀でた人だから、これからも尊敬しているとか何とか和成さんも熱っぽく語っていた。
「肝心なことには無関心なのに、要らないことには記憶が働くなんて」
忘れているのだろうかと突いたら、和成さんは悔しそうに唇を噛んだ。主任さんとの仲を認めることが、それほどまでに苦痛だなんて、やはり立場上「和成さんの妻」である私がよほどネックなのかもしれない。
「大丈夫ですよ」
床に散らばった洗濯物を集め、もう一度畳み直しながら私は励ますように笑った。
「和成さんは裏切ってなんかいませんよ」
「だから最初から」
口を尖らせる和成さんを宥めて一旦キッチンに向かう。そろそろお腹が空いてきた。カレーを温めよう。一人では食べ切れなかった、二人分のカレーがずっしりと重い鍋を火にかける。
「誓いを立てていないでしょ」
淵からぐつぐつ煮立ち始めたお鍋を焦げないようにかき混ぜながら、胡乱な目つきの和成さんに病めるときも健やかなるときもってやつですと教える。
「最初から」
ね? と人差し指を振る私。室内には実は甘口が好みの和成さん仕様のカレーの香りが満ちてゆく。うーん、いい匂い。嬉しそうにおかわりする和成さんが見納めになるのは残念だけれど。
「最後の晩餐は何にしましょうか」
めいっぱい優しくリクエストしたつもりだったのに、和成さんは本当にこの世の終わりを迎えたように瞠目した。
へのへのもへじさんの正体が明かされてすっきりしたのはいいけれど、私はいつまでこの家に住んでいていいのだろう。和成さんのことだから私に責任を感じて、現状維持なんて最悪の形にならなければいいけれど。
「希さん!」
畳み終えた洗濯物を手に立ち上がろうとしたら、もの凄い勢いで玄関のドアが開く音がした。何故か私の名前を連呼しながら、その人物はリビングに転がるように飛び込んでくる。
「あぁ、いた」
人の顔を見るなり残念そうに床に頽れる和成さん。
「てっきり出ていったかと」
洗濯物を放り出し、私は両手で頭のてっぺんを押さえた。
「もう出ていかないと駄目ですか?」
さすがにまだ持ち物の整理も荷造りにも取りかかっていない。兄夫婦が同居中の実家に戻るのは難しいので、せめて仕事と住む所が見つかるまで猶予が欲しい。
「違いますよ! 何を言ってるんですかあなたは!」
珍しく和成さんが声を荒げた。
「そういえば今日は早いんですね」
夕食に間に合う時間に帰ってきたのは久しぶりだ。
「ご飯は残り物のカレーですけど食べます?」
カレーを温めるべく再び立ち上がりかけた私の手を、和成さんはがっしり掴んで床に座らせた。
「島津から聞きました」
慌てている理由が分かったものの、心なしか和成さんは怒っているように見える。
「俺が主任を想い続けているなんて、どうしてそんなこと考えていたんですか」
「どうもこうも事実」
「無根です!」
やはり怒っている。それも猛烈に。普通なら浮気した夫に対して立場が上なのは妻なのだろうが、私の場合怒るのは筋違いな気もするし、かと言って怒られる側に回るのも納得がいかない。
「そもそもいつから主任の存在を知っていたんですか? その、見張っていたというか」
和成さんはバツが悪そうに言い淀む。旦那の浮気を追跡なんてまだ昼ドラを引きずっている。
「先週です。ただ主任さんと指輪の女性が同一人物だと知ったのは今日ですよ。島津さんのお陰で謎は全て解決した」
「そうじゃなくて!」
探偵アニメの名台詞を真似したのに、和成さんはうけるどころか苛々と頭を掻きむしった。だから何故私が怒られるの。
「俺が浮気したと疑っていたんですか? 離婚するだなんて」
ぼそぼそ呟きつつじとっとこちらを睨む。本気の間違いでしょうと指摘できる雰囲気ではなさそう。
「場合によってはそういう形もありかなあと。ただ指輪の女性以外の人を和成さんが好きになったのが信じられなくて。同一人物だと知って妙に安心しました」
「嘘でもそんなこと言わないで下さい!」
そんなことってどんなことだろう。眉間に皺を寄せる私に和成さんが大仰にため息をつく。
「まずはっきりさせておきます。俺と主任は何でもありません」
「よりがもどったんじゃ」
「ありません!」
いつも落ち着いているだけに感情的な和成さんは面白い。コントのやり取りみたいでおかしくなってきた。
でも和成さんと主任さんが肩を並べて颯爽と歩く姿は、いかにも仕事ができる二人という感じで本当に格好よくてお似合いだったのだ。現在の関係がどうあれ深い信頼で結ばれているのだと思う。そういえばいろんな分野に秀でた人だから、これからも尊敬しているとか何とか和成さんも熱っぽく語っていた。
「肝心なことには無関心なのに、要らないことには記憶が働くなんて」
忘れているのだろうかと突いたら、和成さんは悔しそうに唇を噛んだ。主任さんとの仲を認めることが、それほどまでに苦痛だなんて、やはり立場上「和成さんの妻」である私がよほどネックなのかもしれない。
「大丈夫ですよ」
床に散らばった洗濯物を集め、もう一度畳み直しながら私は励ますように笑った。
「和成さんは裏切ってなんかいませんよ」
「だから最初から」
口を尖らせる和成さんを宥めて一旦キッチンに向かう。そろそろお腹が空いてきた。カレーを温めよう。一人では食べ切れなかった、二人分のカレーがずっしりと重い鍋を火にかける。
「誓いを立てていないでしょ」
淵からぐつぐつ煮立ち始めたお鍋を焦げないようにかき混ぜながら、胡乱な目つきの和成さんに病めるときも健やかなるときもってやつですと教える。
「最初から」
ね? と人差し指を振る私。室内には実は甘口が好みの和成さん仕様のカレーの香りが満ちてゆく。うーん、いい匂い。嬉しそうにおかわりする和成さんが見納めになるのは残念だけれど。
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