空っぽの薬指

文月 青

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本編

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私の口から出た言葉がよほど意外だったようで、和成さんはしばらく呆然と座り込んだまま身動ぎもしなかった。視線だけはこちらを向いているものの、何か話そうとしてはやめるのを繰り返している。そのうち諦めたのかぽつりと呟いた。

「美味しそうな匂いです」

「それはそうですよ。和成さん好みに作ってますもん」

ちょっと得意気に胸を張る私。伊達に一年一緒に暮らしていません。女性の好みは知らなくても食べ物の好みはばっちりです。

「それなら」

捨てられた子犬みたいにしょんぼりとした様子で和成さんが声を絞り出した。

「どうして、最後の晩餐なんて」

いつになく辛そうな姿。こんな和成さんを見たのはきっとあの七夕の夜以来。主任さんを失って雨の中私の最寄り駅に佇んでいた。せっかくその主任さんと再会できたのに、そこまで彼を追いつめているのは私なのだろうか。

「本気で別れるようなこと」

私は一旦お鍋をかき混ぜている手を休めた。質問の意味が理解できなくて、これ以上は曲がらないという位置まで首を傾ける。

「違うんですか?」

和成さんもつられたように小首を傾げる。不穏な会話の最中だけれど、久々の可愛いポーズに和んでしまう。

「別れるんじゃないんですか?」

和成さんは以前、主任さんに想いを残したまま私と結婚に踏み切った自分を狡いと言った。賛否両論はあるだろうけれど、でもそれを告白している時点で私にとっては誠実な人だ。きっと私に隠れて主任さんとおつきあいなんてしないと断言できる。そもそも上手に二股かけられるほど器用でもないし。だったら離婚するしか丸く収まる手立てはないのでは。

「どうしてそうなるんです」

信じられないという表情で和成さんが唸った。

「じゃあ希さんは俺が別れてくれと言ったら、すぐにでも別れることができるんですか? 理由も確かめずに?」

立ち上がった和成さんがつかつかと歩み寄ってくる。怒りが再燃したのか真正面から私を射抜く目が怖い。どうでもいいけれどまた怒られるのだろうか。

「心外です」

勝手にお鍋の火を止めてぎゅっと私の腕を掴む和成さん。そのままキッチンを出て書斎まで有無を言わさず引っ張ってゆく。

「希さんにとって、俺はそんな簡単に切り捨てられる程度の存在ですか」

今度は責められている。切り捨てたとか切り捨てられたとか、私の意識には全くないことに話が飛んでいて訳が分からない。

書斎に入るなり私の手を離した和成さんは、愛用の机から何の躊躇いもなく例の婚約指輪を取り出した。それを無言で私に突き出す。確認しろということらしい。もうその必要性は感じないけれど、私が手に取ることで和成さんの気持ちが少しでも晴れるなら。

私は包装を解かれた白いリングボックスを受け取った。和成さんと知り合うきっかけを作った箱の蓋をさくっと開ける。そこにはシンプルなデザインの指輪が二つ鎮座していた。

「さすがセンスいいですね、和成さん」

素材はホワイトプラチナだろうか。華美な装飾を抑えた私好みの指輪に素直に感嘆する。

「そこじゃないでしょう」

せっかく褒めたのに和成さんは静かに激怒した。そういえば指輪は何故かサイズ違いのお揃い。しかも婚約指輪とは趣が違うような。ということはもしかして…。

「主任さんとの結婚指輪ですか?」

「絶対ないです!」

閃いたことを口にしただけなのに、和成さんは遮るように叫んで指輪を奪い返すと、問答無用で私の左手の薬指にそれをはめてしまう。

「うわぁ」

無意識のうちに唇から洩れていた。

「素敵ですね」

普段アクセサリーをあまり身につけない私でも、その永遠の約束を意味する光にはさすがに魅せられる。

「似合いますか?」

自分の物でもないのにサイズがぴったりなことを不思議に思いつつ訊ねると、和成さんはふっと目元を和らげて頷いた。

「これを貰った人はきっと喜びますね」

でもあっけらかんと同意を求める私に、その表情は心底情けないものに変わる。

「まだ伝わりませんか?」

和成さんは自嘲気味に笑んだ後、

「自業自得ですね」

そっと私から指輪を外して裏側を見せる。示された場所には短い英字。その一言に精一杯の想いを込めたのだろうか。「with you」と刻まれてあった。

「あなたと共に?」

ご飯のお供に似ているなぁとうろ覚えの和訳を紡げば、和成さんは慈しむようにもう一度指輪を私の薬指に戻す。

「あなた以外の人に指輪を贈ろうとは思いません。もう二度と」

だから誓いを立てていないなんて言わないで下さいと悲し気に零し、まるで懇願するようにもう一つの指輪と自身の左手を私に差し出した。

「病めるときも健やかなるときも、ずっと俺の傍らにいて下さい。あなたが好きなんです、希さん」

それは和成さんから私への二度目のプロポーズだった。





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