空っぽの薬指

文月 青

文字の大きさ
12 / 53
本編

12

しおりを挟む
もの凄くお腹が空いていることに気づいたので、私達は久しぶりに一緒に食卓を囲むことにした。残り物のカレーを再び温めていると、先に席についていた和成さんは幸せそうに目を閉じる。お皿を並べたら最初の一口をゆっくり味わって破顔した。

「希さんと食べるご飯が一番美味しいです」

向かい側に座るなり大げさな和成さんに呆れて肩を竦める。何の変哲もないただのカレーですよ? 

「ほんの少し前まで、この時間を失う恐怖に怯えていましたから。島津に感謝です」

二人の間の行き違いというか、私の一方的な勘違いというか、とにかく無事に問題が解決したのを見計らうように、島津さんから和成さんに電話が入ったのは十分ほど前。喫茶店での私の様子から離婚は免れないと慌てた島津さんは、和成さんの仕事を急遽肩代わりして帰してくれたのだそうだ。

「とにかく閉じ込めてでも手離すな」

最初強気だった先輩が沈んでいたことも拍車をかけたようで、島津さんは十中八九私が家を出るものと信じていたらしい。

「希ちゃんは佐伯がどれだけ君にぞっこんか知らなすぎるんだよ。離婚なんてことになったら絶対荒れ狂う」

自分の与り知らぬところでとはいえ、大層な騒ぎにしてしまったことを一言詫びると、電話の向こうからは安堵のため息とともに苦笑が洩れた。それ以前にぞっこんなんて単語は普段使いませんよと突っ込んだら、その脱線加減が堪らないみたいだぞと返してくる。どういう意味だ。

「何せあいつ、希ちゃんから男を遠ざけたくて専業主婦にしたんだから」

思わず耳を疑った。そういえば仕事をしたいと口にしたとき、さらっと流された記憶はある。でもあれは主任さんとニアミスさせないためかと、勝手に想像を働かせていたのだけれど。

「主任なんて問題外。レベルが違うよ」

確かめてごらんと悪戯を唆す台詞を残して島津さんは電話を切った。私は半信半疑だったのだけれど、せっかくだから島津さんの提案に乗ってみることにした。

「和成さんは私から男の人を遠ざけるために専業主婦にしたのですか?」

おかわりした分も食べ終わってスプーンを置いた和成さんが、吹き出しそうになって慌ててティッシュで口元を抑えた。島津さんと殆ど違わぬ台詞に和成さんは何か察したのか、困ったように眉を八の字に下げる。既に島津さんに軍配が上がったような予感。

「希さんは無防備過ぎるんです」

会社勤めをしていた頃、社内に和成さんとの噂が広まったとき、事実関係を問いに来た男性社員の中には私狙いの人が数人いたという。それまでいくらアプローチをかけても反応がなかった私が、特定の人と噂になったことで周囲が色めき立ったのだとか。

「まさか」

自慢ではないが当時私に好意を表す社員は一人もいなかった。用もないのに総務を訪れては揶揄っていく人や、出張のついでにお土産のお菓子をくれる人はたまにいたけれど。

「それがアプローチなんです」

やはり気づいていませんよね、と苦笑する和成さん。なまじ噂を否定しなかったがために、彼も相当牽制されたのだそうだ。女子に追われる身の和成さんには珍しい。

「元々希さんはあまり人に固執しないでしょう? 実際主任のことを知っても、嫉妬はしないのに一足飛びに離婚話になりましたから」

そんなつもりはないけれど前科があるので言い訳はできない。

「だから俺のことを好きになってくれるまで、他の男の人と密に関わって欲しくなかっただけで、家に閉じ込めておきたいわけじゃないんです。もちろんやりたい仕事があるなら反対はしませんし」

それからちょっと恥ずかしそうに和成さんは小声でつけ加える。

「その、子供も、欲しかったので」

予想外の台詞に私ぽかんと口を開けた。

「子供はいらなかったのではないのですか?」

和成さんは和成さんで不思議そうに目をぱちくりさせる。今日は本当に仕草が可愛い。

「何故ですか?」

「漏らさず避妊していましたから」

今度は本気で吹き出す和成さん。咽てしまったのかしばらく咳き込んだので、隣に移動して背中を擦ってあげたら、息も絶え絶えに涙目で訴えられた。

「言葉の選択がおかしいでしょう!」

意味が通じてしまいそうなのがなお悪いと項垂れる。私は自分の発した語句を反芻してぽんと手を打った。

「すみません、もれなくでした」

どちらにしてもと唸りながら、和成さんは頭を抱えて身もだえた。そんなに変な言い回しだっただろうか。余すところなくとか、ここぞとばかりにとかの方が適正なのかな。

「言いたいことは分かりましたから」

和成さんはやがて諦めたように私に向き直ると、お願いだからそれ以上の妄想はやめるようにと頼み込んだ。くれぐれも口外禁止だと念を押して。

「避妊をしていたのは、希さんがまだ子供は欲しくないと思っていたからです」

嘆息しつつ肩を落とす和成さんに、私はそっくりそのまま疑問を返した。そんなこと一度も話した覚えがない。

「何故ですか?」

「欲しかったんですか?」

好きでもない男の子供をーーと苦い質問が更に降ってくる。私は眉間に皺を寄せた。

「好きじゃないとは言ってませんよね? 嫌いじゃないとは言いましたが」

過去の自分を顧みながら伝えたら、和成さんはテーブルに肘をついて顔を覆ってしまった。あぁ、もうとか何とかぶつぶつ呟いた後、

「全くあなたは」

すぐに天井を見上げてふーっと息を吐き、拗ねたように人差し指で私の額を突いた。

「歯止めがなくなってしまいましたよ」




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

不倫の味

麻実
恋愛
夫に裏切られた妻。彼女は家族を大事にしていて見失っていたものに気付く・・・。

今さらやり直しは出来ません

mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。 落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。 そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……

旦那様の愛が重い

おきょう
恋愛
マリーナの旦那様は愛情表現がはげしい。 毎朝毎晩「愛してる」と耳元でささやき、隣にいれば腰を抱き寄せてくる。 他人は大切にされていて羨ましいと言うけれど、マリーナには怖いばかり。 甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。 本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

彼女が望むなら

mios
恋愛
公爵令嬢と王太子殿下の婚約は円満に解消された。揉めるかと思っていた男爵令嬢リリスは、拍子抜けした。男爵令嬢という身分でも、王妃になれるなんて、予定とは違うが高位貴族は皆好意的だし、王太子殿下の元婚約者も応援してくれている。 リリスは王太子妃教育を受ける為、王妃と会い、そこで常に身につけるようにと、ある首飾りを渡される。

処理中です...