空っぽの薬指

文月 青

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本編

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もの凄くお腹が空いていることに気づいたので、私達は久しぶりに一緒に食卓を囲むことにした。残り物のカレーを再び温めていると、先に席についていた和成さんは幸せそうに目を閉じる。お皿を並べたら最初の一口をゆっくり味わって破顔した。

「希さんと食べるご飯が一番美味しいです」

向かい側に座るなり大げさな和成さんに呆れて肩を竦める。何の変哲もないただのカレーですよ? 

「ほんの少し前まで、この時間を失う恐怖に怯えていましたから。島津に感謝です」

二人の間の行き違いというか、私の一方的な勘違いというか、とにかく無事に問題が解決したのを見計らうように、島津さんから和成さんに電話が入ったのは十分ほど前。喫茶店での私の様子から離婚は免れないと慌てた島津さんは、和成さんの仕事を急遽肩代わりして帰してくれたのだそうだ。

「とにかく閉じ込めてでも手離すな」

最初強気だった先輩が沈んでいたことも拍車をかけたようで、島津さんは十中八九私が家を出るものと信じていたらしい。

「希ちゃんは佐伯がどれだけ君にぞっこんか知らなすぎるんだよ。離婚なんてことになったら絶対荒れ狂う」

自分の与り知らぬところでとはいえ、大層な騒ぎにしてしまったことを一言詫びると、電話の向こうからは安堵のため息とともに苦笑が洩れた。それ以前にぞっこんなんて単語は普段使いませんよと突っ込んだら、その脱線加減が堪らないみたいだぞと返してくる。どういう意味だ。

「何せあいつ、希ちゃんから男を遠ざけたくて専業主婦にしたんだから」

思わず耳を疑った。そういえば仕事をしたいと口にしたとき、さらっと流された記憶はある。でもあれは主任さんとニアミスさせないためかと、勝手に想像を働かせていたのだけれど。

「主任なんて問題外。レベルが違うよ」

確かめてごらんと悪戯を唆す台詞を残して島津さんは電話を切った。私は半信半疑だったのだけれど、せっかくだから島津さんの提案に乗ってみることにした。

「和成さんは私から男の人を遠ざけるために専業主婦にしたのですか?」

おかわりした分も食べ終わってスプーンを置いた和成さんが、吹き出しそうになって慌ててティッシュで口元を抑えた。島津さんと殆ど違わぬ台詞に和成さんは何か察したのか、困ったように眉を八の字に下げる。既に島津さんに軍配が上がったような予感。

「希さんは無防備過ぎるんです」

会社勤めをしていた頃、社内に和成さんとの噂が広まったとき、事実関係を問いに来た男性社員の中には私狙いの人が数人いたという。それまでいくらアプローチをかけても反応がなかった私が、特定の人と噂になったことで周囲が色めき立ったのだとか。

「まさか」

自慢ではないが当時私に好意を表す社員は一人もいなかった。用もないのに総務を訪れては揶揄っていく人や、出張のついでにお土産のお菓子をくれる人はたまにいたけれど。

「それがアプローチなんです」

やはり気づいていませんよね、と苦笑する和成さん。なまじ噂を否定しなかったがために、彼も相当牽制されたのだそうだ。女子に追われる身の和成さんには珍しい。

「元々希さんはあまり人に固執しないでしょう? 実際主任のことを知っても、嫉妬はしないのに一足飛びに離婚話になりましたから」

そんなつもりはないけれど前科があるので言い訳はできない。

「だから俺のことを好きになってくれるまで、他の男の人と密に関わって欲しくなかっただけで、家に閉じ込めておきたいわけじゃないんです。もちろんやりたい仕事があるなら反対はしませんし」

それからちょっと恥ずかしそうに和成さんは小声でつけ加える。

「その、子供も、欲しかったので」

予想外の台詞に私ぽかんと口を開けた。

「子供はいらなかったのではないのですか?」

和成さんは和成さんで不思議そうに目をぱちくりさせる。今日は本当に仕草が可愛い。

「何故ですか?」

「漏らさず避妊していましたから」

今度は本気で吹き出す和成さん。咽てしまったのかしばらく咳き込んだので、隣に移動して背中を擦ってあげたら、息も絶え絶えに涙目で訴えられた。

「言葉の選択がおかしいでしょう!」

意味が通じてしまいそうなのがなお悪いと項垂れる。私は自分の発した語句を反芻してぽんと手を打った。

「すみません、もれなくでした」

どちらにしてもと唸りながら、和成さんは頭を抱えて身もだえた。そんなに変な言い回しだっただろうか。余すところなくとか、ここぞとばかりにとかの方が適正なのかな。

「言いたいことは分かりましたから」

和成さんはやがて諦めたように私に向き直ると、お願いだからそれ以上の妄想はやめるようにと頼み込んだ。くれぐれも口外禁止だと念を押して。

「避妊をしていたのは、希さんがまだ子供は欲しくないと思っていたからです」

嘆息しつつ肩を落とす和成さんに、私はそっくりそのまま疑問を返した。そんなこと一度も話した覚えがない。

「何故ですか?」

「欲しかったんですか?」

好きでもない男の子供をーーと苦い質問が更に降ってくる。私は眉間に皺を寄せた。

「好きじゃないとは言ってませんよね? 嫌いじゃないとは言いましたが」

過去の自分を顧みながら伝えたら、和成さんはテーブルに肘をついて顔を覆ってしまった。あぁ、もうとか何とかぶつぶつ呟いた後、

「全くあなたは」

すぐに天井を見上げてふーっと息を吐き、拗ねたように人差し指で私の額を突いた。

「歯止めがなくなってしまいましたよ」




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