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本編
島津の独り言 2
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俺の煽りが功を奏したのか佐伯は希ちゃんと結婚した。どうやって口説いたのかは知らないが、希ちゃんは佐伯の思惑通り仕事を辞めて家庭を守っている。二人の様子を見る限りほのぼの幸せそうなのに、一つだけ決定的に違和感がある。
「結婚指輪はどうした?」
希ちゃんの希望とはいえ、結婚式も新婚旅行もせず入籍だけで済ませた二人。それが悪いわけではないが、その上左手の薬指まで空いているとなると、さすがに何か問題が起きているのではないかと疑ってしまう。
「仕事中は外してるんだ」
佐伯は特に表情を変えずに答えた。そういう男はいるので別に驚かない。でも先日飲んだ帰りに佐伯の家に立ち寄ったとき、希ちゃんの薬指にも指輪がなかったのを認めた。金属アレルギーがあるならいざ知らず、そういった「形」にこだわる女が普段外しているのは珍しい。
「まだ慣れていないみたいだよ」
元々あまりアクセサリーは身に着けない人だから。佐伯があっけらかんと言うものだから、俺はすんなりその嘘を真に受けた。
二人が結婚して一年が経とうという頃、主任が上司として赴任してくるという内示が出た。前回この地を離れたのは、業務成績の芳しくない支社の底上げを兼ねていたという話だったが、がっちり数字を上げての事実上の凱旋らしい。
「大丈夫なのか?」
希ちゃんはともかく佐伯は彼女にべた惚れだから、心配はないと思いつつも念のため確かめてみた。転勤に合わせて結婚した主任が、離婚してフリーとなって戻ってくるからだ。やけぼっくいに火が点かないとも限らない。
「俺はとっくに吹っ切れている。仕事に支障はきたさないよ」
淀みなく言い切る佐伯。その迷いのない顔つきが証明する通り、主任の赴任後一緒に組んで外回りする機会が多くても、接待等で朝から晩まで共に過ごしても、佐伯が動揺することも主任との復縁を望むことも全く無かった。
むしろ俺が危惧したのは厄介なことに主任の方だった。どこがとははっきり断言できない。ただ以前はなかった仕事のパートナーに接する態度とは微妙に違う、佐伯への依存のような執着のような匂いがした。当時二人がつきあっていたことは内密にしており、幸い社内でその事実を知る者は殆どいない筈なのに、不穏な噂がまことしやかに囁かれているのも不吉だ。
「気をつけろよ」
佐伯がどう感じているかは知らないが、時を同じくして体調を崩し始めたことを受け、俺は一応釘を刺した。しかし残念ながら既に遅かった。佐伯が結婚指輪を外していたことから、二人は「不倫」ではなく「本気」の恋愛をしているという噂があっという間に広がり、会社近くの喫茶店で奴と主任を眺める希ちゃんの姿を見つけたときは、本気でしくじったと舌打ちしたい気分だった。しかも希ちゃんに付き添っていた総務の先輩だという女が、彼女は離婚も辞さないつもりだと息を巻く。
俺はその一言に自分でも意外なほど慌てていたらしい。総務の女の誘導尋問にあっさり引っかかった。そしてとにかくこの場を丸く収めようと焦るあまり墓穴を掘った。
「昔はともかく、今は本当にただの上司と部下だから。あいつ希ちゃん一筋だから」
必死で取り繕う俺に対し、希ちゃんは少しも取り乱さなかった。だから想像もしていなかったのだ。希ちゃんが佐伯と主任の経緯を承知の上で、佐伯がまだ主任を想っていると誤解したまま結婚したことも、主任への想いが消えたら指輪が欲しいと頼んでいたことも。
「主任さんは七夕の日に別れた人ですよね」
その言葉に愕然とした俺にはもうなす術がなかった。とにかくすぐに会社に戻り、
「痴話喧嘩を仕事に持ち込まないで。和成じゃないとこっちは駄目なのよ?」
渋る主任を強引に納得させて佐伯を家に帰した。自分だって仕事中に部下の下の名前なんか呼んでんじゃねーよと、腹の中で毒づきつつ佐伯の業務の続きに取りかかる。
「最後の晩餐は何にしましょうか。そう言われたときは本当にこの世の終わりかと、目の前が真っ暗になったよ」
翌日無事に誤解が解け、真の意味で夫婦になれたと照れ臭そうに報告してきた佐伯に、俺はよかったなと肩を叩いてから口を開いた。
「希ちゃん、全部知っていたんだな」
それだけで何を指しているのか悟ったらしい。佐伯は真顔で頷いた。
「希さんとの始まりは、主任に振られた夜だから」
そうして紡ぎ出されたのは、佐伯が他の女性に贈る予定だった婚約指輪から始まる二人の今日までの道程。
「上手く言えないんだけど、もうとにかく希さんをこれでもかっていうくらい、幸せにしたくて仕方がない」
以前だったら馬鹿にしていたであろう台詞も、佐伯の希ちゃんへの想いの深さが伝わって胸に響く。だからこそ一抹の不安が過ぎる。昨日佐伯から引き継いだ業務の一部は、奴でなくても充分こなせるものであったし、主任と共に残業をする必要がないものもあった。おそらく佐伯も勘づいているのだろう。だから体調を崩すほど悩んだのだ。主任が移動してきたことを希ちゃんに話すべきか否か。誤解を恐れるばかりではなく。
ようやく佐伯の左手の薬指に光った約束の証をみつめながら、これからの二人に何事も起こりませんようにと、柄にもなく祈る俺だった。
「結婚指輪はどうした?」
希ちゃんの希望とはいえ、結婚式も新婚旅行もせず入籍だけで済ませた二人。それが悪いわけではないが、その上左手の薬指まで空いているとなると、さすがに何か問題が起きているのではないかと疑ってしまう。
「仕事中は外してるんだ」
佐伯は特に表情を変えずに答えた。そういう男はいるので別に驚かない。でも先日飲んだ帰りに佐伯の家に立ち寄ったとき、希ちゃんの薬指にも指輪がなかったのを認めた。金属アレルギーがあるならいざ知らず、そういった「形」にこだわる女が普段外しているのは珍しい。
「まだ慣れていないみたいだよ」
元々あまりアクセサリーは身に着けない人だから。佐伯があっけらかんと言うものだから、俺はすんなりその嘘を真に受けた。
二人が結婚して一年が経とうという頃、主任が上司として赴任してくるという内示が出た。前回この地を離れたのは、業務成績の芳しくない支社の底上げを兼ねていたという話だったが、がっちり数字を上げての事実上の凱旋らしい。
「大丈夫なのか?」
希ちゃんはともかく佐伯は彼女にべた惚れだから、心配はないと思いつつも念のため確かめてみた。転勤に合わせて結婚した主任が、離婚してフリーとなって戻ってくるからだ。やけぼっくいに火が点かないとも限らない。
「俺はとっくに吹っ切れている。仕事に支障はきたさないよ」
淀みなく言い切る佐伯。その迷いのない顔つきが証明する通り、主任の赴任後一緒に組んで外回りする機会が多くても、接待等で朝から晩まで共に過ごしても、佐伯が動揺することも主任との復縁を望むことも全く無かった。
むしろ俺が危惧したのは厄介なことに主任の方だった。どこがとははっきり断言できない。ただ以前はなかった仕事のパートナーに接する態度とは微妙に違う、佐伯への依存のような執着のような匂いがした。当時二人がつきあっていたことは内密にしており、幸い社内でその事実を知る者は殆どいない筈なのに、不穏な噂がまことしやかに囁かれているのも不吉だ。
「気をつけろよ」
佐伯がどう感じているかは知らないが、時を同じくして体調を崩し始めたことを受け、俺は一応釘を刺した。しかし残念ながら既に遅かった。佐伯が結婚指輪を外していたことから、二人は「不倫」ではなく「本気」の恋愛をしているという噂があっという間に広がり、会社近くの喫茶店で奴と主任を眺める希ちゃんの姿を見つけたときは、本気でしくじったと舌打ちしたい気分だった。しかも希ちゃんに付き添っていた総務の先輩だという女が、彼女は離婚も辞さないつもりだと息を巻く。
俺はその一言に自分でも意外なほど慌てていたらしい。総務の女の誘導尋問にあっさり引っかかった。そしてとにかくこの場を丸く収めようと焦るあまり墓穴を掘った。
「昔はともかく、今は本当にただの上司と部下だから。あいつ希ちゃん一筋だから」
必死で取り繕う俺に対し、希ちゃんは少しも取り乱さなかった。だから想像もしていなかったのだ。希ちゃんが佐伯と主任の経緯を承知の上で、佐伯がまだ主任を想っていると誤解したまま結婚したことも、主任への想いが消えたら指輪が欲しいと頼んでいたことも。
「主任さんは七夕の日に別れた人ですよね」
その言葉に愕然とした俺にはもうなす術がなかった。とにかくすぐに会社に戻り、
「痴話喧嘩を仕事に持ち込まないで。和成じゃないとこっちは駄目なのよ?」
渋る主任を強引に納得させて佐伯を家に帰した。自分だって仕事中に部下の下の名前なんか呼んでんじゃねーよと、腹の中で毒づきつつ佐伯の業務の続きに取りかかる。
「最後の晩餐は何にしましょうか。そう言われたときは本当にこの世の終わりかと、目の前が真っ暗になったよ」
翌日無事に誤解が解け、真の意味で夫婦になれたと照れ臭そうに報告してきた佐伯に、俺はよかったなと肩を叩いてから口を開いた。
「希ちゃん、全部知っていたんだな」
それだけで何を指しているのか悟ったらしい。佐伯は真顔で頷いた。
「希さんとの始まりは、主任に振られた夜だから」
そうして紡ぎ出されたのは、佐伯が他の女性に贈る予定だった婚約指輪から始まる二人の今日までの道程。
「上手く言えないんだけど、もうとにかく希さんをこれでもかっていうくらい、幸せにしたくて仕方がない」
以前だったら馬鹿にしていたであろう台詞も、佐伯の希ちゃんへの想いの深さが伝わって胸に響く。だからこそ一抹の不安が過ぎる。昨日佐伯から引き継いだ業務の一部は、奴でなくても充分こなせるものであったし、主任と共に残業をする必要がないものもあった。おそらく佐伯も勘づいているのだろう。だから体調を崩すほど悩んだのだ。主任が移動してきたことを希ちゃんに話すべきか否か。誤解を恐れるばかりではなく。
ようやく佐伯の左手の薬指に光った約束の証をみつめながら、これからの二人に何事も起こりませんようにと、柄にもなく祈る俺だった。
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