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本編
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赤ちゃんのお陰で一件落着という雰囲気が漂っていたけれど、結果的に何一つ解決はしていなかった。主任さんが直々に我が家に足を運ぶことはないけれど、和成さんのサイン入り離婚届が再び届いたからだ。今度は最初の頃と同じようにちゃんとポストに投函されたものだ。しかも「木村早苗」と差出人名もしっかり。もしかしたら私が主任さんの名前を認識していなかったことが、こういう形で尾を引いているのかもしれない。
無記名で白紙の手紙が届き始めた頃、和成さんはそれが主任さん絡みだろうとすぐに察したそうだ。消印が全て一緒に営業に訪れた地のものだったので、おそらく自分に気づかせるためではないかと考えたらしい。私にそのことを黙っていたのは、できれば自分の力で解決したかったのと、私が「いらないところに勘が働く」ことが原因。
「やっぱり主任とよりを戻すと勘違いして、今度こそ出ていかれるんじゃないかと気が気ではありませんでした」
近いことは考えていたので頭が上がらない。でもちゃんと和成さんの話を聞くまでは勝手な行動は慎みましたよ?
「嬉しかったです」
希ちゃんが格好良かったと興奮した島津から聞きました、と続ける和成さん。主任さんが例の離婚届を私に持ってきた日、
「和成がもう話したの? あなたと別れて私とやり直すこと」
そう言った彼女に、和成さんが同じ旨の話をしたとき信じると私が告げたことを指しているらしい。
「だって和成さんは私に嘘はつきませんから」
それが私にとって辛い事実でも。私と別れて主任さんとやり直すと決めたなら、それを隠して誤魔化すような人じゃないと知っている。
「一つ訂正入れます。希さんに、じゃありません。希さんだけに、です」
和成さんは大人気なくむすっと口をへの字に曲げている。赤ちゃんができて母性本能が刺激されているのか、そんな和成さんが可愛くて堪らない。ついいいこいいこするように頭を撫でると、和成さんは片手で顔を覆ってしまった。怒ってしまったのだろうか?
「あなたは俺を喜ばせるのが上手すぎます」
ほんのり赤らんだ頬を見せられてほっとする。
「そんな和成さんがとっても愛しいです」
ふふっと笑んで答えたら何故か今度は両手で頭を押さえてしまった。
「無自覚なんだから! こんなことをさらっと言えてしまうのに、どうして長いこと俺の気持ちには気づかないんですか…」
三ヶ月に入った。赤ちゃんができたのは嬉しいけれど、悪阻は日増しに酷くなってゆく。最初のうちは食べると吐いていたのに、段々水を飲むだけでも吐くようになり、終いには何も口にしなくても吐き続けるようになった。胃は空っぽなので殆どが胃液。
困って実家の母に電話してみたら、
「お兄ちゃんのときは同じで苦しかったね。逆にあんたのときは悪阻らしい悪阻がなかったわ。だからきっと男だよ」
解決策を通り越して赤ちゃんの性別を断定されてしまった。でもそこで和成さんに似た男の子だったらいいな、とのほほんと思ってしまう私はやはりこの母の娘だ。
健診のときに先生に相談すると、あまり症状が重いときは外来で点滴をしたり、入院治療をすることもあるからと教えられた。悪阻は生理現象だけれど、治療が必要なほど重症化する場合もあるそうで、その状態を妊娠悪阻と呼ぶらしい。
「赤ちゃんに影響はないから大丈夫ですよ」
吐き続けることも辛いものの、食事を殆ど取っていないことで赤ちゃんが苦しまないのかが心配だったので、それを聞いてちょっと安心した。その日は外来で点滴を受けたせいか、いつもよりも吐く回数が少なかった。
「無理は絶対しないで下さいね」
毎日仕事で疲れているのに、家事も疎かで横になってばかりいる私を、和成さんはいつも労わってくれる。その優しさはもちろん本物だけれど、まだたまに届く離婚届にきっと責任も感じているんだと思う。
「ストレスになってますよね」
和成さんが気にかけてくれるけれど、赤ちゃんや悪阻のことでいっぱいいっぱいの現在は、そんなことにあまり構っていられないというのが本音だ。差出人名は相変わらず書いてあるし、おそらく今手元にある分が無くなったらさすがに止めてくれるだろう。絶対もう役所に行きづらい筈だもの。
「実は希さんに話そうか迷っていたんですが」
今この瞬間も迷っているような素振りで、和成さんが通勤用の鞄の中から白い封筒を取り出した。うっすら文字らしきものが写っていたので、例の和成さんのサイン入りの婚姻届かと踏んでいたら、広げられた用紙は確かに婚姻届ではあるものの、そこに記されていたのは全く憶えのない名前だった。
「証人…じゃないですよねぇ?」
名前は男性のものだけで女性のところは白紙のままだ。封筒も真っ白なので和成さんが直接受け取ったのだろうか。
「会社に俺宛で届いたんです。取引先の封筒に入って」
今度のターゲットは和成さんだということ? しかも相手は取引先の男。
「まさか和成さんが前につきあっていた…」
「ありません! 変な想像はやめて下さい!」
皆まで言わせずに慌てて遮る和成さん。はーっと息を吐いてからぼそっと呟く。
「俺の記憶違いじゃなかったら、たぶん主任のご主人だった人の名前かと…」
「え? 三角関係?」
そこで込み上げくるものを押さえられなくなり、私はいきなりトイレに駆け込んだ。背後で大丈夫ですか? でもどうしてそうなるんですか! という和成さんの嘆きが聞こえた。
無記名で白紙の手紙が届き始めた頃、和成さんはそれが主任さん絡みだろうとすぐに察したそうだ。消印が全て一緒に営業に訪れた地のものだったので、おそらく自分に気づかせるためではないかと考えたらしい。私にそのことを黙っていたのは、できれば自分の力で解決したかったのと、私が「いらないところに勘が働く」ことが原因。
「やっぱり主任とよりを戻すと勘違いして、今度こそ出ていかれるんじゃないかと気が気ではありませんでした」
近いことは考えていたので頭が上がらない。でもちゃんと和成さんの話を聞くまでは勝手な行動は慎みましたよ?
「嬉しかったです」
希ちゃんが格好良かったと興奮した島津から聞きました、と続ける和成さん。主任さんが例の離婚届を私に持ってきた日、
「和成がもう話したの? あなたと別れて私とやり直すこと」
そう言った彼女に、和成さんが同じ旨の話をしたとき信じると私が告げたことを指しているらしい。
「だって和成さんは私に嘘はつきませんから」
それが私にとって辛い事実でも。私と別れて主任さんとやり直すと決めたなら、それを隠して誤魔化すような人じゃないと知っている。
「一つ訂正入れます。希さんに、じゃありません。希さんだけに、です」
和成さんは大人気なくむすっと口をへの字に曲げている。赤ちゃんができて母性本能が刺激されているのか、そんな和成さんが可愛くて堪らない。ついいいこいいこするように頭を撫でると、和成さんは片手で顔を覆ってしまった。怒ってしまったのだろうか?
「あなたは俺を喜ばせるのが上手すぎます」
ほんのり赤らんだ頬を見せられてほっとする。
「そんな和成さんがとっても愛しいです」
ふふっと笑んで答えたら何故か今度は両手で頭を押さえてしまった。
「無自覚なんだから! こんなことをさらっと言えてしまうのに、どうして長いこと俺の気持ちには気づかないんですか…」
三ヶ月に入った。赤ちゃんができたのは嬉しいけれど、悪阻は日増しに酷くなってゆく。最初のうちは食べると吐いていたのに、段々水を飲むだけでも吐くようになり、終いには何も口にしなくても吐き続けるようになった。胃は空っぽなので殆どが胃液。
困って実家の母に電話してみたら、
「お兄ちゃんのときは同じで苦しかったね。逆にあんたのときは悪阻らしい悪阻がなかったわ。だからきっと男だよ」
解決策を通り越して赤ちゃんの性別を断定されてしまった。でもそこで和成さんに似た男の子だったらいいな、とのほほんと思ってしまう私はやはりこの母の娘だ。
健診のときに先生に相談すると、あまり症状が重いときは外来で点滴をしたり、入院治療をすることもあるからと教えられた。悪阻は生理現象だけれど、治療が必要なほど重症化する場合もあるそうで、その状態を妊娠悪阻と呼ぶらしい。
「赤ちゃんに影響はないから大丈夫ですよ」
吐き続けることも辛いものの、食事を殆ど取っていないことで赤ちゃんが苦しまないのかが心配だったので、それを聞いてちょっと安心した。その日は外来で点滴を受けたせいか、いつもよりも吐く回数が少なかった。
「無理は絶対しないで下さいね」
毎日仕事で疲れているのに、家事も疎かで横になってばかりいる私を、和成さんはいつも労わってくれる。その優しさはもちろん本物だけれど、まだたまに届く離婚届にきっと責任も感じているんだと思う。
「ストレスになってますよね」
和成さんが気にかけてくれるけれど、赤ちゃんや悪阻のことでいっぱいいっぱいの現在は、そんなことにあまり構っていられないというのが本音だ。差出人名は相変わらず書いてあるし、おそらく今手元にある分が無くなったらさすがに止めてくれるだろう。絶対もう役所に行きづらい筈だもの。
「実は希さんに話そうか迷っていたんですが」
今この瞬間も迷っているような素振りで、和成さんが通勤用の鞄の中から白い封筒を取り出した。うっすら文字らしきものが写っていたので、例の和成さんのサイン入りの婚姻届かと踏んでいたら、広げられた用紙は確かに婚姻届ではあるものの、そこに記されていたのは全く憶えのない名前だった。
「証人…じゃないですよねぇ?」
名前は男性のものだけで女性のところは白紙のままだ。封筒も真っ白なので和成さんが直接受け取ったのだろうか。
「会社に俺宛で届いたんです。取引先の封筒に入って」
今度のターゲットは和成さんだということ? しかも相手は取引先の男。
「まさか和成さんが前につきあっていた…」
「ありません! 変な想像はやめて下さい!」
皆まで言わせずに慌てて遮る和成さん。はーっと息を吐いてからぼそっと呟く。
「俺の記憶違いじゃなかったら、たぶん主任のご主人だった人の名前かと…」
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そこで込み上げくるものを押さえられなくなり、私はいきなりトイレに駆け込んだ。背後で大丈夫ですか? でもどうしてそうなるんですか! という和成さんの嘆きが聞こえた。
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