空っぽの薬指

文月 青

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本編

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当事者の私や三条さんよりも、他ニ名の方が遥かに動揺を隠せなかった。仕事柄緊急事態であっても落ち着いて対処し、言葉運びも得意な営業担当が、おろおろしながら私と三条さんを見比べている様は、ある意味かなり貴重だと思う。

「拓也、あなた、本気?」

十分ほど経過しただろうか。心底ありえないといった表情で、唇を戦慄かせる主任さん。

「もちろん」

三条さんは口元を綻ばせ、変わらずに私だけをみつめている。何だか居心地が悪い。

「私じゃなく、この娘が?」

「おそらく」

直接好意を現す言葉が出ていないのに、それらしいニュアンスになるのはどんなマジックなんだろう。

「どうして? 拓也も和成もこんな人のどこが」

「煩い」

主任さんが喚き出したとき、それを遮るようなぼそっとした呟きが聞こえた。次の瞬間空気の流れが止まったリビングに、ばんとテーブルを叩きつける音が響く。

「いい加減にしろ!」

徐に和成さんが立ち上がった。カップがかちゃんと音を立て、褐色の液体が波打つ。

「かず…なり?」

呆然と和成さんを見上げる主任さんの左手から乱暴に指輪を抜き取り、主を失った私の薬指にそっと返す。

「和成、一体…」

つきあいの長い主任さんでもこんな和成さんは初めてなのだろう。部下であり元恋人の豹変した姿を唖然として眺めている。私も声を荒げるだけならいざ知らず、ここまで怒りを顕にした和成さんは見たことがない。

「痴話喧嘩なら余所でやって下さい」

恐ろしい形相で主任さんを射抜く。

「母が何を言ったのか知りませんが、俺が添い遂げたいのも子供を産んで欲しいのも指輪を贈りたいのも! 希さんだけです。他のひとなんかいりません」

明らかに顔を引きつらせる主任さんに、和成さんは容赦なく一気に捲くし立てたと思うと、今度は悠然と構えている三条さんに視線を合わせた。

「希は私の大切な妻です。気安く名前を呼ぶのも、ましてや冗談でも求婚などという真似はやめて頂きたい。主任も含めて二度と関わることは許しません」

「和成、あなた、正気?」

弱々しく抗議する主任さん。

「もちろんです。勘違いしないで下さい。希さんが俺に主任の悪口を言わせたくないと願ったから、俺もあえてあなたを野放しにしていただけで、同じ気持ちでも庇っていたわけでもありません。会社に迷惑がかからなければ、とっくに警察に行っています。自分が何をしたと思っているんです」

こんなときまで言葉が丁寧なのが、和成さんらしいというか何というか。

「なるほど。の、奥さんは佐伯さんのものなのですね」

主任さんへの矛先をまるで自身に向けさせるかのように、三条さんがふんわりと笑む。

「いいえ」

けれど即答した和成さんにすぐに眉を顰めた。

「希が私のものなのではありません。私が希のものなんです」

元夫婦が揃って瞠目する。

「さっき三条さんも仰いましたが、主任がどれだけ非道な行いをしようと、あなたが熱烈なプロポーズをしようと、希は一切ぶれません。自分の信念を貫きます」

時々別方向に走っていこうとしますが。補足して和成さんはゆっくりと腰を下ろし、右手で私の頬に触れた。

「希さんが俺を捕らえて離さないんです。結婚してもなお、焦がれているのは俺の方」

語る声からもみつめる双眸からも、もの凄く甘い雰囲気がだだ漏れで、さすがの私もたじたじ。和成さん、人前ですよ?  

ふぅっと息を吐いて三条さんが瞼を閉じた。やがてそれが開いたときには、眼差しは優しい色に戻っていた。

「大変失礼を致しました。今日のところは遅いですしこれで。改めてお詫びに伺います」

立ち上がって深々と頭を下げ、もはや嫌味ですら出てこない、毒気を抜かれた主任さんの肩を抱いて帰ってゆく。胸の中に残るこの違和感みたいなものは何だろう。星の瞬く熱帯夜。寄り添う二人はやっぱりお似合いなのに、左手の薬指は空っぽのまま。

「育ててもらった恩はあるけれど、影で嫁いびりするような人は親じゃない。縁を切らせてもらう」

見送ってリビングに戻ってみれば、またまた和成さんの怒声。きっと相手はお義母さん。

「それは嫁いびりではないんですよ」

訂正すると同時に通話を終えた和成さん。肩で荒く息をしながらも、すぐに私に駆け寄ってきてソファに座らせた。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃねーよ」

「え?」

和成さんの鳩が豆鉄砲を食らったような表情に、私は我慢できずに吹き出した。あまりにも深刻な様子だったので、ちょっと場を和ませようとしたのだけれど、よほど意表を突かれたみたいだ。

「全くあなたは…。いつもいつも」

緩く私を抱き締めて首筋に顔を埋める。体を労ってくれているのだろう。微かに力が込められる。

「傷つけてばかりですみません」

今回の出来事の発端となる一連の件も含め、他の誰でもなく浅はかな自分に一番腹が立つと、和成さんは苦し気に肩で息をついた。吐き出すだけ吐き出してすっきりしたようには見えない、そんな彼の背中をぽんぽんと叩く。

「希さんに話さなくてはいけないことがあります」

やがてゆるゆると顔を上げた和成さんは、まだどこか迷いは残していたものの真っすぐに私の目を見た。

「今日のことは、俺と三条さんで仕組んだことです」

違和感の正体はこれだろうか。頭の片隅でそう考えつつ私は和成さんの言葉に耳を傾けた。



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