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本編
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主任さん以外の面々はしばらく呆然としていた。薬指に光る指輪をうっとりと眺める彼女は、妙な表現だがまるで少女のようで、はにかんだその笑顔がとても可愛らしい。びしっとしている姿しか見たことがなかったから、勝手にそういう人なのだと決めつけていたけれど、もしかしたら仕事柄強くあらざるを得なかったのかもしれない。
「君はこんな非常識な人間だったかな」
一早く我に返った三条さんが、指で目元を押さえながらため息をついた。
「私の物を盗ったのはこの娘よ」
主任さんは楽しそうに微笑む。この場合指しているのは指輪なのか和成さんなのか両方なのか。盗ったというよりはお義母さんの言うように、しゃしゃり出たの方が正解に近いような。とりあえず「お馬鹿ちゃん」が外れるのは大歓迎。
「最初に佐伯さんに別れを告げたのは誰だ?」
穏やかなのに三条さんの声は冷たい。
「それは自分が悪かったと後悔してるし、結婚した和成の邪魔をするつもりもなかった。でも和成が全然幸せそうに見えないんだもの」
隣からの和成さんの視線が痛い。たぶん私が良からぬ思考に捕らわれないか見張っているに違いない。さすがに気まずくなって私は一旦立ち上がった。
「お茶を淹れ直しますね」
誰も手を付けていない冷めた湯のみをお盆に乗せる。すみませんと謝る三条さんとは対照的に、
「あら、さすがお茶汲みに会社に来ていただけあるわね」
主任さんはにっこりと蕩けるような笑みを向けた。男の人だったらいちころになりそうだ。恐る恐る和成さんを振り返ると、不機嫌さを隠しもせずにこちらを凝視している。腐っても元祖エスパー。私の考えなんてお見通し。大丈夫です。和成さんも主任さんに胸キュン…なんてとっくに思っていますから。じゃなくて思っていませんから。
「とにかくそれはお返ししなさい」
今度はコーヒーを淹れて各々に配っていたら、三条さんが主任さんの左手首を掴んで優しく諭した。
「こんなやり方はいけない。佐伯さんにも嫌われてしまうよ?」
「拓也は煩い」
拗ねたような主任さんがこれまた可愛い。子供のようだ。それにこの二人、何だかんだ言って真子先輩達並みにいいコンビだと思う。
「残念だけどこの娘じゃ仕事も家庭も和成のアシストはできない。和成はまだまだ上を目指せる。足を引っ張るのは許せないのよ」
「あなたの目は節穴ですか、木村主任」
お盆を置いてソファに沈んだ私を確かめるなり、厳しい顔つきで主任さんに向き直る三条さん。
「少なくともこの状況で一番不安なのは希さんの筈です。なのにこの面子の中で一番冷静なのも彼女です。見かけに反してかなり肝の据わった方だ。おそらくそれなりに仕事も捌いていたでしょう。違いますか、佐伯さん」
次に和成さんに問いかける。
「いえ、おそらく推察通りだと思います。結婚後に上司を含む総務の者数名から、業務が捗らないので復帰させて欲しいと懇願されましたから」
後ろめたそうに和成さんは小声で認めた。それを聞いて三条さんは満足げに頷いた。私は総務の人達に評価を受けていたことにもびっくりしたが、その事実を和成さんが伏せていたことにもびっくりした。外に出したくないって本当に本当だったのだ。
「でもたかが総務じゃないの」
主任さんの目が一瞬にして険しくなった。いつもの凛々しい彼女に変化する。圧倒的に男性が多い部署で好成績を上げ、更に部下の育成にもあたる人だ。仕事に対する姿勢は簡単に真似できないだろう。
「会社のために日夜走り回って頭を下げて、炎天下や寒空の下必死で仕事を取ってくる営業と、天候に左右されない社内で時間にも追われず、のんびり書類整理に勤しむ総務を一緒にしないで」
「希さんはどう考えますか?」
三条さんが唐突に私に話題を振った。これは私が在社中も絶えず繰り返された、平行線を辿る議論だ。どちらが欠けても会社が回らない、というのは甘いだろうか。
「お馬鹿さんが二人になってしまったわね」
私が答えあぐねていると、主任さんが呆れたように鼻を鳴らした。
「そういえば拓也はその娘にプロポーズしたんだったわね。役に立ちそうにないわよ。どうするの?」
今回の一件の対策を練るために集まった筈が、本来の目的を大きく逸脱して、どんどん収拾がつかなくなっている。でも私の欲目かもしれないけれど、主任さんは和成さんではなく、むしろ三条さんにこだわっているように見えるのは気のせいだろうか。
「希さんは魅力的な女性ですよ」
それまで主任さんを押さえていた三条さんも、堪忍袋の尾が切れたらしい。いきなりとんでもないことを言い始めた。目を瞬く私を余所に、主任さんと和成さんが同時に息を呑むのが分かった。
「希さんといると、不思議と肩の力が抜けて呼吸が楽になるんです」
誰かに同じようなことを言われた記憶がある。
「こんなとき希さんならどうするだろう。そんな期待をしている自分がいます」
その言葉にも憶えがあるせいか、隣から冷気が漂ってくるのを感じた。
「希さん」
三条さんは何故か愛しげに私をみつめた。
「本気で私と縁を結びませんか」
主任さんと和成さんが完全に凍りついた。偶然にせよ、二度目のプロポーズまで再現された私は、うーんと唸るしかない。今日もデジャヴデーですよ、三条さん。
「君はこんな非常識な人間だったかな」
一早く我に返った三条さんが、指で目元を押さえながらため息をついた。
「私の物を盗ったのはこの娘よ」
主任さんは楽しそうに微笑む。この場合指しているのは指輪なのか和成さんなのか両方なのか。盗ったというよりはお義母さんの言うように、しゃしゃり出たの方が正解に近いような。とりあえず「お馬鹿ちゃん」が外れるのは大歓迎。
「最初に佐伯さんに別れを告げたのは誰だ?」
穏やかなのに三条さんの声は冷たい。
「それは自分が悪かったと後悔してるし、結婚した和成の邪魔をするつもりもなかった。でも和成が全然幸せそうに見えないんだもの」
隣からの和成さんの視線が痛い。たぶん私が良からぬ思考に捕らわれないか見張っているに違いない。さすがに気まずくなって私は一旦立ち上がった。
「お茶を淹れ直しますね」
誰も手を付けていない冷めた湯のみをお盆に乗せる。すみませんと謝る三条さんとは対照的に、
「あら、さすがお茶汲みに会社に来ていただけあるわね」
主任さんはにっこりと蕩けるような笑みを向けた。男の人だったらいちころになりそうだ。恐る恐る和成さんを振り返ると、不機嫌さを隠しもせずにこちらを凝視している。腐っても元祖エスパー。私の考えなんてお見通し。大丈夫です。和成さんも主任さんに胸キュン…なんてとっくに思っていますから。じゃなくて思っていませんから。
「とにかくそれはお返ししなさい」
今度はコーヒーを淹れて各々に配っていたら、三条さんが主任さんの左手首を掴んで優しく諭した。
「こんなやり方はいけない。佐伯さんにも嫌われてしまうよ?」
「拓也は煩い」
拗ねたような主任さんがこれまた可愛い。子供のようだ。それにこの二人、何だかんだ言って真子先輩達並みにいいコンビだと思う。
「残念だけどこの娘じゃ仕事も家庭も和成のアシストはできない。和成はまだまだ上を目指せる。足を引っ張るのは許せないのよ」
「あなたの目は節穴ですか、木村主任」
お盆を置いてソファに沈んだ私を確かめるなり、厳しい顔つきで主任さんに向き直る三条さん。
「少なくともこの状況で一番不安なのは希さんの筈です。なのにこの面子の中で一番冷静なのも彼女です。見かけに反してかなり肝の据わった方だ。おそらくそれなりに仕事も捌いていたでしょう。違いますか、佐伯さん」
次に和成さんに問いかける。
「いえ、おそらく推察通りだと思います。結婚後に上司を含む総務の者数名から、業務が捗らないので復帰させて欲しいと懇願されましたから」
後ろめたそうに和成さんは小声で認めた。それを聞いて三条さんは満足げに頷いた。私は総務の人達に評価を受けていたことにもびっくりしたが、その事実を和成さんが伏せていたことにもびっくりした。外に出したくないって本当に本当だったのだ。
「でもたかが総務じゃないの」
主任さんの目が一瞬にして険しくなった。いつもの凛々しい彼女に変化する。圧倒的に男性が多い部署で好成績を上げ、更に部下の育成にもあたる人だ。仕事に対する姿勢は簡単に真似できないだろう。
「会社のために日夜走り回って頭を下げて、炎天下や寒空の下必死で仕事を取ってくる営業と、天候に左右されない社内で時間にも追われず、のんびり書類整理に勤しむ総務を一緒にしないで」
「希さんはどう考えますか?」
三条さんが唐突に私に話題を振った。これは私が在社中も絶えず繰り返された、平行線を辿る議論だ。どちらが欠けても会社が回らない、というのは甘いだろうか。
「お馬鹿さんが二人になってしまったわね」
私が答えあぐねていると、主任さんが呆れたように鼻を鳴らした。
「そういえば拓也はその娘にプロポーズしたんだったわね。役に立ちそうにないわよ。どうするの?」
今回の一件の対策を練るために集まった筈が、本来の目的を大きく逸脱して、どんどん収拾がつかなくなっている。でも私の欲目かもしれないけれど、主任さんは和成さんではなく、むしろ三条さんにこだわっているように見えるのは気のせいだろうか。
「希さんは魅力的な女性ですよ」
それまで主任さんを押さえていた三条さんも、堪忍袋の尾が切れたらしい。いきなりとんでもないことを言い始めた。目を瞬く私を余所に、主任さんと和成さんが同時に息を呑むのが分かった。
「希さんといると、不思議と肩の力が抜けて呼吸が楽になるんです」
誰かに同じようなことを言われた記憶がある。
「こんなとき希さんならどうするだろう。そんな期待をしている自分がいます」
その言葉にも憶えがあるせいか、隣から冷気が漂ってくるのを感じた。
「希さん」
三条さんは何故か愛しげに私をみつめた。
「本気で私と縁を結びませんか」
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