空っぽの薬指

文月 青

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本編

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暑い夏から徐々に秋の気配が漂い始めた。悪阻がすっかり治まって食欲旺盛な私は、ひたすらご飯を食べられる喜びを噛み締めている。お腹の赤ちゃんも順調に育っていて、出産予定日の三月が今から待ち遠しい。そういえば先日遊びに来た真子先輩と島津さんに、赤ちゃんのエコーの写真を見せてみたところ、

「これはエヴァンゲリオンか?」

「スティッチじゃないの?」

揃って人外の名を挙げたので、和成さんは思いっきりむくれていた。もっとも主任さんのことでずっと力になってくれた二人だから、本気で怒ったりはしないけれど。

主任さんはまだ幾分不安定で、相変わらず和成さんに執着を見せることもあるものの、業績アップに繋げる仕事の取り組み方やその手腕には、やはり目を瞠るものがあるそうだ。きっと三条さんの存在も影響しているのだろう。

あれから私にも白い封筒が届くことはなく、一連の出来事が終結を迎えたことをようやく実感した。それから一応保管していた記名済みの婚姻届は、再び使う日の為に持ち主にお返しした。二人の赤い糸が今度こそ解けないよう祈りつつ。

「未使用だったら真子先輩に渡しても良かったですね、婚姻届」

特に深い意味もなく呟いたら、真子先輩はあっさり首を横に振った。

「全く予定がないから。島んちょにでもあげれば?」

その台詞に何故か島津さんは目に見えるほど落ち込み、苦笑する和成さんにこっそり慰められていた。

「島津さんにそんな方がいるんですか?」

初耳だったのでびっくりして訊ねると、島津さんはもの凄い勢いで否定した。

「いないいない絶対いない!」

ふんと鼻を鳴らす真子先輩。

「どうだか。から揚げ十個と引き換えに、部屋に何人も女を連れ込んでるんじゃないの」

「ごりまこ、だからないって!」

縋りつく島津さんと突き放す真子先輩の姿に、和成さんは堪え切れずに後ろを向いて笑っている。この二人やはりいいコンビだと思うんだけれど。



穏やかな日曜日の午後。久しぶりにお弁当を持って和成さんと近所の公園に散歩に来た。以前訪れたのは葉桜の頃だっただろうか。あのときはこんなふうに手を繋ぐのが恥ずかしくて、でも離れると淋しくて。それを伝えたら和成さんに抱き締めたくなるでしょう、なんて言われたっけ。

「どうしました?」

ひとりでに笑いが洩れていたらしい。和成さんが不思議そうに私の顔を覗き込んだ。

「カップルみたいだな、と」

一瞬きょとんとした後にふっと口元に笑みを浮かべる。

「夫婦なのに」

憶えていてくれたのだろう。そうして春と同じ木陰にシートを敷き始めた。あの日のようにお弁当を広げて食べていると、数組いる家族連れの子供達が元気に走り回っている。

「来年は三人で来れますね」

横を通り過ぎる子供達に、和成さんは柔らかな視線を向けた。澄み切った青空と一緒に吹き抜けてゆく風が気持ちいい。

「そうですね」

そっとお腹に手を添えて頷く。和成さんは私との縁を深めるきっかけとなった卵焼きを頬張りながら、気を悪くしないで下さいねと断って唐突に話題を変えた。

「正直、三条さんに少しだけ嫉妬していました」

恥ずかしそうに頭を掻きながら続ける。

「希さんと三条さんが妙に意思の疎通ができている感じで」

確かにそれはあったかもしれない。お互いの大切な人が別の相手に心を寄せていたという点で、今回私と三条さんの立場は似たようなものだった。だから主任さんの為に取った無謀な行動も、良し悪しはともかく何となく分かる気がしたのだ。

「しかも希さんの本質も見抜いていたでしょう? 希さんが認められるのは純粋に嬉しいんですが、他の男に理解しているような態度を示されると、少々、いや大分面白くなかったです」

和成さんはそこでため息をついた。

「自分を棚に上げてすみません。俺、希さんの前だと何故かいつも格好悪くなってしまうんです。情けないところばかり晒してしまう」

「それは素の和成さんを出してくれているからではないのですか?」

だったら私は非常に嬉しいのですがとつけ加える。和成さんはぐっと言葉に詰まったものの、焦ったように言い募った。

「でもあなたの前だといつも余裕がなくて、今回も全然守ってあげられなくて」

「私は一方的に守られないといけないのですか?」

首を傾げながらの問いかけに、つられたのか和成さんまで首を捻ってしまう。

「難しいことは分かりませんが、どちらか一方だけが何かを背負うんじゃなくて、二人で守りあえば、あれ、この場合は支えあい? とにかく共に頑張れば良いのではないのですか」

「共に…」

ぽつりと呟く和成さんの目の前に私は左手の薬指を翳した。

「この約束通りに」

お揃いの指輪に刻まれているのは「with you」。病めるときも健やかなるときもあなたと共に。

「だからずっと私の、私とあなたの子供の傍らにいて下さいね、和成さん」

和成さんは困ったように俯いてしまった。

「すぐそうやって無自覚に煽るんだから」

やおら顔を上げた和成さんの顔には満面の笑み。どちらからともなく伸ばされた手を握り合う。

ずっとこうやって手を繋いで歩いていけたらいいですね? 和成さん。
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