彼女はいつも斜め上

文月 青

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番外編

この熱は風邪のせい 中

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額にひんやりとした何かがそっと乗せられた。朦朧とした意識の中薄目を開ければ、そこには珍しく不安気な水島の顔。

「まだ熱が高いですね」

落とされた呟きと共に額から何かが離れる。気持ちいいと感じたのは彼女の手だったらしい。

「大丈夫ですからね、脇坂」

その声に促されるように俺は何故か安心して眠りについた。



丈夫なだけが取り柄の俺が寝込んだのは、水島と行ったファン感謝祭から二日後のことだった。これまでは風邪をひいても、早めに横になれば翌日には元通りだったのに、今回は治るどころかだるいわ寒気はするわでベッドから起き上がることができず、大学も珍しく三日も休んでいた。

おそらく熱があるんだろうが、当然ながらうちには体温計も常備薬も存在しなければ、薬局まで買いに行く元気もない。そんなただ寝ているしかない俺を見かねたのだろう。涼はどうやら水島に看病を頼んだらしく、彼女は水曜日の学校帰りに大量の荷物を持ってうちを訪ねてきた。

「物があまりにもなくて、脇坂の部屋という雰囲気が出まくりです」

ぐったりして毒も吐けない俺に、褒められているのか貶されているのか開口一番そう言った水島は、パジャマ代わりのTシャツの首元から体温計を脇に挟み込む。しばし間を置いてぴぴっと小気味いい音が鳴った。

「三十八度七分です。よくただ寝ていられましたね」

取り出した体温計を確かめる水島の台詞に、急にだるさが増したような気がした。次に水島は室内を見回してキッチンに行くと、一つしかないマグカップに水を汲んでくる。

「とりあえずこれを飲んで下さい」

わざわざ買ってきてくれたのか、市販の風邪薬と一緒に差し出した。頭を持ち上げようとした俺の背中を腕で支え、ゆっくり上半身を起こしてゆく。女に助けられるのは非常に不本意だが、自分で自分が手に負えないのだから仕方がない。俺は渋々薬を口に含んだ。

「じゃあついでに着替えましょうか」

素直に従う俺に満足そうに頷いた水島は、空になったマグカップを受け取ると、今度はタオルと洗面器を用意して俺の隣に膝をついた。

「やめろ」

当然のように俺のTシャツを脱がしにかかる水島。兄貴で慣れているのだろうが、それでもお前には恥じらいというものがないのか。制服姿の女子高生とあられもない姿の大学生の攻防戦なんて誰が見たいんだ。

「何日着ているんですか。匂いますよ」

まさか俺は臭いのかと油断した隙に、水島はあっさり俺の服を取り上げた。虚しく抵抗を続けているのに、全く意に介さず、少し熱めのお湯に浸したタオルで手早く体を拭き始める。

「下はどうします?」

なす術もなくされるがままになっている俺に、唇の端を心もち上向ける水島。

「いらん!」

怒鳴ってはみたものの弱々しくて格好がつかない。まるで駄々をこねる子供のようで、情けなさのあまり肩を震わせている水島を睨みつけてしまう。

「疲れませんでしたか?」

笑いを噛み殺しつつ、ハンガーに干しっ放しだったTシャツを外してそっと頭から被せると、水島は再び俺をベッドに横たわらせた。

「少し休んで下さい」

自分は今しがた使った細々としたものを片付けにかかる。六畳一間のアパートでは、いちいち家主に聞かなくても、物の在り処が分かるのか。いや、あいつの台詞を借りれば、そもそも物がないんだったな。

俺は諦めて目を閉じた。食器が重なるかちゃかちゃという音や、水が流れる涼しげな音、洗濯機の回る音。いろんな生活音が耳に届く。

近所から流れてくることはあっても、自分の部屋で聞くことはなかったな。やがて風邪薬も効いてきたのだろうか。俺は水島が立てる音を子守歌に、いつしか深い闇に落ちていった。

浮上する意識のなか、久しぶりにご飯が炊ける匂いを嗅いだ気がした。母親に炊飯器を持たされた記憶はあるが、この部屋で使った試しはない。

「まだ熱が高いですね」

心配そうに俺の額に手を当てる水島。枕の代わりに頭の下にアイスノンが差し入れられる。そんなものまで準備してくれたのか。

「お粥を作りましたが、食べられそうですか?」

うっすら開けた瞼に問われ、俺はずっとまともに食事を取っていなかったことを思い出した。あまりの具合の悪さに、空腹かどうかも分からなくなっていたのだ。

後で。辛うじて絞り出した声はかなりかすれていた。それでももう少し眠りたいという願いは通じたらしい。

「食べられそうになかったら、無理しないで下さいね」

水島は頷いて俺の首筋をタオルで拭う。

「大丈夫ですからね、脇坂」

大学入学に合わせて、このアパートに移り住んで二年半。家事はともかく、一人には慣れたつもりだったが。

よもや女なんかを傍において…水島が帰らなかったことに安堵して、眠りにつく日がくるとは、さすがに想像していなかった。


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