そらのとき。~雨上がりの後で~

雨ノ川からもも

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🌈First time 彼と、にわか雨

彼女のいない非日常

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 *

 このところずっと、空が悲しい色に見える。
 あの日から、もう一週間が過ぎた。――彼女がいなくなって、一週間。

「――ほ」

 大和の母親が現場に到着し、救急車で運ばれたときには、まだ脈があった。彼女は生きようとしていたのだ。

 でも、間に合わなかった。
 間に合わなかった。

「志歩」

 あの対処が正しかったかどうかなんて、分からない。走り回って探してでも、大人に助けを求めるべきだったのかもしれない。
 でも……

「しーほ」

 慶太のやわらかい声に、ふっと現実へ引き戻された。

「あ、ごめん。なに?」
「手、力抜いて?」

 言われて初めて、彼の右手を強く、強く握りしめていたことに気づく。

「わっ、ごめん!」

 反射的に離した手を、彼はそっとつかまえると、自身の指とその指を交互に絡めた。

「恋人つなぎ」

 そう言って無邪気に笑う彼を見たら、こらえていたものがあふれだしそうになって、志歩は唇を痛いくらいにぎゅっと噛みしめる。

 泣くな。泣いていいのは私じゃない。私に、泣く資格なんてない。

 指先にかすかなぬくもりを感じながら、しばらく歩くと、慶太はいつもの曲がり角で足を止めた。

「もうちょっと一緒にいたいなぁ、って思ってる?」

 彼はこちらを振り向かず、相変わらず妙にやわらかい口調で尋ねてくる。まるで独り言みたいに。
 夕日を受けた栗色の髪が、金糸のように輝いて見えた。
 ずるい男だ。普段こんな台詞を口にしようものなら、片足でも踏みつけて終わりなのに。

「……答えなくたって分かってるでしょ?」

 こういうとき、素直に甘えられない自分は、きっと数えきれないほど損をしている。
 すると彼は何も言わずに、手をつないだまま、誰もいない、あの公園へと足を踏み入れた。
 瞬間、自分の中のすべてが拒絶する。

「……っ! 慶太、待って!」

 この場所はまだ、悲しみと恐怖のにおいが強すぎる。

「待たない」

 突き放すような冷たい口調とは正反対に、絡めた指はあたたかくて。
 茜色に照らされながら、導かれるままに進み、ふたりで木製のベンチに腰かけた。

「そばにいるから。な?」

 彼の優しげな問いかけに、志歩は小さくうなずいて距離を詰め、一度離れてしまった彼の手に自分の手を再び重ねる。
 ほんの短い間、静寂せいじゃくがふたりを包んだが、

「栞奈さ」

 やがて慶太が口を開いた。

「ちっちゃい頃から、心臓に疾患があったんだって」

 初めて耳にする事実に、息を呑む。彼女がわずらっていたというそこが、一度大きく波打った。

「……私ね」

 今度は、彼の話を遮るように、志歩が震える声で切り出す。
 そこから先は、どうしても聞きたくなかった。

「脈測ってから、栞奈ちゃんの手、離せなかったの。救急車が来るまで、ずっと。やらなきゃいけないこと、他にもあったはずなのに……」

 離せば、そこで消えてしまう気がしたのだ。か細く弱々しい、命のともしびが。
 慶太は何も答えず、彼女の肩を抱き寄せる。

「大和、大丈夫……かな」
「大丈夫だよ」

 大和は今日から学校に来る予定だったが、体調がすぐれないらしく欠席だった。無理もないだろう。

「会ったら、なんて言えばいいのかな……」
「言わなくていいんじゃない? なーんにも」

 俯いていた顔を上げると、すぐそばにいる彼と目が合った。
 無言で求められている気がして、そっとまぶたを閉じる。いや、求めていたのは自分のほうかもしれない。
 ゆっくりと、いたわるように引き寄せられ、彼の吐息を感じながら――

「……ごめん」

 触れ合う寸前で、罪悪感がまさった。
「やっぱり今はダメだと思う。こんなの、自分たちだけ酔いしれてるみたいで、やだ」
 苦しさから逃れようとするあまり、悲しみを美化してはいけない。ましてや、絶望の底から這い上がろうとしている人を、支えなければいけないはずの人間が。

「だったら泣けばいいのに」

 慶太がぽつりと呟いた一言に、志歩は目を見張る。

「悲しいのは、嘘ついてるわけでも、酔ってるわけでも、何でもない。本当のことじゃん」

 ――崩れた。

 いつになく寡黙かもくな彼の胸にすがって、幼い子供のように声を上げて泣いた。頬をつたい、唇を濡らすしずくは、温かくてしょっぱい。
 きっとキスをしても、同じ味がしたのだろう。

 *

 もしも、夢なら――
 トイレに行きたくて目が覚めた。
 また、だろうか。
 ベッドから体を起こし、恐る恐る指先で頬に触れると――やはり濡れている。

「……」

 大和は、ただ黙って、親指の腹に付着したしずくが消えていく様を見つめた。
 彼女が突然遠くにいってしまってから、ずっとこんなふうだ。眠りから覚めると、必ず涙を流している。

 あの日から、泣きたくても泣けないのに。

 彼女のいない毎日は、大和にとってすべてが非日常だった。
 朝起きたとき、食事のとき、そして、夜眠るとき。
 事あるごとに、もういないのだと痛感して胸が詰まるけれど、その苦しさが、切なさが、涙に変わることはない。
 それはきっと、認めたくないからだ。突然変わった現実を頭では理解しているつもりでも、心がついていかない。いつか、途方もなく長い、長い悪夢を見ていたと、彼女に笑って話せるときがくると、どこかでそう信じているから。
 体は泣けと言っている。けれど、この事実を心で受け止めない限りは、悲しむことすらできないのだ。

「バカかよ」

 自嘲じちょう気味に呟いて、枕もとに置かれた体温計を脇に挟む。
 しばらくすると、小さな電子音が鳴った。

「三十七度八分……」

 どうせ発熱するなら一気に上がってくれればいいのに、葬式が終わってから今日まで、ずるずると微熱を引きずっている。
 頭痛もするが、今ひとつどこが痛いのかはっきりせず、痛みの膜が頭全体を覆っているようで、かえって気持ちが悪い。
 おまけに、体はトイレに行くのも億劫おっくうなほどだるいのだ。できるだけ動きたくはないけれど、昼前にすっきりさせたきりの膀胱ぼうこうは、そろそろ限界だと訴えている。

「何なんだよ、もう」 
 
 大和は深いため息をつくと、一週間前の夜は彼女が寝ていた、二段ベッドの下段からおりて、トイレへ向かった。


 だるさと闘いながら用を足し、トイレから出ると、家の中は不気味なほど静まり返っていた。
 国語教師である父は、たしか今日から仕事に復帰している。
 いつも基本的に家事をこなしているはずの母の姿も、今は見当たらなかった。夕飯の買い物にでも行っているのかもしれない。

「さて、と」

 子供部屋へと続く階段の前に立つと、大和は気合を入れ直すようにそう声に出した。普段の二,三倍は長く感じられるそれに、立ちくらみさえ覚える。
 いっそリビングにあるソファーで寝てしまおうかとも思うけれど、それではろくに休める気もしない。

 意をけっして踏み出そうとした、そのとき。外から、緊張を掻き立てる耳障りな高音――救急車のサイレンが聞こえてきた。

「……っ!」

 とたんに、もやもやと控えめだった頭痛が存在を主張し始め、あまりの痛みにしゃがみ込んでしまう。
 救急車が間抜けに音を外して遠ざかっていった後も、乱れた気持ちは落ち着かないままで。
 心臓を強くつかまれたような苦しさとともに、あのときの記憶が鮮明によみがえってくる。

 ――冷たく、アスファルトを打つ雨。
 ――青白く、苦しげに歪んだ、彼女の顔。

 頭痛は一定のリズムを保ちながら次第に強さを増し、体までもが小刻みに震えだす。
 そのうち、意識が遠ざかっていくような感覚に見舞われ、呼吸さえ、うまくコントロールできなくなった。
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