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🌈First time 彼と、にわか雨
頬を濡らす想い
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「んん~、終わったぁ」
今日の分の宿題を終わらせ、解放感から背伸びをしていた結乃に、
「ねえ、ちょっと」
後ろから少し不機嫌そうな声がかかった。
「なに?」
お姉ちゃんが機嫌悪いなんてめずらしいなと思いながら、向かい側にある志歩の机まで歩いていく。すると、縦に長いベージュ色の小さな封筒を差し出された。
「これ、宿題終わったなら大和に渡してきて。明日の時間割」
唐突な依頼に、結乃は「え~」と眉間にしわを寄せる。
「お姉ちゃんが頼まれたんだから、自分で行ってきなよ」
「私は、五教科から出た課題をやっつけるのに忙しいんですぅ」
志歩は、広げた問題集の上でわざとらしくシャープペンをカチカチさせた。
「……しょうがないなぁ、もう」
渋々、姉の手から封筒を取り上げる。
「サンキュ」
小さく笑って礼を言うと、志歩は再び問題集に視線を落とす。
今日、途中で帰り道が分かれるはずの慶太と手をつないで帰ってきた彼女は、目の周りを赤く腫らしていた。
あんなことがあった後だ。結乃だってこんな役を引き受けるのは気が重いけれど、かなり弱っているようだし、今回だけは大目に見てあげよう。
「――」
か細い声に足もとを見ると、愛猫のソルトが海のように蒼い目でこちらを見つめていた。
「ちょっと行ってくるね、ソルト」
白くて綿のようにやわらかい毛並みに沿って背中を撫でてやると、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
ついてこようとするソルトを押しとどめながら廊下に出て、
「今度なんか奢ってよねっ!」
ドアの隙間から大声で志歩にそう言い残すと、結乃は気持ちが揺らがないうちに相馬家へ向かう。
きな粉色の封筒を手に玄関で靴を履き、いざ外へ。
小走りであっという間に目的地にたどり着いたが、
「どうしよう……」
勢いで来てしまったものの、あと一歩が踏み出せない。
だって、大和には栞奈の葬式以来会っていないのだ。彼は涙こそ見せなかったが、かなり憔悴した様子だった。
今も体調を崩しているようだし、一体どんな顔をすればいいのだろう。
「……悩んでたってしょうがない!」
結乃は自身を奮い立たせるように言って、インターホンを押す。
しばらく待ってみるが、反応はない。
「あれ……?」
もう一度押してみる。
やはり出てこない。
病院にでも行っていて留守なのだろうかと思いつつドアノブを引くと、開いた。鍵はかかっていないようだ。
「あの~」
ドアの隙間から中を覗くと、小さな声が聞こえてきた。まるで、幼い子供が泣きじゃくっているような……
思いかけてはっとする。違う。
泣いているんじゃない。
何かにおびえ、喉の奥が引きつったような息づかい――過呼吸だ。
「大和くん!?」
あわててドアを開け放つと、二階へと続く階段の前で、大和が頭を抱えてうずくまっていた。
「……っと」
私が焦ってどうする。落ち着け。
預かった封筒をひとまず下駄箱の上に放り、靴を脱ぐと、飛ぶようにして大和のそばへ駆け寄る。
「大丈夫だからっ!」
自分に言っているのか、大和に言っているのか分からない一言を叫び、結乃は、乱れた呼吸を必死に繰り返す彼の背中を抱え込むようにして座った。
「ゆっくり、ゆーっくり、息して」
声をかけながら、彼の背中に手を当て、そっと、慎重に押していく。
「ゆっくり、ゆっくり」
発作が始まってどれくらい経つのだろうか。もとから色白の肌は病的に青白くなり、触れた背中は少し熱い気がする。
頬が涙で濡れているのは、苦しさのせいではないのだろうと、そう思った。
*
「死ぬかと思った……」
三十分ほど経って発作がおさまり、やっと喋れるようになったときの第一声がそれだった。
自分の力ではコントロールできず、静かに流れ続けていた涙も、次第に乾いて消えていく。
事態に気づいてからずっとそばで声をかけ続けてくれていた結乃は、安心したように微笑むと、背中に回していた手をゆっくりと離す。
「大丈夫。過呼吸は二酸化炭素の不足が原因だから、きちんと対処すれば死ぬようなことはないよ」
穏やかな口調で説明され、さすが看護師の娘だなと思う。そういえば、志歩に対しても同じようなことを感じた。――あのときに。
「……何があったの?」
遠慮がちに尋ねられ、はっとした後、大和は思わず苦笑してしまう。
「あぁ……えっと――」
まさかこんなことになるなんて。それなりの事情があったとはいえ、ちょっと情けない。
「救急車のサイレン聞いたら、ちょっとパニックになっちゃって」
そう答えると、結乃は一瞬表情を曇らせたが、すぐさま思い出したように、「そっか……」とぎこちなく口角を上げる。
笑っていいのか戸惑いながら作られた笑顔は、滲み出る切なさを隠しきれていなかった。
「……何もできなかったんだよね、僕」
ほとんど無意識のまま口にした言葉に、また切なげに眉を下げる彼女。
「栞奈が苦しんでるのに、たった一回、名前呼ぶのが精一杯で」
力なく続けると、桜色の唇が何かを言いかけて、しかしためらうように結ばれた。
「母さんに状況説明したときだって、頭の中真っ白で何言ったか全然覚えてないし。ほんと、バカだよね……」
呆れから乾いた笑いを漏らした、そのとき、ふわりと、優しいぬくもりに包まれた。
「見てない。見ない。だから――」
耳もとにかかる吐息。まるで赤ん坊をあやすようにゆっくりと、リズムをつけて背中を叩く手。
「我慢しなくていいよ」
大和はその言葉を聞いてようやく、一度は止まったはずのものが、再び音もなく頬をつたっていることに気づいた。反射的にそれを拭おうとして――やめる。
今はただ、格好悪くてもいいから、彼女のぬくもりに甘えていたいと思った。
もう何も失いたくないと、このあたたかさだけは自らの力で守りたいと、そう思った。
抗うことを諦めたら、自然と嗚咽も大きくなる。
泣いた。ただひたすら、泣いた。年甲斐もなく、幼い声を漏らして泣き続けた。
泣いて、泣いて、疲れとともに落ち着きを取り戻し始めた頃、ゆっくりと体を離した結乃。と、その直後、一瞬目を見開き、囁く。
「ねぇ、大和くん」
訝しげにも聞こえるその響きに、少し不安を覚えつつ、泣きじゃくりながら「なに?」と尋ねた。
すると、くいと右手首を引かれる。
「ここ、かゆくない?」
彼女の言葉につられて、自分の右腕へ視線を落とす。そこには、明太子の表面のような赤い斑点が広がっていた。
「何だこれ……」
「かゆい?」
あらためて訊かれ、動揺を隠せないままうなずく。言われるまで気づかなかったけれど、蕁麻疹に似たかゆみがあった。
「私じゃ役に立てるか分からないけど、ちょっとみてみるね。とりあえず部屋に」
結乃はこんなアクシデントにも取り乱した様子はなく、そう言って立ち上がった。どうやら、彼女が大人びているのは、見た目だけではないらしい。本当に小学生なのだろうか。
まだ体のだるさとふらつきが残っていたので、彼女に支えられるようにして、ゆっくりと階段をのぼった。
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