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💧Life1 へそ曲がりと美少年
たった二文字の返事
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家に上がると、奥のリビングダイニングに通された。やっぱり室内も綺麗だ。
「どうぞ。座ってください」
そう言って「紅茶でいいですか?」と訊く純に「はい」と答え、テーブルについた。お湯が注がれる優しげで軽やかな音が、室内に満ちる。
「丈、どうですか?」
キッチンでお茶を淹れる背中に尋ねると、苦笑したのが息づかいで分かった。
「相当無理してましたね、ありゃ」
困り果てたような口調に、あまねはしゅんと肩をすくめる。
「すみません。私がもっと強く言えばよかったかな……」
「いえいえ、とんでもない。こちらこそ、あいつのわがままに付き合わせてしまって、申し訳ないです」
そんな会話をしているうちに紅茶ができたらしく、青い花と蔦模様が描かれたティーカップが目の前に差し出された。男ふたり暮らしなのに、こんなおしゃれなもの……でもまぁ、客用と考えればそれほど不自然でもないか。
「笹川さん――」
「あまねでいいですよ」
言うと、純はやわらかな笑みを漏らし、向かい側の席にティーカップをもうひとつ置いて、腰をおろした。
「あまねさん、さっき、秘密を握ったって言ってましたよね? もしかしてあいつ、病気のことを?」
「はい。病名くらいですけど」
素直に答えると、純は「すごいな」と目を丸くする。
「今まで絶対誰にも打ち明けたがらなかったのに」
尾行した上に小道具使って自白を強要しました、とはとても言えない。
代わりに、話題に出していいものかとためらいながら「それと、六年前の事故のことも簡単に……」と付け加えた。
「丈、だから死ぬのは怖くないって言ってました。向こうには亡くなった家族や、子供の頃かわいがってた愛犬がいるからって」
そこから家族のことに話がそれてしまったので、病状については詳しく聞いていないと伝えると、
「そうですか……」
純は呟いてティーカップに口をつけ、何か決意するように長く息をつく。そして話し始めた。
「丈って、響きだけ聞いたら外国人みたいな名前ですけど、文字通り、丈夫な子に育つようにって願いが込められてるんです。あいつ、早産だし、黄疸はひどいし、母乳はうまく飲めないしで、生まれたときから結構大変だったみたいで」
しかし、両親のそんな想いもむなしく、丈は病弱な子供だった。季節ごとに流行するウイルスには毎年必ずといっていいほど感染するし、風邪をこじらせて肺炎で入院するなんてこともしょっちゅうだったという。
「そんなふうだったから、あの雪の日も、インフルエンザにやられて寝込んでました。看病する人が誰もいなくなるからって、僕が駆り出されて」
そう言って、純は苦るように続けた。
「本来なら父ひとりで事足りるところを、どうして母までついていったのか……もうよく思い出せないんですよね。高熱に浮かされてる重病人を置いていくくらいですから、何かそれなりの理由があったはずなんですけど。せめて――」
そこで言葉を詰まらせ、心を落ち着けるように、またカップに口をつける。
――せめて母だけでも残っていてくれたら、途方もない悲しみを、兄弟ふたりで抱え込まずに済んだのに。
そんな本音が、紅茶と一緒に飲み込まれた気がした。
「肝心なことは思い出せないのに、丈と鞠が最後にどんなやり取りをしてたかだけは、妙にはっきり覚えてるんです。毬が丈のおでこに触れながら『姉ちゃん、センターやっつけてくるから、あんたもインフルなんてさっさとふっ飛ばしちゃいなさいよ』って言ったら、丈も『毬姉……がんばって……』って笑って。それまでフーフー苦しそうにしてたのに、すっと寝ちゃったんです」
純は「おかしいでしょ?」と淋しげに苦笑する。
「こんなこと、どうだっていいのに……」
かける言葉が見つからず、あまねはゆっくりと首を左右に振った。
「両親と鞠を失ってからは、とにかく必死でした。弔事や諸々のことが落ち着いた頃合いで実家を売りに出して、当時このマンションで同棲してた彼女がいたんですけど……それも解消して、丈を呼んだんです」
恋人との未来を捨ててまで、弟を守ることを選んだのか。
ひょっとしたらこのティーカップは、その彼女が置いていったものなのかもしれない。さっき覚えた違和感と一緒に、そんなことを思う。
「当時は何かと出費がかさんだせいもあって、僕の稼ぎだけで何十年ローンを払い続けるなんてとても無理だったし、頼れる身寄りもなかったので」
丈も同じようなことを言っていた。
今は亡き家族との思い出が詰まった家を手放す。のっぴきならない理由があったにせよ、苦渋の決断だったのだろう。
「お恥ずかしい話ですが、当時はトイレにこもってこっそり泣いたりもしてました。成人してたとはいえ、まだまだ子供でしたし、こう、いろいろ重くて。丈には『大きいほうしてた』とか適当にごまかしてましたけど……」
そう濁してから、「たぶんバレてたと思います」と情けなく笑う純。
詳細はよく分からないけれど、交通事故死だ。慰謝料とか――もしかしたら遺産相続とか、そういう問題もあったのかもしれない。
六年前――成人して間もない青年が、荒波に揉まれながら、小学生の弟を抱えて生きていくなんて。その苦労は筆舌に尽くしがたいだろう。並大抵のことではなかったはずだ。
それでも、優しい兄は「きっと、あいつも苦労してたんじゃないかな」と気遣うように呟く。
「もともと外で遊ぶより読書のほうが好きな子だったし、事故のことがあってから、引っ込み思案にますます拍車がかかったというか。僕の前ではそれなりに楽しんでるみたいな言い方してましたけど、孤立してたんだろうなって」
彼は切なげに眉を下げ、テーブルの隅に置かれた写真立てを見やった。
つられて目をやると、ひとりの女の子が、両親らしき男女に肩を抱かれ、桜吹雪の中で微笑んでいる。
象牙色のフレームに収まるそれの周囲は、おりんやろうそく、花などで上品に飾られ、まるで小さな仏壇のようだった。
「僕、昔から写真ってあんまり好きじゃなくて」
この写真はまだ丈が生まれる前、家族で花見に行った際、一緒に写るのを嫌がった純が撮ったものだそうだ。
「なんか、不吉ですよね。よりによって三人だけの記念写真があるなんて、未来を暗示するようなこと」
丈は学校から帰宅すると決まって、失った何かを埋めるように、ずいぶんと長い間、じっとこの写真を眺めていたという。
「中学時代は、いっそ開き直ったのか、勉強ばっかりしてたみたいです。あんまり熱心だから、私立の名門行きたいとか言い出すのかなって覚悟してたんですけど、いざ蓋を開けてみたら公立で。ちょっと拍子抜けしちゃいました」
純は早とちりした自分を恥じるように、がしがしと頭の後ろを掻いた。
「まぁ、偏差値はちょっと高めだったし、あいつなりに学費のことを配慮してくれたのかもしれません」
内気だった丈に変化が見られたのは、高校に入ってからのこと。別人のように明るくなり、友だちを家に呼ぶことも多くなった。
「いつの間にか、一人称が『僕』から『俺』に変わって、僕のことも『純兄』じゃなくて『兄貴』って呼ぶようになりました」
言われてみれば丈は、純のことは兄貴と呼ぶのに、毬のことは毬姉と呼んでいた。
それに、彼の口から「俺」という単語を初めて聞いたときの馴染まない感じは、今でもはっきりと思い出せる。多少背伸びをしてでも、形から入るタイプなのかもしれない。
理由はともあれ、丈は自分の殻を破り、楽しそうにやっているし、兄弟ふたりでの生活もだいぶ板についてきた。
やっと落ち着ける――そう胸を撫でおろしていた、矢先のことだった。
「高一の冬頃だったかな。丈のやつ、また体調崩しちゃって。最初はいつものことだからってあんまり気にしてなかったんですけど、処方された薬は効かないし、だるいだるいってときどき微熱出すし、一ヶ月くらい経っても全然よくならなくて、大きな病院で診てもらったんです」
そしたら……と純は日が陰るように顔を曇らせる。その表情はあまりに暗く、青ざめているようにも見えた。
「医者からは、まだ初期の段階だからきちんと治療すれば完治する可能性は高いと聞かされました。でも、丈はそれを拒んだんです」
苦々しい吐息とともにほころんだ、泣きだしそうな笑みに、胸がしめつけられる。まるで本当に、心臓を血管で縛り上げられたみたいに。
「あいつ、『こんなときを待ってた気がするんだ』なんて言うんです。だから、いくら僕の頼みでも治療だけは無理だって。罰当たりなやつですよね」
呼吸のしかたさえ、分からなくなる。
そんな、
でも、
だって、
頭に浮かんだ無数の言葉たちは、音にもならずに消えていく。
思えば、純が話し始めてから一言も発していないのに、喉がカラカラだ。たまらず紅茶をひとくち飲んで潤した。
カップから口を離すと、沈痛な面持ちの純と視線がぶつかる。
「治療費気にしてるとかだったら、一発殴って叱りつけたのに。あんな顔してそんなこと言われたら、何も返せなくなっちゃいますよ」
あんな顔。
死ぬのは怖くない――そう言ったときの丈の顔が脳裏をよぎった。凛とした、迷いのない瞳。
純はまた微笑んで、あまねの気持ちも丈の決意も、すべて察したように、こぼす。
「でも、今すぐに死にたいって言ってるわけじゃ、ありませんから」
それに、と続けられた接続詞に、もう耳を塞ぎたくなる。
「僕がもし、あいつの立場だったらって考えたとき、同じ選択をしたかもしれないなって、思ったんです」
どうして。
浮かんだ疑問は、やはり霧散する。そんなことは、他人だから、傍観者だから言えるのだ。
私がどんな言葉を並べても、きっと綺麗事にしかならない。悔しさに唇を噛む。
「人って、どんなに悲しくて苦しい思いをしても、案外生きていけちゃうんです。生きていくしかないんです。あいつはそれを知ってる。だから……」
純はそこでふいに、今までの表情が演技だったかと思うほど、蒼く染まった顔色に、ぱっとした明るさをのせた。
「いやぁ、困ったもんです。変なところ頑固な弟で」
けれど、偽りはその明るさのほうだろう。
聞けば、この春はどうしても体調が優れず、休みの間だけ入院することになったのだが、思った以上に長引いてしまったため、丈たっての要望で病院側全協力のもと骨折を装っていたのだという。
定期的な受診も、学校を休まなくて済むよう、毎回、土曜の午前中にねじ込んでもらっているらしい。
おとなしそうに見えて、彼の強情っぷりは相当なようだ。
「本当は今日、仕事も僕が自分で休んだんです。あいつ、朝から具合悪そうだったけど、何言っても絶対きかないだろうなと思って」
純は「内緒ですよ?」と唇の前に人差し指を立てて、いたずらっぽくはにかむ。
かと思ったら、あらたまった口調で「あまねさん」と呼び、こちらを見据えた。
「あなたにこんなことを言うのは筋違いかもしれませんが……丈のこと、よろしくお願いします」
真実を知ったあまねが、やっと口にできたのは、
「はい」
重々しい、たった二文字の返事だけだった。
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