最期の時まで、君のそばにいたいから

雨ノ川からもも

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💧Life1 へそ曲がりと美少年

私だけが知っている

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 *

 喧騒の中、深緑の板を厚い面でこすると、白、赤、黄、色とりどりの粉がはらはらと舞い落ちる。
 翌日、日直の当番が回ってきたあまねは、授業が終わるたびに、教科担任が黒板に書き残していった文字を消していた。
 本当は、もうひとり相方がいるはずなのだが、誰も動く気配がない。まあ、ひとりのほうが気楽だし、別にいいけれど。
 そんなことを思いつつ、せっせと手を動かしていたら、背後から笑い声が聞こえた。
 振り返ると、教室の隅に見慣れた男子集団を見つける。
 やれやれ、こんな隙間時間ですらたむろしないと気が済まないのか。
 呆れながらも、あまねはその中のひとりに視線をやった。何やら、菊池にちょっかいをかけられて笑っている。昨日、蒼白い顔をしてふらついていたとは、とても思えない。
 以前なら、鬱陶しいとさえ感じていた何気ない光景に、ほっと胸を撫でおろしている自分がいる。あの笑顔は、彼の人生が平穏に保たれている証だ。
 私だけが知っている。
「トイレ」
 そう言って立ち上がった丈を、
「お前、トイレ近くね?」
 菊池が囃し立てる。
 それに誘引されるようにして、
「今度は大かもよ?」
「男のくせして頻尿かよ」
 周りの男子もすかさず乗っかった。
 私だけが知っている。彼が定期的にトイレに立たなければならない理由も、
「ちげーよ。っていうかそれ、性別関係なくない?」
 彼の不良ぶった振る舞いが、いまいち様になっていない理由も。
 彼は「いってら~」「授業遅れんなよ~」という気のない声に見送られ、教室を去っていく。
 いつもの、日常。
 この小さな世界は、何ひとつ変わらないのに、私だけが知ってしまった。

「よっ!」
 後ろから声をかけると、丈はぎょっとした顔でこちらを振り返った。
「びっ……くりしたぁ、あまねか」
 心臓に悪いからやめてよ、と苦笑する彼に、意地悪な笑みを返す。背後でバスが走り去る音がした。
「ほんとにここだったんだ」
「そりゃそうでしょ。嘘ついてどうするの」
「だって、今まで見かけた覚えがなかったから……」
「それは、君が周りに無頓着すぎるだけなんじゃない?」
 図星を指されて閉口すると、「いっつもつまんなそうに外見てるもんねぇ」とからかうように重ねられる。昨日の仕返しのつもりだろうか。
「……大丈夫なんでしょうね?」
 悔しさにねめつけながら問えば、彼は一瞬小首をかしげたが、すぐに悟ったらしく「あぁ、もうすっかり」と二、三度飛び跳ねてみせた。
「昨日の今日なのに?」
「その日のコンディションの問題だよ。昨日はたまたま悪かっただけ」
 ほんとかよ、と小声で吐き捨てると「もう、心配性だなぁ」と笑ってはぐらかされてしまう。
「なんかあったら正直に言いなさいよね。お兄さんにも『丈のこと、よろしくお願いします』って頼まれちゃったし」
 瞬間、おどけた笑みに苦々しさが加わった。なんでまた……とでも言いたげだ。
「しょうがないじゃない。知ってるの、私だけなんだもん」
 わざと拗ねたように膨れてやると、彼は決まり悪そうに頭の後ろを掻く。それが昨日の純と重なり、兄弟そろって癖が同じなんだなと思った。
「――ねぇ」
 無意識に、口を開いていた。
 丈は「ん、なに?」と不思議そうにこちらを見やる。
「菊池くんたちにも、言わないの? その……病気のこと」
 何を言っているんだろう。訊く間でもない。彼は嫌がるに決まっているのに。
 少しでも多く、支えてくれる仲間がいたほうが――いや違う。そんなのは偽善だ。建前だ。
 私は、自分が楽になりたいのだ。
 おせっかいで知ってしまった秘密が、ともに背負うことになってしまったものが、想像以上に大きかったから。誰かと分かち合いたいのだ。
 この期に及んで自分のことばかり。当事者でもないくせに、なんて浅ましい。
 俯き加減で、彼が「ごめん」と呟いた気がした。
 謝ってほしいわけじゃない。じゃあ、どうしてほしいのか。答えを探すうちに、彼が顔を上げる。まっすぐに、見つめられる。
「でも、言わない。絶対」
 怒るでも、困惑するでもなく、きっぱりと言い放った姿は、いっそ美しかった。
 初秋の風が吹き抜けて、彼の亜麻色の髪を乱し、片目を覆い隠す。
 保健室で見たのと、同じ瞳。落胆や諦めを通り越して、強く揺らがない意思と覚悟が宿った、それでいて闇を感じる瞳。
 この眼差しに、いつもおののいてしまう。
「知ってるかもしれないけど、僕、中学まで超根暗だったんだよね」
 彼の口から「俺」ではなく「僕」という単語がするりと出てきたことに少々驚いたが、何も言わず話の続きを待った。
「もともと人付き合いとか苦手だったし、あの日から、何もかもどうでもよくなっちゃって」
 刹那、昨日の純の言葉や表情が脳裏をよぎり、また苦しくなる。
 丈の声を拒むように、つめたい夕風が耳を撫でた。
「ほんと、ロボットみたいに、なんの感情もなく、ただ過ごして。寂しくないって言ったら嘘になるけど、別にそれでもいいやって、思ってた」
 ゆっくりと、噛みしめるように話していた彼は「けど、兄貴がさ……」と切なげに眉根を寄せる。
「泣いてたんだよ。トイレにこもって、毎日のように。『大きいほうしてた』なんてへったくそな嘘ついて」
 ――やっぱり、バレてましたよ。純さん。
 心の隅で囁いた。
「そのときにさ、思ったんだよね。あぁ、唯一の家族には笑っててほしいなって。麻痺したと思ってた僕の心にも、こんな感情、残ってたんだなって」
 丈のその言葉が種火になって、苦しさの中にほんのりとしたあたたかみが灯る。
「いっそ中卒で働きたいくらいだったけど、許してもらえるとも思えなかったし、どうすれば力になれるか分かんなくて、結局勉強ばっかりしてた。ちょっとでもいい高校、行けるように」
 ――すごい。
「無駄なお金はかけたくないから、ちゃんと公立でね」
 ――すごい、すごい。全部分かっちゃうんだ。
 陳腐だけど素直な感動が、罪悪感と拒絶で凝り固まった心をほぐしていく。
「まぁ、そのせいで僕のぼっちは深刻化したし、陰でガリジョーなんて呼ばれたりもしたんだけどね」
 昔を思い出したのか、呆れたようにぎこちなく笑う丈。
 お互いを思いやりましょう、なんて簡単に言うけれど、そんな常套句じょうとうくの本質は、この兄弟みたいな関係を指すのではないだろうか。
 言葉にしないところまでも理解し合い、寄り添い合う。
 なんだかすごく、羨ましい。
「高校入ってからは、また別の意味で必死だった。同じ中学だったやつはいなかったし、ガリ勉根暗キャラを払拭するには今しかないと思って」
 集団の中でひそひそと後ろ指を指されながら生活するのは、たとえ関心を持たずに受け流す術を身につけていようとも、けっして気持ちのいいものではない。あまねもよく知っている。
「入学式の後、がやがやじゃれ合ってるわんぱくそうなやつらに声かけて、何人かと連絡先交換して、つるむようになった。それが章たち」
 さらりと言ってのけるけれど、丈はそのとき、どれほどの勇気を振り絞ったのだろう。
 自分を変えるために、正反対の色の輪の中に飛び込んでいったのだ。
 苦痛というわけではないのだろうが、真実を知ってしまった今となっては、あのグループの中にいるときの彼は、いつもどこか気張っているように見える。
 だからさ、と彼は遠くの空を見つめ、手を伸ばした。
 あまねも一緒になって見上げる。
 橙を受け入れ始めた秋の空は、すっと澄み渡り、他の季節よりも高く感じる。つい手を伸ばしたくなるような、壮大さと清涼感に満ちている。
「章たちが好きなのは、めちゃめちゃ頑張って作り上げた、偽物の僕なんだよ」
 そう言って、静かに手をおろすと、
「じゃあ、こっちだから」
 丈はまたぎこちない笑みを浮かべ、背を向けて歩きだす。
 薄っぺらで能天気な、ただのお調子者だと思っていた。
 でも、彼が抱えているものは、重い。私なんかより、ずっと、ずっと重かった。
 底抜けに明るい人ほど、その裏に、深く暗い何かを隠し持っているものなのかもしれない。
 遠ざかる背中を見送りながら、そんなことを思った。

 *

 丈はとぼとぼと階段をのぼり、玄関の鍵を開けて中へ入る。
 ただいまは言わない。どうせ誰もいないのだから。
 部活に入っていないせいで、兄が帰ってくるまでまだ二時間近くある。なんだか頭が働かない。夕飯前に少し寝ようか。
 ぼんやりと考えながら靴を脱ぎ、自室へ歩いている途中、
「……んっ」
 軽い吐き気を覚え、胸のあたりをそっと押さえた。
 めずらしいなと思いながら、小走りでトイレに向かう。
 しゃがんで便器に顔を突っ込むと、独特な刺激臭に促されるようにして、喉の奥からねっとりと、思ったより多量の消化不良物が放出された。
 数度えずいて咳き込み、荒くなった呼吸を整えながら立ち上がって、水を流す。
 どうしたのだろう。
 学校にいる間は平気でも、帰宅したとたん、緊張の糸が切れたように体が重くなり、倦怠感に見舞われることはよくあった。が、嘔吐したのは久しぶりだ。
 やはりまだ、本調子ではないのだろうか。
 自分で思ってから、乾いた笑いが漏れる。
「本調子、か……」
 あまねにも、半分だけ嘘をついた。
 日々のコンディションによる問題。
 その認識は間違っていない。ただ、正確に言うならば、コンディションが「良い」日などないのだ。
 あるのは「マシ」か「最悪」のどちらかだけ。入院を余儀なくされたこの春から、ずっと。
 余命宣告なんて大仰なものをされたわけではないけれど、なんとなく分かる。
 自分に残された時間が、もう、そんなに長くはないことくらい。
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