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💧Life2 蒼きジレンマ

「大人になったらもーっと黒くなるってことかなぁ」

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 *

 肩を貸しながらマンションに入ると、ふたりして靴を脱ぎ捨ててそのまま丈を部屋まで運び込み、ベッドに寝かせた。
 いつかの純のように負ぶってやれたら一番楽なのだろうが、やはりあまねではこれが精いっぱいだ。
 しぼれるほど、全身にぐっしょりと汗をかいている。着替えたほうがいいだろう。パジャマを渡して、その間だけ部屋から出ていようか。
 一瞬そう考えたものの、
「あーもうダメ。一歩も動けない……」
 ぼーっと天井を見つめながら力なく呟いた彼の言葉に、こりゃひとりで着替えするのもきついか、と思い直し、諦めてそっと布団をかけた。
「吐き気は?」
「今のところ大丈夫。ただ、馬鹿みたいに頭痛いし、なんか食べたり飲んだりしたらヤバいかもだけど」
 そう答えた丈に、勉強机のペン立ての中に紛れた体温計を手渡し、熱を測るように示唆する。すると、彼は「えー」とあからさまに渋い顔をした。
「何度だって似たようなもんじゃーん。あるのは分かってるんだしぃ」
「屁理屈言わないの」
 軽くたしなめて一旦退室しようとすると、
「ねぇねぇやだぁ。いかないでぇ。苦しいのぉ」
 今度は制服の裾をつままれた。やっぱり着替えどころじゃない。
「いいから熱測ってなさいあんたは」
 末っ子の性なのか、この男は弱ると気持ち悪いくらい甘えん坊になる。顔がかわいいからまだ許されるようなものの。
 冷やすものと、念のために、ティッシュ入りのビニール袋を敷いた洗面器を持って部屋に戻ると、「言わなくていいから」とふて腐れ顔で体温計を突き出された。
 三十九度四分。
「ワオ……記録更新おめでと」
 ふざけ半分に言って、枕もとに洗面器を置き、冷却シートをぺちんと額に貼ってやれば「だからぁ。言わないでぇ」とまた甘ったるい声を出す。
 ここまで高いと解熱剤を飲ませてやりたいくらいだが、彼の病状をきちんと把握しているわけでもないし、飲み合わせなどの問題もあるかもしれない。そもそも手持ちがあるのかも含めて、後で純に確認してもらったほうがいいだろう。
「……学校、しばらく休んだら?」
 丈の頭の下や脚の付け根に氷枕をあてがいながら、言う。彼は何も答えない。
 これでも、ずいぶんと言葉を選んだつもりだった。
 菊池には何も訊かれなかったのだろうか。
 あの後、菊池がひとり教室に戻ってきてから、保健室まで走っていき、くれぐれも無理はするなと念を押しはしたけれど、先にアクションを起こしたのはあくまでも彼だ。
 それに案の定、帰り道だって、手をつなぎながらふらついているのが分かった。よくへたり込まずにいられるな、と思うくらいに。丈ひとりでは、マンションまでたどり着けないかもしれない。
 もう、そんなところまできてしまったのだ。
「ほんとのこと言わなくたって、どうとでもなるじゃん。ちょっと早めのインフルエンザにかかっちゃいましたーとか、それこそ、風邪こじらせて肺炎で入院しちゃいましたーとか。もう十一月なんだから、出席日数とか単位とかもそんなに心配しなくていいだろうし」
 努めて明るく言ってみるが、丈はやはりそれには反応を示さず、代わりに「病気が分かったときさ」と低い声で切り出した。
「手術も治療もする気ありませんって言ったら、主治医にめっちゃ説教されたんだ。まだ若くて、これからなんだってできるのに、完治する可能性だって高いのに、どうしてそんなに簡単に諦めるんだって」
 笑うよね、とあざけるように鼻を鳴らし、「そのあとすぐ担当代えてもらったけど」と言い捨てた彼の口調には、軽蔑けいべつという名の毒があった。
「いくら可能性が高くたって、百パーセントじゃない限り、誰かが地獄を見るのに」
 能天気な美少年が、内に秘めた闇を解放する瞬間。
「だいたいさ、じゃあそういうあなたは夢と希望に満ちた青春時代を過ごしてたんですか? って話だよ」
 青春。字のごとく青臭い言葉だと思う。盲目的で、ひどく曖昧な。
「そりゃあ、大人たちから見たら僕たちってまだまだあおいかもしれないけどさ。大人が思ってるよりも、もっとくすんだあおだよね。青春の青じゃなくて、蒼白の蒼」
「まぁ、ね」
 言いたいことは分からなくもない。だが同調した後で、あまねはあえて「でもさ」とぶつける。
「たしかに、過去ってきらきらして見えるんだよね。今考えると、保育園とか小学校の頃って、今よりずっと気楽に、やりたいように生きてたなって。おかしいよね。当時は当時で、それなりに悩んでたはずなんだけど」
 すると丈は「うーん、言われてみればそうかもなぁ……」とぼんやり天井を見つめた。
 子供の頃の世界や悩み事のすべては、成長とともにその存在を小さくし、いずれは「苦い思い出」なんて都合のいいものに変わる。後からやってきたはるかに大きなもの、重いものに追いやられて、次第に影を潜めるのだ。
 どんな人ごみも、上空から見下ろせばごま粒大に見えるように。
「なんでそうなっちゃうんだろうねぇ。大人になったらもーっと黒くなるってことかなぁ。やだなぁ」
 やけに饒舌なのは、熱のせいだろうか。
「あっ、でも僕は大人になれないんでしたぁ」
 笑えない一言を残して、丈はこちらに背を向ける。
 いかないで。
 先ほどと違い、無言でそう訴える背中にふっと微笑みかけ、あまねはベッドの傍らにある椅子に腰かけた。
 ひとりにしたことなんかないのに。
 冷淡な性格であることは重々自覚しているが、さすがに四十度近い高熱に苦しむ病人を置き去りにするほど非情ではない。
 せめて、純が帰ってくるまでは、ここにいる。

 *

 背後で寝息が聞こえ始めた。
 いつもそばにいてくれるのはありがたいが、たいがい彼女のほうが先に眠ってしまう。
 当然というべきだろうか。こちとら寝られるはずがない。こんなに至近距離なのだ。
 丈はできるだけ頭を上げないよう、静かに寝返りを打つ。体のあちこちにあてがわれた氷枕がガサガサと音を立ててずれてしまう。
 ベッドに頬を預けた彼女。閉じたまぶたから覗く、長い睫毛。呼吸に合わせて、かすかに上下する肩。
 ――ねぇ、あまね。
 指先でそっと、ベッドに垂れた彼女の後れ毛に触れる。
 ――ここ、男の部屋だよ? ふたりっきりなんだよ?
 それなのに、こんなに無防備な寝顔をさらして。
 毎日、まるで義務でもこなすみたいに、手をつないで帰って。
 見つめているだけでいい、なんて思うのは、手の届かない存在だからだ。そうやって決めつけている間にだけ効く、安っぽい魔法のようなもの。
 近づいては、いけなかったのに。
 ――ねぇ、あまね。
「……女々しい」
 たまらずこぼれそうになった一言は、天井を仰ぎ、どうにか自嘲の言葉に変えた。
 ――強情っぱり。
 そう言ったときの、彼女の顔を思い出す。
 困惑して、呆れて、不安で。
 絵の具みたいに、似ているようで違う感情が少しずつ入り混じって、深い哀しみを作りだしたような、そんな表情。
 強情くらい張らせてほしい。でないと、僕がここにいる理由も、君がここにいる理由も、すべてなくなってしまうから。
 でも、彼女の言う通り、そのすべてが、そろそろ引き際なのかもしれない。

 *

 あまねは、妙な騒がしさに薄目を開けた。
 見ると、丈がこちらに背を向けて激しく咳込んでいる。
 ――ゲホッ、うっ、ゴホッ。
 嘔吐だ、と気づいた瞬間、ぱっと眠気が飛んだ。
「ちょっ、バカ!」
 反射的に叫び、苦しそうに丸まった丈の背中をあわててさする。
「起こしてって言ってるでしょ!」
「っ、ぇ、っっ――!」
 まだ出しきれていなかったのか、返事に代わって嘔吐し続ける彼の背中を撫でながら、むなしくなる。
 いつも極力寝ないように心がけてはいるけれど、学校帰りなので眠気覚ましになるようなものを持っていないし、ベッドの傍らということもあって、つい意識を手放してしまう。
 何かあったら起こせと常々言っているのだが、彼がそれを実行してくれたことは一度もない。
 たいてい、今回のようにあまねが物音で気づくまで、自力でどうにかしようとする。
 おまけに、洗面器は最初、あまね側の枕もとに置いてあったはず。つまり、わざわざ丈が手に取って体勢を変えているのだ。本当は、ちょっと動くだけでも辛いくせに。
 そりゃ、ゲロを吐く姿なんてできれば誰にも見られたくないだろうけれど、状況的にしかたないではないか。
 黒ビニール袋のおかげで最低限のエチケットは守られているし、処理も楽だ。
 あまりひとりで背負われると、そばにいる意味がない。
「――もっと、頼ってよ」
 思わずこぼすと、吐くだけ吐いてようやく落ち着きを取り戻したらしい丈は、「だってぇ」と拗ねた子供のように返した。
「だってじゃない! 今さら変なとこで気ぃ遣うな、もうっ!」
 苛立ちながら背中をさする手を止め、立ち上がってベッドの反対側に回ると、手早く袋の口を縛る。
 これまで彼の吐しゃ物の後始末をしたことは一度や二度ではないが、いまだに学校では吐いたことがないと言うからすごい。やはり、帰宅すると気が緩むのだろうか。
「頭いてー……」とぼやきながら仰向けになった丈に、勉強机の上に置きっぱなしだった体温計を無言で投げ渡し、ビニール袋を片手に一度退出しようとしたとき、
「あまね」
 名前を呼ばれ、振り返らずに立ち止まった。体温計をケースから取り出す音がしたので、おとなしく熱を測っているらしい。
「ごめ――」
「ごめんじゃなくて?」
「……ありがとう」
「よろしい」
 まったく、面倒なやつだ。

 しばらくして、ようやく丈の荒い呼吸が寝息に変わったのを、今度こそ無事に確かめた頃、玄関で物音がした。もうそんな時間か。
 ゆったりとした足音が近づいてきて、開放された部屋の出入り口から顔を覗かせたのは――案の定、純だった。
「おかえりなさい」
 椅子から立ち上がり、振り返って言えば、彼も「ただいま」と答えて入室する。そして、ベッドに横たわった丈を認めるなり、
「やっぱり今日も、ダメでしたか……」
 なんて困ったように眉を下げた。そんな彼にあまねは、
「私が知る限り初めての三十九度越えに、嘔吐一回。たぶん、今寝ついたばっかりです。可能なら、解熱剤飲ませてあげたほうがいいと思いますけど、口からだと吐き戻しちゃうかもしれないですね」
 と伝え、汗もすごいので後で着替えさせてあげてください、とも言い添える。
 エチケット袋を片付けて部屋に戻ったときに渡された体温計は、三十九度八分を示していた。ベッドの中にいて熱がこもっているせいもあるだろうが、もうほぼ四十度だ。
「今日は、朝から熱が?」
 尋ねたら、純は面目なさそうに肩をすくめた。
「それが、今朝は仕事の都合で丈より早く家を出てしまったので、なんとも。こんな状態だって分かってたら、部屋に軟禁してでも休ませたんですけど」
 軟禁とは、なかなかの強行手段だ。この人、案外私と同じ思考を持っているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、背後で丈が「う、うぅーん……」と唸った。
 よほど苦しいのか、あるいは悪い夢でも見ているのか。
 そう思いながら彼のほうへ向き直り、けっして穏やかとは言い難い寝顔を見つめていたら、
「……大丈夫ですか? あまねさん」
 よりによって、純に気遣われてしまった。
「純さんこそ」
 苦笑交じりで返す。
「私は逃げようと思えばいつでも逃げられます。だって、他人ですから。でも、純さんはそんなわけにいかないでしょ?」
 すると純は、
「一番辛いのは、丈ですから」
 と言いつつも、切なげに眉間のしわを深めた。
「そうですね」
 あまねも神妙な気持ちで同調し、
「私のことなら気にしないでください。巻き込まれたくて巻き込まれてるだけなんで」
 そう言い置いて「それじゃあ、これで」と部屋を後にした。
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