最期の時まで、君のそばにいたいから

雨ノ川からもも

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💧Life2 蒼きジレンマ

言ってしまおうかと思った

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 *

 体温計の小さな電子音さえ、頭痛を誘うようだった。
「うぅ……俺こんなのもうムリ。しんじゃう……」
 力なく呻きながら脇からそれを取り出すと、兄は困ったように眉根を下げて受け取る。
「しんどいのは分かるけど、死ぬなんて軽々しく言うもんじゃ――えぇっ! 四十度!?」
 その叫びに、また一段と具合が悪くなった。
「やっぱりしぬんだ……」
 呟いた声は、ほとんど声にならない。
 昨日は朝から比較的体調がよく、体温もずっと微熱をうろうろしていたので、一時は、もしかしたら明日から学校へ……なんて淡い期待すら抱いていた。
 しかし、そんなふうに調子に乗ったから病魔が怒ったのだろう。
 深夜に突如激しい腹痛に見舞われ、トイレへ駆け込んだら多量の下痢。さらには処理している最中、臭いのせいもあってか気持ち悪くなり、そばにあったゴミ箱に嘔吐。
 トイレのドアが半開きだったようで、物音を聞きつけてリビングダイニングから飛んできた兄に、床に吐かなかったことを褒められながら、お姫様抱っこでベッドまで運ばれた。
 以降、高熱と絶え間ない吐き気、腹痛の総攻撃に苦しめられ続け、一睡もできないまま現在に至る。
 頭痛や関節痛もひどく、眠くてたまらないのに、ウトウトし始めると吐き気か腹痛が襲ってくるから、結局寝つけない。繰り返すうち、気づけば外は夕暮れ時になっていた。
 もはや息をするのも一苦労。頭がうまく働かず、現実から切り離されたみたいに、体がふわふわする。苦しいの一言では言い表しきれないほどの苦しさだ。
「おなかいたい……」
 吐き気は毎度のことだが、腹を下すことはそうそうないので、余計に辛い。せめてどっちかにしてくれ。
「オムツするか?」
 あながち冗談でもなさそうな口調でそう言った兄に、
「やだ」
 回らない呂律で即行拒否する。
 そこを妥協すれば安眠を得られるというのならまだしも、どうせ不快感で目が覚めるだろうし、いくら家族とはいえ、下の世話をしてもらうだなんて。
 早すぎる介護に片足を突っ込むくらいなら、全身が痛かろうがだるかろうが、自力でトイレまで走っていったほうがマシだ。
「これだけ吐いてちゃ薬も飲めないし、今日はさすがに病院――」
「行かないよ?」
 一応遠慮がちに切り出してくれたらしい兄に、またも即答する。たしかに、昨日までと違ってお粥すら喉を通らないが、そこだけは譲れない。
「だって、こんな状態で行ったら絶対入院じゃん。っていうかそもそもこんな時間だから、大きいとこはもうやってないでしょ」
 続けると、兄は「またそうやって言い訳して……」と辟易した様子で大きなため息をついた。
「あのなぁ。こんなこと言いたくないけど、今さら入院したって似たようなもんだろ? 学校にも行けてないんだから」
「違うし」
 ふて腐れたように返せば、
「っだーもうこのワガママ坊主っ!」
 堪忍袋の緒が切れたように吐き捨て、中身を取りかえたばかりの洗面器を手荒く枕もとに置くと、部屋を出ていった。
「隣の部屋にいるからなっ!」
 憤慨しながらも、そんな一言を残して。
 夜中はさすがに心配だったようで、異変に気づいてからはずっとそばについていてくれたけれど、いつまでもそうしているわけにもいかないのだろう。
 兄はなんだかんだ言いつつ絶対に自分を見捨てないし、無理強いもできない人だと知っている。だからつい甘えてしまう。
 ワガママ坊主の自覚はあるし、申し訳なくも思っている。
 でも全然違うのだ。彼女が来るのと来ないのとでは、全然。こんな状態じゃ、会えるかどうかも分からないけれど。
 ――本当はあのとき、言ってしまおうかと思った。
 莉麻と別れたのは、病気のせいなんかじゃなくて、君を好きになったからだよって。
 だけど、言ったところでなんになる?
 こんな体だ。どのみち他人と同じ幸せは望めない。
 今のままで、充分なんだ……
 なーんて、カッコつけて逃げているだけだろうか。
 朦朧とする頭であれこれ考えていると、またかすかな眠気が訪れる。と同時に、下半身にある違和感を覚えた。
 ――んっ? なんか湿ってない?
 お尻のあたりから、じわりと染み広がっていくような感覚。
 もしや、ついにやってしまったのか!?
 一瞬、苦しさも全身の痛みもすべて忘れて飛び起き、あわてて掛布団をめくる。
 そして絶句した。
 ――赤い。
 掛布団の内側も、シーツも、パジャマのズボンも、真っ赤に濡れている。
「え……」
 なんだ。なんだこれは。やっぱり高熱のせいでうまく頭が回らない。唯一、ただ事ではないということだけは分かる。
 落ち着け。
 兄は――隣の部屋にいると言っていた。けれど叫ぶ気力はない。
 そうだ、携帯。
 丈は枕を挟んで洗面器の反対側に置かれたスマホを手に取ると、素早く電話をかけた。
 三回目のコールを待たずに応じた兄の声は、
『……どうした』
 先ほどの一件を引きずっているのか、心なしか不愛想だ。だが今はそれどころではない。
「あのさ。俺、いよいよヤバいかもしんない。なんか、お尻から血が……」

 *

「えー、よってこの証明は――」
 あまねは数学教師の声を聞きながら式をノートに書きつけ、シャープペンを一度くるりと回した。もうずいぶんと長い間愛用しているそれは、つい数日前と違い、正常に機能している。
 明らかに変わった。戻ったと言ったほうが正しいだろうか。
 人目につく場所で騒ぎ立てたことが、かえってよかったのかもしれない。菊池が絡んだあの一件だけで、嫌がらせのみならず、クラス内の攻撃的な視線が嘘のように消え去り、平和な日常が戻ってきた。
 まだ昨日の今日だから油断は禁物だと思いつつも、あらためてカースト上位者の影響力と、人の弱さを痛感する。
 あとは右隣が埋まってくれれば完璧なのだが……まあそれは不可能に近いだろう。
 だからこれからは、必ず彼の部屋まで顔を出そう。彼とも約束したことだし、鬱陶しがられるくらいに、とにかく毎日。
 こんなこと、やっぱり考えたくないけれど、きっともう、いつ何が起こったっておかしくないのだ。
 いつまでも、目を背けているわけにはいかない。だったらいっそ腹を括って、とことん向き合ってやろう。

 今日はやけに足取りが軽い。
 放課後、なんだか清々しい気持ちで志賀家へと向かう。
 昨日は比較的元気だと言っていたし、今日も代わり映えしていないといいのだけれど。
 ――本当はあのとき、言ってしまおうかと思った。
 もういっそのこと付き合っちゃう? って。
 武中には申し訳ないが、そうすれば自然と、彼のそばにいる理由ができる。
 秘密がなくなるわけではないけれど、必要以上にこそこそしたり、気を張ったりしなくていい。
 でも。
 たしかに、彼を大切に想う気持ちはある。ただ、恋とは少し違う気がする。そんな軽率で、盲目的な感情じゃない。
 だって、隣を歩いたって、手をつないだって、ちっともドキドキしないし。経験がないからよく分からないけれど、恋ってそういうものなんでしょ?
 この胸の中にある気持ちはきっと、もっと……
 なんだか心がじわりとあたたかくなるのを感じながら、いつもの場所が見えてきたとき、
「――えっ?」
 予想もしなかった事態に気づいて、息を呑んだ。
 マンションの前に、救急車が停まっている。
 ――まさか。
 心臓が、いやに跳ねた。
 待て待て。落ち着け。別世帯が呼んだ可能性だってある。
 はやる気持ちを必死に抑えて志賀家の部屋の前まで駆けていき、インターホンを鳴らす。いてもたってもいられず、拳で何度もドアを叩いた。
 それでも待ちきれなくて、ドアに手をかけたとき――ようやく、顔面蒼白の純が顔を覗かせる。
「すみません。今ちょっと……」
 その狼狽ぶりが、もうすべてを物語っていた。
 すぐさま中へ入ろうとすると、信じられないくらい強い力で手首を掴まれる。
「ダメです。見ないほうがいい」
「嫌っ! 離してっ!」
 そんなことを言っている場合ではない。彼の手を振り払い、一心不乱に丈の部屋へ向かう。
 開け放たれた出入り口から室内をうかがうと、ちょうど丈がビニール担架にのせられたところだった。
 そこで純も追いつく。息を切らしながらあまねの傍らに立った。
 丈をのせた担架を持ち上げ、三人の救急隊が速やかに、でもどこかあわただしく脇を通り過ぎていく。
 救急隊に囲われているせいで、丈の表情や状態は確認できなかった。意識はあるのだろうか。
 ほんの数秒、純とふたりで魂が抜けたように立ち尽くしていたが、
「……ごめんなさい、あまねさん」
 やがて彼も静かに呟き、小走りで救急隊の後を追っていった。
 ひとり取り残されたあまねは、いけないと思いながらも、空になった部屋に足を踏み入れる。
 ベッドまで慎重に歩を進めて――言葉を失った。
 シーツと、半分ほどめくられた掛布団が、ぐっしょりと赤に濡れていたのだ。
 事情は定かではないが、尋常ではない量のそれが、丈の体から排出されたものであることに間違いはないだろう。
 無論、先日あまねを苦しめた女性特有の現象とは、勝手が違う。
 見慣れたはずの照明が、まるで演出するかのように、誇らしげにそこだけを照らし出して見えた。
 おどろおどろしい色に染まった掛布団をつまもうとすれば、恐ろしさに手が震える。
 ドラマやアニメで、殺人現場、あるいはその死体を目撃した人物は、お決まりみたいに金切り声を上げるけれど、あれは嘘なのだと知った。
 死の気配が漂う、惨状。人はそんなものを目の当たりにしたら、ただ戦慄せんりつすることしかできないのだ。
 あまねは震える手をゆっくりと垂らすと、力なくその場にへたり込んだ。

 *

 兄は救急車の中で、ずっと手を握っていてくれた。
 それはいたわるようでもあり、今感じているぬくもりと鼓動が消えてしまうのを、ひどく恐れているようでもあった。
「うっ……」
 悪心おしんが込み上げて軽くえずくと、そばにいた救急隊員からすかさず袋が差し出される。
「……っ!」
 朝からただでさえ吐き通しなのに、車内は揺れが激しく、乗り心地も悪いから、一層吐き気を催す。患者を一刻も早く搬送することが最優先なのだろう。
 この際、胃を取り除いてしまいたい。
 そう思うほどの苦しみを一瞬でもやわらげるため、すでに吐くものが残っていない体から液をしぼり出すようにして吐く。その背中をさするときでさえ、兄の、重ねたもう片方の手が離れることはない。
 並大抵のことでは驚かなくなっていた兄も、赤黒く染まったベッドとズボンにはさすがに平常心を保てなかったらしく、あれから、蒼い顔と震える声で救急車を手配してくれた。
 それにしても、彼女は大丈夫だろうか。
 荒く乱れた呼吸を整えながら、ふと考える。
 救急隊に取り囲まれていたせいではっきりとは分からなかったが、担架で運ばれるとき、部屋の出入り口に立っていたのは、兄と――あまねだったのだと思う。
 直前、玄関で言い争うような声が聞こえたし、時間帯から推測しても、おそらく。
 残酷な光景を見せてしまった。あの、殺人現場さながらの部屋に入り込んだのだとしたら、なおさらだ。
「なぁ丈。やっぱり、ひとりとふたりじゃ全然違うんだよ……」
 あれこれ気を揉んでいると、背中をさする手を止めずに、兄がぽつりと呟く。ひどく疲れて、寂しげな声だった。
 その言葉の奥底にどんな願いが隠されているのか、分からないはずがなかった。分かってしまう自分が憎かった。
 でも、こればかりは曲げられない。嘘もつけない。だから、約束できることだけを言う。
「……だいずのこと、覚えてるだろ?」
 切り出すと、兄はさして驚いたふうもなく「あぁ、懐かしいな」と目を細めた。
「あいつ、ご飯食べなくなってからどんどん弱って、歩けなくなって、最後はじっとしたまま、ときどき苦しそうにうなるだけだったじゃん」
 思えばそれは、幼い自分が生まれて初めて直面した「死」だった。
「あいつに比べれば、俺なんて元気なもんだよ。こうやって普通に喋ってるし、ゲロ吐くパワーはあるんだからさ」
 自虐ギャグでもなんでもない。本心だった。
 あれが、死を目前に控えた者の姿だというのなら。
 病という爆弾を抱えている以上、他人ひとより早くそこにたどり着くことは避けられないだろう。
 けれど、こんな窮地に立たされてもなお、断言できる。
「大丈夫。俺はまだ、死なない」
 丈は、つないだ手に少しだけ力を込めた。
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