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第十九章
魔導具職人と見習い魔法剣士
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リンデルロームに行った際にクロネが作製した小振りの魔石入りの杖を前に、リシェはううんと考え込んでいた。
上質な枝で彫り込みを入れ、丁寧に磨き上げられた上、グリップの部分もしっかりと丈夫な布できっちりと巻いて手が痛まないように保護されている立派な杖。
ヘッド部分は透明な魔石がくっついているその杖を、彼はしばらく見つめて考え込んでいた。
この石に何らかの魔力を込める事で威力が更に増すというが、誰に施して貰えばいいのだろうか。
オーギュに頼もうと思ったが、ロシュ曰く純正の魔導師が武器に付随した魔石に力を込めてしまうと、最悪粉砕してしまう可能性が高いという。折角頂いた物なのに壊れてしまっては元も子もない。
魔石に魔力を込めるには、専用の魔導具師に依頼するのが一番確実らしい。
困ったなぁ、と悩ませているリシェを見兼ねてロシュは大聖堂の鍛治職人に問い合わせて魔力を注入してくれる人は居ないかと打診したが、どうやら相当な繁忙期らしくこちらの都合を優先する訳にもいかないとの返事だった。
気を落とすリシェに、ロシュはどうにかこちらでも探してみますねと優しい言葉をかけてくれたが、流石に自分の事に彼の手を煩わせる訳にもいかない。ただでさえ今も多忙な相手に、時間を割かせたくはなかった。
しばらく待つのも手だろうが、この魔石に命とも言えるべき力を吹きこんだらどうなるのだろうかと興味が湧いているのだ。
机の上で横たわる杖を、革細工職人のヴェスカの父親が作ってくれたケースに収納する。未だに自分の新しい武器は制作中で、手元にあるのはこの杖と宮廷剣士に支給された基本的な剣のみだ。しばらく外出はしないので別にいいのだが、前まで馴染んでいた剣が惜しくなってくる。
はぁ、と肩を落とした。
自分でやろうにもやり方が分からないし、魔導具職人に伝手も無い。しばらく杖はお預けだろうと半ば諦め、それを机の中に大切に仕舞い込む。
あまり閉じこもって考えるのも良く無い。椅子から立ち上がると、体を伸ばして全身の凝り固まった筋肉を解す。
外はとても晴天に恵まれていた。稀に室内に入ってくる風も、ちょうど良い暖かさで気持ちがいい。
折角だし散歩でもしてみようかな…とぼんやりと思い付き、彼はロシュから許可を得るべく部屋から出た。
司聖の塔と大聖堂を繋ぐ石造りの道を進んでいる最中、リシェは不思議な白衣の集団を見かける。
あまり見慣れぬ面々に、首を傾げながら近付き通過しようとした。恐らく何らかの研究者なのだろう。邪魔をしないように避けようと道から外れる。
「先輩!どうにか頑張って耐えて下さい!今引っ張りますから!!」
「やはりバキューム機能は必要だったかもしれない!」
「そんな…散水に特化させたのに吸引までは行き届かないよ!とりあえず先輩を助けないと!」
研究者達の掛け合いを耳にしながらリシェはそのまま通り抜けようとするが、彼らが取り囲んでいる機材らしきものの上部から大人の下半身が飛び出しているのが見えてしまう。
思わずリシェはギョッとして凝視する。足だけ出て、バタバタと暴れていて異様な雰囲気だった。
第三者から見れば、それはあまりにもショッキングな光景。事故の臭いがぷんぷんしてくる。
「な、何してるんだ?」
思わずリシェはドン引きしながら彼らに話しかける。
「おや?君はロシュ様のお付きの白騎士様かな?」
彼らの中の一人は、リシェに気付いた。その間にも、逆さまにされた足はバタバタと蠢いている。
「そうだけど…あの人は何でああなっているんだ?」
機材の中の研究員は逆さまのままで「これはいけない、これはいけない!」と喚き続けていた。
「中庭の草木の散水機…噴水くん三号を作っていてねぇ。試運転していたんだけど内部のタンクの調子が悪かったようで、下に漏れてしまったんだ。ほら、この辺水浸しになっているだろう?」
「噴水くん…」
名前まであるのか、とリシェは無表情のままで思った。
確かに地面は大きな水溜りが作られている。
はあ、とリシェは返事をしながら機材を見上げた。
「タンクが割れているのではないかって、先輩が様子を見る為に噴水くんに上がったのはいいんだけど運悪く足を滑らせてしまってね…」
彼はちらりと散水機へ目を向けた。
幸いにもようやく引っ張り出されたらしく、足だけの研究員は安堵の表情を浮かべている。
「あー、良かった…助かった助かった!頭に血が昇って鼻血が出るかと思ったよ!」
助け出された研究員はボサボサの水色の長い髪を掻き上げると、自分の体をぺたぺたと触り何かを探している様子を見せる。
「あー、僕の眼鏡はどこかな!?」
どうやら眼鏡が無いと身動き取れないらしい。リシェは噴水くんと名付けられた散水機に上がったままの研究員を改めて見上げた。
オーギュを思わせるかのような切れ長の目を持ち、鼻筋も通っていてなかなか整っている顔立ちだ。
ただ、日に当たらないのか肌は青白く不健康そうにも見えてしまう。少し勿体無い。
「先輩、タンクの中じゃないですか!?」
「え!?た、タンクの中!?そんな」
「水はもう放出し尽くして空のはずですが…」
「我々の体ではこのタンクの中に入れないよ!?誰か細身の体型の子を見つけないと」
参ったなあ、と彼は困惑した。眼鏡が無いととにかく見えないらしい。
リシェは隣で成り行きを説明してくれていた研究員に、「じゃあ俺はこれで」と挨拶をし、やり過ごす事にした。
話は聞かなかったふりをしようと思う。面倒臭い。
「誰かー!!小さい穴にすっぽり入れる位の華奢な人は居ませんかぁああ」
噴水くん三号に乗ったままの水色髪の研究員がいかにもわざとらしく叫び出した。
まるで自分に言っているかのようにも聞こえて、リシェは身をびくつかせてしまう。同時に、横の研究員に首根っこをむんずと掴まれた。
「ぎゃあああああ!!」
「白騎士様!」
リシェは掴まれた首元を押さえ、苦しさに涙目になる。
「やめろ!殺す気か!!」
「お願いがございます、先輩の眼鏡を取って下さい!」
自分達でどうにかしろ!と言いながらリシェは嫌がった。
「大丈夫です、ただ中に入って眼鏡を取るだけですから!中はもう空ですし、溺れる心配はありません!ほら、我々大人ではどうしても穴につっかえてしまいますからね!あぁ、良かった!こんな所でうってつけの相手が居てくれるなんて…!せんぱーい!!」
ずりずりと引き摺られる形でリシェは噴水くん三号の前に押し込まれてしまった。ちょうど良く出現した理想的な体型の持ち主に、他の研究員達は歓声を上げ始める。
「おおお、何と有難い!!」
「穴にすっぽり入れる位の華奢な人!!」
「先輩、良かったですね!眼鏡を救えますよ!」
彼らは口々に喜びの声を上げた。
「何だと!?」
リシェは不愉快そうに顔を真っ赤にしながら怒りを露わにする。
「誰もやるとは言ってない!!」
まあまあ、と引っ張っていた研究員はリシェを宥めた。
水色の髪の研究員はおお!と大袈裟に喜びを表現する。
「救世主が来てくれた!有難い、有難い!!さあ、この噴水くん三号に乗って!」
全く話を聞く様子では無い。
「無理に引っぱって来て何が救世主だ!」
「ただ中に入って僕の眼鏡を取ってくれるだけでいいんだ!お願いだよ!」
彼は切実にリシェに訴えてくる。
嫌がれば嫌がる程長く引っ張ってくるのだろう。面倒だなあ、と舌打ちしつつも分かったよと了承する。
「良かったですね先輩!!」
「先輩は眼鏡が命ですからね!」
研究員達は口々に喜ぶ中、リシェは噴水くんによじ登る。
タンクの穴付近に座る水色の髪の研究員はにこにこしながら「助かるよー!」とリシェに頭を下げた。
一体どんな経過を遂げたらあのように逆さまになるのか。
「明かりは無いのか?真っ暗であまり見えないぞ」
「あっ!ペンライトならあるよ!」
彼は胸元から小さなライトをリシェに手渡した。
リシェは無言でそれを受け取った後、試しに点けてみる。すると今まで見た事がないレベルで激しく発光した。
何だこれ、と怪訝そうな顔を見せる。
「何で七色に光るんだ?」
ライトの機能は果たしているが、無駄にカラフルなのが癪に触った。
「ああ、これね!大好きなアイドルのイベントで買ったんだよ、なかなか綺麗だろう?普通にペンとして使えるから重宝しているのさ。ちょっと点滅が激しいだけでちゃんと使えるから安心して!」
「聞かなきゃ良かった」
リシェはつい心の声がそのまま口から出ていた。
「じゃあ取りに行ってやる。無理矢理やらせるんだから感謝しろよ」
顔に似合わぬ尊大な態度を見せながら、リシェは渋々とライトを手に穴にするりと入り込んだ。それを見届ける研究員はにこにこと嬉しそうに頷く。
真っ暗な内部が七色の点滅ライトで染められる中、リシェは眼鏡を探す。水を大量に保存出来るだけあって、かなりの容量のようだ。
膝をつきながら踏まないように気を付けて周囲を見回した。
「あー!もう!!凄く色がうるさいな!!」
目がチカチカする!とリシェが喚いた。しかし上で待機している研究員は、陽気にあはははと笑うだけ。
「ははは、色がうるさいとは斬新な事を言うねえ!」
何を言おうにも、大人の余裕なのか笑いながらかわされてしまう。リシェは無言で眼鏡を探すと、ようやく指先に何かが当たった。
それを摘むとようやく顔を上げ、あったぞと差し出した。
やけに重みがある眼鏡だなと思ったものの、べたべた触るのも良く無いだろう。
「んんん、やりますねぇ!いやあ、良かった!ありがとう!」
…癖のある話し方だとリシェは思う。
眼鏡を手渡した後で、上から引っ張られて外へと脱出した後に、無事に眼鏡を取り戻した研究員に感謝しろよと言いつつ視線を彼の方へと向けた。
だが、安定した視界を手に入れた相手の顔を見るなりリシェは「は?」と思わず声を上げてしまう。
「なんだい?」
至って普通に水色の髪の研究員は言った。
「何だその眼鏡は。どこに行けばその分厚いレンズになるんだ?」
「え??」
改めて見れば、彼の愛用の眼鏡は不自然な程分厚かった。
むしろ眼鏡を掛けない方が外見的にもいいのではないのかと思うレベルだ。掛けない方が明らかにいいのに、勿体無い事をしていた。
持ち前の顔立ちの良さを、ことごとくおかしげなデザインの分厚い丸眼鏡で台無しにしているのだ。
牛乳瓶の底を思わせるレベルのレンズのままで彼は何か変な事でもしたのかなぁとまるで他人事のようにリシェに問う。
「眼鏡自体がおかしい」
「そ、そうかな?良く見えるんだけど」
本当に良く見えるのだろうか。出不精な印象を受けるが、毎度レンズ交換をしているようには見えなかった。
本人が満足しているなら何も言う事は無いが。
リシェははぁ、と一息吐くとペンライトを返却して噴水くん三号から降りる。
「ありがとうございました、白騎士様!!」
感謝の言葉のシャワーを浴びながらようやく地に足を着け、リシェは妙に全身に疲れが湧くのを感じた。
周りの大人達を見上げると「もういいだろう」と問う。
「俺、もう行くからな」
「うんうん!とても助かったよ、ありがとう!」
分厚い眼鏡の研究者も噴水くんから降りると、リシェの両手を取り感謝の握手をしてきた。
見れば見る程、その眼鏡の分厚さが変に思えてしまう。
「僕はトーヤっていうんだ。何か困った事があったらいつでも研究室に来るといいよ!出来る範囲内で助けてあげるよ!」
「…分かった…」
水色の髪の彼…トーヤは頼もしいセリフを言ってくれるが、リシェは妙に嫌な予感を感じずにはいられなかった。
故障した噴水くん三号から異音が聞こえてくるのは気のせいだろうか。リシェはすぐ真横にある機械に目を向け、握手をしつこい位にしてくるトーヤを見上げる。
「何だか変な音が聞こえてくるけど爆発とかしないだろうな?」
音はどうやら機械の底から聞こえてくる。
トーヤ達はそんな異常にも関わらず、ケロっとした様子で機械に目をちらりと向けた。何かがブルブルと震えている様子だったが、多少の異常は慣れ切っているのか、笑って大丈夫だよと安心させる。
「この程度なら日常茶飯事だからね!気にしなくてもいいよ、白騎士リシェ君!」
「俺の名前知ってるのか…」
「そりゃあ勿論!何しろロシュ様のお付きの剣士様だからね!噂はしっかり聞いているさ」
その間にも、謎の機械の音が大きくなっていた。
リシェは怪訝そうに再び機械に目を向ける。
「…やっぱり、何か異常をきたしているんじゃないか?どう考えたっておかしいぞ」
「んんん?…そうだねえ、まぁタンクから水漏れしてしまった段階でどこか濡れてしまったんじゃないかなぁ。念入りな調査が必要だねえ」
心配そうに注意を促すものの、相手は取り合わない。
噴水くん三号は異常なモーター音を轟かせリシェの不安を煽っていく。早く離れた方が良さそうだと判断し、じゃあ行くからとトーヤの手を離した。
おや、どこに行くんだい?ときょとんとするトーヤ。
「今日は休暇だから色々回ろうと思っているん…」
その瞬間、機械の大きく太いホース部分が激しく回転し始めた。研究員達はうわぁあああ!!と悲鳴を上げた。
急激に暴れるホースに、リシェは彼らと同じように悲鳴を上げて逃げ出そうとする。
「ほら!!やっぱりおかしいって言ったじゃないか!!」
まるで生命を吹き込まれたかのように大きなホースは回転しながら暴れ回った。
普通のサイズなら容易く止められるだろうが、噴水くんのホースはかなり太く頑丈で押さえようにも近付く事が出来ない。
「おやぁああ!?まさかホースが暴れるなんて」
「どうする気だ!?」
内部に残っていた水滴が跳ねてくる。その場に居る全員がホースからの攻撃から身を守るために離れていった。
リシェも同じように離れようとした瞬間、運悪く暴れるホースの先端がちょうど背中にぶち当たりつんのめってしまう。
「ぎゃああああ!!」
巨大な鞭で打たれたかのような衝撃を受けた。
「リシェ君!!」
ズシャッと地面に真っ正面から倒れた。幸い水浸しになっていない場所だったようで、服の汚れは最小限に留めたようだ。
「だから言ったじゃないか…」
顔を上げ、ううと唸って背後の荒ぶるホースを見る。
「緊急停止ボタンを押さないと!」
それがあるなら早く止めて欲しい。ホースの攻撃をなるべく避けたいので敢えて伏せたまま、リシェは彼らの中の誰かがボタンを押してくれるのを待つ事にした。
ホースは回転を繰り返してひたすら暴れている。
「うわああああ」
「どうにか押さえて!!」
逃げるな、さっさと止めろ!とリシェも叫ぶ。全く関係無いのに、何故こんな事に巻き込まれてしまうのかと苛立った。
先端に顔を殴られながら、一人の勇敢な研究員が荒ぶるホースを止めにかかる。それを皮切りに次々と止めに入っていった。
「停止ボタン!」
掛け声に応じるように、ようやくトーヤも分かった!と緊急停止ボタンを押しに近付いた。ボタンは車体の横にあるらしい。
それっ、という声を共に押すと次第に音が低くなり動きも鈍くなっていく。
「あ…あぁ、良かった…どうにか止まりましたよ先輩」
「ひぇえ…助かったぁ」
へなへなと脱力しそうになりながら、トーヤは噴水くん三号にしなだれかかっていた。フシュフシュと空気が抜ける音が聞こえる。
終わったか?とリシェは体をゆっくりと起こし、しばらく様子を窺う。
音も落ち着いてきた所を見ると、どうやら大丈夫そうだ。
「いやあ、良かった…リシェ君、大丈夫かい?」
「背中が痛いけど、じきに治ると思う」
酷い目にあったのは確かだが。
とりあえず彼らから一刻も早く離れたいと思う。深入りしてはいけないとリシェの中で不穏なサイレンが鳴っていた。
「そうかい?機材は重いし、ホースもそれなりに大きいからね。どこか異常を感じたら診てもらうんだよ」
打たれた背中を押さえ、リシェは分かったとだけ返した。いざとなればロシュから魔法を貰えばいい。
「じゃあ、俺はこれで…」
トーヤを始め、その他の研究員は笑顔でリシェを見送る。噴水くんが故障したのに、妙に明るいのは失敗に慣れているからなのだろうか。
見送られながら先を進もうと歩き出したリシェの背後から、再び騒がしい声が飛び交う。
「おわぁあああ!?」
スポン!と何かが抜けた音がした。同時に強い風圧と共にリシェの後頭部に衝撃が走る。
「痛ぁあああああああ!!」
戦闘中ならば痛みは気にしないが、完全に無防備な時に受けるダメージには弱い。
ホース程では無いものの、結構な速さで飛んできたのだろう。リシェの後頭部を掠めた後、それは飛び上がり地面に着地する。
噴水くんから飛び出た蓋が目の前に転がっていた。
リシェは頭を押さえ、怒りを込めて勢い良く振り返る。
「今度は何だ!?」
「ごめんねリシェ君!エンジンルームのキャップが弾け飛んじゃったんだ…いやぁ、それにしても運が悪かったねぇ…!」
むしろわざと飛ばしたのではないかと被害妄想を働かせてしまう。
リシェは頭を擦りながらぐぬぬと奥歯を噛むと、研究員らを睨みつけた後で涙目のままいい加減にしろ!と怒鳴っていた。
所変わってアストレーゼン、司聖の塔屋上。
ロシュは仕事の休憩中にぼんやりと晴れた空を見ながら一息吐く。
「平和ですねぇ…」
書斎机から離れたソファに腰掛けるオーギュは、書類を纏めながらそれが一番良いのですよと返す。
「毎回毎回面倒事は困りますよ。たまにはゆっくりさせて下さい」
主人の近くで獣姿のファブロスは退屈そうにあくびをすると、ふわふわしたカーペットの感触を楽しむように頬擦りをする。
『その口振りだとまるでロシュが問題事を起こすみたいではないか』
ファブロスの言葉に、ロシュも頬を膨らませた。
「そうですよ。言い掛かりにも程があります」
二人からの抗議に、持ち前の氷のような冷静な表情で「そうですか?」としれっとする。
確かにリンデルロームからハードスケジュールだっただろう。観光気分だったのが問題が発生し、そこからまた自分の為に走り回っていたのだ。
申し訳無いと思っている。
「あのう、オーギュ…」
「何ですか?」
「良かったらお休みしますか?あれから全然休んで無いでしょう…」
「そうですね」
そうですね、の語気が荒い気がするのは気のせいだろうか。ロシュは少しばかり気持ちが萎縮する。
「いや、もう休んで下さい。絶対疲れてますでしょ…」
「やる事が溜まってるんですよ」
この調子だと彼はひたすら仕事ばかり延々とやりそうだ。
ロシュはぐぐっと奥歯を噛み締めた後、意を決してはっきり言った。
「私がやりますから!もう、何というか、これ以上働くとあなたがヒステリックに怒りを撒き散らす未来しか見えて来ません!むしろ部屋の温泉に入ってリラックスして下さい!!むしろ入れ!!入りなさい!!」
入れ、ときた。
紙の束になっている書類から目を離して顔を上げ、オーギュは眉を寄せながらロシュに視線を向ける。
「まだやる事があるんですよ」
「先に休む事が大事ですよ!いいからもう仕事を止めなさい!!」
言い切り、はあはあと呼吸を整える司聖。
合間に呑気なファブロスのあくびが聞こえてきた。
『オーギュ。休めだと』
ロシュをフォローするように言うと、カーペットの柔らかさに再び顔を擦り付ける。
「そこまで疲れてませんよ」
『夜中まで作業しているくせに何を言っているんだ。目の下のクマが目立つぞ』
「………」
顔の事までは考えていなかった。オーギュは思わず目の下に触れる。
ふっとロシュは微笑んだ。
「あとはこちらで進めますから、まず湯に入って下さい。少しばかり休んでも罰は当たりませんよ。ファブロスと気分転換に城下街に散歩するのもいいかもしれませんし」
その甘い言葉に、思わずファブロスはぴくりと耳を動かし顔を上げると、主人に向かってそうだそうだと同調する。
閉じ籠りっきりでまともに動いていないのだ。
『お前は少し楽をする事を覚えるといい。オーギュ』
「休む時はちゃんと休んでますよ…」
『ロシュの言う通りだ。今日はもう仕事するな。私と散歩しろ』
ロシュだけでは抑止力にはならないようだ。
ファブロスの静止の言葉に、オーギュはようやく「仕方無いですね」と態度を軟化させる。
仕事用に使っていた書類や書物を纏め始めた。
「では、今日はここまでにしますよ。後は明日…一気に片付けましょう」
「ええ、ええ。ゆっくり休んで下さい」
ファブロスはその横でゆっくりと体を起こした。
『湯に入ってゆっくりしたら散歩しよう、オーギュ』
主人が仕事に没頭し過ぎている為か、ファブロスも相当退屈していたのだろう。まるで急かすように彼に暇を取るように促している。
その証拠に、よく手入れされている尻尾がぐるぐる回っていた。それを視界に捉えたロシュはついクスッと吹き出してしまう。
「余程あなたに構って欲しかったんでしょうねぇ。ファブロスの尻尾が凄い勢いで振られていますから」
『!?』
自分では全く気が付かなかったらしい。
ファブロスは思わずくるりと後ろ側に目を向けると、焦りながら『違う』とロシュに反論する。
『断じて違う』
「おや…そうなんですか?凄く嬉しいのかと思ったんですけどねぇ…」
『私はオーギュの為を思って休めと言っているのだ』
そう否定していても、尻尾の揺れを我慢している様子が見受けられた。
必死で押さえているのかふるふると震えている。
「そ、そうですか…ふふ」
『笑うな。何がおかしい?』
「いえいえ…」
ロシュとファブロスが言い合う最中、仕事用の書類や本を纏め終えたオーギュは「さて」とソファから立ち上がる。
「お言葉に甘えてお湯を頂きましょうか…全身が凝っているみたいですから、有難く頂きます」
「ええ、ぜひどうぞ。ファブロスもどうですか?」
『私はオーギュを待つ事にしよう。私が入れば更に時間がかかってしまう』
無防備な主人の姿につい発情しかねない、と言いかけたが、その件に関しては話す場を弁えなさいと注意されていたのでやめた。
オーギュに構って欲しくて甘えれば、つい自分の欲が湧いてしまう。それを制するのも、これからの主人との付き合いに必要な事だった。
本音は体力が尽き果てるまで抱き潰してやりたい。
しかし彼は魔導師ゆえに体力が無い。加減してやらなければならないのだ。
「ではロシュ様。お借りしますよ」
オーギュはそのまま浴室へと向かう。
「ごゆっくりどうぞ」
ロシュもにこやかな笑みを浮かべながら、脱衣所へ繋がる扉を開けるオーギュを見送った。
一人と一匹になる室内。
「ファブロスは本当にオーギュが好きなのですねぇ」
再び床のカーペットの感触を楽しむファブロスは、ロシュの言葉にそうだなと返す。
『今までの中でもかなりの世話好きだと思っている。こうしてカーペットで転がっても抜け毛が無い程だ。…いや、少しはあるかな…』
かなり念入りに手入れをされた彼の獣としての体は、毛艶もあり美しく光っているようにも見える。
触れれば毛並も柔らかく整っていて、主人であるオーギュの並々ならぬ力の入れ様が分かった。
「あの人はとにかく完璧にやりたがりますからね」
『お前が奴を説得しなかったら延々と仕事をし続けていただろう。オーギュには少し気を抜く事も必要だ』
床でゆったりと伸びる筋肉質の獣。
「頑固ですからねぇ。私が言ってもなかなか聞いてくれないのでフォローして貰えて助かりますよ」
『奴が疲れを感じれば、こちらも影響が出て来る。程々にして欲しいものだ』
やたらとあくびをしてしまうのは、主人であるオーギュが根を詰めて仕事をし続けているからなのだろうか。やはり彼には休息が必要なのだろう。
現状、無理をするような急ぎの仕事も無いのでちょうど良かったかもしれないとロシュは思う。
「術者の健康状態も関係あるのですね。なるほど…」
『まぁ、少しだけ感じる程度だ。むしろオーギュは無駄に集中し過ぎる癖があるからな』
「ふふ」
昔からの付き合いである自分よりも、ファブロスの方がオーギュの事を知り尽くしているような気がする。思わずロシュは顔を軽くふにゃりとさせて笑った。
ファブロスは目を丸くしながらロシュを見る。
『どうした?』
「いえ…何だかあなたがオーギュの保護者みたいな感じがして。あなたの言う事ならあの人もちゃんと聞いてくれますからね…」
『保護者…』
まさかの保護者扱いに、本人も複雑な気持ちに陥った。
『私は奴の事が心配だから言ってるのだ。主人を心配するのはこちらとしては当然で』
「ふふふ、どちらにしろ、あなたが彼を大切に思っているのは物凄く伝わってきますよ。嬉しそうにお話をしますからねぇ」
更に突っ込まれ、ファブロスは心の動揺を隠し切れないのか大きな獣の頭をうねうねと動かし、前足の爪を軽く擦り合わせた。
ふわふわと頭の鬣も揺れている。
『そんなつもりは無いぞ。ただ私は無理をしがちだから程々にしろと言いたいだけで、嬉しそうなどとは…』
同時に彼の尻尾も振られていた。
非常に分かりやすい。
その時、ちょうど脱衣室への扉が開かれた。
「只今戻りました。…ん?どうしたんですか、ファブロス?」
しきりに照れ隠ししているファブロスに、眼鏡を外したままのオーギュは不思議そうな面持ちで問い掛けた。湯を浴びリフレッシュした彼の姿は、紅潮した頰と濡れた黒い髪が艶かしさを感じさせる。
それまでの会話を知らぬ彼は、おかしな様子に即座に気付いたようだ。
ロシュはにんまりと笑みを浮かべると、「ああ、これはですね」と口にした。
「あなたを非常に大事に思っているんですねって言った所、この通り照れてしまいましてね。この状態になったのです」
正直なロシュの説明に、当の本人は顔をがばっと上げて『ち、違う!』と慌てる。
『普通に心配しているだけだ』
本人を前にしている為に気恥ずかしいのだろうか。少し前とは若干様子が違うファブロスを見て、話に付いていけないままのオーギュはぽかんとする。
「ここまであなたを心配してくれる相手も居ませんよ。ううん、幸せ者ですねぇ、オーギュ?」
「………?」
オーギュは自分の召喚獣に目を向けた。
しかし、彼は照れ隠しなのかふいっと顔を背ける。
「はぁ…」
全く話に付いていけないが、とりあえず返事だけは返していた。
酷い目にあった。
リシェは打撃を受けた後頭部を撫で、痛みを和らげながら中庭に足を踏み入れる。
大聖堂内に置かれている多数の露店には通常通り様々な来客が休憩に利用しており、大層な賑わいを見せていた。
聖堂内への礼拝にやって来る白い法衣の司祭が大多数を占め、軽装の旅人や一般客の姿。または城下街から散歩がてらに訪れたようなラフな服装の者が入り混じり、それぞれの時間を過ごしている。
吹き抜けの箇所から降り注ぐ日の光は、更に彼らの活気を引き立たせていた。
「リシェ!」
中庭を通過しようとしていたリシェの耳に、スティレンの声が飛び込む。同時に露店側の方へ顔を向けると、やや離れた先のパラソル付きの席に腰を掛けてお茶を飲む従兄弟の姿があった。
「………」
無言でリシェはスティレンが居る席に近付く。
「どこに行くつもりだったの?」
「特に決めてない。休みだから、気分転換に散歩しようかと思っただけだ」
あっそ、とスティレンは優雅にカップに入っている紅茶を口にした。同じ班である彼も今日は休みで、単独でこちらで休みに来たようだ。
私服姿の彼は、錦糸とレースをふんだんに使ったの真っ白いシャツに細身の黒いパンツ。更に上部を折り曲げ、銀のボタンで数カ所留めた斬新なデザインの黒のロングブーツというお坊ちゃんらしい姿で、格好にそこまでこだわらないリシェには堅苦しく見えてしまった。
リアクションが薄い彼をそのままスルーし、リシェは立ち去ろうとする。
「ちょっと待ちな!!」
「何?」
「お前、任務でも無いのにその格好な訳?」
「………」
リシェは自分の格好を改めて確認する。
普通に宮廷剣士の黒い制服姿。白騎士としての服より動きやすいのと、いつ何が起きてもすぐに動けるので普通に身につけてしまった。休暇なのに。
顔を上げ、駄目か?と問う。
「そこまで普段着無いの?」
「いや、あるけど…」
「お前は破壊的にセンスが無いからね。何ならこの俺が見繕ってあげてもいいけど?」
リシェはふるふると首を振った。流石に彼のセンスで服を選ばれるのは無理だ。フリフリのレースやら小振りのリボンが付けられたシャツを着る勇気は無い。
しかも彼が選ぶ服は決まって高価なものだろう。上質だろうが何だろうが、結局は布。
一枚一枚にお金をかけたくない。
「俺とお前じゃ服の趣味が違い過ぎる」
「趣味って…ま、流石に俺の洗練されたセンスに追い付くのは難しいだろうね。お前は一応俺の従兄弟だし?それなりに可愛げのある顔をしてるから俺の選んだ服なら様になるかもしれないさ」
「いや、本当にいいんだ。楽な格好の方が好きだから」
「…リシェの癖に遠慮してるの?」
スティレンは自分の好意を受け入れないリシェに不満気に表情を曇らせる。
こちらが親切に提案をしているのだ。黙って素直に受け入れるべきではないのかと思っていた。
リシェはリシェで、スティレンの趣味に合わせたらヒラヒラでペラペラな服ばかりになってしまうだろうと考えていた。それだけは絶対に嫌だ。クローゼットの肥やしになりかねない。
そもそも彼のセンスは先に行き過ぎて、自分の好みでは無かった。舞踏会にでも行くような正装ばかりで堅苦しい。
「いや」
リシェは相手をするのが面倒だと思いながら、スティレンに断りを入れる。
「その格好はお前にしか似合わない」
彼が最も納得のいく返事をした。
するとリシェの予想通り、彼はにんまりと嬉しそうに微笑む。
褒められたと思ったのだろう。
「まぁね」
良く分かってるじゃない、とスティレンはリシェに言う。
「こんなに優美なシャツの似合う人間なんてそうそう居ないよ?俺の為に作られた一点物で、生地だって限定物の布なんだからね。ま、全身ブランド物だけど…たまにこうして着てあげないと服も可哀想だろ?俺に着られないなんて勿体無いしね」
「…良く着てられるな」
いきなり泥でも被ったらどうするのだろう。
「ん?どういう意味さ?」
リシェの発言が妙に引っかかったらしく、スティレンは眉を寄せた。
「汚したらどうする気だ?」
「ああ、そういう事ね。俺はお前と違って綺麗な場所にしか行かないから大丈夫だし」
「どういう意味だ?」
何故比較されてしまうのだろう。リシェは逆にスティレンに問う。まるで自分が汚い場所に好んでいるのだと言わんばかりの発言に取られてしまう。
「お前は別に泥塗れになろうが構わないだろ?清楚で美しい俺には耐えられないからね」
「………」
自画自賛を込める従兄弟に対し、リシェは先程の散水機の水が彼目掛けて飛んでくればいいのに、と思わずにいられなかった。
これ以上彼の話を聞いていても萎えてくるだけだ。
リシェは「俺、もう行くからな」とだけ告げるとそこから離れようと動く。
「ちょっと!!」
一刻も早く離れたいと思っているのに、スティレンは躍起になってリシェを止めようとしていた。
面倒そうに「何」と問う。
スティレンは使っていたティーカップを手に持つと、「待ちな」と言う。
「仕方無いからぼっちなお前に着いていってやるよ。どうせ暇なんだろ?」
何故か決めつけてくる相手に、リシェは物凄く不愉快そうに眉を寄せる。別にこちらは単独で構わないのに。
むしろスティレンの方が、一人で過ごす事に耐え切れないのではないのかと思った。
「別にいら」
「口答えするんじゃないよリシェの癖に。どうせ城下街とかに行く気なんだろ?ちょっと待つんだよ、すぐ戻るから!」
会話を遮るように被せられ、リシェは思わず閉口する。
カップを返却しに露店側へ走るスティレンを無視してそのまま去りたかったが、そうなれば更に喧しくなるのだろう。
面倒だな、とリシェはがっかりと肩を落とした。
今日は妙に変な相手に引っ掛かるらしい。
一人で過ごした方が絶対気が楽だと思うのに、スティレンはそこまで考えが至らないようだ。待てと言われてつい待ってしまう自分のお人好しな部分も嫌気が差していた。
別に待たなくてもいいのだ。ただ後が面倒なだけ。
自分と一緒に居ても面白くはないだろうに…と思いながら素直にスティレンを待っていると、ようやく食器を片付けた彼が戻って来る。
大人しく待っていたリシェに対し、満足げに口元に笑みを浮かべた。
「よし。ちゃぁんと待っていたんだね。お前にしては上出来じゃない」
一体何様のつもりなのか。
リシェはやや不満気な顔を露わにするも、「何か買いたいものでもあったのか?」と問う。
日の光の加減で、金色っぽく見える柔らかな髪を揺らしたスティレンは別に何も欲しいものなんて無いけど、と一言口にした。
「行ってみないと何があるか分からないでしょ」
「…何も無いって事じゃないか。欲しいものがあるのかと思ったのに」
それならこちらの邪魔なんてして欲しく無かった。
そう思っているリシェの気持ちを完全に無視しているスティレンは別にいいでしょと突っぱねる。
「お前はどうせ暇なんだから。俺も暇だから付き合ってあげるって言ってるの。何か不満でもあるの?」
「別に付き合って欲しいなんて言ってな」
「はぁ?この俺と一緒に行動するのが嫌だって言う訳?」
またもや会話を遮ってくる。こちらの希望など欠片も聞く気は無いのだろう。
「はぁ」
リシェは諦めた。小さな頭がかくりと傾く。
これ以上言っても無駄な気がしてきたのだ。
「分かったよ。勝手にすればいいだろう」
「ふん。そこまで言うなら仕方無いね。お前に付き合ってあげるよ。俺に感謝しな」
リシェの発言と全く噛み合わない言葉を返し、スティレンは何故かドヤ顔で言い放っていた。
本人の強気な性格に加えて、無駄に甘いマスクのせいでその表情ですら似合うのがリシェの癪に障る。どちらか控えめにして貰えたらまだ気分が違うのに。
リシェは何を言っているんだと言いかけるが、素直に聞くようなタイプでは無いので反論を止めてしまった。
恐らくスティレンの中では、リシェが自分と同行して欲しくて仕方無いのだという一方的なストーリーが仕上がっているのだろう。
どこかで頼られたいと願う余り、頭の中で様々な改変が行われているのかもしれない。
「それで、城下街のどの辺りに行くのさ?お前に付き合ってあげるんだから当然俺の買い物にも付き合ってくれるんだろうね?」
「特に欲しい物は無いんじゃないのか」
「だから、行かないと分からないって言っただろ!人の話を聞きなよ!」
どっちが人の話を聞かないのか。
行く前からリシェは疲れを感じてしまった。
大聖堂の正門を抜けた所で、リシェは不意に「ああ」と声を上げる。
「何?忘れ物?」
やってくる来客や、帰っていく来客に紛れて先を進んでいたスティレンは背後のリシェの方へ振り返る。
「…いや…お前は俺と同じでここの事を知る訳ないからな。気にしないでくれ」
貰った杖に魔力を吹き込める者が居るショップの場所が分かるかどうかを聞いてみたかったが、スティレンは自分と同じでアストレーゼンで育った訳では無かった。
分かるはずもない。
リシェはふるふると首を振り、行こうとだけ告げた。
大体スティレンは魔法を使える訳でもないのだ。
「何なのさ?」
言いかけた所で濁されたのでスティレンは不満そうに従兄弟に問う。
「変に話題を止めないでくれない?凄く気持ち悪いんだけど。何なのさ」
「ただ杖の魔石に魔力を詰められる店が城下にあるかどうかを知りたかっただけだ。お前に分かる訳無いだろう」
お前に分かる訳無いと言われたスティレンは、リシェの生意気と取れる言い方に「はぁああ?」と怒り出した。
「その言い方っ!妙に腹立つんだけど!」
「…腹が立つって事は、店を知ってるのか?」
下段で向き合うスティレンに問いかける。そこまで言うなら何かしら店を知っているのだろうと希望を少しだけ持ってしまった。
良い店の場所をスティレンが知るなら、杖を持ち寄れば良かったと考える。しかし、彼はいつもの様子で腕組みをしたまま吐き捨てるように質問に答えた。
「そんなの知る訳無いじゃない」
「そうか」
だと思った。
スティレンに対しては全く期待していなかったものの、無駄な時間を費やした気がする。
行きがけに運良く見つけたら足を運ぶ事にしようと心の中で思いながら、城下街へ向かう路地を進んだ。
大聖堂から街に繋がる大きな階段を降り切り、二人は賑わいを見せる店舗や露店が立ち並んでいる街道へ足を踏み入れる。街にある大半の通路はアストレーゼンの中心部にある大きな公園に繋がっているが、敢えてそこを避けるようにして別の景色を楽しむ事にした。
久し振りの街中散策に、スティレンは気分が上がってきたらしくあっちに行ってみたい、こっちにも行ってみたいとリシェの腕を引っ張りながら要求してくる。
何となくこうなってしまう事を予測していたリシェはうんざりしつつ落ち着けと呆れた。
「天気もいいし、今日は散策に最高じゃない!」
「お前、本当は自分がここに来たかったんじゃないのか」
「何言ってるのさ。お前が行きたそうにしてるから着いていってあげてるだけでしょ!…あぁ、見て見て!このジャケット、俺に似合うんじゃない!?」
良く磨かれた展示用の窓に飾られているマネキンの服を見るなり、スティレンは目を輝かせながらリシェに言った。
長い剣士としての生活ばかりしてきたせいか、ウィンドウショッピングだとしても相当刺激を受けるらしい。彼は嬉しそうにリシェの腕を引っ張り、次々と店先に飾りつけられているマネキンの衣装に目を奪われていた。
「買うのか?」
「うぅん…買ってもいいんだけど、あまり着る機会も無さそうだしなぁ」
確かに彼が言うように、休日だとしても毎度何処かに出掛ける機会は少ない。しかも大聖堂側に剣士の宿舎がある事から、わざわざ階段を降りてまで城下に向かうのも面倒だというのもある。
そもそもこちら側の売店で生活用品を賄う事が出来る為に、城下街に買い出しに行く手間は省けるのだ。行くとすればこのように誰かと示し合わせる形でしか機会が無かった。
ましてやリシェやスティレンのように、同じ年齢の少年剣士は少ない。仲間が少ないので、一緒に遊びに行くという事自体難しい。
「買えるなら買っておけばいいじゃないか」
あっさりしたリシェの意見に、スティレンは簡単に言わないでよと困惑する。
「もうちょっと悩もうかなって思ってたんだけど」
「どうせ帰ったらグチグチ悩むんだろうが。買っておけば良かったって」
色違いを見比べながらスティレンはどうしようと一人で悩み続けるのを、無表情でリシェは言った。
頭からチラついて離れない結果になるよりは、さっさと買った方がいいのではないかと思うのだ。
スティレンの性格上、買わないなら買わないでずっと悩むタイプだと察したのだろう。後でしつこく言われる位なら黙って買えばいいのだと軽めにアドバイスする。
「んんん…あぁ、どうしようかな。買うにしても色で悩んじゃう。リシェ、どうしたらいいと思う?どっちが俺の魅力を引き立たせるかなぁ」
まるで試着して悩み続ける女子だ。
自分の好きな方でいいのではないか。
「俺がいいって言えば逆の方を選ぶんじゃないのか?好きにすれば良いだろ…」
自分の事が第一のくせにこちらの意見を聞くのもおかしいと思う。
「ちょっと、真面目に考えてよリシェ!」
「自分で着る服なのに他人に任そうとするな!」
「少しは俺の美しさを引き立てる方法を考えてくれても良いだろ!」
どうしたらここまで自意識過剰になれるのだろう。
城下街に出てから早々にリシェは疲れが増してきた。
「お前は見た目が派手だから紺色系統で押さえた方がいいんじゃないか。逆に白は駄目だと思う。見た目の雰囲気と白の明るさが互いに主張する。どうしても白を入れたいなら中のシャツとかにしろ。全部明るい色だと、お前の存在がうるさくなる」
窓に飾られている黒と紺、茶色や白の色違いの服を見比べながら、リシェは悩み続ける彼にぽそりと言う。
しばらくアドバイスに耳を傾けていたが、スティレンはあるフレーズに引っかかったのか「ちょっと」と眉を寄せた。
「何だ」
「お前の存在がうるさくなるってどういう事さ!しれっと俺をディスるの止めてくれない!?」
どうやら無意識のうちに小馬鹿にしていたらしい。日頃の恨みがついそうさせてしまうのだろうか。
リシェはふっと空を仰いだ後で、スティレンに謝る。
「そうか。悪かったよ。…で、どうするんだ?買うのか?」
「ううん」
そこでまた彼は悩む。
「ここで悩むのか。まだ時間を使うなら俺は別の場所に行くぞ」
服に悩む時間が勿体無い。さっさと決めて欲しいと思っているのに、これだけ親身にアドバイスをしてもまだ悩むのかとリシェは突き放した言い方をした。
自分から離れようとするリシェに、スティレンは「待ちな!!」と引き止める。
「お前を待っていると時間が勿体無いじゃないか。早く決めろ」
「真面目に考えてくれないからじゃない!」
ぷっくりと頬を膨らませるスティレン。
ちゃんと考えてやったじゃないか、とリシェは反論した。
「お前が好きな方を選べばいいだろ!アドバイスしてもずっと悩んでるじゃないか」
そこで再びマネキンの衣装を見上げた。
「…黒と紺の間みたいな色は無いのかな…」
「聞いてくればいいじゃないか。早く中で聞いてこい」
もう待たないぞ、とリシェは苛立つように腕組みをする。
うう…と考えた末に、ようやくスティレンは店の中に入っていった。最初からそうすれば良かったのに、とぐったりする。これでまた余計に時間がかかるではないか、と。
待っている間、リシェは着飾られているマネキンを見上げる。服などあるものを着ればいいと思う彼には、これで悩むスティレンの気持ちは理解出来ない。
しかも彼のセンスは無駄に飾り付けが多いのだ。
アストレーゼンのに居るうちは、相応の場所に行く訳でもないのに。
…数分経過しただろうか。
まさかまだ店の店員のアドバイスを聞きながら悩んでいるのか、と店先でフラフラしてみる。
無駄に買い物が長いタイプと一緒に居るものではないなと思いながら待っていると、不意に背後から声が聞こえてきた。
「そこの子供」
子供と言われ、リシェはぴくりと反応する。
自分は子供の自覚は無いが、恐らく自分に向けられた言葉なのだろうと思った。
ぐるりと声がした方向に振り返る。
「そうだ、お前だ」
「お、俺…」
俺は子供だったのか?とやや不満げに相手を見た。そこには背の曲がった老婆の姿。彼女は古びた法衣を身に付け、行き交う着飾った人々をまるで遠ざけるような存在感を発していた。
口元に深い皺を刻ませ、彼女は法衣のフードの下で陰鬱な笑みを浮かべると、リシェにゆっくりと近付く。
「俺は子供じゃないぞ。誰だあんたは」
見た事の無い相手に、リシェは内心戸惑いながら後退りした。何故自分に声を掛けてきたのだろうか。
「お前さんの魔力の雰囲気がちょっと気になってな」
「魔力?」
どうやら相手は魔導師のようだ。
自分の魔力に何か感じるものがあったのだろうか。
「誰から能力を譲り受けた?」
その皺がれたイメージとは違い、声の調子は強い。
「知り合いの魔導師様だけど…何か?」
「魔導師か。随分と強い魔力の影響が出ているように見えたからな。その魔導師とは度々会っているのか?」
老婆の質問に、リシェはこくりと頷いた。ロシュと一緒に居る事で、必然的にオーギュも一緒だ。毎日顔を合わせている為に譲り受けた魔力も多少は影響を受けるのだろう。
自分はまだまだその貰った魔力を生かしきれていないが。
「重ねて別の異質な魔力も僅かに感じる」
「俺が?」
彼女はリシェにゆっくりと近付くと、手に持っていた木の杖を軽く肩に当ててきた。
何をする気なのかと戸惑っていると、しばらく無言になる。やがてふん、と何かを理解したように小さな声を漏らした。
「あぁ…そうだったか」
「?」
一人で納得しないで欲しい。リシェは老婆の次の言葉を待っていると、若干意地悪そうに口角を上げて世間は狭いものだと自嘲する。
「その魔導師はその身に召喚獣を宿しているだろう」
「…へ…軽く俺に触っただけで分かるものなのか?あんたはオーギュ様に会った事があるのか」
その言葉に彼女は答えなかった。代わりに、自分の来た道を顎で軽く指し示し着いて来いと促す。
「え」
「お前の望む物を与えてやろう」
魔法関係の何かを売ってくれるのだろうか。
不意にクロネから貰った小振りの杖の事を思い出していた。この不思議な雰囲気を持つ魔導師ならば、もしかしたら魔石に力を吹き込んでくれるかもしれない。
だが、今は持ち歩いていなかった。持ってくれば良かった、と一瞬後悔する。
「魔法関係の頼み事が出来るのか?それなら、貰った杖の魔石に力を入れて欲しい。でも今は持っていないんだ。時間をくれたら取りに行きたい」
着いていくのは一向に構わないのだ。
現物が無いだけで。
「必要無いだろうよ」
「え?」
「お前が案ずる事は無い。そのうち、焚べる者も自ら近付いて来る」
意味深な発言を口にする魔導師の老婆。
リシェは何の事なのか分からないまま、ぽかんと口を開いていた。
騒めき、賑やか過ぎる街の風景を前に、思わず眉を寄せてしまう。
…どちらかと言えば、活気のある場所は苦手だ。
城下街の人波に揉まれながら、オーギュはファブロスを連れて進んでいた。
特に目的は無い。
ロシュに休めと言われるまま、流される形で休暇を得たものの現段階では自分の欲しい物は無く、城下街に行きたいとねだるファブロスに押されるようにして出てきた。
自分の欲しい物が無いので、代わりにファブロスの必要な物を買えば良いのだろうか。
『どうした、オーギュ?』
「いや…」
街路樹が立ち並ぶ路地をゆっくり歩くオーギュは、何か必要な物があったかを思い出そうとしていた。
「私は特に欲しい物が無いので、代わりにあなたが必要な物を買おうかと思ったのです」
湯上がりの石鹸の香りをその身に纏わせながら、彼は自分の人化した召喚獣を見上げる。
人間の姿を象ったファブロスは、道行く異性が二度見する程に妖しげな美しさだった。元は召喚獣の為か、他者の間に見えない壁で隔てられているかの如く近付き難い雰囲気を放っている。
そんな彼は街の全てが物珍しく見えるのか、やけにキラキラした目をしながら田舎者のように周辺を見回していた。
『私の欲しい物か?私はお前の』
「あぁああ!今この場でそれを言うのはやめなさい!そうじゃなくて…生活必需品とかですよ。養分云々では無くて」
ファブロスが欲しがるものは充分過ぎる位に理解していた。むしろまだ必要なのかと言いたくなる程与えているはずなのだが、彼は際限無く欲しがるのだ。
あまりにも回数が増えるとこちらの体力も持たなくなる。いくら最後に回復を施されようが、このまま彼に従えば身が壊れるかもしれない。
『そうか。それなら、特に欲しいのは無いな』
主人同様、強さに関しては貪欲だが物欲は無いらしい。
オーギュが必要だと思うのは彼の衣類位だろう。
お互い物欲も無く、最低限あればいいと思っているので困った時に手元に無い状況が多々ある。
この機会に買い溜めしておいた方が良さそうだな…とぼんやり考えていると、くっついているファブロスがオーギュの法衣の袖を引っ張っていた。
『オーギュ』
「ん?何ですか?」
露店や店舗が立ち並ぶ広めの通り道。
民芸品や織物、旅人用の武具などがひしめき合う店の他に、飲食を扱う店も多かった。ファブロスはその中で、肉や野菜を薄いパン生地のような物で包んだ軽食に目線を向けている。
購入している客を羨ましげに眺め、彼は『美味しそうだ』と引っ張ってきた。
「食べたいのですか」
確かに小腹が空く頃だ。
どこかの店から空腹を誘う匂いが鼻を突いてくる。
『お前も腹が減った頃だろう』
「まぁ、そうですけど」
オーギュはそのパン生地で包まれた肉野菜の絵が描かれている広告用の小さな旗をちらりと見た。
「座る場所も無さそうですね…」
たまには立ち食いをするのもいいかもしれない。
ちょっと待っていなさい、とファブロスに指示すると、彼はその露店のカウンターへと向かった。
店先に並ぶ客層は若者が目立つ。身に付けている衣装も様々で、武装している者や地元民、真っ白な法衣を纏う司祭の姿も見受けられた。
アストレーゼンには実に色んな人種が入り混じっている。
国は旅人や観光客、巡礼する者も平等に歓迎し、じっくり休息を経て新たな出発点として利用する事を奨励していた。
この地で店舗を構えたいという商人も多い。大聖堂側に申請した上で、安全で尚且つ利用客に有益をもたらす商人だという証明があれば、幾らかの開店補助金やそれ以降のサポートを貰う事が出来、開店する際にもお墨付きという事でかなり有利となる。
ただ、許可を得るには厳しい条件をクリアしなければならず、開店以降も認可を与えた大聖堂側に定期的に上納する義務が発生する。
その段階を踏むのが手間と感じる者は軽い申請と少額の上納金を大聖堂側に納めるだけで開店する事も可能だ。どちらかと言えば、こちらの段取りを経て店を構える者が圧倒的に多かった。
自分の順番が回り、オーギュは二人分のパンとお茶を注文する。大振りな肉の重みか、一つだけでもずっしりしていた。温かくスパイス込みの香りが鼻を突いてくる。
「おや」
手渡ししてきた店主は、オーギュの顔を見るなり眉を寄せる。
「はい?」
「お忍びですか?オーギュスティン様」
「いや、そんな訳では無いのですよ。ロシュ様に休めと言われて」
人が大勢ごった返す街の中で、大聖堂の人間を見分けられる者は少ない。似ているな、と一瞬だけ思う程度だ。
良く自分が分かったなと思う。
店主はふわっと人の良さそうな笑顔でそうだったんですかと返す。
「連日働きっぱなしでしょう」
「ふふ、今日はゆっくり休ませて貰いますよ」
ずっしりと重みのある商品を持ちながら、改めて礼を告げた。お疲れ様です、という労いの言葉を貰いながら、ようやくファブロスが待っている場所へと戻った。
彼は大人しくその場で待っていたが、彼の周りには数人の女性達が集まっている。
あれ?と眼鏡の奥の目を見開いた。
ファブロスはようやく戻って来た主人を見るや、困った様子で『オーギュ!!』と声を張り上げる。
「ど、どうしたんですか?」
ファブロスを取り囲んでいた女性らは、オーギュの姿を見るなり可憐な雰囲気を撒き散らしながら黄色い声を発してきた。
野生的な雰囲気を持つファブロスに加え、氷のように近付き難いクールな顔立ちのオーギュが寄って来た事で自分達の審美眼は間違っていないと言わんばかりに嬉しそうな様子を見せている。
「な、何ですか彼女達は?ファブロス?」
一方のファブロスは必死に首を振り『知らん』とだけ答えた。
知らん、って…とオーギュはキラキラした様子の女性達を見回す。
「あのぉ、お二人共お暇ですかぁ?」
「私達と一緒にお茶とか、一緒に遊びません?」
まさかの女性側からの誘いに、オーギュは驚いた。今の若者は大層積極的のようだ。自分の回りの女性らは、どちらかと言えば控え目で個々を強調するタイプでは無いだけに少しばかりカルチャーショックを受けてしまう。
『オーギュ』
ファブロスは困惑している。人間の女性に言い寄られる機会など無かっただけに、対処出来ずに狼狽えていたのが伺えた。
まさか召喚獣である自分が、見知らぬ人間の女に声をかけられる羽目になるとは思わなかったのだろう。困っている所で、ちょうどオーギュが来てくれたのでホッとしたようだった。
どうするのだ、とファブロスは言う。
「どうするも何も…すみません、私達は仕事の休憩中だったのです。どうか他のいい方にお声がけして下さい。あなた方のように素敵な女性なら、きっとすぐいいお相手に出会えますよ」
優しい眼差しを称えながら、オーギュは詫びる。
完全に営業スマイルを使い、相手方に理解を求めていた。こういった状況は、大聖堂に入り浸る貴族階級の女性相手に慣れ切っていた。
むしろ、向こうの方が面倒かもしれない。
「えぇえ、ざんねーん」
「折角会えたのにぃ」
街の女性方は意外にさっぱりしている。
仕事中だと言えばすぐに納得したのかじゃあ今度会えたら遊ぼうね、と笑顔で告げるとそのまま人混みの中に溶け込んでいった。
女性らを笑顔で見送った後、オーギュはファブロスに「大丈夫ですか?」と聞いた。
一方のファブロスは、自分の知っている異性の記憶は同じ召喚獣のディータしか無かった為かやけに固まった表情を見せている。
『なかなかお前が来ないからどうしようかと思った』
「おや。女性には慣れていないのですか?ディータさんが居たというのに」
「それとこれとは話が違うだろう。奴は同志のようなものだ。こっちが困っていたというのにお前は、上手い事を言って他の者に愛想を振り撒いたりして』
何故か焦りながら彼はオーギュに食ってかかる。
『私以外の者にそんな優しい顔をするとか』
面白くないと言わんばかりにそう言い、ファブロスは拗ねていた。
オーギュはふっと微笑むと、先程注文した商品を「ほら」と突き出す。
『!』
「あなたは今お腹が空いているからキリキリしているのですよ。美味しそうな物を見繕って買ってきましたから、良く噛んで食べなさい」
『オーギュ、お前はそうやって』
目の前に出現した食料をがしっと両手で掴むと、包みを開き食らいついた。
『私をはぐらかそうとしても無駄だぞ』
言いながら、彼はもしゃもしゃと夢中になる。
『お前は私だけを見ていれば良いのだ。他の知らぬ人間になど渡してなるものか』
「お茶です。どうぞ」
ひたすら食べ続けるのも体に良くない。オーギュは話しながら食べ続けるファブロスに、一緒に購入したお茶が入った容器を渡す。
素直にそれを受け取ると、すぐにストローを使い飲み始めた。これもオーギュが生活する上で教えた一部だ。
『全く、これで私の機嫌を取ったつもりか』
怒りつつ、お茶で喉を潤している召喚獣に向けてオーギュは微笑んだ。
「美味しいですか?ファブロス」
『うむ』
「それは良かった」
『オーギュ!!』
取り合わぬ主人に対し、ファブロスは憤慨する。
『私の話を聞いているのか!』
「聞いていますよ。そんなにカリカリせずとも、私は他の方の誘いには乗る気はありませんから安心なさい」
『そうだ。それがいい。横入りはヴェスカだけで充分だ。いいな、オーギュ』
ヴェスカはいいのか…とオーギュは心の中で突っ込んだが、ファブロスが余計拗らせそうで口にしなかった。気を取り直して自分も買って来た物を食べようと思い買ってきた物に目を向ける。
だが、ちょっと考えてしまった。
『どうした?オーギュ。食べないのか?』
「いえ…どうも立ち食いというのに慣れていなくて。どこか座れる場所があればいいのですが」
『それなら街の真ん中に公園があるじゃないか。そこに行こう。噴水もあるし』
立って食べるという概念の無いオーギュには、やはり抵抗があるようだった。
公園がある事を指摘されたオーギュは、ファブロスより自分の方が詳しい筈なのに、と苦笑する。
彼はゆっくりと現在のアストレーゼンの事を把握してきているようだ。
『私が持ってやる』
「あれ…もう食べたのですか?」
『もう食べたぞ』
早いな、と思った。
ファブロスはオーギュから包みをひょいっと持ち上げると、行くぞと促す。
『早く行かないと冷めてしまうからな』
「は、はい」
まるで子供を引っ張るかのごとく、ファブロスはオーギュの手を取り公園へと足を向けた。
風がざわりと吹き、街路樹の青臭さが鼻を突いてくる。大通りは絶えず大型馬車や個人所有の馬の蹄が石畳を軽やかに叩く音が響き、その合間を縫うように人が歩いていた。
毎日の城下街の日常の風景が、二人の目を楽しませてくる。
「あなたも随分慣れてきましたね」
最初の危うい二足歩行から始めたとは思えぬ位に、ファブロスは人の生活に溶け込んでいる。
前を進んでいるファブロスは銀の美しい髪を揺らしながら軽く主人を振り返ると、ふっと目を伏せて『お前の為だ』と告げた。
『主人であるお前が恥ずかしくないように振る舞わなければな』
「おやおや。そこまで私を思ってくれているのですね」
『当然だろう』
大通りを無事に通過し、広い公園に辿り着いた。空いているベンチを探すと、そのままオーギュを引っ張った。
『お前が私に色々してくれるように、私も同じくそれに応えなければな。座れ』
ふふん、とやけに得意げに鼻を膨らませてオーギュをすとんと座らせる。
『ここなら食べる事が出来るだろう』
「…ありがとうございます」
ようやく包みを開き、軽く齧り付いた。
それを確認した後にファブロスはオーギュの左側に腰を掛ける。
『美味いか、オーギュ?』
「ええ、美味しいですよ」
『そうか。それなら良かった。ん?…口に付いたソースを拭いてやろうか?』
他者の目があればそうではないが、ファブロスは二人だけになるとやたら甲斐甲斐しくオーギュの世話をしたがるようになっていた。
自分がそうやって世話をされていたのを改めて学習した為だろう。
「大丈夫ですよ。…食べますか?」
『それはお前のだからお前が食え』
「足りるかなと思って」
自分と比べれば、彼は良く食べる方だ。もしかしたらまだ足りなかったかもしれないとオーギュは察する。
しかしファブロスは『いや、いい』と拒否し、首を振った。
『お前はもう少し食べた方が良いぞ』
まるで子供の世話を焼く母親のように、ファブロスはオーギュの少食を心配する。決して筋肉質ではない彼は、ファブロスの太く逞しい腕では一本だけでも担げる位軽いようだ。
もう少し筋肉なり付ければいいのにと思うが、当の本人は筋肉に対しての興味が持てないらしい。腕っぷしが強くなくても、魔法があればどうにかなると考えているのだ。
「食べてますよ、ちゃんと」
『ヴェスカ並に食えとは言わないが、もう少し食わないと体力も付かないだろう』
「あの人と比べないで下さいよ…食べる量が全く違うじゃないですか」
自分と違い体力勝負な彼は、自分とは全く違うレベルで食べる。比べる以前の問題だ。
『まぁいい。とりあえず食え』
「分かりましたよ」
ベンチに腰掛け、公園の景色を眺める。
公園は子供の姿が多く目に付き、シンボルと言える大きな噴水の周辺には水が上がる度に彼らによる歓声が上がった。
噴き上げる水は内部に点在している魔石によって綺麗に浄化され、繰り返し下から綺麗な水が上がっている。メンテナンスも定期的に行われていて、劣化した魔石はその都度新しい物に交換されていた。
その為に、公園近辺に存在する水はとにかく美しいと評判だった。
「うん、美味しい。大聖堂で食べるタイプとはやはり違いますね」
仕事の合間、大聖堂の厨房へ依頼して用意される食事は大変美味だが非常に洒落た印象。
このように気軽に食べたいならば、中庭の露店に通うしか無い。それでも観光客向けに凝ったメニューになりがちだった。
包みを開いて齧り付くというタイプの軽食は、大聖堂にはほとんど無いのだ。
『よしよし。ちゃんと食べているな』
何故かファブロスは保護者目線だった。
「…やはり、食べたいのではないですか?」
『私はお前がきちんと食べていればそれでいいのだ。何度も言わせるな』
「た、食べますよ。食べますから…そんなに見ないで下さい」
凝視されては進むものも進まなくなってしまう。
ファブロスはオーギュが食べているのをひたすら見ては不自然な程頷いているのだ。
『お前は見ていて飽きない』
「面白いものでは無いでしょうが」
何故か見世物になったような気分に陥ってしまう。
『お前が私の主人だと思うと優越感を感じるからな』
随分と評価が高過ぎないかと思った。単純な世話をしているだけで、ほとんどファブロスに対して何もしていないのに。
オーギュは内心照れ臭さを感じつつ、あまり褒めないで下さいと手に持っているパンを口に含んだ。
もぐもぐと食べていると、やや離れた場所からこちらに向かって紙袋を抱えて近付いて来る少年の姿が見える。
「あれ…?」
目を凝らしてその少年の顔を確認する。その正体はリシェと同じ宮廷剣士のスティレンだった。両手に大きな取っ手付きの紙袋で、やや動きにくそうにしている。
「こんにちは、スティレン」
オーギュはベンチから立ち上がると、いかにも買い物帰りの彼に向けて声を掛ける。スティレンはハッとこちらに気付くと不機嫌そうな表情から一転して改まった顔になり頭を下げる。
「オーギュ様。まさかここでお会い出来るなんて」
「ちょっとした休み時間を頂いたのでね。あなたはお買い物の最中だったんですか?」
「はい。リシェと一緒だったんですけど、あいつ俺を置いてどこかに行ってしまって」
良く見れば大量に買い込んで来たのが分かる。彼は今風の若者らしく着飾るのが好きなようだ。
現に、その私服姿も相当こだわっているようにも見える。
服の素材からして、高級志向なのだろう。
オーギュは「おや」と目を細める。
「リシェも一緒だったんですか」
「はい。気になる服を見つけて悩んでたら、迷う位なら店員に相談してこいって言われて。その他に目移りして色々買い込んでたら居なくなっちゃって…はあ。何で待たないかなぁ…」
その口振りからして、かなり待たされたのでは無いだろうか。オーギュとファブロスは同じ事を思ったのか、ほぼ同時に顔を見合わせた。
『随分買い込んだようだが』
「はい」
スティレンは自分の両手の大量の紙袋を見回す。
『リシェは待ち切れなくなったのではないか?』
ファブロスの的確な突っ込みに、スティレンは無言で相手を見上げた。
その後再び目線を紙袋に移した後、首を傾げながら「そうでしょうか?」と疑問符を投げかけた。
「あいつの我慢が足りないと思いますが」
自然にそう言えるあたり、彼の性格が垣間見えてくる。
「ちなみに、ですけど」
「はい」
「お買い物にはどれ位時間がかかったのですか?」
オーギュの質問に、スティレンは天を仰いだ。
「うーん」
しばらく考えた後、彼は自然な様子で答える。
「四十分位でしょうかね?」
四十分。
どちらかと言えば待ちたくないタイプのオーギュは、そりゃ忍耐強いリシェでも待ち切れませんよと困惑した。
しかしスティレンは首を傾げながら「そうですかね…?」と眉を寄せた。
「そうですよ…流石にその位は待ち切れないと思いますよ」
待たされる立場になりがちのオーギュは、リシェの目線になってしまう。
これが自分ならば、さっさと見捨てて帰るだろう。
ファブロスは悪びれないスティレンに『逆に待つ側に立ってみれば分かるのではないか?』と聞いた。
すると彼は、ふるふると首を振る。
「俺は待ちたくないですよ」
待たせるのは構わないが、自分は待ちたくないという身勝手な思考回路を披露する。ファブロスは呆気に取られながら、主人に『ダメだ』と早くも匙を投げた。
『特殊な性格をしているぞ。何を言っても無駄な気がする』
早い段階にも関わらず、話しても無駄だと思える何かを感じたのだろうか。ファブロスは忍耐強い性格だと思っていたのだが。
オーギュは「そ、そうですか…」と返した。
『そもそもこいつは性質からして何かが違うぞ。普通の常識というものに欠けているのではないか』
しかも常識外れという見解付き。
スティレンはファブロスの発言にムッとした様子で「聞こえてますけど」と不愉快そうに言った。
「あ…あぁ、すみませんスティレン。ファブロスは正直な性格をしていて」
フォローするつもりが全然フォローにもなっていない。
オーギュはそう言った後、それに気付いて大きな咳払いをして誤魔化した。
「はぁ…まぁ、いいんですけど。それより、その調子だとリシェを見かけてはいないんですよね」
「ええ、私達も今こちらに来たばかりだったので」
ね、とファブロスを見上げた。彼もこくりと頷く。
荷物を抱えたままのスティレンは頭を垂れた。
「もう…どこに行っちゃったんだろ。本当信じられない、俺を置いて行くなんて。帰っちゃったのかな」
そもそも自分の買い物が長引いたのを反省するべきではないだろうか。ちょっとだけだったらリシェも待ってくれていただろうに。
オーギュはそう思ったが、口にするのをやめた。
『程のいい荷物持ちが居なくなってがっかりしているのか?』
「こらっ、ファブロス!」
こちらもあまりに馬鹿正直に言い放つので、オーギュは焦りながら言葉を控えるように注意する。
スティレンはそんな彼の発言に対し、全く悪びれもせずに「そうです」と言い放った。思わずかくりとオーギュは脱力してしまう。
「えぇ…」
真顔の彼に驚きを隠せない。
王子様を彷彿させるその外見そのままだが、発言は横柄。
苦労していたリシェとは全く違って相当恵まれた環境で生きてきたのかが分かる。
それ以前に、最初は待っていたであろうリシェに対して悪いとか思わなかったのだろうか。
「うーん」
オーギュは反省の気持ちが全く無いスティレンを見ながら唸った。
「恐らくリシェは待っていたと思うんですよ」
「はい」
「そこまで時間が掛かったのなら、怒って当然だと思うんですけども」
「…ですかね?」
まだ理解しない様子だ。やはりファブロスが言うように言っても無駄なタイプなのだろうか。
ファブロスは小声で『言うだけ無駄だぞ』と囁いてくる。
『これ以上は時間の無駄だ。諭すのは難しい相手だ。私は強くそう思うぞ』
だがこのままでは彼はリシェになら何をしてもいいと勘違いしてしまうだろう。誰かが軌道修正してやらなければならないのではないか。
ただ、直すには相当な時間がかかるかもしれない。
「…ううん、まぁいいでしょう。あなたはこのまま兵舎に戻られるんですか?それともリシェを探すのですか?」
「探そうにもどこに行ったのか分からないし…俺がこれだけ沢山の荷物を抱えているっていうのにあいつときたら」
『自分が原因じゃないか』
ファブロスは言うだけ無駄だと言いながら、しっかり突っこまないと気が済まないようだ。ヴェスカで充分過ぎる程に学習したせいだろうか。
「ですがリシェは置いて行くにしても一言言いそうな気がしますけどね」
「そうですよ。それなんです。何の一言も無くどこかにほっつき歩くなんて、俺が可哀想だと思わないのかな」
あまり長く会話をしなかったのだが、スティレンもなかなかの変わり者かもしれない。
オーギュは自分より少し上背のあるファブロスを見上げると、仕方無いですねと一息吐いた。
「ファブロス、彼の荷物を持って差し上げなさい」
『別に構わないが、一緒に連れて行くのか?』
若干不服そうだ。
大好きな主人と二人っきりだったのに水を差された気分になるのだろう。やや眉を寄せて気難しそうな表情を浮かべている。
「もしかしたらリシェも迷子になっているのかもしれませんし」
『あいつは迷子はならないと思うがな』
まぁまぁと宥めながら、オーギュはスティレンの持っていた紙袋を受け取る。衣類しか入っていないので数量の割には軽かった。
ファブロスはまぁいいがとまだ何か言いたげにしつつそれを受け取る。
「あ…ありがとうございます」
スティレンは荷物を持ってくれた事に対してファブロスに礼を告げた。
『この位は何という事でもない』
そこはしっかりと礼を言えるあたりまだマシな方か。
「とりあえず…その辺を散策しながらリシェを探しましょうか。ちょうど私も食べ終えた事ですし」
発生した紙ごみを分別しつつ公園のゴミ箱に入れた後、オーギュは改めて公園の周辺を見回した。そんなにすぐにリシェは見つかる訳無いか、と安易な考えを起こした自分に対して苦笑いする。
「リシェが行きそうな場所ってご存知ですか?従兄弟同士なら、それ程長いお付き合いでしょうから趣味と分かりそうなものだと思うのですが」
彼の趣味を知る限り読書や剣技関係だろうが、その他に趣味とかあれば大体の行動範囲を特定出来そうだ。
オーギュの問い掛けに、スティレンはふんわりとした髪を揺らしながら「うーん」と考える。
「趣味かぁ…あいつ、根暗だから本読みとか位しか俺知らないです。今より仲良くも無かったし」
『リシェと血縁関係だったのか。その割には随分と性質が違うな』
ここでようやくスティレンの素性が分かり、ファブロスはまじまじとスティレンを見た。何となく似たような雰囲気だったが、印象はがらりと違って見えたようだ。
「地味なあいつと違って俺は生まれながらに華やかなので」
『ほう。ここまで分かりやすい性格も始めてだな』
「はい。良く言われます。俺が高級庭園で育った薔薇なら、あいつはその辺の地面に生えた雑草のようなものですし」
ひたすら自身を褒め称えるスティレンの話を聞きながら、返す言葉を全く持てずにいるオーギュは、普段通りの冷静さを装いつつ困惑する心境を整頓しようと躍起になっていた。
素面で言える自画自賛タイプなど今まで見た事が無い。
確かに自分も魔法に関してはそこそこの自信があるが、自ら口にして言う程でも無かった。
彼は自分に相当の自信があるようだ。
…確かに自惚れたくなる程の美しさを持ち合わせている。だが、自ら美しさをひけらかす者はまず居ないだろう。
仮に、長い事付き合っていけばあまりの自信家っぷりにこちらが疲れそうな気がした。
「と…とりあえず、リシェを探してみましょうか。遅くならない程度にしておきましょう。あの子はしっかりしてますから、夜遅くまでは城下街に留まらないでしょうし」
いつまでも同じ場所に居る訳にもいかない。
オーギュはリシェが向かいそうな場所を頭の中で模索し、武具店や魔法関係のショップを手当たり次第探ってみようか…と天を仰いでいた。
リシェは老婆に導かれる形で、アストレーゼン城下街の中央街道からやや外れた小道へ通されていた。大きな通りから外れると、行き交う人の姿は激減する。
大抵の人間は分かりやすい大通りを歩くせいか、違う道に入り込むと迷う傾向にあるのだ。
アストレーゼンの街は昔ながらの造りそのままに様々な道が入り組んでいて、利用する者は小さな道を使わなければ家路に辿り着けない住民か、素性が謎な出立ちの人間のみ。
そして目立つ通りよりも、人の目に晒されにくい分治安はやや悪くなる。特に夜間になれば薄暗くなり、道を照らす街灯も小さい上に建物と建物の間に挟まれる形で月の光も遮られてしまう。
まだ日の光があるだけまだマシかもしれない、と少し明るさに翳りが見え、少し不安な気持ちになっていたリシェはそう自分を納得させていた。
細い路地を老婆を先頭にして進んで行く。
「どこまで行く気だ?」
のんびりした歩調で前を進む彼女に問う。老齢の為に速度も遅く、リシェはなるべくぶつからないようにスローペースで追いかけているが、やはりこちらの足が早くすぐにぴったりとくっついてしまう。その度に一旦立ち止まり進行するのを待っている状態だった。
自分がヴェスカのように大柄で力が強かったら、この老婆を簡単に担いで歩いていけるのだがそれも出来ない。
「もう少しだ。あまり目立ちたく無いんでな」
「それにしたって凄い場所に住んでる気がするけど…良くこんな場所を選んだものだな」
建物と建物の間の小さい通路をひたすら歩き続けていくと、やがて少し道が開けた場所に辿り着く。平民層の住居が立ち並び、どこかで子供達が遊んでいるのか賑やかな笑い声も聞こえてきた。
住居は年季の入った煉瓦造りの家が殆どで、住居と住居の間に日差し対策の為に丈夫な綱と布を用いて簡易的な屋根を張り巡らせていた。
布は模様入りだったり、明るめの色を使用したりと、見た目には非常にカラフルだ。綱を物干し竿のように利用する者も居るらしく、稀に洗濯物がぶら下がっていた。
大聖堂では完全にお目にかかれない光景だ。
通り掛かる際に出会う住民も、どちらかと言えば質素な身なりをしている者が多くリシェの宮廷剣士のかっちりとした格好を見るや眉を寄せたり珍しい物を見るかのような顔を向けられてしまう。
やはりスティレンが言うように、制服では無く普通の服が良かったのだろうか、と少し反省する。休みも不定期で、いつ何が起きるか分からないのでつい着てしまう癖がついてしまうのだ。
老婆の言葉に釣られてついここまで来たが、不意に従兄弟の事を思い出す。そういえば置いてきてしまったなと。
ちょっと待ってくれと訴えたものの、彼女はリシェの言葉を完全に無視するかのようについて来いとだけ告げてさっさと行ってしまったのだ。
あのままスティレンを待っていてもまだ時間はかかるだろうとは思っていたが、焦って追い掛けてしまったので本人に出払うと声をかける暇も無かった。
…そもそも買い物にあれだけ悩むのも良くない。
結局彼を置いてきてしまったが、そのうち察して大聖堂に戻っていくだろう。
自分の買い物の為に人を待たせていたので罰は当たらないはずだ。
リシェはそう思う事にした。
「うぅ」
鈍足な老婆が急に立ち止まるので、後方のリシェは思わず躓きそうになってしまった。
このまま倒れたら高齢の相手を潰してしまうかもしれないではないかと両足に力を込める。
「…いきなり止まるな!」
ぶつかりそうになり、焦りながら自分の背よりも小さな彼女に怒った。皺だらけの顔を上げながら、老婆はリシェの抗議を完全にスルーして「こっちだ」と言う。
「そこの建物があるだろう」
平凡な住宅街に囲まれた敷地内で、一際悪目立ちする一軒の小屋が形を潜めるような出で立ちで出現している。あまりにも古めかしく、雨風を凌げるのか疑問を呈するレベルのバラック小屋。
リシェはそれを見るなり、思わず顔を顰めてしまった。
「ふ…不便じゃないのか?こんな」
「一時的に借りてるだけだ。元々ここに住んでない」
「そ、そうか」
借りてるだけ、と言われてリシェは何故か安堵した。
とは言え、一体彼女は何者なのだろうか。
「…ふむ。お前には『声』が聞こえてこないか」
「え?何の声だ?」
意味深な発言に、リシェはきょとんとして老婆を見下ろす。誰の声の事を言っているのだろう。
「ふん、まあいい。来い」
古過ぎる小屋の中に入るのは正直抵抗を感じたものの、何があるのかは興味があった。意を決し、促されるままに足を進める。
老婆は建て付けの悪いスライド式の扉を開いた。同時に内部から湿っぽく、尚且つお香が混じり合った不思議な匂いがする。
古い木の壁に、更に雨風を凌ぐ為か別の木で適当に打ち付けられている程の状態の悪さを露呈しているが、内部は意外に片付いていた。あちこちに照明用に使っている発光石が網に包まれぶら下がり、隙間風を受ける毎に揺れている。
「良くこんな場所で住めるな」
リシェは正直な感想を述べた。
「夜は寒いだろうに」
自分の幼い頃でも、ここまで状態の悪い環境で過ごさなかった。虐げられてはいたが、必要最低限の生活は出来たのだ。
老婆はリシェの話を無視し、家の奥に進む。
「…何だこれ…杖に魔石の塊に、魔導書?え…?この道具、図書館の本で見た事ある」
暗がりにようやく慣れてきたリシェは、改めて室内を見回し屋内に置かれた物に驚きを隠せずにいた。単なるバラック小屋かと思っていたが、未知の魔道具が揃っていたのだ。
リシェが目を輝かせているのを見るや、奥で重そうに腰を下ろす老婆は口元に不敵な笑みを浮かべていた。
「これ、あんたが集めた物か?…凄い、月の羅針儀だ。でも古いし魔法陣も薄れているから作動しなさそうだな」
書物に描かれていた物が、実際目の前にある興奮で目を輝かせてしまう。魔導具の数々に目移りしそうだ。
その他に普段では決して見掛けないであろう不思議な道具が無造作に置かれていて、リシェの興味を更に惹き付けていく。
「この杖、オーギュ様の使う杖に似てる」
あちこちに立て掛けられている杖の一部を手にしながら、リシェは物珍しそうに言った。
「あんた、何者なんだ?魔法使いか?」
第一印象としては完全にその出で立ちだった。
「私はそんな野蛮な事は一切しないよ。人並み以上に魔法は使えるがな」
「どういう事だ?」
魔導師では無いというならば他に何があるのだろう。
老婆はリシェに向けて持っていた杖を向ける。その瞬間、その杖に付いていた魔石が一瞬眩しく輝きを放った。
うわ!と目が眩みそうになり思わず杖から身を離す。
「ま、眩しい!何なんだ」
よろめき目を押さえるリシェを見ながら、彼女は意地悪そうに笑った。
「そいつは私が作ったんだよ。魔力を使って既存の道具にある種の命を吹き込む。魔導具職人ってやつだ」
「魔導具…職人?」
聞き慣れぬ職種に、リシェは杖を手にしたままぽかんと口を開けていた。
その頃のアストレーゼン大聖堂、司聖の塔。
「集中力が切れましたね!」
一人で仕事の続きをしていたロシュは、不意に顔を上げて爽やかに口走っていた。延々と作業をしていたので少しは休んでも罰は当たらないだろう。
ううんと体を伸ばしながら、カチコチに固まっていた全身の力を解いていく。
厳しい監視の目も無いので今日は気楽に過ごせそうだ。
そして、あまりにも缶詰過ぎるのも宜しく無いだろう。多少は出歩かなければ、仕事も煮詰まってしまう。
リシェもまだ戻る気配が無いのでいちゃつく事も出来ない。彼が居れば、まだ癒しを求められるのになと苦笑しつつ、机上の散らかった書類を軽くまとめた。
そのうちの数枚が床にはらりと落下する。書斎机の下に入り込み、よいしょと拾い上げて身を起こそうとしたが、引き出しの下に頭をぶつけてしまった。
がつりと鈍い音と共に、ロシュは「あ痛ぁっ!!」と叫び声を上げてしまう。
誰も居ないので笑って誤魔化す訳にもいかない。
しばらくたった一人で、痛みに耐えていた。
「うぅ」
中性的な美しい顔を歪ませながら、ロシュはようやく立ち上がる。落ちた書類を丁寧に置き、頭を撫でながら室内を数分徘徊した。
「うぅうう痛い…痛ぁああ…」
魔法を使えばすぐに治るが、こんな情けない事でわざわざ使うのもどうかと思う。何でも魔法に頼るのも良くないとオーギュも言っていた。
こんな下らない事で魔法なんて使いますか、普通?と馬鹿にされる事間違い無いだろう。
普通の痛みにも耐えなければ。我慢も大事だ。
打ち所が悪かったせいか、じんじんと痛みが頭に響いてくる。
悶絶から数分経過しただろうか。
「はぁ…」
ようやく痛みが落ち着いてきたようだ。
部屋に延々居続けるのも良くない。痛む頭を押さえながら、彼は自室から出る事にした。
いつものように塔の螺旋階段を軽やかに降り、外へと飛び出す。暗がりの階段から抜け出た先に見える外の世界は、非常に明るく感じてしまう。
塔からすぐ先にある厨房からは料理の仕込みのいい匂いが立ち込め、若干空腹の虫が騒いだ。
さて、と。
ロシュは大聖堂のメイン回廊方面へ体を向け、悠々と歩き始めた。仕事の合間や落ち着いた頃に散歩をするのは、気分転換には丁度いい。散歩をする事によって、煮詰まっていた物事が不意に解決する事もあるのだ。
暖かい風が頰を撫で、ロシュの緩く波打つ髪を揺らす。
街の方に行ってみたいが、流石に単独で行くとなると止められてしまうだろう。リシェも恐らく城下街の方へ下りているはずだ。
自由が利く彼とは違い、自分は気軽に出歩ける立場では無い。そう思うと、ちょっと残念な気持ちになってしまう。
やはり変装する為にある程度道具を用意するべきだな…と考えながら、中庭の方へ足を踏み入れた。
いつも通りの賑やかな景色。
落ち着くなぁと思いながら足を進めると、大聖堂の職員の数人がロシュに気付いたらしく足早に近付いて来た。
「ロシュ様!」
「ロシュ様、ご機嫌麗しゅうございます」
「ご散策ですか?」
矢継ぎ早に声をかけられ、ロシュは反射的に「こんにちは」と営業スマイルを浮かべる。
「少し気分転換に出て来ました」
単独で出歩くと、かなりの確率で声をかけられてしまう。
こればかりは致し方無いと割り切っていた。気分が乗らない時は外に出ないので、声をかけてくれる相手に対して不快な態度を取る事も無い。
ふらりと散歩したい時は気持ちに余裕のある時だけ、とロシュは決めていた。
「オーギュ様はご一緒では無いのですね」
「ええ、流石にあの人も働き詰めだったので休暇を取って貰っているのですよ。今日も仕事をするつもりだったんですが疲れが非常に溜まっているようなので」
軽く談笑していると、周囲がこちらに気付いてざわつき始めていた。今の時間帯は人の出入りもピークで、旅人や一般客、巡礼する者が途切れる事なく大聖堂へ足を伸ばしてくる。
その状況下で、象徴の一部である彼がお供も無く中庭に居るとなれば、司祭職に就いている人間は気が気では無くなってしまうのだ。彼らは口々にロシュ様だ、と畏敬の目を向けてくる。
遠目で見る者も居れば、少しずつ近付いて姿を確認しようとする者も居た。
ロシュの外見だけはとにかく良過ぎるので、彼の本来の内面を知らぬ人々ならば憧れの眼差しを注いでしまう。
大聖堂の敷地内を歩く度にその容姿に見惚れた者からの羨望や恍惚とした溜息混じりの声がしばしば聞こえてしまう位だ。
そのような環境に置かれても決して天狗になってはならない、与えられたものをひけらかすなどもっての外だと司祭になる際には口を酸っぱくして聞かされていたので、仮に褒め称えられていてもロシュは謙虚に受け止めていた。
他者から言われる前は全く分からなかっただろう。自分が持ち合わせている容姿と才能に。
若気の至りもあって、恥ずかしい事にその当時はひけらかす事の何が悪いのかと開き直っていた節もあった。恐らく相当周囲には嫌われていただろうと思う。
実際に、昔馴染みのオーギュからは面と向かって嫌いだと言われた事もある。それは現在でもそうだが、昔より態度は軟化していた。もう腐れ縁の状態なのだろう。
自分と対等な立場なのは彼位しか存在しないのだ。
「良い休暇を」
「はい。ありがとうございます」
話しかけてくれた人々に笑顔で返した後、ロシュは改めて大聖堂の中を散策する。
中庭を通り過ぎ、正門の入口に差し掛かった。
外部からやってきた旅人達が、所持している武器などの危険物を職員によって預けているのを横目にしつつ何となく城下街方面の方に足を伸ばしてみようと試みたが、「少々お待ちを」と腕を取られ後ろに引っ張られてしまう。
あう!とロシュは軽く声を上げた。
「困りますよぉ、見張って無いとお思いですか?」
悪戯っぽい口調で囁く低い声が頭上で聞こえた。
ありゃぁ…とロシュは苦笑してしまった。まさかここで知り合いに引っかかってしまうとは。
「取り込み中でしたから、もしかして…とは思ったんですけどねえ。ヴェスカ、まさか今日の門番役があなただったなんて」
やはり駄目だったかぁと苦笑いすると、ロシュは観念する。相手の大柄な門番役の剣士は、ロシュを掴んでいた手を離しながらやっぱりなと笑った。
「結構前にオーギュ様とファブロスが出て行ったんです。その時に言われたもんで」
「抜け目が無いなぁ」
「めちゃくちゃ分かりやすくて笑いそうになりましたよ。まさか本当に抜け出そうとするとか」
「…私のやろうとする事を完全に見越してるんですね…」
どれだけ普段の自分が信用出来ないのだろう。
肩を落とすロシュに、ヴェスカは「意外にあの人は疑り深いですからね」と苦笑いする。
「ロシュ様でそれなら、俺だと余計に疑って掛かってきますよ。全く信用されて無いですから」
日頃の行いのせいだからかもしれないけど、と彼は陽気に笑った。
果たしてそれは嬉しい事なのだろうかと疑問に思うが、オーギュの性格上慎重が過ぎるせいなのかもしれない。
ロシュは仕方ありませんね、と観念した。流石に強行突破する程の度胸は無い。
門番をする剣士達を困らせる事も望んではいなかった。
「大人しく大聖堂内で散策しますか…」
「はは、その方がいいと思いますよ。後々怖いだろうし…流石に俺も、ロシュ様が単独で外部に出られたら責任持てないですよ」
「うーん、やっぱり外に出るには変装するべきでしたね。今回は引き下がります」
やっぱりという発言に、過去に何度かそれでやり過ごせたという事になる。
全くめげない司聖に、ヴェスカは懲りないなあと笑った。
スティレンと合流し、姿を消したリシェを探すべくオーギュ達はアストレーゼンの城下街の中を散策する。
「人の数が多過ぎますね。これはリシェを探すには苦労しそうです」
平日だとしても国の中心部である事から、様々な人々がごった返している。この中からリシェ一人を探し当てるのは至難の業だろう。
スティレンは手間取らせる従兄弟に対して苛立ちを隠せない様子だ。
「あいつは田舎者丸出しでふらついたに決まってますよ。次はロープで繋いでやった方が良いかもしれません」
『元はお前が四十分も待たせるからだろうに』
彼の言葉に突っ込まずにはいられないのか、ファブロスは無表情で言葉を返していた。
そしてスティレンもその突っ込みに普通に対処する。
「紳士の買い物は長いんです。常に身嗜みに気を付けておかないと相手方に失礼になる」
その相手方は誰を示すのか、と気になった。リシェ同様、アストレーゼンに居る限りはなかなかその機会には恵まれないような気もする。
「とりあえずあの子が赴きそうな所に行ってみましょうか。リシェが興味ありそうな店とかしらみ潰しに」
「あいつは無駄に剣の練習とかするので、武器屋とかそういう装備品の類の店とか行きそうな気がします」
「ふむ」
スティレンの言葉をヒントに、オーギュは街にある武具屋の方向を確認する。武具屋といっても旅人向けに様々な場所に展開されているので、比較的近い場所を探し当てて行くしかないだろう。そこまで遠くに行ってないはずだ。
彼は現在ロシュから貰った剣が無い状態なので、サブで利用している物を物色している可能性もある。だが、宮廷剣士に支給されているノーマルの剣も持っている事から期待度は薄い。
ただ、行ってみるのに越したことは無いだろう。
さて…とオーギュが知る限りの店を思い浮かべながら顔を上げた瞬間、不意に「あ」とスティレンが声を上げた。
「何です?」
「あー、思い出した!そういえばあいつ、杖の魔石に魔力を詰められる店がどうたらって言ってた!もしかしたらその店を探しているかもしれない」
スティレンはふんわりした髪を揺らし、どこかすっきりした表情で叫ぶ。何の為に出てきたんだっけ、と彼なりに思い出そうとしていたのだろう。
明確なリシェの目的が判明し、オーギュはそれならと微笑む。
「あの子は魔法関係の店に向かったのでしょう。限定されて良かった」
『この街に魔導具屋はあるのか?』
「武具屋よりは少ないですが、私も立ち寄ったりしますので場所は知っていますよ。店によっては行き先を転々としながら売るタイプもありますけどね。あなたと契約した際に出会った魔導具屋はそういう流浪の露天商みたいなタイプでしたし」
『出来るものなら二度とあの魔法使いの顔を見たくないものだな。窮屈な瓶なんぞに閉じ込めおって』
「んん?」
ファブロスの軽めの愚痴にオーギュは反応する。
「ファブロス、あなたはあのお婆さんと長い付き合いなのですか?」
時系列が良く分からなくなりそうだった。主人の不思議そうな顔を見下ろし、ファブロスは『あの魔法使いはかなりの年月を生きてるぞ』と返す。
『あれは人間と尖耳族のハーフだ。普通の人間より長生きする種族だろう。あまり目立たずに魔法の道具を作って細々と生活している。魔法の能力は普通の人間より高い』
「せんじ…ぞく?」
聞いた事の無い種族だ。世界には多様の人種が存在するのは知っているが、身体的特徴を明記した種族の名前を聞くのは初めてだった。
その名の通り耳が尖っているのだろう。
「エルフ的な感じでしょうか?」
『そうとも言うだろうな。耳が目立つだけで他の人間とは何ら変化は無いが、好奇な目線で見られる事を嫌う事から大半は耳を隠して生きているはずだ。人間の比率が高い世界では珍しいタイプだからな』
「へえ…」
『見かけは老婆だが、実際の年齢はどうか分かったものじゃないぞ。人の目を欺く事など奴らには雑作も無い事だ。物珍しい種族の出ならば、尚更完全に無害を装って生きる事が最善の方法なのだ』
「それもまた、窮屈ですね…」
アストレーゼン内に居を構える魔導具屋を探しつつ、三人は煉瓦作りの道を進んで行く。
確か大通り内にも一軒あったな…と思い出していると、「そこの方!」と不意に知らない旅行者から引き止められてしまった。
ファブロスをやや先頭にして歩いていた一行は足を止め、その声が聞こえた方向に体を向ける。そこには武装している旅人が三人程。
リーダー格が大剣と重厚な鎧、二人目は軽装で背中にはしなやかで持ちやすそうな弓。三人目の女性は魔法使いといういで立ちだ。
印象では相当な熟練者のような雰囲気だが。
オーギュはきょとんとした顔をしながら「何か…?」と問う。
彼らはオーギュ達を見ると、ぱっと表情を明るくした。
「あぁ、やっぱり俺らの目は確かだったな」
「いやいや、あたしが人並み外れた魔力を察知したからでしょ?何で自分の手柄みたいに言う訳ぇ?」
一体何の話をしているのだろうか。
『何の用だ?』
ファブロスが警戒しながら相手一行に問い掛けた。危険な印象は無いが、主人の身は自分が守らなければならないという意識が出てしまう。
重装の剣士は頭を下げながら会話を続けた。
「もしかして、旅の魔導師様かと思いまして」
声をかけた理由を説明してきた。スティレンは完全に私服だったが、オーギュは法衣姿でファブロスは宮廷剣士を模したようなかっちりした衣服だった事から誤解したのかもしれない。
オーギュはふっと微笑むと「魔導師ですが旅はしていませんよ」と答える。
「ありゃ…そうだったんですかぁ。残念」
「何か御用があったのですか?」
軽装の男性は頭を掻きながら無礼を承知の上で、と前置きする。
「簡単に言うとスカウトしようかと思ったんです。俺らは旅をしながら各地で依頼をこなして生活しているので…」
その言葉になるほど、と納得する。
「へえ…居るもんだね。ハンター的なあれ?」
スティレンは興味深そうに三人を見る。
その地域で困っている人物からの依頼を得て、解決に導き謝礼を貰うというのは決して珍しくは無い。
ただ、命の保証は出来ないとあり、相当な手練れでなければ好んでその道を選ぶ者は少ないのが現状だった。
軽装の若い男は「そんな感じだね」と笑う。
顔の中心がやけに日焼けしていて、若干赤ら顔だ。弓を扱う者は目に日差しが差し込まないようにゴーグルか帽子を装着する者が多いが、彼もまたその類なのだろう。
鼻の上から皮膚の色が若干違って見える。
相当腕を慣らしてきたのだろう。
「えぇ…勿体無ぁい。魔法使いが居れば、その分依頼も楽勝なのに。二人だと絶対早いし」
『私のオーギュはこう見えて多忙な身なのだ。今は仕事の合間に息抜きをしているようなものだからな』
勧誘をしてくる彼らに対し、ファブロスは丁寧に説明をする。各地を旅する者達ならばオーギュがどの立場に居るのかは分からないだろうと思ったのだ。
そんなファブロスの言葉を聞きながら、スティレンは一瞬眉を寄せる。
…しれっと『私の』って言ったな。
不思議な雰囲気を纏うオーギュの付き人を横目で見ながら、変わったタイプだと感じていた。
「ん?多忙な身?」
『当然だとも。私のオーギュは大聖堂で重要な役割を持つ者だからな』
「…てか、私のって言い過ぎでしょ…どれだけ気に入ってるのさ…」
今まで突っ込まれてきた仕返しに、スティレンもファブロスに突っ込んだ。
だが彼はさも当然だと言わんばかりに『私のだからだ』と断言する。
ぽかんとする三人の旅人を前に、ファブロスは『いいか、小僧』とスティレンに語り始めた。
『私は今まで召喚獣として様々な魔導師と生を共にしてきたが、その中でもこのオーギュは抜群に相性が良い。しかも私を対等に扱ってくれる人格者だ。元は獣の私に、人間としての生活の基本もしっかり教えてくれた。お陰でこのように普通に化けて暮らせる術を身に付けたのだ。確かに奴の部屋は勉強故に書物や薬草や魔法に関する物で溢れ返っていてとにかく散らかっているがな、まあそれは仕方あるまい。こんなに熱心な魔導師もそう居ないのだ。オーギュは私の自慢の主…』
いつ終わるのかと待っていたが、まだ言い足りなさそうな彼を「ファブロス」と主人のオーギュが口を挟んだ。
居心地悪そうにしながら、彼はもうやめて下さいと懇願する。
「お相手の方々も困ってます…私も困りますよ、いくら何でも褒め過ぎます」
ファブロスは何だと?と眉を顰める。
『まだ足りないぞ』
そこまで言っておいて、言い足りないのか。
スティレンは呆れながら馬鹿だねと辛辣に言うと、少しは考えなよと溜息を漏らす。
「最初の内容から話がいきなり脱線してるんだよ…」
『私はオーギュの事を言っているのだ』
「…はあ、あんたがオーギュ様を心酔しまくってるのは良く分かったよ。でも今そんな話をされてもこの人達は困るでしょ。知り合ったばかりの相手の惚気を延々聞かされてさぁ」
ファブロスは隣のオーギュを横目でちらりと見る。彼は何とも複雑そうな顔でこちらを見上げ、「気持ちは分かりましたから…」と言った。
「今はその話をしていませんよ」
『…ふん』
スティレンは相手の旅人に「悪いけど」と話を切り替えた。リシェと同じ位の年齢にも関わらず、相手が年上だろうが全く物怖じしない気の強さを兼ね備えている。
「オーギュ様はアストレーゼンにとって大切な役目を持つお方だから、折角のスカウトだけど応じる事は出来ないよ。ま、見る目はあるけどね」
自分がオーギュの代わりに丁重に断りの言葉を告げれば、話もしやすくなるだろう。スティレンは簡単に説明しながら相手方の要求を突き放す。
そこでも主人に心酔し過ぎるファブロスは何度も頷きながら『そうだそうだ』と続いた。
『確かに私のオーギュの力に注目して声を掛けるとはなかなかのセンスの良さだ』
「あんたはいちいちオーギュ様を上げなければ死ぬ病気にでも罹ってる訳?」
自分を特別だと思っているスティレンと、主人を特別視しているファブロス。この二人は似通っている性質なのかもしれない。
スティレンの説明を聞いた大柄の剣士は、ほう…と自分よりも遥かに体型の異なるオーギュに目線を配る。
「じゃああんたは役職持ちって訳か。なら無理に連れ出す訳にもいかねえな…残念。諦めるか」
「お声掛けは大変嬉しいです。ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、オーギュは挨拶した後でスティレンとファブロスに行きましょうかと声を掛けた。
「あぁ、そうだ」
不意に剣士は何かを思い出したかのように声を上げる。オーギュは足を止め、彼を振り返った。
「何か…?」
「この街のどこかに、流れの魔導具屋があるって話だぞ。あんたも魔法使いなら興味があるかと思って」
「…ちょっと!その話は最初あたしが言ったやつでしょ!また自分の手柄みたいに言い出して!!」
自分と同じ魔導師の女がむきぃっと怒りながら抗議する。
毎度このような会話を繰り広げているのだろう。仮に彼らについて行けば、きっと楽しい旅路になりそうだ。
『流れの魔導具屋だと?』
ファブロスはそのフレーズに反応した。
先程の会話からのまさかの展開に、話がうま過ぎるとさえ思ってしまう。だが、行ってみる価値はありそうだ。
スティレンはオーギュに「これはいい話を聞きましたね」と小声で言った。
「ええ。もしかしたらリシェがそこへ足を運んでいるかもしれません」
街に点在する魔導具屋に寄りつつ、その流浪の魔導具屋を探せばいい。同じような品物を置きがちな街の店よりは、各地を転々として様々な道具を集めているであろう流浪の店の方が確率は高いはず。
リシェが街に出てきた目的も判明したので完全に場所は絞れた。
「私達、人を探していたのです。街の魔導具屋に向かおうとしていたので、まさか大変有力な情報まで頂けるとは。ありがとうございます」
オーギュは旅人達に頭を下げた。彼らは何気なく話題に出したつもりだったのだが、想像以上に感謝されたのでややくすぐったい気持ちになる。
お互いに顔を見合わせた後、照れ臭そうに「そんなに感謝されるなんて」と笑った。
「ま、そいつが見つかるといいな。じゃあ俺達はこれで」
「はい。旅のご武運をお祈りしています」
あんたの気が向いたらいつでも声掛けてくれよ、と剣士は冗談っぽく言い残し、仲間と共にアストレーゼンの街の中へ再び溶け込んでいった。
見送った後、オーギュは改めて「探しましょうか」と顔を上げる。
『…まさかあの老婆とまた会わなきゃいけないのか?』
「あなたの言う魔導具屋だと断言は出来ませんよ。他にも旅をしながら道具を売る人も居るでしょうから」
やけに警戒するファブロスに、スティレンは不思議そうに何でそんなに乗り気じゃないの?と問い掛ける。
「めちゃくちゃ嫌な思い出でもある訳?」
『お前には分かるまい。無理矢理瓶に詰め込まれる窮屈さなど』
「ファブロスは人の姿になっていますが、私と契約した召喚獣ですからね。解放された今が一番快適なのです」
その説明で、やけに彼がオーギュに対して異常なレベルで上げているのに合点がいった。
ファブロスにとって、オーギュは窮屈な場所から自分を解放してくれた恩人なのだ。そう思えば理解出来たが、褒め方がこれ以上無いレベルでの言い方だったので相当惚れ込んでいるのではと勘繰りたくなる。
「へぇ…だからあれだけ病的にオーギュ様を上げまくっていたんですね。納得しました」
ひたすら褒めないと死ぬ病気なのかと思いました、とスティレンは可憐な雰囲気を撒き散らしながら笑った。
彼も美しい顔立ちなので笑顔になると嫌味っぽさを感じさせないが、ファブロスは言葉を素直に捉えてしまう。
『お前はやけに一言多いな』
そして負けじと、嫌味で返した。
バラック小屋の中で、様々な魔導具に目を輝かせていたリシェに、怪しげな雰囲気を醸し出す老婆は目を細める。
「今まで魔導具の店に入った事は無かったのか?」
埃被る水晶を手にして、軽く上部を払っているリシェはああ、と頷いた。
「俺は今まで魔法とかに縁が無かったからな。魔力を引き出して貰って初めて少しずつ使えるようになったんだ」
「ふん…仕込まれた高魔力の割に中途半端な力しか無い理由が分かったわ。お前がまだ未熟だから引き出せていないのだな」
リシェは妙に馬鹿にされた気がしたが、ぐっと耐えた。
本当の事だから、反論出来ないのが悔しい。
剣もまだ半人前で、魔法も初心者のようなものだ。中途半端と言われても文句は言えなかった。
落胆していると、彼の様子を察した老婆はまあいいと言う。
「お前が望んでいる事は理解しているからな。その前に魔力の元を引っ張り出さなければならんわ」
「…え?何をするつもりだ?」
魔力の元を引っ張り出すとはどういう意味なのだろうか。
リシェは疑問を抱きながら彼女に問うが、返事をする事も無く座ったままで指先に小さな魔力の光を乗せる。
一瞬かくりと頭を揺らした後、ふふんと小さく笑った。
「お前と似たような奴が居るな。魔力元の男は性質上操るのは厳しいから、脆弱なこいつを借りるか」
「?」
似たような奴?とリシェは不思議そうな面持ちで彼女に注目した。すると指先の光は輝きの強さを増し、ヒュンと真っ直ぐに伸びていく。リシェの横をすり抜け、そのまま小屋の外へと突き抜けていった。
うわわ、と反射的にリシェはそれを避ける。
「何をした?!」
老婆はゆっくりと顔を上げると、リシェの質問に答える。
「ただ誘導してやるだけさ。こうでもしてやらなきゃ、奴らはここまで嗅ぎつけて来ないだろうからね」
「誘導…?」
一体誰を引っ張り込もうとしているのだろうか。自分と似たような奴、となれば該当するのは一人しか居ないのだが、スティレンを引っ張り出しても全く無意味な気がする。
だが、魔力元の男というのはどういう意味なのだろう。
老婆が何をしようと思っているのか、リシェはまだ分からなかった。
「俺と似たような奴って…あんたは遠くの景色でも見えるのか?」
「そんなもの、街に散らばっている魔力の欠片を介しながら幾らでも見れる。その辺の非力な魔導師より何百年と生きてるからな」
生きている年数からしておかしい。
リシェは目を見開き、老婆を凝視した。
「あんた、何者なんだ?人間じゃないのか?」
強風に煽られている為か、小屋から隙間風が入り込んであちこちから軋む音が聞こえてくる。いつ倒壊するか分からない危うさを感じさせながら、辛うじて建物としての形を保ち続けていた。
リシェは上から吊り下がっている発光石の数々を見上げると、この小屋の不安定さに若干の恐怖を感じる。
「私は魔導具屋だって言ったろ」
「それは聞いたけど…何百年も生きてるんだろう?」
「…面倒な奴だね。…これを見れば納得するだろう」
彼女は深々と被っていたフードを剥がし、頭に巻いていた布を解いていく。徐々に隠されていた部分が剥がれて中が見えてくると、リシェは「え」と声を上げた。
老婆の耳は普通の人間よりも尖っていた。耳たぶには数種のイヤリングが飾られていたが、それは特に指摘する所では無い。
初めて見る異質な形に、思わず驚いてしまった。
「違う種族…?」
「あぁ、そんなもんだね」
「初めて見た。見た感じでは普通に人間なのに」
老婆は再び頭に布を巻きながら、「そんなに見せられるものではないからな」と自嘲気味に言う。
「剥き出しにして歩けば、お前のように物珍しい顔をしてこっちを見るだろう。私らは少数民族のようなものだからな。奇異の目線に晒されるのは御免だよ」
「………」
奇異の目で見たつもりは無いのだが、長い事生きてきたという彼女は今まで嫌という程経験があったのだろう。
リシェは俯きながら、「悪意は無いんだ」と呟く。
「ただ、人間じゃないっていうタイプを初めて見たから」
「…私らは隠れながら人間として暮らしている。耳を隠しながらね。知らなかったと言われても当然さ。擬態しているようなもんだ」
「他にも居るんだろう?あんたと同じ種族が」
「そうだね。私の知らない所で細々と生きているはずさ。私らの種族は一つに固まって生活なんてしないからね。固まった所で、利益を求めようとする輩に狙われるのがオチさ」
その間にも、老婆の指先から魔法の光が延々と外に向けて放出され続けている。
「利益?」
「言っただろう?私らは、人間から見れば物珍しい道具を作る事を生業としている。とっ捕まえて無理矢理物を作らせてから、高値で売り捌くっていう奴も居るのさ。普通の人間にはどうしても作れない物を作る事が出来るからね」
その発言に、リシェは思わず眉を寄せてしまった。
確かにこの小屋の中にある道具の数々は、普段の店ではお目にかかれないような代物ばかりだ。これは彼女の種族でしか作れない貴重な物なのだろう。
それを無理に作らせるような邪な人種が居るとは。
「なるほど。無闇に正体がバレないように耳を隠して生活しているという訳か」
老婆はリシェの言葉にそんな感じさ、と答えた。そしてゆっくり顔を上げてそろそろだねと呟く。
バラック小屋の外で、何やら騒がしい声が近付いている様子が聞こえてきた。リシェは怪訝そうに背後を振り返りながら「…何だ?」と眉を寄せる。
けたたましい足音と、騒いでいる数人の声が聞こえたかと思うと、突然小屋の扉から衝撃音が響いてくる。
ドシーン!!という激しい音と一緒に家の中が揺れた。
「は…?」
何が起こっているのか見当も付かず、リシェは扉に近付き外の様子を見ようとした。
「いったぁああああああい!!何、何なの!?」
一枚の扉を挟み、苛立つように叫ぶ少年の喚き声。
そしてまたこちらに向かって駆け寄ってくる足音が扉越しに聞こえた。
「スティレン。大丈夫ですか…」
『いきなり走ったかと思えば。何故そこに激突したのだ』
あれ?とリシェは驚く。何故ここにオーギュとファブロスが居るのだろうか。彼らの声を耳にしたと同時に、リシェは建て付けの悪い小屋の扉をゆっくりと開けた。
ガタガタと古臭い音と、ずっしりした重い扉を開きそろそろと顔を外に出してみる。
「何で俺がこんな場所まで引っ張られなきゃならないのさ…おかしいでしょこんなの」
扉の真下で顔を押さえてうずくまっているスティレン。
「…何してるんだ?」
リシェは思わず彼を見下ろし、従兄弟に問う。
一方でスティレンは聞き覚えのある声に勢い良く顔を上げ、リシェの顔を確認すると「お前っ!!」と激昂した。
「俺を置いてよくも別の場所にほっつき歩いてたもんだね!何考えてるのさリシェの癖に!!待ってろって言ったでしょ、人の話も聞かないで馬鹿じゃないの!?てか、何も言わずに勝手に置いて行くとかあり得ないだろ!!」
言いたい事を思いっきりぶち撒けてるスティレンを、リシェはうんざりした様子で「あぁ」と投げやりに返した。
そもそも延々と服で悩むのが悪いと思うのだが、そんな事を言えば余計怒り狂うだろう。
「リシェ」
「オーギュ様?あれ」
意外な人物の登場に、思わずリシェは声を少し姿勢を正そうとした。だが重い扉から顔だけ出しているままだったので身動きが取りにくい。
スティレンを追って追従していたらしいオーギュは、扉から顔だけ出しているリシェを見て驚いていた。
「ここ居たのですね。あなたを探している最中に、急に強めの魔力の干渉を受けてスティレンが引っ張られてしまったのです」
「魔力の干渉?…あぁ、なるほど…」
老婆の放っていた魔法の糸。
恐らくそれを受けたのがスティレンだったようだ。彼は扉の下で尻餅をついたまま、不機嫌そうに「もう」と感情を素直に吐き捨てる。
「俺の大事な体に傷が付いたらどうしてくれるのさ」
未だしつこい位に文句を言い続けるスティレン。
『宮廷剣士の言葉とは思えないな』
職業柄あり得ない発言に、鋭い突っ込みをする。
「大体ここ何なのさ。凄く引っ張られた挙句こんなぼろっぼろの小屋なんかに…気品ある美しい俺に似つかわしくない場所じゃない」
「いいからさっさと立ったらどうだ?」
自画自賛し続けるのが鬱陶しい。
面倒臭そうに扉から手を伸ばしスティレンの腕を引っ張ると、彼は渋々と立ち上がった。
「とりあえずこの扉を開けましょう。なかなか建て付けが良くないようですから」
オーギュはファブロスを促し、小屋の扉を開けさせた。
顔だけ出しているままのリシェを見る限り、力を込めて慎重に開けなければ開かないタイプだと思ったのだろう。
ふわりと漂ってくる魔力に、ファブロスは思わず『うぬぬ』と表情を歪める。
『ああ、やっぱりこいつか。じわじわと感じるぞ。どうせあの婆なのだろうな』
「…同じでしたか。良くご縁があるようですね、ファブロス。観念してご挨拶しましょうか」
こればかりは仕方ありませんよと苦笑混じりに言った。
切りたくても切れるものでは無いのだ。
扉を開けたファブロスは、主人に向き直ると『開けたぞ』と声をかける。
「先に入ってもいいのですよ。久しぶりでしょうし…」
『私のこの気の進まなさを見て言っているのか?あまり意地の悪い事を言うな』
余程顔を合わせたくないらしい。
オーギュは肩を竦めると、扉の奥に居るリシェに近付いた。
「オーナーは居るのでしょう?」
「はい」
「これもまたご縁ですから…挨拶していきましょうかね」
彼は自ら小屋の中に足を踏み入れて行った。
入口付近で自分の頭を撫でていたスティレンは、意思に関係なく強引にここまで引っ張られてしまった事をまだ根に持っているようで「俺にこんな事をさせた奴の顔を見てやる」とオーギュに続いて入って行く。
残されたリシェとファブロス。
「…入らないのか?」
リシェは扉から離れた場所で突っ立ったままの美丈夫に問う。ファブロスは腕組みをしながら憮然とした顔で『私はいい』とだけ返した。
あまり老婆にいい印象は無い模様。
『何かの拍子にまた瓶に閉じ込められそうだからな』
「…まさか。オーギュ様と契約しているんだろう?ならもう解放されたようなものじゃないか…」
押し問答をしていると、リシェは店の奥から急激な魔力の風が流れ込んでくるのを感じた。
「!!」
「っわああああぁああ!!」
飛び込んでくるスティレンの悲鳴。
同時にリシェの足元に吹っ飛ばされるような形で彼の体は扉目掛けて飛び込んでくる。
ドシーン!!と激しい衝撃音。咄嗟にリシェは彼を避けていたので、ダメージは半端無いだろう。
「い…いった…」
先程の強い風から受けた衝撃で、したたかに全身を打った様子だ。
リシェは思わず「何をしてきたんだ」と怪訝そうな顔で従兄弟に問う。しばらく全身の痛みに顔を歪めていたスティレンは、体を丸めて呻いていたが間を開けてようやく上体をゆっくりと起こす。
「文句を言ってやったら吹っ飛ばされたんだよ!」
『…相手が悪かったのか言い方が悪かったのかどちらかだな。迂闊な事を言わない方がいいぞ。痛い目に遭う』
外からひょっこりと顔だけ出して覗き見るファブロス。
文句を言いたくなる気持ちも分からなくも無いが、いきなり突っかかって行けば当然このような反撃を喰らう事は読めていた。ファブロスはついスティレンに同情してしまう。
「お前は相手の顔を見るなりいきなり文句を言ったんだろう」
老婆が今まで生きてきた環境を思えば、すぐに警戒されても仕方無いのだ。
スティレンの相手に対して全く物怖じしない性格も場合によってはメリットはあるが、この状況になるとマイナスにしか働かない。
「俺を勝手に動かしたんだから当然でしょ!こんな所まで引っ張って来ておいてこれだよ、怒りたくもなるっての!」
「すぐ怒る癖をやめた方がいい」
「うるっさいなぁ!」
手を差し伸べたが、強気過ぎるスティレンはリシェの手を払った。
『リシェ。こいつはもう性格が完全に歪んでるから言うだけ無意味だと思うぞ。買い物に長時間待たせても全く悪びれていないのだからな』
仕方無いと言わんばかりの口調。冷静なファブロスがそう言う位だから、もうスティレンの性格を指摘しても無駄なのだろう。
「ちょっと、軽々しく歪んでるとか言わないでよ!」
「他からそう指摘されるなんて余程だと思うぞ」
リシェも思う所があるらしく、はっきりとは言わないが同意した。
「あぁ…もう本当にあり得ない…」
痛む体を押さえながらスティレンは立ち上がる。
「大体、何であんたはずっとそこで顔だけ出してる訳?」
まだ扉の隙間から覗き込んでいるファブロス。
苛々しているスティレンの言葉に、内部の様子を伺っているようなファブロスは『私の事はいいのだ』と返した。
『この小屋の老婆の話は聞いただろう。出来るだけ関わり合いになりたくないのだ』
「結局怖いだけじゃない」
『何を言う。別に怖いのではない、関わりたくないだけだ』
顔だけ出しながら頑として怖くないというアピールを繰り返す。
不毛な会話を延々聞いていたリシェは困った顔で溜息を吐いた。やや時間を置き、奥からオーギュが姿を見せてくる。
「どうしたのです?…というか…大丈夫ですか?スティレン」
老婆によって思いっきり吹っ飛ばされた彼を心配そうな面持ちで見下ろす。
一方で、スティレンは痛みに顔をしかめて「すっごい痛いです」と文句を言いつつ立ち上がった。
「俺を勝手に操作しようとして…腹立つったらないよ」
「お前の言い方が悪いんじゃないか。腹が立っても我慢しないで、最初から喧嘩を売るような話し方をするからだ」
生意気に説教なんてしないでよとリシェに言い放ちながら、自分も少しは悪い所もあったかもしれないと内心反省する。
意味が分からないまま自分の意思と反する動きをしていたのでパニックになってしまったのだ。
まるで自分が操り人形になったような気分だった。
「…で、引っ張られた場所がこんな小汚い意味の分からない小屋でさぁ。結局何?お前は俺を待たずにここに来てた訳?」
改めて内部を見回す。
ゆらゆらと揺れる発光石の羅列と、用途不明な道具や価値が無さそうな骨董品が詰め込まれた棚を眺めた後で、何なのここは?と眉間に皺を寄せた。
「ここは魔導具の店だ」
「あぁ、さっきの話に出てたあれね…」
オーギュとファブロスとの会話に出ていた魔導具屋。
スティレンにとっては、これまで縁が無かった場所だ。
「そう、魔法関係の道具を専門とした店です。こちらの主人は、私が最初にファブロスと契約した際にお世話になったお店です。初回はリドランでお会いしましたけど…」
「へぇ。…どう考えても、あんなお婆さんが街を転々と出来るとは思えないですけどねぇ」
小馬鹿にしたように、スティレンはふんと可愛げの無い発言をする。すると小屋の奥からヒールを打ち鳴らす音が聞こえてきた。
オーギュはぴくりと耳を傾けた。
ヒールを履く者などここには居ないはず。または、それとは違う別の音なのだろうか。
コツリコツリとその音は近付いてくる。
「いつまでそこで駄弁っている気だ?」
…どう考えても、老婆ではない声。
リシェを初め、オーギュやスティレン、顔だけ出していたファブロスはその声がした方に目を向けると皆一様に驚愕の顔を見せる。
『婆…っっ!!』
ファブロスは驚きの余り、顔だけ出した状態で身動きするのでガツリと首が更に引っかかってしまう。
驚くのも当然だった。
奥から足音を立てて出現したのはあの老婆では無く、二、三十代程の派手目の女。誰だ、と言わんばかりにリシェ達は凝視してしまう。
頼りない灯りの下でも十分に分かる位、やけに肉感的でスタイルの良い女だった。その格好も目のやり場に困る位の胸の空いたマーメイド型の赤と黒を基調としたドレスを着ている。しかも片方にスリット入りのスカート。
この場には全く似つかわしく無い場違いな女だった。
まだ大人になりきれないリシェやスティレンには目の毒になりそうだ。
「誰だ、あんたは?」
どうやって入ってきたのだろうか。この小屋には別の出入口があるとは思えないのだが。
「誰だ、だと?さっきお互いに話をしていただろ」
「俺はあんたの事なんて知らな…」
言いかけたリシェに、ファブロスはまだ顔だけ出しながら知らせる。
『いや、そいつはあの婆だ。魔力も完全に一致している。この婆、姿を変えられるらしい。何年も生きているが実年齢は分からないからな』
「へ???」
リシェは思わず貫禄たっぷりのドレスの女を見上げた。
どう見ても小さな老婆からかけ離れた姿に口をぽかんとさせてしまう。
派手な化粧に派手な衣装、腰まで伸びるうねった美しい黒髪。確かに頭は柄物の布で巻いていて、耳は隠していたがどう見てもあの弱々しい老婆とは思えなかった。
「婆、婆ぁってしつこいね。警戒されない為に老婆の格好は都合が良いんだ」
低めの彼女の声音ですら妙な色気を感じさせた。
「その姿が、あなたの本来の姿ですか…?」
オーギュも半ば動揺しながら問う。
彼女はふんと目を細め、「どうだかね」と軽く口元に笑みを漏らした。
「そこの召喚獣に婆呼びされるのも嫌だから名乗ってやろう。私はイベリス。イベリス=センヴィール。尖耳族の魔導具職人だ」
「…っはぁああ?あの婆があんただったの?擬態してたって訳?」
何弱いふりしてるのさ、とスティレンは減らず口を叩いた。
イベリスは「口の聞き方を知らないガキだね」と彼の顎をがっつりと掴み上げると、指先に力を込めた。
「いっ…!!」
彼女のほっそりした指が、スティレンの顎にギチギチと食い込んだ。
口元がぐにょりと歪まされ、止めろと怒鳴る。自らの美しさを自画自賛する彼にとって、他者から体を歪められるのは耐え難い屈辱だ。
「少なくとも」
彼女はスティレンを掴みながら冷静に言う。
「お前達より相当長く生きている。舐め腐った態度と、口の聞き方には注意しな」
そう言い放つとスティレンを解放した。彼はその場でがくんと膝を突き、そのまま座り込む。
「いった…糞婆…」
それでも変わらない様子のスティレンは、頭上の美女を睨み上げていた。
「申し訳ありません」
オーギュはスティレンの無礼を詫びると、仏頂面で座り込んでいた彼を立たせる。
「まだ年若く最低限の礼儀作法を学んでいる最中です。後程指導します。…スティレン、ご無礼を謝罪なさい」
何故自分が謝らなければならぬのかと言いたげだったが、アストレーゼンの司聖補佐であるオーギュに言われては、もう折れるしか無い。
渋々頭を下げながら、すみませんでしたと口にした。
「…ふん、まあいい。私もこいつを無断で操作してこの店に引っ張り込んだようなものだからね。怒るのも無理は無い」
「何故私達を?」
その問いかけに、彼女はリシェの方に目を向ける。
「こいつの頼みを聞いてやろうと思ってな」
「それはいいんだけど、俺は杖を持って来て無いんだよ」
リシェは両手を広げて手ぶらだと言いたげにアピールした。
現物も無いのに、どうやって魔力を詰めたら良いのか。
「魔石に魔力を詰める役目は、別に私じゃなくてもいいだろう?」
「え?」
きょとんとするリシェ。
『婆…いや、イベリス。空の魔石に魔力を詰めるのは相当力加減が必要なのだろう?』
依然としてファブロスは扉から顔を出したままだった。
「ファブロス。いい加減、中に入ったらどうですか?」
流石に窮屈な姿勢だろう。主人に指摘され、ファブロスはバツが悪そうに扉を開けて狭い内部へ足を踏み入れた。
『私には狭い』
「ヴェスカが一緒じゃなくて良かったですね。余計狭くなりそうですから」
イベリスは改めて自分の店に閉じ込めていた召喚獣を上から下からとじろじろ眺めると、「ふむ」と何かを納得するように呟いた。
「人化するとこうなるのか。申し分無い体付きだな」
『見るな』
「偏屈で好き嫌いの激しい面倒な獣が随分と丸くなったものだ。余程その魔導師が良かったか、ん?」
裏がありそうな発言を受け、思わずオーギュは「は!?」と叫んでいた。
「ど、どういう意味ですか!」
何故動揺するのか、近くに居たリシェとスティレンはぽかんとする。冷静な彼が慌てる姿は珍しくもあった。
ファブロスは『ああ』と得意げに返す。
『申し分無い主人だ。最高の相性を持つ者にようやく会えたのだ。感謝してやる』
そんなやり取りを聞いていると、スティレンがリシェに近付き気付かれない所で「ちょっと」と小突く。
「あいつがオーギュ様の事を話し出すと止まらなくなるから止めてよ」
「え?」
意味が分からず、リシェはスティレンに何でだと問う。
「散々聞かされたからもういいよ。相当惚れてるんだろうけどさあ、しつこいレベルでオーギュ様を褒めまくるから鬱陶しいんだ」
「は…?」
自分だって自画自賛するくせに、他人の惚気は嫌なのか。
リシェは思わず顔を顰める。その間、ファブロスは得意気にオーギュの自慢を始めていた。
『…確かに魔導師としての能力は並レベルだろうが、オーギュは自分を高める為の努力を怠ったりはしない。その辺に居るような熟練した魔導師より段違いの力を得ているのだ。これは自分に対して厳しく妥協をしない性格のせいだ。私はそれを含めて評価して最高の主人だと思っている。そして』
やけにべらべらとオーギュについて語るファブロス。
リシェはぽかーんと口を開けて彼の演説を眺め、その後でスティレンを見上げる。
彼は「ね」と一言告げた。
「オーギュ様について語ると延々これだよ」
「はぁ…」
なかなか話が終わりそうに無い状態に、流石のオーギュも「やめなさい、もういいでしょう」と彼を止めに入る。
彼の個人的評価は有難いが、ここまでくるとまるで自分がそう言えと命じているみたいだ。それ程自分を高く買っているのは良く分かったが、何事にも限度がある。
イベリスはオーギュとファブロスを交互に見遣ると、ふぅん…と何か意味深に唸った。
「随分饒舌に話すものだ。相当惚れ込んだのだろうな」
『今頃悔やんでも遅い』
「悔やむもんかね。お前のような堅物、こっちからお断りさ。…惚気を聞いてやる程私は暇じゃないんでね。とりあえず用件だけ済ませようか」
まだ言い足りなさそうなファブロスの言葉を遮るようにして、彼女はリシェの方へ目を向けた。彼はぴくりと身を反応させる。
細くしなやかなイベリスの指が、多数の魔導具が並べられている棚へと伸びる。模様が彫られた引き出しの一部を引いた後、中から一つの丸く透明な石を取り出した。
大きさはビー玉位だろうか。
ぱっと見れば、ただのガラス玉にも見える。
「何その玉」
つまらなそうにスティレンは首を傾げた。
「まだ魔力の入ってない空石のミニチュアさ。杖を作る時に必要になる物だが、これはまだ何の魔力も込められていない。杖に付けるのはこれよりも何倍も大きいが、これは試し入れする為に作られた物だね」
「ふうん…んで、それをどうするっての?」
イベリスはその小さな玉を手にしたまま、ちらりとオーギュの方に目を向けた。お互い目線が絡んだ時、彼女は口を開く。
「こいつの中に魔力を込めてみな」
「え?」
ぽいっと放られた玉をキャッチすると、オーギュはあまりの小ささに「これにですか?」と疑問を呈した。魔法を詰め込むにはあまりにも小さ過ぎる。
どうせならもう少し大きな玉でもいいのではないだろうか。
イベリスはオーギュが言いたそうな言葉を察したのか、口元に妖艶な笑みを浮かべながら「小さいからいいのさ」と言った。
「どういう事です?」
「通常の石に魔力を詰めるのは難しいぞ。試しにこの石に魔力を込めてみろ。代えはいくらでもあるから壊れる事は気にする必要は無い」
確かに一点に魔力を集中させるのは難しい。魔法とは自分の魔力と、周辺に存在する精霊の力を織り混ぜて放つものなのでお互いのバランスも必要なのだ。
熟練された魔導師でも、決められた一つの場所に小さく纏めさせるのは困難の業だった。それもビー玉のように極小な石に詰め込むなどとは。
オーギュは言われるままに魔法を指先に集中させ、空の魔石に魔法を詰め込もうとした。しかし集中させる以前に放った魔力の力が強過ぎた為か、パリンと砕けてしまう。
「あっ」
粉砕され、周囲に飛び散っていく。
イベリスは「だろうな」と軽く笑った。
「最初から強く当てようとするな。容量ってものがある」
「この石の容量ってそんなに大きくはないでしょう?」
「杖に当てるものよりは小さいが、悪くは無いぞ。武器に使う為の石だからな。詰め込んだ魔力を使って自分の魔法を底上げするんだから当然だろう」
ううん、とオーギュは唸った。
『お前は魔法となれば派手に打ち上げたいタイプだからな。逆に小さく縮めろと言われるのは難しいのではないか』
確かにそうだった。
強く勢いのある魔法に憧れる余り、オーギュはいかに大きく魔法の力を打ち上げられるかを追求しているのだ。
それなのに魔力を凝縮して小さな入れ物に入れろとなると、加減が難しくなってくる。
イベリスは先程と同じ玉を再びオーギュに手渡すと、本人の思惑を読んでいるかのように言った。
「魔力の強弱を操作出来てこそ本当の魔導師とも言えるのだ。何でもデカくしたいと思うのは背伸びしたい子供と同レベル。お前はもう少し魔導師としての基本を考え直した方がいい。威嚇して戦意喪失させるには勢いのあるものも効果的だが、いかに濃い魔力を込めるかで状況が変わっていく」
今まで魔法に関しては突き入った事を言われた事が無かったオーギュは、イベリスの言葉を受けて言葉を詰まらせてしまう。
緊急事態の戦闘の際は緩急を付けて魔法を放つ事はあったものの、逆に制御する事は滅多に無い。しかし魔法で作られた炎や氷柱を操作する事は容易だ。既に具現化されたものに関しては、力の強弱をつける事は出来る。
目標に対し、魔法を放出しながらブレーキをかけていくだけなのだから。
しかし小さな魔法の石に向けて魔力を突っ込むというのは今まで経験が無い。杖の製作側に立たないので、魔石に魔力を入れるというのをした事が無いのだ。
触媒とする魔石に魔力を込めるのは魔導具職人でなければ極めて難しい。自分は純粋な魔導師で、石に魔法を詰められる程制御は効かない。
「……っ!」
少しずつ魔力を込めてみるが、やはりパリンと粉砕してしまう。
「力み過ぎだ」
イベリスは代えの石がすぐ取り出せる位置で椅子を引っ張り出し腰掛けた。脚を組んで座る為にスラっとした足がスリット部分から覗かせてくる。
「そう言いますが、少しずつ入れてはいるんですよ」
オーギュが苦戦しているその間、暇を持て余しているリシェとスティレンは店にある品物を手に取って眺めていた。
ファブロスは主人の成功を固唾を飲んで祈っている。
『何事も練習あるのみだ。お前はそれを身をもって知っているだろう』
努力して高魔力を身に付けた主人を、ファブロスは存分に理解していた。
「…やり遂げてみせますよ」
こうなれば意地でも成功をさせてやる。
オーギュは新しく与えられた玉を前にして強気に呟いた。
「ロシュ様。お仕事があるのでは無いですか」
折角休憩していた矢先、アストレーゼンで久し振りに顔を合わせた実家のメイドを再会してしまったロシュは、彼女によって半ば強引に司聖の塔へ押し込まれる形で引き戻されていた。
生真面目で妥協を決して許さない性質を持つ彼女は、実家のラウド家の中でもとにかくとっつきにくいという噂の持ち主。
何故ここで滅多に寄り付かない大聖堂に足を伸ばしてきたのかと問えば、自分に届け物があった為だと言う。
「休憩していたんですよ。ここの所ずっと缶詰状態だったんですから…オーギュにも一時の休暇を与えたばかりだったのです。疲れも溜まってたようですから…」
オーギュと似たような性質だが、彼女は違う意味で更に面倒なタイプだった。まだ二十代中頃位の年齢のはずだが、オーギュの性格を煮詰めて固め、融通の利かなさを配合したタイプ。
長い髪を後ろに纏め、遅れ毛が出ないようにかっちりと引っ詰め、黒縁の眼鏡で更に威圧感を与えてくる。美しい顔をしているのに、誰も寄り付かせないような雰囲気を醸し出していた。
着飾れば相当光る素質があるにも関わらず地味さを好み、とにかく間違った事を決して受け付けないと言わんばかりの様相。
「十分に休憩は取ったのではないですか?」
「足りませんよ…というか、私に何か渡す物があったのでしょう?セルシェッタ」
「ええ」
彼女は手にしていた大きな箱をロシュに改めて手渡した。
家紋入りの薄いピンク色の布製の包みを受け取ると、「母様からですね」と呟く。
「中身は…流石にご存知無いでしょうね」
「はい。分かりません」
流石に中身は何ですかと主人に問うものでもあるまい。
当然の返事に、ロシュは受け取った包みを自分の使っている机まで持って行った。
「あなたがここに来てくれるのも珍しいですね…あっ、どうぞソファにお掛けになって下さい。ええっと、お茶は何がお好きですか?色々ありますので言って下さればご用意出来ますよ」
ロシュの元には様々な贈り物が入ってくる。
その量は時期によって膨大だったりするので、自分だけでは捌けない食料等は階下の厨房へ届けていた。食料以外の贈答品は他に役立てる事が出来る場所に度々渡すものの、自分達で使いたいと思った僅かばかりの物は手元に保管していた。
「どうぞお気遣い無く。戻らなければいけませんので」
堅いセルシェッタは無表情のまま、部屋の入口の前で言った。ロシュは困った様子で「少し位休んでも罰は当たりませんよ」と苦笑する。
実家でも頑なにその態度をし続けるので、気が休まらないのではないかと心配になってしまう。
「仕事ですので」
「あなたは仕事が終わってもそのような感じなのですか?」
「いえ、普通です」
彼女の言う普通の基準が良く分からない。
とりあえず折角来てくれたので、気持ちが休まるようなお茶を準備してあげよう…と荷物を置いてお茶の準備に取り掛かった。
その前に、今だに入口で突っ立っている彼女の腕を取り「さあさあ」と室内へと誘う。
「座って下さい。日頃のお仕事でお疲れでしょう」
「いえ、そういう訳には」
「大丈夫ですよ。この部屋はしばらく誰も来ませんし。来たとしてもリシェ位ですが、あの子は今城下街でお買い物中ですから。それに、母様からの贈り物はきっと美味しいお菓子でしょう。一緒に食べようじゃありませんか」
「リシェ…あぁ、なるほど」
噂で耳にした程度の名前に、セルシェッタは一瞬顔を顰めたが、司聖のお付きの護衛剣士の名前だと思い出したらしい。
「いずれはリシェを連れて紹介したいと思っていたんですが、なかなか行ける機会が無いので…あなたが来て下さると分かっていれば、あの子を引き止めて紹介出来たのですけど…あなたは昔から家に仕えて下さる家族のようなものですから」
「いいえ、どうかお気遣い無く」
半ば強引にソファに座らされた形になっている彼女は、ロシュの言葉に少しばかり気持ちが揺らいでいた。
自分はあくまでロシュの家で仕事をしているたけの立場なので、家族だという意識はまるで無い。代々同じ主人に仕えているというだけで、深入りした関係だとは思ってもいなかった。
同じように彼の家系を支えていた親からも、亡くなる寸前まで自分の身の程を弁えるようにと言われていただけの話。
彼らを支える為に、自分達は数歩引いた場所から守るという役割を担っているのだ。
それなのに脳天気に家族とのたまうのだから、ずっとそんな覚悟で生きてきたセルシェッタにしては、彼は非常に呑気な人だと思ってしまう。
「ええっと、ちょっと待ってて下さいね…疲れが取れる効果がある紅茶を探しますから」
ロシュは室内の棚から様々な紅茶の入った缶をあちこち引っ張り出し始める。缶の裏側と睨めっこしながら、彼はどういった効果があるのかを確認していた。
いつもはリシェが自分を気遣って煎れてくれるので自らお茶を飲む回数が減っていた。改めて自分で淹れるとなれば、記憶の奥底に沈んでしまったのを引っ張り出してくるしかない。
今まで彼に甘えていたツケが回ってきたのだった。
「ええっと…これ、かなっ?あぁ。これだこれだ」
一人でぶつぶつ言いながらようやく目当ての物を取り出すと、待っていたセルシェッタに向けて「少々お待ちくださいね」と微笑む。
その笑顔はラウド家の奥方にそっくりだ。
「奥様にそっくりですね」
「んっふふ、昔から良く言われますよ」
ほら、男子は母親に似たりするって言うでしょうと言いながら、湯の用意を始めた。
「それにしても、珍しいですね。母様があなたを遣いに寄越すなんて」
「はい」
「いつもならあなたが来るなんて事は無いでしょう」
「奥様に言われたのです。そろそろ身を固めた方がいいのでは無いかと」
「はぁ」
随分と話が飛躍したなと思った。ロシュは準備をしながら彼女の話に耳を傾ける。
「私は異性に興味がありません。かと言って同性にも興味はありません。何故なのか自分でも分からないのですが、全く好きな相手が湧いて来ないのです」
「ほう」
「奥様に言われて、何故誰にも興味が湧かないのかと思って記憶を突き詰めてみたのですが、昔から美しい物をラウド家で見てきた為にこれ以上のものは無いのだと自分で察したのかもしれません」
「へ?」
何を言っているのだろうか、とロシュは思った。
あの家には美術品系統の物や、貴重な装飾品はあちこちに置かれていたがそこまで心酔するような物は無い気がする。
自分にとっては単なる風景の一部なのだが、セルシェッタには違って見えたのだろうか。
「何か気にかかる人でも?」
「気にかかるというか何と言うか。私は小さい時からロシュ様を見てきたので、これ以上の理想の人物は居ないのだろうと思うのです」
「………はい?」
そこから更に意味の分からない話になってきた。
いくら何でも飛び過ぎでは無いだろうか。徐々に混乱してくるロシュの思考とは裏腹に、セルシェッタは続ける。
「ああ、そういう変な意味ではありません。先程申し上げたように、他の方に興味が持てないので」
「は、はあ」
「結果、私は理想が高過ぎて見つけられないのだと思います。今日ロシュ様とお会いして確信出来ました」
「…???」
やはり彼女が言いたい事が理解出来ない。一方でセルシェッタは自分に納得したのか、「これで奥様に報告が出来ます」と続ける。
「報告?」
「ええ。しばらく身を固めるつもりは無いと。あなた以上の人が見つかれば考えます」
「わ、私!?」
それはまさか自分に好意を持っているという事になるのでは無いか、と一瞬自惚れの気持ちが湧いてしまう。
「あ、あああの?私はその」
つい動揺するロシュ。逆に冷静過ぎる彼女は、湯が沸きましたとソファから立ちあがろうとした。
「ああ、そのままで…はぁ、もうやめて下さいよ。びっくりするじゃないですか…」
セルシェッタを制し、ロシュは沸かしていた湯を止めた。余分に沸かしてある湯の一部を使い、カップを温めながら消耗したように何故私なんですかと嘆くように言う。
「あくまであなたは理想です。なので好意を寄せている訳ではありません。私はあなたの外見が気に入っているのだろうと思います。なのでそこまで深く考えないようにして下さい」
要は直接顔を合わせてみて、自分の気持ちが揺らぐかどうかを確認したかったのかもしれない。いずれにせよ、ロシュは複雑な心境に陥ってしまう。
しかも外見だけ気に入っているとは。
「ま…まぁ、自分の姿は変えようもありませんし与えられたものですからね…」
丁寧に紅茶を入れた後、甘くさっぱりとした林檎の香りを漂わせてソファに座っているセルシェッタの前に置く。
「どうぞ」
「有難うございます」
利用している茶器も華やかなデザインで、草花の絵に合わせ立体的な凹凸感を施し、更に金色の縁が入った高級品。主に来客用に使う物だ。
自分の分のお茶も用意した後、先程送られた荷を解く。
「さて…中身は何でしょうかね」
ようやく中を確認しようとすると、不意にその手が止まった。
「ありゃ」
「?」
「これはこれは」
真っ白な法衣の手が箱から引っ張り出した物。
赤い缶に入った紅茶缶だった。しかも林檎の絵。今飲もうとしていた紅茶と同じような種類の物だとは。
他も、葡萄やオレンジといったフルーツティーの缶が入っている。想像していたお菓子の詰め合わせでは無かった。
ロシュは苦笑し、「お茶でした」とセルシェッタに言う。
彼女はそれまで無表情だった顔をほんの少し緩ませ、「そうですか」と返す。
「お茶は嬉しいですがこれでは口寂しいですね。…ちょっと待ってて下さいね、今からすぐ真下の厨房に行ってお茶菓子を持って来ましょう」
「え」
「大丈夫です、すぐ戻りますから」
慌ただしい様子でロシュは部屋の扉を開いた。
「では、行って来ます。あなたはゆっくりお茶を飲んで待ってて下さい」
「あ…は、はい」
階下にすぐ厨房があるのは便利だと思うと同時に、そこまで気を使わなくてもいいのにとセルシェッタは内心困惑していた。
まさか持たせた贈り物が同じような紅茶だったとは。
彼女はロシュが淹れてくれた紅茶を口にすると、その温かいお茶が全身に染み渡るのを感じながら一息吐いていた。
空っぽの小さな魔石に魔力を込める練習を何十回と繰り返しながら、オーギュは「要領は何となく掴めてきましたが」と口にする。
同じ行動をひたすら繰り返すのを眺めるのにも飽きてきたイベリスは、その辺に無造作に置かれていた椅子に腰掛けてふぁああ、とあくびを見せる。
「石が小さ過ぎます。うっかりするとすぐに割れてしまう」
「それを調整するのがお前の仕事だろう。魔導師ならな」
そりゃそうですけど、と眉を寄せる。
少しずつ注入して、石がその負荷に慣れた頃に徐々に魔力を強めていくという地味な作業だが、何度繰り返しても注入した石の内部で暴走し破裂してしまう。
『それならお前が手本を見せたらどうだ、婆』
苦戦する主人を思い遣る姿勢のファブロスはイベリスに言った。彼女は姿を変化させても老婆扱いをしてくる相手をぎろりと睨んだ。
「婆は余計だ。…ふん、仕方あるまい。参考に出来るならするといいさ」
ストック分に寄せてある小さな透明な魔石を引っ張り出すと、オーギュに見てみなと一言告げた。
指先に乗せた石をふわりと浮かせ、彼女は魔法を発動させる。指先から出現した魔力は、光の粒子となって魔石へと入り込んでいく。
それは自分が魔力を入れている時とほぼ同じ。一体何が違っているのかと固唾を飲みながらオーギュは見届けた。
やがて石は彼女の魔法の力を受け入れるかのようにゆっくりと吸収を始めたかと思うと、急激に意識を持ったかのように粒子の波を吸い込む。
「!!」
オーギュはその瞬間を目の当たりにし、思わず息を飲んでしまった。まるで渇き切った体内に水を吸収するかの如く、自ら欲するがままに入っていったのだ。
魔石は光の粒子を一気に吸い上げたかと思うと、見事な金色に彩られた玉に変色した。
「ほれ」
注入を済ませた魔石をオーギュに放る。
「…石が魔力を吸い込んだ…?」
最初は流れ込む魔力の粒子が、ある瞬間を経て一気に吸い上げていくように見えた。自分が魔力を入れた時とは全く違う光景を目の当たりにしたのだ。
…彼女との差がはっきり分かった。
「大分ヒントを与えたと思うぞ?」
魔力を得た魔石は妖しげな輝きを放っている。
「石が自ら魔力を吸い出すまで我慢しろ。そうすりゃ簡単に出来るはずさ」
「………」
要領は掴めてきた。あとは彼女の言うように、石が自分の魔力を受け入れるのを待てという訳だ。石を手にしたまま、オーギュは「分かりました」と言う。
「へぇえ、こうなるんだぁ」
オーギュの手元に置かれた小さな魔石を覗き込むスティレン。
「魔法ってどんな感じなのかって思ったけど、不思議なもんだね」
魔法に関しては全く無知な彼は、イベリスの魔法を目の当たりにしたせいか少しばかり気になった模様だ。それを見た彼女は、スティレンに対して興味ありそうだなと口元に笑みを浮かべる。
「使ってみたいのか?」
「…え?」
「使ってみたいなら魔力を引き出してやってもいいぞ。ただ、お前に使いこなせるかどうかは知らんがな」
スティレンはちらりと隣に居るリシェに目を向けた。
彼の持つ深みのある紅の瞳とぶつかり合う。リシェは元の目の色は黒かった。魔力を持つようになってから、紅くなってしまったという。
…自分もその色になるのだろうか。
「俺も魔法が使えたらこいつみたいに目の色が変わる訳?」
イベリスは体質によるだろうな、と答えた。
「完全に目の色が変わるのも居れば、逆に全く変わらないタイプも居る。身体に影響が無いのは珍しいがな。何だ、気にするのか?」
「そりゃ…」
容姿に自信がある為に人より相当身なりを気にするスティレンは、外見が変化してしまう可能性があるリスクを考えてしまうようだ。
「その外見の通り女々しい奴だな。まあ、お試しに少し魔力を受け入れられるか診断してもいいぞ。お前の体が完全に魔力を受けつけられたらそこまで影響は出ないだろうさ。息苦しさや何らかの痛みが出たなら、魔力を引き出した段階で体のどこかに影響が出るだろうね」
地味に怖い事を言いだす彼女に、スティレンはえぇ…と嫌そうな表情を見せた。
「俺、痛いのも苦しいのも嫌なんだけど?」
この期に及んで我儘を言いだす。
「ちょっとリシェ。お前はどうだったのさ」
話を振られ、リシェはオーギュに目を向ける。彼から与えられた際、何も分からずに注入されたのだがその方法は口から言えないものだった。
思い出してしまい、顔をぽうっと赤らめる。
「俺は、熱が出た位だ。熱が下がったら目が赤になってた」
「その位なら別にいいんだけどさ…」
「試しに受けつけられるかどうかやってみたらいいじゃないか。ヴェスカはお試しでやったら悶え苦しんでたから、魔力の適正は無いらしい」
「適正が無いと悶え苦しむ訳!?」
嫌な事はとにかく回避したい彼は、リシェの話に引き気味になっていた。
「そこまでいける人は滅多に居ないので安心しなさい、スティレン。ヴェスカは魔力が逆に逃げ出す位適正が無いだけです。そもそもイベリスさんがあなたを使って引っ張ったのだって、根底にある魔力を引き出したからでしょうし」
魔力が逃げ出してしまう程適正が無いというのも珍しい。
及び腰になりそうなスティレンに対し、イベリスは痺れを切らしたのか指をくいっと上に向けて掻くように動かした。
その瞬間、彼の細身の体は彼女に向けて引っ張られていく。
「うわっ!!な、何!?」
「グダグダと面倒な奴だ。ほんのちょっと試す程度で喚き散らすのかい」
スティレンはイベリスの腕に収まるようにして捕らえられてしまう。まるで年上の女に弄ばれているような格好。
背中に凄まじい弾力性を感じて身悶えし、彼は「ちょっと…!!」と顔を真っ赤にしてイベリスに怒鳴った。ふわりと漂うお香の匂いと柔らかな感触に驚き、必死に逃れようと蠢く。
それを見ていたファブロスは『何だ』とスティレンの反応を見て楽しむかのように呟く。
『随分と照れ臭そうにしているな。女慣れしていないのか』
いきなり触れた女に対して、必死に拒否の姿勢を貫こうとしている様子が妙に滑稽に見えたらしい。
若いせいもあるのだろう。自分には無いものに触れるのは当然驚く。
しかしスティレンは「そんな訳ないじゃない!!」と顔を真っ赤にしたまま怒鳴った。
「うるさいな」
狭い小屋の中で喚かれ、リシェはうんざりしながら呟く。
「いきなり引っ張られたら誰だって動揺するでしょ!誰が女慣れしてないって!?」
怒る場所はそこなのか、と従兄弟の話を聞きながらリシェは思った。イベリスの腕の中で暴れるスティレンを黙って見ながらちっとも大人しくしないなと呆れる。
『…とりあえず魔力を入れてみたらどうだ?』
やかましいから早く済ませてしまえと言わんばかりにファブロスは投げやりに言った。
目の前で喚く人間の少年に次第にうんざりしてきたのだろう。イベリスはそうだねと言うと、ひたすら身動きを繰り返すスティレンを左腕でしっかり支えながら彼の右のこめかみ部分にそっと指先を当てて微弱な魔力を流し込んだ。
「え!え、何、ちょっと俺まだ何もいいって言ってないでしょ!何か一言言え!!」
変わらず元気に喚き散らすスティレンを無言で見つめるリシェ。オーギュは冷静なリシェに随分冷静ですねと不思議そうな面持ちで問う。
「いえ…そういえば病気予防の注射ですら嫌がってたなって…」
「………」
これは決して注射では無い。
「あなたはどうだったのですか、リシェ?」
魔石に魔力を込める練習をしながらオーギュはリシェに問う。比較的冷静な彼の事だから、難なくこなせたとは思うが。
しかしリシェはオーギュを見上げ、「いえ」と返す。
「俺は無関係でしたから…遠くで嫌がって逃げ回るスティレンの悲鳴を聞いていただけですし…」
「…なるほどね…」
向こうでは大切にされていた彼と、ある意味放置された環境に置かれているリシェとは待遇が違ったようだ。
こういう時に忍耐強さの違いが出てくるとは思ってもいなかっただろう。
「…いったぁああい!!頭痛ぁあああ!!」
微弱な魔力を受け、全身に染み渡ってきたのかスティレンは頭を抱えて悶絶しだした。
リシェはオーギュを見上げたままの姿勢で「ダメみたいですね」と冷静に結果を告げた。
「いや、魔力を受けた瞬間は体も多少拒否反応を起こすのですよ。ちょっと様子を見てみましょう」
「はぁ」
目の前で喧しく騒ぎ立てるスティレンに、イベリスはその身をしっかり抱えたまま「軟弱者だね!」と叱咤する。
「魔法を使ってみたそうにしてるから協力してやってるっていうのに!お前みたいなのは初めて見たよ、少しは我慢するっていう事を覚えな!!」
他人に怒られているスティレンを初めて見たリシェは、その新鮮な光景に思わず「はは」と笑ってしまう。
何故か面白かったらしい。
「笑ってんじゃないよリシェ!!」
「いや…何だか面白くて。悪気は無いんだけど」
「ふざけないでよ!あぁ…っ!!痛ったぁあああ!!」
必死に頭を抱えながら叫ぶスティレンは、どうにかなんないの!?と背後のイベリスに問う。個人差があるのは分かっていたが、ここまで酷く痛みが伴うのだろうか。
「どれだけ痛いかちょっと体感させな」
呆れた様子のイベリスはスティレンの額に手を当てると、しばらく沈黙する。
『これで大した痛みでは無いならどうしようもないな』
彼ならあり得そうなだけに、身内であるリシェも閉口する。
しばらく間を置いた後、はぁ…とイベリスは溜息を吐く。そしてそのままスティレンの額をばしっと叩いた。
「痛っ!!」
打たれ、顔をしかめる美少年。
「何すんのさ!!」
「大した痛みじゃないじゃないか!!大袈裟に騒ぎ過ぎだ、軟弱者!!」
「仕方無いでしょ!?俺みたいに育ちが良過ぎる人間は痛みに弱いんだよ!」
大した痛みでは無いと断言され、軟弱者扱いされても自分は特別だから仕方無いと言い出す始末。
ファブロスは呆れ、どうしようもない奴だと本音を放った。
『育ちが良くてもオーギュは耐えたというのに』
「何でもオーギュ様を引き合いに出さないでよ!」
この合間でも、欠かさず魔力を石に込める練習をしていたオーギュは「あっ」と目元を少し緩ませた。
「出来ました」
ようやく感覚を掴めたらしく、ぱあっと表情を明るくする。
『ほう』
努力家の主人の成果に、ファブロスも感心の声を上げた。そしてその後で『ほら』とスティレンに言う。
『私のオーギュは困難な事でも何度も我慢して練習を怠らないのだ』
「さっきから似たような事ばっか言わないでよ!あんたそれしか言えない訳!?」
うるさいな、とリシェはうんざりしてきた。
「…で、結局お前はどうするんだ?魔法が使えるようにして貰うのか?」
ようやくイベリスから開放されたスティレンはふらつく足に力を込めて立ち上がり、どうするも何も…と眉を寄せる。
「痛いの嫌だし」
「体に浸透させるにはそれは避けられないんだろう」
ある種の刺激を詰め込むのだから、体に浸透させるには負担も時間も掛かる。
大騒ぎする彼には向かないのかもしれない。
やや時間を置いてからイベリスは口を開いた。
「まだ悩むのか?はっきり言うとお前みたいに貧弱な奴には向かないね。例え魔法を使って火を起こせば当たり前のように熱がるだろうし、氷を出せば寒いと喚くだろう。他の魔法でも同じ事だ。やるだけ無駄だろうな」
それは非常にあり得そうだ。むしろその可能性が高い。
ボロクソに言われたスティレンはムッとしたままで「じゃあどうすりゃいいっていうのさ?」とイベリスに問う。
「一応魔法の才能みたいなものはあるんでしょ…」
「才能なんて高尚なもん、お前にはあるはずないだろうが。生まれながら飛び抜けた能力がある人間なんざ何億に一人か二人居るかどうかだ。極めたいなら地道に練習していくしかないね。我儘で耐久力も無いようなお前には無理だ」
ここまで突っ込んだ事を言われ、少しは凹んでいるのだろうとリシェはスティレンをちらりと見上げる。いままで散々甘やかされて生きてきた者だ。
ここぞとばかりにこてんぱんに言われ続けては少しは心に響くのではないだろうか…と。
だがリシェの心配を余所に、彼はいつもの尊大な態度を全く崩さないままで「じゃあ」と言い出す。
「俺が楽に魔法を出せるようにしてよ」
一向に態度の変化が見られない様子に、思わずリシェは口走っていた。完全に呆れを通り越してしまう。
こいつに合わせては時間の無駄だと思った。
「…馬鹿なのかお前は!!」
そんなに簡単に出せたら苦労しない。自分だって練習を重ねてどうにか小さな魔法を出せるようになったというのに。
「いつまでもお前の我儘に全員が付き合ってられると思うな!自分の思い通りに融通が利くのはシャンクレイスの屋敷の中だけだ!甘ったれるな、いい加減にしろ!!嫌ならさっさと荷物を纏めて帰れ!!」
持ち前の可愛らしい顔からは想像もつかないような真っ当な正論が放たれる。
普段寡黙な性質で、滅多に怒る事も無い彼の剣幕にオーギュは勿論ファブロスも驚いた。そしてスティレンも、今まで自分に反抗する事も無かった相手を驚愕の目で見下ろす。
自分が今まで知っていた彼は、非常に大人しく自分らの圧力に怯えて過ごしていた小さな存在だったのだから。
「あぁ、うるさいね」
張り詰めそうな空気を割るようにイベリスは言った。
「喧嘩なら他でやってくれ。何なら場所でも提供してやろうか?今はそこの魔導師の魔力詰めの練習をしているんだからね」
人様の敷地内で大声を出してしまい、リシェは思わずぐっと言葉を詰まらせた。恥ずかしい事をしてしまった、と。
その隣で、反抗してきたリシェに対し若干の苛立ちを覚えるスティレンは軽く舌打ちする。
「どうにも、お前らには変な隔たりがあるようだね」
「?」
彼女の言葉に、リシェはぴくりと反応した。
「面倒だからお互い殴り合ったらどうだい?そのままクサクサして帰るのも嫌だろうからねぇ。その間、こっちも練習に身が入っていくだろうよ」
「は!?」
何を言い出すのか、とスティレンが顔を上げたその時。
イベリスは左手を軽く上げ、魔法の玉を作り上げた。発光するその玉は次第に大きくなり、最終的にはバスケットボールの大きさまで広がっていく。
「え、ちょっと…!!待っ…」
その玉に向かって引き摺られるような形で、スティレンは引っ張られていく。うわぁあああ!!と叫び声を残し、彼はその玉の中に吸収されていった。
リシェも同じようにその中に引っ張られようとしている。
「お、俺も…!?」
彼女と目を合わせ、リシェは困惑したまま問う。
まるでこちらの心の奥の底を見透かすかのように、イベリスは続けた。魅惑的で妖しげな瞳はリシェを真っ直ぐに貫く。
「むしろお前の方が奴に対してわだかまりがあるんじゃないのか、え?」
「………」
その瞬間、彼の体は作られた玉の中へと吸収されていった。
二人の少年らが居なくなり、一気に小屋の中が静まる。オーギュは困難しながらイベリスに「あの子達は…?」と聞いた。
魔法の玉を指先で転がした後、棚を物色して燭台に良く似た台座を引っ張り出す。無造作に玉を台に置き、オーギュに向き直った。
「ガキ共には存分に喧嘩出来る空間を与えてやっただけさ。喧しいと集中も出来ないだろう?」
ファブロスは彼女が作り出した魔法の玉を覗き込む。水晶玉のようにも見えるその球体の奥では、真っ白な空間の中で戸惑う二人の姿が映し出されていた。
軽く唸り、顔を上げる。
勢いを堰き止められた二人は、また新たに喧嘩などするだろうか。
『あの性格のスティレンはともかく、比較的大人しいリシェが喧嘩をすると思うか?』
古びた椅子にどかりと腰掛けるイベリスはファブロスの言葉に「さぁね」と興味なさげに返した。
「…イベリスさん。あなた、リシェの何かを覗いたのですか?」
リシェに対し、意味深な発言をした彼女にオーギュは疑問を投げつける。まるで本人の過去を覗き見たような言い方が引っ掛かったのだ。
椅子を軋ませながらフンと鼻を鳴らすと、彼女は口角を上げてオーギュを見上げる。
「尖耳族は無駄に長く生きて魔力を蓄えるからね。目を見るだけで軽く相手の深層意識を感じ取る時があるのさ。多感な年齢だと意識の主張が激しいから余計にね」
「………」
特殊な種族が持つ能力で、意識の底を探れるらしい。
オーギュは思わず息を飲み込む。
ファブロスは憮然とした面持ちで嫌な能力だなと呟いた。そうなれば、自分らが秘密にしている事も彼らに知られてしまうかもしれないではないかと。
「…文句言いたげだが、こっちも別に知りたくない。言えば嫌がられるだろうからね。大体は自分の中で隠す。今回だけさ、黒い髪のガキが抱え込んでいるものを突いてやったのは」
「リシェが?」
「相当抑圧されてきたんだろうよ。だからしきりに背伸びしていい子になりたがる。他人に認めて欲しいが為に優等生に甘んじているのさ。…喧しいガキ共はこっちに放り出してやったんだ。お前は更に石にかける魔力を強める練習をしな」
彼女が指摘するように、確かにリシェは年相応の雰囲気では無い。どちらかと言うと同じ年齢層と比較していても大人びていて、落ち着いている印象。
ロシュの護衛の騎士となる以前は分からないが、スティレンと比べても若いなりの甘さと我儘さが一切無い。
「逆にあの喧しい方は相当恵まれて甘やかされてきたんだろうよ。感じなくとも、会話や仕草で嫌な程分かる。似通った雰囲気でもお互い真逆の生活を送ってきたんだろう?」
『あれだけ自分勝手に我を張れる位だ。苦労など知るはずも無い』
ふ、と過去に飼い殺していたファブロスの発言に対してイベリスは笑みを漏らす。
「こいつらはしばらく放置してもいい。まずは魔導師、お前の調整だ」
彼女はそう断言し、煙草の細いパイプに火を点け煙を燻らせた。
まっさらな空間に投げ出された二人は、まるで打ち捨てらたかのように正面から突っ伏していた。
リシェは呻きながら顔を上げて周りを確認する。
「痛っ…もう、何で俺が」
愚痴を言いながらスティレンも体を起こし、周囲を見回す。
「ええ…何ここ…」
先程まで様々な魔導具ばかりの狭い小屋の中では無く、ただ真っ白な空間。リシェもきょろきょろと周りを見回した。
高い魔力が澱んでいる。以前大聖堂の奥に湧き出る泉の奥にあった場所と酷似していた。
何も無く、魔力の干渉を受けた空間は、共通で真っさらなのだろうか。
「お前がいきなり怒り出すから放り出されたじゃない」
どうするんだよとスティレンは吐き捨てる。
「お前が我儘ばかり言い出すから呆れただけだ」
今に始まった事では無い。それは十分理解していたが、あまりの自分勝手さに苛立ってしまった。大人気ない事をしてしまったと内心反省する。
言うだけ無駄なのだ。彼は完全にそういう性質が染み付いているのだから。
「てか、お前俺に今さっき何て言った?帰れって言ったよね」
「………」
「お前の本心が出てきたんじゃないの」
「…ここじゃお前の身勝手なんて通用しないから言っただけだ。通用して欲しいなら何でも言う事を聞いてくれる場所に戻った方がいいんじゃないかって言ったまでだ」
リシェの発言に、スティレンは納得しない表情で「ふうん」と目を細める。
「いかにも優等生みたいな言葉を述べるじゃない。こっちじゃ、お前は上から可愛がられてるからねぇ。あっちに居るよりはさぞかし居心地がいいだろうしね」
「何が言いたい?」
スティレンはリシェの真正面に立つと、滑らかな彼の頰に指を当ててぐいっと抓った。ぎゅっと締め付けられる痛みを受け、リシェは顔を歪める。
「痛っ」
「お前はロシュ様にいい顔しようとして俺を許すって言ったんじゃないの。リシェ?腹の底では俺が嫌いで嫌いで仕方無いはずさ。許す素振りを見せれば、あの人だって嬉しいだろうしね」
「………」
「え?どうなのさ。小さい頃から散々虐められてきたお前が、腹の底じゃ俺みたいなのに対してどう思ってるか分からないもんだからねぇ?許すって言いながら俺の顔に唾吐きたくて堪らなかったんじゃないの?散々野良猫扱いされてきたんだからね」
痛みに目を閉じていたリシェは、きつく抓ってくる従兄弟の手首をぐっと掴むと「離せ」と睨む。
「いちいち手を出さなきゃ物を喋れないのか?」
「糞生意気だから分からせてやってんじゃない」
パシン、とスティレンの手を払い除ける。引っ張られた頰がジンジンと痛むのを堪えながら、変わって無いなと吐き捨てた。
「俺は正直だからね。お前みたいに腹の底を隠したりなんてしない。ある意味本当にタチが悪いよ、お前みたいなのは。本心を全く表に出さないタイプなんだから。そのくせいい子でいたがる。俺が一番嫌いな性格だ」
「お前がそう思いたいならそう思えばいい。お前にとって俺はいつまでも鬱陶しい存在でしか無いんだろう」
アストレーゼンに居場所を見出した事で、失っていたリシェの自尊心が芽生えてきたのだろう。それを生意気と言うのはお門違いなのは分かっているが、妙にスティレンの心に刺さった。
今まで無抵抗だった者が急に反抗してきたせいだろうか。
「ああ、そうかもね。その卑屈っぽい所が鬱陶しいのかもしれない。そのくせご立派に虚勢を張るのが本当に癪に障るよ。あっちじゃ邪魔者扱いされてたのにね。俺がこっちに来た事で嫌でも昔を思い出すんだろうよ。帰れって言ったのは本当にそう思ってるからじゃないの」
意地悪そうな笑みを浮かべながら、スティレンはリシェの顎を引っ掴んだ。うぐ、と声を詰まらせ呻く彼は、自分より若干背の高いスティレンを見上げたまま苛立った様子を見せる。
スティレンはそんなリシェに顔を近付けさせると、小馬鹿にするかのように続けた。
「お前がどう思おうが、俺はお前から離れてやるもんか」
「………」
「俺にしてみれば家出した先にお前がたまたま居ただけの事。お前が勝手にこっちに居たんだ。出るならお前がアストレーゼンから出て行く事だね。ま、お前なんかに出来るはずなんて無いだろうけど。ロシュ様だってお前を離したがらないだろうしね。要するにお前は逃げ場が無いのと同じさ。それに」
お互いの美しい顔同士がかち合い、睨み合う。
優しげな印象を与えそうな垂れ目がちの目をふっと緩ませ、スティレンはリシェに対してきつい言葉を投げ付けた。
「お前はずっと俺の目に届く所に居ないと、何やらかすか知れたもんじゃないからね」
「お前じゃあるまいし、そんな事するものか」
「そうやって物分かりのいい優等生面するのもムカつくんだよ。散々おばさまに虐められて来たから癖になってるのかもしれないだろうけどね。いい子でいれば、理不尽に殴られる必要も無かっただろうし。その分、何を考えてるのか知れたもんじゃない」
明らかに喧嘩を吹っかけているのが分かる。
付き合っていられないと言わんばかりにリシェは失望した様子を見せ、顔を逸らした。
何故ここで無駄な言い合いをしなければならないのだろう。
「馬鹿馬鹿しい。あちこちで余計な騒ぎを起こして、親から尻拭いさせていた奴よりは余程マシじゃないのか?知らないとは言わせないぞ。俺もお前らのしてきた事を良く記憶していたんだからな」
「…ふん。いかにも根暗なお前の言い方だね。引きこもっていたお前なんかと違って、俺は付き合いが多かったの。腫れ物扱いされて外出も禁止されてたお前には分からないだろうさ。ま、今となってはさっさと切っておいて正解だったけどね。狭い世界でイキがっているチンピラの相手なんてしてらんないでしょ」
「………」
「で、何?それが何かお前に関係あった?悪いけど、お前が今更俺の事をどう言おうが何にも響かないよ。…てか、自分は品行方正でちゃんとしている風にしてるのやめてくれない?いくら取り繕うったって、お前がリオデルや他の奴らと如何わしい事をしていた事実は消えな…」
軽い感じで口に出た言葉は、最後まで言えなかった。
その忌まわしい名前を耳にした瞬間、リシェは反射的にスティレンの頰を殴り付けていたのだ。激しい右の頬の衝撃を受け、彼の体はバランスを崩す。
今まで生きてきた上で顔を殴られた記憶は一切無い。しかも自分の自慢の美しい顔を傷付けてくるなどとは。
それだけに、スティレンは一瞬自分の身に何が起きたか頭が追いつかなかった。
よろめき、改めて我を取り戻した彼は記憶を辿ってやっと殴られた事実を知る。
「…お前…っ!!今何をしたか分かってんの!?」
一方のリシェも自分の行動に信じられなかったが、言われたくなかった事を蒸し返されたくない為か怒りの感情が先走ってしまっていた。
同時に色々な感情がごちゃまぜに絡み合い、混乱を極める。
後退りし、苦悶の顔を見せた。
「お前は殴られて当然の事をした!!」
絞り出すように吐き捨て、リシェは自らの両耳を押さえた。
ううと呻き、彼はそのまま頭を掻きむしり、その場に崩れ落ちる。
やがて小刻みに震え、まるで呪詛を放つかのように力の篭った声で言い放った。
「…無かった事だと思いたいのに、何故わざわざ蒸し返そうとする?まさか俺が完全に忘れたとでも思ったか?何度も何度も、ずっと頭の中で想像する位、俺はお前らを」
「は…?」
スティレンはリシェの異様な様子に眉を顰める。今まで見た事が無い反応だった。彼は滅多に激しく自分の感情を剥き出しにしないだけに、この状態は珍しいのだ。
彼はしばらく間を置き、そして口にする。
「ズタズタに刻んで跡形も無くしたい程憎たらしくて仕方なかったんだ」
彼は、その小さく儚げな姿からは想像もつかない闇の部分を見せた。
「…は」
スティレンは思わず笑いが込み上げてきた。
だろうよ、と自分が予想していた事が合致していたのが妙に嬉しかったのだ。
「やっぱりそうか。そうだったじゃないか、リシェ。ただやられるだけのひ弱な奴じゃないよねぇ?お前、やっぱり俺らを憎んでたんだよ。ロシュ様の手前、許さない訳にはいかないからねぇ…!とんだお芝居をかまされたもんだよ。ふふ、とんだ嘘吐きだ。腹黒いったらありゃしないさ、許すお芝居はさぞかし苦痛だっただろうよ。ねぇ、リシェ?」
打たれた頰が痛む。
それは長い事蓄積されたリシェの恨みだった。
ひりつく痛みを与えてきたリシェを逆に殴りたい衝動に駆られたもののぐっと我慢する。殴られても当然の事をして来たのは自分でも理解していたのだ。
逆に、自分がされたら死ぬまで許せないだろう。
様々な感情を処理しきれないリシェに、スティレンは続ける。
「無口で根暗な性格のお前が、どう怒り狂うのさ。暴れる?怒鳴り散らす?お前は昔の事など気にしていないって言ってたけどさぁ、俺は絶対そうじゃないって思ってたよ。絶対お前は俺を許してない。お前は俺に嘘を吐きながら、自分にも嘘を吐き続けてたんだよ。だから俺もまだ引っ掛かりを感じてるのさ。お前がひたすら騙くらかしている限りね!」
スティレンの追い討ちを掛けてくるような発言に、リシェはざわざわと全身の毛が逆立ちそうな感覚に見舞われた。
力が入らない両足でゆっくり立ち上がると、彼は少しずつ顔を上げ低い声で「騙すだと?」と口走る。
「ふん、実際そうじゃないか。いいふりして延々と騙してきたんだよ。お前は決していい子なんかじゃない。いい子ぶっていながらいつか噛み付いてくるタイプさ。ひ弱な振りしてりゃ、誰も警戒なんざしないからね!お前はリオデルよりも厄介な性質だよ」
ひ弱な振りをしているつもりは無い。
リシェは彼の話を聞きながら、奥歯をきつく噛み締める。そして堰を切ったように反論した。
「無神経にベラベラ喋る奴よりはマシだ。自分だって大人に対しては猫被りする癖に、俺と何が違う?体裁を気にする家だから余計に自分を良く見せようとしていたお前に、俺の事をとやかく言えるのか。それとも、自分は良くて他の人間が同じ事をするのは許せないか?それなら何故俺があいつらに襲われている時に助けなかった?黙って見てるだけで何もしない。自分を良く見せたかったなら、何故他の大人達に助けを求めなかった?自分の株を上げるチャンスでもあったというのに」
思った以上に長く反論してきた事に対して、スティレンは意外そうな面持ちで相手を見た。同時にはっと笑いが込み上げてしまう。
喋れるじゃないか、と。
「俺にも付き合いっていうのがあったんだよ」
「………」
「誰も居ないお前には分からないだろうけどね。でも、俺はあいつらみたいに性根から腐り果てたくなかった。あいつらと同じように動いてちゃ、家にも迷惑が掛かるでしょ?だから手を汚さない場所で見てる事しか出来なかったのさ」
それまで過去の事を深く話さずにいただけに、思い出すと余計に押さえつけてきた怒りの感情が噴出してくる。
話さずにいた、というよりは避けてきたともいうべきか。
当事者であった二人が面と向かって再び過去の出来事を話すのは、大聖堂にリオデルが来た時以来だった。
それ位デリケートな話題だったのだ。
「今のお前になら分かるんじゃないの?立場っていうもんがあるって事位」
「あれこれ言い訳して取り繕おうが、結局お前もあいつらと同じだ!!…そうだ、お前の言う通りだ。忘れたりなんてするものか。一言、謝った分だけお前はまだマシかもしれない。でも俺はお前らのしてきた事を死んでも許せないだろう。それをわざわざ蒸し返すお前にも腹が立つ!!」
リシェはスティレンの襟を引っ掴むと、見た事の無い怒りの表情を見せて「殴るだけじゃ気が済まない」と怨嗟の言葉を吐いた。
…何だか不穏な空気じゃないですか、と魔法の玉の中を覗き込んでいたオーギュはイベリスに訴える。
「んあ?」
彼の作り上げた魔石をチェックしていた彼女は、気怠げな様子でその玉の内部を覗いた。そしてふふと笑う。
「へぇ…見事に大喧嘩してるじゃないか。面白い」
『面白いのか?自分からけしかけておいてどうする気だ』
深刻に捉えようとしない彼女に、ファブロスは脱力する。
「別に危ない物を持ち込んではいないだろう?なら大丈夫だ。そんなに心配なら、魔法を使えないようにしてやろう」
「ファブロスはそういう意味で言ったつもりは無いと思いますよ…」
掴み合いをしている二人を心配そうに見る。
まさかリシェが他人に突っかかるとは思わなかった。彼は比較的落ち着いた性格だと認知していただけに、感情を露わにする事など想像もつかなかったのだ。
「何だ?魔法以外は興味無さそうなのに、子供同士の喧嘩に首を突っ込む趣味でもあるのかい」
「そんな趣味ありませんよ。あの子達の間に深い溝が出来ないか不安なだけです」
リシェに関しては、ロシュから様々な話を聞いていた。触れられたくない内容も抱えているだけに、故郷の事や昔の出来事は出来るだけ聞かないように心掛けていた。
そして、本人も自ら進んで話したりはしなかった。
だが、同じ国の出身であり一番近い従兄弟であるスティレンは違う。彼は近過ぎるだけあり、リシェが一番触れられたくない部分を踏み込んでしまう。しかもシャンクレイスから出るきっかけを作った要因の渦中に居たのだ。
ロシュと出会い生きる道を見出したリシェにとって、出来るだけ避けたかった相手と再会してしまうのは気が気で無かったはず。
蓄積されていた憎しみや怒りをぶつける訳にもいかず、ただ冷静に受け止めるしかない。
「溝なんて、もともとあったようなもんじゃないか。黒髪の方がより深い。押さえ付けられてきた分、相当恨みやら何やら凝り固まってるだろうよ。真面目なだけになかなか表に出さない性質だからね」
「…触れられたくない中身までお見通しなのですか?」
オーギュは思わず嫌な感情を露わにしてしまう。イベリスの性質上、それは避けたくても避けられないのだろう。
だが、気分が良いものでは無かった。
「なるべく感じ取らないように気をつけているつもりさ。言っただろう、知りたくないのに知ってしまうとな。お前もあの黒髪の小僧と同じだから、余計過剰な反応になるんだろうよ」
「!?」
自分に矛先が回り、オーギュはつい言葉を失う。
「私が…?」
イベリスは自嘲気味にあぁ、とだけ返すと失敗した魔石の器を指先で砕き始めた。
「母親に自分を認めて欲しかったお前と、憧れの存在に認められなければ生きる意味を見いだせないあの小僧。境遇は違えど、お前達は似ている」
「………!!」
まさか自分の事まで見通せるとは思わなかったオーギュは、思わず彼女に警戒心を強め数歩退がった。
主人の意識に感化されやすいファブロスは、咄嗟に静止の言葉を放つ。
『イベリス!!言葉が過ぎるぞ!!』
骨の髄まで主人に染まり切った召喚獣もなかなか見ないものだ。相当惚れ込んでいるのが分かる。
自分が知る限りでは、術者と召喚獣はお互いの利害を踏まえて付かず離れず、それでいて壁を隔てたような関係性だと思っていたのだが。
それにこの高位召喚獣クラスとなれば、余程の力を持つ魔導師でなければ見向きもしないはず。そして、この目の前の魔導師は魔力の元の土台は並レベルかややそれより上なのだ。
彼が努力して培ってきた魔力に惹かれるものがあったのだろうか。
「そんなに怒るな。こっちだって喋りたくてそう言ってる訳じゃない。こいつらの事は、こいつらで決着付けなきゃならない問題だ。第三者が深入りするものではないだろう」
「…そりゃそうでしょうけど」
彼女の特性上、読むのは仕方無いとして。
オーギュは「流石に酷くなったら止めに入りますよ」と一言告げる。魔法の玉の中で揉み合う二人を眺め、イベリスは甘っちょろいねぇと苦笑した。
…豹変したリシェを目の前に、スティレンは腹の底から笑いが込み上げていた。それを押し留めながらハッと強気に顔を歪ませる。
「ほら」
彼は自分に掴みかかる年下の従兄弟を見下ろして思っていた事を吐き出した。
「やっぱりそうだったじゃないか」
「………」
「お前がずっと大人しくしていると思わなかったよ。いつか地が出てくるって思ってたさ」
リシェはスティレンを睨み上げたまま黙る。
「こっちに来てから本当の自分を出せるようになったもんねぇ?相当気が楽になっただろうよ。抑えられてたから余計にね。向こうじゃびくびくしてたくせにね。向こうに居た時はまだ子供だったから仕方無いだろうけどさぁ…」
掴みかかってきたリシェの髪を握り、スティレンも負けじと引っ張り上げる。痛っ、と軽く声を漏らすリシェ。
「猫被りのスキルだけは抜群に上がったんじゃないのさ、リシェ?」
「…うるさい」
強気な目線が激しく絡み合った。
「何をやらかしても結局親に守って貰ってきた奴が、随分ご大層な言葉を吐けるじゃないか。裏で厄介事を持ち込んでおいて、ろくに尻拭いもしなかったくせに」
ぴくりとスティレンのこめかみが動く。
家に閉じ込められてきた環境下に置かれていた彼が、自分やリオデル、そして仲間達の行動などまともに把握出来たとは思えない。
リシェは家の恥晒しとして、彼の義母によって外部から遮断されて生きてきたのだ。
それだけに、その発言は寝耳に水だった。
髪を掴む手に力がこもる。
「何だって?」
スティレンの質問に、リシェは薄い唇を笑みに変えた。
「どっちが猫被りだか。俺が何も知らなかったと思うか?薄い扉から誰ともない声が聞こえてくるんだよ。色んな人間の溜息やら不満の声がな。大抵はリオデルへの不満だったが、連んでいたお前への不満だって嫌になる程聞いてきた。いらない事をして、そのまま放置していれば家の問題にもなるから、仕方無くうまく処理し続けていたんだろうよ」
「お前…」
目を細め、彼は嘲笑する。
「表では礼儀正しい坊ちゃんとして良い振りをしてきたんだろう?裏では散々悪どい事をしていたくせに。そんなお前が俺に猫被りしていたなどと良く言えたものだ」
「…性格悪いね!!」
俺より性格悪いんじゃないの、と吐き捨てる。
リシェもまた、スティレンに負けじと自らの手に力を入れた。更に詰め寄りながら「性格が悪い?」と眉を寄せる。
「そうさせたのは誰だと思う?逆にお前が俺の立場だったら、歪まないと言い切れるか?俺は常に周りから何をされるか分からない不安と隣り合わせだった。殴られるだけならまだ耐えられる、ただそれだけならな。でも違う。見ていたお前なら十分過ぎる程分かるだろう、俺が何をされてきたのか!!」
口にするのも憚られる内容を、リシェは初めて言葉に出していた。それ程思い出したく無いのだ。
本来ならば、当事者であるリオデルにぶつけるのが筋かもしれないが常に行動を共にしていたスティレンも彼と同じ立場で、言わずにはいられなかった。
その赤に染まった瞳にも強い力を感じる。
「知ってるよ。だからこっちでまたお前を見るのも嫌だったのにさ。お前の無気力な顔をまた見なくちゃいけないとか、本当運が悪い。腐れ縁なんだろうね、リシェ?」
そう言い終えるなり、スティレンはリシェの髪から手を離して思いっきり突き飛ばした。
突き飛ばされた拍子に華奢な体がバランスを崩す。
「!」
片方の足に力を込め体勢を整えた後、リシェは顔を上げ再びスティレンを睨んだ。その瞬間、喉元に手が伸びる。
今度はスティレンがリシェの襟元を掴む状態になり、妙に勝ち誇った表情を浮かべて囁く。
その声音は、昔良く聞いた嫌味の含んだニュアンスだった。
「折角の機会だ。お互い殴りあった方が良さそうだねえ、リシェ?」
「………」
「殴るだけじゃ気が済まないって豪語する位ならこっちもやってやろうじゃないか。腕力で解決出来るなら簡単な事だ。綺麗事が好きなお前が俺をどのくらいボコれるんだろうね」
言って後悔しない事だね。
そう言うなり、スティレンはリシェの襟を掴んだままでその腹部に膝を強く入れた。唐突に襲う鈍い痛みに、小さな体はがくりと折れる。
ひたすら咳き込み、蹲るのを堪えながら顔を上げる。
「何その顔?」
スティレンはハッと笑いながらリシェに言った。
「まさか俺が黙って殴られるとでも思ったの?」
腹部を押さえたままのリシェはよろめきながら「馬鹿言え」と小さく呻く。
「お前は自分の顔に自信があるだろうから、自分が傷付けられるのは心底嫌なはずだ。だから抵抗するのは分かっている。そんなお前の顔をボコボコにしたらどうなるだろうな」
リシェはそう言い終えると、一瞬の隙を突いてスティレンの顎の下目掛けて拳を振り上げた。ガツリと固い骨と拳の骨がぶつかる。
痛!と小さく叫ぶ声を無視するように、リシェは更に彼のよろめいた足に向けて強く蹴飛ばした。
「…っあ!!」
がくんとバランスを崩し、そのまま尻餅を突いてしまう。
みっともない体勢を目の当たりにしながら、リシェはスティレンを見下ろして馬鹿にするように鼻で笑った。
今までの鬱憤を晴らすかのように。
「どうした?俺は昔みたいに抵抗も出来ない軟弱者じゃないぞ」
小さな背丈を利用したやり口に、スティレンは激昂した。しかも、弱い顎の下を狙うあたり姑息過ぎる。
「…ムッカつく!!!」
スティレンはすぐに起き上がると、余裕の顔を見せるリシェの頰に向けて勢い良く殴りつけた。
「!!」
左の頰に激しい衝撃と痛みを覚えたかと思うと、彼の体は二メートル程スティレンから遠ざかった。酷く全身を地面に打ちつけられ、きつい痛みが背中を襲う。
思わず両目を閉じた。
「小さいからすぐ吹っ飛ぶねぇ!!」
すかさず倒れたリシェの上に乗り、スティレンは嘲笑った。
ぐっと呼吸を詰まらせながら相手に対し強気な目を向けるリシェ。
それを見下ろし、ある意味場慣れしたスティレンは馬乗りになったまま顔を近付け「まともに喧嘩なんかした事無いくせにさ」と言う。
「反抗の仕方もろくに知らなかった臆病者が、俺に勝てると思ってる訳!?」
ググッと襟を掴みながら生意気な従兄弟に吐き捨てた。更に追い討ちをかけてくるかのように首元を締め付けられたリシェは苦悶の表情を浮かべるが、掴むスティレンの手に爪を突き立て引っ掻く。
う!と小さく叫ぶスティレン。
「少しだけの怪我でギャーギャー叫ぶレベルのお前が、立派に喧嘩慣れ面するのが笑える!!」
「うるさいんだよ、リシェのくせに!」
リシェは右腕を突き出し、相手の腕に絡み付くと勢い良く捻る。
「こっ…の!」
どこまでも抵抗する態度に苛立ちを押さえきれないスティレン。痛いって言ってるだろ!と怒鳴りながら比較的自由な手を使いリシェの頰を抓った。
「今のお前を大好きなロシュ様が見たらどう思うだろうね?お利口で従順なイメージが吹っ飛ぶんじゃないの!?」
ギリギリと引っ張る指の力が強まる。
痛みに顔を歪め、リシェは頭上のスティレンの目を見ながら「喋るな」と言った。
同時に、腹部に鈍痛を感じる。激しく圧迫され、スティレンはリシェから身を離した。
「う…ぐ、くそっ…普通腹を殴る!?」
「お前だってやっていたくせに文句を垂れるな!!」
リシェはすぐ体を起こすと、床の上で腹を押さえて転がるスティレンを見下ろした。
このまま蹴飛ばしても構わないが、流石にそれはしたくない。無様に転がる彼に対し、早く立てと命じる。
「みっともない」
恨みの籠った目でこちらを見ながら、腹部を押さえ立ち上がるスティレンを冷静な顔で直視する。
「相変わらず自分には甘いんだな」
「…はぁ?」
リシェの聞き捨てならない発言を耳にし、乱れた髪をそのままに反抗の目線を投げつけた。
「今何て言った?」
普段の自信満々な表情からは想像出来ない位の鬼気迫った顔でリシェに問う。そんな従兄弟の様子とは逆に、リシェは淡々とした口調で挑発を続けた。
「お前のその性格には反吐が出る」
「胸糞悪い!!人の事を言えた性格か!!」
腹の痛みを押さえ、スティレンは再びリシェに掴みかかる。
お互いこうして取っ組み合いレベルの喧嘩をするのが初めての為か、完全に頭に血が昇っていた。剣士となってそれぞれの戦いのやり方も身に付いていただけに、更に力も増していった。
スティレンに至っては今まで抵抗すら出来ないでいたリシェがこうして自分を殴ってきたのが気に入らず、どんな手を使っても平伏せてやりたいと躍起になる。
「ちっ」
その顔を歪ませてやりたいと顔面目掛けて拳を振るったものの、持ち前の身軽さで回避されてしまいスティレンは舌打ちする。
宮廷剣士の中で一番小さいのもあり、身軽さでは彼に敵う者は居ない。分かってはいるものの、あっさりと避けられるといように腹が立った。
「さっきからまともに俺に当たってない、下手糞」
こちらの苛立ちを見通しているのか、リシェはそんなスティレンを挑発した。
「だったら止まってろ!!」
「腕に自信が無いならやめた方がいい」
「…ふざけるな!!」
憤慨したスティレンの腕がリシェの左腕を捕らえた。
「!!」
「調子に乗ってんじゃないよ!!」
一気に関節を決めながら引き倒す。踏ん張りきれなかったリシェの体は呆気なく床に叩きつけられてしまった。
打ち付けられた事で軽く彼の体が跳ね上がる。
「ぐ…!!」
形勢逆転し、リシェは身を起こそうをするものの、スティレンはすかさず彼の腹部目掛けて足をドスンと乗せる。
腹に攻撃する事を抗議してきた癖に、それ自体すぐに忘れているようだ。とにかく自分に関しては都合良く忘れる思考で呆れてしまう。
乗せられた足をすぐに両手でぐっと掴む。
「…ちょっと!!何する気!?」
有利に立ったかと思いきや、ここで抵抗をしてくる事に狼狽するスティレンはリシェを見下ろしながら怒鳴る。
「この卑怯者が!!」
掴まれた事でバランスを保てなくなり、どうにか離れようともがいた。このっ、と逆に腹を踏ん付けてやろうと思ったが、想像以上にリシェの力が強く思い通りにならない。
「離せって言ってんだよ!!」
倒れそうになるのを必死に堪え、スティレンは足元のリシェを忌々しげに睨み強がる。
「少しでも危険を感じれば無駄に足掻くのがお前の悪い癖だ。…本当は小心者なのが丸分かりじゃないか!!」
そう言い終えると同時に、リシェはスティレンの足を強く抱き締めながらごろりと自分の体を転がした。完全に固定されてしまい、スティレンは体勢を一気にがくりと崩されてしまう。
うああ!!と悲鳴が上がった。
「!!」
リシェの体に乗り上げるようにしてスティレンの身は崩れ落ちてしまう。彼の重みを感じながら、リシェは小さく呻き声を上げた。
最終的には折り重なるようにしてお互いに揉み合う。
「…っの!!ふざけてんじゃないよ、舐めてんの!?」
「自分の甘さを棚に上げて人に文句をつけるな!!」
まるで小馬鹿にしてくるようなリシェの態度に、スティレンは自分の真下に居るリシェの頭をぐりっと小突く。対抗するリシェもまた、スティレンの顔目掛けて手を伸ばし、頬を強く引っ張った。
今まで蓄積してきた不満を激しく発散するように、罵りながら手を上げ続けていた。
「いったいんだよ、この馬鹿!!俺の顔に傷付けてタダで済むとは思うなよ!」
「誰もそこまでお前の顔なんか見ない!!」
「…何だって!?生意気過ぎるんだよ!!このっ…!!」
床に転がったままのリシェの襟首を掴む。
「黙ってればまだマシなのに、ここまでムカつく奴だなんて思わなかったよ!」
ぐぐっと掴む手に力を込めるうちに、呼吸の幅を狭められるリシェはふんと表情を緩める。
「俺がムカつく性格になったのは一体誰のせいだと?」
「はぁ?」
「俺に一切構わなければ、ここまで嫌な性格にならなかっただろうよ!」
言っても仕方無いのは重々分かっている。
だが、周囲から邪魔者扱いやストレスの捌け口にされなければ、自分はもっとあの家で平穏に暮らせたのではないかと思うのだ。
これとは全く別の、違う人生を歩めたかもしれない。
「は!?人のせいにしてんじゃないよ!ろくに反抗しなかったくせに!嫌なら態度で知らせりゃ良かっただろ!」
「無視してきた奴が今更開き直るな!!」
「お前こそ今更言ってきて!!気にしないふりしておいて、後からグチグチとウザいんだよ!!」
「何だと!?」
片方が殴れば、また片方が殴り返す。
それをひたすらに繰り返していると、お互い疲労の顔が見え隠れし始めていた。
神経を尖らせながら攻撃ばかりしているので無理もない。
「このっ…!!」
ひたすら自分の上で掴み掛かってくる従兄弟の頭を押し上げた後、邪魔だと言わんばかりに上体を強引に起こして彼の額目掛け頭突きをする。
ゴツリ、と硬いもの同士がぶつかり合う音が放たれた。同時にスティレンは「痛ぁ!!」と悲鳴を上げる。
リシェの上から逃げるように身を離れ、頭を押さえながら床を転がり始めた。
「痛っ…!本当、信じられない!何て野蛮なのさ!!」
悶えるスティレン同様、リシェも自ら放った反撃に額を押さえて体を丸める。打ち付けた痛みに呻き、しばらく動けないままになっていた。
う、ぐぐ…と奥歯を噛み締めながらひたすら脳に響く痛みに耐える。
「…鬱陶しい…本気でムカつく…!やろうと思えば、リオデルなんか殴り飛ばせたんじゃないの…このぶりっこ野郎…」
転がり疲れたらしく、スティレンは痛む頭を押さえながら忌々しげに横で同じように転がるリシェに言う。
呼吸を整えている最中のリシェは、そんな彼の横っ腹目掛け蹴りを入れた。
「何なの!!」
「…うるさい」
寝転がっている最中に蹴りを入れてくるとは思わなかった。
スティレンは蹴飛ばしてきた彼の足を邪険に払い除けると、軽めの溜息を吐く。
大人しい性質だと思っていたのが完全に違っていた。ただでさえ気に障るタイプだったのに、ここまで我を主張してくるとは思わなかった。
「部屋で縮こまる事しか能がないと思っていたのに。何が気に入らなくて出てったのさ。余程の事が無きゃ、住む家にも困らなかったのに」
「………」
ようやく落ち着いてきたリシェは、スティレンから背を向ける形で寝返りを打ちながら目を細める。
思い出したくもない。
「…あいつから本格的に襲われそうになったんだよ」
「………」
「これで分かっただろう」
リシェにしては言いたくもない話だろう。
スティレンはちらりと隣で転がる彼に視線を向けた後、力が抜けたかのように「あっそう」と返した。
「そりゃ気持ち悪いね」
「………」
「大したもんを持ってる訳じゃないくせに、変に自信あったからね。逃げて当然か」
顔を真っ赤にして暴れ回っている最中は気にしなかったが、真っ白い空間の中の空気はひんやりしていた。
汗が引いてきた為に、尚更床の冷たさも感じる。
「…疲れた」
リシェは気疲れしたのか、丸まりながら呟く。
「あれだけ暴れてりゃそうなるでしょ。馬鹿じゃないの」
「………」
今までの腹いせをぶつけられた感じがしていたスティレンは文句を言うと、両手を広げて大の字になる。天井も全く無いただの白い空間を仰ぎ見ながら、あぁと一息吐いた。
「久しぶりに殴り合いの喧嘩した気がする」
リシェは完全に初めてだった。そもそも喧嘩らしいものはした記憶が無い。言い争いはあったかもしれないが、手を出すレベルの喧嘩など経験が無かった。
そのせいか、余計に心身共に疲労度が強い。
「思いっきりお前を殴ってやったから、明日には痣が付いてるだろうねえ、リシェ?ふん、ざまぁみろ」
必死過ぎて覚えてなかったが、確かに全身の他に頰やら目元に鈍い痛みを感じる。恐らく、後で振り返してくるだろう。
だがそれは向こうも同じのはずだ。
いい気味だと言わんばかりのスティレンの言葉を聞きながら、リシェは黙って瞼を伏せる。
その時、ふわりと風通しが良くなった。
「!」
二人だけしか居なかった空間に新たな気配を感じ取り、スティレンは咄嗟に上体を起こす。
それまで何も無かった空間から少しずつ穴が開き、そこから女性のしなやかな脚が抜け出てくる。
カツン、と硬い床を叩く音。
「おや、もう終わりか?」
軽やかなヒールの音を響かせ、イベリスが姿を現す。
彼女の発言から、まさかこれまでの喧嘩を見ていたのかと不愉快そうにスティレンは眉を寄せた。
ふいっと顔を逸らしながら悪趣味だねと呟いていた。
疲弊した二人を見下ろすと、彼女はフッと表情を緩ませる。
「可愛い顔をしてる癖に、お互いムキになって殴り合いをするなんて滅多に見ないからねぇ。面白いものを見させて貰ったよ」
「…最低だね。止めるどころか眺めて楽しむとか」
「ふん。お前がそれを言うのか?…だが」
ちらっと床に丸まったままのリシェに顔を向けた。
「あのガキにはいい機会だったんじゃないかね」
「………」
厳しい顔をしていたスティレンの耳に、再び何かが落ちてくる音が飛び込む。
音のした方向に顔を向けると、そこには着地に失敗し膝を崩したオーギュの姿があった。
「オーギュ様?」
「…いたた…まさか高い所から落ちる羽目になるとは」
そう言いながらゆっくりと立ち上がると、二人に近付く。
「リシェ?」
未だに床で丸まったままのリシェに声をかけた。
イベリスは彼の前で両膝をつき、様子を確認するとあきれた様子で「あぁ」と声を上げた。
「寝てるよ」
「は?」
スティレンはイベリス同様、リシェの顔を覗き込む。
「…何こいつ。あれだけ元気に暴れてたくせに」
「慣れない事をしたから余計疲れたんでしょうね。背伸びしていてもやっぱりまだ子供だ」
オーギュはそんなリシェを抱きかかえると、同じようにぼろぼろのスティレンを見てふっと微笑んだ。
「あなたも疲れたでしょう」
「…俺は、こいつより軟弱じゃありませんから」
自分は平気だと言わんばかりに立ち上がるが、蹴られた場所がズキンと痛み少しふらついてしまう。
「強がる所がまだガキだね。どうだ、背負ってやろうか?」
「強がってなんか無いし!」
揶揄われた気がして、スティレンはそこでもまた強がる。流石に異性に背負われるのは情けなく思うのだろう。
彼はぐらつく足取りで「帰る」と言う。
「こっちは決着がついたみたいだからね。ところで、お前はどうなんだ、オーギュスティン」
魔力の注入を完全にマスターしなければ意味は無い。
放り出したままでこちらに来たのかと疑問符を投げかけた。
「あなたが指導してくれたようにどうにか形になりましたよ。戻ったら見て貰えますか?」
何度練習しただろう。
魔力を注入し、石に馴染ませてから自分の魔力を吸収してくれるまでひたすら待つ作業も飽きてきた。とにかく根気よく作業をしていった結果、彼女が教えてくれたように魔石自らが魔力を吸い込んでくれたのだ。それも何度も繰り返し、やっと彼女に状態を見て貰えるまでになった。
「ほう。流石努力を重ねる事で成長しただけあるな」
「もう疲れましたよ。散々下手だのなんだの言われては、意地でも求める以上の品質で完成させてやりたくなりました」
二人の会話を聞きながら、スティレンはぽかんと呆気に取られていた。最高レベルの魔導師であるオーギュに対し、下手だと普通に言えるのが信じられないらしい。
この失礼な魔導具屋の女は一体どれ位の魔力を持っているのだろう。
イベリスは少しばかり意地悪そうな笑みを浮かべながら、そうだねぇと勿体ぶった様子で言う。
「お前は叩けば叩く程向上心が上がるタイプだろうしね。余程自信があるんだろう?お前が魔石を作れるようになれば、このガキが望んでいる物が出来上がる」
「…どういう事ですか?リシェの望む物とは?」
「お前の修練とそいつの欲しがっていた物が同時に叶うんだ。感謝して欲しい位だな」
「は…?」
言葉の意味が分からないままのオーギュ。
自分の腕の中で寝息を立てているリシェとイベリスを交互に見ながら、その意味を理解しようと必死に考えていた。
気難しいイベリスのお墨付きをようやく貰ったオーギュは、そろそろ大聖堂に戻らなければならない時間ですねと話を切り出す。
彼女はそろそろ日も暮れる、と壁の隙間から外を覗いた後に大聖堂からやってきた彼らを見回した。
「こちらから出してやった召喚獣の様子も見れた事だし、また違う街に行くとするか。まさかあの堅物がこれ程までに主人にべったりだとは思わなかったがね」
『堅物だと…』
妙に馬鹿にされた気分になるファブロス。
そこまで指摘される程かと疑問に思うが、自分は常にオーギュと行動を共にしているのでそう思われても仕方無い。
少しは自覚があった。
「イベリスさん。リシェが欲しがっていた物とは…」
言いながら、オーギュは不意にある事を思い出す。
杖の魔石に魔力を詰めたい、と。スティレンが最初に言っていた言葉を思い出し、「…まさか」と合点がいった。
「リシェが持っていた杖に、私が直接魔力を詰められるようにする為に」
イベリスはふんと軽く鼻を鳴らした後で「今更気付いたのかい」と腕を組みながら返す。
「お前の魔法の悪い癖を調整する役目も果たしただろう?」
「………」
彼女はオーギュの胸元に指をさし、掻き出す動きを見せた。掻き出された場所から光の空間が開かれ、そこから長い杖が引っ張り出される。
ええっ、とその瞬間に立ちあっていたスティレンは声を上げた。
「な…!?」
当のオーギュもリシェを抱えながら驚愕の表情を浮かべる。彼女が目の前で引っ張り出してきたものは、紛れもなく自分の愛用する杖だったのだ。
高魔力の耐久性がある魔木から作られたその杖は棘の主張が激しく、慣れなければ特に扱いにくい代物。しかし魔木とあり魔力を最大限に引き出すには最高級の武器だった。
「お前がこいつを扱っていたのかい」
それを手に取ると、彼女は驚いた様子で眺める。
「その杖が、どうかしましたか?」
「何、どんな杖を使っているのか気になったものでな。…しかし」
イベリスはオーギュの物々しい杖を一通り眺めた後で感心したように続ける。
「まさかこんな杖を使っていたとは思わなかった。欲の欠片も無さそうな面して、どこまで貪欲なんだいお前は」
状態を確認した後、彼女はその杖に付随している拳よりも若干大きめの魔石に視線を向けた。赤く鈍い光を保つその魔石は、奥深くなるにつれて深みのある色合いになっている。
「その杖が何か…?」
「ふん、このままにしておくには勿体無いだろう。こいつは相当な魔導師でなければ扱えない代物だ」
「ええ。ですから敢えてそれを選んだのです。最初は石から魔力を捻出するのにも苦労しましたし…」
ふっとイベリスは口角を上げた後、その魔石に手をかざした。そして彼女の手からギュルルと濃縮された魔力の塊が放たれると、杖の魔石の周囲に光の粒子が包み込む。
その魔法の威力を目の前に、オーギュは思わず言葉を失ってしまう。
『婆』
「うるさいね。婆って言うんじゃないよ。お前も獣って呼ばれたいのかい」
長年魔法に触れてきたファブロスは注入されていく魔力の勢いに思わずイベリスに声をかけてしまう。今、現状のオーギュにはその注入されていく魔力に対応出来るのか不安だった。
使い方によっては、オーギュの魔法が更に勢いがつき暴走してしまう恐れもある。いくら小さい石に魔法を制御して詰めるという我慢の技術を身に付けたとしても、流石にバージョンアップした杖を扱うのは難しいのではないだろうかと。
「まぁ、この位がいいだろうね」
「え…あの…?」
自分の杖に何をしてくれていたのかは理解出来た。
「もう少ししたらちゃんと返してやる」
イベリスの手はそれだけには留まらず、魔石に力を馴染ませている間に店の棚の一部を漁った後、一つの金具を引っ張り出してきた。
「お前にこの杖を更に使いこなせるかね?」
「…何をされているのです?」
杖の下を床にコツリと軽く叩きつけた後、石の澱みが消えていくのを確認して先程の金具を魔石の上にくっつけると、ようやくそれを従者であるファブロスに持たせた。
『!!』
その杖を手にした瞬間、ファブロスは驚く。
『杖の魔力が半分に減っているぞ。お前、何をしたんだ』
「何それ」
あれだけの技術を目の前にした後に杖の魔力が減っているなどと、どう考えてもおかしいのではないかと素人のスティレンもイベリスを見上げた。
「どういう事?」
「石ころにさらに魔力を詰め込んでやったんだよ。だがそのままじゃ、術者の魔力は石の力に依存して全く成長しないだろう。だから敢えて制限しておいた。この上の金具はその為のものだ。私がタダで馬鹿高い力を詰め込んでやると思うかい?」
『だからといって、杖の元々の魔力の半分にしなくてもいいだろうが。これではオーギュの魔法が並レベルに』
ファブロスが抗議するのを、オーギュは「やめなさい」と止めた。
「面白いじゃないですか。やってみます」
『オーギュ!?』
心配するファブロスを余所に、彼は自信たっぷりにイベリスに「強化して下さって感謝します」と礼を言う。
「これで無事に制限を気にせず魔法を使いこなせるようになれば、その分力も増してくるでしょう。私のように泥臭さを好む魔導師にはぴったりだと思います」
「…何なの…魔導師ってドSとドMなタイプが多い訳…?」
わざと制限を付けるイベリスと、その条件を敢えて飲み込むオーギュの会話を聞きながらスティレンは驚愕の顔を剥き出しにしてしまう。
強くしてくれるのならそのままでいいじゃないか、と感じるのは、自分が少しでも楽をしたいと思ってしまうからだろうか。
「お前のような奴は自分を追い込む方法が一番手っ取り早い。だからこの召喚獣も引き込まれたのだろうよ」
オーギュの返事に満足したイベリスは、心配そうな顔をするファブロスに「その分お前がサポートしてやればいいだけの話さ」と告げると彼の分厚い胸元を叩いた。
「ほら」
リシェとの乱闘で疲れ果て、立つのも辛そうな顔をしているスティレンに目線を配らせる。
「こっちも疲れ果てているようだぞ。早々に戻った方がいいのではないか?」
「…つ、疲れてないし」
そこでも余計な強がりが出てしまうスティレンは、しっかり立とうとするが妙に力が出なかった。
『安心しろ。帰る時にお前を抱えてやる』
「買い物袋を持たせてるのに俺まで抱えて行く訳?」
自分で歩けるからと突っぱねる。
オーギュの腕の中で完全に寝入っているリシェと一緒にされたくないのもあった。
『足がふらふらしているじゃないか。遠慮するな』
受け取った杖を一旦自らの体内に納め、床に置いていた多数の買い物袋を腕に引っ掛けた後でファブロスはふらつくスティレンを軽々と抱える。
うわあ!!と宙に浮いた感覚を味わうスティレン。
「いいって言ってるじゃない!」
『お前がふらふら歩くのを待っている時間が惜しい』
疲れ果てているにも関わらずファブロスの腕の中で暴れるスティレンは、変に恥ずかしくなり顔を真っ赤にしていた。
オーギュは落ち着きなさいとそんな彼を窘めると、安心して下さいと言った。
「ファブロスはあなたが思う以上に力持ちですから」
「………」
そういう問題では無い。
『いいから黙ってろ。それにお前を暗くなってきた路地に放置する訳にもいかないからな。いくらアストレーゼンだろうが、夜間になるとその分治安も悪くなる。この辺りだと尚更だ。来た時にも見ただろう』
ファブロスが言うように、確かにここに引っ張られる際に見た景色は馴染みのある環境では無かった。
どちらかと言えば下層に位置する住民が多く、向けられる視線もやけにじっとりとした感じを受け、華やかな大聖堂と比べて落差が激しい地域。
夜間は決して単独では出歩きたくない。
『お前みたいに金持ち丸出しの格好で歩いてみろ。たちまち追い剥ぎにやられてしまうぞ』
「か…金持ち丸出しって!!」
リシェによってボロボロの状態だが、スティレンはいつも通りの私服姿だった。指摘されたように布ですら高価な素材で、一枚だけでも相当な価値がある。
流石に毟られたくない。
「…分かったよ、もう」
ようやく理解し、彼は黙った。
『そうだ。子供は素直が一番だ』
「子供じゃないし!」
自分はもう大人だと主張するのは、リシェも同じだった。やはり繋がっているのだなと思わずオーギュは吹き出す。
「さて。…今日は疲れたよ。久々に人と会話したからな。私は一晩ここで休ませて貰って、明日からまた別の場所に移動するかね」
イベリスはあくびをしながら体を伸ばした。
「次に会った時には、杖を使いこなせるようにしな」
制限を課せられ、逆に向上心を増幅させたオーギュはかイベリスの言葉に勿論ですと返す。
魔法の求道者としては願っても無い環境だ。
「要は、あの金具を外せるようになれば良いのですから」
強気な彼の言葉に、イベリスは「出来るものならな」と笑った。
「ええ、必ず」
その返事に満足したようだ。
イベリスは店仕舞いだ、と言うと彼らをあっさりと外へ出ろと促す。
「大聖堂には門限があるのだろう。さっさと帰りな」
軒先まで見送ると、彼女は一行を見回す。
既に夜に染められた外の世界。簡素な住宅地は仄かな明かりで彩られていた。
陶器のような艶やかな肌が月明かりで照らされ、エキゾチックな様相を醸し出すイベリスは目を細め、寝入っているリシェを見た後念を押すようにオーギュに告げる。
「戻ったら、そのガキの持っている杖に魔力を詰め込んでやるのを忘れるんじゃないよ」
「折角教えて貰いましたからね。無駄にはしませんよ」
その返事に満足したように、彼女は「ほら」と促す。
「さっさと帰りな。そっちも眠そうじゃないか」
疲れが一気に来たのか、ファブロスに抱えられたスティレンもうとうとしていた。
オーギュは改めてイベリスに礼を告げる。
「ありがとうございます。またいつかお会いしましょう」
「ふん…私はきまぐれだからね。まぁ、お前が成長した暁には会ってやってもいいさ」
『素直じゃない女だな』
変に意地悪になる彼女に、ファブロスは呆れてしまった。素直に言葉を受け止めればいいのに、良く分からないタイミングでひねくれた言い方をする。
オーギュはファブロスに戻りましょうと声をかけた。
大聖堂の門限の時間は刻々と近付いている。
…門が完全に閉じる前に、急いで戻らなければ。
「あれ?どうしてスティレンが?」
そのままリシェをロシュの元へ届ける為に司聖の塔へと戻ったが、宮廷剣士の宿舎の門限は既に超えていたのでやむを得ずスティレンもそのまま一緒に連れて来たのだ。
ロシュはリシェの部屋のベッドで眠っている彼の顔を覗き込むも、「ひ!?」と情けない声を上げてしまう。
「どうしましたか、ロシュ様?」
長い時間リシェを抱え続けていた事で腕が痛くなっていたオーギュは、両腕を摩りながら彼に問う。
「何か、ボロボロになってませんかね!?」
動揺するロシュ。
オーギュは「ああ」と冷静に返した。
「スティレンと大喧嘩してましたからね。そりゃあ殴り合いの凄まじい喧嘩でしたよ」
「は…!?え、えぇっ!?」
確かに彼の隣で眠るスティレンも何故か痣だらけでボロボロだった。二人を繰り返し見たロシュは、全く状況を飲み込めず泣きそうな面持ちで二人を連れてきたオーギュとファブロスを交互に見る。
どんな過程を経たらこのような状態になってしまうのか。
「あ…あの…何故二人がそのような?」
あまり聞きたくは無いが、気になってしまった。恐る恐るオーギュに問うと、彼は「そこまで深刻な事ではありませんよ」と肩を竦める。
「スティレンの我儘にリシェが我慢出来なくなっただけです」
「は…」
「今はそっとしておきましょう。変に回復魔法を施したら目が覚めてしまうかもしれませんから」
失った体力を回復している状態で魔法をぶつけてしまうと、体内の細胞等が活性化されてしまう可能性もある。
ロシュの気持ちとしては、彼らに付いた痣や傷を真っさらな状態にしたいだろうが、それは目が覚めてからでも出来る事。
「リシェにしても、今まで我慢して溜め込んだ心の中を吐き出す分には都合が良かったと思いますよ。それも、自分を追い込んだ原因の一人にぶつける事が出来たのだからね」
『スティレンも相当な我儘振りだったからな。これで多少は修正してくれればいいのだが』
部屋の角に並べられているスティレンの買い物袋をチラリと見た後でファブロスも言う。
「は…はぁ…」
ロシュはリシェの為に用意された大きく柔らかなベッドの上で、似たような寝顔で熟睡している二人を見下ろした。
仲直りしてくれたらいいのですけど…と困惑しながら、送り届けてくれたオーギュとファブロスに礼を告げた。
「あまり休めて無かったのではないですか?」
疲れが目に見えていたので休暇を与えたにも関わらず、このような形になってしまったので却って疲労が蓄積されたのでは無いだろうかと心配になった。
オーギュとファブロスはお互いに顔を見合わせた後、やがてふっと笑みを浮かべる。
「まぁ、少しはね…ですがお陰で収穫も得る事が出来ましたし。後程クロネ殿から頂いたリシェの杖に魔力を入れるとしましょう」
『うむ、私もオーギュが更に成長していくのを見るのは嬉しい。あの婆に感謝しなければな』
何の事なのか話が見えないロシュは、「何があったのです?」ときょとんとした顔で問う。
「面白い事があったなら私にも教えて下さいよ…」
やや拗ねたように訴えると、オーギュはそうですねぇと少し勿体ぶったように言った。
「今日は流石に遅くなりましたからね。明日の午後からまた仕事に伺いますから、その時にお話ししましょうか」
アストレーゼンの夜は深くなっていた。
ロシュは部屋の小窓を少しばかり開き、中に新鮮な空気が入ってくるように調整すると眠っている二人の布団をしっかり掛け直した。
寝顔もどこか似ている気がする。
「では私達はこれで。あなたも早く休んだ方がいいですよ、ロシュ様。これまで私の代わりにずっと仕事していたのでしょう?」
珍しく労いの言葉をオーギュの口から聞き、ロシュは思わず驚いた顔をしてしまった。
いつもは逆に真面目に仕事しなさいと注意してくるのに。
「はは、私は休みをちょこちょこ入れながら作業してましたから…まだ大丈夫ですよ」
「そう言って無理されちゃ困りますからね。ゆっくり休んで下さい。私の分の仕事も持っていかれては困りますからね」
軽度の嫌味を軽くかわし、ロシュは苦笑する。
「そんなに言うならもっと残しておけば良かった」
「ふふ…どの位残ったか明日の楽しみにしておきましょうかね。ファブロス。私達も戻りましょう」
『分かった』
静かにリシェの部屋から出ると、ロシュの私室へと向かう。
「ここからでも結局ベランダから出るんですね、オーギュ」
彼は絶対に螺旋階段を使わないのだ。
普通に飛び降りる気満々の彼は、そのまま室外に出た後にこちらを振り返る。そして当然だと言わんばかりに言い返した。
「こっちからの方が早いですからね」
「細かい性格なのに面倒臭がるんですから…」
オーギュがファブロスに声を掛けると、彼は何を求められているのかを理解したように主人の体内へと入っていった。
三日月が鮮明に見える空を前に、オーギュは「では、お休みなさい」と優雅に微笑むとすぐにそこから飛び降りて行った。
風がぶわりと室内を駆け抜ける。
前より長くなった髪を押さえ、ロシュはベランダに繋がる窓を閉めた。完全に一人になった室内を見回し、彼は自分の書斎机の椅子に近付く。
珍しく静かな夜。いつもならば、まだリシェも起きている。
日頃の疲れもあるだろう。たまにゆっくり休むのも大切だが、やはり少し寂しい。
「休もうかな」
柔らかな椅子に深く腰掛け、彼は一人呟いていた。
風に揺れるカーテンの隙間を縫うように日の光がちらちらと差し込み、スティレンの瞼を揺らした。洗濯済みの香りが染み込んだ柔らかな羽毛布団の中で呻き声を漏らし、うっすらと目を開ける。
そしていつもと違う感覚に少しずつ違和感を覚えた。
「…ん…?んん?」
目の前に塊が居る。
スティレンはガバッと体を勢い良く起こした。周囲を見回し、自分の部屋では無い事にようやく気付く。
「は…?何でここ…」
自分が司聖の塔のリシェの部屋に居たので、必死に記憶を探ろうと頭を押さえながら思い出そうとした。だが途中から記憶が抜け飛んでいる。
ええっと…と少しずつ記憶を呼び戻していると、リシェと殴り合いをしていたのを思い出した。
「あっ…!そうだ、あいつ…!」
言いかけた瞬間、全身がギシギシと痛みだす。そして頰も痛い。お互い散々暴れたから無理もなかった。
痛みに顔を歪めていると、隣の塊が蠢きその姿をちらりと見せてきた。
目元に少し痣が残ったままで熟睡しているリシェ。
折角の美少年が台無しだ。
「……無い!!くそっ」
「…は?」
夢でも見ているのだろうか。
もぞもぞと顔をシーツに埋めながら彼は眉間に皺を寄せ唸る。眠りが浅くなりつつあるのか、ひたすら身動ぎし続けていた。
そんな彼を無視し、スティレンは体を洗いたい衝動に駆られてしまう。自分の部屋ならば備え付けの浴室にすぐに駆け込めるが、他人の部屋だとそうもいかない。
この部屋は個室のシャワーは無さそうだった。リシェはいつもロシュの部屋にある広い浴室を使うはず。
どちらかと言えば潔癖症なスティレンは、湯を浴びずに寝入ってしまった事への罪悪感を感じずにはいられなかった。
「う、ううん…」
まだ呻くリシェ。
うるさいなぁ、とスティレンは小さく舌打ちする。すると、もぞもぞと蠢きながらリシェは寝言を言い出した。
何の夢なのかは謎だが、言い合いをしている模様。
「ぶ、無礼…無礼な!!俺のロシュ様を愚弄するな!!」
「うわ!!ちょっ…ちょっと、何!?」
「この偽者め!」
怒りながらその身を起こす。
「偽者!?何の話だよ!?」
起きがけに叫ばれ、スティレンはリシェからやや引きながら言い返した。
寝ぼけ眼のままのリシェはしばらく前を見ていたが、時間を置いた後でようやく「ん?」と周囲を見回す。
「あれ?」
スティレンと目が合った。
「何だお前…」
「何だじゃないよ、お前の方こそ何なのさ!」
「夢、か。変な夢を見た気がする…」
「偽者とか何とか言ってたよ」
「偽…」
お前に似ているような人間なんて居るものかとスティレンは見下すように言った後、改めて自分の一つ下の従兄弟の顔を見た。
そして顔に付いた痣にふっと吹き出す。
「んっふ…」
人の顔を見て笑うというとんでもなく失礼な行動に、リシェは不愉快そうに顔を顰める。
「何」
「だってさぁ…お前、俺が殴った痕残ってるんだもん」
リシェは目を丸くすると、彼もまたスティレンに指摘した。
「お前だって似たようなものじゃないか。人の事言える顔か」
「は!?」
自分の容姿に人数倍気を使うタイプのスティレンは、リシェの言葉に対し過剰に反応を見せた。そしてベッドから急いで降りると部屋に置かれている鏡台に向かった。
自らの顔を確認したと同時に、彼は「ひぁあああああ!!」と悲鳴を上げる。
彼もまた、顔のあちこちに痣や引っ掻き傷があったのだ。
自分を棚に上げて馬鹿にしてきたスティレンに、リシェはほら見た事かと呆れる。
「俺の事を馬鹿にする前に自分の顔も良く見る事だな」
しれっと毒を吐き捨てる彼に、スティレンはぐるりと顔を向けると苛立ちを噴火させる。
「お前がやったんだろ!!」
朝から良くそんなに元気な大声が出せるものだ。
「うるさいな」
「良くも俺の美しい顔にこんな事をしてくれたな!」
「どうせすぐ治るだろう」
リシェは自分の体のどこに怪我を追っても一向に構わないタイプの為に、相手がムキになって怒る気持ちが一切分からないようだ。
寝乱れた羽毛布団をしっかりと直しつつ、何故お前がここに居るんだと文句を言う。
あれから完全に熟睡していたので全く記憶が無いのだ。
「お前は別にいいだろうがね!俺は些細な傷でも命取りになるんだよ!」
「そんなに言うなら剣士に向いてないだろう」
流石に辞めてしまえとは言えないが、内心辞めればいいのにと思った。
気持ちの良い日差しの暖かみが徐々に増してくる。
湯を浴びたいなと思っていた矢先、ちょうど部屋の扉が軽くノックされた。
「おはようございます。起きましたか?」
「ロシュ様!」
遠慮がちに扉越しに声を掛けてきた主人に、リシェはすかさず反応した。ゆっくりと扉が開かれ、そろそろとロシュが遠慮がちに入って来る。
スティレンも姿を見せてきた司聖を前に出来る限り身を整え迎えて頭を下げた。
「おはようございます、ロシュ様」
「おはようございます、スティレン」
いつもと変わりない華やかな笑みを浮かべ、ロシュはスティレンに返事をした。
「よく休めましたか?」
「は…はい」
「ふふ、良かった」
ロシュは改まったスティレンに近付くと、彼の頭の上にそっと触れた。そして軽い魔法の詠唱を開始する。
「!」
触れられた頭上から、優しい暖かみを感じると共に全身の気怠さが少しずつ解消していくのが分かった。ロシュが得意とする回復魔法がスティレンを癒していく。
自分の体を包み込む金色と白色の美しい魔法の粒。それを目の前に、彼は思わず言葉を失ってしまった。
「あ…!?」
「折角の綺麗な顔に痣や傷が付いたままでは勿体無いですから。どうですか?鏡で確認してみて下さい」
彼の大切なリシェを殴りつけるレベルの大喧嘩をしてしまったので、もしかしたら怒られるのではないかと思っていただけに、ロシュのこの態度は予想外だった。
スティレンは頭を下げると、再び鏡の前に立つ。
あれだけ傷だらけだった顔はすっかり癒え、元の肌を鏡面に移していた。
「あぁ…戻ってる…!俺の顔が」
自らの頰に触れ、感動するスティレン。それを見てロシュはにっこりと笑った。
「お風呂も常に沸いていますから、ぜひどうぞ。昨日はそのまま寝入ってましたからすっきりしたいでしょう?」
「…は…えっと…いいのですか?」
まさか湯浴みまで提供されるとは思わず、スティレンはロシュに問う。
「ええ、ぜひ」
リシェの治療を施しながらロシュは言う。
「ロシュ様」
魔法を施されている最中、リシェは彼の法衣の腕を掴んだ。
「どうしましたか、リシェ?」
「ありがとうございます」
最愛の相手に礼を言われ、にっこりと微笑んだ。
「あなたも湯を浴びてきなさい、リシェ。疲れが取れますよ。それが終わったら朝ご飯にしましょうか」
こくりとリシェは頷く。ロシュが相手だと、彼は惚れた弱味のせいかどうしても素直に従ってしまうのだった。
浴室から二人が騒ぐ声が聞こえてくる。
その声を聞きながら、ロシュはテーブルに彼らの朝食の準備を進めていた。
スティレンの「ちゃんと洗え!!」という呆れた声に続くように、リシェのちゃんと洗っている!という反論が聞こえると思わずロシュはふっと吹き出してしまう。
「お前はだらだらと時間を掛けて洗い過ぎなんだ!!」
「何だって!?ガサツに洗うと肌に悪いだろ!!お前だって何さ、その磨いてただ流しましたって感じの洗い方!!風呂の時間は自分のメンテナンスの時間なんだから真面目にやるんだよ!」
顔はどこか似通っているのに、意識は完全に異なる。
あらかじめスティレンには浴室内にある物は全て遠慮無く使ってくれと言っていたのだが、大半は贈られてきた物で普段は見慣れない物が多い。
中には貴族御用達の石鹸や品質の高いシャンプーなども置いてあるので、高級志向な上に上流階級出身であるスティレンにとっては大変見逃せない様子。
「折角いい品質のシャンプーとか置いてあるのに!それなのにお前は適当に洗い過ぎるんだよ!」
素材を生かしきれてないじゃないか、と彼は嘆いていた。
仲がいいのは良い事だとついニコニコしながら手を進めていると、いつものようにベランダ方面から風が舞い上がる。
おや?とロシュは目をそちらに向けた。
「おはようございます、オーギュ。午後から来るって言ってたのにもう来てくれたんですか?」
いつもと変わりない様子で手に書類を抱えて塔にやって来た彼を出迎えると、オーギュは一瞬目を見開いて停止する。
しばらく間を開けた後で思い出したように「…あ」と呟いた。
「そうでしたっけ」
「そうですよ。ご自分で言ってたじゃないですか」
「…確かにそんな事を言っていたような気がしますね」
どうやら体内のファブロスはまだ寝入っているらしい。
彼が目を覚ましていれば指摘してくれたかもしれないが、彼も主人同様に熟睡し続ける位疲れていたようだ。
「また戻るのもね…」
「それなら、午後から休むのはどうですか?」
「また午後に休みを取るのもね。普通に仕事に取り掛かりますよ。それに」
同時に浴室へ繋がる扉が開き、少年らが身綺麗になって姿を見せた。オーギュの姿を見るなり、スティレンはまた改まって「おはようございます」と挨拶をする。
「おや…傷もすっかり消して貰ったようですね、スティレン。おはようございます」
余程ボロボロだったのか、とスティレンは隣に居るリシェを軽く睨む。良くもやってくれたなと言わんばかりに。
リシェもオーギュに朝の挨拶を済ませると、オーギュは「リシェの杖に魔力を詰めてあげないと」と微笑んだ。
「!!」
「ああ…!なるほど。あなたがやって下さるならこれ以上有難い事は無いです、ぜひお願いします!」
ロシュもまだ剣の無いリシェの為に、杖の命となる魔力を吹き込む方法を空き時間の合間に調べていたが、手掛かりが掴みにくく困っていた所だった。
専門の職人の存在は知ってはいたものの、魔導師が直に造った杖を扱えるレベルの魔導具職人が居るかどうか疑問だったのだ。
アストレーゼンの城下街に店を構える魔導具屋もあるが、大半は商品を販売するという程度のもので、石に魔力を詰め込める術者では無い。
あくまで販売者というスタンスの者が大半。
リシェは口をあんぐりさせたままオーギュを見上げる。
「オーギュ様」
「イベリスさんはあなたの持っている杖に魔力を詰め込めるように私をあの店に引っ張って下さったのでしょう。私にはそのような技術を持ち合わせていなかったから、注入するやり方を教えてくれた。あなた達が取っ組み合いの喧嘩をしている間にね」
オーギュの話を聞きながら、リシェはあのイベリスの発言を不意に思い出す。
焚べる者、というフレーズを。
彼は顔を上げて「そういう意味か…」と呟いた。
あの魔導具職人は先を見通していたのだ。
自分と近い場所に居るオーギュに、魔石を注入し杖を完成させる技術を習得させれば彼女が出向かずともその手間が省ける。
それにアストレーゼン内でも相当な魔法の使い手である彼ならば、注入される魔力も申し分無い。仮に石の力が薄れても、注入出来る者が居れば問題は無いのだ。
あの言葉は、【まっさらな石に魔法の力を焚べる】という意味合いなのだろう。
「取っ組み合いの喧嘩って」
ロシュは驚愕の表情でリシェとスティレンを交互に見た。
スティレンはバツが悪そうな複雑な表情をしながら、横に居るリシェを背後から軽く小突く。
何とかフォローしろと言わんばかりに。
「何故そのような」
困惑するロシュを前に、湯上がりでほっこりしたままのリシェは「はい」と返事をする。
「俺が短気を起こしてついスティレンを殴りました」
「は…はい!?」
まさかの自白にロシュは口をぱくぱくさせてしまう。
「殴りました。俺が、先に。腹が立ったから」
正直なリシェ。
「そうです。こいつがいきなり殴ってきたんです、俺の美しい顔に」
そしてそれに乗るスティレン。自分は決して悪くないと言わんばかりに。
「え…あ、は…!?」
「だ、そうですよ。ふふ、たまにはこういうのも良いのではないですか?リシェだって普通に男ですからね。彼は決して大人しい子では無かったんですよ。人間らしくていいじゃないですか。年相応です」
それはロシュのイメージをことごとく崩すようなセリフだった。
ええ…!?と何故か泣きそうな顔を向けるロシュに、オーギュは「大変元気で良い事ですね」と微笑む。
「…てか、自覚があるなら俺に謝れば?」
素直に自白したリシェに対し、不愉快そうにスティレンは小声で言う。
リシェはそんな彼を横目でちらりと見た後でふんと顔を逸らした。
「何を言う。お前も俺を殴っただろう」
「は!?正当防衛でしょ!?」
再び喧嘩が勃発しそうな勢いの二人を、オーギュがすかさず間に入り「やめなさい」と強く静止する。
「ロシュ様の前ですよ」
しかも彼の私室。
リシェはすぐに頭を下げて謝罪する。
「すみません」
「申し訳ありませんでした」
「まだ言い足りないなら後になさい。ロシュ様が朝ご飯を用意してくれたみたいですからね」
そういえば凄くいい匂いがする、と鼻を利かせたスティレンは部屋のソファの方に目を向ける。
自分達の為に用意された温かな食卓を見るや、彼は急激に自らの腹部を押さえた。
「あぁ」
まるで覚醒したかのように激しく空腹を訴えてくる。
それは明らかに室内に居る全員の耳に入り込むレベルの音。スティレンは顔を真っ赤にしながら、その音の犯人を擦りつけた。
「リシェのお腹が鳴ってる」
「ひ、人のせいにするな!」
「違う。俺のせいじゃないし。俺から鳴ってないし。絶対お前だ。お前に決まってる」
また言い合いそうだ。
ロシュはふふっと笑うと、まあまあと二人を宥める。
「丁度いい頃合いなんですよ。さあソファに座りなさい」
朝ご飯は逃げませんからね、と言うと彼らを食卓の前に座らせると食べなさいと促す。
空腹状態だった二人は早速食事を開始した。
「オーギュ、あなたも如何ですか?」
「私の事ならお構いなく。…ですがお茶位なら頂きましょうかね」
ロシュは分かりましたと言い、お茶の用意に取り掛かった。
「実家からお茶を頂いたのですよ。珍しくセルシェッタが来て下さってねぇ…いい香りがするんですよぉ」
滅多に大聖堂には足を踏み入れない人物の名前を聞き、オーギュは不思議そうな面持ちでロシュに聞き返す。
「セルシェッタさんが?」
一応顔見知りだが、彼女はあまり人が出入りする場所を好むような性格ではないのはオーギュも知っていた。それだけに珍しいなと思ってしまう。
カップを温めている最中、ロシュは笑顔で「そうなんですよ」と言った。
「珍しい事もあるものです。あの人、あまり外部に出たがるような感じでは無いですからねえ。折角ですから来賓用の宿舎に寝泊まりさせていますけど」
「そのまま帰すのもあんまりですからね。十分なおもてなしをしないと…」
「ええ。ちゃんとその辺は丁寧なおもてなしをして下さるようにお願いしています。あまり慣れていないので、気疲れさせないようになるべくお一人で過ごせるようにしていますし」
他者からの干渉を好まない彼女の性格を、良く熟知しているロシュだからこそ出来る気遣いだった。それでも単独で大聖堂に足を運んでくれるのは相当な進歩だと思う。
オーギュはセルシェッタとは顔見知りだったが、あまり会話をした記憶が無い。
ラウド家お抱えの使用人。それもかなりの歴史を通じて延々と紡がれている。
延々と使用人としてのレールを敷かれ続けているのもどうかとは思うが、それを代々誇りにしているなら何も言う事は無い。本人の気持ちは如何程なのだろうかと思うものの、それは本人から聞かない限りは知る由もなかった。
「日頃の疲れを癒して頂ければいいのですけど…出来る限りはのんびりさせますよ」
「そうですね…」
オーギュはそう言いながら朝ご飯に夢中になっている少年らに目を向ける。
「人前でがっついて食べないでよみっともない!」
「お前も勝手に俺の分を横取りするな、浅ましい」
「誰が浅ましいのさ!?まともにナイフとフォークを扱えないくせに偉そうにして」
彼らは相変わらず言い合いを繰り返している。
だがお互い好き放題に腹の底からぶつかっていたのを見ていた為か、不思議と前より馴染んでいるようにも感じた。
少しは距離が縮まったかもしれない。
ふ…とオーギュは口元に笑みを浮かべた。
「おやぁ?如何されましたか、オーギュ。何か笑う所でしたっけ」
それを目敏く見つけてしまったロシュは、不思議そうに彼に聞く。その間にもリシェ達は騒ぎ続けていた。
「いえ…仲が良くて何よりですよ」
ロシュも思わず二人に目を向けると、苦笑いして「そうですねぇ」と同意する。
「あなたもまだお疲れでしょう。お茶を飲んで一息ついて下さい」
「ありがとうございます。…今日は仕事は程々にしましょうかね…他にもやる事もありますし」
淹れたての茶葉の香りが周囲を包み込む。
「リシェも自前の剣が無いと大変でしょうから」
彼はロシュに後でリシェの杖を貸して下さいねと念を押すように告げた。
上質な枝で彫り込みを入れ、丁寧に磨き上げられた上、グリップの部分もしっかりと丈夫な布できっちりと巻いて手が痛まないように保護されている立派な杖。
ヘッド部分は透明な魔石がくっついているその杖を、彼はしばらく見つめて考え込んでいた。
この石に何らかの魔力を込める事で威力が更に増すというが、誰に施して貰えばいいのだろうか。
オーギュに頼もうと思ったが、ロシュ曰く純正の魔導師が武器に付随した魔石に力を込めてしまうと、最悪粉砕してしまう可能性が高いという。折角頂いた物なのに壊れてしまっては元も子もない。
魔石に魔力を込めるには、専用の魔導具師に依頼するのが一番確実らしい。
困ったなぁ、と悩ませているリシェを見兼ねてロシュは大聖堂の鍛治職人に問い合わせて魔力を注入してくれる人は居ないかと打診したが、どうやら相当な繁忙期らしくこちらの都合を優先する訳にもいかないとの返事だった。
気を落とすリシェに、ロシュはどうにかこちらでも探してみますねと優しい言葉をかけてくれたが、流石に自分の事に彼の手を煩わせる訳にもいかない。ただでさえ今も多忙な相手に、時間を割かせたくはなかった。
しばらく待つのも手だろうが、この魔石に命とも言えるべき力を吹きこんだらどうなるのだろうかと興味が湧いているのだ。
机の上で横たわる杖を、革細工職人のヴェスカの父親が作ってくれたケースに収納する。未だに自分の新しい武器は制作中で、手元にあるのはこの杖と宮廷剣士に支給された基本的な剣のみだ。しばらく外出はしないので別にいいのだが、前まで馴染んでいた剣が惜しくなってくる。
はぁ、と肩を落とした。
自分でやろうにもやり方が分からないし、魔導具職人に伝手も無い。しばらく杖はお預けだろうと半ば諦め、それを机の中に大切に仕舞い込む。
あまり閉じこもって考えるのも良く無い。椅子から立ち上がると、体を伸ばして全身の凝り固まった筋肉を解す。
外はとても晴天に恵まれていた。稀に室内に入ってくる風も、ちょうど良い暖かさで気持ちがいい。
折角だし散歩でもしてみようかな…とぼんやりと思い付き、彼はロシュから許可を得るべく部屋から出た。
司聖の塔と大聖堂を繋ぐ石造りの道を進んでいる最中、リシェは不思議な白衣の集団を見かける。
あまり見慣れぬ面々に、首を傾げながら近付き通過しようとした。恐らく何らかの研究者なのだろう。邪魔をしないように避けようと道から外れる。
「先輩!どうにか頑張って耐えて下さい!今引っ張りますから!!」
「やはりバキューム機能は必要だったかもしれない!」
「そんな…散水に特化させたのに吸引までは行き届かないよ!とりあえず先輩を助けないと!」
研究者達の掛け合いを耳にしながらリシェはそのまま通り抜けようとするが、彼らが取り囲んでいる機材らしきものの上部から大人の下半身が飛び出しているのが見えてしまう。
思わずリシェはギョッとして凝視する。足だけ出て、バタバタと暴れていて異様な雰囲気だった。
第三者から見れば、それはあまりにもショッキングな光景。事故の臭いがぷんぷんしてくる。
「な、何してるんだ?」
思わずリシェはドン引きしながら彼らに話しかける。
「おや?君はロシュ様のお付きの白騎士様かな?」
彼らの中の一人は、リシェに気付いた。その間にも、逆さまにされた足はバタバタと蠢いている。
「そうだけど…あの人は何でああなっているんだ?」
機材の中の研究員は逆さまのままで「これはいけない、これはいけない!」と喚き続けていた。
「中庭の草木の散水機…噴水くん三号を作っていてねぇ。試運転していたんだけど内部のタンクの調子が悪かったようで、下に漏れてしまったんだ。ほら、この辺水浸しになっているだろう?」
「噴水くん…」
名前まであるのか、とリシェは無表情のままで思った。
確かに地面は大きな水溜りが作られている。
はあ、とリシェは返事をしながら機材を見上げた。
「タンクが割れているのではないかって、先輩が様子を見る為に噴水くんに上がったのはいいんだけど運悪く足を滑らせてしまってね…」
彼はちらりと散水機へ目を向けた。
幸いにもようやく引っ張り出されたらしく、足だけの研究員は安堵の表情を浮かべている。
「あー、良かった…助かった助かった!頭に血が昇って鼻血が出るかと思ったよ!」
助け出された研究員はボサボサの水色の長い髪を掻き上げると、自分の体をぺたぺたと触り何かを探している様子を見せる。
「あー、僕の眼鏡はどこかな!?」
どうやら眼鏡が無いと身動き取れないらしい。リシェは噴水くんと名付けられた散水機に上がったままの研究員を改めて見上げた。
オーギュを思わせるかのような切れ長の目を持ち、鼻筋も通っていてなかなか整っている顔立ちだ。
ただ、日に当たらないのか肌は青白く不健康そうにも見えてしまう。少し勿体無い。
「先輩、タンクの中じゃないですか!?」
「え!?た、タンクの中!?そんな」
「水はもう放出し尽くして空のはずですが…」
「我々の体ではこのタンクの中に入れないよ!?誰か細身の体型の子を見つけないと」
参ったなあ、と彼は困惑した。眼鏡が無いととにかく見えないらしい。
リシェは隣で成り行きを説明してくれていた研究員に、「じゃあ俺はこれで」と挨拶をし、やり過ごす事にした。
話は聞かなかったふりをしようと思う。面倒臭い。
「誰かー!!小さい穴にすっぽり入れる位の華奢な人は居ませんかぁああ」
噴水くん三号に乗ったままの水色髪の研究員がいかにもわざとらしく叫び出した。
まるで自分に言っているかのようにも聞こえて、リシェは身をびくつかせてしまう。同時に、横の研究員に首根っこをむんずと掴まれた。
「ぎゃあああああ!!」
「白騎士様!」
リシェは掴まれた首元を押さえ、苦しさに涙目になる。
「やめろ!殺す気か!!」
「お願いがございます、先輩の眼鏡を取って下さい!」
自分達でどうにかしろ!と言いながらリシェは嫌がった。
「大丈夫です、ただ中に入って眼鏡を取るだけですから!中はもう空ですし、溺れる心配はありません!ほら、我々大人ではどうしても穴につっかえてしまいますからね!あぁ、良かった!こんな所でうってつけの相手が居てくれるなんて…!せんぱーい!!」
ずりずりと引き摺られる形でリシェは噴水くん三号の前に押し込まれてしまった。ちょうど良く出現した理想的な体型の持ち主に、他の研究員達は歓声を上げ始める。
「おおお、何と有難い!!」
「穴にすっぽり入れる位の華奢な人!!」
「先輩、良かったですね!眼鏡を救えますよ!」
彼らは口々に喜びの声を上げた。
「何だと!?」
リシェは不愉快そうに顔を真っ赤にしながら怒りを露わにする。
「誰もやるとは言ってない!!」
まあまあ、と引っ張っていた研究員はリシェを宥めた。
水色の髪の研究員はおお!と大袈裟に喜びを表現する。
「救世主が来てくれた!有難い、有難い!!さあ、この噴水くん三号に乗って!」
全く話を聞く様子では無い。
「無理に引っぱって来て何が救世主だ!」
「ただ中に入って僕の眼鏡を取ってくれるだけでいいんだ!お願いだよ!」
彼は切実にリシェに訴えてくる。
嫌がれば嫌がる程長く引っ張ってくるのだろう。面倒だなあ、と舌打ちしつつも分かったよと了承する。
「良かったですね先輩!!」
「先輩は眼鏡が命ですからね!」
研究員達は口々に喜ぶ中、リシェは噴水くんによじ登る。
タンクの穴付近に座る水色の髪の研究員はにこにこしながら「助かるよー!」とリシェに頭を下げた。
一体どんな経過を遂げたらあのように逆さまになるのか。
「明かりは無いのか?真っ暗であまり見えないぞ」
「あっ!ペンライトならあるよ!」
彼は胸元から小さなライトをリシェに手渡した。
リシェは無言でそれを受け取った後、試しに点けてみる。すると今まで見た事がないレベルで激しく発光した。
何だこれ、と怪訝そうな顔を見せる。
「何で七色に光るんだ?」
ライトの機能は果たしているが、無駄にカラフルなのが癪に触った。
「ああ、これね!大好きなアイドルのイベントで買ったんだよ、なかなか綺麗だろう?普通にペンとして使えるから重宝しているのさ。ちょっと点滅が激しいだけでちゃんと使えるから安心して!」
「聞かなきゃ良かった」
リシェはつい心の声がそのまま口から出ていた。
「じゃあ取りに行ってやる。無理矢理やらせるんだから感謝しろよ」
顔に似合わぬ尊大な態度を見せながら、リシェは渋々とライトを手に穴にするりと入り込んだ。それを見届ける研究員はにこにこと嬉しそうに頷く。
真っ暗な内部が七色の点滅ライトで染められる中、リシェは眼鏡を探す。水を大量に保存出来るだけあって、かなりの容量のようだ。
膝をつきながら踏まないように気を付けて周囲を見回した。
「あー!もう!!凄く色がうるさいな!!」
目がチカチカする!とリシェが喚いた。しかし上で待機している研究員は、陽気にあはははと笑うだけ。
「ははは、色がうるさいとは斬新な事を言うねえ!」
何を言おうにも、大人の余裕なのか笑いながらかわされてしまう。リシェは無言で眼鏡を探すと、ようやく指先に何かが当たった。
それを摘むとようやく顔を上げ、あったぞと差し出した。
やけに重みがある眼鏡だなと思ったものの、べたべた触るのも良く無いだろう。
「んんん、やりますねぇ!いやあ、良かった!ありがとう!」
…癖のある話し方だとリシェは思う。
眼鏡を手渡した後で、上から引っ張られて外へと脱出した後に、無事に眼鏡を取り戻した研究員に感謝しろよと言いつつ視線を彼の方へと向けた。
だが、安定した視界を手に入れた相手の顔を見るなりリシェは「は?」と思わず声を上げてしまう。
「なんだい?」
至って普通に水色の髪の研究員は言った。
「何だその眼鏡は。どこに行けばその分厚いレンズになるんだ?」
「え??」
改めて見れば、彼の愛用の眼鏡は不自然な程分厚かった。
むしろ眼鏡を掛けない方が外見的にもいいのではないのかと思うレベルだ。掛けない方が明らかにいいのに、勿体無い事をしていた。
持ち前の顔立ちの良さを、ことごとくおかしげなデザインの分厚い丸眼鏡で台無しにしているのだ。
牛乳瓶の底を思わせるレベルのレンズのままで彼は何か変な事でもしたのかなぁとまるで他人事のようにリシェに問う。
「眼鏡自体がおかしい」
「そ、そうかな?良く見えるんだけど」
本当に良く見えるのだろうか。出不精な印象を受けるが、毎度レンズ交換をしているようには見えなかった。
本人が満足しているなら何も言う事は無いが。
リシェははぁ、と一息吐くとペンライトを返却して噴水くん三号から降りる。
「ありがとうございました、白騎士様!!」
感謝の言葉のシャワーを浴びながらようやく地に足を着け、リシェは妙に全身に疲れが湧くのを感じた。
周りの大人達を見上げると「もういいだろう」と問う。
「俺、もう行くからな」
「うんうん!とても助かったよ、ありがとう!」
分厚い眼鏡の研究者も噴水くんから降りると、リシェの両手を取り感謝の握手をしてきた。
見れば見る程、その眼鏡の分厚さが変に思えてしまう。
「僕はトーヤっていうんだ。何か困った事があったらいつでも研究室に来るといいよ!出来る範囲内で助けてあげるよ!」
「…分かった…」
水色の髪の彼…トーヤは頼もしいセリフを言ってくれるが、リシェは妙に嫌な予感を感じずにはいられなかった。
故障した噴水くん三号から異音が聞こえてくるのは気のせいだろうか。リシェはすぐ真横にある機械に目を向け、握手をしつこい位にしてくるトーヤを見上げる。
「何だか変な音が聞こえてくるけど爆発とかしないだろうな?」
音はどうやら機械の底から聞こえてくる。
トーヤ達はそんな異常にも関わらず、ケロっとした様子で機械に目をちらりと向けた。何かがブルブルと震えている様子だったが、多少の異常は慣れ切っているのか、笑って大丈夫だよと安心させる。
「この程度なら日常茶飯事だからね!気にしなくてもいいよ、白騎士リシェ君!」
「俺の名前知ってるのか…」
「そりゃあ勿論!何しろロシュ様のお付きの剣士様だからね!噂はしっかり聞いているさ」
その間にも、謎の機械の音が大きくなっていた。
リシェは怪訝そうに再び機械に目を向ける。
「…やっぱり、何か異常をきたしているんじゃないか?どう考えたっておかしいぞ」
「んんん?…そうだねえ、まぁタンクから水漏れしてしまった段階でどこか濡れてしまったんじゃないかなぁ。念入りな調査が必要だねえ」
心配そうに注意を促すものの、相手は取り合わない。
噴水くん三号は異常なモーター音を轟かせリシェの不安を煽っていく。早く離れた方が良さそうだと判断し、じゃあ行くからとトーヤの手を離した。
おや、どこに行くんだい?ときょとんとするトーヤ。
「今日は休暇だから色々回ろうと思っているん…」
その瞬間、機械の大きく太いホース部分が激しく回転し始めた。研究員達はうわぁあああ!!と悲鳴を上げた。
急激に暴れるホースに、リシェは彼らと同じように悲鳴を上げて逃げ出そうとする。
「ほら!!やっぱりおかしいって言ったじゃないか!!」
まるで生命を吹き込まれたかのように大きなホースは回転しながら暴れ回った。
普通のサイズなら容易く止められるだろうが、噴水くんのホースはかなり太く頑丈で押さえようにも近付く事が出来ない。
「おやぁああ!?まさかホースが暴れるなんて」
「どうする気だ!?」
内部に残っていた水滴が跳ねてくる。その場に居る全員がホースからの攻撃から身を守るために離れていった。
リシェも同じように離れようとした瞬間、運悪く暴れるホースの先端がちょうど背中にぶち当たりつんのめってしまう。
「ぎゃああああ!!」
巨大な鞭で打たれたかのような衝撃を受けた。
「リシェ君!!」
ズシャッと地面に真っ正面から倒れた。幸い水浸しになっていない場所だったようで、服の汚れは最小限に留めたようだ。
「だから言ったじゃないか…」
顔を上げ、ううと唸って背後の荒ぶるホースを見る。
「緊急停止ボタンを押さないと!」
それがあるなら早く止めて欲しい。ホースの攻撃をなるべく避けたいので敢えて伏せたまま、リシェは彼らの中の誰かがボタンを押してくれるのを待つ事にした。
ホースは回転を繰り返してひたすら暴れている。
「うわああああ」
「どうにか押さえて!!」
逃げるな、さっさと止めろ!とリシェも叫ぶ。全く関係無いのに、何故こんな事に巻き込まれてしまうのかと苛立った。
先端に顔を殴られながら、一人の勇敢な研究員が荒ぶるホースを止めにかかる。それを皮切りに次々と止めに入っていった。
「停止ボタン!」
掛け声に応じるように、ようやくトーヤも分かった!と緊急停止ボタンを押しに近付いた。ボタンは車体の横にあるらしい。
それっ、という声を共に押すと次第に音が低くなり動きも鈍くなっていく。
「あ…あぁ、良かった…どうにか止まりましたよ先輩」
「ひぇえ…助かったぁ」
へなへなと脱力しそうになりながら、トーヤは噴水くん三号にしなだれかかっていた。フシュフシュと空気が抜ける音が聞こえる。
終わったか?とリシェは体をゆっくりと起こし、しばらく様子を窺う。
音も落ち着いてきた所を見ると、どうやら大丈夫そうだ。
「いやあ、良かった…リシェ君、大丈夫かい?」
「背中が痛いけど、じきに治ると思う」
酷い目にあったのは確かだが。
とりあえず彼らから一刻も早く離れたいと思う。深入りしてはいけないとリシェの中で不穏なサイレンが鳴っていた。
「そうかい?機材は重いし、ホースもそれなりに大きいからね。どこか異常を感じたら診てもらうんだよ」
打たれた背中を押さえ、リシェは分かったとだけ返した。いざとなればロシュから魔法を貰えばいい。
「じゃあ、俺はこれで…」
トーヤを始め、その他の研究員は笑顔でリシェを見送る。噴水くんが故障したのに、妙に明るいのは失敗に慣れているからなのだろうか。
見送られながら先を進もうと歩き出したリシェの背後から、再び騒がしい声が飛び交う。
「おわぁあああ!?」
スポン!と何かが抜けた音がした。同時に強い風圧と共にリシェの後頭部に衝撃が走る。
「痛ぁあああああああ!!」
戦闘中ならば痛みは気にしないが、完全に無防備な時に受けるダメージには弱い。
ホース程では無いものの、結構な速さで飛んできたのだろう。リシェの後頭部を掠めた後、それは飛び上がり地面に着地する。
噴水くんから飛び出た蓋が目の前に転がっていた。
リシェは頭を押さえ、怒りを込めて勢い良く振り返る。
「今度は何だ!?」
「ごめんねリシェ君!エンジンルームのキャップが弾け飛んじゃったんだ…いやぁ、それにしても運が悪かったねぇ…!」
むしろわざと飛ばしたのではないかと被害妄想を働かせてしまう。
リシェは頭を擦りながらぐぬぬと奥歯を噛むと、研究員らを睨みつけた後で涙目のままいい加減にしろ!と怒鳴っていた。
所変わってアストレーゼン、司聖の塔屋上。
ロシュは仕事の休憩中にぼんやりと晴れた空を見ながら一息吐く。
「平和ですねぇ…」
書斎机から離れたソファに腰掛けるオーギュは、書類を纏めながらそれが一番良いのですよと返す。
「毎回毎回面倒事は困りますよ。たまにはゆっくりさせて下さい」
主人の近くで獣姿のファブロスは退屈そうにあくびをすると、ふわふわしたカーペットの感触を楽しむように頬擦りをする。
『その口振りだとまるでロシュが問題事を起こすみたいではないか』
ファブロスの言葉に、ロシュも頬を膨らませた。
「そうですよ。言い掛かりにも程があります」
二人からの抗議に、持ち前の氷のような冷静な表情で「そうですか?」としれっとする。
確かにリンデルロームからハードスケジュールだっただろう。観光気分だったのが問題が発生し、そこからまた自分の為に走り回っていたのだ。
申し訳無いと思っている。
「あのう、オーギュ…」
「何ですか?」
「良かったらお休みしますか?あれから全然休んで無いでしょう…」
「そうですね」
そうですね、の語気が荒い気がするのは気のせいだろうか。ロシュは少しばかり気持ちが萎縮する。
「いや、もう休んで下さい。絶対疲れてますでしょ…」
「やる事が溜まってるんですよ」
この調子だと彼はひたすら仕事ばかり延々とやりそうだ。
ロシュはぐぐっと奥歯を噛み締めた後、意を決してはっきり言った。
「私がやりますから!もう、何というか、これ以上働くとあなたがヒステリックに怒りを撒き散らす未来しか見えて来ません!むしろ部屋の温泉に入ってリラックスして下さい!!むしろ入れ!!入りなさい!!」
入れ、ときた。
紙の束になっている書類から目を離して顔を上げ、オーギュは眉を寄せながらロシュに視線を向ける。
「まだやる事があるんですよ」
「先に休む事が大事ですよ!いいからもう仕事を止めなさい!!」
言い切り、はあはあと呼吸を整える司聖。
合間に呑気なファブロスのあくびが聞こえてきた。
『オーギュ。休めだと』
ロシュをフォローするように言うと、カーペットの柔らかさに再び顔を擦り付ける。
「そこまで疲れてませんよ」
『夜中まで作業しているくせに何を言っているんだ。目の下のクマが目立つぞ』
「………」
顔の事までは考えていなかった。オーギュは思わず目の下に触れる。
ふっとロシュは微笑んだ。
「あとはこちらで進めますから、まず湯に入って下さい。少しばかり休んでも罰は当たりませんよ。ファブロスと気分転換に城下街に散歩するのもいいかもしれませんし」
その甘い言葉に、思わずファブロスはぴくりと耳を動かし顔を上げると、主人に向かってそうだそうだと同調する。
閉じ籠りっきりでまともに動いていないのだ。
『お前は少し楽をする事を覚えるといい。オーギュ』
「休む時はちゃんと休んでますよ…」
『ロシュの言う通りだ。今日はもう仕事するな。私と散歩しろ』
ロシュだけでは抑止力にはならないようだ。
ファブロスの静止の言葉に、オーギュはようやく「仕方無いですね」と態度を軟化させる。
仕事用に使っていた書類や書物を纏め始めた。
「では、今日はここまでにしますよ。後は明日…一気に片付けましょう」
「ええ、ええ。ゆっくり休んで下さい」
ファブロスはその横でゆっくりと体を起こした。
『湯に入ってゆっくりしたら散歩しよう、オーギュ』
主人が仕事に没頭し過ぎている為か、ファブロスも相当退屈していたのだろう。まるで急かすように彼に暇を取るように促している。
その証拠に、よく手入れされている尻尾がぐるぐる回っていた。それを視界に捉えたロシュはついクスッと吹き出してしまう。
「余程あなたに構って欲しかったんでしょうねぇ。ファブロスの尻尾が凄い勢いで振られていますから」
『!?』
自分では全く気が付かなかったらしい。
ファブロスは思わずくるりと後ろ側に目を向けると、焦りながら『違う』とロシュに反論する。
『断じて違う』
「おや…そうなんですか?凄く嬉しいのかと思ったんですけどねぇ…」
『私はオーギュの為を思って休めと言っているのだ』
そう否定していても、尻尾の揺れを我慢している様子が見受けられた。
必死で押さえているのかふるふると震えている。
「そ、そうですか…ふふ」
『笑うな。何がおかしい?』
「いえいえ…」
ロシュとファブロスが言い合う最中、仕事用の書類や本を纏め終えたオーギュは「さて」とソファから立ち上がる。
「お言葉に甘えてお湯を頂きましょうか…全身が凝っているみたいですから、有難く頂きます」
「ええ、ぜひどうぞ。ファブロスもどうですか?」
『私はオーギュを待つ事にしよう。私が入れば更に時間がかかってしまう』
無防備な主人の姿につい発情しかねない、と言いかけたが、その件に関しては話す場を弁えなさいと注意されていたのでやめた。
オーギュに構って欲しくて甘えれば、つい自分の欲が湧いてしまう。それを制するのも、これからの主人との付き合いに必要な事だった。
本音は体力が尽き果てるまで抱き潰してやりたい。
しかし彼は魔導師ゆえに体力が無い。加減してやらなければならないのだ。
「ではロシュ様。お借りしますよ」
オーギュはそのまま浴室へと向かう。
「ごゆっくりどうぞ」
ロシュもにこやかな笑みを浮かべながら、脱衣所へ繋がる扉を開けるオーギュを見送った。
一人と一匹になる室内。
「ファブロスは本当にオーギュが好きなのですねぇ」
再び床のカーペットの感触を楽しむファブロスは、ロシュの言葉にそうだなと返す。
『今までの中でもかなりの世話好きだと思っている。こうしてカーペットで転がっても抜け毛が無い程だ。…いや、少しはあるかな…』
かなり念入りに手入れをされた彼の獣としての体は、毛艶もあり美しく光っているようにも見える。
触れれば毛並も柔らかく整っていて、主人であるオーギュの並々ならぬ力の入れ様が分かった。
「あの人はとにかく完璧にやりたがりますからね」
『お前が奴を説得しなかったら延々と仕事をし続けていただろう。オーギュには少し気を抜く事も必要だ』
床でゆったりと伸びる筋肉質の獣。
「頑固ですからねぇ。私が言ってもなかなか聞いてくれないのでフォローして貰えて助かりますよ」
『奴が疲れを感じれば、こちらも影響が出て来る。程々にして欲しいものだ』
やたらとあくびをしてしまうのは、主人であるオーギュが根を詰めて仕事をし続けているからなのだろうか。やはり彼には休息が必要なのだろう。
現状、無理をするような急ぎの仕事も無いのでちょうど良かったかもしれないとロシュは思う。
「術者の健康状態も関係あるのですね。なるほど…」
『まぁ、少しだけ感じる程度だ。むしろオーギュは無駄に集中し過ぎる癖があるからな』
「ふふ」
昔からの付き合いである自分よりも、ファブロスの方がオーギュの事を知り尽くしているような気がする。思わずロシュは顔を軽くふにゃりとさせて笑った。
ファブロスは目を丸くしながらロシュを見る。
『どうした?』
「いえ…何だかあなたがオーギュの保護者みたいな感じがして。あなたの言う事ならあの人もちゃんと聞いてくれますからね…」
『保護者…』
まさかの保護者扱いに、本人も複雑な気持ちに陥った。
『私は奴の事が心配だから言ってるのだ。主人を心配するのはこちらとしては当然で』
「ふふふ、どちらにしろ、あなたが彼を大切に思っているのは物凄く伝わってきますよ。嬉しそうにお話をしますからねぇ」
更に突っ込まれ、ファブロスは心の動揺を隠し切れないのか大きな獣の頭をうねうねと動かし、前足の爪を軽く擦り合わせた。
ふわふわと頭の鬣も揺れている。
『そんなつもりは無いぞ。ただ私は無理をしがちだから程々にしろと言いたいだけで、嬉しそうなどとは…』
同時に彼の尻尾も振られていた。
非常に分かりやすい。
その時、ちょうど脱衣室への扉が開かれた。
「只今戻りました。…ん?どうしたんですか、ファブロス?」
しきりに照れ隠ししているファブロスに、眼鏡を外したままのオーギュは不思議そうな面持ちで問い掛けた。湯を浴びリフレッシュした彼の姿は、紅潮した頰と濡れた黒い髪が艶かしさを感じさせる。
それまでの会話を知らぬ彼は、おかしな様子に即座に気付いたようだ。
ロシュはにんまりと笑みを浮かべると、「ああ、これはですね」と口にした。
「あなたを非常に大事に思っているんですねって言った所、この通り照れてしまいましてね。この状態になったのです」
正直なロシュの説明に、当の本人は顔をがばっと上げて『ち、違う!』と慌てる。
『普通に心配しているだけだ』
本人を前にしている為に気恥ずかしいのだろうか。少し前とは若干様子が違うファブロスを見て、話に付いていけないままのオーギュはぽかんとする。
「ここまであなたを心配してくれる相手も居ませんよ。ううん、幸せ者ですねぇ、オーギュ?」
「………?」
オーギュは自分の召喚獣に目を向けた。
しかし、彼は照れ隠しなのかふいっと顔を背ける。
「はぁ…」
全く話に付いていけないが、とりあえず返事だけは返していた。
酷い目にあった。
リシェは打撃を受けた後頭部を撫で、痛みを和らげながら中庭に足を踏み入れる。
大聖堂内に置かれている多数の露店には通常通り様々な来客が休憩に利用しており、大層な賑わいを見せていた。
聖堂内への礼拝にやって来る白い法衣の司祭が大多数を占め、軽装の旅人や一般客の姿。または城下街から散歩がてらに訪れたようなラフな服装の者が入り混じり、それぞれの時間を過ごしている。
吹き抜けの箇所から降り注ぐ日の光は、更に彼らの活気を引き立たせていた。
「リシェ!」
中庭を通過しようとしていたリシェの耳に、スティレンの声が飛び込む。同時に露店側の方へ顔を向けると、やや離れた先のパラソル付きの席に腰を掛けてお茶を飲む従兄弟の姿があった。
「………」
無言でリシェはスティレンが居る席に近付く。
「どこに行くつもりだったの?」
「特に決めてない。休みだから、気分転換に散歩しようかと思っただけだ」
あっそ、とスティレンは優雅にカップに入っている紅茶を口にした。同じ班である彼も今日は休みで、単独でこちらで休みに来たようだ。
私服姿の彼は、錦糸とレースをふんだんに使ったの真っ白いシャツに細身の黒いパンツ。更に上部を折り曲げ、銀のボタンで数カ所留めた斬新なデザインの黒のロングブーツというお坊ちゃんらしい姿で、格好にそこまでこだわらないリシェには堅苦しく見えてしまった。
リアクションが薄い彼をそのままスルーし、リシェは立ち去ろうとする。
「ちょっと待ちな!!」
「何?」
「お前、任務でも無いのにその格好な訳?」
「………」
リシェは自分の格好を改めて確認する。
普通に宮廷剣士の黒い制服姿。白騎士としての服より動きやすいのと、いつ何が起きてもすぐに動けるので普通に身につけてしまった。休暇なのに。
顔を上げ、駄目か?と問う。
「そこまで普段着無いの?」
「いや、あるけど…」
「お前は破壊的にセンスが無いからね。何ならこの俺が見繕ってあげてもいいけど?」
リシェはふるふると首を振った。流石に彼のセンスで服を選ばれるのは無理だ。フリフリのレースやら小振りのリボンが付けられたシャツを着る勇気は無い。
しかも彼が選ぶ服は決まって高価なものだろう。上質だろうが何だろうが、結局は布。
一枚一枚にお金をかけたくない。
「俺とお前じゃ服の趣味が違い過ぎる」
「趣味って…ま、流石に俺の洗練されたセンスに追い付くのは難しいだろうね。お前は一応俺の従兄弟だし?それなりに可愛げのある顔をしてるから俺の選んだ服なら様になるかもしれないさ」
「いや、本当にいいんだ。楽な格好の方が好きだから」
「…リシェの癖に遠慮してるの?」
スティレンは自分の好意を受け入れないリシェに不満気に表情を曇らせる。
こちらが親切に提案をしているのだ。黙って素直に受け入れるべきではないのかと思っていた。
リシェはリシェで、スティレンの趣味に合わせたらヒラヒラでペラペラな服ばかりになってしまうだろうと考えていた。それだけは絶対に嫌だ。クローゼットの肥やしになりかねない。
そもそも彼のセンスは先に行き過ぎて、自分の好みでは無かった。舞踏会にでも行くような正装ばかりで堅苦しい。
「いや」
リシェは相手をするのが面倒だと思いながら、スティレンに断りを入れる。
「その格好はお前にしか似合わない」
彼が最も納得のいく返事をした。
するとリシェの予想通り、彼はにんまりと嬉しそうに微笑む。
褒められたと思ったのだろう。
「まぁね」
良く分かってるじゃない、とスティレンはリシェに言う。
「こんなに優美なシャツの似合う人間なんてそうそう居ないよ?俺の為に作られた一点物で、生地だって限定物の布なんだからね。ま、全身ブランド物だけど…たまにこうして着てあげないと服も可哀想だろ?俺に着られないなんて勿体無いしね」
「…良く着てられるな」
いきなり泥でも被ったらどうするのだろう。
「ん?どういう意味さ?」
リシェの発言が妙に引っかかったらしく、スティレンは眉を寄せた。
「汚したらどうする気だ?」
「ああ、そういう事ね。俺はお前と違って綺麗な場所にしか行かないから大丈夫だし」
「どういう意味だ?」
何故比較されてしまうのだろう。リシェは逆にスティレンに問う。まるで自分が汚い場所に好んでいるのだと言わんばかりの発言に取られてしまう。
「お前は別に泥塗れになろうが構わないだろ?清楚で美しい俺には耐えられないからね」
「………」
自画自賛を込める従兄弟に対し、リシェは先程の散水機の水が彼目掛けて飛んでくればいいのに、と思わずにいられなかった。
これ以上彼の話を聞いていても萎えてくるだけだ。
リシェは「俺、もう行くからな」とだけ告げるとそこから離れようと動く。
「ちょっと!!」
一刻も早く離れたいと思っているのに、スティレンは躍起になってリシェを止めようとしていた。
面倒そうに「何」と問う。
スティレンは使っていたティーカップを手に持つと、「待ちな」と言う。
「仕方無いからぼっちなお前に着いていってやるよ。どうせ暇なんだろ?」
何故か決めつけてくる相手に、リシェは物凄く不愉快そうに眉を寄せる。別にこちらは単独で構わないのに。
むしろスティレンの方が、一人で過ごす事に耐え切れないのではないのかと思った。
「別にいら」
「口答えするんじゃないよリシェの癖に。どうせ城下街とかに行く気なんだろ?ちょっと待つんだよ、すぐ戻るから!」
会話を遮るように被せられ、リシェは思わず閉口する。
カップを返却しに露店側へ走るスティレンを無視してそのまま去りたかったが、そうなれば更に喧しくなるのだろう。
面倒だな、とリシェはがっかりと肩を落とした。
今日は妙に変な相手に引っ掛かるらしい。
一人で過ごした方が絶対気が楽だと思うのに、スティレンはそこまで考えが至らないようだ。待てと言われてつい待ってしまう自分のお人好しな部分も嫌気が差していた。
別に待たなくてもいいのだ。ただ後が面倒なだけ。
自分と一緒に居ても面白くはないだろうに…と思いながら素直にスティレンを待っていると、ようやく食器を片付けた彼が戻って来る。
大人しく待っていたリシェに対し、満足げに口元に笑みを浮かべた。
「よし。ちゃぁんと待っていたんだね。お前にしては上出来じゃない」
一体何様のつもりなのか。
リシェはやや不満気な顔を露わにするも、「何か買いたいものでもあったのか?」と問う。
日の光の加減で、金色っぽく見える柔らかな髪を揺らしたスティレンは別に何も欲しいものなんて無いけど、と一言口にした。
「行ってみないと何があるか分からないでしょ」
「…何も無いって事じゃないか。欲しいものがあるのかと思ったのに」
それならこちらの邪魔なんてして欲しく無かった。
そう思っているリシェの気持ちを完全に無視しているスティレンは別にいいでしょと突っぱねる。
「お前はどうせ暇なんだから。俺も暇だから付き合ってあげるって言ってるの。何か不満でもあるの?」
「別に付き合って欲しいなんて言ってな」
「はぁ?この俺と一緒に行動するのが嫌だって言う訳?」
またもや会話を遮ってくる。こちらの希望など欠片も聞く気は無いのだろう。
「はぁ」
リシェは諦めた。小さな頭がかくりと傾く。
これ以上言っても無駄な気がしてきたのだ。
「分かったよ。勝手にすればいいだろう」
「ふん。そこまで言うなら仕方無いね。お前に付き合ってあげるよ。俺に感謝しな」
リシェの発言と全く噛み合わない言葉を返し、スティレンは何故かドヤ顔で言い放っていた。
本人の強気な性格に加えて、無駄に甘いマスクのせいでその表情ですら似合うのがリシェの癪に障る。どちらか控えめにして貰えたらまだ気分が違うのに。
リシェは何を言っているんだと言いかけるが、素直に聞くようなタイプでは無いので反論を止めてしまった。
恐らくスティレンの中では、リシェが自分と同行して欲しくて仕方無いのだという一方的なストーリーが仕上がっているのだろう。
どこかで頼られたいと願う余り、頭の中で様々な改変が行われているのかもしれない。
「それで、城下街のどの辺りに行くのさ?お前に付き合ってあげるんだから当然俺の買い物にも付き合ってくれるんだろうね?」
「特に欲しい物は無いんじゃないのか」
「だから、行かないと分からないって言っただろ!人の話を聞きなよ!」
どっちが人の話を聞かないのか。
行く前からリシェは疲れを感じてしまった。
大聖堂の正門を抜けた所で、リシェは不意に「ああ」と声を上げる。
「何?忘れ物?」
やってくる来客や、帰っていく来客に紛れて先を進んでいたスティレンは背後のリシェの方へ振り返る。
「…いや…お前は俺と同じでここの事を知る訳ないからな。気にしないでくれ」
貰った杖に魔力を吹き込める者が居るショップの場所が分かるかどうかを聞いてみたかったが、スティレンは自分と同じでアストレーゼンで育った訳では無かった。
分かるはずもない。
リシェはふるふると首を振り、行こうとだけ告げた。
大体スティレンは魔法を使える訳でもないのだ。
「何なのさ?」
言いかけた所で濁されたのでスティレンは不満そうに従兄弟に問う。
「変に話題を止めないでくれない?凄く気持ち悪いんだけど。何なのさ」
「ただ杖の魔石に魔力を詰められる店が城下にあるかどうかを知りたかっただけだ。お前に分かる訳無いだろう」
お前に分かる訳無いと言われたスティレンは、リシェの生意気と取れる言い方に「はぁああ?」と怒り出した。
「その言い方っ!妙に腹立つんだけど!」
「…腹が立つって事は、店を知ってるのか?」
下段で向き合うスティレンに問いかける。そこまで言うなら何かしら店を知っているのだろうと希望を少しだけ持ってしまった。
良い店の場所をスティレンが知るなら、杖を持ち寄れば良かったと考える。しかし、彼はいつもの様子で腕組みをしたまま吐き捨てるように質問に答えた。
「そんなの知る訳無いじゃない」
「そうか」
だと思った。
スティレンに対しては全く期待していなかったものの、無駄な時間を費やした気がする。
行きがけに運良く見つけたら足を運ぶ事にしようと心の中で思いながら、城下街へ向かう路地を進んだ。
大聖堂から街に繋がる大きな階段を降り切り、二人は賑わいを見せる店舗や露店が立ち並んでいる街道へ足を踏み入れる。街にある大半の通路はアストレーゼンの中心部にある大きな公園に繋がっているが、敢えてそこを避けるようにして別の景色を楽しむ事にした。
久し振りの街中散策に、スティレンは気分が上がってきたらしくあっちに行ってみたい、こっちにも行ってみたいとリシェの腕を引っ張りながら要求してくる。
何となくこうなってしまう事を予測していたリシェはうんざりしつつ落ち着けと呆れた。
「天気もいいし、今日は散策に最高じゃない!」
「お前、本当は自分がここに来たかったんじゃないのか」
「何言ってるのさ。お前が行きたそうにしてるから着いていってあげてるだけでしょ!…あぁ、見て見て!このジャケット、俺に似合うんじゃない!?」
良く磨かれた展示用の窓に飾られているマネキンの服を見るなり、スティレンは目を輝かせながらリシェに言った。
長い剣士としての生活ばかりしてきたせいか、ウィンドウショッピングだとしても相当刺激を受けるらしい。彼は嬉しそうにリシェの腕を引っ張り、次々と店先に飾りつけられているマネキンの衣装に目を奪われていた。
「買うのか?」
「うぅん…買ってもいいんだけど、あまり着る機会も無さそうだしなぁ」
確かに彼が言うように、休日だとしても毎度何処かに出掛ける機会は少ない。しかも大聖堂側に剣士の宿舎がある事から、わざわざ階段を降りてまで城下に向かうのも面倒だというのもある。
そもそもこちら側の売店で生活用品を賄う事が出来る為に、城下街に買い出しに行く手間は省けるのだ。行くとすればこのように誰かと示し合わせる形でしか機会が無かった。
ましてやリシェやスティレンのように、同じ年齢の少年剣士は少ない。仲間が少ないので、一緒に遊びに行くという事自体難しい。
「買えるなら買っておけばいいじゃないか」
あっさりしたリシェの意見に、スティレンは簡単に言わないでよと困惑する。
「もうちょっと悩もうかなって思ってたんだけど」
「どうせ帰ったらグチグチ悩むんだろうが。買っておけば良かったって」
色違いを見比べながらスティレンはどうしようと一人で悩み続けるのを、無表情でリシェは言った。
頭からチラついて離れない結果になるよりは、さっさと買った方がいいのではないかと思うのだ。
スティレンの性格上、買わないなら買わないでずっと悩むタイプだと察したのだろう。後でしつこく言われる位なら黙って買えばいいのだと軽めにアドバイスする。
「んんん…あぁ、どうしようかな。買うにしても色で悩んじゃう。リシェ、どうしたらいいと思う?どっちが俺の魅力を引き立たせるかなぁ」
まるで試着して悩み続ける女子だ。
自分の好きな方でいいのではないか。
「俺がいいって言えば逆の方を選ぶんじゃないのか?好きにすれば良いだろ…」
自分の事が第一のくせにこちらの意見を聞くのもおかしいと思う。
「ちょっと、真面目に考えてよリシェ!」
「自分で着る服なのに他人に任そうとするな!」
「少しは俺の美しさを引き立てる方法を考えてくれても良いだろ!」
どうしたらここまで自意識過剰になれるのだろう。
城下街に出てから早々にリシェは疲れが増してきた。
「お前は見た目が派手だから紺色系統で押さえた方がいいんじゃないか。逆に白は駄目だと思う。見た目の雰囲気と白の明るさが互いに主張する。どうしても白を入れたいなら中のシャツとかにしろ。全部明るい色だと、お前の存在がうるさくなる」
窓に飾られている黒と紺、茶色や白の色違いの服を見比べながら、リシェは悩み続ける彼にぽそりと言う。
しばらくアドバイスに耳を傾けていたが、スティレンはあるフレーズに引っかかったのか「ちょっと」と眉を寄せた。
「何だ」
「お前の存在がうるさくなるってどういう事さ!しれっと俺をディスるの止めてくれない!?」
どうやら無意識のうちに小馬鹿にしていたらしい。日頃の恨みがついそうさせてしまうのだろうか。
リシェはふっと空を仰いだ後で、スティレンに謝る。
「そうか。悪かったよ。…で、どうするんだ?買うのか?」
「ううん」
そこでまた彼は悩む。
「ここで悩むのか。まだ時間を使うなら俺は別の場所に行くぞ」
服に悩む時間が勿体無い。さっさと決めて欲しいと思っているのに、これだけ親身にアドバイスをしてもまだ悩むのかとリシェは突き放した言い方をした。
自分から離れようとするリシェに、スティレンは「待ちな!!」と引き止める。
「お前を待っていると時間が勿体無いじゃないか。早く決めろ」
「真面目に考えてくれないからじゃない!」
ぷっくりと頬を膨らませるスティレン。
ちゃんと考えてやったじゃないか、とリシェは反論した。
「お前が好きな方を選べばいいだろ!アドバイスしてもずっと悩んでるじゃないか」
そこで再びマネキンの衣装を見上げた。
「…黒と紺の間みたいな色は無いのかな…」
「聞いてくればいいじゃないか。早く中で聞いてこい」
もう待たないぞ、とリシェは苛立つように腕組みをする。
うう…と考えた末に、ようやくスティレンは店の中に入っていった。最初からそうすれば良かったのに、とぐったりする。これでまた余計に時間がかかるではないか、と。
待っている間、リシェは着飾られているマネキンを見上げる。服などあるものを着ればいいと思う彼には、これで悩むスティレンの気持ちは理解出来ない。
しかも彼のセンスは無駄に飾り付けが多いのだ。
アストレーゼンのに居るうちは、相応の場所に行く訳でもないのに。
…数分経過しただろうか。
まさかまだ店の店員のアドバイスを聞きながら悩んでいるのか、と店先でフラフラしてみる。
無駄に買い物が長いタイプと一緒に居るものではないなと思いながら待っていると、不意に背後から声が聞こえてきた。
「そこの子供」
子供と言われ、リシェはぴくりと反応する。
自分は子供の自覚は無いが、恐らく自分に向けられた言葉なのだろうと思った。
ぐるりと声がした方向に振り返る。
「そうだ、お前だ」
「お、俺…」
俺は子供だったのか?とやや不満げに相手を見た。そこには背の曲がった老婆の姿。彼女は古びた法衣を身に付け、行き交う着飾った人々をまるで遠ざけるような存在感を発していた。
口元に深い皺を刻ませ、彼女は法衣のフードの下で陰鬱な笑みを浮かべると、リシェにゆっくりと近付く。
「俺は子供じゃないぞ。誰だあんたは」
見た事の無い相手に、リシェは内心戸惑いながら後退りした。何故自分に声を掛けてきたのだろうか。
「お前さんの魔力の雰囲気がちょっと気になってな」
「魔力?」
どうやら相手は魔導師のようだ。
自分の魔力に何か感じるものがあったのだろうか。
「誰から能力を譲り受けた?」
その皺がれたイメージとは違い、声の調子は強い。
「知り合いの魔導師様だけど…何か?」
「魔導師か。随分と強い魔力の影響が出ているように見えたからな。その魔導師とは度々会っているのか?」
老婆の質問に、リシェはこくりと頷いた。ロシュと一緒に居る事で、必然的にオーギュも一緒だ。毎日顔を合わせている為に譲り受けた魔力も多少は影響を受けるのだろう。
自分はまだまだその貰った魔力を生かしきれていないが。
「重ねて別の異質な魔力も僅かに感じる」
「俺が?」
彼女はリシェにゆっくりと近付くと、手に持っていた木の杖を軽く肩に当ててきた。
何をする気なのかと戸惑っていると、しばらく無言になる。やがてふん、と何かを理解したように小さな声を漏らした。
「あぁ…そうだったか」
「?」
一人で納得しないで欲しい。リシェは老婆の次の言葉を待っていると、若干意地悪そうに口角を上げて世間は狭いものだと自嘲する。
「その魔導師はその身に召喚獣を宿しているだろう」
「…へ…軽く俺に触っただけで分かるものなのか?あんたはオーギュ様に会った事があるのか」
その言葉に彼女は答えなかった。代わりに、自分の来た道を顎で軽く指し示し着いて来いと促す。
「え」
「お前の望む物を与えてやろう」
魔法関係の何かを売ってくれるのだろうか。
不意にクロネから貰った小振りの杖の事を思い出していた。この不思議な雰囲気を持つ魔導師ならば、もしかしたら魔石に力を吹き込んでくれるかもしれない。
だが、今は持ち歩いていなかった。持ってくれば良かった、と一瞬後悔する。
「魔法関係の頼み事が出来るのか?それなら、貰った杖の魔石に力を入れて欲しい。でも今は持っていないんだ。時間をくれたら取りに行きたい」
着いていくのは一向に構わないのだ。
現物が無いだけで。
「必要無いだろうよ」
「え?」
「お前が案ずる事は無い。そのうち、焚べる者も自ら近付いて来る」
意味深な発言を口にする魔導師の老婆。
リシェは何の事なのか分からないまま、ぽかんと口を開いていた。
騒めき、賑やか過ぎる街の風景を前に、思わず眉を寄せてしまう。
…どちらかと言えば、活気のある場所は苦手だ。
城下街の人波に揉まれながら、オーギュはファブロスを連れて進んでいた。
特に目的は無い。
ロシュに休めと言われるまま、流される形で休暇を得たものの現段階では自分の欲しい物は無く、城下街に行きたいとねだるファブロスに押されるようにして出てきた。
自分の欲しい物が無いので、代わりにファブロスの必要な物を買えば良いのだろうか。
『どうした、オーギュ?』
「いや…」
街路樹が立ち並ぶ路地をゆっくり歩くオーギュは、何か必要な物があったかを思い出そうとしていた。
「私は特に欲しい物が無いので、代わりにあなたが必要な物を買おうかと思ったのです」
湯上がりの石鹸の香りをその身に纏わせながら、彼は自分の人化した召喚獣を見上げる。
人間の姿を象ったファブロスは、道行く異性が二度見する程に妖しげな美しさだった。元は召喚獣の為か、他者の間に見えない壁で隔てられているかの如く近付き難い雰囲気を放っている。
そんな彼は街の全てが物珍しく見えるのか、やけにキラキラした目をしながら田舎者のように周辺を見回していた。
『私の欲しい物か?私はお前の』
「あぁああ!今この場でそれを言うのはやめなさい!そうじゃなくて…生活必需品とかですよ。養分云々では無くて」
ファブロスが欲しがるものは充分過ぎる位に理解していた。むしろまだ必要なのかと言いたくなる程与えているはずなのだが、彼は際限無く欲しがるのだ。
あまりにも回数が増えるとこちらの体力も持たなくなる。いくら最後に回復を施されようが、このまま彼に従えば身が壊れるかもしれない。
『そうか。それなら、特に欲しいのは無いな』
主人同様、強さに関しては貪欲だが物欲は無いらしい。
オーギュが必要だと思うのは彼の衣類位だろう。
お互い物欲も無く、最低限あればいいと思っているので困った時に手元に無い状況が多々ある。
この機会に買い溜めしておいた方が良さそうだな…とぼんやり考えていると、くっついているファブロスがオーギュの法衣の袖を引っ張っていた。
『オーギュ』
「ん?何ですか?」
露店や店舗が立ち並ぶ広めの通り道。
民芸品や織物、旅人用の武具などがひしめき合う店の他に、飲食を扱う店も多かった。ファブロスはその中で、肉や野菜を薄いパン生地のような物で包んだ軽食に目線を向けている。
購入している客を羨ましげに眺め、彼は『美味しそうだ』と引っ張ってきた。
「食べたいのですか」
確かに小腹が空く頃だ。
どこかの店から空腹を誘う匂いが鼻を突いてくる。
『お前も腹が減った頃だろう』
「まぁ、そうですけど」
オーギュはそのパン生地で包まれた肉野菜の絵が描かれている広告用の小さな旗をちらりと見た。
「座る場所も無さそうですね…」
たまには立ち食いをするのもいいかもしれない。
ちょっと待っていなさい、とファブロスに指示すると、彼はその露店のカウンターへと向かった。
店先に並ぶ客層は若者が目立つ。身に付けている衣装も様々で、武装している者や地元民、真っ白な法衣を纏う司祭の姿も見受けられた。
アストレーゼンには実に色んな人種が入り混じっている。
国は旅人や観光客、巡礼する者も平等に歓迎し、じっくり休息を経て新たな出発点として利用する事を奨励していた。
この地で店舗を構えたいという商人も多い。大聖堂側に申請した上で、安全で尚且つ利用客に有益をもたらす商人だという証明があれば、幾らかの開店補助金やそれ以降のサポートを貰う事が出来、開店する際にもお墨付きという事でかなり有利となる。
ただ、許可を得るには厳しい条件をクリアしなければならず、開店以降も認可を与えた大聖堂側に定期的に上納する義務が発生する。
その段階を踏むのが手間と感じる者は軽い申請と少額の上納金を大聖堂側に納めるだけで開店する事も可能だ。どちらかと言えば、こちらの段取りを経て店を構える者が圧倒的に多かった。
自分の順番が回り、オーギュは二人分のパンとお茶を注文する。大振りな肉の重みか、一つだけでもずっしりしていた。温かくスパイス込みの香りが鼻を突いてくる。
「おや」
手渡ししてきた店主は、オーギュの顔を見るなり眉を寄せる。
「はい?」
「お忍びですか?オーギュスティン様」
「いや、そんな訳では無いのですよ。ロシュ様に休めと言われて」
人が大勢ごった返す街の中で、大聖堂の人間を見分けられる者は少ない。似ているな、と一瞬だけ思う程度だ。
良く自分が分かったなと思う。
店主はふわっと人の良さそうな笑顔でそうだったんですかと返す。
「連日働きっぱなしでしょう」
「ふふ、今日はゆっくり休ませて貰いますよ」
ずっしりと重みのある商品を持ちながら、改めて礼を告げた。お疲れ様です、という労いの言葉を貰いながら、ようやくファブロスが待っている場所へと戻った。
彼は大人しくその場で待っていたが、彼の周りには数人の女性達が集まっている。
あれ?と眼鏡の奥の目を見開いた。
ファブロスはようやく戻って来た主人を見るや、困った様子で『オーギュ!!』と声を張り上げる。
「ど、どうしたんですか?」
ファブロスを取り囲んでいた女性らは、オーギュの姿を見るなり可憐な雰囲気を撒き散らしながら黄色い声を発してきた。
野生的な雰囲気を持つファブロスに加え、氷のように近付き難いクールな顔立ちのオーギュが寄って来た事で自分達の審美眼は間違っていないと言わんばかりに嬉しそうな様子を見せている。
「な、何ですか彼女達は?ファブロス?」
一方のファブロスは必死に首を振り『知らん』とだけ答えた。
知らん、って…とオーギュはキラキラした様子の女性達を見回す。
「あのぉ、お二人共お暇ですかぁ?」
「私達と一緒にお茶とか、一緒に遊びません?」
まさかの女性側からの誘いに、オーギュは驚いた。今の若者は大層積極的のようだ。自分の回りの女性らは、どちらかと言えば控え目で個々を強調するタイプでは無いだけに少しばかりカルチャーショックを受けてしまう。
『オーギュ』
ファブロスは困惑している。人間の女性に言い寄られる機会など無かっただけに、対処出来ずに狼狽えていたのが伺えた。
まさか召喚獣である自分が、見知らぬ人間の女に声をかけられる羽目になるとは思わなかったのだろう。困っている所で、ちょうどオーギュが来てくれたのでホッとしたようだった。
どうするのだ、とファブロスは言う。
「どうするも何も…すみません、私達は仕事の休憩中だったのです。どうか他のいい方にお声がけして下さい。あなた方のように素敵な女性なら、きっとすぐいいお相手に出会えますよ」
優しい眼差しを称えながら、オーギュは詫びる。
完全に営業スマイルを使い、相手方に理解を求めていた。こういった状況は、大聖堂に入り浸る貴族階級の女性相手に慣れ切っていた。
むしろ、向こうの方が面倒かもしれない。
「えぇえ、ざんねーん」
「折角会えたのにぃ」
街の女性方は意外にさっぱりしている。
仕事中だと言えばすぐに納得したのかじゃあ今度会えたら遊ぼうね、と笑顔で告げるとそのまま人混みの中に溶け込んでいった。
女性らを笑顔で見送った後、オーギュはファブロスに「大丈夫ですか?」と聞いた。
一方のファブロスは、自分の知っている異性の記憶は同じ召喚獣のディータしか無かった為かやけに固まった表情を見せている。
『なかなかお前が来ないからどうしようかと思った』
「おや。女性には慣れていないのですか?ディータさんが居たというのに」
「それとこれとは話が違うだろう。奴は同志のようなものだ。こっちが困っていたというのにお前は、上手い事を言って他の者に愛想を振り撒いたりして』
何故か焦りながら彼はオーギュに食ってかかる。
『私以外の者にそんな優しい顔をするとか』
面白くないと言わんばかりにそう言い、ファブロスは拗ねていた。
オーギュはふっと微笑むと、先程注文した商品を「ほら」と突き出す。
『!』
「あなたは今お腹が空いているからキリキリしているのですよ。美味しそうな物を見繕って買ってきましたから、良く噛んで食べなさい」
『オーギュ、お前はそうやって』
目の前に出現した食料をがしっと両手で掴むと、包みを開き食らいついた。
『私をはぐらかそうとしても無駄だぞ』
言いながら、彼はもしゃもしゃと夢中になる。
『お前は私だけを見ていれば良いのだ。他の知らぬ人間になど渡してなるものか』
「お茶です。どうぞ」
ひたすら食べ続けるのも体に良くない。オーギュは話しながら食べ続けるファブロスに、一緒に購入したお茶が入った容器を渡す。
素直にそれを受け取ると、すぐにストローを使い飲み始めた。これもオーギュが生活する上で教えた一部だ。
『全く、これで私の機嫌を取ったつもりか』
怒りつつ、お茶で喉を潤している召喚獣に向けてオーギュは微笑んだ。
「美味しいですか?ファブロス」
『うむ』
「それは良かった」
『オーギュ!!』
取り合わぬ主人に対し、ファブロスは憤慨する。
『私の話を聞いているのか!』
「聞いていますよ。そんなにカリカリせずとも、私は他の方の誘いには乗る気はありませんから安心なさい」
『そうだ。それがいい。横入りはヴェスカだけで充分だ。いいな、オーギュ』
ヴェスカはいいのか…とオーギュは心の中で突っ込んだが、ファブロスが余計拗らせそうで口にしなかった。気を取り直して自分も買って来た物を食べようと思い買ってきた物に目を向ける。
だが、ちょっと考えてしまった。
『どうした?オーギュ。食べないのか?』
「いえ…どうも立ち食いというのに慣れていなくて。どこか座れる場所があればいいのですが」
『それなら街の真ん中に公園があるじゃないか。そこに行こう。噴水もあるし』
立って食べるという概念の無いオーギュには、やはり抵抗があるようだった。
公園がある事を指摘されたオーギュは、ファブロスより自分の方が詳しい筈なのに、と苦笑する。
彼はゆっくりと現在のアストレーゼンの事を把握してきているようだ。
『私が持ってやる』
「あれ…もう食べたのですか?」
『もう食べたぞ』
早いな、と思った。
ファブロスはオーギュから包みをひょいっと持ち上げると、行くぞと促す。
『早く行かないと冷めてしまうからな』
「は、はい」
まるで子供を引っ張るかのごとく、ファブロスはオーギュの手を取り公園へと足を向けた。
風がざわりと吹き、街路樹の青臭さが鼻を突いてくる。大通りは絶えず大型馬車や個人所有の馬の蹄が石畳を軽やかに叩く音が響き、その合間を縫うように人が歩いていた。
毎日の城下街の日常の風景が、二人の目を楽しませてくる。
「あなたも随分慣れてきましたね」
最初の危うい二足歩行から始めたとは思えぬ位に、ファブロスは人の生活に溶け込んでいる。
前を進んでいるファブロスは銀の美しい髪を揺らしながら軽く主人を振り返ると、ふっと目を伏せて『お前の為だ』と告げた。
『主人であるお前が恥ずかしくないように振る舞わなければな』
「おやおや。そこまで私を思ってくれているのですね」
『当然だろう』
大通りを無事に通過し、広い公園に辿り着いた。空いているベンチを探すと、そのままオーギュを引っ張った。
『お前が私に色々してくれるように、私も同じくそれに応えなければな。座れ』
ふふん、とやけに得意げに鼻を膨らませてオーギュをすとんと座らせる。
『ここなら食べる事が出来るだろう』
「…ありがとうございます」
ようやく包みを開き、軽く齧り付いた。
それを確認した後にファブロスはオーギュの左側に腰を掛ける。
『美味いか、オーギュ?』
「ええ、美味しいですよ」
『そうか。それなら良かった。ん?…口に付いたソースを拭いてやろうか?』
他者の目があればそうではないが、ファブロスは二人だけになるとやたら甲斐甲斐しくオーギュの世話をしたがるようになっていた。
自分がそうやって世話をされていたのを改めて学習した為だろう。
「大丈夫ですよ。…食べますか?」
『それはお前のだからお前が食え』
「足りるかなと思って」
自分と比べれば、彼は良く食べる方だ。もしかしたらまだ足りなかったかもしれないとオーギュは察する。
しかしファブロスは『いや、いい』と拒否し、首を振った。
『お前はもう少し食べた方が良いぞ』
まるで子供の世話を焼く母親のように、ファブロスはオーギュの少食を心配する。決して筋肉質ではない彼は、ファブロスの太く逞しい腕では一本だけでも担げる位軽いようだ。
もう少し筋肉なり付ければいいのにと思うが、当の本人は筋肉に対しての興味が持てないらしい。腕っぷしが強くなくても、魔法があればどうにかなると考えているのだ。
「食べてますよ、ちゃんと」
『ヴェスカ並に食えとは言わないが、もう少し食わないと体力も付かないだろう』
「あの人と比べないで下さいよ…食べる量が全く違うじゃないですか」
自分と違い体力勝負な彼は、自分とは全く違うレベルで食べる。比べる以前の問題だ。
『まぁいい。とりあえず食え』
「分かりましたよ」
ベンチに腰掛け、公園の景色を眺める。
公園は子供の姿が多く目に付き、シンボルと言える大きな噴水の周辺には水が上がる度に彼らによる歓声が上がった。
噴き上げる水は内部に点在している魔石によって綺麗に浄化され、繰り返し下から綺麗な水が上がっている。メンテナンスも定期的に行われていて、劣化した魔石はその都度新しい物に交換されていた。
その為に、公園近辺に存在する水はとにかく美しいと評判だった。
「うん、美味しい。大聖堂で食べるタイプとはやはり違いますね」
仕事の合間、大聖堂の厨房へ依頼して用意される食事は大変美味だが非常に洒落た印象。
このように気軽に食べたいならば、中庭の露店に通うしか無い。それでも観光客向けに凝ったメニューになりがちだった。
包みを開いて齧り付くというタイプの軽食は、大聖堂にはほとんど無いのだ。
『よしよし。ちゃんと食べているな』
何故かファブロスは保護者目線だった。
「…やはり、食べたいのではないですか?」
『私はお前がきちんと食べていればそれでいいのだ。何度も言わせるな』
「た、食べますよ。食べますから…そんなに見ないで下さい」
凝視されては進むものも進まなくなってしまう。
ファブロスはオーギュが食べているのをひたすら見ては不自然な程頷いているのだ。
『お前は見ていて飽きない』
「面白いものでは無いでしょうが」
何故か見世物になったような気分に陥ってしまう。
『お前が私の主人だと思うと優越感を感じるからな』
随分と評価が高過ぎないかと思った。単純な世話をしているだけで、ほとんどファブロスに対して何もしていないのに。
オーギュは内心照れ臭さを感じつつ、あまり褒めないで下さいと手に持っているパンを口に含んだ。
もぐもぐと食べていると、やや離れた場所からこちらに向かって紙袋を抱えて近付いて来る少年の姿が見える。
「あれ…?」
目を凝らしてその少年の顔を確認する。その正体はリシェと同じ宮廷剣士のスティレンだった。両手に大きな取っ手付きの紙袋で、やや動きにくそうにしている。
「こんにちは、スティレン」
オーギュはベンチから立ち上がると、いかにも買い物帰りの彼に向けて声を掛ける。スティレンはハッとこちらに気付くと不機嫌そうな表情から一転して改まった顔になり頭を下げる。
「オーギュ様。まさかここでお会い出来るなんて」
「ちょっとした休み時間を頂いたのでね。あなたはお買い物の最中だったんですか?」
「はい。リシェと一緒だったんですけど、あいつ俺を置いてどこかに行ってしまって」
良く見れば大量に買い込んで来たのが分かる。彼は今風の若者らしく着飾るのが好きなようだ。
現に、その私服姿も相当こだわっているようにも見える。
服の素材からして、高級志向なのだろう。
オーギュは「おや」と目を細める。
「リシェも一緒だったんですか」
「はい。気になる服を見つけて悩んでたら、迷う位なら店員に相談してこいって言われて。その他に目移りして色々買い込んでたら居なくなっちゃって…はあ。何で待たないかなぁ…」
その口振りからして、かなり待たされたのでは無いだろうか。オーギュとファブロスは同じ事を思ったのか、ほぼ同時に顔を見合わせた。
『随分買い込んだようだが』
「はい」
スティレンは自分の両手の大量の紙袋を見回す。
『リシェは待ち切れなくなったのではないか?』
ファブロスの的確な突っ込みに、スティレンは無言で相手を見上げた。
その後再び目線を紙袋に移した後、首を傾げながら「そうでしょうか?」と疑問符を投げかけた。
「あいつの我慢が足りないと思いますが」
自然にそう言えるあたり、彼の性格が垣間見えてくる。
「ちなみに、ですけど」
「はい」
「お買い物にはどれ位時間がかかったのですか?」
オーギュの質問に、スティレンは天を仰いだ。
「うーん」
しばらく考えた後、彼は自然な様子で答える。
「四十分位でしょうかね?」
四十分。
どちらかと言えば待ちたくないタイプのオーギュは、そりゃ忍耐強いリシェでも待ち切れませんよと困惑した。
しかしスティレンは首を傾げながら「そうですかね…?」と眉を寄せた。
「そうですよ…流石にその位は待ち切れないと思いますよ」
待たされる立場になりがちのオーギュは、リシェの目線になってしまう。
これが自分ならば、さっさと見捨てて帰るだろう。
ファブロスは悪びれないスティレンに『逆に待つ側に立ってみれば分かるのではないか?』と聞いた。
すると彼は、ふるふると首を振る。
「俺は待ちたくないですよ」
待たせるのは構わないが、自分は待ちたくないという身勝手な思考回路を披露する。ファブロスは呆気に取られながら、主人に『ダメだ』と早くも匙を投げた。
『特殊な性格をしているぞ。何を言っても無駄な気がする』
早い段階にも関わらず、話しても無駄だと思える何かを感じたのだろうか。ファブロスは忍耐強い性格だと思っていたのだが。
オーギュは「そ、そうですか…」と返した。
『そもそもこいつは性質からして何かが違うぞ。普通の常識というものに欠けているのではないか』
しかも常識外れという見解付き。
スティレンはファブロスの発言にムッとした様子で「聞こえてますけど」と不愉快そうに言った。
「あ…あぁ、すみませんスティレン。ファブロスは正直な性格をしていて」
フォローするつもりが全然フォローにもなっていない。
オーギュはそう言った後、それに気付いて大きな咳払いをして誤魔化した。
「はぁ…まぁ、いいんですけど。それより、その調子だとリシェを見かけてはいないんですよね」
「ええ、私達も今こちらに来たばかりだったので」
ね、とファブロスを見上げた。彼もこくりと頷く。
荷物を抱えたままのスティレンは頭を垂れた。
「もう…どこに行っちゃったんだろ。本当信じられない、俺を置いて行くなんて。帰っちゃったのかな」
そもそも自分の買い物が長引いたのを反省するべきではないだろうか。ちょっとだけだったらリシェも待ってくれていただろうに。
オーギュはそう思ったが、口にするのをやめた。
『程のいい荷物持ちが居なくなってがっかりしているのか?』
「こらっ、ファブロス!」
こちらもあまりに馬鹿正直に言い放つので、オーギュは焦りながら言葉を控えるように注意する。
スティレンはそんな彼の発言に対し、全く悪びれもせずに「そうです」と言い放った。思わずかくりとオーギュは脱力してしまう。
「えぇ…」
真顔の彼に驚きを隠せない。
王子様を彷彿させるその外見そのままだが、発言は横柄。
苦労していたリシェとは全く違って相当恵まれた環境で生きてきたのかが分かる。
それ以前に、最初は待っていたであろうリシェに対して悪いとか思わなかったのだろうか。
「うーん」
オーギュは反省の気持ちが全く無いスティレンを見ながら唸った。
「恐らくリシェは待っていたと思うんですよ」
「はい」
「そこまで時間が掛かったのなら、怒って当然だと思うんですけども」
「…ですかね?」
まだ理解しない様子だ。やはりファブロスが言うように言っても無駄なタイプなのだろうか。
ファブロスは小声で『言うだけ無駄だぞ』と囁いてくる。
『これ以上は時間の無駄だ。諭すのは難しい相手だ。私は強くそう思うぞ』
だがこのままでは彼はリシェになら何をしてもいいと勘違いしてしまうだろう。誰かが軌道修正してやらなければならないのではないか。
ただ、直すには相当な時間がかかるかもしれない。
「…ううん、まぁいいでしょう。あなたはこのまま兵舎に戻られるんですか?それともリシェを探すのですか?」
「探そうにもどこに行ったのか分からないし…俺がこれだけ沢山の荷物を抱えているっていうのにあいつときたら」
『自分が原因じゃないか』
ファブロスは言うだけ無駄だと言いながら、しっかり突っこまないと気が済まないようだ。ヴェスカで充分過ぎる程に学習したせいだろうか。
「ですがリシェは置いて行くにしても一言言いそうな気がしますけどね」
「そうですよ。それなんです。何の一言も無くどこかにほっつき歩くなんて、俺が可哀想だと思わないのかな」
あまり長く会話をしなかったのだが、スティレンもなかなかの変わり者かもしれない。
オーギュは自分より少し上背のあるファブロスを見上げると、仕方無いですねと一息吐いた。
「ファブロス、彼の荷物を持って差し上げなさい」
『別に構わないが、一緒に連れて行くのか?』
若干不服そうだ。
大好きな主人と二人っきりだったのに水を差された気分になるのだろう。やや眉を寄せて気難しそうな表情を浮かべている。
「もしかしたらリシェも迷子になっているのかもしれませんし」
『あいつは迷子はならないと思うがな』
まぁまぁと宥めながら、オーギュはスティレンの持っていた紙袋を受け取る。衣類しか入っていないので数量の割には軽かった。
ファブロスはまぁいいがとまだ何か言いたげにしつつそれを受け取る。
「あ…ありがとうございます」
スティレンは荷物を持ってくれた事に対してファブロスに礼を告げた。
『この位は何という事でもない』
そこはしっかりと礼を言えるあたりまだマシな方か。
「とりあえず…その辺を散策しながらリシェを探しましょうか。ちょうど私も食べ終えた事ですし」
発生した紙ごみを分別しつつ公園のゴミ箱に入れた後、オーギュは改めて公園の周辺を見回した。そんなにすぐにリシェは見つかる訳無いか、と安易な考えを起こした自分に対して苦笑いする。
「リシェが行きそうな場所ってご存知ですか?従兄弟同士なら、それ程長いお付き合いでしょうから趣味と分かりそうなものだと思うのですが」
彼の趣味を知る限り読書や剣技関係だろうが、その他に趣味とかあれば大体の行動範囲を特定出来そうだ。
オーギュの問い掛けに、スティレンはふんわりとした髪を揺らしながら「うーん」と考える。
「趣味かぁ…あいつ、根暗だから本読みとか位しか俺知らないです。今より仲良くも無かったし」
『リシェと血縁関係だったのか。その割には随分と性質が違うな』
ここでようやくスティレンの素性が分かり、ファブロスはまじまじとスティレンを見た。何となく似たような雰囲気だったが、印象はがらりと違って見えたようだ。
「地味なあいつと違って俺は生まれながらに華やかなので」
『ほう。ここまで分かりやすい性格も始めてだな』
「はい。良く言われます。俺が高級庭園で育った薔薇なら、あいつはその辺の地面に生えた雑草のようなものですし」
ひたすら自身を褒め称えるスティレンの話を聞きながら、返す言葉を全く持てずにいるオーギュは、普段通りの冷静さを装いつつ困惑する心境を整頓しようと躍起になっていた。
素面で言える自画自賛タイプなど今まで見た事が無い。
確かに自分も魔法に関してはそこそこの自信があるが、自ら口にして言う程でも無かった。
彼は自分に相当の自信があるようだ。
…確かに自惚れたくなる程の美しさを持ち合わせている。だが、自ら美しさをひけらかす者はまず居ないだろう。
仮に、長い事付き合っていけばあまりの自信家っぷりにこちらが疲れそうな気がした。
「と…とりあえず、リシェを探してみましょうか。遅くならない程度にしておきましょう。あの子はしっかりしてますから、夜遅くまでは城下街に留まらないでしょうし」
いつまでも同じ場所に居る訳にもいかない。
オーギュはリシェが向かいそうな場所を頭の中で模索し、武具店や魔法関係のショップを手当たり次第探ってみようか…と天を仰いでいた。
リシェは老婆に導かれる形で、アストレーゼン城下街の中央街道からやや外れた小道へ通されていた。大きな通りから外れると、行き交う人の姿は激減する。
大抵の人間は分かりやすい大通りを歩くせいか、違う道に入り込むと迷う傾向にあるのだ。
アストレーゼンの街は昔ながらの造りそのままに様々な道が入り組んでいて、利用する者は小さな道を使わなければ家路に辿り着けない住民か、素性が謎な出立ちの人間のみ。
そして目立つ通りよりも、人の目に晒されにくい分治安はやや悪くなる。特に夜間になれば薄暗くなり、道を照らす街灯も小さい上に建物と建物の間に挟まれる形で月の光も遮られてしまう。
まだ日の光があるだけまだマシかもしれない、と少し明るさに翳りが見え、少し不安な気持ちになっていたリシェはそう自分を納得させていた。
細い路地を老婆を先頭にして進んで行く。
「どこまで行く気だ?」
のんびりした歩調で前を進む彼女に問う。老齢の為に速度も遅く、リシェはなるべくぶつからないようにスローペースで追いかけているが、やはりこちらの足が早くすぐにぴったりとくっついてしまう。その度に一旦立ち止まり進行するのを待っている状態だった。
自分がヴェスカのように大柄で力が強かったら、この老婆を簡単に担いで歩いていけるのだがそれも出来ない。
「もう少しだ。あまり目立ちたく無いんでな」
「それにしたって凄い場所に住んでる気がするけど…良くこんな場所を選んだものだな」
建物と建物の間の小さい通路をひたすら歩き続けていくと、やがて少し道が開けた場所に辿り着く。平民層の住居が立ち並び、どこかで子供達が遊んでいるのか賑やかな笑い声も聞こえてきた。
住居は年季の入った煉瓦造りの家が殆どで、住居と住居の間に日差し対策の為に丈夫な綱と布を用いて簡易的な屋根を張り巡らせていた。
布は模様入りだったり、明るめの色を使用したりと、見た目には非常にカラフルだ。綱を物干し竿のように利用する者も居るらしく、稀に洗濯物がぶら下がっていた。
大聖堂では完全にお目にかかれない光景だ。
通り掛かる際に出会う住民も、どちらかと言えば質素な身なりをしている者が多くリシェの宮廷剣士のかっちりとした格好を見るや眉を寄せたり珍しい物を見るかのような顔を向けられてしまう。
やはりスティレンが言うように、制服では無く普通の服が良かったのだろうか、と少し反省する。休みも不定期で、いつ何が起きるか分からないのでつい着てしまう癖がついてしまうのだ。
老婆の言葉に釣られてついここまで来たが、不意に従兄弟の事を思い出す。そういえば置いてきてしまったなと。
ちょっと待ってくれと訴えたものの、彼女はリシェの言葉を完全に無視するかのようについて来いとだけ告げてさっさと行ってしまったのだ。
あのままスティレンを待っていてもまだ時間はかかるだろうとは思っていたが、焦って追い掛けてしまったので本人に出払うと声をかける暇も無かった。
…そもそも買い物にあれだけ悩むのも良くない。
結局彼を置いてきてしまったが、そのうち察して大聖堂に戻っていくだろう。
自分の買い物の為に人を待たせていたので罰は当たらないはずだ。
リシェはそう思う事にした。
「うぅ」
鈍足な老婆が急に立ち止まるので、後方のリシェは思わず躓きそうになってしまった。
このまま倒れたら高齢の相手を潰してしまうかもしれないではないかと両足に力を込める。
「…いきなり止まるな!」
ぶつかりそうになり、焦りながら自分の背よりも小さな彼女に怒った。皺だらけの顔を上げながら、老婆はリシェの抗議を完全にスルーして「こっちだ」と言う。
「そこの建物があるだろう」
平凡な住宅街に囲まれた敷地内で、一際悪目立ちする一軒の小屋が形を潜めるような出で立ちで出現している。あまりにも古めかしく、雨風を凌げるのか疑問を呈するレベルのバラック小屋。
リシェはそれを見るなり、思わず顔を顰めてしまった。
「ふ…不便じゃないのか?こんな」
「一時的に借りてるだけだ。元々ここに住んでない」
「そ、そうか」
借りてるだけ、と言われてリシェは何故か安堵した。
とは言え、一体彼女は何者なのだろうか。
「…ふむ。お前には『声』が聞こえてこないか」
「え?何の声だ?」
意味深な発言に、リシェはきょとんとして老婆を見下ろす。誰の声の事を言っているのだろう。
「ふん、まあいい。来い」
古過ぎる小屋の中に入るのは正直抵抗を感じたものの、何があるのかは興味があった。意を決し、促されるままに足を進める。
老婆は建て付けの悪いスライド式の扉を開いた。同時に内部から湿っぽく、尚且つお香が混じり合った不思議な匂いがする。
古い木の壁に、更に雨風を凌ぐ為か別の木で適当に打ち付けられている程の状態の悪さを露呈しているが、内部は意外に片付いていた。あちこちに照明用に使っている発光石が網に包まれぶら下がり、隙間風を受ける毎に揺れている。
「良くこんな場所で住めるな」
リシェは正直な感想を述べた。
「夜は寒いだろうに」
自分の幼い頃でも、ここまで状態の悪い環境で過ごさなかった。虐げられてはいたが、必要最低限の生活は出来たのだ。
老婆はリシェの話を無視し、家の奥に進む。
「…何だこれ…杖に魔石の塊に、魔導書?え…?この道具、図書館の本で見た事ある」
暗がりにようやく慣れてきたリシェは、改めて室内を見回し屋内に置かれた物に驚きを隠せずにいた。単なるバラック小屋かと思っていたが、未知の魔道具が揃っていたのだ。
リシェが目を輝かせているのを見るや、奥で重そうに腰を下ろす老婆は口元に不敵な笑みを浮かべていた。
「これ、あんたが集めた物か?…凄い、月の羅針儀だ。でも古いし魔法陣も薄れているから作動しなさそうだな」
書物に描かれていた物が、実際目の前にある興奮で目を輝かせてしまう。魔導具の数々に目移りしそうだ。
その他に普段では決して見掛けないであろう不思議な道具が無造作に置かれていて、リシェの興味を更に惹き付けていく。
「この杖、オーギュ様の使う杖に似てる」
あちこちに立て掛けられている杖の一部を手にしながら、リシェは物珍しそうに言った。
「あんた、何者なんだ?魔法使いか?」
第一印象としては完全にその出で立ちだった。
「私はそんな野蛮な事は一切しないよ。人並み以上に魔法は使えるがな」
「どういう事だ?」
魔導師では無いというならば他に何があるのだろう。
老婆はリシェに向けて持っていた杖を向ける。その瞬間、その杖に付いていた魔石が一瞬眩しく輝きを放った。
うわ!と目が眩みそうになり思わず杖から身を離す。
「ま、眩しい!何なんだ」
よろめき目を押さえるリシェを見ながら、彼女は意地悪そうに笑った。
「そいつは私が作ったんだよ。魔力を使って既存の道具にある種の命を吹き込む。魔導具職人ってやつだ」
「魔導具…職人?」
聞き慣れぬ職種に、リシェは杖を手にしたままぽかんと口を開けていた。
その頃のアストレーゼン大聖堂、司聖の塔。
「集中力が切れましたね!」
一人で仕事の続きをしていたロシュは、不意に顔を上げて爽やかに口走っていた。延々と作業をしていたので少しは休んでも罰は当たらないだろう。
ううんと体を伸ばしながら、カチコチに固まっていた全身の力を解いていく。
厳しい監視の目も無いので今日は気楽に過ごせそうだ。
そして、あまりにも缶詰過ぎるのも宜しく無いだろう。多少は出歩かなければ、仕事も煮詰まってしまう。
リシェもまだ戻る気配が無いのでいちゃつく事も出来ない。彼が居れば、まだ癒しを求められるのになと苦笑しつつ、机上の散らかった書類を軽くまとめた。
そのうちの数枚が床にはらりと落下する。書斎机の下に入り込み、よいしょと拾い上げて身を起こそうとしたが、引き出しの下に頭をぶつけてしまった。
がつりと鈍い音と共に、ロシュは「あ痛ぁっ!!」と叫び声を上げてしまう。
誰も居ないので笑って誤魔化す訳にもいかない。
しばらくたった一人で、痛みに耐えていた。
「うぅ」
中性的な美しい顔を歪ませながら、ロシュはようやく立ち上がる。落ちた書類を丁寧に置き、頭を撫でながら室内を数分徘徊した。
「うぅうう痛い…痛ぁああ…」
魔法を使えばすぐに治るが、こんな情けない事でわざわざ使うのもどうかと思う。何でも魔法に頼るのも良くないとオーギュも言っていた。
こんな下らない事で魔法なんて使いますか、普通?と馬鹿にされる事間違い無いだろう。
普通の痛みにも耐えなければ。我慢も大事だ。
打ち所が悪かったせいか、じんじんと痛みが頭に響いてくる。
悶絶から数分経過しただろうか。
「はぁ…」
ようやく痛みが落ち着いてきたようだ。
部屋に延々居続けるのも良くない。痛む頭を押さえながら、彼は自室から出る事にした。
いつものように塔の螺旋階段を軽やかに降り、外へと飛び出す。暗がりの階段から抜け出た先に見える外の世界は、非常に明るく感じてしまう。
塔からすぐ先にある厨房からは料理の仕込みのいい匂いが立ち込め、若干空腹の虫が騒いだ。
さて、と。
ロシュは大聖堂のメイン回廊方面へ体を向け、悠々と歩き始めた。仕事の合間や落ち着いた頃に散歩をするのは、気分転換には丁度いい。散歩をする事によって、煮詰まっていた物事が不意に解決する事もあるのだ。
暖かい風が頰を撫で、ロシュの緩く波打つ髪を揺らす。
街の方に行ってみたいが、流石に単独で行くとなると止められてしまうだろう。リシェも恐らく城下街の方へ下りているはずだ。
自由が利く彼とは違い、自分は気軽に出歩ける立場では無い。そう思うと、ちょっと残念な気持ちになってしまう。
やはり変装する為にある程度道具を用意するべきだな…と考えながら、中庭の方へ足を踏み入れた。
いつも通りの賑やかな景色。
落ち着くなぁと思いながら足を進めると、大聖堂の職員の数人がロシュに気付いたらしく足早に近付いて来た。
「ロシュ様!」
「ロシュ様、ご機嫌麗しゅうございます」
「ご散策ですか?」
矢継ぎ早に声をかけられ、ロシュは反射的に「こんにちは」と営業スマイルを浮かべる。
「少し気分転換に出て来ました」
単独で出歩くと、かなりの確率で声をかけられてしまう。
こればかりは致し方無いと割り切っていた。気分が乗らない時は外に出ないので、声をかけてくれる相手に対して不快な態度を取る事も無い。
ふらりと散歩したい時は気持ちに余裕のある時だけ、とロシュは決めていた。
「オーギュ様はご一緒では無いのですね」
「ええ、流石にあの人も働き詰めだったので休暇を取って貰っているのですよ。今日も仕事をするつもりだったんですが疲れが非常に溜まっているようなので」
軽く談笑していると、周囲がこちらに気付いてざわつき始めていた。今の時間帯は人の出入りもピークで、旅人や一般客、巡礼する者が途切れる事なく大聖堂へ足を伸ばしてくる。
その状況下で、象徴の一部である彼がお供も無く中庭に居るとなれば、司祭職に就いている人間は気が気では無くなってしまうのだ。彼らは口々にロシュ様だ、と畏敬の目を向けてくる。
遠目で見る者も居れば、少しずつ近付いて姿を確認しようとする者も居た。
ロシュの外見だけはとにかく良過ぎるので、彼の本来の内面を知らぬ人々ならば憧れの眼差しを注いでしまう。
大聖堂の敷地内を歩く度にその容姿に見惚れた者からの羨望や恍惚とした溜息混じりの声がしばしば聞こえてしまう位だ。
そのような環境に置かれても決して天狗になってはならない、与えられたものをひけらかすなどもっての外だと司祭になる際には口を酸っぱくして聞かされていたので、仮に褒め称えられていてもロシュは謙虚に受け止めていた。
他者から言われる前は全く分からなかっただろう。自分が持ち合わせている容姿と才能に。
若気の至りもあって、恥ずかしい事にその当時はひけらかす事の何が悪いのかと開き直っていた節もあった。恐らく相当周囲には嫌われていただろうと思う。
実際に、昔馴染みのオーギュからは面と向かって嫌いだと言われた事もある。それは現在でもそうだが、昔より態度は軟化していた。もう腐れ縁の状態なのだろう。
自分と対等な立場なのは彼位しか存在しないのだ。
「良い休暇を」
「はい。ありがとうございます」
話しかけてくれた人々に笑顔で返した後、ロシュは改めて大聖堂の中を散策する。
中庭を通り過ぎ、正門の入口に差し掛かった。
外部からやってきた旅人達が、所持している武器などの危険物を職員によって預けているのを横目にしつつ何となく城下街方面の方に足を伸ばしてみようと試みたが、「少々お待ちを」と腕を取られ後ろに引っ張られてしまう。
あう!とロシュは軽く声を上げた。
「困りますよぉ、見張って無いとお思いですか?」
悪戯っぽい口調で囁く低い声が頭上で聞こえた。
ありゃぁ…とロシュは苦笑してしまった。まさかここで知り合いに引っかかってしまうとは。
「取り込み中でしたから、もしかして…とは思ったんですけどねえ。ヴェスカ、まさか今日の門番役があなただったなんて」
やはり駄目だったかぁと苦笑いすると、ロシュは観念する。相手の大柄な門番役の剣士は、ロシュを掴んでいた手を離しながらやっぱりなと笑った。
「結構前にオーギュ様とファブロスが出て行ったんです。その時に言われたもんで」
「抜け目が無いなぁ」
「めちゃくちゃ分かりやすくて笑いそうになりましたよ。まさか本当に抜け出そうとするとか」
「…私のやろうとする事を完全に見越してるんですね…」
どれだけ普段の自分が信用出来ないのだろう。
肩を落とすロシュに、ヴェスカは「意外にあの人は疑り深いですからね」と苦笑いする。
「ロシュ様でそれなら、俺だと余計に疑って掛かってきますよ。全く信用されて無いですから」
日頃の行いのせいだからかもしれないけど、と彼は陽気に笑った。
果たしてそれは嬉しい事なのだろうかと疑問に思うが、オーギュの性格上慎重が過ぎるせいなのかもしれない。
ロシュは仕方ありませんね、と観念した。流石に強行突破する程の度胸は無い。
門番をする剣士達を困らせる事も望んではいなかった。
「大人しく大聖堂内で散策しますか…」
「はは、その方がいいと思いますよ。後々怖いだろうし…流石に俺も、ロシュ様が単独で外部に出られたら責任持てないですよ」
「うーん、やっぱり外に出るには変装するべきでしたね。今回は引き下がります」
やっぱりという発言に、過去に何度かそれでやり過ごせたという事になる。
全くめげない司聖に、ヴェスカは懲りないなあと笑った。
スティレンと合流し、姿を消したリシェを探すべくオーギュ達はアストレーゼンの城下街の中を散策する。
「人の数が多過ぎますね。これはリシェを探すには苦労しそうです」
平日だとしても国の中心部である事から、様々な人々がごった返している。この中からリシェ一人を探し当てるのは至難の業だろう。
スティレンは手間取らせる従兄弟に対して苛立ちを隠せない様子だ。
「あいつは田舎者丸出しでふらついたに決まってますよ。次はロープで繋いでやった方が良いかもしれません」
『元はお前が四十分も待たせるからだろうに』
彼の言葉に突っ込まずにはいられないのか、ファブロスは無表情で言葉を返していた。
そしてスティレンもその突っ込みに普通に対処する。
「紳士の買い物は長いんです。常に身嗜みに気を付けておかないと相手方に失礼になる」
その相手方は誰を示すのか、と気になった。リシェ同様、アストレーゼンに居る限りはなかなかその機会には恵まれないような気もする。
「とりあえずあの子が赴きそうな所に行ってみましょうか。リシェが興味ありそうな店とかしらみ潰しに」
「あいつは無駄に剣の練習とかするので、武器屋とかそういう装備品の類の店とか行きそうな気がします」
「ふむ」
スティレンの言葉をヒントに、オーギュは街にある武具屋の方向を確認する。武具屋といっても旅人向けに様々な場所に展開されているので、比較的近い場所を探し当てて行くしかないだろう。そこまで遠くに行ってないはずだ。
彼は現在ロシュから貰った剣が無い状態なので、サブで利用している物を物色している可能性もある。だが、宮廷剣士に支給されているノーマルの剣も持っている事から期待度は薄い。
ただ、行ってみるのに越したことは無いだろう。
さて…とオーギュが知る限りの店を思い浮かべながら顔を上げた瞬間、不意に「あ」とスティレンが声を上げた。
「何です?」
「あー、思い出した!そういえばあいつ、杖の魔石に魔力を詰められる店がどうたらって言ってた!もしかしたらその店を探しているかもしれない」
スティレンはふんわりした髪を揺らし、どこかすっきりした表情で叫ぶ。何の為に出てきたんだっけ、と彼なりに思い出そうとしていたのだろう。
明確なリシェの目的が判明し、オーギュはそれならと微笑む。
「あの子は魔法関係の店に向かったのでしょう。限定されて良かった」
『この街に魔導具屋はあるのか?』
「武具屋よりは少ないですが、私も立ち寄ったりしますので場所は知っていますよ。店によっては行き先を転々としながら売るタイプもありますけどね。あなたと契約した際に出会った魔導具屋はそういう流浪の露天商みたいなタイプでしたし」
『出来るものなら二度とあの魔法使いの顔を見たくないものだな。窮屈な瓶なんぞに閉じ込めおって』
「んん?」
ファブロスの軽めの愚痴にオーギュは反応する。
「ファブロス、あなたはあのお婆さんと長い付き合いなのですか?」
時系列が良く分からなくなりそうだった。主人の不思議そうな顔を見下ろし、ファブロスは『あの魔法使いはかなりの年月を生きてるぞ』と返す。
『あれは人間と尖耳族のハーフだ。普通の人間より長生きする種族だろう。あまり目立たずに魔法の道具を作って細々と生活している。魔法の能力は普通の人間より高い』
「せんじ…ぞく?」
聞いた事の無い種族だ。世界には多様の人種が存在するのは知っているが、身体的特徴を明記した種族の名前を聞くのは初めてだった。
その名の通り耳が尖っているのだろう。
「エルフ的な感じでしょうか?」
『そうとも言うだろうな。耳が目立つだけで他の人間とは何ら変化は無いが、好奇な目線で見られる事を嫌う事から大半は耳を隠して生きているはずだ。人間の比率が高い世界では珍しいタイプだからな』
「へえ…」
『見かけは老婆だが、実際の年齢はどうか分かったものじゃないぞ。人の目を欺く事など奴らには雑作も無い事だ。物珍しい種族の出ならば、尚更完全に無害を装って生きる事が最善の方法なのだ』
「それもまた、窮屈ですね…」
アストレーゼン内に居を構える魔導具屋を探しつつ、三人は煉瓦作りの道を進んで行く。
確か大通り内にも一軒あったな…と思い出していると、「そこの方!」と不意に知らない旅行者から引き止められてしまった。
ファブロスをやや先頭にして歩いていた一行は足を止め、その声が聞こえた方向に体を向ける。そこには武装している旅人が三人程。
リーダー格が大剣と重厚な鎧、二人目は軽装で背中にはしなやかで持ちやすそうな弓。三人目の女性は魔法使いといういで立ちだ。
印象では相当な熟練者のような雰囲気だが。
オーギュはきょとんとした顔をしながら「何か…?」と問う。
彼らはオーギュ達を見ると、ぱっと表情を明るくした。
「あぁ、やっぱり俺らの目は確かだったな」
「いやいや、あたしが人並み外れた魔力を察知したからでしょ?何で自分の手柄みたいに言う訳ぇ?」
一体何の話をしているのだろうか。
『何の用だ?』
ファブロスが警戒しながら相手一行に問い掛けた。危険な印象は無いが、主人の身は自分が守らなければならないという意識が出てしまう。
重装の剣士は頭を下げながら会話を続けた。
「もしかして、旅の魔導師様かと思いまして」
声をかけた理由を説明してきた。スティレンは完全に私服だったが、オーギュは法衣姿でファブロスは宮廷剣士を模したようなかっちりした衣服だった事から誤解したのかもしれない。
オーギュはふっと微笑むと「魔導師ですが旅はしていませんよ」と答える。
「ありゃ…そうだったんですかぁ。残念」
「何か御用があったのですか?」
軽装の男性は頭を掻きながら無礼を承知の上で、と前置きする。
「簡単に言うとスカウトしようかと思ったんです。俺らは旅をしながら各地で依頼をこなして生活しているので…」
その言葉になるほど、と納得する。
「へえ…居るもんだね。ハンター的なあれ?」
スティレンは興味深そうに三人を見る。
その地域で困っている人物からの依頼を得て、解決に導き謝礼を貰うというのは決して珍しくは無い。
ただ、命の保証は出来ないとあり、相当な手練れでなければ好んでその道を選ぶ者は少ないのが現状だった。
軽装の若い男は「そんな感じだね」と笑う。
顔の中心がやけに日焼けしていて、若干赤ら顔だ。弓を扱う者は目に日差しが差し込まないようにゴーグルか帽子を装着する者が多いが、彼もまたその類なのだろう。
鼻の上から皮膚の色が若干違って見える。
相当腕を慣らしてきたのだろう。
「えぇ…勿体無ぁい。魔法使いが居れば、その分依頼も楽勝なのに。二人だと絶対早いし」
『私のオーギュはこう見えて多忙な身なのだ。今は仕事の合間に息抜きをしているようなものだからな』
勧誘をしてくる彼らに対し、ファブロスは丁寧に説明をする。各地を旅する者達ならばオーギュがどの立場に居るのかは分からないだろうと思ったのだ。
そんなファブロスの言葉を聞きながら、スティレンは一瞬眉を寄せる。
…しれっと『私の』って言ったな。
不思議な雰囲気を纏うオーギュの付き人を横目で見ながら、変わったタイプだと感じていた。
「ん?多忙な身?」
『当然だとも。私のオーギュは大聖堂で重要な役割を持つ者だからな』
「…てか、私のって言い過ぎでしょ…どれだけ気に入ってるのさ…」
今まで突っ込まれてきた仕返しに、スティレンもファブロスに突っ込んだ。
だが彼はさも当然だと言わんばかりに『私のだからだ』と断言する。
ぽかんとする三人の旅人を前に、ファブロスは『いいか、小僧』とスティレンに語り始めた。
『私は今まで召喚獣として様々な魔導師と生を共にしてきたが、その中でもこのオーギュは抜群に相性が良い。しかも私を対等に扱ってくれる人格者だ。元は獣の私に、人間としての生活の基本もしっかり教えてくれた。お陰でこのように普通に化けて暮らせる術を身に付けたのだ。確かに奴の部屋は勉強故に書物や薬草や魔法に関する物で溢れ返っていてとにかく散らかっているがな、まあそれは仕方あるまい。こんなに熱心な魔導師もそう居ないのだ。オーギュは私の自慢の主…』
いつ終わるのかと待っていたが、まだ言い足りなさそうな彼を「ファブロス」と主人のオーギュが口を挟んだ。
居心地悪そうにしながら、彼はもうやめて下さいと懇願する。
「お相手の方々も困ってます…私も困りますよ、いくら何でも褒め過ぎます」
ファブロスは何だと?と眉を顰める。
『まだ足りないぞ』
そこまで言っておいて、言い足りないのか。
スティレンは呆れながら馬鹿だねと辛辣に言うと、少しは考えなよと溜息を漏らす。
「最初の内容から話がいきなり脱線してるんだよ…」
『私はオーギュの事を言っているのだ』
「…はあ、あんたがオーギュ様を心酔しまくってるのは良く分かったよ。でも今そんな話をされてもこの人達は困るでしょ。知り合ったばかりの相手の惚気を延々聞かされてさぁ」
ファブロスは隣のオーギュを横目でちらりと見る。彼は何とも複雑そうな顔でこちらを見上げ、「気持ちは分かりましたから…」と言った。
「今はその話をしていませんよ」
『…ふん』
スティレンは相手の旅人に「悪いけど」と話を切り替えた。リシェと同じ位の年齢にも関わらず、相手が年上だろうが全く物怖じしない気の強さを兼ね備えている。
「オーギュ様はアストレーゼンにとって大切な役目を持つお方だから、折角のスカウトだけど応じる事は出来ないよ。ま、見る目はあるけどね」
自分がオーギュの代わりに丁重に断りの言葉を告げれば、話もしやすくなるだろう。スティレンは簡単に説明しながら相手方の要求を突き放す。
そこでも主人に心酔し過ぎるファブロスは何度も頷きながら『そうだそうだ』と続いた。
『確かに私のオーギュの力に注目して声を掛けるとはなかなかのセンスの良さだ』
「あんたはいちいちオーギュ様を上げなければ死ぬ病気にでも罹ってる訳?」
自分を特別だと思っているスティレンと、主人を特別視しているファブロス。この二人は似通っている性質なのかもしれない。
スティレンの説明を聞いた大柄の剣士は、ほう…と自分よりも遥かに体型の異なるオーギュに目線を配る。
「じゃああんたは役職持ちって訳か。なら無理に連れ出す訳にもいかねえな…残念。諦めるか」
「お声掛けは大変嬉しいです。ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、オーギュは挨拶した後でスティレンとファブロスに行きましょうかと声を掛けた。
「あぁ、そうだ」
不意に剣士は何かを思い出したかのように声を上げる。オーギュは足を止め、彼を振り返った。
「何か…?」
「この街のどこかに、流れの魔導具屋があるって話だぞ。あんたも魔法使いなら興味があるかと思って」
「…ちょっと!その話は最初あたしが言ったやつでしょ!また自分の手柄みたいに言い出して!!」
自分と同じ魔導師の女がむきぃっと怒りながら抗議する。
毎度このような会話を繰り広げているのだろう。仮に彼らについて行けば、きっと楽しい旅路になりそうだ。
『流れの魔導具屋だと?』
ファブロスはそのフレーズに反応した。
先程の会話からのまさかの展開に、話がうま過ぎるとさえ思ってしまう。だが、行ってみる価値はありそうだ。
スティレンはオーギュに「これはいい話を聞きましたね」と小声で言った。
「ええ。もしかしたらリシェがそこへ足を運んでいるかもしれません」
街に点在する魔導具屋に寄りつつ、その流浪の魔導具屋を探せばいい。同じような品物を置きがちな街の店よりは、各地を転々として様々な道具を集めているであろう流浪の店の方が確率は高いはず。
リシェが街に出てきた目的も判明したので完全に場所は絞れた。
「私達、人を探していたのです。街の魔導具屋に向かおうとしていたので、まさか大変有力な情報まで頂けるとは。ありがとうございます」
オーギュは旅人達に頭を下げた。彼らは何気なく話題に出したつもりだったのだが、想像以上に感謝されたのでややくすぐったい気持ちになる。
お互いに顔を見合わせた後、照れ臭そうに「そんなに感謝されるなんて」と笑った。
「ま、そいつが見つかるといいな。じゃあ俺達はこれで」
「はい。旅のご武運をお祈りしています」
あんたの気が向いたらいつでも声掛けてくれよ、と剣士は冗談っぽく言い残し、仲間と共にアストレーゼンの街の中へ再び溶け込んでいった。
見送った後、オーギュは改めて「探しましょうか」と顔を上げる。
『…まさかあの老婆とまた会わなきゃいけないのか?』
「あなたの言う魔導具屋だと断言は出来ませんよ。他にも旅をしながら道具を売る人も居るでしょうから」
やけに警戒するファブロスに、スティレンは不思議そうに何でそんなに乗り気じゃないの?と問い掛ける。
「めちゃくちゃ嫌な思い出でもある訳?」
『お前には分かるまい。無理矢理瓶に詰め込まれる窮屈さなど』
「ファブロスは人の姿になっていますが、私と契約した召喚獣ですからね。解放された今が一番快適なのです」
その説明で、やけに彼がオーギュに対して異常なレベルで上げているのに合点がいった。
ファブロスにとって、オーギュは窮屈な場所から自分を解放してくれた恩人なのだ。そう思えば理解出来たが、褒め方がこれ以上無いレベルでの言い方だったので相当惚れ込んでいるのではと勘繰りたくなる。
「へぇ…だからあれだけ病的にオーギュ様を上げまくっていたんですね。納得しました」
ひたすら褒めないと死ぬ病気なのかと思いました、とスティレンは可憐な雰囲気を撒き散らしながら笑った。
彼も美しい顔立ちなので笑顔になると嫌味っぽさを感じさせないが、ファブロスは言葉を素直に捉えてしまう。
『お前はやけに一言多いな』
そして負けじと、嫌味で返した。
バラック小屋の中で、様々な魔導具に目を輝かせていたリシェに、怪しげな雰囲気を醸し出す老婆は目を細める。
「今まで魔導具の店に入った事は無かったのか?」
埃被る水晶を手にして、軽く上部を払っているリシェはああ、と頷いた。
「俺は今まで魔法とかに縁が無かったからな。魔力を引き出して貰って初めて少しずつ使えるようになったんだ」
「ふん…仕込まれた高魔力の割に中途半端な力しか無い理由が分かったわ。お前がまだ未熟だから引き出せていないのだな」
リシェは妙に馬鹿にされた気がしたが、ぐっと耐えた。
本当の事だから、反論出来ないのが悔しい。
剣もまだ半人前で、魔法も初心者のようなものだ。中途半端と言われても文句は言えなかった。
落胆していると、彼の様子を察した老婆はまあいいと言う。
「お前が望んでいる事は理解しているからな。その前に魔力の元を引っ張り出さなければならんわ」
「…え?何をするつもりだ?」
魔力の元を引っ張り出すとはどういう意味なのだろうか。
リシェは疑問を抱きながら彼女に問うが、返事をする事も無く座ったままで指先に小さな魔力の光を乗せる。
一瞬かくりと頭を揺らした後、ふふんと小さく笑った。
「お前と似たような奴が居るな。魔力元の男は性質上操るのは厳しいから、脆弱なこいつを借りるか」
「?」
似たような奴?とリシェは不思議そうな面持ちで彼女に注目した。すると指先の光は輝きの強さを増し、ヒュンと真っ直ぐに伸びていく。リシェの横をすり抜け、そのまま小屋の外へと突き抜けていった。
うわわ、と反射的にリシェはそれを避ける。
「何をした?!」
老婆はゆっくりと顔を上げると、リシェの質問に答える。
「ただ誘導してやるだけさ。こうでもしてやらなきゃ、奴らはここまで嗅ぎつけて来ないだろうからね」
「誘導…?」
一体誰を引っ張り込もうとしているのだろうか。自分と似たような奴、となれば該当するのは一人しか居ないのだが、スティレンを引っ張り出しても全く無意味な気がする。
だが、魔力元の男というのはどういう意味なのだろう。
老婆が何をしようと思っているのか、リシェはまだ分からなかった。
「俺と似たような奴って…あんたは遠くの景色でも見えるのか?」
「そんなもの、街に散らばっている魔力の欠片を介しながら幾らでも見れる。その辺の非力な魔導師より何百年と生きてるからな」
生きている年数からしておかしい。
リシェは目を見開き、老婆を凝視した。
「あんた、何者なんだ?人間じゃないのか?」
強風に煽られている為か、小屋から隙間風が入り込んであちこちから軋む音が聞こえてくる。いつ倒壊するか分からない危うさを感じさせながら、辛うじて建物としての形を保ち続けていた。
リシェは上から吊り下がっている発光石の数々を見上げると、この小屋の不安定さに若干の恐怖を感じる。
「私は魔導具屋だって言ったろ」
「それは聞いたけど…何百年も生きてるんだろう?」
「…面倒な奴だね。…これを見れば納得するだろう」
彼女は深々と被っていたフードを剥がし、頭に巻いていた布を解いていく。徐々に隠されていた部分が剥がれて中が見えてくると、リシェは「え」と声を上げた。
老婆の耳は普通の人間よりも尖っていた。耳たぶには数種のイヤリングが飾られていたが、それは特に指摘する所では無い。
初めて見る異質な形に、思わず驚いてしまった。
「違う種族…?」
「あぁ、そんなもんだね」
「初めて見た。見た感じでは普通に人間なのに」
老婆は再び頭に布を巻きながら、「そんなに見せられるものではないからな」と自嘲気味に言う。
「剥き出しにして歩けば、お前のように物珍しい顔をしてこっちを見るだろう。私らは少数民族のようなものだからな。奇異の目線に晒されるのは御免だよ」
「………」
奇異の目で見たつもりは無いのだが、長い事生きてきたという彼女は今まで嫌という程経験があったのだろう。
リシェは俯きながら、「悪意は無いんだ」と呟く。
「ただ、人間じゃないっていうタイプを初めて見たから」
「…私らは隠れながら人間として暮らしている。耳を隠しながらね。知らなかったと言われても当然さ。擬態しているようなもんだ」
「他にも居るんだろう?あんたと同じ種族が」
「そうだね。私の知らない所で細々と生きているはずさ。私らの種族は一つに固まって生活なんてしないからね。固まった所で、利益を求めようとする輩に狙われるのがオチさ」
その間にも、老婆の指先から魔法の光が延々と外に向けて放出され続けている。
「利益?」
「言っただろう?私らは、人間から見れば物珍しい道具を作る事を生業としている。とっ捕まえて無理矢理物を作らせてから、高値で売り捌くっていう奴も居るのさ。普通の人間にはどうしても作れない物を作る事が出来るからね」
その発言に、リシェは思わず眉を寄せてしまった。
確かにこの小屋の中にある道具の数々は、普段の店ではお目にかかれないような代物ばかりだ。これは彼女の種族でしか作れない貴重な物なのだろう。
それを無理に作らせるような邪な人種が居るとは。
「なるほど。無闇に正体がバレないように耳を隠して生活しているという訳か」
老婆はリシェの言葉にそんな感じさ、と答えた。そしてゆっくり顔を上げてそろそろだねと呟く。
バラック小屋の外で、何やら騒がしい声が近付いている様子が聞こえてきた。リシェは怪訝そうに背後を振り返りながら「…何だ?」と眉を寄せる。
けたたましい足音と、騒いでいる数人の声が聞こえたかと思うと、突然小屋の扉から衝撃音が響いてくる。
ドシーン!!という激しい音と一緒に家の中が揺れた。
「は…?」
何が起こっているのか見当も付かず、リシェは扉に近付き外の様子を見ようとした。
「いったぁああああああい!!何、何なの!?」
一枚の扉を挟み、苛立つように叫ぶ少年の喚き声。
そしてまたこちらに向かって駆け寄ってくる足音が扉越しに聞こえた。
「スティレン。大丈夫ですか…」
『いきなり走ったかと思えば。何故そこに激突したのだ』
あれ?とリシェは驚く。何故ここにオーギュとファブロスが居るのだろうか。彼らの声を耳にしたと同時に、リシェは建て付けの悪い小屋の扉をゆっくりと開けた。
ガタガタと古臭い音と、ずっしりした重い扉を開きそろそろと顔を外に出してみる。
「何で俺がこんな場所まで引っ張られなきゃならないのさ…おかしいでしょこんなの」
扉の真下で顔を押さえてうずくまっているスティレン。
「…何してるんだ?」
リシェは思わず彼を見下ろし、従兄弟に問う。
一方でスティレンは聞き覚えのある声に勢い良く顔を上げ、リシェの顔を確認すると「お前っ!!」と激昂した。
「俺を置いてよくも別の場所にほっつき歩いてたもんだね!何考えてるのさリシェの癖に!!待ってろって言ったでしょ、人の話も聞かないで馬鹿じゃないの!?てか、何も言わずに勝手に置いて行くとかあり得ないだろ!!」
言いたい事を思いっきりぶち撒けてるスティレンを、リシェはうんざりした様子で「あぁ」と投げやりに返した。
そもそも延々と服で悩むのが悪いと思うのだが、そんな事を言えば余計怒り狂うだろう。
「リシェ」
「オーギュ様?あれ」
意外な人物の登場に、思わずリシェは声を少し姿勢を正そうとした。だが重い扉から顔だけ出しているままだったので身動きが取りにくい。
スティレンを追って追従していたらしいオーギュは、扉から顔だけ出しているリシェを見て驚いていた。
「ここ居たのですね。あなたを探している最中に、急に強めの魔力の干渉を受けてスティレンが引っ張られてしまったのです」
「魔力の干渉?…あぁ、なるほど…」
老婆の放っていた魔法の糸。
恐らくそれを受けたのがスティレンだったようだ。彼は扉の下で尻餅をついたまま、不機嫌そうに「もう」と感情を素直に吐き捨てる。
「俺の大事な体に傷が付いたらどうしてくれるのさ」
未だしつこい位に文句を言い続けるスティレン。
『宮廷剣士の言葉とは思えないな』
職業柄あり得ない発言に、鋭い突っ込みをする。
「大体ここ何なのさ。凄く引っ張られた挙句こんなぼろっぼろの小屋なんかに…気品ある美しい俺に似つかわしくない場所じゃない」
「いいからさっさと立ったらどうだ?」
自画自賛し続けるのが鬱陶しい。
面倒臭そうに扉から手を伸ばしスティレンの腕を引っ張ると、彼は渋々と立ち上がった。
「とりあえずこの扉を開けましょう。なかなか建て付けが良くないようですから」
オーギュはファブロスを促し、小屋の扉を開けさせた。
顔だけ出しているままのリシェを見る限り、力を込めて慎重に開けなければ開かないタイプだと思ったのだろう。
ふわりと漂ってくる魔力に、ファブロスは思わず『うぬぬ』と表情を歪める。
『ああ、やっぱりこいつか。じわじわと感じるぞ。どうせあの婆なのだろうな』
「…同じでしたか。良くご縁があるようですね、ファブロス。観念してご挨拶しましょうか」
こればかりは仕方ありませんよと苦笑混じりに言った。
切りたくても切れるものでは無いのだ。
扉を開けたファブロスは、主人に向き直ると『開けたぞ』と声をかける。
「先に入ってもいいのですよ。久しぶりでしょうし…」
『私のこの気の進まなさを見て言っているのか?あまり意地の悪い事を言うな』
余程顔を合わせたくないらしい。
オーギュは肩を竦めると、扉の奥に居るリシェに近付いた。
「オーナーは居るのでしょう?」
「はい」
「これもまたご縁ですから…挨拶していきましょうかね」
彼は自ら小屋の中に足を踏み入れて行った。
入口付近で自分の頭を撫でていたスティレンは、意思に関係なく強引にここまで引っ張られてしまった事をまだ根に持っているようで「俺にこんな事をさせた奴の顔を見てやる」とオーギュに続いて入って行く。
残されたリシェとファブロス。
「…入らないのか?」
リシェは扉から離れた場所で突っ立ったままの美丈夫に問う。ファブロスは腕組みをしながら憮然とした顔で『私はいい』とだけ返した。
あまり老婆にいい印象は無い模様。
『何かの拍子にまた瓶に閉じ込められそうだからな』
「…まさか。オーギュ様と契約しているんだろう?ならもう解放されたようなものじゃないか…」
押し問答をしていると、リシェは店の奥から急激な魔力の風が流れ込んでくるのを感じた。
「!!」
「っわああああぁああ!!」
飛び込んでくるスティレンの悲鳴。
同時にリシェの足元に吹っ飛ばされるような形で彼の体は扉目掛けて飛び込んでくる。
ドシーン!!と激しい衝撃音。咄嗟にリシェは彼を避けていたので、ダメージは半端無いだろう。
「い…いった…」
先程の強い風から受けた衝撃で、したたかに全身を打った様子だ。
リシェは思わず「何をしてきたんだ」と怪訝そうな顔で従兄弟に問う。しばらく全身の痛みに顔を歪めていたスティレンは、体を丸めて呻いていたが間を開けてようやく上体をゆっくりと起こす。
「文句を言ってやったら吹っ飛ばされたんだよ!」
『…相手が悪かったのか言い方が悪かったのかどちらかだな。迂闊な事を言わない方がいいぞ。痛い目に遭う』
外からひょっこりと顔だけ出して覗き見るファブロス。
文句を言いたくなる気持ちも分からなくも無いが、いきなり突っかかって行けば当然このような反撃を喰らう事は読めていた。ファブロスはついスティレンに同情してしまう。
「お前は相手の顔を見るなりいきなり文句を言ったんだろう」
老婆が今まで生きてきた環境を思えば、すぐに警戒されても仕方無いのだ。
スティレンの相手に対して全く物怖じしない性格も場合によってはメリットはあるが、この状況になるとマイナスにしか働かない。
「俺を勝手に動かしたんだから当然でしょ!こんな所まで引っ張って来ておいてこれだよ、怒りたくもなるっての!」
「すぐ怒る癖をやめた方がいい」
「うるっさいなぁ!」
手を差し伸べたが、強気過ぎるスティレンはリシェの手を払った。
『リシェ。こいつはもう性格が完全に歪んでるから言うだけ無意味だと思うぞ。買い物に長時間待たせても全く悪びれていないのだからな』
仕方無いと言わんばかりの口調。冷静なファブロスがそう言う位だから、もうスティレンの性格を指摘しても無駄なのだろう。
「ちょっと、軽々しく歪んでるとか言わないでよ!」
「他からそう指摘されるなんて余程だと思うぞ」
リシェも思う所があるらしく、はっきりとは言わないが同意した。
「あぁ…もう本当にあり得ない…」
痛む体を押さえながらスティレンは立ち上がる。
「大体、何であんたはずっとそこで顔だけ出してる訳?」
まだ扉の隙間から覗き込んでいるファブロス。
苛々しているスティレンの言葉に、内部の様子を伺っているようなファブロスは『私の事はいいのだ』と返した。
『この小屋の老婆の話は聞いただろう。出来るだけ関わり合いになりたくないのだ』
「結局怖いだけじゃない」
『何を言う。別に怖いのではない、関わりたくないだけだ』
顔だけ出しながら頑として怖くないというアピールを繰り返す。
不毛な会話を延々聞いていたリシェは困った顔で溜息を吐いた。やや時間を置き、奥からオーギュが姿を見せてくる。
「どうしたのです?…というか…大丈夫ですか?スティレン」
老婆によって思いっきり吹っ飛ばされた彼を心配そうな面持ちで見下ろす。
一方で、スティレンは痛みに顔をしかめて「すっごい痛いです」と文句を言いつつ立ち上がった。
「俺を勝手に操作しようとして…腹立つったらないよ」
「お前の言い方が悪いんじゃないか。腹が立っても我慢しないで、最初から喧嘩を売るような話し方をするからだ」
生意気に説教なんてしないでよとリシェに言い放ちながら、自分も少しは悪い所もあったかもしれないと内心反省する。
意味が分からないまま自分の意思と反する動きをしていたのでパニックになってしまったのだ。
まるで自分が操り人形になったような気分だった。
「…で、引っ張られた場所がこんな小汚い意味の分からない小屋でさぁ。結局何?お前は俺を待たずにここに来てた訳?」
改めて内部を見回す。
ゆらゆらと揺れる発光石の羅列と、用途不明な道具や価値が無さそうな骨董品が詰め込まれた棚を眺めた後で、何なのここは?と眉間に皺を寄せた。
「ここは魔導具の店だ」
「あぁ、さっきの話に出てたあれね…」
オーギュとファブロスとの会話に出ていた魔導具屋。
スティレンにとっては、これまで縁が無かった場所だ。
「そう、魔法関係の道具を専門とした店です。こちらの主人は、私が最初にファブロスと契約した際にお世話になったお店です。初回はリドランでお会いしましたけど…」
「へぇ。…どう考えても、あんなお婆さんが街を転々と出来るとは思えないですけどねぇ」
小馬鹿にしたように、スティレンはふんと可愛げの無い発言をする。すると小屋の奥からヒールを打ち鳴らす音が聞こえてきた。
オーギュはぴくりと耳を傾けた。
ヒールを履く者などここには居ないはず。または、それとは違う別の音なのだろうか。
コツリコツリとその音は近付いてくる。
「いつまでそこで駄弁っている気だ?」
…どう考えても、老婆ではない声。
リシェを初め、オーギュやスティレン、顔だけ出していたファブロスはその声がした方に目を向けると皆一様に驚愕の顔を見せる。
『婆…っっ!!』
ファブロスは驚きの余り、顔だけ出した状態で身動きするのでガツリと首が更に引っかかってしまう。
驚くのも当然だった。
奥から足音を立てて出現したのはあの老婆では無く、二、三十代程の派手目の女。誰だ、と言わんばかりにリシェ達は凝視してしまう。
頼りない灯りの下でも十分に分かる位、やけに肉感的でスタイルの良い女だった。その格好も目のやり場に困る位の胸の空いたマーメイド型の赤と黒を基調としたドレスを着ている。しかも片方にスリット入りのスカート。
この場には全く似つかわしく無い場違いな女だった。
まだ大人になりきれないリシェやスティレンには目の毒になりそうだ。
「誰だ、あんたは?」
どうやって入ってきたのだろうか。この小屋には別の出入口があるとは思えないのだが。
「誰だ、だと?さっきお互いに話をしていただろ」
「俺はあんたの事なんて知らな…」
言いかけたリシェに、ファブロスはまだ顔だけ出しながら知らせる。
『いや、そいつはあの婆だ。魔力も完全に一致している。この婆、姿を変えられるらしい。何年も生きているが実年齢は分からないからな』
「へ???」
リシェは思わず貫禄たっぷりのドレスの女を見上げた。
どう見ても小さな老婆からかけ離れた姿に口をぽかんとさせてしまう。
派手な化粧に派手な衣装、腰まで伸びるうねった美しい黒髪。確かに頭は柄物の布で巻いていて、耳は隠していたがどう見てもあの弱々しい老婆とは思えなかった。
「婆、婆ぁってしつこいね。警戒されない為に老婆の格好は都合が良いんだ」
低めの彼女の声音ですら妙な色気を感じさせた。
「その姿が、あなたの本来の姿ですか…?」
オーギュも半ば動揺しながら問う。
彼女はふんと目を細め、「どうだかね」と軽く口元に笑みを漏らした。
「そこの召喚獣に婆呼びされるのも嫌だから名乗ってやろう。私はイベリス。イベリス=センヴィール。尖耳族の魔導具職人だ」
「…っはぁああ?あの婆があんただったの?擬態してたって訳?」
何弱いふりしてるのさ、とスティレンは減らず口を叩いた。
イベリスは「口の聞き方を知らないガキだね」と彼の顎をがっつりと掴み上げると、指先に力を込めた。
「いっ…!!」
彼女のほっそりした指が、スティレンの顎にギチギチと食い込んだ。
口元がぐにょりと歪まされ、止めろと怒鳴る。自らの美しさを自画自賛する彼にとって、他者から体を歪められるのは耐え難い屈辱だ。
「少なくとも」
彼女はスティレンを掴みながら冷静に言う。
「お前達より相当長く生きている。舐め腐った態度と、口の聞き方には注意しな」
そう言い放つとスティレンを解放した。彼はその場でがくんと膝を突き、そのまま座り込む。
「いった…糞婆…」
それでも変わらない様子のスティレンは、頭上の美女を睨み上げていた。
「申し訳ありません」
オーギュはスティレンの無礼を詫びると、仏頂面で座り込んでいた彼を立たせる。
「まだ年若く最低限の礼儀作法を学んでいる最中です。後程指導します。…スティレン、ご無礼を謝罪なさい」
何故自分が謝らなければならぬのかと言いたげだったが、アストレーゼンの司聖補佐であるオーギュに言われては、もう折れるしか無い。
渋々頭を下げながら、すみませんでしたと口にした。
「…ふん、まあいい。私もこいつを無断で操作してこの店に引っ張り込んだようなものだからね。怒るのも無理は無い」
「何故私達を?」
その問いかけに、彼女はリシェの方に目を向ける。
「こいつの頼みを聞いてやろうと思ってな」
「それはいいんだけど、俺は杖を持って来て無いんだよ」
リシェは両手を広げて手ぶらだと言いたげにアピールした。
現物も無いのに、どうやって魔力を詰めたら良いのか。
「魔石に魔力を詰める役目は、別に私じゃなくてもいいだろう?」
「え?」
きょとんとするリシェ。
『婆…いや、イベリス。空の魔石に魔力を詰めるのは相当力加減が必要なのだろう?』
依然としてファブロスは扉から顔を出したままだった。
「ファブロス。いい加減、中に入ったらどうですか?」
流石に窮屈な姿勢だろう。主人に指摘され、ファブロスはバツが悪そうに扉を開けて狭い内部へ足を踏み入れた。
『私には狭い』
「ヴェスカが一緒じゃなくて良かったですね。余計狭くなりそうですから」
イベリスは改めて自分の店に閉じ込めていた召喚獣を上から下からとじろじろ眺めると、「ふむ」と何かを納得するように呟いた。
「人化するとこうなるのか。申し分無い体付きだな」
『見るな』
「偏屈で好き嫌いの激しい面倒な獣が随分と丸くなったものだ。余程その魔導師が良かったか、ん?」
裏がありそうな発言を受け、思わずオーギュは「は!?」と叫んでいた。
「ど、どういう意味ですか!」
何故動揺するのか、近くに居たリシェとスティレンはぽかんとする。冷静な彼が慌てる姿は珍しくもあった。
ファブロスは『ああ』と得意げに返す。
『申し分無い主人だ。最高の相性を持つ者にようやく会えたのだ。感謝してやる』
そんなやり取りを聞いていると、スティレンがリシェに近付き気付かれない所で「ちょっと」と小突く。
「あいつがオーギュ様の事を話し出すと止まらなくなるから止めてよ」
「え?」
意味が分からず、リシェはスティレンに何でだと問う。
「散々聞かされたからもういいよ。相当惚れてるんだろうけどさあ、しつこいレベルでオーギュ様を褒めまくるから鬱陶しいんだ」
「は…?」
自分だって自画自賛するくせに、他人の惚気は嫌なのか。
リシェは思わず顔を顰める。その間、ファブロスは得意気にオーギュの自慢を始めていた。
『…確かに魔導師としての能力は並レベルだろうが、オーギュは自分を高める為の努力を怠ったりはしない。その辺に居るような熟練した魔導師より段違いの力を得ているのだ。これは自分に対して厳しく妥協をしない性格のせいだ。私はそれを含めて評価して最高の主人だと思っている。そして』
やけにべらべらとオーギュについて語るファブロス。
リシェはぽかーんと口を開けて彼の演説を眺め、その後でスティレンを見上げる。
彼は「ね」と一言告げた。
「オーギュ様について語ると延々これだよ」
「はぁ…」
なかなか話が終わりそうに無い状態に、流石のオーギュも「やめなさい、もういいでしょう」と彼を止めに入る。
彼の個人的評価は有難いが、ここまでくるとまるで自分がそう言えと命じているみたいだ。それ程自分を高く買っているのは良く分かったが、何事にも限度がある。
イベリスはオーギュとファブロスを交互に見遣ると、ふぅん…と何か意味深に唸った。
「随分饒舌に話すものだ。相当惚れ込んだのだろうな」
『今頃悔やんでも遅い』
「悔やむもんかね。お前のような堅物、こっちからお断りさ。…惚気を聞いてやる程私は暇じゃないんでね。とりあえず用件だけ済ませようか」
まだ言い足りなさそうなファブロスの言葉を遮るようにして、彼女はリシェの方へ目を向けた。彼はぴくりと身を反応させる。
細くしなやかなイベリスの指が、多数の魔導具が並べられている棚へと伸びる。模様が彫られた引き出しの一部を引いた後、中から一つの丸く透明な石を取り出した。
大きさはビー玉位だろうか。
ぱっと見れば、ただのガラス玉にも見える。
「何その玉」
つまらなそうにスティレンは首を傾げた。
「まだ魔力の入ってない空石のミニチュアさ。杖を作る時に必要になる物だが、これはまだ何の魔力も込められていない。杖に付けるのはこれよりも何倍も大きいが、これは試し入れする為に作られた物だね」
「ふうん…んで、それをどうするっての?」
イベリスはその小さな玉を手にしたまま、ちらりとオーギュの方に目を向けた。お互い目線が絡んだ時、彼女は口を開く。
「こいつの中に魔力を込めてみな」
「え?」
ぽいっと放られた玉をキャッチすると、オーギュはあまりの小ささに「これにですか?」と疑問を呈した。魔法を詰め込むにはあまりにも小さ過ぎる。
どうせならもう少し大きな玉でもいいのではないだろうか。
イベリスはオーギュが言いたそうな言葉を察したのか、口元に妖艶な笑みを浮かべながら「小さいからいいのさ」と言った。
「どういう事です?」
「通常の石に魔力を詰めるのは難しいぞ。試しにこの石に魔力を込めてみろ。代えはいくらでもあるから壊れる事は気にする必要は無い」
確かに一点に魔力を集中させるのは難しい。魔法とは自分の魔力と、周辺に存在する精霊の力を織り混ぜて放つものなのでお互いのバランスも必要なのだ。
熟練された魔導師でも、決められた一つの場所に小さく纏めさせるのは困難の業だった。それもビー玉のように極小な石に詰め込むなどとは。
オーギュは言われるままに魔法を指先に集中させ、空の魔石に魔法を詰め込もうとした。しかし集中させる以前に放った魔力の力が強過ぎた為か、パリンと砕けてしまう。
「あっ」
粉砕され、周囲に飛び散っていく。
イベリスは「だろうな」と軽く笑った。
「最初から強く当てようとするな。容量ってものがある」
「この石の容量ってそんなに大きくはないでしょう?」
「杖に当てるものよりは小さいが、悪くは無いぞ。武器に使う為の石だからな。詰め込んだ魔力を使って自分の魔法を底上げするんだから当然だろう」
ううん、とオーギュは唸った。
『お前は魔法となれば派手に打ち上げたいタイプだからな。逆に小さく縮めろと言われるのは難しいのではないか』
確かにそうだった。
強く勢いのある魔法に憧れる余り、オーギュはいかに大きく魔法の力を打ち上げられるかを追求しているのだ。
それなのに魔力を凝縮して小さな入れ物に入れろとなると、加減が難しくなってくる。
イベリスは先程と同じ玉を再びオーギュに手渡すと、本人の思惑を読んでいるかのように言った。
「魔力の強弱を操作出来てこそ本当の魔導師とも言えるのだ。何でもデカくしたいと思うのは背伸びしたい子供と同レベル。お前はもう少し魔導師としての基本を考え直した方がいい。威嚇して戦意喪失させるには勢いのあるものも効果的だが、いかに濃い魔力を込めるかで状況が変わっていく」
今まで魔法に関しては突き入った事を言われた事が無かったオーギュは、イベリスの言葉を受けて言葉を詰まらせてしまう。
緊急事態の戦闘の際は緩急を付けて魔法を放つ事はあったものの、逆に制御する事は滅多に無い。しかし魔法で作られた炎や氷柱を操作する事は容易だ。既に具現化されたものに関しては、力の強弱をつける事は出来る。
目標に対し、魔法を放出しながらブレーキをかけていくだけなのだから。
しかし小さな魔法の石に向けて魔力を突っ込むというのは今まで経験が無い。杖の製作側に立たないので、魔石に魔力を入れるというのをした事が無いのだ。
触媒とする魔石に魔力を込めるのは魔導具職人でなければ極めて難しい。自分は純粋な魔導師で、石に魔法を詰められる程制御は効かない。
「……っ!」
少しずつ魔力を込めてみるが、やはりパリンと粉砕してしまう。
「力み過ぎだ」
イベリスは代えの石がすぐ取り出せる位置で椅子を引っ張り出し腰掛けた。脚を組んで座る為にスラっとした足がスリット部分から覗かせてくる。
「そう言いますが、少しずつ入れてはいるんですよ」
オーギュが苦戦しているその間、暇を持て余しているリシェとスティレンは店にある品物を手に取って眺めていた。
ファブロスは主人の成功を固唾を飲んで祈っている。
『何事も練習あるのみだ。お前はそれを身をもって知っているだろう』
努力して高魔力を身に付けた主人を、ファブロスは存分に理解していた。
「…やり遂げてみせますよ」
こうなれば意地でも成功をさせてやる。
オーギュは新しく与えられた玉を前にして強気に呟いた。
「ロシュ様。お仕事があるのでは無いですか」
折角休憩していた矢先、アストレーゼンで久し振りに顔を合わせた実家のメイドを再会してしまったロシュは、彼女によって半ば強引に司聖の塔へ押し込まれる形で引き戻されていた。
生真面目で妥協を決して許さない性質を持つ彼女は、実家のラウド家の中でもとにかくとっつきにくいという噂の持ち主。
何故ここで滅多に寄り付かない大聖堂に足を伸ばしてきたのかと問えば、自分に届け物があった為だと言う。
「休憩していたんですよ。ここの所ずっと缶詰状態だったんですから…オーギュにも一時の休暇を与えたばかりだったのです。疲れも溜まってたようですから…」
オーギュと似たような性質だが、彼女は違う意味で更に面倒なタイプだった。まだ二十代中頃位の年齢のはずだが、オーギュの性格を煮詰めて固め、融通の利かなさを配合したタイプ。
長い髪を後ろに纏め、遅れ毛が出ないようにかっちりと引っ詰め、黒縁の眼鏡で更に威圧感を与えてくる。美しい顔をしているのに、誰も寄り付かせないような雰囲気を醸し出していた。
着飾れば相当光る素質があるにも関わらず地味さを好み、とにかく間違った事を決して受け付けないと言わんばかりの様相。
「十分に休憩は取ったのではないですか?」
「足りませんよ…というか、私に何か渡す物があったのでしょう?セルシェッタ」
「ええ」
彼女は手にしていた大きな箱をロシュに改めて手渡した。
家紋入りの薄いピンク色の布製の包みを受け取ると、「母様からですね」と呟く。
「中身は…流石にご存知無いでしょうね」
「はい。分かりません」
流石に中身は何ですかと主人に問うものでもあるまい。
当然の返事に、ロシュは受け取った包みを自分の使っている机まで持って行った。
「あなたがここに来てくれるのも珍しいですね…あっ、どうぞソファにお掛けになって下さい。ええっと、お茶は何がお好きですか?色々ありますので言って下さればご用意出来ますよ」
ロシュの元には様々な贈り物が入ってくる。
その量は時期によって膨大だったりするので、自分だけでは捌けない食料等は階下の厨房へ届けていた。食料以外の贈答品は他に役立てる事が出来る場所に度々渡すものの、自分達で使いたいと思った僅かばかりの物は手元に保管していた。
「どうぞお気遣い無く。戻らなければいけませんので」
堅いセルシェッタは無表情のまま、部屋の入口の前で言った。ロシュは困った様子で「少し位休んでも罰は当たりませんよ」と苦笑する。
実家でも頑なにその態度をし続けるので、気が休まらないのではないかと心配になってしまう。
「仕事ですので」
「あなたは仕事が終わってもそのような感じなのですか?」
「いえ、普通です」
彼女の言う普通の基準が良く分からない。
とりあえず折角来てくれたので、気持ちが休まるようなお茶を準備してあげよう…と荷物を置いてお茶の準備に取り掛かった。
その前に、今だに入口で突っ立っている彼女の腕を取り「さあさあ」と室内へと誘う。
「座って下さい。日頃のお仕事でお疲れでしょう」
「いえ、そういう訳には」
「大丈夫ですよ。この部屋はしばらく誰も来ませんし。来たとしてもリシェ位ですが、あの子は今城下街でお買い物中ですから。それに、母様からの贈り物はきっと美味しいお菓子でしょう。一緒に食べようじゃありませんか」
「リシェ…あぁ、なるほど」
噂で耳にした程度の名前に、セルシェッタは一瞬顔を顰めたが、司聖のお付きの護衛剣士の名前だと思い出したらしい。
「いずれはリシェを連れて紹介したいと思っていたんですが、なかなか行ける機会が無いので…あなたが来て下さると分かっていれば、あの子を引き止めて紹介出来たのですけど…あなたは昔から家に仕えて下さる家族のようなものですから」
「いいえ、どうかお気遣い無く」
半ば強引にソファに座らされた形になっている彼女は、ロシュの言葉に少しばかり気持ちが揺らいでいた。
自分はあくまでロシュの家で仕事をしているたけの立場なので、家族だという意識はまるで無い。代々同じ主人に仕えているというだけで、深入りした関係だとは思ってもいなかった。
同じように彼の家系を支えていた親からも、亡くなる寸前まで自分の身の程を弁えるようにと言われていただけの話。
彼らを支える為に、自分達は数歩引いた場所から守るという役割を担っているのだ。
それなのに脳天気に家族とのたまうのだから、ずっとそんな覚悟で生きてきたセルシェッタにしては、彼は非常に呑気な人だと思ってしまう。
「ええっと、ちょっと待ってて下さいね…疲れが取れる効果がある紅茶を探しますから」
ロシュは室内の棚から様々な紅茶の入った缶をあちこち引っ張り出し始める。缶の裏側と睨めっこしながら、彼はどういった効果があるのかを確認していた。
いつもはリシェが自分を気遣って煎れてくれるので自らお茶を飲む回数が減っていた。改めて自分で淹れるとなれば、記憶の奥底に沈んでしまったのを引っ張り出してくるしかない。
今まで彼に甘えていたツケが回ってきたのだった。
「ええっと…これ、かなっ?あぁ。これだこれだ」
一人でぶつぶつ言いながらようやく目当ての物を取り出すと、待っていたセルシェッタに向けて「少々お待ちくださいね」と微笑む。
その笑顔はラウド家の奥方にそっくりだ。
「奥様にそっくりですね」
「んっふふ、昔から良く言われますよ」
ほら、男子は母親に似たりするって言うでしょうと言いながら、湯の用意を始めた。
「それにしても、珍しいですね。母様があなたを遣いに寄越すなんて」
「はい」
「いつもならあなたが来るなんて事は無いでしょう」
「奥様に言われたのです。そろそろ身を固めた方がいいのでは無いかと」
「はぁ」
随分と話が飛躍したなと思った。ロシュは準備をしながら彼女の話に耳を傾ける。
「私は異性に興味がありません。かと言って同性にも興味はありません。何故なのか自分でも分からないのですが、全く好きな相手が湧いて来ないのです」
「ほう」
「奥様に言われて、何故誰にも興味が湧かないのかと思って記憶を突き詰めてみたのですが、昔から美しい物をラウド家で見てきた為にこれ以上のものは無いのだと自分で察したのかもしれません」
「へ?」
何を言っているのだろうか、とロシュは思った。
あの家には美術品系統の物や、貴重な装飾品はあちこちに置かれていたがそこまで心酔するような物は無い気がする。
自分にとっては単なる風景の一部なのだが、セルシェッタには違って見えたのだろうか。
「何か気にかかる人でも?」
「気にかかるというか何と言うか。私は小さい時からロシュ様を見てきたので、これ以上の理想の人物は居ないのだろうと思うのです」
「………はい?」
そこから更に意味の分からない話になってきた。
いくら何でも飛び過ぎでは無いだろうか。徐々に混乱してくるロシュの思考とは裏腹に、セルシェッタは続ける。
「ああ、そういう変な意味ではありません。先程申し上げたように、他の方に興味が持てないので」
「は、はあ」
「結果、私は理想が高過ぎて見つけられないのだと思います。今日ロシュ様とお会いして確信出来ました」
「…???」
やはり彼女が言いたい事が理解出来ない。一方でセルシェッタは自分に納得したのか、「これで奥様に報告が出来ます」と続ける。
「報告?」
「ええ。しばらく身を固めるつもりは無いと。あなた以上の人が見つかれば考えます」
「わ、私!?」
それはまさか自分に好意を持っているという事になるのでは無いか、と一瞬自惚れの気持ちが湧いてしまう。
「あ、あああの?私はその」
つい動揺するロシュ。逆に冷静過ぎる彼女は、湯が沸きましたとソファから立ちあがろうとした。
「ああ、そのままで…はぁ、もうやめて下さいよ。びっくりするじゃないですか…」
セルシェッタを制し、ロシュは沸かしていた湯を止めた。余分に沸かしてある湯の一部を使い、カップを温めながら消耗したように何故私なんですかと嘆くように言う。
「あくまであなたは理想です。なので好意を寄せている訳ではありません。私はあなたの外見が気に入っているのだろうと思います。なのでそこまで深く考えないようにして下さい」
要は直接顔を合わせてみて、自分の気持ちが揺らぐかどうかを確認したかったのかもしれない。いずれにせよ、ロシュは複雑な心境に陥ってしまう。
しかも外見だけ気に入っているとは。
「ま…まぁ、自分の姿は変えようもありませんし与えられたものですからね…」
丁寧に紅茶を入れた後、甘くさっぱりとした林檎の香りを漂わせてソファに座っているセルシェッタの前に置く。
「どうぞ」
「有難うございます」
利用している茶器も華やかなデザインで、草花の絵に合わせ立体的な凹凸感を施し、更に金色の縁が入った高級品。主に来客用に使う物だ。
自分の分のお茶も用意した後、先程送られた荷を解く。
「さて…中身は何でしょうかね」
ようやく中を確認しようとすると、不意にその手が止まった。
「ありゃ」
「?」
「これはこれは」
真っ白な法衣の手が箱から引っ張り出した物。
赤い缶に入った紅茶缶だった。しかも林檎の絵。今飲もうとしていた紅茶と同じような種類の物だとは。
他も、葡萄やオレンジといったフルーツティーの缶が入っている。想像していたお菓子の詰め合わせでは無かった。
ロシュは苦笑し、「お茶でした」とセルシェッタに言う。
彼女はそれまで無表情だった顔をほんの少し緩ませ、「そうですか」と返す。
「お茶は嬉しいですがこれでは口寂しいですね。…ちょっと待ってて下さいね、今からすぐ真下の厨房に行ってお茶菓子を持って来ましょう」
「え」
「大丈夫です、すぐ戻りますから」
慌ただしい様子でロシュは部屋の扉を開いた。
「では、行って来ます。あなたはゆっくりお茶を飲んで待ってて下さい」
「あ…は、はい」
階下にすぐ厨房があるのは便利だと思うと同時に、そこまで気を使わなくてもいいのにとセルシェッタは内心困惑していた。
まさか持たせた贈り物が同じような紅茶だったとは。
彼女はロシュが淹れてくれた紅茶を口にすると、その温かいお茶が全身に染み渡るのを感じながら一息吐いていた。
空っぽの小さな魔石に魔力を込める練習を何十回と繰り返しながら、オーギュは「要領は何となく掴めてきましたが」と口にする。
同じ行動をひたすら繰り返すのを眺めるのにも飽きてきたイベリスは、その辺に無造作に置かれていた椅子に腰掛けてふぁああ、とあくびを見せる。
「石が小さ過ぎます。うっかりするとすぐに割れてしまう」
「それを調整するのがお前の仕事だろう。魔導師ならな」
そりゃそうですけど、と眉を寄せる。
少しずつ注入して、石がその負荷に慣れた頃に徐々に魔力を強めていくという地味な作業だが、何度繰り返しても注入した石の内部で暴走し破裂してしまう。
『それならお前が手本を見せたらどうだ、婆』
苦戦する主人を思い遣る姿勢のファブロスはイベリスに言った。彼女は姿を変化させても老婆扱いをしてくる相手をぎろりと睨んだ。
「婆は余計だ。…ふん、仕方あるまい。参考に出来るならするといいさ」
ストック分に寄せてある小さな透明な魔石を引っ張り出すと、オーギュに見てみなと一言告げた。
指先に乗せた石をふわりと浮かせ、彼女は魔法を発動させる。指先から出現した魔力は、光の粒子となって魔石へと入り込んでいく。
それは自分が魔力を入れている時とほぼ同じ。一体何が違っているのかと固唾を飲みながらオーギュは見届けた。
やがて石は彼女の魔法の力を受け入れるかのようにゆっくりと吸収を始めたかと思うと、急激に意識を持ったかのように粒子の波を吸い込む。
「!!」
オーギュはその瞬間を目の当たりにし、思わず息を飲んでしまった。まるで渇き切った体内に水を吸収するかの如く、自ら欲するがままに入っていったのだ。
魔石は光の粒子を一気に吸い上げたかと思うと、見事な金色に彩られた玉に変色した。
「ほれ」
注入を済ませた魔石をオーギュに放る。
「…石が魔力を吸い込んだ…?」
最初は流れ込む魔力の粒子が、ある瞬間を経て一気に吸い上げていくように見えた。自分が魔力を入れた時とは全く違う光景を目の当たりにしたのだ。
…彼女との差がはっきり分かった。
「大分ヒントを与えたと思うぞ?」
魔力を得た魔石は妖しげな輝きを放っている。
「石が自ら魔力を吸い出すまで我慢しろ。そうすりゃ簡単に出来るはずさ」
「………」
要領は掴めてきた。あとは彼女の言うように、石が自分の魔力を受け入れるのを待てという訳だ。石を手にしたまま、オーギュは「分かりました」と言う。
「へぇえ、こうなるんだぁ」
オーギュの手元に置かれた小さな魔石を覗き込むスティレン。
「魔法ってどんな感じなのかって思ったけど、不思議なもんだね」
魔法に関しては全く無知な彼は、イベリスの魔法を目の当たりにしたせいか少しばかり気になった模様だ。それを見た彼女は、スティレンに対して興味ありそうだなと口元に笑みを浮かべる。
「使ってみたいのか?」
「…え?」
「使ってみたいなら魔力を引き出してやってもいいぞ。ただ、お前に使いこなせるかどうかは知らんがな」
スティレンはちらりと隣に居るリシェに目を向けた。
彼の持つ深みのある紅の瞳とぶつかり合う。リシェは元の目の色は黒かった。魔力を持つようになってから、紅くなってしまったという。
…自分もその色になるのだろうか。
「俺も魔法が使えたらこいつみたいに目の色が変わる訳?」
イベリスは体質によるだろうな、と答えた。
「完全に目の色が変わるのも居れば、逆に全く変わらないタイプも居る。身体に影響が無いのは珍しいがな。何だ、気にするのか?」
「そりゃ…」
容姿に自信がある為に人より相当身なりを気にするスティレンは、外見が変化してしまう可能性があるリスクを考えてしまうようだ。
「その外見の通り女々しい奴だな。まあ、お試しに少し魔力を受け入れられるか診断してもいいぞ。お前の体が完全に魔力を受けつけられたらそこまで影響は出ないだろうさ。息苦しさや何らかの痛みが出たなら、魔力を引き出した段階で体のどこかに影響が出るだろうね」
地味に怖い事を言いだす彼女に、スティレンはえぇ…と嫌そうな表情を見せた。
「俺、痛いのも苦しいのも嫌なんだけど?」
この期に及んで我儘を言いだす。
「ちょっとリシェ。お前はどうだったのさ」
話を振られ、リシェはオーギュに目を向ける。彼から与えられた際、何も分からずに注入されたのだがその方法は口から言えないものだった。
思い出してしまい、顔をぽうっと赤らめる。
「俺は、熱が出た位だ。熱が下がったら目が赤になってた」
「その位なら別にいいんだけどさ…」
「試しに受けつけられるかどうかやってみたらいいじゃないか。ヴェスカはお試しでやったら悶え苦しんでたから、魔力の適正は無いらしい」
「適正が無いと悶え苦しむ訳!?」
嫌な事はとにかく回避したい彼は、リシェの話に引き気味になっていた。
「そこまでいける人は滅多に居ないので安心しなさい、スティレン。ヴェスカは魔力が逆に逃げ出す位適正が無いだけです。そもそもイベリスさんがあなたを使って引っ張ったのだって、根底にある魔力を引き出したからでしょうし」
魔力が逃げ出してしまう程適正が無いというのも珍しい。
及び腰になりそうなスティレンに対し、イベリスは痺れを切らしたのか指をくいっと上に向けて掻くように動かした。
その瞬間、彼の細身の体は彼女に向けて引っ張られていく。
「うわっ!!な、何!?」
「グダグダと面倒な奴だ。ほんのちょっと試す程度で喚き散らすのかい」
スティレンはイベリスの腕に収まるようにして捕らえられてしまう。まるで年上の女に弄ばれているような格好。
背中に凄まじい弾力性を感じて身悶えし、彼は「ちょっと…!!」と顔を真っ赤にしてイベリスに怒鳴った。ふわりと漂うお香の匂いと柔らかな感触に驚き、必死に逃れようと蠢く。
それを見ていたファブロスは『何だ』とスティレンの反応を見て楽しむかのように呟く。
『随分と照れ臭そうにしているな。女慣れしていないのか』
いきなり触れた女に対して、必死に拒否の姿勢を貫こうとしている様子が妙に滑稽に見えたらしい。
若いせいもあるのだろう。自分には無いものに触れるのは当然驚く。
しかしスティレンは「そんな訳ないじゃない!!」と顔を真っ赤にしたまま怒鳴った。
「うるさいな」
狭い小屋の中で喚かれ、リシェはうんざりしながら呟く。
「いきなり引っ張られたら誰だって動揺するでしょ!誰が女慣れしてないって!?」
怒る場所はそこなのか、と従兄弟の話を聞きながらリシェは思った。イベリスの腕の中で暴れるスティレンを黙って見ながらちっとも大人しくしないなと呆れる。
『…とりあえず魔力を入れてみたらどうだ?』
やかましいから早く済ませてしまえと言わんばかりにファブロスは投げやりに言った。
目の前で喚く人間の少年に次第にうんざりしてきたのだろう。イベリスはそうだねと言うと、ひたすら身動きを繰り返すスティレンを左腕でしっかり支えながら彼の右のこめかみ部分にそっと指先を当てて微弱な魔力を流し込んだ。
「え!え、何、ちょっと俺まだ何もいいって言ってないでしょ!何か一言言え!!」
変わらず元気に喚き散らすスティレンを無言で見つめるリシェ。オーギュは冷静なリシェに随分冷静ですねと不思議そうな面持ちで問う。
「いえ…そういえば病気予防の注射ですら嫌がってたなって…」
「………」
これは決して注射では無い。
「あなたはどうだったのですか、リシェ?」
魔石に魔力を込める練習をしながらオーギュはリシェに問う。比較的冷静な彼の事だから、難なくこなせたとは思うが。
しかしリシェはオーギュを見上げ、「いえ」と返す。
「俺は無関係でしたから…遠くで嫌がって逃げ回るスティレンの悲鳴を聞いていただけですし…」
「…なるほどね…」
向こうでは大切にされていた彼と、ある意味放置された環境に置かれているリシェとは待遇が違ったようだ。
こういう時に忍耐強さの違いが出てくるとは思ってもいなかっただろう。
「…いったぁああい!!頭痛ぁあああ!!」
微弱な魔力を受け、全身に染み渡ってきたのかスティレンは頭を抱えて悶絶しだした。
リシェはオーギュを見上げたままの姿勢で「ダメみたいですね」と冷静に結果を告げた。
「いや、魔力を受けた瞬間は体も多少拒否反応を起こすのですよ。ちょっと様子を見てみましょう」
「はぁ」
目の前で喧しく騒ぎ立てるスティレンに、イベリスはその身をしっかり抱えたまま「軟弱者だね!」と叱咤する。
「魔法を使ってみたそうにしてるから協力してやってるっていうのに!お前みたいなのは初めて見たよ、少しは我慢するっていう事を覚えな!!」
他人に怒られているスティレンを初めて見たリシェは、その新鮮な光景に思わず「はは」と笑ってしまう。
何故か面白かったらしい。
「笑ってんじゃないよリシェ!!」
「いや…何だか面白くて。悪気は無いんだけど」
「ふざけないでよ!あぁ…っ!!痛ったぁあああ!!」
必死に頭を抱えながら叫ぶスティレンは、どうにかなんないの!?と背後のイベリスに問う。個人差があるのは分かっていたが、ここまで酷く痛みが伴うのだろうか。
「どれだけ痛いかちょっと体感させな」
呆れた様子のイベリスはスティレンの額に手を当てると、しばらく沈黙する。
『これで大した痛みでは無いならどうしようもないな』
彼ならあり得そうなだけに、身内であるリシェも閉口する。
しばらく間を置いた後、はぁ…とイベリスは溜息を吐く。そしてそのままスティレンの額をばしっと叩いた。
「痛っ!!」
打たれ、顔をしかめる美少年。
「何すんのさ!!」
「大した痛みじゃないじゃないか!!大袈裟に騒ぎ過ぎだ、軟弱者!!」
「仕方無いでしょ!?俺みたいに育ちが良過ぎる人間は痛みに弱いんだよ!」
大した痛みでは無いと断言され、軟弱者扱いされても自分は特別だから仕方無いと言い出す始末。
ファブロスは呆れ、どうしようもない奴だと本音を放った。
『育ちが良くてもオーギュは耐えたというのに』
「何でもオーギュ様を引き合いに出さないでよ!」
この合間でも、欠かさず魔力を石に込める練習をしていたオーギュは「あっ」と目元を少し緩ませた。
「出来ました」
ようやく感覚を掴めたらしく、ぱあっと表情を明るくする。
『ほう』
努力家の主人の成果に、ファブロスも感心の声を上げた。そしてその後で『ほら』とスティレンに言う。
『私のオーギュは困難な事でも何度も我慢して練習を怠らないのだ』
「さっきから似たような事ばっか言わないでよ!あんたそれしか言えない訳!?」
うるさいな、とリシェはうんざりしてきた。
「…で、結局お前はどうするんだ?魔法が使えるようにして貰うのか?」
ようやくイベリスから開放されたスティレンはふらつく足に力を込めて立ち上がり、どうするも何も…と眉を寄せる。
「痛いの嫌だし」
「体に浸透させるにはそれは避けられないんだろう」
ある種の刺激を詰め込むのだから、体に浸透させるには負担も時間も掛かる。
大騒ぎする彼には向かないのかもしれない。
やや時間を置いてからイベリスは口を開いた。
「まだ悩むのか?はっきり言うとお前みたいに貧弱な奴には向かないね。例え魔法を使って火を起こせば当たり前のように熱がるだろうし、氷を出せば寒いと喚くだろう。他の魔法でも同じ事だ。やるだけ無駄だろうな」
それは非常にあり得そうだ。むしろその可能性が高い。
ボロクソに言われたスティレンはムッとしたままで「じゃあどうすりゃいいっていうのさ?」とイベリスに問う。
「一応魔法の才能みたいなものはあるんでしょ…」
「才能なんて高尚なもん、お前にはあるはずないだろうが。生まれながら飛び抜けた能力がある人間なんざ何億に一人か二人居るかどうかだ。極めたいなら地道に練習していくしかないね。我儘で耐久力も無いようなお前には無理だ」
ここまで突っ込んだ事を言われ、少しは凹んでいるのだろうとリシェはスティレンをちらりと見上げる。いままで散々甘やかされて生きてきた者だ。
ここぞとばかりにこてんぱんに言われ続けては少しは心に響くのではないだろうか…と。
だがリシェの心配を余所に、彼はいつもの尊大な態度を全く崩さないままで「じゃあ」と言い出す。
「俺が楽に魔法を出せるようにしてよ」
一向に態度の変化が見られない様子に、思わずリシェは口走っていた。完全に呆れを通り越してしまう。
こいつに合わせては時間の無駄だと思った。
「…馬鹿なのかお前は!!」
そんなに簡単に出せたら苦労しない。自分だって練習を重ねてどうにか小さな魔法を出せるようになったというのに。
「いつまでもお前の我儘に全員が付き合ってられると思うな!自分の思い通りに融通が利くのはシャンクレイスの屋敷の中だけだ!甘ったれるな、いい加減にしろ!!嫌ならさっさと荷物を纏めて帰れ!!」
持ち前の可愛らしい顔からは想像もつかないような真っ当な正論が放たれる。
普段寡黙な性質で、滅多に怒る事も無い彼の剣幕にオーギュは勿論ファブロスも驚いた。そしてスティレンも、今まで自分に反抗する事も無かった相手を驚愕の目で見下ろす。
自分が今まで知っていた彼は、非常に大人しく自分らの圧力に怯えて過ごしていた小さな存在だったのだから。
「あぁ、うるさいね」
張り詰めそうな空気を割るようにイベリスは言った。
「喧嘩なら他でやってくれ。何なら場所でも提供してやろうか?今はそこの魔導師の魔力詰めの練習をしているんだからね」
人様の敷地内で大声を出してしまい、リシェは思わずぐっと言葉を詰まらせた。恥ずかしい事をしてしまった、と。
その隣で、反抗してきたリシェに対し若干の苛立ちを覚えるスティレンは軽く舌打ちする。
「どうにも、お前らには変な隔たりがあるようだね」
「?」
彼女の言葉に、リシェはぴくりと反応した。
「面倒だからお互い殴り合ったらどうだい?そのままクサクサして帰るのも嫌だろうからねぇ。その間、こっちも練習に身が入っていくだろうよ」
「は!?」
何を言い出すのか、とスティレンが顔を上げたその時。
イベリスは左手を軽く上げ、魔法の玉を作り上げた。発光するその玉は次第に大きくなり、最終的にはバスケットボールの大きさまで広がっていく。
「え、ちょっと…!!待っ…」
その玉に向かって引き摺られるような形で、スティレンは引っ張られていく。うわぁあああ!!と叫び声を残し、彼はその玉の中に吸収されていった。
リシェも同じようにその中に引っ張られようとしている。
「お、俺も…!?」
彼女と目を合わせ、リシェは困惑したまま問う。
まるでこちらの心の奥の底を見透かすかのように、イベリスは続けた。魅惑的で妖しげな瞳はリシェを真っ直ぐに貫く。
「むしろお前の方が奴に対してわだかまりがあるんじゃないのか、え?」
「………」
その瞬間、彼の体は作られた玉の中へと吸収されていった。
二人の少年らが居なくなり、一気に小屋の中が静まる。オーギュは困難しながらイベリスに「あの子達は…?」と聞いた。
魔法の玉を指先で転がした後、棚を物色して燭台に良く似た台座を引っ張り出す。無造作に玉を台に置き、オーギュに向き直った。
「ガキ共には存分に喧嘩出来る空間を与えてやっただけさ。喧しいと集中も出来ないだろう?」
ファブロスは彼女が作り出した魔法の玉を覗き込む。水晶玉のようにも見えるその球体の奥では、真っ白な空間の中で戸惑う二人の姿が映し出されていた。
軽く唸り、顔を上げる。
勢いを堰き止められた二人は、また新たに喧嘩などするだろうか。
『あの性格のスティレンはともかく、比較的大人しいリシェが喧嘩をすると思うか?』
古びた椅子にどかりと腰掛けるイベリスはファブロスの言葉に「さぁね」と興味なさげに返した。
「…イベリスさん。あなた、リシェの何かを覗いたのですか?」
リシェに対し、意味深な発言をした彼女にオーギュは疑問を投げつける。まるで本人の過去を覗き見たような言い方が引っ掛かったのだ。
椅子を軋ませながらフンと鼻を鳴らすと、彼女は口角を上げてオーギュを見上げる。
「尖耳族は無駄に長く生きて魔力を蓄えるからね。目を見るだけで軽く相手の深層意識を感じ取る時があるのさ。多感な年齢だと意識の主張が激しいから余計にね」
「………」
特殊な種族が持つ能力で、意識の底を探れるらしい。
オーギュは思わず息を飲み込む。
ファブロスは憮然とした面持ちで嫌な能力だなと呟いた。そうなれば、自分らが秘密にしている事も彼らに知られてしまうかもしれないではないかと。
「…文句言いたげだが、こっちも別に知りたくない。言えば嫌がられるだろうからね。大体は自分の中で隠す。今回だけさ、黒い髪のガキが抱え込んでいるものを突いてやったのは」
「リシェが?」
「相当抑圧されてきたんだろうよ。だからしきりに背伸びしていい子になりたがる。他人に認めて欲しいが為に優等生に甘んじているのさ。…喧しいガキ共はこっちに放り出してやったんだ。お前は更に石にかける魔力を強める練習をしな」
彼女が指摘するように、確かにリシェは年相応の雰囲気では無い。どちらかと言うと同じ年齢層と比較していても大人びていて、落ち着いている印象。
ロシュの護衛の騎士となる以前は分からないが、スティレンと比べても若いなりの甘さと我儘さが一切無い。
「逆にあの喧しい方は相当恵まれて甘やかされてきたんだろうよ。感じなくとも、会話や仕草で嫌な程分かる。似通った雰囲気でもお互い真逆の生活を送ってきたんだろう?」
『あれだけ自分勝手に我を張れる位だ。苦労など知るはずも無い』
ふ、と過去に飼い殺していたファブロスの発言に対してイベリスは笑みを漏らす。
「こいつらはしばらく放置してもいい。まずは魔導師、お前の調整だ」
彼女はそう断言し、煙草の細いパイプに火を点け煙を燻らせた。
まっさらな空間に投げ出された二人は、まるで打ち捨てらたかのように正面から突っ伏していた。
リシェは呻きながら顔を上げて周りを確認する。
「痛っ…もう、何で俺が」
愚痴を言いながらスティレンも体を起こし、周囲を見回す。
「ええ…何ここ…」
先程まで様々な魔導具ばかりの狭い小屋の中では無く、ただ真っ白な空間。リシェもきょろきょろと周りを見回した。
高い魔力が澱んでいる。以前大聖堂の奥に湧き出る泉の奥にあった場所と酷似していた。
何も無く、魔力の干渉を受けた空間は、共通で真っさらなのだろうか。
「お前がいきなり怒り出すから放り出されたじゃない」
どうするんだよとスティレンは吐き捨てる。
「お前が我儘ばかり言い出すから呆れただけだ」
今に始まった事では無い。それは十分理解していたが、あまりの自分勝手さに苛立ってしまった。大人気ない事をしてしまったと内心反省する。
言うだけ無駄なのだ。彼は完全にそういう性質が染み付いているのだから。
「てか、お前俺に今さっき何て言った?帰れって言ったよね」
「………」
「お前の本心が出てきたんじゃないの」
「…ここじゃお前の身勝手なんて通用しないから言っただけだ。通用して欲しいなら何でも言う事を聞いてくれる場所に戻った方がいいんじゃないかって言ったまでだ」
リシェの発言に、スティレンは納得しない表情で「ふうん」と目を細める。
「いかにも優等生みたいな言葉を述べるじゃない。こっちじゃ、お前は上から可愛がられてるからねぇ。あっちに居るよりはさぞかし居心地がいいだろうしね」
「何が言いたい?」
スティレンはリシェの真正面に立つと、滑らかな彼の頰に指を当ててぐいっと抓った。ぎゅっと締め付けられる痛みを受け、リシェは顔を歪める。
「痛っ」
「お前はロシュ様にいい顔しようとして俺を許すって言ったんじゃないの。リシェ?腹の底では俺が嫌いで嫌いで仕方無いはずさ。許す素振りを見せれば、あの人だって嬉しいだろうしね」
「………」
「え?どうなのさ。小さい頃から散々虐められてきたお前が、腹の底じゃ俺みたいなのに対してどう思ってるか分からないもんだからねぇ?許すって言いながら俺の顔に唾吐きたくて堪らなかったんじゃないの?散々野良猫扱いされてきたんだからね」
痛みに目を閉じていたリシェは、きつく抓ってくる従兄弟の手首をぐっと掴むと「離せ」と睨む。
「いちいち手を出さなきゃ物を喋れないのか?」
「糞生意気だから分からせてやってんじゃない」
パシン、とスティレンの手を払い除ける。引っ張られた頰がジンジンと痛むのを堪えながら、変わって無いなと吐き捨てた。
「俺は正直だからね。お前みたいに腹の底を隠したりなんてしない。ある意味本当にタチが悪いよ、お前みたいなのは。本心を全く表に出さないタイプなんだから。そのくせいい子でいたがる。俺が一番嫌いな性格だ」
「お前がそう思いたいならそう思えばいい。お前にとって俺はいつまでも鬱陶しい存在でしか無いんだろう」
アストレーゼンに居場所を見出した事で、失っていたリシェの自尊心が芽生えてきたのだろう。それを生意気と言うのはお門違いなのは分かっているが、妙にスティレンの心に刺さった。
今まで無抵抗だった者が急に反抗してきたせいだろうか。
「ああ、そうかもね。その卑屈っぽい所が鬱陶しいのかもしれない。そのくせご立派に虚勢を張るのが本当に癪に障るよ。あっちじゃ邪魔者扱いされてたのにね。俺がこっちに来た事で嫌でも昔を思い出すんだろうよ。帰れって言ったのは本当にそう思ってるからじゃないの」
意地悪そうな笑みを浮かべながら、スティレンはリシェの顎を引っ掴んだ。うぐ、と声を詰まらせ呻く彼は、自分より若干背の高いスティレンを見上げたまま苛立った様子を見せる。
スティレンはそんなリシェに顔を近付けさせると、小馬鹿にするかのように続けた。
「お前がどう思おうが、俺はお前から離れてやるもんか」
「………」
「俺にしてみれば家出した先にお前がたまたま居ただけの事。お前が勝手にこっちに居たんだ。出るならお前がアストレーゼンから出て行く事だね。ま、お前なんかに出来るはずなんて無いだろうけど。ロシュ様だってお前を離したがらないだろうしね。要するにお前は逃げ場が無いのと同じさ。それに」
お互いの美しい顔同士がかち合い、睨み合う。
優しげな印象を与えそうな垂れ目がちの目をふっと緩ませ、スティレンはリシェに対してきつい言葉を投げ付けた。
「お前はずっと俺の目に届く所に居ないと、何やらかすか知れたもんじゃないからね」
「お前じゃあるまいし、そんな事するものか」
「そうやって物分かりのいい優等生面するのもムカつくんだよ。散々おばさまに虐められて来たから癖になってるのかもしれないだろうけどね。いい子でいれば、理不尽に殴られる必要も無かっただろうし。その分、何を考えてるのか知れたもんじゃない」
明らかに喧嘩を吹っかけているのが分かる。
付き合っていられないと言わんばかりにリシェは失望した様子を見せ、顔を逸らした。
何故ここで無駄な言い合いをしなければならないのだろう。
「馬鹿馬鹿しい。あちこちで余計な騒ぎを起こして、親から尻拭いさせていた奴よりは余程マシじゃないのか?知らないとは言わせないぞ。俺もお前らのしてきた事を良く記憶していたんだからな」
「…ふん。いかにも根暗なお前の言い方だね。引きこもっていたお前なんかと違って、俺は付き合いが多かったの。腫れ物扱いされて外出も禁止されてたお前には分からないだろうさ。ま、今となってはさっさと切っておいて正解だったけどね。狭い世界でイキがっているチンピラの相手なんてしてらんないでしょ」
「………」
「で、何?それが何かお前に関係あった?悪いけど、お前が今更俺の事をどう言おうが何にも響かないよ。…てか、自分は品行方正でちゃんとしている風にしてるのやめてくれない?いくら取り繕うったって、お前がリオデルや他の奴らと如何わしい事をしていた事実は消えな…」
軽い感じで口に出た言葉は、最後まで言えなかった。
その忌まわしい名前を耳にした瞬間、リシェは反射的にスティレンの頰を殴り付けていたのだ。激しい右の頬の衝撃を受け、彼の体はバランスを崩す。
今まで生きてきた上で顔を殴られた記憶は一切無い。しかも自分の自慢の美しい顔を傷付けてくるなどとは。
それだけに、スティレンは一瞬自分の身に何が起きたか頭が追いつかなかった。
よろめき、改めて我を取り戻した彼は記憶を辿ってやっと殴られた事実を知る。
「…お前…っ!!今何をしたか分かってんの!?」
一方のリシェも自分の行動に信じられなかったが、言われたくなかった事を蒸し返されたくない為か怒りの感情が先走ってしまっていた。
同時に色々な感情がごちゃまぜに絡み合い、混乱を極める。
後退りし、苦悶の顔を見せた。
「お前は殴られて当然の事をした!!」
絞り出すように吐き捨て、リシェは自らの両耳を押さえた。
ううと呻き、彼はそのまま頭を掻きむしり、その場に崩れ落ちる。
やがて小刻みに震え、まるで呪詛を放つかのように力の篭った声で言い放った。
「…無かった事だと思いたいのに、何故わざわざ蒸し返そうとする?まさか俺が完全に忘れたとでも思ったか?何度も何度も、ずっと頭の中で想像する位、俺はお前らを」
「は…?」
スティレンはリシェの異様な様子に眉を顰める。今まで見た事が無い反応だった。彼は滅多に激しく自分の感情を剥き出しにしないだけに、この状態は珍しいのだ。
彼はしばらく間を置き、そして口にする。
「ズタズタに刻んで跡形も無くしたい程憎たらしくて仕方なかったんだ」
彼は、その小さく儚げな姿からは想像もつかない闇の部分を見せた。
「…は」
スティレンは思わず笑いが込み上げてきた。
だろうよ、と自分が予想していた事が合致していたのが妙に嬉しかったのだ。
「やっぱりそうか。そうだったじゃないか、リシェ。ただやられるだけのひ弱な奴じゃないよねぇ?お前、やっぱり俺らを憎んでたんだよ。ロシュ様の手前、許さない訳にはいかないからねぇ…!とんだお芝居をかまされたもんだよ。ふふ、とんだ嘘吐きだ。腹黒いったらありゃしないさ、許すお芝居はさぞかし苦痛だっただろうよ。ねぇ、リシェ?」
打たれた頰が痛む。
それは長い事蓄積されたリシェの恨みだった。
ひりつく痛みを与えてきたリシェを逆に殴りたい衝動に駆られたもののぐっと我慢する。殴られても当然の事をして来たのは自分でも理解していたのだ。
逆に、自分がされたら死ぬまで許せないだろう。
様々な感情を処理しきれないリシェに、スティレンは続ける。
「無口で根暗な性格のお前が、どう怒り狂うのさ。暴れる?怒鳴り散らす?お前は昔の事など気にしていないって言ってたけどさぁ、俺は絶対そうじゃないって思ってたよ。絶対お前は俺を許してない。お前は俺に嘘を吐きながら、自分にも嘘を吐き続けてたんだよ。だから俺もまだ引っ掛かりを感じてるのさ。お前がひたすら騙くらかしている限りね!」
スティレンの追い討ちを掛けてくるような発言に、リシェはざわざわと全身の毛が逆立ちそうな感覚に見舞われた。
力が入らない両足でゆっくり立ち上がると、彼は少しずつ顔を上げ低い声で「騙すだと?」と口走る。
「ふん、実際そうじゃないか。いいふりして延々と騙してきたんだよ。お前は決していい子なんかじゃない。いい子ぶっていながらいつか噛み付いてくるタイプさ。ひ弱な振りしてりゃ、誰も警戒なんざしないからね!お前はリオデルよりも厄介な性質だよ」
ひ弱な振りをしているつもりは無い。
リシェは彼の話を聞きながら、奥歯をきつく噛み締める。そして堰を切ったように反論した。
「無神経にベラベラ喋る奴よりはマシだ。自分だって大人に対しては猫被りする癖に、俺と何が違う?体裁を気にする家だから余計に自分を良く見せようとしていたお前に、俺の事をとやかく言えるのか。それとも、自分は良くて他の人間が同じ事をするのは許せないか?それなら何故俺があいつらに襲われている時に助けなかった?黙って見てるだけで何もしない。自分を良く見せたかったなら、何故他の大人達に助けを求めなかった?自分の株を上げるチャンスでもあったというのに」
思った以上に長く反論してきた事に対して、スティレンは意外そうな面持ちで相手を見た。同時にはっと笑いが込み上げてしまう。
喋れるじゃないか、と。
「俺にも付き合いっていうのがあったんだよ」
「………」
「誰も居ないお前には分からないだろうけどね。でも、俺はあいつらみたいに性根から腐り果てたくなかった。あいつらと同じように動いてちゃ、家にも迷惑が掛かるでしょ?だから手を汚さない場所で見てる事しか出来なかったのさ」
それまで過去の事を深く話さずにいただけに、思い出すと余計に押さえつけてきた怒りの感情が噴出してくる。
話さずにいた、というよりは避けてきたともいうべきか。
当事者であった二人が面と向かって再び過去の出来事を話すのは、大聖堂にリオデルが来た時以来だった。
それ位デリケートな話題だったのだ。
「今のお前になら分かるんじゃないの?立場っていうもんがあるって事位」
「あれこれ言い訳して取り繕おうが、結局お前もあいつらと同じだ!!…そうだ、お前の言う通りだ。忘れたりなんてするものか。一言、謝った分だけお前はまだマシかもしれない。でも俺はお前らのしてきた事を死んでも許せないだろう。それをわざわざ蒸し返すお前にも腹が立つ!!」
リシェはスティレンの襟を引っ掴むと、見た事の無い怒りの表情を見せて「殴るだけじゃ気が済まない」と怨嗟の言葉を吐いた。
…何だか不穏な空気じゃないですか、と魔法の玉の中を覗き込んでいたオーギュはイベリスに訴える。
「んあ?」
彼の作り上げた魔石をチェックしていた彼女は、気怠げな様子でその玉の内部を覗いた。そしてふふと笑う。
「へぇ…見事に大喧嘩してるじゃないか。面白い」
『面白いのか?自分からけしかけておいてどうする気だ』
深刻に捉えようとしない彼女に、ファブロスは脱力する。
「別に危ない物を持ち込んではいないだろう?なら大丈夫だ。そんなに心配なら、魔法を使えないようにしてやろう」
「ファブロスはそういう意味で言ったつもりは無いと思いますよ…」
掴み合いをしている二人を心配そうに見る。
まさかリシェが他人に突っかかるとは思わなかった。彼は比較的落ち着いた性格だと認知していただけに、感情を露わにする事など想像もつかなかったのだ。
「何だ?魔法以外は興味無さそうなのに、子供同士の喧嘩に首を突っ込む趣味でもあるのかい」
「そんな趣味ありませんよ。あの子達の間に深い溝が出来ないか不安なだけです」
リシェに関しては、ロシュから様々な話を聞いていた。触れられたくない内容も抱えているだけに、故郷の事や昔の出来事は出来るだけ聞かないように心掛けていた。
そして、本人も自ら進んで話したりはしなかった。
だが、同じ国の出身であり一番近い従兄弟であるスティレンは違う。彼は近過ぎるだけあり、リシェが一番触れられたくない部分を踏み込んでしまう。しかもシャンクレイスから出るきっかけを作った要因の渦中に居たのだ。
ロシュと出会い生きる道を見出したリシェにとって、出来るだけ避けたかった相手と再会してしまうのは気が気で無かったはず。
蓄積されていた憎しみや怒りをぶつける訳にもいかず、ただ冷静に受け止めるしかない。
「溝なんて、もともとあったようなもんじゃないか。黒髪の方がより深い。押さえ付けられてきた分、相当恨みやら何やら凝り固まってるだろうよ。真面目なだけになかなか表に出さない性質だからね」
「…触れられたくない中身までお見通しなのですか?」
オーギュは思わず嫌な感情を露わにしてしまう。イベリスの性質上、それは避けたくても避けられないのだろう。
だが、気分が良いものでは無かった。
「なるべく感じ取らないように気をつけているつもりさ。言っただろう、知りたくないのに知ってしまうとな。お前もあの黒髪の小僧と同じだから、余計過剰な反応になるんだろうよ」
「!?」
自分に矛先が回り、オーギュはつい言葉を失う。
「私が…?」
イベリスは自嘲気味にあぁ、とだけ返すと失敗した魔石の器を指先で砕き始めた。
「母親に自分を認めて欲しかったお前と、憧れの存在に認められなければ生きる意味を見いだせないあの小僧。境遇は違えど、お前達は似ている」
「………!!」
まさか自分の事まで見通せるとは思わなかったオーギュは、思わず彼女に警戒心を強め数歩退がった。
主人の意識に感化されやすいファブロスは、咄嗟に静止の言葉を放つ。
『イベリス!!言葉が過ぎるぞ!!』
骨の髄まで主人に染まり切った召喚獣もなかなか見ないものだ。相当惚れ込んでいるのが分かる。
自分が知る限りでは、術者と召喚獣はお互いの利害を踏まえて付かず離れず、それでいて壁を隔てたような関係性だと思っていたのだが。
それにこの高位召喚獣クラスとなれば、余程の力を持つ魔導師でなければ見向きもしないはず。そして、この目の前の魔導師は魔力の元の土台は並レベルかややそれより上なのだ。
彼が努力して培ってきた魔力に惹かれるものがあったのだろうか。
「そんなに怒るな。こっちだって喋りたくてそう言ってる訳じゃない。こいつらの事は、こいつらで決着付けなきゃならない問題だ。第三者が深入りするものではないだろう」
「…そりゃそうでしょうけど」
彼女の特性上、読むのは仕方無いとして。
オーギュは「流石に酷くなったら止めに入りますよ」と一言告げる。魔法の玉の中で揉み合う二人を眺め、イベリスは甘っちょろいねぇと苦笑した。
…豹変したリシェを目の前に、スティレンは腹の底から笑いが込み上げていた。それを押し留めながらハッと強気に顔を歪ませる。
「ほら」
彼は自分に掴みかかる年下の従兄弟を見下ろして思っていた事を吐き出した。
「やっぱりそうだったじゃないか」
「………」
「お前がずっと大人しくしていると思わなかったよ。いつか地が出てくるって思ってたさ」
リシェはスティレンを睨み上げたまま黙る。
「こっちに来てから本当の自分を出せるようになったもんねぇ?相当気が楽になっただろうよ。抑えられてたから余計にね。向こうじゃびくびくしてたくせにね。向こうに居た時はまだ子供だったから仕方無いだろうけどさぁ…」
掴みかかってきたリシェの髪を握り、スティレンも負けじと引っ張り上げる。痛っ、と軽く声を漏らすリシェ。
「猫被りのスキルだけは抜群に上がったんじゃないのさ、リシェ?」
「…うるさい」
強気な目線が激しく絡み合った。
「何をやらかしても結局親に守って貰ってきた奴が、随分ご大層な言葉を吐けるじゃないか。裏で厄介事を持ち込んでおいて、ろくに尻拭いもしなかったくせに」
ぴくりとスティレンのこめかみが動く。
家に閉じ込められてきた環境下に置かれていた彼が、自分やリオデル、そして仲間達の行動などまともに把握出来たとは思えない。
リシェは家の恥晒しとして、彼の義母によって外部から遮断されて生きてきたのだ。
それだけに、その発言は寝耳に水だった。
髪を掴む手に力がこもる。
「何だって?」
スティレンの質問に、リシェは薄い唇を笑みに変えた。
「どっちが猫被りだか。俺が何も知らなかったと思うか?薄い扉から誰ともない声が聞こえてくるんだよ。色んな人間の溜息やら不満の声がな。大抵はリオデルへの不満だったが、連んでいたお前への不満だって嫌になる程聞いてきた。いらない事をして、そのまま放置していれば家の問題にもなるから、仕方無くうまく処理し続けていたんだろうよ」
「お前…」
目を細め、彼は嘲笑する。
「表では礼儀正しい坊ちゃんとして良い振りをしてきたんだろう?裏では散々悪どい事をしていたくせに。そんなお前が俺に猫被りしていたなどと良く言えたものだ」
「…性格悪いね!!」
俺より性格悪いんじゃないの、と吐き捨てる。
リシェもまた、スティレンに負けじと自らの手に力を入れた。更に詰め寄りながら「性格が悪い?」と眉を寄せる。
「そうさせたのは誰だと思う?逆にお前が俺の立場だったら、歪まないと言い切れるか?俺は常に周りから何をされるか分からない不安と隣り合わせだった。殴られるだけならまだ耐えられる、ただそれだけならな。でも違う。見ていたお前なら十分過ぎる程分かるだろう、俺が何をされてきたのか!!」
口にするのも憚られる内容を、リシェは初めて言葉に出していた。それ程思い出したく無いのだ。
本来ならば、当事者であるリオデルにぶつけるのが筋かもしれないが常に行動を共にしていたスティレンも彼と同じ立場で、言わずにはいられなかった。
その赤に染まった瞳にも強い力を感じる。
「知ってるよ。だからこっちでまたお前を見るのも嫌だったのにさ。お前の無気力な顔をまた見なくちゃいけないとか、本当運が悪い。腐れ縁なんだろうね、リシェ?」
そう言い終えるなり、スティレンはリシェの髪から手を離して思いっきり突き飛ばした。
突き飛ばされた拍子に華奢な体がバランスを崩す。
「!」
片方の足に力を込め体勢を整えた後、リシェは顔を上げ再びスティレンを睨んだ。その瞬間、喉元に手が伸びる。
今度はスティレンがリシェの襟元を掴む状態になり、妙に勝ち誇った表情を浮かべて囁く。
その声音は、昔良く聞いた嫌味の含んだニュアンスだった。
「折角の機会だ。お互い殴りあった方が良さそうだねえ、リシェ?」
「………」
「殴るだけじゃ気が済まないって豪語する位ならこっちもやってやろうじゃないか。腕力で解決出来るなら簡単な事だ。綺麗事が好きなお前が俺をどのくらいボコれるんだろうね」
言って後悔しない事だね。
そう言うなり、スティレンはリシェの襟を掴んだままでその腹部に膝を強く入れた。唐突に襲う鈍い痛みに、小さな体はがくりと折れる。
ひたすら咳き込み、蹲るのを堪えながら顔を上げる。
「何その顔?」
スティレンはハッと笑いながらリシェに言った。
「まさか俺が黙って殴られるとでも思ったの?」
腹部を押さえたままのリシェはよろめきながら「馬鹿言え」と小さく呻く。
「お前は自分の顔に自信があるだろうから、自分が傷付けられるのは心底嫌なはずだ。だから抵抗するのは分かっている。そんなお前の顔をボコボコにしたらどうなるだろうな」
リシェはそう言い終えると、一瞬の隙を突いてスティレンの顎の下目掛けて拳を振り上げた。ガツリと固い骨と拳の骨がぶつかる。
痛!と小さく叫ぶ声を無視するように、リシェは更に彼のよろめいた足に向けて強く蹴飛ばした。
「…っあ!!」
がくんとバランスを崩し、そのまま尻餅を突いてしまう。
みっともない体勢を目の当たりにしながら、リシェはスティレンを見下ろして馬鹿にするように鼻で笑った。
今までの鬱憤を晴らすかのように。
「どうした?俺は昔みたいに抵抗も出来ない軟弱者じゃないぞ」
小さな背丈を利用したやり口に、スティレンは激昂した。しかも、弱い顎の下を狙うあたり姑息過ぎる。
「…ムッカつく!!!」
スティレンはすぐに起き上がると、余裕の顔を見せるリシェの頰に向けて勢い良く殴りつけた。
「!!」
左の頰に激しい衝撃と痛みを覚えたかと思うと、彼の体は二メートル程スティレンから遠ざかった。酷く全身を地面に打ちつけられ、きつい痛みが背中を襲う。
思わず両目を閉じた。
「小さいからすぐ吹っ飛ぶねぇ!!」
すかさず倒れたリシェの上に乗り、スティレンは嘲笑った。
ぐっと呼吸を詰まらせながら相手に対し強気な目を向けるリシェ。
それを見下ろし、ある意味場慣れしたスティレンは馬乗りになったまま顔を近付け「まともに喧嘩なんかした事無いくせにさ」と言う。
「反抗の仕方もろくに知らなかった臆病者が、俺に勝てると思ってる訳!?」
ググッと襟を掴みながら生意気な従兄弟に吐き捨てた。更に追い討ちをかけてくるかのように首元を締め付けられたリシェは苦悶の表情を浮かべるが、掴むスティレンの手に爪を突き立て引っ掻く。
う!と小さく叫ぶスティレン。
「少しだけの怪我でギャーギャー叫ぶレベルのお前が、立派に喧嘩慣れ面するのが笑える!!」
「うるさいんだよ、リシェのくせに!」
リシェは右腕を突き出し、相手の腕に絡み付くと勢い良く捻る。
「こっ…の!」
どこまでも抵抗する態度に苛立ちを押さえきれないスティレン。痛いって言ってるだろ!と怒鳴りながら比較的自由な手を使いリシェの頰を抓った。
「今のお前を大好きなロシュ様が見たらどう思うだろうね?お利口で従順なイメージが吹っ飛ぶんじゃないの!?」
ギリギリと引っ張る指の力が強まる。
痛みに顔を歪め、リシェは頭上のスティレンの目を見ながら「喋るな」と言った。
同時に、腹部に鈍痛を感じる。激しく圧迫され、スティレンはリシェから身を離した。
「う…ぐ、くそっ…普通腹を殴る!?」
「お前だってやっていたくせに文句を垂れるな!!」
リシェはすぐ体を起こすと、床の上で腹を押さえて転がるスティレンを見下ろした。
このまま蹴飛ばしても構わないが、流石にそれはしたくない。無様に転がる彼に対し、早く立てと命じる。
「みっともない」
恨みの籠った目でこちらを見ながら、腹部を押さえ立ち上がるスティレンを冷静な顔で直視する。
「相変わらず自分には甘いんだな」
「…はぁ?」
リシェの聞き捨てならない発言を耳にし、乱れた髪をそのままに反抗の目線を投げつけた。
「今何て言った?」
普段の自信満々な表情からは想像出来ない位の鬼気迫った顔でリシェに問う。そんな従兄弟の様子とは逆に、リシェは淡々とした口調で挑発を続けた。
「お前のその性格には反吐が出る」
「胸糞悪い!!人の事を言えた性格か!!」
腹の痛みを押さえ、スティレンは再びリシェに掴みかかる。
お互いこうして取っ組み合いレベルの喧嘩をするのが初めての為か、完全に頭に血が昇っていた。剣士となってそれぞれの戦いのやり方も身に付いていただけに、更に力も増していった。
スティレンに至っては今まで抵抗すら出来ないでいたリシェがこうして自分を殴ってきたのが気に入らず、どんな手を使っても平伏せてやりたいと躍起になる。
「ちっ」
その顔を歪ませてやりたいと顔面目掛けて拳を振るったものの、持ち前の身軽さで回避されてしまいスティレンは舌打ちする。
宮廷剣士の中で一番小さいのもあり、身軽さでは彼に敵う者は居ない。分かってはいるものの、あっさりと避けられるといように腹が立った。
「さっきからまともに俺に当たってない、下手糞」
こちらの苛立ちを見通しているのか、リシェはそんなスティレンを挑発した。
「だったら止まってろ!!」
「腕に自信が無いならやめた方がいい」
「…ふざけるな!!」
憤慨したスティレンの腕がリシェの左腕を捕らえた。
「!!」
「調子に乗ってんじゃないよ!!」
一気に関節を決めながら引き倒す。踏ん張りきれなかったリシェの体は呆気なく床に叩きつけられてしまった。
打ち付けられた事で軽く彼の体が跳ね上がる。
「ぐ…!!」
形勢逆転し、リシェは身を起こそうをするものの、スティレンはすかさず彼の腹部目掛けて足をドスンと乗せる。
腹に攻撃する事を抗議してきた癖に、それ自体すぐに忘れているようだ。とにかく自分に関しては都合良く忘れる思考で呆れてしまう。
乗せられた足をすぐに両手でぐっと掴む。
「…ちょっと!!何する気!?」
有利に立ったかと思いきや、ここで抵抗をしてくる事に狼狽するスティレンはリシェを見下ろしながら怒鳴る。
「この卑怯者が!!」
掴まれた事でバランスを保てなくなり、どうにか離れようともがいた。このっ、と逆に腹を踏ん付けてやろうと思ったが、想像以上にリシェの力が強く思い通りにならない。
「離せって言ってんだよ!!」
倒れそうになるのを必死に堪え、スティレンは足元のリシェを忌々しげに睨み強がる。
「少しでも危険を感じれば無駄に足掻くのがお前の悪い癖だ。…本当は小心者なのが丸分かりじゃないか!!」
そう言い終えると同時に、リシェはスティレンの足を強く抱き締めながらごろりと自分の体を転がした。完全に固定されてしまい、スティレンは体勢を一気にがくりと崩されてしまう。
うああ!!と悲鳴が上がった。
「!!」
リシェの体に乗り上げるようにしてスティレンの身は崩れ落ちてしまう。彼の重みを感じながら、リシェは小さく呻き声を上げた。
最終的には折り重なるようにしてお互いに揉み合う。
「…っの!!ふざけてんじゃないよ、舐めてんの!?」
「自分の甘さを棚に上げて人に文句をつけるな!!」
まるで小馬鹿にしてくるようなリシェの態度に、スティレンは自分の真下に居るリシェの頭をぐりっと小突く。対抗するリシェもまた、スティレンの顔目掛けて手を伸ばし、頬を強く引っ張った。
今まで蓄積してきた不満を激しく発散するように、罵りながら手を上げ続けていた。
「いったいんだよ、この馬鹿!!俺の顔に傷付けてタダで済むとは思うなよ!」
「誰もそこまでお前の顔なんか見ない!!」
「…何だって!?生意気過ぎるんだよ!!このっ…!!」
床に転がったままのリシェの襟首を掴む。
「黙ってればまだマシなのに、ここまでムカつく奴だなんて思わなかったよ!」
ぐぐっと掴む手に力を込めるうちに、呼吸の幅を狭められるリシェはふんと表情を緩める。
「俺がムカつく性格になったのは一体誰のせいだと?」
「はぁ?」
「俺に一切構わなければ、ここまで嫌な性格にならなかっただろうよ!」
言っても仕方無いのは重々分かっている。
だが、周囲から邪魔者扱いやストレスの捌け口にされなければ、自分はもっとあの家で平穏に暮らせたのではないかと思うのだ。
これとは全く別の、違う人生を歩めたかもしれない。
「は!?人のせいにしてんじゃないよ!ろくに反抗しなかったくせに!嫌なら態度で知らせりゃ良かっただろ!」
「無視してきた奴が今更開き直るな!!」
「お前こそ今更言ってきて!!気にしないふりしておいて、後からグチグチとウザいんだよ!!」
「何だと!?」
片方が殴れば、また片方が殴り返す。
それをひたすらに繰り返していると、お互い疲労の顔が見え隠れし始めていた。
神経を尖らせながら攻撃ばかりしているので無理もない。
「このっ…!!」
ひたすら自分の上で掴み掛かってくる従兄弟の頭を押し上げた後、邪魔だと言わんばかりに上体を強引に起こして彼の額目掛け頭突きをする。
ゴツリ、と硬いもの同士がぶつかり合う音が放たれた。同時にスティレンは「痛ぁ!!」と悲鳴を上げる。
リシェの上から逃げるように身を離れ、頭を押さえながら床を転がり始めた。
「痛っ…!本当、信じられない!何て野蛮なのさ!!」
悶えるスティレン同様、リシェも自ら放った反撃に額を押さえて体を丸める。打ち付けた痛みに呻き、しばらく動けないままになっていた。
う、ぐぐ…と奥歯を噛み締めながらひたすら脳に響く痛みに耐える。
「…鬱陶しい…本気でムカつく…!やろうと思えば、リオデルなんか殴り飛ばせたんじゃないの…このぶりっこ野郎…」
転がり疲れたらしく、スティレンは痛む頭を押さえながら忌々しげに横で同じように転がるリシェに言う。
呼吸を整えている最中のリシェは、そんな彼の横っ腹目掛け蹴りを入れた。
「何なの!!」
「…うるさい」
寝転がっている最中に蹴りを入れてくるとは思わなかった。
スティレンは蹴飛ばしてきた彼の足を邪険に払い除けると、軽めの溜息を吐く。
大人しい性質だと思っていたのが完全に違っていた。ただでさえ気に障るタイプだったのに、ここまで我を主張してくるとは思わなかった。
「部屋で縮こまる事しか能がないと思っていたのに。何が気に入らなくて出てったのさ。余程の事が無きゃ、住む家にも困らなかったのに」
「………」
ようやく落ち着いてきたリシェは、スティレンから背を向ける形で寝返りを打ちながら目を細める。
思い出したくもない。
「…あいつから本格的に襲われそうになったんだよ」
「………」
「これで分かっただろう」
リシェにしては言いたくもない話だろう。
スティレンはちらりと隣で転がる彼に視線を向けた後、力が抜けたかのように「あっそう」と返した。
「そりゃ気持ち悪いね」
「………」
「大したもんを持ってる訳じゃないくせに、変に自信あったからね。逃げて当然か」
顔を真っ赤にして暴れ回っている最中は気にしなかったが、真っ白い空間の中の空気はひんやりしていた。
汗が引いてきた為に、尚更床の冷たさも感じる。
「…疲れた」
リシェは気疲れしたのか、丸まりながら呟く。
「あれだけ暴れてりゃそうなるでしょ。馬鹿じゃないの」
「………」
今までの腹いせをぶつけられた感じがしていたスティレンは文句を言うと、両手を広げて大の字になる。天井も全く無いただの白い空間を仰ぎ見ながら、あぁと一息吐いた。
「久しぶりに殴り合いの喧嘩した気がする」
リシェは完全に初めてだった。そもそも喧嘩らしいものはした記憶が無い。言い争いはあったかもしれないが、手を出すレベルの喧嘩など経験が無かった。
そのせいか、余計に心身共に疲労度が強い。
「思いっきりお前を殴ってやったから、明日には痣が付いてるだろうねえ、リシェ?ふん、ざまぁみろ」
必死過ぎて覚えてなかったが、確かに全身の他に頰やら目元に鈍い痛みを感じる。恐らく、後で振り返してくるだろう。
だがそれは向こうも同じのはずだ。
いい気味だと言わんばかりのスティレンの言葉を聞きながら、リシェは黙って瞼を伏せる。
その時、ふわりと風通しが良くなった。
「!」
二人だけしか居なかった空間に新たな気配を感じ取り、スティレンは咄嗟に上体を起こす。
それまで何も無かった空間から少しずつ穴が開き、そこから女性のしなやかな脚が抜け出てくる。
カツン、と硬い床を叩く音。
「おや、もう終わりか?」
軽やかなヒールの音を響かせ、イベリスが姿を現す。
彼女の発言から、まさかこれまでの喧嘩を見ていたのかと不愉快そうにスティレンは眉を寄せた。
ふいっと顔を逸らしながら悪趣味だねと呟いていた。
疲弊した二人を見下ろすと、彼女はフッと表情を緩ませる。
「可愛い顔をしてる癖に、お互いムキになって殴り合いをするなんて滅多に見ないからねぇ。面白いものを見させて貰ったよ」
「…最低だね。止めるどころか眺めて楽しむとか」
「ふん。お前がそれを言うのか?…だが」
ちらっと床に丸まったままのリシェに顔を向けた。
「あのガキにはいい機会だったんじゃないかね」
「………」
厳しい顔をしていたスティレンの耳に、再び何かが落ちてくる音が飛び込む。
音のした方向に顔を向けると、そこには着地に失敗し膝を崩したオーギュの姿があった。
「オーギュ様?」
「…いたた…まさか高い所から落ちる羽目になるとは」
そう言いながらゆっくりと立ち上がると、二人に近付く。
「リシェ?」
未だに床で丸まったままのリシェに声をかけた。
イベリスは彼の前で両膝をつき、様子を確認するとあきれた様子で「あぁ」と声を上げた。
「寝てるよ」
「は?」
スティレンはイベリス同様、リシェの顔を覗き込む。
「…何こいつ。あれだけ元気に暴れてたくせに」
「慣れない事をしたから余計疲れたんでしょうね。背伸びしていてもやっぱりまだ子供だ」
オーギュはそんなリシェを抱きかかえると、同じようにぼろぼろのスティレンを見てふっと微笑んだ。
「あなたも疲れたでしょう」
「…俺は、こいつより軟弱じゃありませんから」
自分は平気だと言わんばかりに立ち上がるが、蹴られた場所がズキンと痛み少しふらついてしまう。
「強がる所がまだガキだね。どうだ、背負ってやろうか?」
「強がってなんか無いし!」
揶揄われた気がして、スティレンはそこでもまた強がる。流石に異性に背負われるのは情けなく思うのだろう。
彼はぐらつく足取りで「帰る」と言う。
「こっちは決着がついたみたいだからね。ところで、お前はどうなんだ、オーギュスティン」
魔力の注入を完全にマスターしなければ意味は無い。
放り出したままでこちらに来たのかと疑問符を投げかけた。
「あなたが指導してくれたようにどうにか形になりましたよ。戻ったら見て貰えますか?」
何度練習しただろう。
魔力を注入し、石に馴染ませてから自分の魔力を吸収してくれるまでひたすら待つ作業も飽きてきた。とにかく根気よく作業をしていった結果、彼女が教えてくれたように魔石自らが魔力を吸い込んでくれたのだ。それも何度も繰り返し、やっと彼女に状態を見て貰えるまでになった。
「ほう。流石努力を重ねる事で成長しただけあるな」
「もう疲れましたよ。散々下手だのなんだの言われては、意地でも求める以上の品質で完成させてやりたくなりました」
二人の会話を聞きながら、スティレンはぽかんと呆気に取られていた。最高レベルの魔導師であるオーギュに対し、下手だと普通に言えるのが信じられないらしい。
この失礼な魔導具屋の女は一体どれ位の魔力を持っているのだろう。
イベリスは少しばかり意地悪そうな笑みを浮かべながら、そうだねぇと勿体ぶった様子で言う。
「お前は叩けば叩く程向上心が上がるタイプだろうしね。余程自信があるんだろう?お前が魔石を作れるようになれば、このガキが望んでいる物が出来上がる」
「…どういう事ですか?リシェの望む物とは?」
「お前の修練とそいつの欲しがっていた物が同時に叶うんだ。感謝して欲しい位だな」
「は…?」
言葉の意味が分からないままのオーギュ。
自分の腕の中で寝息を立てているリシェとイベリスを交互に見ながら、その意味を理解しようと必死に考えていた。
気難しいイベリスのお墨付きをようやく貰ったオーギュは、そろそろ大聖堂に戻らなければならない時間ですねと話を切り出す。
彼女はそろそろ日も暮れる、と壁の隙間から外を覗いた後に大聖堂からやってきた彼らを見回した。
「こちらから出してやった召喚獣の様子も見れた事だし、また違う街に行くとするか。まさかあの堅物がこれ程までに主人にべったりだとは思わなかったがね」
『堅物だと…』
妙に馬鹿にされた気分になるファブロス。
そこまで指摘される程かと疑問に思うが、自分は常にオーギュと行動を共にしているのでそう思われても仕方無い。
少しは自覚があった。
「イベリスさん。リシェが欲しがっていた物とは…」
言いながら、オーギュは不意にある事を思い出す。
杖の魔石に魔力を詰めたい、と。スティレンが最初に言っていた言葉を思い出し、「…まさか」と合点がいった。
「リシェが持っていた杖に、私が直接魔力を詰められるようにする為に」
イベリスはふんと軽く鼻を鳴らした後で「今更気付いたのかい」と腕を組みながら返す。
「お前の魔法の悪い癖を調整する役目も果たしただろう?」
「………」
彼女はオーギュの胸元に指をさし、掻き出す動きを見せた。掻き出された場所から光の空間が開かれ、そこから長い杖が引っ張り出される。
ええっ、とその瞬間に立ちあっていたスティレンは声を上げた。
「な…!?」
当のオーギュもリシェを抱えながら驚愕の表情を浮かべる。彼女が目の前で引っ張り出してきたものは、紛れもなく自分の愛用する杖だったのだ。
高魔力の耐久性がある魔木から作られたその杖は棘の主張が激しく、慣れなければ特に扱いにくい代物。しかし魔木とあり魔力を最大限に引き出すには最高級の武器だった。
「お前がこいつを扱っていたのかい」
それを手に取ると、彼女は驚いた様子で眺める。
「その杖が、どうかしましたか?」
「何、どんな杖を使っているのか気になったものでな。…しかし」
イベリスはオーギュの物々しい杖を一通り眺めた後で感心したように続ける。
「まさかこんな杖を使っていたとは思わなかった。欲の欠片も無さそうな面して、どこまで貪欲なんだいお前は」
状態を確認した後、彼女はその杖に付随している拳よりも若干大きめの魔石に視線を向けた。赤く鈍い光を保つその魔石は、奥深くなるにつれて深みのある色合いになっている。
「その杖が何か…?」
「ふん、このままにしておくには勿体無いだろう。こいつは相当な魔導師でなければ扱えない代物だ」
「ええ。ですから敢えてそれを選んだのです。最初は石から魔力を捻出するのにも苦労しましたし…」
ふっとイベリスは口角を上げた後、その魔石に手をかざした。そして彼女の手からギュルルと濃縮された魔力の塊が放たれると、杖の魔石の周囲に光の粒子が包み込む。
その魔法の威力を目の前に、オーギュは思わず言葉を失ってしまう。
『婆』
「うるさいね。婆って言うんじゃないよ。お前も獣って呼ばれたいのかい」
長年魔法に触れてきたファブロスは注入されていく魔力の勢いに思わずイベリスに声をかけてしまう。今、現状のオーギュにはその注入されていく魔力に対応出来るのか不安だった。
使い方によっては、オーギュの魔法が更に勢いがつき暴走してしまう恐れもある。いくら小さい石に魔法を制御して詰めるという我慢の技術を身に付けたとしても、流石にバージョンアップした杖を扱うのは難しいのではないだろうかと。
「まぁ、この位がいいだろうね」
「え…あの…?」
自分の杖に何をしてくれていたのかは理解出来た。
「もう少ししたらちゃんと返してやる」
イベリスの手はそれだけには留まらず、魔石に力を馴染ませている間に店の棚の一部を漁った後、一つの金具を引っ張り出してきた。
「お前にこの杖を更に使いこなせるかね?」
「…何をされているのです?」
杖の下を床にコツリと軽く叩きつけた後、石の澱みが消えていくのを確認して先程の金具を魔石の上にくっつけると、ようやくそれを従者であるファブロスに持たせた。
『!!』
その杖を手にした瞬間、ファブロスは驚く。
『杖の魔力が半分に減っているぞ。お前、何をしたんだ』
「何それ」
あれだけの技術を目の前にした後に杖の魔力が減っているなどと、どう考えてもおかしいのではないかと素人のスティレンもイベリスを見上げた。
「どういう事?」
「石ころにさらに魔力を詰め込んでやったんだよ。だがそのままじゃ、術者の魔力は石の力に依存して全く成長しないだろう。だから敢えて制限しておいた。この上の金具はその為のものだ。私がタダで馬鹿高い力を詰め込んでやると思うかい?」
『だからといって、杖の元々の魔力の半分にしなくてもいいだろうが。これではオーギュの魔法が並レベルに』
ファブロスが抗議するのを、オーギュは「やめなさい」と止めた。
「面白いじゃないですか。やってみます」
『オーギュ!?』
心配するファブロスを余所に、彼は自信たっぷりにイベリスに「強化して下さって感謝します」と礼を言う。
「これで無事に制限を気にせず魔法を使いこなせるようになれば、その分力も増してくるでしょう。私のように泥臭さを好む魔導師にはぴったりだと思います」
「…何なの…魔導師ってドSとドMなタイプが多い訳…?」
わざと制限を付けるイベリスと、その条件を敢えて飲み込むオーギュの会話を聞きながらスティレンは驚愕の顔を剥き出しにしてしまう。
強くしてくれるのならそのままでいいじゃないか、と感じるのは、自分が少しでも楽をしたいと思ってしまうからだろうか。
「お前のような奴は自分を追い込む方法が一番手っ取り早い。だからこの召喚獣も引き込まれたのだろうよ」
オーギュの返事に満足したイベリスは、心配そうな顔をするファブロスに「その分お前がサポートしてやればいいだけの話さ」と告げると彼の分厚い胸元を叩いた。
「ほら」
リシェとの乱闘で疲れ果て、立つのも辛そうな顔をしているスティレンに目線を配らせる。
「こっちも疲れ果てているようだぞ。早々に戻った方がいいのではないか?」
「…つ、疲れてないし」
そこでも余計な強がりが出てしまうスティレンは、しっかり立とうとするが妙に力が出なかった。
『安心しろ。帰る時にお前を抱えてやる』
「買い物袋を持たせてるのに俺まで抱えて行く訳?」
自分で歩けるからと突っぱねる。
オーギュの腕の中で完全に寝入っているリシェと一緒にされたくないのもあった。
『足がふらふらしているじゃないか。遠慮するな』
受け取った杖を一旦自らの体内に納め、床に置いていた多数の買い物袋を腕に引っ掛けた後でファブロスはふらつくスティレンを軽々と抱える。
うわあ!!と宙に浮いた感覚を味わうスティレン。
「いいって言ってるじゃない!」
『お前がふらふら歩くのを待っている時間が惜しい』
疲れ果てているにも関わらずファブロスの腕の中で暴れるスティレンは、変に恥ずかしくなり顔を真っ赤にしていた。
オーギュは落ち着きなさいとそんな彼を窘めると、安心して下さいと言った。
「ファブロスはあなたが思う以上に力持ちですから」
「………」
そういう問題では無い。
『いいから黙ってろ。それにお前を暗くなってきた路地に放置する訳にもいかないからな。いくらアストレーゼンだろうが、夜間になるとその分治安も悪くなる。この辺りだと尚更だ。来た時にも見ただろう』
ファブロスが言うように、確かにここに引っ張られる際に見た景色は馴染みのある環境では無かった。
どちらかと言えば下層に位置する住民が多く、向けられる視線もやけにじっとりとした感じを受け、華やかな大聖堂と比べて落差が激しい地域。
夜間は決して単独では出歩きたくない。
『お前みたいに金持ち丸出しの格好で歩いてみろ。たちまち追い剥ぎにやられてしまうぞ』
「か…金持ち丸出しって!!」
リシェによってボロボロの状態だが、スティレンはいつも通りの私服姿だった。指摘されたように布ですら高価な素材で、一枚だけでも相当な価値がある。
流石に毟られたくない。
「…分かったよ、もう」
ようやく理解し、彼は黙った。
『そうだ。子供は素直が一番だ』
「子供じゃないし!」
自分はもう大人だと主張するのは、リシェも同じだった。やはり繋がっているのだなと思わずオーギュは吹き出す。
「さて。…今日は疲れたよ。久々に人と会話したからな。私は一晩ここで休ませて貰って、明日からまた別の場所に移動するかね」
イベリスはあくびをしながら体を伸ばした。
「次に会った時には、杖を使いこなせるようにしな」
制限を課せられ、逆に向上心を増幅させたオーギュはかイベリスの言葉に勿論ですと返す。
魔法の求道者としては願っても無い環境だ。
「要は、あの金具を外せるようになれば良いのですから」
強気な彼の言葉に、イベリスは「出来るものならな」と笑った。
「ええ、必ず」
その返事に満足したようだ。
イベリスは店仕舞いだ、と言うと彼らをあっさりと外へ出ろと促す。
「大聖堂には門限があるのだろう。さっさと帰りな」
軒先まで見送ると、彼女は一行を見回す。
既に夜に染められた外の世界。簡素な住宅地は仄かな明かりで彩られていた。
陶器のような艶やかな肌が月明かりで照らされ、エキゾチックな様相を醸し出すイベリスは目を細め、寝入っているリシェを見た後念を押すようにオーギュに告げる。
「戻ったら、そのガキの持っている杖に魔力を詰め込んでやるのを忘れるんじゃないよ」
「折角教えて貰いましたからね。無駄にはしませんよ」
その返事に満足したように、彼女は「ほら」と促す。
「さっさと帰りな。そっちも眠そうじゃないか」
疲れが一気に来たのか、ファブロスに抱えられたスティレンもうとうとしていた。
オーギュは改めてイベリスに礼を告げる。
「ありがとうございます。またいつかお会いしましょう」
「ふん…私はきまぐれだからね。まぁ、お前が成長した暁には会ってやってもいいさ」
『素直じゃない女だな』
変に意地悪になる彼女に、ファブロスは呆れてしまった。素直に言葉を受け止めればいいのに、良く分からないタイミングでひねくれた言い方をする。
オーギュはファブロスに戻りましょうと声をかけた。
大聖堂の門限の時間は刻々と近付いている。
…門が完全に閉じる前に、急いで戻らなければ。
「あれ?どうしてスティレンが?」
そのままリシェをロシュの元へ届ける為に司聖の塔へと戻ったが、宮廷剣士の宿舎の門限は既に超えていたのでやむを得ずスティレンもそのまま一緒に連れて来たのだ。
ロシュはリシェの部屋のベッドで眠っている彼の顔を覗き込むも、「ひ!?」と情けない声を上げてしまう。
「どうしましたか、ロシュ様?」
長い時間リシェを抱え続けていた事で腕が痛くなっていたオーギュは、両腕を摩りながら彼に問う。
「何か、ボロボロになってませんかね!?」
動揺するロシュ。
オーギュは「ああ」と冷静に返した。
「スティレンと大喧嘩してましたからね。そりゃあ殴り合いの凄まじい喧嘩でしたよ」
「は…!?え、えぇっ!?」
確かに彼の隣で眠るスティレンも何故か痣だらけでボロボロだった。二人を繰り返し見たロシュは、全く状況を飲み込めず泣きそうな面持ちで二人を連れてきたオーギュとファブロスを交互に見る。
どんな過程を経たらこのような状態になってしまうのか。
「あ…あの…何故二人がそのような?」
あまり聞きたくは無いが、気になってしまった。恐る恐るオーギュに問うと、彼は「そこまで深刻な事ではありませんよ」と肩を竦める。
「スティレンの我儘にリシェが我慢出来なくなっただけです」
「は…」
「今はそっとしておきましょう。変に回復魔法を施したら目が覚めてしまうかもしれませんから」
失った体力を回復している状態で魔法をぶつけてしまうと、体内の細胞等が活性化されてしまう可能性もある。
ロシュの気持ちとしては、彼らに付いた痣や傷を真っさらな状態にしたいだろうが、それは目が覚めてからでも出来る事。
「リシェにしても、今まで我慢して溜め込んだ心の中を吐き出す分には都合が良かったと思いますよ。それも、自分を追い込んだ原因の一人にぶつける事が出来たのだからね」
『スティレンも相当な我儘振りだったからな。これで多少は修正してくれればいいのだが』
部屋の角に並べられているスティレンの買い物袋をチラリと見た後でファブロスも言う。
「は…はぁ…」
ロシュはリシェの為に用意された大きく柔らかなベッドの上で、似たような寝顔で熟睡している二人を見下ろした。
仲直りしてくれたらいいのですけど…と困惑しながら、送り届けてくれたオーギュとファブロスに礼を告げた。
「あまり休めて無かったのではないですか?」
疲れが目に見えていたので休暇を与えたにも関わらず、このような形になってしまったので却って疲労が蓄積されたのでは無いだろうかと心配になった。
オーギュとファブロスはお互いに顔を見合わせた後、やがてふっと笑みを浮かべる。
「まぁ、少しはね…ですがお陰で収穫も得る事が出来ましたし。後程クロネ殿から頂いたリシェの杖に魔力を入れるとしましょう」
『うむ、私もオーギュが更に成長していくのを見るのは嬉しい。あの婆に感謝しなければな』
何の事なのか話が見えないロシュは、「何があったのです?」ときょとんとした顔で問う。
「面白い事があったなら私にも教えて下さいよ…」
やや拗ねたように訴えると、オーギュはそうですねぇと少し勿体ぶったように言った。
「今日は流石に遅くなりましたからね。明日の午後からまた仕事に伺いますから、その時にお話ししましょうか」
アストレーゼンの夜は深くなっていた。
ロシュは部屋の小窓を少しばかり開き、中に新鮮な空気が入ってくるように調整すると眠っている二人の布団をしっかり掛け直した。
寝顔もどこか似ている気がする。
「では私達はこれで。あなたも早く休んだ方がいいですよ、ロシュ様。これまで私の代わりにずっと仕事していたのでしょう?」
珍しく労いの言葉をオーギュの口から聞き、ロシュは思わず驚いた顔をしてしまった。
いつもは逆に真面目に仕事しなさいと注意してくるのに。
「はは、私は休みをちょこちょこ入れながら作業してましたから…まだ大丈夫ですよ」
「そう言って無理されちゃ困りますからね。ゆっくり休んで下さい。私の分の仕事も持っていかれては困りますからね」
軽度の嫌味を軽くかわし、ロシュは苦笑する。
「そんなに言うならもっと残しておけば良かった」
「ふふ…どの位残ったか明日の楽しみにしておきましょうかね。ファブロス。私達も戻りましょう」
『分かった』
静かにリシェの部屋から出ると、ロシュの私室へと向かう。
「ここからでも結局ベランダから出るんですね、オーギュ」
彼は絶対に螺旋階段を使わないのだ。
普通に飛び降りる気満々の彼は、そのまま室外に出た後にこちらを振り返る。そして当然だと言わんばかりに言い返した。
「こっちからの方が早いですからね」
「細かい性格なのに面倒臭がるんですから…」
オーギュがファブロスに声を掛けると、彼は何を求められているのかを理解したように主人の体内へと入っていった。
三日月が鮮明に見える空を前に、オーギュは「では、お休みなさい」と優雅に微笑むとすぐにそこから飛び降りて行った。
風がぶわりと室内を駆け抜ける。
前より長くなった髪を押さえ、ロシュはベランダに繋がる窓を閉めた。完全に一人になった室内を見回し、彼は自分の書斎机の椅子に近付く。
珍しく静かな夜。いつもならば、まだリシェも起きている。
日頃の疲れもあるだろう。たまにゆっくり休むのも大切だが、やはり少し寂しい。
「休もうかな」
柔らかな椅子に深く腰掛け、彼は一人呟いていた。
風に揺れるカーテンの隙間を縫うように日の光がちらちらと差し込み、スティレンの瞼を揺らした。洗濯済みの香りが染み込んだ柔らかな羽毛布団の中で呻き声を漏らし、うっすらと目を開ける。
そしていつもと違う感覚に少しずつ違和感を覚えた。
「…ん…?んん?」
目の前に塊が居る。
スティレンはガバッと体を勢い良く起こした。周囲を見回し、自分の部屋では無い事にようやく気付く。
「は…?何でここ…」
自分が司聖の塔のリシェの部屋に居たので、必死に記憶を探ろうと頭を押さえながら思い出そうとした。だが途中から記憶が抜け飛んでいる。
ええっと…と少しずつ記憶を呼び戻していると、リシェと殴り合いをしていたのを思い出した。
「あっ…!そうだ、あいつ…!」
言いかけた瞬間、全身がギシギシと痛みだす。そして頰も痛い。お互い散々暴れたから無理もなかった。
痛みに顔を歪めていると、隣の塊が蠢きその姿をちらりと見せてきた。
目元に少し痣が残ったままで熟睡しているリシェ。
折角の美少年が台無しだ。
「……無い!!くそっ」
「…は?」
夢でも見ているのだろうか。
もぞもぞと顔をシーツに埋めながら彼は眉間に皺を寄せ唸る。眠りが浅くなりつつあるのか、ひたすら身動ぎし続けていた。
そんな彼を無視し、スティレンは体を洗いたい衝動に駆られてしまう。自分の部屋ならば備え付けの浴室にすぐに駆け込めるが、他人の部屋だとそうもいかない。
この部屋は個室のシャワーは無さそうだった。リシェはいつもロシュの部屋にある広い浴室を使うはず。
どちらかと言えば潔癖症なスティレンは、湯を浴びずに寝入ってしまった事への罪悪感を感じずにはいられなかった。
「う、ううん…」
まだ呻くリシェ。
うるさいなぁ、とスティレンは小さく舌打ちする。すると、もぞもぞと蠢きながらリシェは寝言を言い出した。
何の夢なのかは謎だが、言い合いをしている模様。
「ぶ、無礼…無礼な!!俺のロシュ様を愚弄するな!!」
「うわ!!ちょっ…ちょっと、何!?」
「この偽者め!」
怒りながらその身を起こす。
「偽者!?何の話だよ!?」
起きがけに叫ばれ、スティレンはリシェからやや引きながら言い返した。
寝ぼけ眼のままのリシェはしばらく前を見ていたが、時間を置いた後でようやく「ん?」と周囲を見回す。
「あれ?」
スティレンと目が合った。
「何だお前…」
「何だじゃないよ、お前の方こそ何なのさ!」
「夢、か。変な夢を見た気がする…」
「偽者とか何とか言ってたよ」
「偽…」
お前に似ているような人間なんて居るものかとスティレンは見下すように言った後、改めて自分の一つ下の従兄弟の顔を見た。
そして顔に付いた痣にふっと吹き出す。
「んっふ…」
人の顔を見て笑うというとんでもなく失礼な行動に、リシェは不愉快そうに顔を顰める。
「何」
「だってさぁ…お前、俺が殴った痕残ってるんだもん」
リシェは目を丸くすると、彼もまたスティレンに指摘した。
「お前だって似たようなものじゃないか。人の事言える顔か」
「は!?」
自分の容姿に人数倍気を使うタイプのスティレンは、リシェの言葉に対し過剰に反応を見せた。そしてベッドから急いで降りると部屋に置かれている鏡台に向かった。
自らの顔を確認したと同時に、彼は「ひぁあああああ!!」と悲鳴を上げる。
彼もまた、顔のあちこちに痣や引っ掻き傷があったのだ。
自分を棚に上げて馬鹿にしてきたスティレンに、リシェはほら見た事かと呆れる。
「俺の事を馬鹿にする前に自分の顔も良く見る事だな」
しれっと毒を吐き捨てる彼に、スティレンはぐるりと顔を向けると苛立ちを噴火させる。
「お前がやったんだろ!!」
朝から良くそんなに元気な大声が出せるものだ。
「うるさいな」
「良くも俺の美しい顔にこんな事をしてくれたな!」
「どうせすぐ治るだろう」
リシェは自分の体のどこに怪我を追っても一向に構わないタイプの為に、相手がムキになって怒る気持ちが一切分からないようだ。
寝乱れた羽毛布団をしっかりと直しつつ、何故お前がここに居るんだと文句を言う。
あれから完全に熟睡していたので全く記憶が無いのだ。
「お前は別にいいだろうがね!俺は些細な傷でも命取りになるんだよ!」
「そんなに言うなら剣士に向いてないだろう」
流石に辞めてしまえとは言えないが、内心辞めればいいのにと思った。
気持ちの良い日差しの暖かみが徐々に増してくる。
湯を浴びたいなと思っていた矢先、ちょうど部屋の扉が軽くノックされた。
「おはようございます。起きましたか?」
「ロシュ様!」
遠慮がちに扉越しに声を掛けてきた主人に、リシェはすかさず反応した。ゆっくりと扉が開かれ、そろそろとロシュが遠慮がちに入って来る。
スティレンも姿を見せてきた司聖を前に出来る限り身を整え迎えて頭を下げた。
「おはようございます、ロシュ様」
「おはようございます、スティレン」
いつもと変わりない華やかな笑みを浮かべ、ロシュはスティレンに返事をした。
「よく休めましたか?」
「は…はい」
「ふふ、良かった」
ロシュは改まったスティレンに近付くと、彼の頭の上にそっと触れた。そして軽い魔法の詠唱を開始する。
「!」
触れられた頭上から、優しい暖かみを感じると共に全身の気怠さが少しずつ解消していくのが分かった。ロシュが得意とする回復魔法がスティレンを癒していく。
自分の体を包み込む金色と白色の美しい魔法の粒。それを目の前に、彼は思わず言葉を失ってしまった。
「あ…!?」
「折角の綺麗な顔に痣や傷が付いたままでは勿体無いですから。どうですか?鏡で確認してみて下さい」
彼の大切なリシェを殴りつけるレベルの大喧嘩をしてしまったので、もしかしたら怒られるのではないかと思っていただけに、ロシュのこの態度は予想外だった。
スティレンは頭を下げると、再び鏡の前に立つ。
あれだけ傷だらけだった顔はすっかり癒え、元の肌を鏡面に移していた。
「あぁ…戻ってる…!俺の顔が」
自らの頰に触れ、感動するスティレン。それを見てロシュはにっこりと笑った。
「お風呂も常に沸いていますから、ぜひどうぞ。昨日はそのまま寝入ってましたからすっきりしたいでしょう?」
「…は…えっと…いいのですか?」
まさか湯浴みまで提供されるとは思わず、スティレンはロシュに問う。
「ええ、ぜひ」
リシェの治療を施しながらロシュは言う。
「ロシュ様」
魔法を施されている最中、リシェは彼の法衣の腕を掴んだ。
「どうしましたか、リシェ?」
「ありがとうございます」
最愛の相手に礼を言われ、にっこりと微笑んだ。
「あなたも湯を浴びてきなさい、リシェ。疲れが取れますよ。それが終わったら朝ご飯にしましょうか」
こくりとリシェは頷く。ロシュが相手だと、彼は惚れた弱味のせいかどうしても素直に従ってしまうのだった。
浴室から二人が騒ぐ声が聞こえてくる。
その声を聞きながら、ロシュはテーブルに彼らの朝食の準備を進めていた。
スティレンの「ちゃんと洗え!!」という呆れた声に続くように、リシェのちゃんと洗っている!という反論が聞こえると思わずロシュはふっと吹き出してしまう。
「お前はだらだらと時間を掛けて洗い過ぎなんだ!!」
「何だって!?ガサツに洗うと肌に悪いだろ!!お前だって何さ、その磨いてただ流しましたって感じの洗い方!!風呂の時間は自分のメンテナンスの時間なんだから真面目にやるんだよ!」
顔はどこか似通っているのに、意識は完全に異なる。
あらかじめスティレンには浴室内にある物は全て遠慮無く使ってくれと言っていたのだが、大半は贈られてきた物で普段は見慣れない物が多い。
中には貴族御用達の石鹸や品質の高いシャンプーなども置いてあるので、高級志向な上に上流階級出身であるスティレンにとっては大変見逃せない様子。
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素材を生かしきれてないじゃないか、と彼は嘆いていた。
仲がいいのは良い事だとついニコニコしながら手を進めていると、いつものようにベランダ方面から風が舞い上がる。
おや?とロシュは目をそちらに向けた。
「おはようございます、オーギュ。午後から来るって言ってたのにもう来てくれたんですか?」
いつもと変わりない様子で手に書類を抱えて塔にやって来た彼を出迎えると、オーギュは一瞬目を見開いて停止する。
しばらく間を開けた後で思い出したように「…あ」と呟いた。
「そうでしたっけ」
「そうですよ。ご自分で言ってたじゃないですか」
「…確かにそんな事を言っていたような気がしますね」
どうやら体内のファブロスはまだ寝入っているらしい。
彼が目を覚ましていれば指摘してくれたかもしれないが、彼も主人同様に熟睡し続ける位疲れていたようだ。
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「!!」
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ロシュもまだ剣の無いリシェの為に、杖の命となる魔力を吹き込む方法を空き時間の合間に調べていたが、手掛かりが掴みにくく困っていた所だった。
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アストレーゼンの城下街に店を構える魔導具屋もあるが、大半は商品を販売するという程度のもので、石に魔力を詰め込める術者では無い。
あくまで販売者というスタンスの者が大半。
リシェは口をあんぐりさせたままオーギュを見上げる。
「オーギュ様」
「イベリスさんはあなたの持っている杖に魔力を詰め込めるように私をあの店に引っ張って下さったのでしょう。私にはそのような技術を持ち合わせていなかったから、注入するやり方を教えてくれた。あなた達が取っ組み合いの喧嘩をしている間にね」
オーギュの話を聞きながら、リシェはあのイベリスの発言を不意に思い出す。
焚べる者、というフレーズを。
彼は顔を上げて「そういう意味か…」と呟いた。
あの魔導具職人は先を見通していたのだ。
自分と近い場所に居るオーギュに、魔石を注入し杖を完成させる技術を習得させれば彼女が出向かずともその手間が省ける。
それにアストレーゼン内でも相当な魔法の使い手である彼ならば、注入される魔力も申し分無い。仮に石の力が薄れても、注入出来る者が居れば問題は無いのだ。
あの言葉は、【まっさらな石に魔法の力を焚べる】という意味合いなのだろう。
「取っ組み合いの喧嘩って」
ロシュは驚愕の表情でリシェとスティレンを交互に見た。
スティレンはバツが悪そうな複雑な表情をしながら、横に居るリシェを背後から軽く小突く。
何とかフォローしろと言わんばかりに。
「何故そのような」
困惑するロシュを前に、湯上がりでほっこりしたままのリシェは「はい」と返事をする。
「俺が短気を起こしてついスティレンを殴りました」
「は…はい!?」
まさかの自白にロシュは口をぱくぱくさせてしまう。
「殴りました。俺が、先に。腹が立ったから」
正直なリシェ。
「そうです。こいつがいきなり殴ってきたんです、俺の美しい顔に」
そしてそれに乗るスティレン。自分は決して悪くないと言わんばかりに。
「え…あ、は…!?」
「だ、そうですよ。ふふ、たまにはこういうのも良いのではないですか?リシェだって普通に男ですからね。彼は決して大人しい子では無かったんですよ。人間らしくていいじゃないですか。年相応です」
それはロシュのイメージをことごとく崩すようなセリフだった。
ええ…!?と何故か泣きそうな顔を向けるロシュに、オーギュは「大変元気で良い事ですね」と微笑む。
「…てか、自覚があるなら俺に謝れば?」
素直に自白したリシェに対し、不愉快そうにスティレンは小声で言う。
リシェはそんな彼を横目でちらりと見た後でふんと顔を逸らした。
「何を言う。お前も俺を殴っただろう」
「は!?正当防衛でしょ!?」
再び喧嘩が勃発しそうな勢いの二人を、オーギュがすかさず間に入り「やめなさい」と強く静止する。
「ロシュ様の前ですよ」
しかも彼の私室。
リシェはすぐに頭を下げて謝罪する。
「すみません」
「申し訳ありませんでした」
「まだ言い足りないなら後になさい。ロシュ様が朝ご飯を用意してくれたみたいですからね」
そういえば凄くいい匂いがする、と鼻を利かせたスティレンは部屋のソファの方に目を向ける。
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「あぁ」
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「リシェのお腹が鳴ってる」
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「違う。俺のせいじゃないし。俺から鳴ってないし。絶対お前だ。お前に決まってる」
また言い合いそうだ。
ロシュはふふっと笑うと、まあまあと二人を宥める。
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朝ご飯は逃げませんからね、と言うと彼らを食卓の前に座らせると食べなさいと促す。
空腹状態だった二人は早速食事を開始した。
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ロシュは分かりましたと言い、お茶の用意に取り掛かった。
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カップを温めている最中、ロシュは笑顔で「そうなんですよ」と言った。
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「そのまま帰すのもあんまりですからね。十分なおもてなしをしないと…」
「ええ。ちゃんとその辺は丁寧なおもてなしをして下さるようにお願いしています。あまり慣れていないので、気疲れさせないようになるべくお一人で過ごせるようにしていますし」
他者からの干渉を好まない彼女の性格を、良く熟知しているロシュだからこそ出来る気遣いだった。それでも単独で大聖堂に足を運んでくれるのは相当な進歩だと思う。
オーギュはセルシェッタとは顔見知りだったが、あまり会話をした記憶が無い。
ラウド家お抱えの使用人。それもかなりの歴史を通じて延々と紡がれている。
延々と使用人としてのレールを敷かれ続けているのもどうかとは思うが、それを代々誇りにしているなら何も言う事は無い。本人の気持ちは如何程なのだろうかと思うものの、それは本人から聞かない限りは知る由もなかった。
「日頃の疲れを癒して頂ければいいのですけど…出来る限りはのんびりさせますよ」
「そうですね…」
オーギュはそう言いながら朝ご飯に夢中になっている少年らに目を向ける。
「人前でがっついて食べないでよみっともない!」
「お前も勝手に俺の分を横取りするな、浅ましい」
「誰が浅ましいのさ!?まともにナイフとフォークを扱えないくせに偉そうにして」
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それを目敏く見つけてしまったロシュは、不思議そうに彼に聞く。その間にもリシェ達は騒ぎ続けていた。
「いえ…仲が良くて何よりですよ」
ロシュも思わず二人に目を向けると、苦笑いして「そうですねぇ」と同意する。
「あなたもまだお疲れでしょう。お茶を飲んで一息ついて下さい」
「ありがとうございます。…今日は仕事は程々にしましょうかね…他にもやる事もありますし」
淹れたての茶葉の香りが周囲を包み込む。
「リシェも自前の剣が無いと大変でしょうから」
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引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
神官、触手育成の神託を受ける
彩月野生
BL
神官ルネリクスはある時、神託を受け、密かに触手と交わり快楽を貪るようになるが、傭兵上がりの屈強な将軍アロルフに見つかり、弱味を握られてしまい、彼と肉体関係を持つようになり、苦悩と悦楽の日々を過ごすようになる。
(誤字脱字報告不要)
嫌われ将軍(おっさん)ですがなぜか年下の美形騎士が離してくれない
天岸 あおい
BL
第12回BL大賞・奨励賞を受賞しました(旧タイトル『嫌われ将軍、実は傾国の愛されおっさんでした』)。そして12月に新タイトルで書籍が発売されます。
「ガイ・デオタード将軍、そなたに邪竜討伐の任を与える。我が命を果たすまで、この国に戻ることは許さぬ」
――新王から事実上の追放を受けたガイ。
副官を始め、部下たちも冷ややかな態度。
ずっと感じていたが、自分は嫌われていたのだと悟りながらガイは王命を受け、邪竜討伐の旅に出る。
その際、一人の若き青年エリクがガイのお供を申し出る。
兵を辞めてまで英雄を手伝いたいというエリクに野心があるように感じつつ、ガイはエリクを連れて旅立つ。
エリクの野心も、新王の冷遇も、部下たちの冷ややかさも、すべてはガイへの愛だと知らずに――
筋肉おっさん受け好きに捧げる、実は愛されおっさん冒険譚。
※12/1ごろから書籍化記念の番外編を連載予定。二人と一匹のハイテンションラブな後日談です。
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