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第二十章
フルオート・サーヴァント
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「………」
「………」
…大変気まずい、とリシェは思った。
先日からロシュの実家のラウド家からやって来たというお抱えの使用人という女性がロシュの部屋に出入りしているのだが、彼の世話を自ら志願して行っている立場のリシェは妙に肩身の狭い気持ちになっている。
世話というより簡単な手伝い程度なのだが。
流石に立派な大人であるロシュは自分の事は自分でこなしているので、リシェはやれる範囲内の事を行っていた。
あまり深入りしない程度に。
だがこの使用人の女性ときたら、全身に動きが染み付いてしまっているのか特にやらなくてもいいような事まで踏み込んでくる。流石に異性の着替えの準備はしなくてもいいのでは無いだろうか。
完全に慣れているのか、普通に無表情で用意しているのを見て「そこまでやらなくても!」とロシュは恥ずかしそうにさけんでいた位だ。
それに対して彼女は無感情に何故ですか?と逆に問いかけてくる始末。
来客の立場なのだから、何もしなくてもいいと何度となく訴えているもののどうやら動かずにはいられないらしい。
そして今、ロシュは仕事の一部である大聖堂内の定例行事を行う為留守にしていた。
リシェは主人の部屋のソファで彼が戻って来るのを待ちながら溜めていた本を読んでいるが、その使用人のセルシェッタは室内の掃除を甲斐甲斐しく行っている。
定期的に部屋の清掃は自分もやっているものの、その文句の付けようもないレベルの清掃の徹底っぷりを見ているとまるでお前の掃除の詰めが甘過ぎると言われているような気がした。
「…あの」
リシェは思わず清掃に夢中になっている彼女に声をかける。
「はい」
その声にくるりと顔をこちらに向け、リシェの方に注目した。いかにも聡明そうな顔を細身の眼鏡で固め、一瞬とっつきにくい印象をひしひしと与えてくる。
タイプはオーギュと似ている気がするが、むしろこちらの方が話しかけにくそうだった。
「常にそうして動いているんですか」
休む事を知らないのだろうか。
さっきからずっと掃除に動いている。ロシュが出てからかれこれ二時間は経過しているだろうか。良くここまで休息も無く延々と動けるものだと感心しそうなレベルだ。
そんなにまでこの部屋が汚れているのだろうか。
セルシェッタは装飾品の小振りな壺を手に取り、綺麗な布で丁寧に拭きながら「ええ」とだけ返事をした。
「それがお仕事ですから」
「………」
どうにも彼女とは波長が合わない。
リシェは困惑する心の内を見られないように、同じように無表情を保ったままそうですか…と返した。
早くロシュが戻ってきてくれないものか…と悩んでいると、階下から激しい魔力の干渉を全身に感じた。
「あ」
下からぐぐっと魔力が噴き上げていく感覚。ぶわっと風が巻き起こり、室内のカーテンが舞った。
硬い靴の着地の音が数回聞こえた後、僅かに開いていた大窓を開けて司聖補佐役が姿を現した。
「おや…おはようございます」
それは彼のいつもの出勤風景だった。リシェはそれに慣れていたが、大聖堂にほとんど寄り付かないセルシェッタは怪訝そうに眉を寄せる。
決して上品な行動では無いのは確かだ。
「オーギュ様。おはようございます」
リシェは見慣れた相手の出現に、何故か助かったと思ってしまう。どうにも彼女と会話がしにくかったのだ。今まで関わってきた異性とは全く異なるタイプなだけに、どうしてもテンポが変に狂ってしまう。
前回会ったリゼラとは別の意味で狂うのだ。
「おはようございます、リシェ」
室内履きに履き替え、彼はいつものように部屋に入る。
「お久しぶりです。ベランダから出勤ですか」
セルシェッタは通常の入り口では無くベランダから入ってきたオーギュを良く思っていない様子だ。そこは確かに正規の出入口では無いのでそう思われても仕方無い。
いかにも不快ですと言わんばかりの言い方をしていた。
「ええ。毎度こうして入っていますが…」
「ちゃんとした入口があるのに何故そこから?」
「そこの螺旋階段が面倒なのです。魔法ならすぐに来れますし時間短縮になりますから」
「………」
両者共、クールな印象を与えそうな顔を持っている為にお互い顔を見合わせると空気が凍りそうな気がしてくる。
リシェは無言で二人を交互に見ていた。
見慣れたオーギュが来てくれたのは良かったが、さっきより居心地が悪くなってきた気がする。ロシュが早く仕事から戻って来てくれないかと今度は主人を望むようになってしまった。
「下から砂塵が入ったら困ります」
「入って来ませんよ。ここは高所ですし」
「その日の状況によって変わります」
「それは気付きませんでした。次からは軽く埃を払ってから室内に入るとしましょうか」
押し問答を繰り返すのも面倒なのか、オーギュはあっさりと引き下がるように言い笑みを浮かべた。
セルシェッタはそれ以上突っ込むのを止めると、再び清掃の手を動かし始める。
「ろ、ロシュ様はまだお仕事ですか?」
沈黙されるのが嫌で、リシェはオーギュに話題を振った。
「そうですね…聖堂に行ってから二時間位ですか。大体時間は三時間程度見積もっていますから、まだだと思いますよ。何か用件がありましたか?」
「い、いいえ…そうでは無いんですけど」
その間にも、セルシェッタは甲斐甲斐しく清掃を続けていた。まるで機械か何かのようだ。黙々と手を動かしている様子は、妙に異質な感じを与えてくる。
この調子だと、ロシュの実家でもそうなのだろう。
オーギュは黙って彼女に目を配らせると、リシェと同じ事を思ったのか「セルシェッタさん」と話しかけた。
彼女はきっちりと纏めた引っ詰め髪の頭をくるりと向け、声を掛けてきたオーギュを見る。
「はい。何でしょうか?」
軽く咳払いをした後、オーギュは完全に仕事モードに入ったままのセルシェッタに話を切り出した。
「あなたはここではお客様です」
「………」
「大切なお客様に、いくらラウド家の子息であるロシュ様の部屋だとしてもお掃除をさせる訳にはいきません。どうかお手を止めてお休み下さい」
至極真っ当なオーギュの言葉だった。しかし彼女は自分の眼鏡を軽く直しながら無表情でオーギュを見返す。
「私はラウド家の使用人ですから」
「………」
「繋がりのあるロシュ様のお世話も仕事のうちだと認識しております。どうかお気遣い無く」
お固すぎる、とオーギュは笑顔を称えながら思った。
やらなくていいと言っているのに、彼女はどうしても自分の仕事を全うしたいのだろう。
「お屋敷から離れたらあなたは使える家の事は考えなくてもいいと思いますよ、セルシェッタさん。ロシュ様もあなたがこちらでも仕事をされているのを知れば止めに入ると思いますが」
リシェは困った様子でセルシェッタを見ていた。
自分の立場では彼女を止めるだけの力は無いので、どうにかしてオーギュに止めて欲しい。
一番いいのは主人であるロシュが早々に戻ってきてくれるのが理想的だ。だが彼はまだ戻る気配が無い。
仕事の手を止めろと言われたセルシェッタは、オーギュに対し怪訝そうに眉を顰めるとこちらに身を向け「そうもいきません」と事務的に返事をする。
「私の仕事はラウド家の内外関わらず主人の身辺や環境を完璧に整える事だと思っております。気になった場所は即対処する。一つの塵も目に付けば取り払うのは当然です」
キツい…とリシェは呻き声を上げた。
だからひたすら室内の清掃をし続けているのだろう。気になったらどこまでも気にするタイプだと思った。
そしてそろそろとオーギュに目を向けると、彼もまた心底やりにくそうに表情を歪めている。
明らかに面倒臭いと言いたげな顔だった。
「ここはラウド家ではありません」
「ええ、存じております」
「やらなくて結構ですよ。むしろやめて下さい」
もう丁寧に説明するのが嫌なのだろう、オーギュは簡潔にやるなと彼女を止めた。
流石にここまで言われては止めてくれるだろう。リシェは少し安心したが、間を置いて彼女が放った言葉にがくりときた。
「嫌です」
嫌です、だと。
ソファに腰掛けていた彼は脱力し、思わずずるりとバランスを崩していた。
完全に拒否の言葉をぶつけられたオーギュは、難敵相手に頭を抱えながら深く溜息を吐くと、困りましたねとできるだけ感情を見せないように呟く。まさか嫌ですとはっきり返されてしまうとは思わなかったようだ。
客人に掃除や雑用をさせる訳にはいかないのに。
ロシュが戻るのを待つべきかもしれない。ラウド家の子息である彼の言葉ならば、セルシェッタの動きを止める事が出来るだろう。
「…分かりました。お好きなようになさって下さい。ですがロシュ様はあなたがここで仕事をされるのは良しとしないと思いますよ」
匙を投げるようにオーギュは彼女に言うと、手にしていた書類をリシェの前に設置されているテーブルに置いた。
リシェは困った顔のままオーギュを見上げる。
「…オーギュ様」
「嫌だと言われればこちらにはどうする事も出来ませんよ。やめろと言っているのに嫌ですって断言するんですから」
「悪い事ではないんですけど、俺もどうしたらいいのか分からなくて」
オーギュ同様、リシェにも彼女を止める抑止力になれない。
居心地の悪さを感じたまま、彼はひたすら動いているセルシェッタの背中を見ていた。
「リシェ」
「は、はい」
「杖の調子はどうですか?」
この妙な空気を退けようと思ったのか、オーギュは思い出したようにリシェに問う。先日魔導具職人のイベリスから教わった方法で杖の石に魔力注入し、魔法の杖としてようやく扱えるようになったものの、それ以降異変が起こっていないか心配だったのだ。
リシェは「は、はい」と顔を上げて返事をする。
「俺がまだ未熟なのでなかなか使いこなせてはいませんが、注入前より魔法の威力が増しています」
「そうですか。何か気になる事があったらいつでも言って下さいね」
「ありがとうございます、オーギュ様。剣がまだ出来ていないのでこの機会に魔法の練習もしようかなって」
現在リシェの手元にあるのは宮廷剣士の支給されたシンプルな造りの剣しか無い。それでも武器としては十分だったが、丁寧に手入れはしているものの、長年様々な剣士が手にしているのもあって耐久度には不安な面もあった。
きっかけはどうあれ、剣の他に魔法の腕も磨きたいというのは教える側の立場は大変嬉しいし有り難い事だ。
「あなたがとても勉強熱心なタイプで私も嬉しいです」
最初にロシュが他国から来たリシェを側に置きたいと言っていた時はどうなるものかと不安だったが、彼は最初の想像をいい意味で裏切ってくれた。
変な意味で引っ掻き回してくれるのではないかと少しだけ疑問視していたのを恥じる位に。まさか相当真面目な性格だとは思ってもいなかったのだ。
見る者を狂わせそうな容姿を持っているだけに、ロシュを凋落させようとしているのではと疑ってしまったのを悔いる。
彼は貪欲に勤勉で、純粋にロシュを心酔し彼を守ろうと日々鍛錬を惜しまない性格だった。まだ若いだけにこれは非常に珍しいタイプだ。
その位の年齢だと、他の誘惑に目を奪われがちなのに。
「俺にはこれしかありませんし…」
褒められ、リシェは照れ臭そうに萎縮していると部屋の扉がゆっくりと開かれた。
「あれ…オーギュ、こちらに来ていたのですね」
「ロシュ様」
ようやくロシュが姿を見せてきた。
「お帰りなさいませ、ロシュ様」
そこでようやく掃除の手を止め、セルシェッタは頭を下げる。リシェはそれを見て何故かホッとした。
ロシュは困った様子でいつも家に居る時と変わらず仕事をしようとする彼女に目を向けると「セルシェッタ」と声を掛ける。
そして無表情のままで「はい」と返す本人は、手には清掃用の布巾と埃取りのモップを持っていた。
「お掃除をするのをお止めなさい」
あなたはお客様なんですから…とオーギュと全く同じ事を告げる。
流石にこれで止まってくれるだろうとリシェは思った。
「こちらでも止めたのですが…セルシェッタさんは非常に真面目過ぎる為か、どうしてもやらずにはいられないみたいで」
若干皮肉めいた言葉だが、とにかく止めてくれないのでどうしようもないとオーギュはロシュに言う。
しかし彼女はちらりとオーギュとリシェに視線を配った後、再びロシュを見た。黙っていれば小顔で顔立ちも美しく、ドレスや華やかな化粧を施せば相当映えそうだが表情は無のままだった。
感情があまり見受けられない。それだけに非常に勿体無い気がする。
セルシェッタはやはり表情一つ変化させずに「困りましたね」と口を開いた。
全然困っているような顔をしていないじゃないかと内心リシェは思ったが、彼女がどう切り返すか気になり無言になっていた。
「こ、困りますか?」
変に弱気になるロシュ。
「ええ。困ります。私の仕事はラウド家の方々の身の回りのお世話全般ですから」
「それは私の実家の中での話です」
「私は場所を離れようと、主人が居る限りは仕えるようにと教えられましたから」
頼むから切り離してくれ、とオーギュは思った。
こんなに固く自分の立場を固辞しようとする人間も見た事が無い。
はぁ、と深い溜息を吐く。
「…でしょう?こんな感じなのですよ…真面目過ぎます。どれだけ使命感に溢れているんですか…」
一体ラウド家でどんな教え方をされてきたのかと勘繰りたくなった。
一方のロシュは頭を抱え、言葉をひたすら選びながら説得を試みる。
「私は自分の事は自分でやれますし、今はリシェも居ます。なのでこちらでは寛いで下さって結構ですよ…」
リシェの名前を聞くと同時に、セルシェッタはソファに腰掛ける小さな剣士に目を向けた。当然のようにその細身をびくつかせるリシェ。
こっち見るな、と思いながら少しばかり縮こまる。
自分に向ける彼女の目が、何となくきつい気がした。
「彼がロシュ様のお世話を?」
「ええ、まぁ…」
「失礼ですがまだ子供ではないですか」
冷や汗を流すリシェは、恐る恐る近くのオーギュを見上げる。彼も何かを察したのか静かに首を振った。
言わせておけと言いたげに。
反論したいが、何故か阻まれる雰囲気を感じてしまう。
「た、確かにまだ幼い部分もありますが、この子は非常にしっかりしているのでとても信頼しているのですよ」
ほんの少しの塵も許さないタイプの彼女の目は、ロシュのフォローが続くに連れてリシェに注がれていく。
そして一方でリシェは、まるで大型動物に強く威嚇された小動物のように身を固くし続ける。
「恐れながらロシュ様」
「へ…」
「私にはこのような年端もいかない方が、あなたのお世話をしっかりして下さっているとは思えないのですが」
完全に敵対視されている。リシェはぞわぞわと全身の毛を逆立てさせながらセルシェッタの言葉を聞いていた。
何なんだこいつは、と思いながら警戒する。
「リシェは主に私の護衛と大聖堂のお仕事も兼ねていますから。私も子供では無いですし、彼にはちょっとしたお手伝いをお願いしているだけですよ」
「…………」
まじまじとした視線が目に刺さる。
「あなたは完璧過ぎるのですよ。少しは楽をする事を覚えた方がいいです」
几帳面過ぎる彼女には難しいのかもしれない。
毎日のように自分の家族や家の為に必死に仕事してくれているので家から離れている間は体を休めて欲しいと思っていたのに、普通にこちらでも動き続けているので驚いた。
少しは自分を甘やかしてもいいのではないだろうか。
「リシェ」
「は…はい」
間を置き、ロシュは縮こまっているリシェに声をかけた。
「ごめんなさいね、セルシェッタはとても真面目な方なのでつい厳しい言い方をしてしまうのですよ」
「い、いえ…俺は別に、気にしてないので…」
悔しいが、まだ一般的には子供だと思われても仕方無い。それはリシェ本人もよく分かっている。
頼り無く見えてしまうのだろう。
「しかしロシュ様。装飾品に埃が付いています。放置しておくと蓄積され、最悪健康被害も受ける可能性もありますが、その辺はどうお考えです?」
「そうなる前に拭きあげますよ…もう、いいですからあなたは落ち着いて休んで下さいってば」
詰問するセルシェッタに近付き、ロシュは彼女の手にある清掃道具をさっと奪うと、さあさあと背中を押しリシェと向き合う形でソファに座らせた。
部屋のソファは長椅子タイプに加えて同じ高さのテーブルを隔てた先に一人掛け用の物も置かれている。これはオーギュと仕事をする際に向かい合えるように後から用意したものだった。基本的に書斎机で仕事をする事が大半だが、たまにゆったりとしたソファに腰を掛けたくなる時があるので非常に重宝している。
ドスンとほぼ強引に座らされたセルシェッタは向かい側に居るリシェを何の遠慮も無くまじまじと見た。
「な…な、何ですか」
まるで厳格な学校の教師のようにも見えてくる。
黙っているオーギュは不意に過去の学生時代の事を思い出してしまった。
こんな感じの人、居たなぁ…とぼんやり考えていると自分の中で寝入っていたファブロスが覚醒する。
そして呑気なあくびを交え、彼は主人に話しかけてきた。
『(んん?…早いな、オーギュ。もうロシュの部屋に居たのか。ちょっと体を伸ばしたいな。出るぞ)』
彼が出てくるという事は、恐らく人の姿ではなく獣姿のままであろう。慣れているロシュやリシェならまだいいが、今は来客中だった。
しかも潔癖極まりないセルシェッタだ。あれだけ散々掃除に回っていたのに、いきなり獰猛な獣が目の前に現れたらどんな事になるだろうか。
しっかり手入れはしているが、流石に動物系の出現は予想もしないだろう。発狂してしまうかもしれない。
「え!!?ちょ…」
それまで黙っていたオーギュが突然声を上げたので、室内に居る面々は同時に彼の方に注目する。
「どうしましたか、オーギュ…」
「いえっ…ファブロスが、起きまして」
「ああ、ファブロスが起きたのですね。どうしたのかと思ってびっくりしましたよぉ」
オーギュは彼が出現する予告を告げる手の紋様を押さえる。だがそれは煌々と輝き、主人の意思に歯向かうかのように魔力の粒子が出現していた。
滅多に見ない光景に、セルシェッタも眼鏡のフレームの位置を直しながら見守る。
「何が起こるんです?」
「セルシェッタさん。これから私の召喚獣が姿を見せますが!どうか卒倒しない様にして下さい!が、外見は獰猛ですが大人しいので!!」
「は…?」
早く出させろ、というファブロスの声に押されるかのように光は更に強くなっていく。わっ、と声を上げながらオーギュは紋様の手を放すと粒子は目の前で姿形を象っていった。
「あ…あれ?」
思ったより具現化が大きくない、とオーギュは思った。
てっきり獣の姿で出てくるのかと思っていた彼は、今の状況を見越して人の姿で出現してくれるのかと少し安堵する。
セルシェッタはその不思議な光景に少しばかり驚いた面持ちで静観していたが、魔力の粒子の招待が明確になっていくにつれて表情を歪めていった。
「ええええええ…!?」
ロシュとリシェも思わず困惑する。
当然だ。人の姿で出たまでは良かったが、彼はその肉体全てを剥き出しにしたままの自然な姿だったのだから。
主人のオーギュは絶句するも、すぐにハッと我に返って叫んだ。
「ちょ…ちょっと!?ファブロス!!」
『ん?』
「何で全裸なんですかっ!!」
リシェは慌ててバスルームまで走っていた。流石に女性が居るのに完全な真っ裸は不味いと思ったのだ。
ファブロスは自分の体を普通に見た後で『ああ』と返す。
『昨日湯を浴びてそのまま寝入ってしまったからな。気付いたらオーギュの中で寝ていたようだ』
あくまでも普通に会話をしているのだが、彼は獣としての時間が長過ぎる為か間近に異性が居ようが気にしていない様子だった。まだ片膝を床に付いたままで、とぼけたようにそんなに慌てなくてもいいだろうと呆れる。
まだ辛うじて全てを晒してはいない。
大判のタオルやバスローブを手にリシェが戻って来る。
「オーギュ様」
「あ…有難うございます、リシェ。さあファブロス、これを」
持って来て貰った物を受け取り、オーギュは彼の体を隠す為にタオルを広げた。
『そんなに慌てる事か?全く』
ファブロスはそう言いながら立ち上がってしまった。
「待ちなさい!せめて隠し…」
浅黒く筋肉質の肉体が剥き出しになると同時に、何かが倒れる音が響いた。
全員、その激しい音のした方に目を向ける。
「あぁあああ!!せ、セルシェッタ!!」
「セルシェッタさん!」
ロシュとオーギュが同時に叫んでいた。
いきなり目の前に出現した全裸の体格の良過ぎる異性を見てショックを受けたらしい。頭が完全にシャットダウンしたのだろう。
彼女はそのまま意識をすっ飛ばし、完全に気絶してしまったのだ。
『ん?何だこの女は』
そしてファブロスはオーギュからタオルをようやく受け取りながら倒れた彼女を見下ろしていた。
「何だじゃないですよ…いきなり丸裸で出られたら当然驚かれますよ」
手遅れだった。
オーギュは溜息を吐くと、せめて今は獣の姿になりなさいと命じた。せめて服を身に付けたままだと良かったのに。
「うーん、ファブロス。なかなか良い体付きですねぇ」
その体格の逞しさをまじまじと見てしまうロシュは思わず感嘆の声を漏らしていた。
気を使う相手が完全に気絶してしまったので遠慮をする必要も無い。つい見惚れそうになるレベルの美丈夫っぷりに素直な感想を述べる。
『そうだろうか』
「ふふ、そうですよ。そして立派なものもお持ちで」
『だろう』
何を言い出すのか。意味深な会話を遮る形でオーギュは二人を止めた。
「今はその話をしていませんよ!セルシェッタさんが倒れたままじゃないですか!もう、どうするんです!」
「あの」
リシェは困り果てているオーギュに声をかける。
「俺の部屋でお休み頂くというのはどうでしょうか」
倒れたまま放置してしまう訳にもいかない。おずおずと手を上げながら申し出てきたリシェに、オーギュはホッと安心する。まだ年若いながらもしっかりしている彼に頼もしさを感じた。
こんな状況なのに変な会話をする誰かさんとは訳が違う。
「宜しいのですか、リシェ?」
「はい。今から別の布団を用意してきますし、その辺は大丈夫です」
定期的に寝具は変えているので、洗い立てのはすぐに用意出来た。自分が使っているのを来客に使わせるのも失礼だろう。
申し出てすぐ、リシェは準備してきますと一言言うと部屋から飛び出した。
「本来ならすぐにあなたが気を使うべきではないですか、ロシュ様。あなたの家に仕えて下さっている方なんですから。変な話をする状況じゃないでしょうに」
ファブロスは腰にタオルを巻き、呆れて説教を始めようとするオーギュに『まあ落ち着け』と宥めた。リシェが持ち出してきたバスローブはどうやらサイズが合わなかったらしい。
それにしても、その逞しさ溢れる肉体は同性ながら羨ましくなってしまう位に筋肉が隆々としていた。
「いやあ、あまりにも良い筋肉ですからね…」
「…まさか倒れてしまうレベルでショックだったなんて」
とりあえずリシェの準備が終わるまでソファに寝かせておきなさいとファブロスに命じると、主人の命令に忠実に従ってセルシェッタを抱えてソファに横たえた。
全裸の男が女性を抱えるという光景がまた異様だったが、幸い気絶した状態のままだった。
『過剰に反応し過ぎなのではないか、この女は』
「逆に私達も女性が全裸で出てくると慌てますよ。それと同じです」
『そんなものなのか』
召喚獣という立場では、羞恥心には鈍いらしい。
そんな会話をしているとリシェが再び室内に入ってきた。
「リシェ」
室内に入って来ると同時に、開け放していた窓の隙間から風が入り込み彼の黒い髪が悪戯に揺れる。
「準備出来ました」
「有難うございます。…早速ですがファブロス、セルシェッタさんをリシェの部屋に運んで差し上げて下さい」
また抱えるのかと少し文句を言いながらも、彼は忠実にセルシェッタを抱えた。
ほぼ全裸のまま女性を抱えるその様は流石に異様な雰囲気を感じずにはいられない。
『リシェの部屋に行けばいいのだな?』
「俺が案内する」
リシェはそう言うと、自分の部屋に繋がる扉を開きに向かった。セルシェッタも、柔らかなベッドで休ませてやればそのうち目を覚ますだろう。
ラウド家と同じ要領で延々と働かれても困る。
リシェとファブロスを見届けた後、オーギュはロシュに改めて問う。
「セルシェッタさんはいつまでこちらに?」
彼女が大聖堂にやって来てまだほんの僅かだったが、最初からこのような調子だと気持ちが落ち着かない。
近くでずっと細やか過ぎる活動をされるのもこちらとしても申し訳無い。止めろと言っても全く聞こうとしない性格なのは、先程の会話で良く分かった。
良く言えば真面目。悪く言えば融通が利かないタイプ。
説得しようにも、なかなか納得してくれなさそうだった。
「そうですねえ…どうやら向こうでも休暇らしい休暇を取ってくれなかったようですし」
「休暇を与えなかったという事ですか?それはいけませんよ」
大問題になりますよとオーギュは眉を顰める。
だがロシュが返す言葉は予想もしないものだった。
「いえ、何度も何度も休みなさいとご本人に申し上げたんですよ。それなのに普通に仕事をしようとするのです」
「…えぇ…?」
休む事をしたがらないという訳か。
大抵の人間は休みたいと常に思っているものだと解釈していたのに、流石に斜め上過ぎた。
単に体を動かすのが好きなタイプなのか、または仕事が好きで好きでたまらないのか。
「ですからこちらも困ってるんですよ。昔からいくら休めと言っても聞かないんですから。多分実家側も、そんな彼女に休暇を与えたくてこちらに寄越してきたのかもしれません。屋敷から離れれば、仕事から解放されますし」
「解放どころか、逆に我が道を行くレベルで動いてましたがね」
あの手際良く清掃をこなしていくセルシェッタを思い出し、オーギュは脱力するように言った。
ううん、とロシュは頭を抱える。
「とりあえずあの人をいつ返せばいいのか具体的に聞かなければならないし…休暇を与えるつもりなら休んで貰いたいですが、肝心の本人がいつも通りなのですから」
再びリシェとファブロスが部屋に戻ってきた。
オーギュはタオル一枚のみのファブロスを見て、流石にこのままではいけないなと思う。
「…ファブロスの着替えを持って来ます。流石にタオル一枚のみはあれでしょうし」
大層な肉体美を延々と披露されても周囲が困惑するだろう。
セルシェッタの件は普通にロシュに任せておけばいいか、と思いオーギュはそれ以上突っ込まないようにした。
「わ、分かりました。私は実家に宛てて伝書の作成でもしましょうかね…ええっと、リシェ」
ロシュはリシェに声をかける。小さな騎士は主人の呼び掛けに、すぐさま「はい」と返す。
「すみませんが、今から作る伝書を私の実家の方へ届けて貰えませんか?一緒に地図も渡しますので、城下街のラントイエ地区の私の実家に届けて欲しいのです」
「は…は、はい!」
ロシュの実家と聞き、リシェは思わず畏まってしまう。
初めて彼の実家に行けるのはいいが、果たして自分が足を踏み入れてもいいのだろうかという漠然とした不安に駆られてしまう。
「あの」
「どうしましたか、リシェ?」
「俺が行っても大丈夫でしょうか?」
臆した様子を見せるリシェに、ロシュはついふっと微笑んだ。そして彼の前まで足を進めた後にそっとその頭を撫でる。
初めて赴くのだから不安がるのも無理は無い。
「いずれはあなたを紹介しようと思っていたのです。私も同行出来れば良いのですけど…お仕事が立て込んでいますからね。あなたの事もちゃんと書いて説明しておきますから安心して下さい」
「分かりました」
口では了承したものの、やはり不安だった。
最愛のロシュの実家に単独で足を運ぶ上に、初めて彼の親族と顔を合わせるとなれば緊張感が増してしまう。
複雑な顔を見せるリシェに、ロシュは「おやおや」と苦笑した。
「私の両親は至って普通ですから大丈夫ですよ」
「それはロシュ様を見れば分かりますが…」
固くなるリシェ。
そして主人を見上げた。
「緊張します」
「単に伝達係として気楽な気持ちで行くと良いですよ。何も取って食べようとしている訳ではありませんから」
「頑張って行こうと思います…」
畏まるリシェの姿勢がまた愛おしく見えてくる。そんな彼の頭を優しく撫でた後、ロシュは待ってて下さいねと書斎机に向かった。
その間、ファブロスはオーギュに言われたのか獣姿に変わり周囲を徘徊する。
『ロシュ』
「はい」
『窓を開けてくれ。ベランダに出たいのだ』
彼は机に向かおうとしていたロシュに訴えた。窓は僅かな隙間だけ開かれていたが、流石に大柄で角の付いた姿ではガラスを割ってしまうかもしれないと察したのだろう。
はいはい、と素直に従うロシュは窓を大きく開いた。
日の光は少しずつ暖かさを増している。
「日向ぼっこですね、ファブロス?」
『そうだ』
「ベランダといっても狭いかもしれませんよ?」
のしのしとその大きな体を揺らしながら外に出たファブロスは、塔を覆う形で張り巡らされる通路のようなベランダを見回す。
巨軀な姿で日向ぼっこをするのは狭いかもしれない。
『上はどうだ?屋根は頑丈か?』
「上ですか?…まあ、定期的にメンテナンスはしていますが乗った事はありませんよ…一応司聖の塔は頑丈そのものですが」
『ふむ…上の方が気持ち良さそうだな』
ファブロスは鼻先を上に向けながら呟く。そして屈強な足に力を込め、ベランダの枠に飛び乗るとそこから更に上の屋根に上がって行った。
ロシュは「うわわ!」と声を上げて驚き、思わずかくりとバランスを崩す。煉瓦造りの屋根は急な重みでガタガタと不穏な音を上げ、稀に粉を落とした。
「だ、大丈夫ですか?ファブロス?」
姿が見えないままの召喚獣に声をかけると、空からファブロスの返事が聞こえた。
『まあ、大丈夫だが不安定だな。ここでは人の姿の方が安全そうだ』
「まあ、確かに…すぐにオーギュが戻って来てくれますから、人の姿になって日向ぼっこをしていて下さい」
『うむ』
まさか自分が生活する司聖の塔の屋根で、全裸の男が普通に日向ぼっこをするのを目の当たりにするとは。
オーギュが戻ってきたらどんな顔をするのだろう。
「ファブロス、危ないので足元には気を付けて下さいねぇ」
見えない場所に居るファブロスに向け、ロシュは心配しながら叫ぶ。
今までの司聖の中で、自分が唯一屋根の上に上がった者を見たかもしれない。流石に高層階とも呼べるべき塔の一番上に上がろうとする者は居るはずもないだろう。
しかもここは尖塔だ。多少は腰掛けられるスペースもあるかもしれないが、それを探すのも厳しいだろう。
『普通に座れるスペースを見つけた。どうだ、ロシュ?』
まるで自分の思っている事を見透かすかのように上から声が降ってきた。
「い…いえ、遠慮しておきますよ。オーギュが戻って来たらこっちに戻っていらっしゃい」
『そうだな。あいつが戻って来たら怒り出すかもしれない』
長く寄り添っていくうちに、どうやら自分の主人がどんな事を嫌がる傾向にあるのかを理解してきたようだ。
それはそれで成長とも言えるのだろう。
彼の場合、危なくなったとしても魔法を持ち合わせているのでそこまで深刻に心配する必要も無い。
ロシュは再び部屋に足を踏み入れると、「さて」と声を放つ。書斎机へと赴くと、早速実家に宛てて書面を認める準備を始めた。
その間、リシェはソファに腰掛けたまま緊張感に満ちた顔を定着させている。やはり初めて向かうロシュの実家へ行くという行動に戦々恐々としているようだった。
「ちなみに」
「は、はい」
「私の実家の近くに、ルイユとルシルの家もあるのですよ。もしかしたら偶然再会するかもしれませんね」
あの強烈な双子の顔を思い出すと、リシェは余計に困惑した。あのトラブルメーカーの二人に会っても、禄な目に合わない気がするのだ。
なるべく会わないように心掛けたい。
「いや…今はロシュ様に与えられた用事だけを済ませたいと思います…」
単にロシュのお使いに行く為に向かうのに、出来れば会いたくない。むしろ、とにかく顔を合わせたくなかった。
苦手というよりは面倒。
「おやおや」
ロシュは今まで散々振り回されていたのを思い出したのか、ついふふっと微笑んだ。彼の気持ちを察したのだろう。
「お使いに向かった後は好きな時間を過ごしても構いませんよ。今日は兵舎の任務も特に無いのでしょう?」
「はい。今日はそんなに任務も無いので…」
行けばそれなりにあるのかもしれないが、現時点では自分の所属する班の与えられた任務は主に座学や小さな仕事ばかりだった。午前中に終了する場合もあり、ある意味休養期間のようなものだ。
自分が行っても士長のゼルエにやる事は特に無いから帰れと言われてしまうだろう。ロシュの元での仕事内容も考慮しての事かもしれないが、こちらでも特別に動きは無いので黙っているしかない。
ロシュもリシェに気を使っているのだ。
「それなら城下の方でいろいろ探索するのもいいかもしれませんよ。今日もとても天気がいい」
そう言われ、リシェは窓の外に顔を向けた。
時間が経過していく度に室内に入り込んでくる風も優しく暖かくなっている。外に出れば気分も高まるかもしれないが、リシェは困ったように眉を寄せた。
「俺、ロシュ様とご一緒だったら楽しめると思うのです」
一人で行っても仕方無いと言わんばかりに少し愚痴を込める。
「嬉しい事を言ってくれるんだから、リシェは」
思いっきり抱き締めてあげたくなってしまうのを抑えつつ、ロシュは用意した便箋にサラサラと文字を認めていった。
公的な文書ならば、上質な紙で特殊な紋様の付いた便箋を主に利用するが、私的に使う場合は出来るだけ簡素な物を使用する。それでも一般に使うものよりは高品質の紙だ。
ペン先に引っ掛けても滲みにくいその紙は、非常に万年筆との相性も良い。
「私の仕事に余裕が出来たら、お忍びでご一緒に遊びに行きましょうね」
しょんぼりしているリシェを慰めるようにロシュは言った。
「前みたいに宮廷魔導師の法衣で変装しましょうか」
出会って間もない頃、変装してリシェと一緒に城下に遊びに行った事を思い出す。お互いまだ緊張していた時期だ。
その頃からリシェが常に自分の側に居てくれたらという気持ちが大きくなっていた。
念願叶って常に一緒に居られる今は、充実感で満たされていた。出来るものなら片時も離れたく無いが、それは我儘というものだろう。
「はい、ロシュ様」
リシェはふっと大人びた微笑みで言葉を返した。
自分の実家へ宛てた手紙を書き終えると、ロシュは丁寧に封書にして椅子から立ち上がる。
「さて…ではこの手紙を私の実家に送って下さい。地図も準備しますね」
「わかりました」
リシェがロシュから封書を受け取っていると、いつもの如く階下から風が巻き起こりカーテンが激しく揺れる。外から着地する靴音が聞こえた後で「ファブロス」と冷静な声が耳に響いた。
「お帰りなさい、オーギュ。ファブロスは屋根の上で日向ぼっこをしていますよ」
「はい?」
衣類を手に戻って来たオーギュは、ロシュの発言に疑問を抱く。やはり意味が分からないようだ。
この塔の屋根に休める場所などあるはずもないと思っているのだ。普通の人間はまず上がる事など不可能なのだから。
「屋根?」
思わず彼は室内の天井を見上げる。
「そう、屋根ですよ。ちょっと待って下さいね」
そう言いベランダに出ると、ロシュは空を仰ぎ見て「ファブロスー」と声をかけた。
『ん?』
「オーギュが戻って来ましたよ。降りて来て下さ…」
そう言い終える前にオーギュは再びベランダに飛び出していく。うわわ、とロシュは思わず怯んだ。
彼は魔法で屋根の上まで浮上すると、同時に呆れた声を上げていた。
「…屋根の上で全裸で寛がないで下さい!!」
彼も今までこんなセリフを叫んだ事は無いだろう。
上から降り注いでくる言葉に、ロシュとリシェはつい顔が綻ぶ。
『獣のままでは壊れると思ってな』
「服を持ってきましたからとりあえず着なさい!!」
『このままでも良いんだが』
「やめて下さいよ、いくら見えにくい場所だろうが全裸だと変に思われます!!」
二人の会話を聞きながら、ロシュは地図をリシェに手渡す。
「ヴェスカの悪い癖が移ったんでしょうか」
「…ヴェスカも全裸になる癖があるんですか?」
「はあ…まぁ」
受け取った地図に目を通した後、リシェは自分の宮廷剣士の制服の胸ポケットの中にそれを折り曲げて突っ込む。
「では早速行ってきます」
「ありがとうございます、リシェ。気を付けて行ってらっしゃい」
書簡を受け取ったリシェは一礼すると、速やかに部屋から出て行った。彼は行動が早いのですぐに結果を持って来てくれるだろう。
さて…と改めて仕事に掛かろうと机に向かっていると、ふわりと風を巻き起こしながらオーギュが室内に戻ってきた。
「ああ、もう」
「お帰りなさい、オーギュ。屋根の上にいいスポットがありましたか?」
「何がですか」
呆れたままのオーギュに対し、ロシュはとぼけた質問をぶつけた。
「日向ぼっこに最適の場所があるのかと思って」
「それを知ってどうするんです?どちらにしろ危ないですよ」
「そうですかぁ…いい場所があったら気分転換にいいかもしれないなって思ったんですが」
無表情のままのオーギュ。
その何の感情も無くこちらを見る視線が妙に怖い。変に刺さってきそうな雰囲気を醸し出してくる。
ただでさえその切れ長の目は非常に冷静極まり無いのに。
「冗談ですよ…怖いからやめて下さいって」
「リシェは?」
「ああ、あの子は私の実家の方へ言伝をお願いしました。ついさっき出て行きましたよ」
そうですか、といつもの法衣の上に纏っていたケープの金具を外すとソファの背もたれにそっと置いた。
「仕事に取り掛かりますか…」
そうオーギュが言うと、司聖の塔と隣り合わせの時計塔が一定の時刻を知らせる鐘が鳴った。近くにある為にその音はかなり響く。
昔ながらの建物の為に、こればかりは対処し難いものだ。場合によっては耳を塞いでやり過ごす時もあった。
風向きなどで、ほぼまともに聞かされたりもするのだ。
「忘れてました」
ロシュは慌てて時計塔側の窓を閉じて鳴り終わるのを待った。オーギュも慣れたように耳を塞ぐ。
全身が鐘の音でビリビリと痺れた感覚に襲われながら、これはあまり健康に宜しくないのではと危惧してしまう。
毎回良く我慢が出来るものだと。
「今更ですが、時計塔側に音を吸収する壁でも探しますか…何もしないよりは良いですしね」
「まあ、一日に数回のものですからね。我慢出来ない訳ではないのですが、びっくりしますよね…」
言いかけたその時、屋上から何かが崩れるような物音がした。不意に天井を見上げたオーギュは「ああ」と呟く。
鐘が鳴り終えると、ほぼ同時にファブロスが部屋に飛び込んで来た。
「お帰りなさい、ファブロス」
『…急に鳴り響くから驚いたぞ!!』
言われた通り、しっかり服を着込んだ彼は若干乱れた姿で叫んでいた。休んでいた所での激し過ぎる爆音だったので余計驚いた様子だ。
オーギュはよろめくファブロスに近付き、彼の服に付いた汚れを丁寧に大判のテープで取り払う。獣の際に体毛が散る時を予測して予め準備をしているようだ。
様々な場所で撒き散らす訳にはいかないと思っているかもしれない。
「隣は時計塔ですからね。離れていてもこちらは近いですから良く響くのですよ。これに懲りて屋上で日向ぼっこはしない事です。しかも全裸で」
オーギュ的には全裸で行動をして欲しくないようだった。獣の姿ならまだ分かるようなものだったが、人の姿では流石に神経を疑うレベルなのだろう。
反論出来ず、ファブロスはぐっと奥歯を噛み締めつつ天井を見上げていた。
司聖の塔の階段を降り、大聖堂の中庭に出る。リシェはロシュの実家に向かう為に正門へ足を進めていた。
常に変化の無い風景を見過ごしながら、出入口へと近付いていく。
「あれ、先輩?」
門番をしている宮廷剣士の一人が、リシェの姿に気付き声をかけてきた。
顔を上げ、正面に目を向けると門番の任務をしているラスと遭遇する。
彼は相変わらず明るい表情をこちらに見せながら手を振ってきた。
「ラス。今日はこっちに回ってきたのか」
「はい。一班の方で人数欠けたみたいで…本当は座学の方だけど、こっちに回った方が楽だし…何より補助手当も来ますからね」
抜け目の無い彼に、リシェはふっと吹き出した。
「現金な奴だ」
「そう言う先輩こそ何処に行くんですか?まさか仕事しに行くとかじゃないですよね」
行っても今日はほとんど仕事なんて無いじゃないですか、と少し疑うかのような目を向ける。真面目なリシェを彼なりに心配しているのだろう。
宮廷剣士の任務の他、別で護衛の仕事をこなそうとする。張り切って動きたがるのだから、ある意味タチが悪い。
スティレンは放っておけと言うが、やはり心配になるのだ。
「いや、今日は用事があって行く場所があるんだ」
「本当ですか?」
まだ疑うような目を向けるラスを見上げ、リシェは「言伝に行くんだよ」と説明する。
「ロシュ様の家に行かなきゃいけないんだ」
「へぇ…」
司聖の実家となれば相当なお屋敷なのだろうな、とラスはぼんやりと考える。そもそも、司祭や魔導士になる人間は家庭環境も申し分無い人間が大半だ。民間から進んで行く者も居るが、それは少数派だと思う。
一般人にとって、特別視される魔法に触れる機会も少ないのだ。
「実家ってどの辺りですか?」
「えっと…ラントイエ地区だな。行く事も無いから地図も貰って来た。ほら」
リシェは自分の制服の胸ポケットから預かった紙を広げてラスに見せる。
「ああ、やっぱりそっちの方向なんですね。貴族階級が良くお屋敷を建てたがる地域ですよ」
「そんな立派な場所なのか」
再び地図の紙をポケットに戻しながら、リシェは更に緊張してきた。果たして自分が入り込んでもいいのだろうかと。
「あそこに入るには住民章とか必要だったりするんですよ。何というか、嫌味な感じがしますよねぇ。先輩、ロシュ様から何か預かっているのですか?」
「え、そうなのか?…うーん、特に何も預かってないのだが…説明して聞き入れてくれるのかな…」
警備する側はロシュの顔を知っていても、リシェの顔までは分からないかもしれない。彼の特別な護衛剣士だとしても。
リシェは一旦戻って許可証が必要か聞いてこようか…と困惑していた矢先、塔の方向から駆け寄って来る足音が聞こえてきた。
ちょうどいいタイミングというべきか。
「リシェ!」
「オーギュ様」
司聖補佐の姿に、ラスも頭を下げた。
「あぁ、良かった…全くロシュ様は肝心な事を忘れるのだから。ラントイエ地区に行く為の許可証を持って行ってないでしょう?」
「あ…は、はい!」
今ちょうどその話をしていた所だったと説明すると、オーギュは安堵した様子で「良かった」と胸を撫で下ろした。
「ラスが教えてくれたのです」
「そうだったのですね。あぁ、呼び止めて下さってとても助かりましたよ」
彼はそう言いながら許可証をリシェに持たせた。
「それを地区の入口の警備員に見せて下さい。すんなり入る事が出来るでしょうから」
「ありがとうございます、オーギュ様」
「あの人は顔パスでしょうから大切な事が抜けるのですよ、本当に。このまま手ぶらで行くとかえって時間の無駄になるというのを忘れてしまうんだから」
文句を言いながらもしっかりロシュのフォローをするのが彼らしい。
「あの辺はとにかく見栄っ張りで嫌味な人が多いんですよ。自分の敷地外から入って来る人間を嫌がる方も少なからずい居ますからね。何かあってもあまり気にしないように振る舞いなさい。幸い、ロシュ様のご実家はそのようなタイプではありませんからその辺は安心して下さい」
「オーギュ様のご実家もこちらの地区に?」
「ええ、そうです。ですが私の所はいいのですよ。見栄っ張りな方ですからね。ある意味世間知らずな家ですので」
「はぁ…」
あまり踏み込んではいけない気がして、リシェはこくりと頷くだけに留まった。自分も似たようなものだ。
オーギュはラスに目を向けると、ふっと微笑み「ありがとうございます」と改めて礼を告げる。
「あなたが足止めをして下さったお陰で移動が最小限に済みましたよ。運動が苦手なのでね」
「いえ!俺はただ、先輩の姿を見かけて呼んだだけですから…」
自分にとって雲の上の存在であるオーギュに礼を言われると、物凄く勿体無い気がしてラスは恐縮してしまった。目の前に居るのですら信じ難いのだ。
ラスはそのままリシェとオーギュに「俺、任務に戻りますので」と一言告げる。
「余裕があったら兵舎にも顔を出して下さいね、先輩」
「ああ。分かった」
見たままの印象では儚げな姿のリシェが彼よりも下に見られがちだが、宮廷剣士の経験ではリシェの方が上だ。
年齢ではなく、剣士は入った順番で立場が決まってくる。
「真面目そうな子ですね」
任務に戻って行ったラスを見送るオーギュはそう言って微笑む。
「はい。よくスティレンと連んでいます。同じ年みたいなので」
「へえ…ではあなたとは一つ年上なのですか」
こくんとリシェは頷く。
「真面目なタイプなのに、我儘過ぎるスティレンと話が合うのはお互い同じ年だからなのでしょうか?」
自分とは喧嘩が多いのだが、ラスはあまり彼と揉めない。自分が知っている限りでは皆無。
あれだけ人と揉め事を起こしがちな要素を持っている従兄弟なのに不思議だった。
「ううん…どうでしょうねぇ。それもあるのかもしれませんが、意外に性格が合うのかもしれませんよ。全くタイプが違うのに妙に一致する事もありますしね」
「オーギュ様はどうなのですか?」
予想もしなかった質問を受け、オーギュは一瞬言葉を詰まらせた。リシェが聞きたいのは常に一緒に居るロシュに対してなのだろう。
自分では合わないと思っているが。慣れ過ぎたせいか、麻痺しているのかもしれない。
「見る限りでは相性が良いと思いますけど…長いお付き合いだと思いますし」
「まあ、付き合いは長いですよ。長ければ長い程お互い知り尽くしますからね。腐れ縁のようなものです」
敢えて合わないとは言わず、ぼかして答えた。
あまりがっかりさせるのも良くない。
「さあ、リシェ。早々に用事を済ませて来なさい。あの面倒な場所は行ってすぐに出るに限りますから」
その言葉で、一体どの位面倒な場所なのだろうかと思ってしまう。
故郷のシャンクレイスの貴族階級と似た感じなのだろうか、と。いずれにしろ特有のしがらみも関係しているのかもしれない。実家から離れた自分達には、非常に面倒だと思う気持ちも分からなくも無かった。
一見華やかに見える反面、上流階級特有の人間の歪みや醜さを感じやすい環境だ。そこから身を離せば、それがいかに異常なのかを理解しやすい。オーギュはそれを良く知っているのだろう。
そこから切り離された自分はまだマシかもしれない、とリシェは思う。
「はい。すぐに戻ります。オーギュ様」
リシェはそう告げると、頭を下げて大聖堂を後にした。
色とりどりの織物を興味深そうに見廻しながら、ヴェスカは「随分と買い込むんだな?」と側で品物を見繕っている少女に声をかけていた。
アストレーゼン城下街の中心部は様々な店舗や路上販売の業者でひしめき合っている。各地方から人々が集中しやすいのもあり、それぞれの特産品や工芸品など多数のジャンルの品物が購入しやすいので挙って店を構える者が多い。
大聖堂お抱えの裁縫師の服を身に纏う活発そうな少女は急に湧いて出たように声をかけてきた大男を、鬱陶しそうな様相で見上げていた。
その細腕には鮮やかな色を放つ生地の入った紙袋を抱えている。
「いきなり何だよ、暇なのか?」
気品を感じさせるデザインの衣装とは逆に、ショートヘアで茶色い髪の活発そうな裁縫師は遠慮の無い言葉使いでヴェスカに問う。頰と鼻に一直線に集中するそばかすが特徴的な彼女は、以前ヴェスカとリシェによって救われたマルテロだった。
「暇っていうか、今日は休みなんだよ」
「あぁ、なるほどね。暇だからこっちに出てきた訳だ」
「そうそう。んでたまたま見つけたから声をかけたっていうね」
マルテロは紙袋を抱えたまま「へえ」と理解した。
「休みなのに誰からも構って貰えないのか」
久しぶりに会ったにも関わらず、あまりの毒舌っぷりにヴェスカはがくりとバランスを崩してしまった。
あまりにもはっきり言わないで欲しい。
「お前なぁ」
「あ、これちょうだい!この青いの」
突っ込もうとするヴェスカを完全にスルーし、マルテロは店の店主に気に入った生地の購入を訴えていた。店主の愛想の良い返事を聞きながら、小馬鹿にされ続ける大柄剣士はややいじけた顔を見せる一方で彼女が大分調子を取り戻した事に安心する。
あの残酷な環境から少しずつ立ち直ってくれれば何も言う事は無い。母親とその恋人が魔力に干渉を受けた獣に食われてしまったのを目の当たりにしたショックは当人でなければ計り知れないものだっただろう。
しかも彼らは反抗的だった彼女を街の外部に捨てようとしていた。
反抗的だったとはいえ、マルテロ自身も母親の愛情に飢えていたに違いない。こちらに来た事で、少しでも他者からの愛情を受けられたらいいと不器用ながらもヴェスカは願っていた。
「いつもありがとうね、マルテロちゃん。少し長くサービスしといたよ」
「本当!?ありがとね、おばちゃん!」
新しい紙袋を受け取ったマルテロは、満面の笑みを見せて礼を告げる。どうやら相当馴染みのある店のようだ。
嬉しそうに金銭のやり取りを済ませた後、彼女はヴェスカを見上げながら「あんたはこの後どうするの?」と問う。
「あたしはもう用事は済ませたし戻るけど」
「何だ、他に用事は無いのか?」
「あまり居過ぎるとお金使っちゃいそうだし。ただでさえ城下街は人がいっぱいで人酔いしちゃいそうだからいつも目的の物を買ったらすぐ戻るようにしてるんだ」
確かに城下街の中で行き交う人々の群れを見るだけでも萎えてくる。彼女のような地方の街出身だと、余計そう感じるのかもしれない。
ミルトランダも決して小さくはない規模の街だが、アストレーゼンは相当な都会なのだ。
ヴェスカは頰を掻きながら「マジかぁ」と呟く。
「暇なら街の案内でもしてやろうと思ってたのに」
「あんた、本当に誰からも相手にされてないのな…」
「そっ、そんなんじゃねえよ!他の奴は任務だったりするんだよ!ひ、人聞きの悪い」
妙に焦る様子のヴェスカをマルテロはへぇ…と疑うような目線で見上げながら、まぁいいけどと返す。
「じゃああたしは戻るよ。街の案内はいずれやって貰おうかな。今日はこれからまたやりたい事があるからさ」
「そっかぁ。残念だなぁ」
これからどうしようか、と考えていると戻ろうとしていたマルテロは少し離れた通りを見て「あれ?」と声を上げていた。
こちらの人通りの多い路地の反対側…馬車の行き交う大通りを挟んだ向こう側で、宮廷剣士の格好をした小柄な少年がとぼとぼと歩いているのが見える。そしてヴェスカに声をかけた。
「何だ、良かったねヴェスカ。お友達が居るじゃん。向こうで歩いてるよ」
「んあ?」
お友達と言われ、思わず彼はその指し示す方向を見る。
「リシェちゃんじゃないか」
リシェはいつもの無表情で一人どこかへ向けて歩いていた。
「リーシェちゃーん!リーシェー!!」
その声は車輪が路面を響かせる音に紛れ、僅かながら向こう側で歩いている最中のリシェの耳に届く。彼は顔を上げてこちらを見ると、自分達の姿を確認し眉を寄せた。
ヴェスカは「おっ」と声を声を上げ、更に手をぶんぶんと振る。
「久しぶりに見たけど全然変わってねぇな」
紙袋を両手いっぱいに抱えながらマルテロがそう言うとほぼ同時に、リシェはこちらを避けるようにして走り始めてしまう。恐らく面倒だったのだろう。
関わりたく無いと言わんばかりにダッシュした。
「なっ!?おいこら!逃げんなー!!!」
逃げるリシェの後を、ヴェスカは大通りの喧騒をうまく回避しながら追った。
…数分後。
リシェは心底嫌そうな様子を剥き出しにしながら「何だよ」とヴェスカを見上げる。
すばしっこい彼を追い掛けた事で少しスタミナを減らしたらしいヴェスカは、息を切らしながらお前こそ何処に行こうとしてたんだと問いかけた。
「凄いな」
一方、ヴェスカのその執着心にマルテロは感心していた。
「一目見て相手から猛ダッシュで逃げられているのに、普通に追い掛けるなんて。普通なら後追いするのをやめようって思うよ。めっちゃ避けられてるのを全く理解してないのが凄いわ」
褒めているのか馬鹿にしているのか分からない発言だったが、恐らく後者なのだろう。それでも相当楽天的なヴェスカは「えへぇ」と能天気な笑顔で照れる。
「それほどでも~」
「こんな所でお前の顔を見なきゃいけないなんて。休みの意味がまるで無いじゃないか」
不愉快そうに愛くるしさのある顔を歪めるリシェ。
「聞いたかヴェスカ?めっちゃ嫌がられてるじゃん」
「リシェちゃんは毒を吐くからなぁ。全く、小憎たらしいっていうか何と言うか。まぁ、そこが可愛いんだけどさ」
リシェは隣に居るマルテロに目を向けると久し振りだなと話しかけた。しばらくぶりに再会する彼女は、リシェの目から見ても雰囲気が以前と変化したように見える。
表情は活気に溢れ、毎日が楽しそうだ。
「久し振りだね、リシェ。前はお世話になったよ」
「元気そうで良かった。…で、何でこいつと一緒だったんだ?買い物でもしてたのか?」
「あたし一人で買い物してたんだよ。んで偶然会った」
「そうそう。俺今日休みじゃん?だから街に出てみたんだよね、久し振りにさ。そう言うお前は何でこっちに出て来たんだ?滅多に城下に出ないくせに」
リシェはヴェスカを見上げると、少し困ったように「行かなきゃいけない場所があるんだ」と答える。
「ん?」
「急遽ロシュ様のご実家に書簡を届けなきゃいけなくて」
やや曇りがちな口調で言うと、ヴェスカは興味深そうな顔をした。
「ロシュ様のご実家って、めっちゃデカいんじゃねえの?」
「だと思う。ご用とはいえ、行くとなると気持ち的に憚られてな」
言いながらリシェは俯いた。
「お貴族様の住宅地にあるんだろ?あれ凄げぇよな、周りは柵で囲まれてて敷地分けしてるんだって。周りには警備員が居て、許可が無いと入れないって場所らしいよ。そりゃ行きにくいだろうさ」
少女らしからぬ粗雑な言葉使いのマルテロは、これからリシェが赴く場所について率直な感想を述べた。
それを改めて耳にすると更に気遅れしてしまうリシェ。
「初めて行くのか。それなら気が進まないだろうな」
ヴェスカは腕組みをしながらううんと唸った。
「何なら俺が付き合ってやろうか?どうせ暇だし」
「いや、いい」
仮にも上司からのありがたい申し出にも関わらず、リシェは即答して拒否しだす。
「どんだけ信用ねえんだよヴェスカ」
鮮やかな拒否っぷりにマルテロは思わず吹き出してしまった。だが全く気にしない様子のヴェスカは「まあまあ」とリシェの目線に合わせるように体を屈め、彼の肩に腕を回す。
「俺が居れば何かしら役に立てるかもしれないじゃんか」
「お前が居れば余計厄介な事が増えるかもしれないじゃないか。無駄に寄り道するし…あぁ、くっついてくるな!暑苦しい!!」
ぐにょぐにょとリシェの頬を捏ねながら、ヴェスカは俺が居て嬉しいだろ?とじゃれついた。
その様子からは非常に仲睦まじい様子だ。明らかに小さなリシェに纏わりつく様は、まるで大型犬のようにも思えてくる。
「仲良いな。…んじゃあたしはここで退散しようかな」
「これの何処に仲の良さが知れるんだ!むしろ連れて帰ってくれ!!」
絡み付いてくる太い腕を必死に避けようと試みるリシェは、荷物を抱えて来た道を帰ろうとするマルテロに訴えた。
しかし彼女はくるりと振り返り、悪戯っぽく笑うと「嫌だね」と突っぱねた。
「あたしのじゃねぇし」
「俺のでも無いぞ!!」
「どっちにしろ暇そうにしてるんだから相手にしてやりなよ。じゃあねぇ」
言うだけ言ってさっさと大聖堂へと戻ってしまうマルテロ。
残されたリシェは、押し付けられたヴェスカの横でがっくりと肩を落とす。
「そんなに嬉しかったか、リシェ?」
どう見てもこちらは落胆しているのに、ヴェスカは真逆の事を言い出していた。
「そんな訳…無いだろ…」
「よしよし、仕方無いから俺が付き合ってやるよ。んもー、リシェちゃんってば素直じゃないんだからなぁ」
「どこをどう聞いたらそんなおめでたい解釈出来るんだ?」
嫌だと言っても彼の場合は強引にくっついてくるのだろう。
リシェは諦めたように溜息を吐く。
「んで、今から行くんだろ?よしよし、着いて行ってやるからな」
「でも中には許可証が無いと入れないんだぞ。お前の分は持って来てないよ」
基本的に許可証は一人に付き一枚。
リシェは単独のつもりで向かっていたので余分は持たされていなかった。しかも後からオーギュが持って来てくれたものだ。
ヴェスカは「いいよ別に」とけろっとして答える。
「ほら、敷地前で待ってりゃいいだろ?」
「まぁ、確かに…」
「お前が行ってる間敷地外で待っててやるからさ。どうせ中は平和で安全なんだから俺が居なくてもいいだろうし」
それ以前に私服で剣すら持ってないじゃないか、とリシェは内心突っ込む。
彼は完全に休みを満喫するような格好だ。
上下全く飾り気の無いシンプルな格好だが、がっしりした逆三角形の体格を一層引き立てるにはちょうど良い。
美形とまではいかずとも、ヴェスカは鼻筋も通っていて均整の取れた顔立ちで、体つきも剣士としては申し分無い頑丈な体格なので異性の目を引きやすかった。
その気になればかなりモテるだろう。
「警備は外より内部の方が厳重だろうしさ」
「まぁ、そうだけど」
「ロシュ様のご実家がどうなってるのかはめっちゃ興味があるけどな。こればっかりは仕方無い」
リシェは顔を上げ、ラントイエ地区方面への道に顔を向けた。たった一人で行くよりは誰か居てくれた方が心強いが、結局内部には個人で向かわなければならない。
さっさと用事を済ませて大聖堂に戻ろう、と意を決した。
気を失っていたセルシェッタは、寝かされていたリシェの部屋を出てすぐロシュの部屋へと戻っていた。
「ロシュ様」
「おや、おはようございますセルシェッタ。良く眠れましたか?」
寝乱れた髪を押さえながら、彼女は部屋の内部を無言で見回す。
「気が付いたら違うお部屋に居ました」
「あはは…まあ、そうですよね…」
いきなり部屋に全裸の男が居ては、流石に驚いたに違いない。ましてやかなり潔癖症な性格だ。
「すみませんでした、セルシェッタさん。私の指導不足でした」
それまで仕事をこなしていたオーギュはソファから腰を上げると、入口付近で立ち尽くしているままの彼女に謝罪の弁を述べた。
普段全裸は楽だとファブロスが言っていたのは分かっていたが、まさかそのままで自分の中に入り込んでいるとは思わなかった。
獣の性質上、素のままなのはごく自然な事だが、せめて人前に出る事を予測しておかなければならないとその都度説明はしていた。
しかし窮屈な服を着ておくより、やはり素裸の爽快感が勝るのだろう。
セルシェッタはオーギュと、彼の側で普通にソファに身を預ける銀髪の美丈夫を見た。そして自らの眼鏡の位置を直しながら「…いえ」と言葉を返す。
「私も大袈裟だったかもしれません」
いつもの調子を取り戻したのか、彼女はきっちりと頭を下げた。
「いや、決してそのような事は…私も驚きましたから、淑女を前にあってはならない行動でした。すみません」
オーギュは側に居るファブロスに「ほら、ファブロス」と促す。
「あなたからもご無礼を謝りなさい」
ファブロスは顔を上げ、渋々ソファから立ち上がると主人の隣に立った。均整の取れた大きな体付きの彼と細身のオーギュとでは、どちらが主なのか分からなくなりそうだ。
強靭な体を衣服で包んでいるものの、見る者に対して威圧感を与えてくる。
セルシェッタも人離れしたファブロスの外見に少し圧を受けているらしく、数歩引き気味に彼を見上げている模様。
『丸裸が気楽な性分なのでな。悪気は無かったのだ』
「全く謝ってませんね。謝りなさい」
謝罪というより自らの癖をただ話しているだけの発言に、オーギュは鮮やかに突っ込んだ。
『うむ。悪かった』
一連の話を聞いていたロシュは、太古からの召喚獣を容易く押さえ付けているオーギュがまるで猛獣使いのように見えてしまう。
ファブロスが相当オーギュに心酔しているのか、彼の言葉には絶対従う様子が見て取れた。思わず「ほう…」と吐息を漏らす。
「ファブロスは本当にオーギュに忠実ですねぇ」
『オーギュが悪いと言ったら私は黙って従うまでだ』
とにかく彼は主人であるオーギュには忠実らしい。
ロシュは「ある意味凄い主従関係ですね…」と感心した。それ程主人の言う事に間違いは無いと絶対的な信頼を寄せているのだろう。
大男と呼べる位の体躯の持ち主が、素直に謝罪をするのを目の当たりにしたセルシェッタは、あまりの意外性にぽかんとした顔をする。
ここまで大きく周囲を圧倒させる雰囲気を持つ者が、予想以上に正直に言われた事に従うのも奇妙に思えたのかもしれない。
『何だ、女』
「呼び方…」
ぶっきら棒なファブロスに言い方に、オーギュは脱力する。
セルシェッタはいつもの表情に戻ると、「いえ」と何でも無い様子を振る舞った。
「私の事はお気遣い不要です。いつものようにご用がありましたら何でもお申し付け下さい」
まだ働くつもりなのか。
気持ちは有難いが、何故こうまで働こうとするのだろう。
「セルシェッタ」
「はい、ロシュ様」
「お使いに頼まれた際に、向こうからこちらのお世話をする様にと言われましたか?」
ロシュの質問に、セルシェッタは軽く頭を傾けさせてから薄い唇を開いた。
「いいえ、特には」
「そうですか。お世話はあなたの独断という訳ですね」
「はい」
「次に、こちらに居る期間はどの位で…?勿論、こちらはいつまでも居て下さっても構いませんけれど向こうにはご両親も居ますでしょう?」
彼女が居る事によって特に困る事も無いが、流石に部屋に来る度に様々な世話をされると逆に悪い気がする。しかも異性の使用人となればやりにくい状況もあるはずだ。
現に自分の着替えだの何だのとかなりプライベートな事まで踏み込みがちなので、そればかりは遠慮して欲しい。
セルシェッタは長い睫毛を揺らし、伏し目がちで「ええ」と答える。
「旦那様からはご用が済み次第、休暇だと思って好きに過ごすようにと」
「休暇…」
どうやら、ラウド家当主からも休めと言われていたようだ。向こうでも彼女の働き過ぎる性質に困っているのかもしれない。
「全く休暇らしい行動をしているようには見えませんがねぇ」
オーギュは思わず心に思った事を口に出してしまう。
『休めと言っても聞かないなら、放っておいたらどうだ』
「お客様ですから…」
遠慮の無いファブロスに、ロシュはもっともらしい意見ですがねぇと苦笑した。昔から知っていたが、彼女は一つの場所では落ち着かない性質だったなと思い出す。
何かしら動いていた記憶しか無い。
それは仕事として完全に身についてしまった悪い癖のようにも思えた。
「セルシェッタ」
「はい、ロシュ様」
今の状況でも尚仕事をしようと動く彼女に、ロシュは声を掛けた。
「あまり大聖堂には立ち寄らない分、珍しい物もあるでしょう。仕事の手を止めて散策してらっしゃい」
「………」
埃取り用のモップを手にしたままの彼女は、冷静そのものの目線でロシュを見る。
「ここではあなたに仕事して欲しくありません」
「お言葉ですがロシュ様。私はずっとラウド家にお仕えしてきたという自負があります。場所がどこであろうとラウド家の為に全身全霊を込めてお仕えするつもりで」
大変嬉しく有難い言葉だったが、その場で黙って聞いていたオーギュは窮屈な感覚を覚えていた。
一体どう育ったらこんな性格になれるのだろうかと。
主人のうんざりしてきた様子を横目で見たファブロスは、彼の言いたい事を察したのか『疲れたな』とぼそりと呟いていた。
それでも一方のロシュは、根気強く彼女に接する姿勢を見せ続ける。
「お気持ちは嬉しいですよ、セルシェッタ。でもやめて下さい。私はね、あなたにお仕事ばかりさせたく無いのですよ。実家でもあなたが異常に働き過ぎるのを心配したのでしょうね。ここに居る期間は、私の言う事に従って貰います」
「…ロシュ様」
ここまで言われては流石に心に響いたのか、彼女は表情を曇らせると若干発言のニュアンスが変化した。
「それは、私が必要では無いと言う事ですか?」
「いえいえ、そんなつもりではありませんよ」
「私はお役に立ちたいと思っているだけで…!」
最後辺りの語気が徐々に弱まっていくのが分かると、同時にロシュは慌て始めた。
「落ち着きなさい、セルシェッタ!」
「ロシュ様は私が必要では無いと!」
次第におかしい方向に向かいつつある模様。
静観していたオーギュは顔を引き攣らせていた。流石に声を出すのが憚られ、ファブロスは心の中で主人に話しかける。
『(面倒臭い事になってきたぞ、オーギュ)』
「(何故こうも面倒な性質が出揃うんでしょう。あぁ、厄介なお方だ)」
ラウド家の面々も色んな意味で厄介な印象だったが、そこに居を構える使用人も似るのだろうか。
ロシュを前にセルシェッタは悲壮感たっぷりを装う。
「私達はあなた様にお仕えするのが使命だと思っています!それをするなと仰るんですか、ロシュ様!あんまりではないでしょうか!」
最初とはまるで人が変わったかのように訴える彼女を、ロシュは「落ち着きなさい!」と制止した。するとぴたっと嘆くのを止める。
またいつもの無表情を決め込むセルシェッタ。唇を真一文字に留め、目はすっと冷静そのものに変わる。
「と、止まるんだ…」
よく溢れ出た感情をぴたりと止められるな、とオーギュは思った。
『おかしな女だな。本当に人間なのか?機械でも入ってるのではないか?』
ここぞとばかりに辛辣な発言をする召喚獣。
そんな彼をオーギュはおよしなさいと嗜めた。
「…いくら何でも失礼ですよファブロス』
大半は無表情を決め込んでいる彼女だったが、多少は感情があるらしい。これを相手にするのも大変だろうなと内心ロシュに同情してしまった。
「…とにかく。あなたは仕事をし過ぎてご自分のプライベートな時間を作るのが下手なようなのでね。ここでは骨休めをして頂きたいのです」
「………」
同じような説明を繰り返している気がしてきた。
二人の会話を黙って聞いていたが、不意にファブロスは隆々とした腕を組みながら『手を抜くというのが出来ない女なのだろう』とぼやいた。
『むしろサボる事が上手い人間が近くに入ればいいのでは無いだろうか』
「彼女とは真逆な性質を持つ人間ですか?そんな人が…」
そう言いかけたオーギュは、不意に一人の男が頭に浮かぶ。
赤い髪の長身でガタイの良い該当者。意識が繋がっているファブロスも、主人とそれを共有し思わず咳払いをした。
そして二人同時に首を振る。
「いやいや、やめときましょう」
『そうか。いくら奴でもそこまでいい加減な人間でもあるまい』
「はは」
生真面目過ぎて堅苦しい性格のセルシェッタに対し、大雑把で雑な性質の彼をぶつけるのは流石に無茶苦茶過ぎる。
向こうは向こうで、忙しい筈。
こちらの面倒な事に巻き込む訳にはいかないのだ。
一方、城下街。
…っくしょぉおい!!という雄々しい叫びと共に、激しくくしゃみをするヴェスカ。
リシェは同時に嫌そうに顔を歪め、「何だお前!!」と怒鳴っていた。
「せめて手で押さえろ!!」
先輩に言う発言では無いが、リシェは反射的に怒っていた。
確かに怒って当然な行為だ。
「んあぁ…ごめん、悪かったよ」
「大人のくせに品が無いな!」
「誰かが俺の噂をしてる気がする」
ヴェスカは悪びれず、ぐしぐしと高い鼻を押さえながら呟いた。
「誰もお前の事など喋って無いだろう。気にし過ぎだ」
「いいや、誰か噂してるに違いないぞ。カッコいいとか頼り甲斐があるとか男前とか言ってるはず」
お花畑を脳内で展開させるヴェスカをスルーするように、リシェは黙って先を歩いていく。
「無視すんな!」
「お前に付き合っていると無駄に時間がかかる」
さっさとラントイエ地区への道を進むリシェの後を、待て待てと言いながら追うヴェスカ。
城下街の中心部から良く見える場所にある貴族の居住区は、一般居住区を一望出来る高台に存在していた。
大聖堂から見て右側に位置し、美しい木々に囲まれた屋敷群。まるでその存在を誇示するかのように目立つ区域。前回リシェが足を踏み入れた貧困層の居住区とは完全に真逆の層が生活する。
その地区へ繋がる坂道をゆっくり進みながら、遠ざかる一般居住区の景色を眺める。高台にある為にここから一望出来るアストレーゼンの街の景色は壮観なものだった。
城下街の様々な色合いだけでは無く、街の外の大自然も目に映り、いかに裕福層の人間が最高の環境で生活しているのかが伺える。彼らは毎日この景色を眺めているのかと。
左手には巨大なアストレーゼンの大聖堂が鎮座し、目にする度に襟を正したくなる。
「ここからの景色は素晴らしいな」
「んあ?」
あまりの景色の良さに足を止めてしまったリシェは思わずぽそりと呟く。
「ああ」
全体を一望出来る景色に目を向け、ヴェスカは同意するように頷いた。
「ここら辺は普段近付かないからな。滅多に見れるもんじゃない。特権階級の奴らのみに許された場所みたいなもんだ。あいつらはやけに高い所に家を建てたがるからな」
「見晴らしのいい場所を取りたい気持ちは分かる気がする」
「景色はめちゃくちゃ良いからな。ただ、高い場所に家があると何かしら不便な事もあるだろ。山にあるから野生の動物も出て来そうだし」
あぁ…とリシェは納得する。
ただこの辺りの住人ならば、頼めばすぐ対処して貰えそうだと思った。
「ほれ、さっさと進め。早く終わらせたいんだろ?」
「ああ」
促されて再びリシェは歩き出す。
途中、豪華な馬車が小気味の良い音を鳴らしながら煉瓦造りの坂道を登って行く。この付近の人々は徒歩で街に向かう事は少ないのだろう。
馬の蹄の遠ざかる音を聞いた後、ヴェスカはリシェに「あれだ」と声をかけた。
「あれが居住区への出入口。通った馬車が止まってるだろ?あの前に警備員が立ってる」
長い坂道にそろそろ嫌気が差していたリシェ。
「………」
ようやく坂道から解放されると安堵した様子で「あれか」と呟いた。黒い鉄柵に囲まれた住宅地とこちらを繋ぐ門の前で停止していた馬車は、ゆっくりと中に入って行くのが見える。
住人でも許可証が必要とは、何と面倒な場所なのかと思いながらリシェは門の前まで進んだ。
かっちりとした制服に身を包む中年の警備員は、近付いて来たリシェとヴェスカを見ると怪訝そうな顔を向けてくる。
「何だ、お前達は?ここはお前達のような子供が入れる場所なんかじゃないぞ」
「俺まで子供扱いかよ…」
確かに自分よりは年上の警備員らしいが、明らかに年下のリシェと同じにされるのはどうなのかと疑問を抱いてしまう。
彼はじろじろと二人を見定め、「遊びに来たのか?」と詰問してきた。
お遊びで見にやって来る者も居るのだろう。そう疑われても仕方無いかもしれない。
最初は来訪者に問いかける事が基本のようだ。
「大切な用件の為に来た。ちゃんと許可証も持っている」
リシェは胸ポケットからオーギュに貰った許可証を取り出すと、疑うような目を向けてくる警備員に広げた。
「俺達は大聖堂から来たんだ」
「………」
許可証に目を通す。これで普通に内部に入れるはず、とリシェは思っていた。
しかし相手は表情を変えずにリシェを見下ろすと、嫌味な様子を剥き出しにしながら本物だろうなと疑い始めた。
「な…!!これが偽物だと言うのか!」
「お前のような子供がアストレーゼンの大聖堂から来たとか信じられると思うか?大方それも偽物なのだろうが」
「ふざけるな、何なら身分証でも提示してやろうか!」
無礼な言い草に、リシェは激昂する。
そのやり取りを見ながら、ヴェスカは「あーあ」と苦笑した。やっぱりこういう事になっちゃうか、と。
「おっちゃん。俺ら大聖堂の宮廷剣士なの」
こう言えば理解してくれるだろう。
ヴェスカはリシェの頭を撫でて宥めながら説明する。すると彼は自分より大きなヴェスカを顰めっ面で見上げた。
「じゃあ身分証を見せろ」
「言われなくても見せてやる!」
怒りに任せながらリシェは自分の身分証を提示し、ヴェスカも同じく提示して見せた。
「身分証だって…?」
アストレーゼン大聖堂お墨付きの歴とした身分証明証を提示され、リシェとヴェスカのを見比べるが、いまいちピンとしない様子だ。リシェは怒りをおさえながらどうだ、と鼻を膨らませる。
「こいつと全く同じだろう!」
確かにまだ幼さの残るリシェが大聖堂の宮廷剣士だと説明されても信じ難いのは理解出来る。だがヴェスカと同じ身分証を持っていれば疑う事も無くなるはずである。
理解したらさっさと通して欲しい、と続けた。
まだ胡散臭そうな様子の警備員は、ヴェスカと交互に見比べた後身分証を返却する。
「まさか偽物じゃないだろうな?最近偽造する輩も増えているからな。念には念を入れろと言われている」
「まだ言うかぁ。…そんなに心配なら監視役として俺も一緒に中に入ってもいいんだぞ。元々こいつの方が中のお屋敷に用事があって、単に俺は着いてきただけだからな。こいつが中に居る間、俺は外で待ってるつもりだったし。それでも信用無いなら兵舎に該当する人間が居るかどうか確認しろって。アストレーゼン大聖堂宮廷剣士第二班班長、ヴェスカ=クレイル=アレイヤードって居るかって聞けばすぐ喋ってくれるぞ」
「お前、ある意味問題児だからな…」
他の班だと照合に時間を要するかもしれないが、ヴェスカの名前を出せば大概の人間は理解する。いい意味でも悪い意味でも目立つタイプなのですぐに所属していると返事をするだろう。
そこまで言われては仕方無いとばかりに、相手は渋々ながら理解する姿勢を見せる。
「宮廷剣士なら中で悪さなどしないとは思うが、一応何処のお宅に向かうのか聞いておこう」
「悪い事なんてするものか。司聖様のご実家のラウド家へのご用件だ。俺はロシュ様の護衛剣士でもある」
「…何?」
ロシュの名前に反応したのか、警備員はぴくりと眉を動かした。
「お前のようなガキが?」
「まだ疑うのか?そんなに信用が無いなら今度は大聖堂側に問い合わせて貰ってもいいんだぞ」
司聖ロシュの専属の護衛剣士はまだ年若い少年剣士だというのは知っていたが、ここで会うとは思いもしなかったらしい。何か言いたげにしながらも、彼は「分かったよ」とようやく豪奢な門の鍵を解除する。
ギギッと重い音を響かせながら「ここでまた難癖付けたら後が面倒だろう」と言った。
「その代わり、お前も保護者として付き添え。お互い監視の意味で通してやる」
何故か許可証の無いヴェスカも同行する条件を付け、中に通る事を許された。
まさか自分も入れるのかと思わず彼は口走る。
「え、俺までいいの?普通にこっちで待っててもいいんだけどな」
「宮廷剣士なら信用に値する立場だろう。どうせ中にも警備員はわんさか居るから目立った事はしないように心掛けろ」
最初から最後まで偉そうだ。
だが結果的に通してくれたので助かった、とリシェは思う。
「いいか。くれぐれもおかしげな事をしようと思うなよ」
「分かってるって、もう。どんだけ信用出来ねぇんだよ…」
「あからさまな子供に加えて、見た目の派手な人間じゃ疑わずにいられないだろうが」
見た目が派手だと、とヴェスカは眉を顰める。
「まさか俺の髪の事を言ってるのか…」
思いっきり自毛なんだけどな、とぶつくさと呟いた。こればかりは直そうにもどうしようもない。
「まぁいいか。さっさとこの嫌味な場所を出るぞ、リシェ」
リシェもまた妙に納得のいかない顔で中へ足を踏み入れた。
正門から内部に入ると、そこは今までとは違う別世界だ。足元の路面ですら一般道より違いを見せる。
美しい煉瓦造りで少しのズレも許せないと言わんばかりにきっちりと敷き詰められていた。馬車が通過する大通りは暖色系の舗装が施されていて、いかにも特別感を醸し出す。
遊歩道も相当な金額投資をしている為か、等間隔に整えられた植木が並び、一般とは格の違いを見せつけていた。
住居も大きく豪華な塀に囲まれた屋敷が立ち並んでいる。維持するのも大変そうだ。
リシェは勿論、ヴェスカも周囲を呆気に取られたような面持ちで見回す。
「うへぇ」
田舎者丸出しで心の声を漏らすヴェスカは、「何だこりゃぁ…」と圧倒されていた。
「初めて入ったけどさぁ…何だよこのお屋敷の数。凄げぇな…てか、こんだけデカくする必要なんてあるのか?」
「そんなの俺に聞かれても」
リシェはロシュから預かったラウド家への地図を広げる。
「ロシュ様の家もこの位大きいんだろうな」
「まぁ、司聖様のご実家だからなぁ…それなりに凄い豪華なんじゃねえの?知らんけど」
適当に物を言うんじゃない、とリシェは軽くヴェスカを突く。ただ、これだけ大きな屋敷ばかりなのだから全てが同じようにも思えてきた。
ラントイエ地区内の住民が散歩したり、家の庭木の様子を見ている姿も見られたが、その出立ちも一般とはかけ離れたように優雅な格好をしていた。
普段着なのだろうが、やはり何かが違って見える。
地図を確認した後、リシェは「こっちだ」とヴェスカに告げた。
「こういう機会なんてそうそう無いからな。ゆっくり美的センスでも磨いてやるか。何かの拍子に芸術の才能が目覚めるかもしれないし」
どうやら豪華な造形物を見てそれなりの肥やしにしたいと思っているようだ。
「屋敷を見て文字が上手になるなら誰も苦労しないと思うぞ」
文字の下手糞さに関しては最低最悪の評価を持つヴェスカに、リシェは正論を言って退けた。刺す所か巨大な鉄球を投げ付けられたような気持ちになるヴェスカは、リシェの小さな頭をがしっと鷲掴みにするとわしゃわしゃと掻き乱す。
「何をする!やめろ!!」
「お前は本当に可愛い顔して可愛くねぇなぁ!!」
二人のじゃれあいを見てなのか、散歩していた住人はこちらに気付き微笑ましい顔で通過していく。
「ああもう、いいから早く行くぞ!時間が勿体無い!」
大きな手を振り払い、乱された髪を直す。
「…んで!ここから近いのか、ロシュ様のお屋敷は?」
リシェは無言で地図をヴェスカに渡した。
「ふんふん。…この通りを真っ直ぐ行って…こうして、この道を曲がるのか。何というか、この地区ってさ、馬鹿みたいにデカい屋敷ばっかりだから逆に分かりやすいかもな。てか、むしろ俺らみたいな一般人だと普通の格好過ぎて怪しまれそうだ。さっさと用事済ませるか」
こちらは普通でもラントイエの高貴な住人には物珍しい姿で、悪目立ちしてしまう。現に通行人の数人は自分らの場違いな姿に眉を寄せ、訝しげな顔を向ける者も居た。
相容れぬ何かを感じるのだろう。
全てがそのような人間だけでは無いのは確かだが、あまりいい感じはしない。
風に揺れる街路樹の下を延々と進む。ちょうど暖かい日光から程良く木陰が遮り、心地良さを心身に感じた。
「良い具合に暖かい」
「そうだな。こういう場所が近くにあればなぁ」
すると対面方向から忙しない足音が聞こえてくる。軽やかな足取りからして、子供のようだ。
リシェとヴェスカは顔を上げ、その賑やかな足音がする方に注目していると、建物の影から元気の良い子犬の散歩をしている少年の姿が飛び出してきた。
「うあ」
それを見るなりリシェは顔を顰めっ面にし、やや後退する。
「お?」
ヴェスカも記憶にある少年に目を見開いた。相手側もこちらを見た瞬間、リードで繋いでいる子犬を止める。
「あっれえええ?何だ、何でここに居るんだよー!久し振りだなお前ら!!」
幼さの残る陽気な声に、リシェは顔を逸らしてしまう。
また面倒な奴が来た、と。
ヴェスカは近付いてきた少年に手を振りながら「おう!」と明るく声を張り上げた。
「久し振りじゃんか、ルイユ…だったよな?元気な方か」
「おう、相変わらずでけぇなヴェスカ!元気だった?」
完全に年上でも全く物怖じしない性格の双子の一人は、懐かしい二人組を見るなり無邪気な顔で言った。
「聞くまでもねぇだろ?お前も元気そうで良かった」
「俺は毎日こんなもんだぞー?」
ルイユはヴェスカの隣で顔を逸らしがちのリシェに目を向けると、連れていた子犬をリードで押さえながら「リシェー」と話しかける。
「…何だ」
「この犬の名前何ていうか知ってるかー?」
「知るか」
よいしょと犬を抱え、彼は満面の笑みで続ける。子犬は真っ白のふわふわした毛並みを持った愛くるしさがあった。
リシェはちらりと横目で見る。
「こないだ新しい家族として迎えたんだ。リシェって名前にしてやった!喜べ!!」
「…んっふ!!!」
それを聞いたヴェスカは思わず噴き出してしまった。
彼は相当リシェが気に入っているらしい。
「何で俺の名前にするんだ!!」
名前を使われた本人は冗談じゃないと言わんばかりにルイユに怒鳴る。だが彼はしれっとして笑顔を見せた。
「何か思いついた名前がそれだった!」
「嘘つけ!最初から決めてたんだろうが!」
「他の候補がしっくりこなかったんだよー」
「だからって何で俺の名前を飼い犬の名前にするんだ!」
全く悪びれず、だって言いやすかったしと膨れる。彼の腕の中の子犬のリシェは主人の胸元に顔をごろごろと擦り付けながら甘えていた。
ルイユはリシェに子犬を近付け、可愛いだろ?と同意を求める。
「可愛がってやれよ、同じリシェだろ?」
「名前どうにかならないのか…」
「もう決まっちゃったから無理!」
けろっとした顔で言って退けた。
完全に狙ってその名前にしたかった様子が見受けられる。恐らく、家庭内でも浸透しているのだろう。
「それにしてもさ、何でこっちに来たんだ?ここ、許可証が無いと入れなかったろ?」
リシェに子犬を手渡しながらルイユは不思議そうに問う。
必死に落とすまいと躍起になるリシェを見下ろしながら、ヴェスカは「ロシュ様のご実家に用があるんだよ、リシェが」と説明した。
「手紙を言付かってるんだ。俺はたまたま街で会って着いてきただけだけどな」
ほえー、とルイユは二人を交互に見た。
「案内してやろっか?地図を確認するよりは安心だろ?」
「いいのか?」
「俺はただリシェの散歩をしていただけだからな」
犬の名を呼んでいるのだが、やはり変な感じが拭えない。複雑そうな顔で抱き締めた子犬を見下ろしていた。
「何で俺の名前を付けちゃうんだ…」
溜息混じりに呟く。
「はー?そんなん、いつでもリシェと一緒に居られるからに決まってるだろ」
「俺はお前と一緒に居たくない」
はっきり断るリシェに対し、ルイユは「別に俺はお前と一緒に居なくていいもん」と突っぱねた。
「リシェと一緒なら寂しくねーし。なっ、リシェ!」
そう言って子犬に語りかける。
だんだん意味が分からなくなってきた…とヴェスカは苦笑いした。
「せめて少し名前を変えろ!!ややこしい!!」
第三者から見ても混乱するだろう。多少呼び方や名前を変えればそこまで違和感を感じないのに。
「やだよ、気に入ってるのに」
「余程リシェが好きなんだな、ルイユ」
無理矢理収めるしかなさそうだと判断したのか、ヴェスカはルイユの頭を撫でる。彼もまた「そうそう」と頷き、文句を言いたげなリシェに諦めろと言った。
「とりあえずさ」
ルイユは周辺を見回し、話を切り出す。
「案内してやるから行こう。この辺の大人達は上品さを押し付けてくるからな、あまりうるさくして変な目で見られそうだし」
ルイユもこのラントイエの住民ながら、周りの大人達に少なからず疑問を抱くのだろう。品位のある地域と自ら謳っている以上、不必要に騒ぎ立てる事は美徳としない様子だ。
道行く住民のこちらに向ける視線がそれを物語っている。
「…じゃ、お願いしよっか」
ヴェスカはルイユに告げると、彼は満面の笑みで「任せとけ!」と言った。
葉の擦れ合う音を耳にしながら、再び子犬のリシェを歩かせ前を進むルイユは意外な場所での再会に嬉しそうな様子だ。
「まさかここで会えるとはなー」
案内されるままに道を進んで行くと、やがてメイン街道から別の道へと入る。同時に通路も真っ白で綺麗な物に変化した。
そのままルイユは慣れたように白を基調としたタイルプレートの路面を悠々と進んで行く。逆に滅多にこの地域には足を踏み入れないリシェとヴェスカは、物珍しそうな様子で辺りを見回しながら後を追っていた。
「うっへ…家の塀ですら豪華だなこれ」
こりゃ警備員もフル活動する訳だ、と呟く。
住宅地に入れば入る程、警戒する彼らの姿があった。ルイユが居なければ、うんざりする程職務質問されていたかもしれない。
道端には有志が設置したのか、色鮮やかな花々が来訪する者達の目を奪う。上流層の彼らが果たして道端の花の手入れをしているのかは甚だ疑問だったが、鮮やかに咲き誇っている所を見れば丁寧に扱っているのだろう。
「ロシュ様のご実家は相当デカいんじゃねえの?」
悠々と前を進むルイユにヴェスカが問い掛ける。
彼は顔をこちらに軽く向けると、「そりゃそうだな!」と返した。
「ラウド家っていえばこの辺でも指に数える位の大貴族の家系だしな。しかも司聖様の実家ってなればもうね…」
「俺らからすれば、この辺の屋敷はみんなデカく見えるけどな…」
確かに、とリシェは思う。シャンクレイスの自分の実家もそれなりに大きかったが、ここまででは無かった気がした。
「かくれんぼには都合いいぞー?ならさ、俺の家でやってみるか?」
無邪気なルイユの申し出に、リシェは「いや、いい」と返した。
「人様の家を荒らす趣味は無い」
「つまんねー奴だなあ、リシェは」
「お前は自分の家だからいいだろうけど、誰でもそう思うぞ」
稀にガラガラと音を立てながら馬車が横を通過していく。
先程見た馬車と同じような華美な車体が日の光に反射して、一瞬強い輝きを見せた。
馬車が遠ざかるのを見送りつつ坂道を登り、こっちこっちとルイユは二人を誘導していく。
「ここの住宅街ってさぁ、あまり狭い道は無いんだよ。近道とかあればいいのになー」
大きな別の通りに言われるまま足を進めて行くと、片側が真っ白で長い外壁がひたすら続く道へと入り込んだ。
高い壁が威圧感を与えてくる。
「この壁、凄げぇだろ?」
ルイユはくるっと振り返り、得意気に笑った。
「中の庭も立派なもんだからな!手入れすんの面倒だろうなぁ」
「もしかしてここがロシュ様のご実家か?」
「そそ、正門はもうちょっと先…ん?どうしたんだ、リシェ?」
最愛のロシュの実家に近付く度にリシェの表情は緊張に張り詰めていた。普段でも日焼けしない肌なのに、更に輪を掛けたように蒼白になっている。
あまりの固まりっぷりに変に思ったのだろう。
「緊張し過ぎじゃねえか…大丈夫かよ」
「大丈夫に見えるか?粗相をしないように振る舞わないと」
「お前も一応いい所の坊ちゃんじゃねえか。こういう場所は俺よりも慣れてるだろ」
「立場が違う」
表情が暗くなっているリシェに、ルイユは「あっは!」と噴き出してしまった。
「仕方無ぇなー!俺が付き添ってやろっか?一応ロシュ様の家族とは顔見知りだし!」
「ほ…それがいい、リシェ。ルイユに甘えて付き添って貰うといい。そんな感じだと初対面の人とまともに話せないぞ」
だろ?とヴェスカの言葉に頷くと、ルイユはリシェの手を握った。
「まーったく、リシェは俺が居ないと駄目なんだからさー」
「駄目な訳じゃない!!」
ムッとしてリシェは彼の手を振り払おうとするが、しっかりと握られてしまい解く事が出来なかった。まるで勝ち誇ったかのようなルイユの表情は、仕方無いなと言うより役に立てる機会を逃すものかと言いたげだ。
その間にも、ロシュの実家の正門前まで辿り着く。
門扉前には両脇を固めるかのように専属の警備役が立っていて、不審な者が近寄らないように目を光らせている。
「うわぁ、さっすが司聖様の実家…家の前でも警備の手が届いてるんだな」
真っ白な外壁が続いていた先にある正門は、複雑な模様を描いた金の柵でしっかり閉じられている。何をやるにも豪華でなければならない決まりでもあるのかと言わんばかりに、その扉の奥の景色も豪華極まりない風景が広がっていた。
警備役の二人は、顔見知りのルイユの姿にそれまで固かった表情を緩める。
「お、坊主。散歩か?」
仮にも貴族の子息に対して言う声掛けでは無いが、ルイユは全く気にせずに「よう!」と元気良く挨拶をする。
「散歩の最中に客連れて来たぞ」
「客?」
二人の警備役はルイユと、その奥に居るリシェとヴェスカを見た。彼らはいつでも不審者を捕捉出来るように腰元に剣を模した警棒を装着し、胸元には家紋入りのプレートを身に付けている。
ラウド家のレベルまでいくと、警備する方にもお金を惜しみ無くかけているらしい。
「この方達は?」
「大聖堂からのお使いだよ。こっちはロシュ様の護衛役のリシェで、こっちの大きいのが宮廷剣士のヴェスカ!何でも手紙を言付かって来たんだってよ。だから通してくんないかなぁ」
リシェはロシュから預かった封書を警備役に見せた。
封書の裏にはラウド系の家紋の付いた封蝋が施されていて、紛れも無い正式な証にもなっていた。その家系の人間しか扱う事が出来ないものだからだ。
警備役はお互い目を合わせた後、ルイユを見下ろす。
「彼らは坊主の知り合いって事でいいんだな?」
「おうよ。ただリシェが緊張しまくってるからさ、俺が付き添っていいか?」
「別に構わないが、そっちの男はどうするんだ?」
警備の一人がヴェスカに目を向ける。
「俺?俺か?俺はリシェの付き添いのつもりで来たから、外で待ってるよ。どうせすぐ帰るだろうし、ロシュ様の許可を得て無いから入る訳にもいかねぇだろ?」
真っ当な発言に、警備役は「お、おう、そうか」と返した。
「じゃあ俺はここで待たせて貰おうかな。あぁ、安心していいぞ。ここで変な動きとかはしないからさ」
そう言いながら彼は真っ白な壁に背を預けながら笑う。
大聖堂に仕える剣士だからこそ、不安を煽るような行動は控えなければならないのは理解しているのだ。
そして目の前にあるのは司聖ロシュの実家となれば。
リシェは固まった表情のまま、ヴェスカに「行ってくる」と声を掛けた。
「おう、行って来い。くれぐれも変な行動はしてくれるなよ」
あまり説得力が無さ過ぎて、反射的にお前じゃあるまいしと不貞腐れたように文句を言った。
「リシェ、ほら。中に入るぞー」
警備役が門扉を開き、屋敷の敷地内へと数歩足を踏み入れた。リシェとルイユが中に入ると同時に門は再び閉められ、外部と遮断された。
不安げな顔でリシェは来た道を振り返ると、ヴェスカが手を振りながら「さっさと用事を済ませて来な」と笑顔を見せる。…緊張の真っ只中だったが、その能天気そうな笑顔に少しだけ救われた。
屋敷に真っ直ぐ通じる石畳が、やけに長い回廊のように見えた。
「ほらぁ、さっさと歩けよリシェー」
ルイユは慣れたように先に悠々と進んでいた。振り返り、なかなか足が進まないリシェを呆れた様子で促す。
「別に普通だぞ、ロシュ様の家族って」
「そうか?会った事が無いから、どんな感じなのか想像も付かないんだ…」
「むしろ、リシェを見たら気に入ってくれると思うけどなぁ。特にロシュ様のお母様とかさ」
「………」
気に入られたいと思わないが、むしろ逆に逆鱗に触れたりはしないだろうかとか変な粗相としてしまわないかと不安になる。
幼い頃は屋敷に閉じ込められていたようなものだったから、知り合いの家に単独で赴くという経験はほぼ無いようなものだ。
これが普通の一般家庭ならばこんなに緊張はしなかっただろう。今入ろうとしているのは大貴族の邸宅で、それもアストレーゼン内では雲の上の存在であるロシュの実家だ。
緊張しなくてもいいと言うには無理がある。
リシェは重い足を一旦止め、前を行くルイユに「ちょっと待て」と言った。
逆に軽やか過ぎる足を進めていた彼は、眉を寄せて何だよと振り返る。
「いつものお前らしくねぇなー」
「お前は慣れているだろうが、俺はしんどいんだ」
「何なら俺が代わりに手紙渡してやろうか?」
「…ダメだ。これは俺がロシュ様から頼まれた案件だ。お前に任せて自分は外で待っていたなんて知られたら恥ずかしいじゃないか」
うぅ、と胸を押さえながらリシェは言う。
「面倒臭っ」
ルイユはそう言うと、リシェの手を強引に掴んだ。あまりにも進もうとしなさすぎる相手に少し苛立ったようだ。
不安に彩られた赤い瞳を見ながら、彼はばっかじゃねえの、と吐き捨てる。
「俺が付いてやるんだから大丈夫だっての!いつもは先にさっさと進む性格のくせに、何ぐだぐだやってんだよ!」
「な…引っ張るな!!」
「引っ張ってやんなきゃお前いつまでたっても進まねぇだろ!ほら、歩け!!」
躊躇うリシェに痺れを切らし、ルイユは彼を引っ張りながら屋敷に近付いていった。
「この敷地内の庭園も凄げぇだろ?通路の両側に同じ位の大きさの噴水があってさぁ…庭木も両側同じ配列だしさ。この庭園の世話師だけで何十人居るって話だぞ」
ルイユが言う通り、内部の庭は完全に左右対称となった造りになっていた。若干違う場所もあるものの、パッと見た限りでは気にならない程度。
屋敷の主人の趣味なのか花専用の庭園もあり、その一帯は遠目から見ても非常に華やかだ。専属世話師の姿もあちこちに姿を見せる。
見慣れた場所ならばゆっくりと見る事が出来るだろうが、今のリシェにはそんな余裕など全く無かった。とにかく目先の物事を片付けなければという意識が先走っている。
逸る気持ちと、前に進みにくいという気持ちがごちゃごちゃになっていた。
「リーシェー」
表情に出ているのか、ルイユはリシェに声を掛ける。
「な、何」
「顔引き攣ってるぞ」
「仕方無いだろ…」
「そこまで固まる必要なんて無いって。もうちょいで屋敷に嫌でも入るんだからさー。結構気さくな人ばっかだからそんなに悲観的になる必要も無いぞ」
何度も言い聞かせるように説明するが、やはり根が真面目な性質なのか気楽な気持ちになれないようだ。
そう言う間にも、二人は屋敷の扉の前まで立つ。
「さーて、入るかー」
金色に縁取られた重厚な茶色い扉にくっついていたトナカイモチーフのノッカーにルイユの手が伸びた。
するとリシェは「待て!」と彼を静止させてしまった。
この後に及んでまだ何かあるのかとルイユは眉を顰める。
「何だよ?」
「ま、待ってくれ…心の準備、が」
いつものリシェらしくない様子に嫌気が差したのか、彼は「うるせえ!」と言いながらノッカーで扉を叩く。
流石に面倒になったらしい。
あわわ、と慌てるリシェ。普段の冷静な彼の顔はどこへ向かったのか、ルイユには珍しさを感じずにはいられなかった。
「仕事だと思えば大丈夫だろ!お前じゃなくてヴェスカに頼めば良かったんじゃねえのか?ロシュ様の護衛剣士なら護衛剣士らしくしっかりしろっての、鬱陶しい!」
…ごもっともな意見だ。リシェは観念したように頭を下げ、中の屋敷の使いを待つ。
任務だと割り切ればどうにか切り抜けられるはずだ、と頭の中で整理していると、分厚い扉の奥から早足で駆けて来る音が聞こえて来た。
重苦しい開閉音と共に、メイド姿の若い女が隙間から姿を見せる。
「よう!お客さん連れてきたぞ!」
ここでもルイユは慣れたように挨拶をした。
「アイリアおば様は?」
「奥様ですか?少々お待ち下さい」
ロシュの母親の名前なのだろう。初めて耳にする最愛の相手の母の名を、リシェは頭の中で記憶させる。
心臓の鼓動が激しく体内で鳴り響く中、メイドが屋敷の奥へと引っ込んで行った。
「な?大丈夫だろ?」
どうだと言わんばかりのルイユだったが、リシェは緊張で喉が渇いて返す言葉も失っている。恐らく今、顔面も蒼白なのだろう。
「何が大丈夫なんだ」
胸元を押さえ、リシェは恨みがましくルイユに吐き捨てる。
「うは…珍しい顔してるなぁ。いつも自信満々な顔してるくせにぃ。やっぱりロシュ様の実家だからかな」
「………」
屋敷の中はこの玄関先でも窺い知る事が出来る程豪奢な内装だった。だがごてごてと調度品の飾り付けは無く、比較的控えめに見える。
リシェの実家の屋敷は無駄に彫刻だの額縁の絵画だのが必ず視界の先にあった為か、特別階級の人間の住居に関してはそんなイメージが先行していた。
床は深みのある赤色の絨毯が敷き詰められ、常に手入れを施されているのか光の加減で所々に艶が目につく。ここを土足で上がる事に躊躇いを感じる位に美しい。
屋敷内の隅から隅、床から天井の梁に至るまで様々な幾何学模様の掘り込みが施され、この家を建てるに当たっての相当な気の入れようを感じた。
「あらまぁ、ルイユちゃんじゃないの!どうしたの、お客様を連れてきたって聞いたけど…」
建物の荘厳さと比べ、不似合いな程の明るい声が飛んで来た。リシェはぴくりと身を反応させる。
ルイユは「こんにちは、おば様!」と手を上げると隣に居るリシェの背中を軽く押した。
「あら?その方は?お友達?」
同年代なので友達と思われているのだろう。目の前のクリーム色のドレスを着た女性はリシェに顔を向け、優しそうな瞳で笑みを称える。
その笑みはロシュと完全に一致していた。
「うん、友達!っていうか、ロシュ様繋がりなんだけど」
リシェは深く頭を下げると、スッと片膝を突く。
「お初にお目に掛かります。リシェ=エルシュ=ウィンダートと申します。ロシュ様の専属護衛剣士を仰せつかっております」
緊張しつつも、一言一言丁寧に自己紹介をした。
「この度は主人のロシュ様より預かった書状をお届けに参りました」
「あら…あらあら…!!まぁまぁ!」
跪き頭を下げる小さな剣士に、彼女は歓声じみた声を上げる。ふわりとフローラルな香りを撒き散らし、彼の目線に軽く合わせるように屈むと「顔を上げてちょうだい」と優しく話しかける。
緊張した面持ちのリシェは、言われるまま顔を上げると思わず息を飲んだ。
目の前にロシュに良く似た女性の顔が飛び込んでくる。
「あぁ…この子なのね、ロシュが言っていた護衛の子って…何て、何て」
「は…」
リシェの顔を優しく両手で包み込む。心なしかカタカタとその手が震えているような気がした。
一瞬、リシェは何か気に入らない事でもしたのだろうかと不安に襲われた。だが、次の瞬間。
「何て可愛らしい子なんでしょう!!」
まるで愛玩動物を見るかの如く、彼女は感激し叫んでいた。
「!?」
「さらさらした黒い髪に大きな赤い目…まるで童話の王子様みたいな格好!しかもこんなに華奢だなんて!素敵よ、素敵!!あぁ、ロシュったら毎日毎日この子を愛でているの!?ずるいわずるいわ!!」
あの息子にこの母親有りと言わんばかりの分かりやすい反応に、ルイユは苦笑混じりにリシェに告げる。どうよ?と。
「な?だからそんなに緊張しなくても大丈夫だって言ったろ?」
「は…あ、あの…??」
「可愛いぃいいい!!」
予想しなかった相手の反応に戸惑うリシェは、ロシュの母親のアイリアによって人形ばりにぎゅうっと抱き付かれていた。
…その一方で、リシェの帰りを待つヴェスカは、門前の警備役と一緒に談笑に夢中になっていた。
彼らは宮廷剣士の仕事に興味があったらしく、所属している彼に任務や業務の内容を聞いていた。
「怪我もするんだろ?」
「そりゃぁ…だけどそれを避けるように教えられてるからな。出来るだけしないようにしてるなぁ。大怪我は運が無いって腹を括らないとやっていけないよ」
そりゃそうだな、と警備役は周囲を警戒しながら言った。
談笑時でも、常に屋敷外の警戒は怠らないようにしているようだ。
「あんたらも毎日ここの警戒で飽きねぇの?」
常に同じ景色ばかり眺め続けるのも苦痛だろう。いくら仕事とはいえキツいと思える。
ヴェスカの質問に、彼らはお互い顔を見合わせて「そうだな」と答えた。
「ラントイエ地区は警備の目も行き届いてるから平和そのものだしな…ただ稀にかい潜って変なのが来るんだよ。そういうのに限ってすばしっこいんだよな。だから念には念を入れてって訳。ラウド家に関しては余計警戒を強める理由があるんだよ、何しろ司聖様の実家だからな」
「ロシュ様の実家だと何かある訳?」
「そりゃ、入り込まれて盗難は勿論、中の人らに危害を与えられたら大変だろ?最悪、人質に取られたら大問題だしな」
あぁ、と納得する。
アストレーゼンの象徴となれば、本人だけではなく血縁者も守られなければならないのだ。こちらに何かあってはロシュも動かざるを得なくなる。
それは自身を無防備に晒す事と同じになるのだ。
ただ、これだけ屋敷の内外に警備役を敷けるなら、侵入者といえど決して無傷では帰れないだろう。
「気の張る仕事だなぁ。…いつ何が起こるか知れたもんじゃないじゃん。ま、その分給料は貰ってんだろ?」
「はは、まぁ…他よりは待遇は良いと思うぞ、他と比べたらな。大聖堂関係の身内の実家の警備の仕事は就職の競争率高いけど、離職率が低いからな。一旦就いたら意地でも離したく無い奴が多い。中にはケチな貴族も居るけど、街の警備よりは羽振りは良い方だ」
そっかあ、とヴェスカは空を見上げる。
大聖堂関係、となればこの近辺にもオーギュの実家があるという事だ。ロシュと幼馴染と言っていたから、家同士顔見知りなのかもしれない。
「司聖補佐様の実家も近くにあるのか?」
それとなく話題に突っ込んでみた。この近辺に詳しいなら、当然オーギュの家の場所も把握しているに違いないと思ったのだ。
すると彼らは表情をやや暗くすると、「まあな」とやけに意味ありげに答えた。
「あの家はラウド家と比べると変わってるからな。大らかな性質の貴族も居れば、そうじゃないのもある」
「………」
「あまり良い印象は無いぞ。司聖補佐役は確か三男坊だよな。あの息子は見る限り親にあまり似てないよな。ロシュ様の補佐をやる程、相当優秀なんだろうけど」
そうなのか?とヴェスカは首を傾げる。
オーギュはあまり家族の事は口にしないので良く分からないのだ。良い印象が無い、と第三者から言われる位酷いのだろうか。
「あくまで噂だけどな」
「?」
「旦那様は三男坊をインザーク家の人間だと認めてないって噂だ」
「へ…?何で?」
小声で耳打ちされると同時に、もう一人の警備役が「おい!」と仲間を小突く。
「噂をすりゃ、ほれ。日課のお散歩中だ」
ヴェスカも顔を上げ、顎で軽く指し示された方に目を向けた。
馬車用の大きな道を挟んだ向こう側の歩道で、日傘を差しながらゆっくり歩く数人の貴婦人の集団。いずれも色とりどりの華やかなドレスを身に纏い、煌びやかな雰囲気を撒きながら闊歩している。
しかし誰を見ても似通った格好で、該当する貴婦人の特定が難しかった。
「どの貴婦人なのかさっぱり分からんわ」
ヴェスカはどれも同じに見える。
一般人にとって、貴族階級の人間は平等に高い場所に居る人間としか認識が無いのだ。
「真ん中の黒いレースの付いてる傘の貴婦人。あれが司聖補佐様の母親だよ」
具体的なヒントを与えられたヴェスカは目を凝らし、その黒い日傘の貴婦人に目を向けた。周囲の貴婦人と比べると、その女性は一際目立つ立ち位置に居るらしく話題の中心人物のように見受けられる。
他の婦人に周りを囲まれながら微笑ましく談笑する様子は、さながら取り巻きを引き連れ駄弁っている印象を受けた。
黒く美しい髪を後ろにきっちりと纏め、シャープ感のあるほっそりした目元は心なしかオーギュに似ている気がする。
色気のある薄い唇も似た雰囲気があった。
だが、軽薄そうに見えてしまう。何故なのか分からないが。
「あぁ」
思わずヴェスカは呟く。
「雰囲気はそうだな、似てるわオーギュ様に」
黒い髪と切れ長の目元。それに薄い唇。
彼が女性ならこういう感じなのかもしれない。
「取り巻きの貴婦人といい、あまり良い話は聞かねぇよ。あれはこの界隈でも見栄っ張りな連中で、身分の低い人間に関しては割と当たりがキツいって話だ」
「…そうなのか?」
「警備の仕事してりゃ、あちこちの家庭の事情は良く回って来るんだよ。インザーク家はその中でもズバ抜けて評価が低いぞ?三男坊のオーギュスティン様は、逃げて正解だって言われる位だ。奥方はキツいし、長男次男は奥方の腰巾着みたいな感じだしな」
控えめで上品な笑い声が聞こえる。遠目で貴婦人達の散歩を見送るながら、ヴェスカはへぇ…と興味深そうに頷いた。
「オーギュスティン様と面識あるみたいだけど、何か聞いてないのか?」
「いや、別に…あまり家族の話はしたがらなそうだし。こういうのって無理に聞くもんじゃねえだろ」
彼から聞く限りでは、特に話す必要も無いと思っているのだろう。だからこちらも聞かないし、聞こうとも思わない。
遠ざかる貴婦人の集団を見届けながら、警備役はふうっと一息吐いた。
「…今回はこっちを見向きもしなかったな」
「?」
「あの奥様方はさっきも言った通り、身分の低い人間の扱いが酷いからな。扇子で口元を隠しながら嘲笑するなんてお手の物だぞ?変な奴の周りには変なのしか寄って来ないって本当なんだってのが良く分かるよ」
ご機嫌で去ってくれて良かったよと吐き捨てた。
もう一人の警備役は全くだなと苦笑いする。
関係の無い人間にそこまで言われるというのも凄い気がする。余程悪評が広まっているのだろう。
息子であるオーギュ個人の評判は相当高いのに、非常に勿体無いと思った。
「そんなに凄いのか…」
「まぁ、貴族様っていっても色々居るからな。ああいうのだけじゃないぞ。現にうちの方は堅苦しそうに見えても結構大らかだから」
ラウド家の印象は彼らから聞く以前に、ロシュ本人を見ていれば良く分かる。相当恵まれた環境で生きてきたのだろうと。自分も波風の立たない環境だったから、共通する何かを感じ取れるのだ。
彼には特有の影が全く無い。
「オーギュ様はめちゃくちゃいい人なんだけどなぁ」
「あの家からさっさと離れて世間に揉まれてるからな。ずっとあの環境に浸かるより余程人間らしい生活をしてるだろうさ。その面でも、オーギュスティン様は賢いってもんだ」
司聖補佐のオーギュに対しては同情を込めた言い方をする。
そして、もう一人の若い警備役も続けた。
「貴族様ってのは意外と世間知らずなんだよ。ずっと恵まれた世界で生きてるようなもんだから、外部の事に関しては相当疎い。外に出たとしても、精々金持ち御用達の店か大聖堂位なもんだ。大聖堂にしても、それなりの持てなしをされるだろ?だからチヤホヤされる事が当然だと思ってるんだよ。仮に無人島に放り出されたら、絶対に生き延びれない。自力でどうにかするっていう意識なんざカケラも無い人種だからな」
民間の出身だけあり、警備役にも壁を隔てた向こう側の人間に対して思う事があるのだろう。
「世間知らずかぁ…」
ヴェスカはそう言い、華やかな屋敷が立ち並ぶラントイエ地区を見回していた。
屋敷の奥に通されたリシェとルイユは、上機嫌なアイリアに丁重に持てなしを受けていた。来客用のリビングに通され、温かい紅茶や手作りケーキを振る舞われ、完全に彼女のペースに飲まれ続ける。
ルイユは慣れているのでいつも通りに遠慮無く食べていたが、完全に初めてのリシェはなかなか進まない様子。
「あら、お口に合わないかしら?」
心配そうにアイリアはリシェに問う。
「い、いえ…」
お茶をしに来た訳では無かったリシェ。
「リシェ、ここに来るのめちゃくちゃ緊張してたからな」
「緊張するなって言われても無理がある」
目の前にあるフルーツてんこ盛りのタルトを眺めたまま手を止めるリシェ。甘い物が好きな彼にとっては最高のおやつなのだが、何よりも緊張し過ぎて食指が伸びないままだ。
「お前が食わないなら俺が食うぞ?」
「い、頂くよ…」
折角出してくれたのに全く手を付けないのは失礼になる。
「嬉しいわ。苦手だったらどうしようって思ったのよ」
両手をぽんと叩き、安心したようにアイリアは微笑んだ。
「おじ様は?」
「今、お仕事でシャンクレイスに行ってるのよ。残念だわ、ロシュの可愛らしい王子様が来てくれたのにねぇ」
「へぇ、忙しいんだなー」
ひたすらタルトを頬張るルイユは、未だにガチガチになったままのリシェをちらりと見遣ると「そうそう」と続ける。
「リシェ、シャンクレイス出身なんだ」
「まあ!向こうの人はあまり日焼けしない肌質だって聞いたけど、確かに色白で綺麗な肌をしているわね…!羨ましいわ…!」
リシェを見る度にソワソワしがちなアイリア。相当気に入った様子だった。一方で、リシェは早く用を済ませないとと内心焦り始める。
丁寧な持てなしは有り難いが、外でヴェスカも待っているのだ。彼の事を思い出したリシェは、アイリアに「あの」と声をかける。
「あら、どうしたの?」
「今日こちらに来たのはロシュ様から手紙を預かって来たからなのです」
席から立ち上がり、胸ポケットから預かって来た封筒を彼女に差し出す。やっと話を切り出す事が出来た、と内心安堵した。
完全に相手側のペースに飲まれていたのだ。
アイリアはあらっ、と少女のような可憐な声を上げた後、リシェからその手紙を受け取るとすぐに開封した。
手紙の中はリシェも見ていないが、この家の使用人であるセルシェッタの件についてしたためられているのは分かっている。
いつまで大聖堂に滞在させて良いのか、と。
本人の意思を尊重したい。しかし彼女が大聖堂に居続けたい希望があるにしろ、ラウド家がそれを容認しなければ彼女を動かす事が出来ないのだ。
「どうやらセルシェッタは大聖堂が気に入ったようねぇ」
んふふ、とにこやかに微笑んだ。
「は、はあ…」
「あの子はずっとラウド家に小さい頃から仕えて来たから、あまり世間の事を知らないの。だから無理矢理休暇を与えるつもりで大聖堂のロシュの元に荷物を送り届けさせて、少し向こうで骨休めをなさいって言ったのだけど…」
「休暇をさせるつもりだったのですか?」
全く止まる事無く仕事をしていたセルシェッタの姿を思い出す。どう見ても仕事をしに来たのでは無いかと思っていたリシェはそう問いかけると、彼女は驚いた表情を見せた。
意外そうに。
「え?」
「むしろこちらでも止まる事無く働いているのです」
その言葉に、アイリアは呆気に取られていた。
「そんな」
「ロシュ様が手紙にも書かれていると思いますが、あのお方は大聖堂のロシュ様のお部屋でもずっとお掃除をしてくれているのです…オーギュ様がお客様にそのような事はさせたくないと止めているにも関わらず、頑として仕事の手を止めようともしてくれません…」
困ったようにリシェは訴えた。実際、客人の立場にも関わらず日常の癖をこちらでも発揮されても困惑してしまうのだ。
一種の職業病なのかもしれない。
仕事をしないと気が済まないという何らかの使命感か、もしくは恐怖心なのか分からないが、とにかく作業という意識が全身に染み付いているのだろう。
今の現状を知ったアイリアは途端に悲しげな顔を見せた。
「はぁ…予想はしていたんだけど…どうしてもそうなってしまうのね…あの子は…」
落胆し、彼女は肩を落とした。
「大聖堂にあの堅物女が来てたんだ?」
ルイユも顔見知りのようだ。堅物女と言って退ける辺り、いかに知り尽くしているのかが分かる。
「あいつ、この屋敷しか他の事知らなさそうだしなぁ。前にスカート捲りした事あったけど、思いっきり無表情でぶん殴られた記憶があるわ。あいつ相当鍛えてるんだな、めちゃくちゃ痛かった」
けろっとした顔で言ってのけるルイユに、リシェは冷たい目線を投げる。それは殴られて当たり前だと。
「困ったわ、あの子ったらずっとロシュが好きだったのね」
困り果てたアイリアの言葉に、リシェは「え」と返した。
「す、好き???…って。え?」
「ええ、ええ。セルシェッタは産まれた時からずっとこの家に居たから。あの子の親同様、私も同じ目線であの子を見てきたのよ…幼い頃からずっと一緒に居るようなものだから、そんな気持ちになっていくのも無理は無いと思ってたのだけど」
「そ、そんな」
リシェは愕然とする。
まさか大聖堂に来てからの彼女の度重なる甲斐がしい行動は、ロシュへの愛情の為せる行動なのかと。
「あら、どうしたのリシェ君?」
「あ、あの…」
「?」
「奥様はずっとそれを知っていたのですか?」
余計食事の手が止まってしまうリシェの横で、ルイユは元気に彼のタルトに乗っている苺の欠片をひょいとフォークで突き自分の口に放り込む。
ロシュの事で頭がいっぱいのリシェは全く気付かないままだ。
「うんめぇ」
もぐもぐと咀嚼しながらリシェを見る。
「知っているも何も。小さい頃から見てきたもの。あの子はこの屋敷内の事が全てだったから、他を良く知らないのよ。成長する度にだんだん分かってくるのもあるわね」
「は…」
「お手紙にはセルシェッタの事について書かれてるけど…」
そこでようやく一番聞きたい話題が出て来た。リシェはハッと我に返ってアイリアの顔を見る。
「そ、そうだった…あの、どうしたらいいのでしょうか。お客様に作業をさせる訳にもいかないのです。止めて下さいって訴えても拒否されてしまいます」
延々と司聖の塔の中で仕事の延長をされては、自分の立場が無くなってしまう。作業を止めて、客人らしく振る舞ってくれればまだマシなのだ。
あのオーギュですら匙を投げる位、彼女は仕事の鬼のようになっている。
アイリアはリシェの訴えに、腕を組みながら「困ったわねぇ」と呟く。眉の寄せ具合も、困惑した顔もロシュにそっくりだ。
「休暇を与えたつもりなんだけど、そっちに行っても同じだとは思わなかったから…」
「俺はロシュ様のお世話係も兼ねているのです。ですから本当に困惑しています」
「あら…」
しょげたようにリシェは肩を落とす。
「こんな可愛い子がロシュのお世話をしてくれているなんて…それは申し訳無い事をしてしまったわ。ごめんなさいね…どうしましょう、休暇を与えた手前戻って来いとも言いにくいわ」
遂にはリシェのタルト本体にまで手を伸ばしてくるルイユは、「他の男でも当てりゃいいんじゃね」と非常に下品な事を言い出してくる。
あまりの品の無さに、リシェは「は?」と眉間に皺を寄せた。
「だってさ、あいつロシュ様しか知らないんだろ?なら別のタイプの奴と顔見知りさせたらいいじゃん。何も男ってロシュ様だけじゃねーんだからさ。他の奴を見て、あの堅物女の視野を広げりゃいいんだよ」
「そんなめちゃくちゃな…他って、オーギュ様とか?」
全く見当も付かない。
ロシュの周りでは彼やファブロスが一番近いが、流石に人化は出来るものの召喚獣は無いだろう。
「オーギュじゃ務まらないって。だってロシュ様と同じ系統だからな。他に居るじゃん、インパクトのある奴がさぁ」
「大聖堂の人間は比較的大人しいタイプしか居ないと思うぞ。誰が居るんだ、別のタイプって」
メイド服の使用人から熱い紅茶のお代わりを貰い、ずずっと啜るルイユは「馬鹿だなぁ」と返した。
「居るじゃん、女慣れしたスケベな奴が」
「だから誰だよ?」
「まだ分かんねえの?さっきまで一緒に居たのによ」
…そこでようやくリシェはハッと該当する人物が居る事に気が付いた。
豪邸の前でひたすら待っていたヴェスカは、やっと姿を見せた仲間の姿を見て安心したように「やっと戻って来たか!」と嬉しそうな声を上げて手を振る。
手土産を持たされて戻って来たリシェは、ヴェスカに待たせたなと告げると「ヴェスカ」と話を切り出した。
正門の扉が再び閉じる音を周囲に響く中、彼は自らの上官に向けて口を開く。
「お前、司聖の塔に来い」
いきなり内容も言わず結論だけ話し始めるリシェ。
説明無しの発言に、流石にルイユも呆れた。
「端折り過ぎだろ…どんだけ口下手なんだよお前」
一方のヴェスカも突然大聖堂の司聖の塔に来いと言われて困惑の色を見せた。
「ええ…おい、何言ってんだお前?俺みたいなのが許可も無く塔まで行ける訳無いだろ…」
いくら顔見知りでも自分は一般人だ。流石にロシュの部屋に行くのは抵抗があった。
段階を踏まえなければ入る事は不可能だろう。
「俺がロシュ様とオーギュ様に話を付けるから。その間お前は中庭で待っててくれればいい」
「俺もそっちに行きたいけどクラウスが許してくれないだろうしなぁ。リシェも居るし。いいなぁ、遊びに行きてー」
ルイユは寂しそうにそう言いながら、愛犬のリシェを抱き締め顔を埋めた。真っ白でふわふわした毛並みの子犬は、きゅうと可愛らしい声を上げて飼い主を見上げている。
やはり紛らわしいとリシェは彼の言葉に思わず眉を寄せた。
ヴェスカは「うーん」と唸る。
「何で俺がいきなりロシュ様の塔に行かなきゃいけない訳?」
「あぁ」
端折り過ぎてしまったので事情を説明するのを忘れていた。
「今から事情を説明してやる」
「んん?俺じゃないといけない何かがあるの?」
自分が一体何の役に立つのか分からない様子で若干不安がるヴェスカに、ルイユは「そうそう」と笑った。
「お前の天性の才能を見越して頼みたい事があるんだって」
にこやかに持ち上げてくる彼に、悪い気がしない様子のヴェスカは何だよ?と少し期待して問う。そこまで言ってくれるならば喜んで協力してやるぞと彼は上機嫌になった。
「絶対適役だと思うぞ、ヴェスカ。これはお前にしか出来ない仕事だ」
「マジか。俺にしか出来ない事って何だよ?人助けか?仕方無ぇなぁ。ま。俺にしか出来ない事なら喜んでやってやるぞ。…で、何だよ?」
自分とは遥かに背の高い相手を見上げたままでルイユは続ける。無邪気な笑顔込みで。
「見るからにコマシとスケベ根性の才能を見越して頼みたいんだってさ!」
「………」
「そういう事だ、ヴェスカ」
「どういう事だよ!?」
立てるだけ立てておいて結局落としてくる。この二人は自分をそういう目線で見ていたのかとガッカリした。
もっと別の見方もあるだろうに。
「そういう事だ」
ルイユの発言に乗っかるかの如くリシェは冷静に告げる。
少年達の決して褒め言葉になっていない言い方に、ヴェスカは唖然とした表情を浮かべてしまった。
数時間後。
リシェは許可を得た後、ヴェスカを連れて司聖の塔へ戻っていた。
初めて見るロシュの私室に、口を開けて呆けた顔のまま「広っ」と初見の感想を述べる。ある程度見回した後、室内に居るオーギュの姿に思わず表情が綻んでいた。
「オーギュ様、久し振りだな!俺が居なくて寂しくなかったか?相変わらず冷めた顔してるって事は寂しかったんじゃねえの?」
隙あらばくっついてこようとする大男に対し、オーギュは面倒そうにあしらいながら「いいえ」と返した。
「私は至っていつも通りですよ。…抱き着くな!」
密着しようとする巨体に腕を押しやり、オーギュは鬱陶しそうにロシュ様の御前ですよと呆れる。
「素直じゃねえなぁ!」
「ふふ、いつも通りで元気そうですねヴェスカ」
いつもと変わり無い笑顔のロシュに対し、ヴェスカは頭を下げ「お久しぶりです」と挨拶をする。
「リシェからお話は聞きましたか?」
「はあ、まぁ…」
それまでリシェやルイユに散々お前が適任だと褒められていた彼は、複雑な気持ちのまま苦笑いをする。
別に自分は女たらしでも何でもないのだが、ここまで向いていると言われると実は自分が知らないだけで、実は周りの目からはそんな風に見えてしまうのだろうかと疑心暗鬼に陥りそうになっていた。何気なくオーギュに目を向けると、依然として無表情のまま。
毎度のように冷静極まりない。
「…オーギュ様」
「何ですか?」
「まさかオーギュ様も俺がスケベで女たらしとか思ってます?」
「……」
彼は眉を若干寄せながら何の話ですかとはぐらかす。真顔でスルーするのはお手の物だろうから、きっとそう思っているのだろう。
一連の話は彼も聞いているはずなのだ。ヴェスカは溜息を吐く。
「まぁいいや…例のメイドさんって今何処に行ってるんですか?」
ある程度の内容を聞いていたので、改めて説明は要らない。
ヴェスカはロシュにそう問いかけると、彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
「今大聖堂の中を散策して貰っていますよ。延々とお部屋のお掃除をさせる訳にもいきませんから。セルシェッタが戻って来たら、そうですね…色んな場所のご案内をして欲しいのです。あの人、私の家以外の事を良く知らないので。普通にご案内だけで構いません。屋敷の中以外の世界も知って欲しいのです」
「案内程度なら別にいいんだけど…それは別に俺じゃなくてもいいのでは?」
これだけ人数が居るのに、誰も案内出来る人間が居ないのもおかしい。
素直な意見を漏らすと、ロシュはこくんと頷く。
「確かにそうですねぇ。そうなんですが、ゆっくりご案内出来る時間があまり持てなくて。オーギュが組み立ててくれたスケジュールを崩す訳にもいかないのです…」
ロシュとオーギュは基本多忙の身だ。それはよく熟知しているが、彼らの隣に居るリシェでもいいのではと小さな護衛剣士に目を向けた。
こっちだって、完全に面識の無い人間に対してすぐに道案内出来る程の器用さは持ち合わせていない。せめて仲間が一人欲しかった。でないと話も続かない。
「んじゃリシェも一緒でもいいですか?やっぱり初対面の相手をするのは俺一人だと心細いし」
ここで引っ張り出してくるのかと名指しされたリシェは驚いて顔を上げた。
反論する合間も無く、ロシュはふ…と微笑むと「ええ、ええ」と快く許可する。
「勿論構いませんよ。リシェ、お願いできますか?」
「うぅ」
あのセルシェッタの相手も自分もしなければならないのかとげんなりしつつ、主人であるロシュの命令には絶対のリシェは「分かりました…」と応じた。
案内するのは一向に構わないが、果たして彼女は自分達に従ってくれるのだろうか。
少し関わった程度だが、オーギュの申し出ですら拒否した位頑ななタイプなのに。
「あぁ、良かった。ならいけるかな」
「…何で俺を巻き込むんだ…」
ロシュ達に聞かれないレベルの小声でリシェは恨みがましくヴェスカに訴える。
まさかの飛び火に気持ちが追い付かない。
「アホ抜かせ、俺だって初対面の女とすんなり話を合わせられる要領なんて持ち合わせて無いんだぞ。二人きりなんて御免だ。お前だって困るだろ」
知らない女達に声を掛けられる度に満面の笑みで喜ぶくせに、と舌打ちする。
ヴェスカは理想的な体格と持ち前の愛想の良さで、度々大聖堂や城下の顔見知りの女達に寄り付かれやすい。リシェはそれを良く知っていた。
言葉の悪いルイユが言っていたように、女たらしの才能は存分に備わっている。同性の自分から見ても、女性受けすると思った。
がっしりしている体格にも関わらず逆三角形に引き締まっていて、剣士になる為に生まれてきたような羨ましい体格。そして誰に対しても平等に接する性格の良さ。普段ふざけている癖に、緊急を要する時は的確な判断が出来る。
仲間の剣士からは散々馬鹿にされ弄られるが、結局有事の際に頼る相手は経験を積み、尚且つ頭の回転の早いヴェスカなのだ。
とにかく男らしさという面で憎たらしい程理想的な人間だった。
「お前は女慣れしてるだろ…俺はどうしたらいいのか分からないんだぞ…」
「なら経験を積んだ方がいいって。お前、あまり同じ年の女と会話しないだろ」
「もうリゼラでいっぱいいっぱいだよ。あんな身勝手な女なんて見た事無い」
「言う程身勝手だったっけ…?」
ヴェスカは彼女より遥かに年下だから可愛く感じる程度なのだろう。同じ位の年齢のリシェにはとにかく面倒だったようだ。
リシェはリゼラの自由奔放な行動を思い出しながら苦々しく「物凄く身勝手だった」と呻くように言った。
「スティレンが女だったらあんな感じだろうな。とにかく面倒臭い。自画自賛しないだけリゼラの方がマシだけど…」
あぁ、とうなだれていると、不意にオーギュが咳払いをする。はっと我に返ったリシェは顔を上げた。
「…セルシェッタさんを存分におもてなしして下さるには、ヴェスカのように人に慣れたタイプの方にお願いするのが一番いいと私も思います。ヴェスカ、どうか宜しくお願いしますね」
事務的な対応をするオーギュに、ヴェスカは若干不服そうな様子を見せた。
「俺とデートしてくれねえくせに他人とデートするのを推奨する訳?割に合わなくね?」
「割に合わないとか…まぁ、確かにそうですけど」
「あのね、俺は今日休みなの。いくら何でも上からの命令で休日出勤みたいにお願いされるのはどうかって思うよ?その辺どう思ってるのさ、オーギュ様?」
ロシュからのお願いとなれば仕方無いとは思う。だが成り行きとはいえ休みにも関わらずリシェに呼び出され、見知らぬ相手の世話をしろとなるとどうにも割に合わないのだ。
しかも他人事のようにオーギュは自分にそれを任せようとする。おまけに形になる礼も無いとなれば、不満を吹っかけてもいいはず。
休日出勤という発言にオーギュはそうですね…と腕を組んで考え込む。
「あんたが丸一日、俺の好きなようにさせてくれるって言うなら喜んでやってもいいけど」
「…じ、冗談じゃない!!」
横暴なヴェスカの言い分に、オーギュは反射的に拒否反応を示した。
流石に彼の好きなようにはされるのは嫌らしい。
「だろ?だったらさぁ、あんたが兵舎に駆け込んで、ゼルエ士長にその日の給金を追加するように言ってくれる位の采配をしてくれてもいいんじゃねえの?」
彼の言い分ももっともだ。
休日で個人の自由にしていい時間を勝手に使おうとしているのだから、不満を吹っ掛けられても文句は言えない。自分も逆の立場なら嫌だと思う。
「…分かりましたよ。向こうに後程掛け合ってきます。別で休暇を取らせて貰えるようにするのと、一日の就業に追加して特別に上乗せする話を付けておきますから」
「はは、言ってみるもんだ。んじゃリシェの分も頼むよ。勿論、兵舎側からじゃなくて大聖堂側から特別手当が支給されるんだよな?あんたらからのお願いって事は大聖堂からのお願いって事なんだからさ」
こいつは…とオーギュは彼のふてぶてしさを疎ましくなったが、明らかに言う事は正論なので反論しなかった。
言い分は当然だ。黙って飲むしかない。それもこちら側からのお願いとなれば、宮廷剣士の兵舎側で余計な支出を避けられる。
頼んできた大聖堂側で出すのが筋だとヴェスカは言いたいのだ。大聖堂の人間からの命令とは言え、一切関係無い兵舎側が所属剣士に謝礼を払うのはどう考えてもおかしい。
「こちらからの頼みですからね。折角の休日を取り上げる形になってしまったのは申し訳無い。その事も踏まえてお願いに向かいます」
「そうそう。あっちだってカツカツで動いてるんだからそれ位して貰わないと」
何も考えていない顔をしているくせに、まさかここで妙に冴えた事を言い出すとは。
「おや、珍しい。オーギュが言い負かされる形になるなんて」
二人のやり取りを眺めていたロシュは、驚いた様子で言った。
「…この人の言い分も当然です。兵舎側の事情も良く知っているからこそ言えるのでしょうから。これでもベテランの班長を務めている位ですし」
「これでもって何だよ!」
「私が分からず屋じゃなくて良かったですね、ヴェスカ。もっと頭の固い人が相手だったら却下した後に強制労働を強いたかもしれません」
にっこりと微笑むオーギュだったが、妙に冷気を纏っている雰囲気を醸し出す。後々の怖さを予告するかのように。
「当然の事を言ったまでですけどぉ!?礼を尽くすのは当然だろうが!」
俺に助けられた事だってあったくせに!と息巻くヴェスカをスルーし、オーギュは「さて」と彼の近くのリシェに目を向けた。
「ヴェスカの監視役としてあなたも同行をお願いします」
「監視役…」
まるで彼が何かを仕出かすかもしれないという前提で頼んできた。
あまりにもオーギュに信用されない上官に、つい情けない気持ちになる。日頃の行いが物を言うのだろうか。
「監視役って何だよ、監視役って!まるで俺が変な事をするみたいじゃないか!」
ムキになって訴えるヴェスカだったが、実際変な事をされたオーギュは氷点下まで下がるレベルの冷たい目線を送る。
彼にされた屈辱の時間を忘れた訳では無いのだ。
どの口でそんな事が言えるのか、と。
あまりの冷めた表情に、ヴェスカはググっと詰まる。
「わ、分かった。分かったよ…すみません」
「?」
リシェは目を丸くして不思議そうな顔をしていた。
「…では、宜しくお願いします」
「すみませんねぇ、ヴェスカ。リシェも折角お休みの所色々お願いしてしまって…」
申し訳無さそうなロシュだったが、リシェは首を振って「いえ」と応える。
「休みと言っても、俺は特にする事がありませんから」
趣味といえば読書や剣の手入れ位しか無い。
しかも今のリシェには支給された宮廷剣士の剣しか手持ちが無く、手入れもすぐに終わってしまうのだ。リンデルロームで破壊された剣の代わりになる物を、ロシュは新しく作ってくれるよう依頼をかけている最中だった。
…更に魔法の力に耐性がある頑丈な剣を。
だが、そうなれば作成するにもかなりの時間を要する。よって、現状手元にあるのは宮廷剣士の簡素な剣とクロネから貰った短かめの特殊な杖のみ。
純正の魔導師ではないので練習を欠かさずに行っているが、未だに杖の扱いに関しては慣れずにいた。
前回ロシュから賜った剣は魔法に関しての耐久性を持っていたが、支給された剣にはそこまでの補強は為されておらずいつものように魔法を絡めて扱う事は出来ない。
流石に剣技に特化している集団に対して、魔法という違うジャンルの能力は求めていないのだ。むしろ問題外の話だろう。
それに現を抜かす位なら剣の技を磨いた方がマシだと。
ある意味剣も扱いたいが魔法も使いたいというリシェは我儘なタイプかもしれない。
主人であるロシュを護りたいという一心でどちらにも力を入れたいという気持ちは分からなくも無いが、普通に考えて剣と魔法の両立は難しいのだ。
どちらもやりたいのは剣士から見れば愚の骨頂。
強さを求める以上、他からどう思われようと二つの能力を生かしたいと彼は考えていた。
彼は新しい剣が手元に来るのを、ひたすら待つ日々を過ごしていた。その剣があれば、家と魔法の両立が叶う。
自分には夢のようなアイテムなのだ。
「ロシュ様からのお願いなら喜んでこなしてみせます」
生真面目なリシェがロシュの言葉に応じている横で、ヴェスカは脱力感たっぷりの普通の発言を口にする。
「まぁ、リシェが一緒なら初対面の女の世話をするのは大丈夫だろうな。どれだけ我が強いか見てみたいっていうのもあるし…理想的なのはエロくて巨乳がいい」
「…最低な男だ…」
どんな状況に置かれても楽天的なヴェスカの横で、リシェは愕然とした顔を見せた。
そうしていると、塔の螺旋階段をゆっくり上がって来る足音が聞こえてきた。噂をすれば、だ。
リシェは顔を上げ、「戻られました」と呟く。
戻って来てすぐ作業をしそうだったので、目に付いた清掃用具をさっさと片付けた。
「あの人の場合、すぐに探し出して掃除しそうですけどね」
どうにかして隠そうとしているリシェの後ろ姿を見守るオーギュは思っていた事を素直に口に出した。
それまでセルシェッタが延々と清掃をしていたのを見てきたリシェは、勘弁して欲しいと言わんばかりに首を振る。
「これ以上やられては俺の立場が」
「へぇ、何も言わなくても掃除してくれるのか。いいな、俺の部屋もやって欲しい位だ」
うまく隠し終えたリシェは、能天気なヴェスカの言葉に「お前の部屋は絶対やらないと思うぞ」と辛辣に切り捨てた。
彼女が動くのはラウド家の人間に対してのみ。
しかもロシュの母アイリアが言っていたように、密やかに恋慕している可能性のある相手の部屋なら甲斐甲斐しく働かざるを得ないのだろう。
部屋の扉が軽くノックされる。
「はぁい」
いつもののんびりしたロシュの返事の後、ゆっくりと厚い扉が開かれた。
「只今戻りました、ロシュ様」
クラシカル風の黒いメイド服に身を包むセルシェッタは、恭しく一礼する。出先なのでエプロンは外していたが、いかにも生真面目さが滲み出ていた。
ロシュはにっこりと微笑むとお帰りなさい、と室内に勧める。
「セルシェッタ、どうでしたか?大聖堂は」
「思っていた以上に人でいっぱいでした」
「ふふ、ここは色んな目的を持って来て下さる方で入り乱れますからね。ちょっとソファでゆっくり休んでいなさい。今お茶を淹れますからね」
セルシェッタは前より人数が増えた事に少し怪訝そうに眉を寄せる。
「お茶なら私が」
「いいえ、あなたはお客様ですから」
一連の会話を聞いていたヴェスカは、再び隣に付いたリシェをちらりと見た。
「なるほどねぇ…」
こういう感じなのか、と納得する。リシェは非常に居心地の悪そうな顔のまま溜息を吐いた。
護衛の役割の他にその他の世話を好んでするリシェには、大層困惑してしまうようだ。
彼女は静かに部屋の隅に進んでいく。あくまでも自分の立ち位置は脇役側だと言わんばかりに、慣れた様子で隅に立っていた。
ロシュは自ら来客用のお茶を淹れる為にカップを選び始める。その間にもセルシェッタは手伝おうとするが、「まぁまぁ」とソファに押し戻していた。
そんな状況を見て、彼女は常に動かないと死ぬ病気なのか…とヴェスカは思ってしまう。動きもどこか人間的では無い雰囲気に見えた。折角美女の類に入るのに、愛想もほぼ皆無とは非常に勿体無い。
「先程リシェにお願いして、あなたがいつまで滞在出来るのかを実家まで聞きに行ってくれたんですよ。ずっとお仕事を頑張ってくれていましたからね」
「はい」
「あなたが存分に骨休めして欲しいとこちらにあなたを寄越してくれたみたいなのでね…制限は特に設けて無かったらしいので、たまにはゆっくり休暇を楽しんで下さい。お部屋は常にあなたが過ごしやすいように致しますから」
仕える家の主にそう言われるのは若干違和感を覚えるのだろう。
セルシェッタは客人という側に立った事が無いらしく、反論の言葉を探そうとするが出て来ないようだ。むず痒そうな表情を浮かべている。
「リシェ」
「は、はい!」
不意に呼び掛けられ、リシェは反射的に顔を上げた。
「手伝って貰えますか?」
カシャン、と茶器が軽くぶつかる音を響かせ、ロシュが微笑んだ。
彼からの申し出に、強く頷き返事をする。
「あなたはとても良いお茶を淹れてくれますからね」
そう言ってリシェの頭を撫でる。ロシュなりに、こちらに気を使ってくれているのだろう。
「常にロシュ様にはいいお茶をご用意したいので」
「とても嬉しいです」
リシェは照れ隠しをしつつ準備の手伝いを始めた。
二人がお茶の用意をしている間、ヴェスカは手元の書類をちら見しているオーギュに目を向ける。
彼は視線に気付かないまま、書類を数枚捲っていた。
毎度こうしてデスクワークするのか、と思いながら「オーギュ様」と声を掛ける。
「何です?」
オーギュは声を掛けてきた大男に顔を向けた。聡明さを物語る眼鏡姿も良いが、眼鏡を掛けない状態の彼も違う雰囲気を与えてきそうだ。
眼鏡姿も悪くないが、非常に勿体無い。
「あんたの休みは無いもんなのか?」
「は…?休み?どういう事ですか?」
「いや、ほら。俺、あんたの休みとか把握出来ないし」
「………」
把握してどうする、とオーギュは眉を顰める。
自分の休みは特に定めてはいない。暇な時期を選んでそこに充てている具合なので明確には決めていなかった。
仕事の合間にも出来る時は休息をしているし、自分の体力の程度は分かっているので無理の無い程度にこなしているのだ。
疲れが溜まればさっさと休むので、一般民のように丸一日ぶっ続けの勤務とは異なる。
だが、それをヴェスカが知ってどうするのか。自分の休みなど彼には全く関係無いではないか。
「特に決めて無いので…私のを知ろうとしても意味はありませんよ。不定期なので」
「不定期って…マジかぁ。何だよ、デートしようにも誘えないじゃん」
「デートって…誰が行くんです」
おかしげな事を言い放つヴェスカを、オーギュは脱力しそうになりながら問う。
正直、彼の相手をするのも面倒臭い。
こちらはこちらでやる事があるのに構わないで欲しかった。
「誰って…決まってるじゃん」
「…決まってるって…」
「あんたと、俺」
自分の中に居る召喚獣が眠っていて良かったと思った。
彼の言葉を聞いたらきっと、冗談を言うなと荒ぶるであろう。にこにこと笑いながら変な事を言い放つヴェスカに対し、オーギュははぁ…と溜息を漏らし頭を垂れてしまった。
「しませんよ。お断りします」
「嫌だ。してくれ」
「嫌だじゃないでしょう。そんな暇があったら仕事します」
「この堅物め」
あまりのつれなさに、ヴェスカは拗ねた。
ふんわりと爽やかなお茶の香りが漂ってきた。同時にロシュの声が飛び込んでくる。
「セルシェッタ」
「はい」
ほぼ強引にソファに座らされていたセルシェッタはロシュの呼び掛けに返事をする。その声ですら、どこか事務的に聞こえた。
テーブルとカップを乗せたソーサーの音が鳴る。
少しばかり開け放した窓から流れる風も手伝って、茶葉が放つ最高の香りが室内に広がっていった。
「こちらを飲んでゆっくりリラックスして下さい」
彼女に今一番必要なのは自由な時間だ。だが、本人はその自由な時間の取り方が分からない様子。
こうしてお茶をゆっくり嗜むという事も無かったのかもしれない。
飴色に揺れるカップ内の紅茶に視線を落としていたセルシェッタは、ロシュに礼を告げるとゆっくりとそれを喉に通す。
ロシュは彼女の隣にそっと腰掛け、優しい口調で告げた。
「熱いのでゆっくりお飲みなさい」
「しかし、作業の時間もあるのであまりゆっくりするのは」
「ここはあなたの仕事場ではありませんよ」
そう諭され、彼女はカップの手を止める。
「落ち着いたら、大聖堂や他の施設等のご案内をさせて頂きます。あなたはお屋敷の中だけの生活ばかりで非常に勿体無いですし、滅多にこちらにいらっしゃらなかったのでいい機会だと思うのです」
「?」
ふわっと微笑むロシュは、顔をリシェとヴェスカに向けた後で「本来なら私が動かなければなりませんが」と前置きした。
「リシェとヴェスカにお願いしていますから、何か分からない事がありましたら遠慮無く言って下さい」
セルシェッタはリシェと見知らぬ大男をちらりと見た。初めての顔に思わず眉を寄せるも、彼女は「はい」と返事をする。
「一般の方ですか?」
完全に休日モード全開のラフな格好のヴェスカを見て、流石に違和感を覚えたのかもしれない。安易に一般人を受け入れられる場所なのだろうかと疑問が沸いたのだろう。
ロシュは「いいえ」と首を振る。
「彼は護衛として良く旅の動向に付き合って下さっているのですよ。リシェと同じくベテランの宮廷剣士です」
そこまで警戒されてしまうとはと流石のヴェスカも困惑を隠せなかった。
まるで不審者を見るような目だ、と萎えそうになる。
「うぅん…こっちに来る前に制服でも着てくりゃ良かったかな…」
「制服を着ても結局怪しまれるんだから、特に気にしなくても良いんじゃないか?」
普通過ぎるのも信頼に欠けるのかと心配になるヴェスカに、リシェは遠慮も無く言い放っていた。
「人をおかしげな目線で見るなよ!」
「リシェ」
言い過ぎですよ、とオーギュは困惑しながら嗜める。
お、とヴェスカは珍しく自分をフォローするオーギュを有難そうに拝んだ。
「オーギュ様、たまには優しさを見せるんだな!」
しかし彼は真顔を保ったまま、ヴェスカの期待を裏切るように優しく無い発言を放つ。
「流石に頭で思っていても、正直に口にしては失礼に当たります。慎む事も覚えておきなさい」
「フォローどころかめちゃくちゃ落としてるじゃねえか!」
少し位俺にも気を使ってくれ!と訴えた。
「まぁまぁ…そこまで言う事も無いでしょうに。ヴェスカはこう言われていますが相当信用に値する剣士ですし」
最終的にロシュがちゃんとしたフォローをしてくれたので、そこでヴェスカはようやく溜飲を下げた。
そうだろ?流石ロシュ様だなぁと満更でもない様子。
リシェは肩を落としながら「そうやって調子に乗ると碌な事が無いぞ」と呆れた。
彼は褒めれば褒める程墓穴を掘りやすい性質だというのを、常に一緒に居るリシェは知っているのだ。城下の住民の手助けをして感謝されればその場で排水用の側溝に埋まるし、困っている女性に手を差し伸べれば相手の交際中の男に謎の因縁を付けられたりもする。
何故か彼はそういう状況に遭遇しがちだった。
「今回は普通に案内みたいな事をすればいいんだろ?そんなに難しくないじゃないか」
「ええ、ヴェスカ。どうかお願いします…セルシェッタは街中に慣れていないので、圧倒されてしまうかもしれませんが紳士的に接して差し上げて下さい」
紅茶を嗜んでいるセルシェッタは、ちらりとヴェスカとリシェに目を向けた。目を合わせた彼は反射的ににっこりと笑いかける。
「任せておいて下さいって。俺、物凄く紳士なんで」
「はは」
自ら紳士と名乗りだすので、ついリシェは乾いた笑いを放っていた。
少しの休息を経た後、ロシュから命じられるままリシェとヴェスカはセルシェッタの相手をする事になった。
彼女は今まで関わってきた異性とは全くタイプが異なっていて、何を話すにも非常に事務的な返事しかしてこない。
どちらかと言えば軟派なヴェスカも、このタイプには全く遭遇した事が無いらしく稀に反応に詰まった。
「本当に遊びに行くっていう概念が無かったんだろうなぁ」
素顔は非常に美しさを垣間見せるのに、堅物そうで近付き難い雰囲気をひたすら放つのは非常に勿体無い。真面目さを引き立たせる眼鏡を外し、格好も堅苦しさを思わせるロングスカート型のメイド服を変えれば格段に見違えそうなのに。
大聖堂の中庭で一旦立ち止まり、併設されているカフェをちらりと見た後で「特に腹が減ってる訳でもないだろうしな」と考え込む。
「ええっと…セルシェッタさん?」
ラウド家から来た彼女の呼び方を考えていたが、結局普通にさん付けする事にしたリシェは、伺うような口調で彼女に問いかける。
女性にしては少し目立つ位の背の高さを持つ彼女は、リシェの呼び掛けに「はい」と応えて見下ろしてきた。
変に威圧感を感じるが、物怖じしてはいけないと何も気にしていない風を装い「何か得意としている物とかはあるのですか?」と聞いてみた。
セルシェッタはやや眉を寄せ、少し考え込む。
「得意…ですか?」
「ええ。俺は剣技の練習とか読書とか好きなので何も無い時は図書館や剣の腕を磨く為に練習に出たり、剣の手入れをしています」
少女のような風貌をしていながら、口からは物騒な事を言うリシェに不審そうな顔を向けた。
「それも全て、腕や知識を蓄えてロシュ様をお守りする為に必要な事だと思っているからです」
「………」
ロシュ様、というキーワードが功を奏したのか。
そこでようやく彼女は若干固かった表情を緩めた。
「そうですね」
掛けている眼鏡を直しながら、リシェの質問に答えた。
「私も少しではありますが護身術のような物を嗜んでおります。それも屋敷を守る為には必要ですから」
リシェはヴェスカの顔を見上げる。
少しだけ道筋は見えたな、と頷いた。
「ならさ、ちょっとだけ兵舎でも見学してみる?男しか居ねぇけど、護身の稽古位なら覗けると思うし」
その言葉に、彼女は一瞬目を輝かせる。
どうやら武芸方面に興味がある模様だ。
「ええ、ぜひ」
パッと見れば貞淑そうな印象なのに、男臭い兵舎に興味があるとは。見かけに寄らないもんだな…と食いついてきた様子を確認したヴェスカは苦笑いする。
とは言え、リシェが話題を切り出してくれたのもあり最初の案内する場所は確定した。
リシェはヴェスカを見上げ、「出来る範囲内なら別に見学してもいいだろう?」と聞いてきた。一応許可を得なければならないのかと不安になったようだ。
「ああ、全然構わないぞ。むしろどこに行けばいいか悩んでたからな。お前が話を進めてくれて助かるよ」
「それなら良かった」
中庭をそのまま通過し、大聖堂の正面入口へ進む。
時刻は昼を少し超えた位だろうか。あまりにも一日の前半に起こった内容が濃過ぎて、もう夕方なのではないかと思える程だ。休暇と言えど起床が早いので長く感じてしまう。
勤務する時間によって休む時間や起床時間も変化するが、リシェのようにロシュの護衛を兼ねる特殊なケースだと日勤が主となる。
特に護衛の用件が無ければ普段の宮廷剣士とは変わらないので、休日でも癖がついて早朝から目覚めてしまうのだ。
「むさ苦しい場所だけど平気?」
「ええ、大丈夫です」
普通ならば汗臭い上に筋肉質のむさ苦しい場所など女性は好まないだろうに、大丈夫だと言ってのけるあたり耐性は付いているのだろう。
正門前を通過し、一般人や関係者が行き交っているのをやり過ごした後、階段を降り切る途中で兵舎側への道に入り込む。大聖堂の関係者は宮廷剣士が闊歩する兵舎近辺は敬遠しがちだったが、何も知らない観光客などは遠慮無く敷地内に入る場合もある。
物怖じしない者も稀に居て、屈強な剣士が集中する練習場に勝手に足を踏み入れる時もあるので見学する際はあらかじめ指定場を設けていた。
状況によっては危険を伴う可能性もあったり、血気盛んな剣士の気分を阻害されてしまいかねないのだ。
誰しもが平和を守る穏やかな性質では無いのは、仲間を見ているヴェスカでも分かる。何度か仲間と物怖じしない来客と言い争う光景も見ているのだ。
流石に一般人と諍いを起こすなど、格式の高いアストレーゼン大聖堂お抱えの宮廷剣士の立場では許される訳が無い。
例え自分が悪くなくても、結局はこちら側の責任が大きくなってしまう。
何度目か繰り返されるいざこざに辟易し、士長のゼルエは来客向けに見学可能の場を設ける事を指示した事で、無駄ないざこざを回避させる為の采配を行った。前回よりは彼らの衝突は少なくなったが、年に数回は似たような事が起きる。
ただ規制をする事で回数は減った事から、士長のやり方は決して無意味では無かったようだ。
見慣れぬ土地で浮かれてしまう気持ちも決して分からなくも無いが、羽目を外して予想外の行動を起こす者に対しては、なるべく穏便にしつつ退去を頼む事しか対処出来ないのだ。
「俺らはいつもここの通路を使って兵舎の中に入っています。ここから大聖堂の中の任務だったり、外の任務だったり…班ごとに部隊は分けられていて、剣士の数も多いのです」
リシェはセルシェッタに対して、慣れたように宮廷剣士の事を説明していく。最初の頃と比べて、かなり言葉の数も増えてきたなとヴェスカは感心した。
彼はとにかく大人しいタイプだと思っていたのだ。顔を初めて合わせた当初はとにかく他人と喋りたがらない性質で、やりにくさも感じていた。
そんな彼がこうして道案内出来るまで話すようになったのは相当成長したのだと思う。
「ううん、リシェちゃん」
「?…何だ、ヴェスカ」
「いやぁ…何ていうか、本当成長してくれたもんだなぁって」
急にしみじみしだす彼に、リシェは眉を顰めて「何言ってるんだ」と怪訝そうに問う。
そんな事を言われると反応に困るようだ。非常に複雑な表情を見せる。
「喋りが苦手だと思ってたからな」
「………」
そのまま足を進めていくと、剣士達が日々腕を磨いている大型練習場の敷地内へ入っていく。遠巻きに聞こえていた声も明確に聞き取れるようになり、汗臭さと泥臭さが混じった空気も鼻を突いた。
「ここはどういう時に使うのですか?」
それまで無言だったセルシェッタが口を開く。
「あぁ、ここ?そうだな。日課に組み込む事が大半だけど、個人的に練習したいって時も許可を得た上で練習も出来るよ。リシェみたいなのは一日の任務が終わった後で使ったりするし」
「座学で始まって座学で終わる時は体が鈍るんだ」
「はぁ…なるほど」
野太い声が聞こえる最中、自分達の居る場から離れた所で窓辺に貼り付きながら見学している法衣姿の女性の姿が見えた。その法衣はどこかで見た事のあるデザインで、非常に細身の体型を引き立てている。
腰まで長い銀色の髪は、風に遊ばれ揺れ動いていた。
ヴェスカは「あれ?」と不思議そうな面持ちでその女性を見る。
「どっかで見たような格好だな…」
ぽそりと呟かれ、リシェも彼の視線の先に目を向けた。そして思い出したかのようにあぁ、と返す。
「宮廷魔導師の方じゃないのか?あの格好、オーギュ様と丸っ切り同じだし…」
「ほえぇ…他の人を初めて見た。あまりお目にかかれないからな!でも何してるんだろ、あの人」
完全に練習場に釘付けになっている様子だ。
声をかけてみるか、とヴェスカは自ら進んで彼女に近付く。だがこちらの気配に全く気付いている様子は無く、むしろ自分の世界に浸っているのか見物する事に非常に夢中になっている模様。
「あのー」
とりあえず声を掛けてみる。
しかし一向にこちらに気付く様子も無く、頰を赤らめ目を燦々と輝かせながら練習場の内部を覗く事に集中しているようだ。
「…はぁ…何て肉肉しい筋肉…汗塗れで絡み合って…堪らない、とてもいいわ…!」
ぶつぶつと一人悦に入り込んでいる模様。
筋肉が死ぬ程好きらしい。
肉肉しいというフレーズが発せられた段階で、ヴェスカは思わず声を掛けるのを躊躇ってしまった。
「あの、もしもし?」
少し声のトーンを上げると、そこでようやく相手はこちらに気付く。そしてヴェスカの姿に、彼女は反射的に勢い良く飛び退いた。
「んんんんっ!?…あひゃぁああああああ!!」
「うわ!!」
興奮冷め止まない様子だったが、目の前の大男に非常に驚いたらしく悲鳴を上げる。おかしい位に驚かれ、ヴェスカもまた彼女から数歩後退して離れてしまった。
「ななな、何ですか!?俺そんな変なとこあった!?」
自分に非があったのかと思い、つい慌てる。
数メートル離れた同じ場所で、リシェとセルシェッタは無言でお互いの顔を見合わせた後再びヴェスカと女性の方に目を向けた。
急に出現した相手を前に、女性は一旦落ち着こうと呼吸を整えようとしたが、その相手の屈強さに再び興奮の坩堝に入り込んでしまった。
「あぁあああ!!き、筋肉質!!まさか目の前で見れるなんてえええ!!」
「へ…!?は!?」
「第二班の班長のヴェスカさんでしょう!!」
美しい顔を両手で押さえ、歓喜の笑みを浮かべながら叫ぶ。
それまで宮廷魔導師は堅苦しいイメージがこびりついていた為か、その激しい勢いについたじろいでしまう。
「な、何で俺の名前!?」
初対面ですよね!?と不思議そうに質問した。
「お前、何かしたんじゃないのか?」
こちらに近付きながらリシェは自分の上司を疑う発言を放った。こいつならやりかねないと思っているのだろう。
慌てながら「んな訳あるかい!!」と叱咤を込めてリシェに言った後、再び目の前で興奮する女性宮廷魔導師に向き直った。
ヴェスカにしては全く見覚えが無い人間だ。
そもそも、普通に一般人として生きていれば宮廷魔導師と関わる事など無いのだ。術者の中でも特に秀でた能力を持つ魔導師の中から特に高魔力を保持する選ばれた五人が、大聖堂付きの魔導師に選別される。
よって一般には禁止されている危険で難易度の高い魔法の研究を許され、図書館の利用や魔法に関する設備も使い放題だという。その代わり一生涯大聖堂側に仕え、利になる結果をもたらす為に日々魔法の鍛錬と研究を励むよう約束させられる。
彼らは研究中心の生活の為に、あまり外部に出る事は無いのだ。ロシュ自ら指名されたオーギュは、その宮廷魔導師から引っ張られ補佐になった為に特殊な待遇に当たった。
大抵の人間は宮廷魔導師の顔や名前は知らない。
オーギュは司聖補佐という立場の為に、人々からの認知度があるだけなのだ。
「勿論知っていますわ、良く見知った筋肉…いえ!!剣士様ですから!」
「今筋肉って…」
ヴェスカはつい反応する。絶対筋肉って言ったよな、と。
リシェもそう聞こえ、ついセルシェッタを見上げた。彼女もまたこくりと頷く。
興奮の余り、涎を垂らしそうになるのを押さえ、気持ちを落ち着かせようと胸に手を当てて深呼吸をした。
すぅ、はあ、すぅ、はあ…と繰り返す様子を、一行は無言で待つようにして眺める。
「というか…」
やや間を置き、リシェは呟いた。
「見知った筋肉って何だよ…」
「良く知った筋肉の意味ではないですか?」
普通に返事をするセルシェッタに、リシェはつい表情を歪めてしまう。
「やっぱりヴェスカは女たらしなのか」
何故かそんな結論に辿り着き、リシェは勝手にドン引きしてしまう。彼のような軟派なタイプならあちこちに手を出しそうだと思ったらしい。
ヴェスカは慌てて「アホか!!」と怒り出した。
「俺はそこまで遊び人じゃねえし!」
焦って否定した後で、改めて相手を見直す。
「…んで、何で俺の事を?」
とりあえず本人に聞いてみないと先に進まない。自分の知る宮廷魔導師はオーギュしか居ないので、別の魔導師が自分を知るはずが無いのだ。
オーギュ本人が自分の話をしていれば話は別だが。
間を開け、ようやく彼女は落ち着きを取り戻したのか深く一息吐くと自らの身なりを整えてようやく口を開いた。
「それは良く…存じていますとも…!私、どうにも筋肉隆々の殿方がとてもとても好きで…っんんっ、目の前に理想的な筋肉を持つ方が居るととにかく、もう興奮してしまって…ふぅうう…今までずっと、このように遠くからひっそり見学させて貰っていたものですから、いきなり前に出て下さるとなると…!!はぁああ、感極まってしまって」
興奮のあまり息切れ寸前状態で喋っている。
宮廷魔導師はお堅い職業だと思っていたが、とリシェは興奮極まりない状態の相手を見ていた。やはりオーギュのイメージが強いようだ。
「どうやらこのお方はお前じゃなくて、お前の筋肉に興味があるみたいだぞ」
残念だったなと言わんばかりのリシェに、ヴェスカは脱力し、再度振り返って反論した。
「ええい、だまらっしゃい!!」
地味にショックを受けたらしい。
「その人の目線辿ってみろ。どう見てもお前の全身にしか向いていないぞ」
そんなリシェの言い方に、堅物なセルシェッタは反射的に「破廉恥な」と眉を寄せていた。
一目惚れしたとかなら少しは格好つけられそうなのに、とヴェスカは複雑な心境に陥る。
相手の着眼点が普通の人と全く違うのが残念だ。
「し、失礼しました…私、エルレアリと申します。未熟者ではありますが、大聖堂に所属する宮廷魔導師です」
「あはぁ、やっぱりか。オーギュ様と全く同じ服だからそうだろうとは思ってたけど…」
エルレアリという女魔導師は、良く知った仲間の名前に反応してヴェスカを見上げた。改めて相手の顔を見ると、目尻が垂れ下がった形になっていて柔和な印象を受ける。お淑やかで非常に女性的だが、宮廷魔導師となる程高火力の魔法の使い手なのだろう。
…あまりイメージが湧かない。
「オーギュをご存知で?」
「はあ…かなりご存知ですよ。よく護衛を頼まれたりするんで」
ようやく落ち着きを取り戻したのか、エルレアリは冷静に話すようになっていた。
「そうだったのですね。ほら、あの人司聖の塔に入り浸りで、あまり研究室に顔を出せないから…元気そうなら何よりだけど」
リシェはオーギュ以外の宮廷魔導師に内心気持ちを騒つかせていた。こちらからすれば、五人という少人数ながらも非常に尊敬に値する立場だった。
彼らも大聖堂の有事の際には宮廷剣士同様、更なる強力な護衛として、自分達の背後に付く役目も仰せつかっているのだから。
エルレアリはヴェスカの奥に居るリシェをちらりと見た後、目を合わせにっこりと微笑んだ。
「う…」
ついドキリとするリシェ。
「あなたがロシュを護衛している白い騎士様?」
久しぶりのフレーズに、リシェは背筋を伸ばし「は、はい」と返事をした。彼を呼び捨てに出来るのも昔同僚だった故なのだろう。
つい畏まってしまう。
「初めてお会いしたかしら?」
「はい」
彼女はリシェの前に少し進むと、目線に合わせるように軽く屈んだ。今まで出会った異性の中では、彼女が一番身長が高く見える。百七十以上はあるだろうか。
やや垂れ気味の目は優しい性格を思わせてきた。
「たまにロシュやオーギュから話は聞いているの。とても頼もしい剣士様だって」
褒められ、思わずリシェは謙遜しながら「そんな事は」と照れ隠しをする。ただ自分は、自分の出来る事をしているだけなのだ。
「ほー!リシェちゃん、良かったなぁ、褒められちゃったじゃん」
「冷やかすな」
「褒められる時は素直に受け取った方が印象がいいぞ」
リシェはエルレアリを見上げ、ありがとうございますと礼を告げた。
褒められる事に決して悪い気はしない。ただ、慣れない自分には妙にくすぐったさを感じてしまう。
「ええっと…んで、こんな場所に良く来られるんですか?」
何となく来た理由が分かったが、エルレアリは結構な頻度で見学しにやって来るのだろうか。
ヴェスカの問い掛けを受け、彼女は体を起こしくるりと振り返ると満面の笑みで「ええ、ええ」と返した。
「私、とにかく筋肉質の方が好きで…時間があればこうしてひっそりと兵舎に覗きに伺っていたのです。練習用の道着から覗く筋肉もたまらなく好きなんですが、大抵のお方は専用の制服で剣の稽古をされているので物凄く残念で…むしろ、上半身裸でも私は一向に構わないのに」
自分も結構な頻度で練習場に居たが、全く気が付かなかった。もしかしたら身を潜めて覗いていたのかもしれない。
それはそうと、彼女の発言がどう考えてもおかしい。内容がいちいちマニアック過ぎて、返事に詰まってしまう。
これだけの美女にも関わらず、筋肉に対しての感想が変態的に聞こえてきた。それ位好きなのだろう。
「そんなに好きなら誰かしらに声を掛ければ良かったのに」
「そ、そそそそんな!!私から声を掛けるなんて、き、ききき筋肉を見せて下さいなんて言える訳が!!」
興奮のあまり、勢い良く声が跳ね上がった。
折角落ち着いたのに、とリシェは呆れる。
「今は流石に練習も終わりそうだし、また来た時に俺が居ればいつでも声を掛けて貰えれば」
「ほ、ほほ本当ですか!!!?」
相当嬉しいのだろう。声は更に裏返り、表情は歓喜で満たされていた。
「嬉しいです…!!またの機会がありましたら、ぜひお声を掛けさせて貰いますね!あぁ、もっと時間があれば良かったのに…そろそろお暇しなければなりません」
エルレアリは名残惜しそうに練習場とヴェスカを交互に見た後で「度々覗かせて貰いますね…」と言った。
「宮廷魔導師のお仕事もご多忙を極めるのですか?」
リシェは残念がる彼女に問う。普段ならば決して近付けない職種なのでどんな仕事をこなしているのか想像が付かないようだ。
「うふふ…主に研究中心なので思っているよりは気が楽な職業よ。今は魔法と薬草を合成する研究をしている最中です」
「へぇ…興味深い。俺、魔法を教わったばかりなのであまり良く分からないのですが、薬草と組み合わせるとやはり危険性も高くなるのでしょうか」
「そうですね…薬草の成分によっては、魔法との相性によって毒素を放つ物もあるから…ある意味危険な作業も入ります。吸い込みを予防する為にバリアを張ったりしますし」
やはりそこまでするには相当な能力の持ち主でなければ、高位の研究などはさせて貰えないのだろう。
リシェは質問に答えてくれたエルレアリにぺこりと頭を下げる。
「なるほど…やはり素人には難しいな。ありがとうございます」
ふんわりと彼女は微笑むと、それではこれで失礼致しますと礼儀正しく告げて去っていった。
まるで嵐を思わせるように、感情が激しかったり落ち着いたりと忙しい人物だったと思う。何か疲れたな…とヴェスカは呟いていた。
「感情の豊かな方でしたね」
それまで何も喋らずにいたセルシェッタは、ここでようやく口を開いた。
「あんたも少し位は感情出しても良いんだぞ?」
茶化すようにヴェスカは無感情のメイドに対してちくりと刺すが、セルシェッタは依然として表情を変えないまま。
「ご身分のある方々を差し置いて自ら率先して話すなど、もっての外です」
「えぇ…あんた、そうやって育ってきた訳?」
「使用人として当然です」
民間人であるヴェスカには信じ難い言葉だった。喋るのに身分の事を気にする必要性など全く無いのに。ラウド家はそういう家系なのだろうかとも考えたが、リシェの話を聞く限りそこまで規律に満ちた印象は無い。
あまりにも身分を弁え過ぎてやしないだろうか。
「ううん…何て言うかな、どうにも控えめじゃないの?リシェ、どう思う?」
いきなり話題を振られ、リシェは「は?」とヴェスカを見上げた。
「周りに遠慮しがちなんじゃねえのかってさ」
「…身に付いてしまったのは仕方無いのでは?」
変えようにも変えにくいのだろう。ただ、慎み過ぎるのも良くない気がする。
「まあ、俺らには普通にしていいんだぞセルシェッタさん。俺は民間人だし、リシェはアストレーゼンでは俺と同じ立場のようなもんだ」
ヴェスカに同調するかのように、リシェも無言で頷いた。
「とりあえず、練習場の中でも見たら?見たかったんだろ?」
インパクトのある先客の為にまだセルシェッタは内部を見ていない。促され、ようやく彼女は練習場の許された場所から中を見学する。
色んな匂いと熱気が混じり合う練習場の内部では、自分達から数メートル程離れた場所で模造刀を用いての剣技の稽古が繰り広げられていた。
道着姿の剣士達が数十人。お互いに野太く気合の籠った声を発しながら叩き合いをしている。
セルシェッタは安全柵に手を掛け、まじまじと眺めていた。
「…興味ある?」
「ええ」
…清楚なメイド服の淑女が気に入るようなものでは無いのだが。
ヴェスカは不思議そうな様子で真顔のまま練習場を覗く彼女を見ていた。その後に彼女から少し離れ、そそそっとリシェの元へ近付く。
そして不意に沸き出た疑問を投げかけた。
「まさかとは思うんだけど、剣とか武器系を使えたりするとか無いよな…」
「まさか。そんな様子は一切見せなかったぞ」
初めて出会ってから彼女は延々とロシュの周りの世話しかしていないのだ。剣の覚えがあるなどと一切知らされていない。
リシェの目にはひたすら掃除をするセルシェッタの姿しか見ていないのだ。
「だよなあ」
単に興味があるだけか、と自らを納得させた。
リシェとヴェスカがセルシェッタを連れて行ってくれたので、ロシュ達は周囲を気にする事無く仕事の続きを黙々とこなしていた。
書面と睨めっこしていたオーギュは、眼精疲労を感じる度にそこから目を離してその都度眼鏡を外してマッサージを繰り返す。
やはりデスクワークになると固まった体がきつい。
「静かになれば仕事はとても捗りますがあちこち体が痛みますね」
首元のマッサージを自分でしながらぽそりと口にする。
「ソファで作業するのも無理があるのでしょう。ですから言ってたじゃないですか、あなた専用の机を用意したいって…なのに頑なに断るんですから。あなたさえ良ければ体にぴったりな椅子や机を作らせますって」
部屋は決して狭くは無い。むしろ広いので、同じような机や椅子を設置してもレイアウト次第でどうにかなる。
自分だけ書斎机で仕事しているのに、補佐してくれるオーギュがソファでの作業だとそのうち体に影響が出てくるに違いないのだ。
「いつまでも若いつもりじゃ通用しないのですよ」
ちょっとした嫌味に、オーギュは内心ムッとする。年齢はほぼ一緒の彼に若くないと言われた気がして、変に引っかかってしまった。
ちょっとばかりの苛立ちを含めながら反論する。
「同じ位でしょうが」
疲れを感じた主人を察したのか、足元で休んでいたファブロスは人の姿へと変化するとおもむろにオーギュの背後に立った。
「ん?」
背後にすっと影が入り込み、オーギュは振り返る。
「どうしましたか、ファブロス?」
『疲れているようだからな』
背丈のある美丈夫は憮然とした表情でそう言うと、オーギュの肩をゆっくりマッサージし始めた。おやおや、とロシュは微笑む。
「何て優しい。良かったですね、オーギュ?」
ぎゅ、ぎゅと揉み込まれ、思わず心地の良い溜息を吐いた。
「く、く…あぁ、そこいいです…」
『そうか。なるべく加減しているからな。力一杯だとお前の肩が壊れてしまう。痛かったら言え』
「うぅうう…!!」
肩揉みをされているオーギュを見ながら、ロシュはやはり机がもう一つ必要だと改めて思ってしまった。流石に無理はさせられない。
「やっぱり必要ですよ。この先の事を考えるとね」
「だっ…だい、じょうぶですから…!!」
「あなたの体格に沿った設計にして、丁度良く作業出来るような高さに調節して…そうそう、作業がしやすいように引き出しも沢山付けて貰いましょう。それならあなたがいちいち重い書類や書物をこっちに持ち込まなくてもいいですし、手ぶらでこちらに来れますからね」
勝手に話を進めていくロシュ。
ぎりぎりといい具合に肩揉みをされ続けるオーギュは、「ですからっ」と彼の勢いを止めようとする。
「私の事はっ…大丈夫ですから…!!」
「それだとお部屋の模様替えもしなければ…ええっと、私の机と近い方がいいから…テーブルとソファをちょっと寄せて…」
「勝手に、話を…!!」
大体、その机の分のお金だってどこから捻出するのか。
自費ならともかく、他の財源からわざわざ自分の為に使うのは流石にいい気分では無い。それなら自腹を切った方がまだ気分がマシだ。
『気持ちいいか、オーギュ?その様子だととても気持ち良さそうだな。何度でもしてやるぞ』
ファブロスのマッサージが酷くピンポイントだったらしく、オーギュは会話をしようにも口が止まってしまう。
ここぞと決めたら止まらないタイプのロシュを止めようとするにも、じんわりと温かくなっていく肩が気持ちいい。
「ろ…ロシュ…様…!!人の話を聞きなさ…!!」
ファブロスに骨抜きにされたままのオーギュは、ロシュの勝手な暴走を止めようと躍起になっていた。
さて、次はどこに行こうかなぁ。
心ゆくまで練習風景を見学したセルシェッタは、そんな能天気なヴェスカの言葉に「私はもう満足しましたが」と口を挟む。
「ロシュ様にお願いされた手前、一ヶ所しか行きませんでしたって報告出来ると思う?俺らはこの辺の案内っていうか、あんたを楽しませなきゃいけないの。すぐ戻ったら突っ込まれちゃうよ。やけに早いお帰りですねってさ」
「そうですか」
ここまで一緒に居るが、一向に彼女は表情は一定のままだ。
リシェは城下に行くかとヴェスカに提案する。
「大聖堂の敷地内だとそんなに楽しい物は無いだろうし。多分下に降りた方が見どころがあるかもしれない」
「そりゃそうだな。あちこち案内した後酒場にでも行くか」
「それは一番お前が行きたいんじゃないか…」
がくりとリシェは肩を落とす。休暇をどう使おうが本人の勝手だが、それに付き合わなければいけないのかと嫌な気持ちになってしまう。
リシェは不意に顔を上げ、セルシェッタを見る。
「セルシェッタさんはお酒は飲めるのですか?」
年を聞くのも野暮だと思い、とりあえず飲めるかどうか質問する。日の光の加減で、掛けている眼鏡のフレームが反射し一瞬だけリシェの目が眩んだ。
「あまり嗜みません」
「あまりって事は、少しはいけるって事か。良かった」
「飲み過ぎると翌日の仕事に差し障ります」
どこまでも真面目過ぎる意見だった。
リシェはふっと笑みを溢すと、比較するようにヴェスカに言う。
「誰かさんとは大違いだな」
突っ込まれ、ヴェスカはぐぐっと口元を尖らせた。
「おっ…大人にはつい羽目を外したくなる時があるんだよ!」
飲み過ぎて次の日までに持ち越す回数が多い彼は、必死に言い訳をする。三十を優に超えている人間なのに、こればかりはとにかく学習しない。
二日酔いの状態で任務をしようとする度に、リシェは内心こんなだらしない大人には決してなるまいと心から誓うのだった。
「そうと決まれば城下に行くか。流石にずっとここに居るのはキツいだろ、汗臭いし」
「買いたい物があればお付き合いしますけど、何かありますか?」
あくまでゲストをもてなす目的を忘れないリシェは、改めてセルシェッタに問う。その気持ちが伝わったのか、彼女は若干表情に変化をもたらした。
ふっと軽く微笑むと、「今の所は特にありません」と答える。
「そうですか。もし行きがけに必要な物を思い出したらいつでも言って下さい。俺は店に詳しくないですが、ヴェスカなら分かるかもしれないので」
「はい」
何気にこちらに押し付けてくるリシェに、ついヴェスカは「おいおい」と苦笑した。
「いくら俺でも知ってる事は限られてるぞ」
そう言いながらも、決して悪い気がしなかった。
「俺、行く場所は大概決まってるからな。遊び人のお前なら良く知ってると思って」
「褒めてるのか馬鹿にしてるのかどっちなのよ…」
三人は兵舎を離れ、アストレーゼン大聖堂に繋がる石段へ再び足を踏み入れると今度は城下街方面へと向かった。
遠方からようやく戻って来た宮廷剣士のグループとちょうど行き交い、それぞれ挨拶をした後でようやく街の入口へ入る。
住民や観光客で賑わう街中を見回すと、ヴェスカは「うーん」と声を上げた。
「あまり人混みも好きじゃないだろうし、落ち着いた場所でも目指すかね」
「そうだな」
大通りからはひっきりなしに馬車の車輪の音が聞こえる。
街中の移動手段や、遠方からやって来る専用の大型馬車が絶え間なく通行するので少し離れた所でも良く車輪と蹄の音が耳に入って来るのだ。
ヴェスカはセルシェッタをちらりと見た。
「迷子にならないようにちゃんと着いて来てくれよな」
「はい。それは大丈夫です」
人の通りが多いメイン街道や商店街が立ち並ぶ通りは、それなりに人の通りが多く子供ならば迷子になりやすい。
大人でも人の波に圧倒され、帯同者を見失う事もあるのだ。
「あー…セルシェッタさん、割と身長があるからな。俺に着いて来ればそんなに迷わないか…」
彼女の背の高さだと、ヴェスカの目立つ頭を目印にすれば迷わずに済みそうな気がする。
あまり心配無さそうだと納得した。
その後に、明らかに身長差のあるリシェを見下ろす。
流石に何が言いたいのか理解したのだろう。彼は不愉快そうな様子でヴェスカに「何だよ」と問う。
「いや、何でも…リシェ、迷子になるなよ」
「なるか!!なったら黙って大聖堂に戻るから安心しろ!」
馬鹿にするな!と感情を剥き出しにした。確かに、彼が言うようにわざわざ同行する者を探すよりは大人しく大聖堂に戻った方が確実だ。
「まぁ、俺が居るから大丈夫だって。いじけるなよリシェ」
「大木みたいに伸びてるからって馬鹿にしやがって」
「そんなささくれ立ってるリシェちゃんの為にもまずは公園に行くか。何か催し物とかやってるかもしれないし」
催し物、と聞いてリシェは過去に変装したロシュと一緒に公園に行った際に開催していた意味の分からないイベントに参加していたヴェスカを思い出した。
「お前、昔激辛手羽先早食い大会に参加していただろう」
凄まじいスピードかつ手慣れた感じで手羽先を食べ尽くしていた記憶を呼び起こし、本人に突っ込んだ。ヴェスカはええっと目を見開く。
何故リシェが知っているのかと。当時、暇を持て余し城下に出ていた際に偶然開催していたイベントへ飛び入りで参加していたのだ。
基本参加料を支払ってイベント参加するのだが、食欲自慢の挑戦者は無料で参加出来ると聞いたのでつい遊びで飛び入り参加したのだ。
ちょうど空腹だったし、と。
まさかリシェが見ていたとは思わなかった。
「何で知ってんの?」
「見たから。遠くで」
「えええ…声掛けてくれなかったのかよ」
その言葉に、リシェは顔をヴェスカから逸らした。
仲間だと思われたくなかった、とは言えない。
「ロシュ様と一緒だったし…」
「そんなん理由になるかい!」
「人が集まってたから入りにくかったんだ」
「あー、確かにいっぱいだったからな」
確かにそうだったなと納得しながら、ヴェスカは公園に向かって足を進める。
アストレーゼンの城下の中心に存在する大型の大通公園。新緑に包まれた観光名所の一部として知られている。
訪れた者を圧倒させる大きな噴水も健在で、時折勢い良く水を天高く噴射しては訪れる人間を驚かせ楽しませていた。
子供達がはしゃぐ声が噴水周りを中心に聞こえてくる。
天気が良い日は常に水は噴き上がっているので、癒しを求めに公園へ立ち寄り休憩する者が多かった。
「やっぱり人が居るな」
平日の為か、目立った催し物は行われていない様子だ。何かしら開催されていれば更に人が集まるだろう。噴水を横目で見ながら、三人は公園内をぶらつく。
体に感じる程度の風を感じながら空いているベンチを見つけた後、ヴェスカは同行するセルシェッタに「少し休憩する?」と問う。流石に疲れる頃ではないかと察した。
「あちこち歩いてるだろうしな」
セルシェッタははい、と頷くと言われるままベンチに腰を下ろした。
「何か飲み物でも買ってきますか?」
「いえ…大丈夫です。ありがとうございます」
それならいいのですが、とリシェも同じようにベンチに座った。絶えず噴水の音を聞きながら、ゆったりとした時間に身を任せていく。
「あまり街に出る機会は無いもんなの?」
ヴェスカはベンチに座る二人に向かい合う形で立ったまま休憩していた。身長もあるせいか、こちらが座ると彼の足は更に長く見えてしまう。
何気にバランスが良い体格だ。
ただデカいだけでは無いのかとリシェは妙に悔しくなった。
「私は主にお屋敷の中の仕事を仰せ付かっていますので」
「休みはちゃんとあるんだろ?」
「あります」
「休みは何してる訳?」
「…特にする事は無いのでほとんどお屋敷の作業とか」
休みじゃねえじゃん、と話を聞いたヴェスカは苦笑する。
これではロシュ様も困るはずだ。
「そうだなー。あんたは少し羽目を外す事が必要なんじゃねえの?ま、確かに仕事をする事はいい事なんだけどな」
外見からして固そうだしな…と思った。
明るめの茶系の長い髪を編み込んで引っ詰めた乱れの無い髪型や、ロングタイプの黒いメイド用のワンピースはまだ若いにも関わらず非常に地味な雰囲気を撒き散らしている。
堅苦しい眼鏡を掛け、飾りっ気も無い。
素材は決して悪くは無いのだ。
「いかにも真面目そうだもんなあ」
「お前は不真面目だからな」
リシェがまるで真逆だと無表情で返すと、ヴェスカは余計な事は言わない!と言いながら彼の頭をぐりぐり撫でた。
「まるで俺がしょうもない奴だと思われるだろうが!」
「しょうもない奴じゃなきゃ何だというのだ!」
大きなヴェスカに対し、小さなリシェが必死に反論しているのを目の当たりにするセルシェッタは呆気に取られていたが、それが変に滑稽に見えたのかついくすりと笑ってしまう。
「…あぁ」
その一瞬を捕らえたリシェはつい口に出した。
「笑った」
セルシェッタはハッと我に返る。つい口元に手を当てると、「失礼しました」と姿勢を正した。
「謝らなくてもいいのに。悪い事ではないのですから」
「………」
その時、遠くから叫び声と同時にこちらの方へ近付く足音が聞こえて来た。
あぁ?と気の抜けた声を出しながらヴェスカは声がした方へ顔を向ける。生来の耳の良さなのか、剣士として様々な音を聞いてきた為なのか、彼は非常に聴力が良い。夜間だとその能力は存分に発揮されるのだ。
「何だ?」
リシェとセルシェッタもそれに気付く。
「誰かあの人を捕まえてちょうだい!!泥棒よ泥棒!!」
けたたましく叫び続けている女性の声に紛れ、一緒に追いかけている数人の住民達の怒声が平和な公園内に飛び込んできた。
その先頭で彼らに追われているのは冒険者崩れの格好をした薄汚くひょろっとした男。恐らく手持ちの資金が底を尽き、自棄になった末の行動なのだろう。
様々な街で困っている者の手伝いなどをして旅費を稼ぐ旅人が多い中、稀にこうして極端な方法を取る輩も出現するのだ。そのようなタイプは依頼を受けても、無責任に終わらせようとする傾向がある。
また、依頼者に前払いをさせておきながら仕事をしない悪質な人間も存在した。彼らは各地を転々としている為に、明確な住民の登録も無いので罰する事が難しい。それを理解している為なのか、やりたい放題悪事を働いてしまう。
基本的に旅をする場合、旅人専用のギルド登録を推奨している。身分の証明が難しい彼らにとっては一種の保険のようなもので、旅先でアクシデントがあった場合にしっかりと保証して貰える。その代わりに、月に一度、ギルドに対して補償金額を支払わなければならない。それは旅人達にとっては割高だが、資金が尽きた際に各地に点在するギルド施設に赴けば短期間の仕事も紹介して貰えるのだ。
何の準備も無く、ギルドの登録をしないまま持ち金を渋る旅人はこのように間違ったやり方で資金を稼ごうとしてしまう。
最終的には牢屋の中で一生を過ごしてしまう者も居た。
「おっや…」
ヴェスカはこちらに向かって進んでくる男を見るなり、運が悪いなぁとぼやいた。
血走った目で男は近付き、三人の目の前を通過しようとする。手には女性の持ち物のバッグを抱えたまま。
彼は前方に居る邪魔な人間達を確認するなり、苛立った様相で「どけ!!」と怒鳴ってきた。
リシェはヴェスカをちらりと見る。元々は黒い色だった為か、彼の魔力負けした赤い瞳は若干黒味がかり更に深みを増していた。
彼のさらさらした黒髪と良くマッチしていて、非常に持ち前の魅力を引き出してくる。
「おい」
やれと言わんばかりの彼に、ヴェスカは渋々了承する。
「分かったよ…」
こういう場合は大柄な男が一番適任なのだ。リシェは最初から良く分かっていた。
自分が行けば確実に舐められてしまう。
猛ダッシュしてくる相手の前にスッと立つと、ヴェスカは強気な笑みを見せながら両手を広げた。
「…どけぇえええ!!!」
いきなり壁のように出現した見知らぬ男に、盗っ人は激昂する。しかし全くそれに動じない歴戦の剣士。
完全に壁となる邪魔者に、男は手元に隠していたナイフをするりと鞘から抜いた。
「どかねぇとどうなるか分からねぇぞ!!」
明らかに危害を与えそうな勢いに、セルシェッタは思わず危ないですと声を上げた。リシェは自らが壁になるべく彼女の前にスッと立つ。
「大丈夫です。多少の怪我は覚悟の上ですから」
「ですが」
非常に冷静なリシェに、セルシェッタは困惑する。
手を広げたままのヴェスカは、明らかに挑発するかのように「ほら」とせせら嗤った。
「やれるもんならやってみろ」
迫り来る男とヴェスカの体格差は一目見ただけでも歴然の差がある。如何にもひょろっとした体を持った盗っ人では、どう見てもヴェスカに対抗するのは厳しい。
…だからこそ武器に頼るのだ。
「邪魔するんじゃねぇ!!」
咆哮を思わせるような怒鳴り声を放ちながら、男はヴェスカにナイフを振り上げる。ギラつく刃物を見るや、居合わせた人々は口々に異質なものを見たかのような叫びを上げた。
側から見れば武器も持たない人間が無防備に立ち塞がるなど、気でもおかしくなったのかと思われるだろう。
あちこちで逃げろという忠告まで聞こえてくる始末。
「相手を誰だと思ってんっ…だっての!!」
そんな助言を軽く無視するかのようにヴェスカは男の振り下ろしてくる腕を自らの右腕で強く払い退けると、相手の鳩尾目掛け重い膝蹴りを突っ込んだ。
ズンと重苦しく痛む腹。盗っ人はそこで一瞬動きを止め、ごほっと呼吸が出来ずに咳き込む。持っていたナイフが利き手から離れ、カシャンと乾いた音が煉瓦造りの路面に響いた。
「うごっ…がはっ」
筋肉まみれの硬すぎる足から繰り出される蹴りが相当効いたのか、相手はその場で崩れるように膝を着く。
リシェはすかさず男が落としたナイフと、続けて強奪したバッグを引ったくると馬鹿な事をと吐き捨てた。
「…あぁ、良かった!!ありがとうございます!」
追いかけていた女が息切れしながらも安心した様子でこちらに辿り着く。リシェは盗っ人から取り戻したバッグを彼女に手渡すと、「一応確認した方がいい」と告げた。
慌てて中を改めた後、彼女は大丈夫でしたと頭を下げる。
「そうか。良かったな」
ドスン、という何かが落ちる音と共に、ヴェスカの怒声が耳に飛び込んできた。完全に相手をダウンさせた模様。
「おら、観念しろって」
男は押さえ込まれたヴェスカの下でしぶとく必死に足掻いていた。筋肉ダルマのような相手に完全に動きをホールドされては、もう観念するしかないのだがそれでも少しの隙を窺っては逃げようと画策しているようだ。
その間にも街の警備員数人が通報を受けて公園に駆け寄って来た。
「離せ!このデカブツが!」
悪足掻きをしながらヴェスカに対して罵声を浴びせるが、一方の彼は押さえ込みながら鼻で笑う。
「黙ってろヒョロガリ。しょぼい図体でやる事がいちいちセコいんだよ、みっともねえ」
警備員達がようやく男を見つけると、固い縄を手にしながら協力したヴェスカに礼を告げる。
「ご協力ありがとうございます!」
「いや、単にこいつがこっちに来たから捕まえただけで。運が良かったよ、お互いに。なぁ?」
満面の笑みを浮かべながら、彼は押さえていた盗っ人を強引に起こすと逃げないように押さえ警備員達に引き渡した。その間にも、男は悔しい面持ちでヴェスカを睨む。
余程腹が立ったのだろう。
「いらねぇ事しやがって!」
「いらねぇ事って…アホ抜かせ。俺は大聖堂の宮廷剣士だっての。街ん中で変な問題が起きたら真っ先に前に出るのが仕事なんだよ、バーカ。覚えとけ」
そう言いながら拘束された相手の額を強く小突いた。
「はっ…!?」
やけにガタイが良すぎるのも納得したらしく、盗っ人はみるみる勢いを失ってしまう。
リシェはほらな、と溜息を吐く。自分が出れば相手は確実に納得せずに馬鹿にしてくるだろう。ヴェスカのような大柄で屈強な体型だと、捕まっても仕方無いと諦めてしまう。
悔しいが、それが普通だ。
「じゃあこちらで後は処理しますので。ご協力、ありがとうございました」
警備員が被害者の女性にも同行を求め、盗っ人を連れて管轄の施設に戻るのを見届けた後、ようやく公園内も平穏ないつも通りの姿を取り戻していく。殺気立っていた周辺の人々もそれぞれの行きたい場所へ散っていった。
「動いたら腹が減ったんだけど」
見送った後、ヴェスカの開口一番がそれだった。
リシェは無表情のまま「そうか」と返し空を見上げた。
時間は夕方近くになっている。今日は妙に時間の経過が遅いなと感じた。
早くから動いていたせいだろうか。
「セルシェッタさん。何かご入用の物とかあればお付き合いしますけど…」
「そうですね…」
流石にヴェスカの空腹を先に優先するのもどうかと思う。彼は相当な量を食べる上にその分時間もかかるので、待っていれば夜に持ち越してしまうだろう。
セルシェッタはしばらく考えた後、「ああ」と何かを思い出す。リシェは顔を上げ、どうしましたか?と聞いた。
彼女から要望があれば大変有り難い。
すると、やや言いにくそうに周辺を見回しながら口を開く。
「この辺りで武具系統の雑貨を取り扱っているお店はありますか?」
妙にしおらしい様子を見せながら言い出した物騒なフレーズに、思わずヴェスカは変な声を上げた。
「んえっ??」
「ぶ、武具?ですか??」
それはリシェも同じで、彼女が一体何を欲しているのか疑問を抱く。
こくりと頷くセルシェッタ。生真面目そうな眼鏡が光った。
「はい」
「何を買う気で…?」
「収納用にベルトが欲しいのです。そろそろ古くなってきましたので」
リシェとヴェスカはお互いに顔を見合わせると、なるほどと頷いた。日用品の何かに使う物が欲しいのだと。
こんな時にも仕事の事を考えてしまうのかと困ったが、別に悪い事ではないのでリシェは分かりました、と頷く。
「ヴェスカ」
「専門の店なら色々あるけど、近いとこに行ってみるか。どういった感じのかは行ってみなきゃ分からないしな」
専門店ならそれなりに品揃えもあるはず。
アストレーゼン内は旅人向けの旅の道具の他に、護身用の武器も多方面から取り寄せて販売しているので不足する事は無い。剣士向けの武器は勿論、魔導師や司祭向けの杖も場所によって展開されている。
ただ杖に関しては、普通の武器屋より完全にその道を熟知した魔導具屋に赴いた方が正解だろう。大抵の魔法使いは新しい杖や杖に使う魔石を求めて魔導具屋を利用する。
一方で初心者の魔導師は未熟故に簡素な杖でも事足りるので、武器屋で販売している初級レベルの杖を購入しても問題は無かった。
武器の専門店は武器だけではなく、それを収納する道具やケア用品も手広く扱っていた。街の外を出歩く旅人には欠かせない店である。安値で質の良い物をふんだんに取り入れているので、旅をしながら頑丈な毛皮や頭骨などを中心に狩猟をする冒険者にとってこの城下街に点在する専門店は非常に魅力的だった。
司祭の国であるアストレーゼンにおいては、動植物に対し殺生をする行為は善しとはしないものの、住民や旅人にそれを強いる事は無く個々の自由としている。常に人々は魔力を取り巻いている環境に置かれている為、外部の動植物がそれに干渉されてしまう可能性があり人命に危害を及ぼす恐れがあった。
緊急事態に遭遇すれば、正当防衛として攻撃も止むなしと許可しているのだ。
「行った先でセルシェッタさんが気にいる物があればいいんだけど…」
「大丈夫です。それ程こだわりは無いので」
「そっか。んじゃ案内するよ」
白い歯を見せながらヴェスカは言った。
少しでも彼女の意に叶う事が出来ればいいと思っていたので、希望を述べてくれると行動しやすくなる。彼女は話す限りでは全く欲が無く、行き先に苦心してしまうので余計にそう思う。仮に普通の一般的な同年代の女性だったらこうはならないだろう。
それまでヴェスカが付き合っていた異性と比べれば、セルシェッタは非常に扱い難いタイプだ。どこどこに行きたい、あれが食べたいと言わないので目的地が定まらないのだから。
こういうのも居るんだな、と思った。
「まあ、武器屋とかはさ。俺らも良く行くから何の問題も無いけど…意外な場所に行きたがるもんだな」
「そうですか?」
「護身術に使う物なら色々揃ってるから大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
行き先が定まったので、三人はオレンジ色に染まりつつある公園を後にすると再び大通りに入った。変わりなく馬車が行き交う大通りをタイミング良く横切り、歩行者専用道路へ滑り込む。
前よりは人の通りが減った気がした。皆それぞれの帰路に着き始めたのだろう。ただ、武装した旅人の姿が増えた印象だ。
この時間帯は外部からの旅人らが街に辿り着き、休息を得る為に宿を探しに徘徊する頃なのだ。日中の活気ある賑やかさとは少し様相が変化し、若干物々しい雰囲気を醸し出す。同時に揉め事も起こりやすい時間帯で、街の警備が厳しくなる頃合いだった。
「この通りに一軒あったな。リシェ、お前も剣の研ぎ石とか何かを買えば良いんじゃねえの?」
賑わう道を進みながら、ヴェスカはリシェに提案する。
「まだ剣が出来てないからな…」
「あぁ、まだなのか。あれから結構時間かかってんな…」
リンデルロームでの出来事でリシェがロシュから賜った剣が砕かれた為に、次は更に頑丈な剣を造らせますから!とロシュ本人が俄然張り切ってしまったので、制作にかなりの時間を要するらしい。
リシェが凹んだ以上にロシュが凹んでしまい、自分のせいでこうなったのだからと自分の護衛剣士を慰めると次は高魔力の干渉に負けないレベルの素材を使って剣を作りますからと言って退けたのだ。
恐らく制作過程の段階で自ら魔力を注入し負荷を与えつつ、魔力に強い素材を練り合わせ、その都度相談しながら鍛治職人に作らせているのだろう。
「前と同じでも構わないって言ったんだけどな」
「あぁ…何か、あれだよ。責任感じてるんだよ…操られてたとはいえ相当な暴れ様だったからな。もうあんなん相手にしたくねぇよ…」
思い出すだけでヴェスカはげっそりしてしまう。
司祭職という制御が掛かっていて良かったとすら思う位に、ロシュの魔法があまりにも酷過ぎた。あれから老朽化していた遺跡は完全に地中に沈み、丁重な供養と共に埋め立てられ石碑が作られたらしい。相当な負荷が掛けられていたので無理も無かった。
むしろ自分達が地下に居る段階で良く落ちなかったと思う。
運が悪ければ全員生き埋めにされていたはずだ。
「閉店時間は…ああ、良かった。まだ大丈夫だ。着いたよ、セルシェッタさん」
目的地の武器屋の前に立つと、セルシェッタを案内する。
茶色い煉瓦造りの頑丈な店先には重厚な鎧や剣が展示され、様々な系統の旅人の出入りも多い。
どう見ても完全に一般民の姿であるセルシェッタには不釣り合いな場所だが、彼女は普段通りに眼鏡のフレームを少し直すと案内してくれた二人に礼を告げた。
「ありがとうございます。では行ってきます」
「リシェ。お前は?」
スタスタと店内に入って行くセルシェッタを見送りながら、ヴェスカはリシェに問う。
「新しい剣の系統が分かったら考える。まだ研ぎ石は残ってるし、素材によっては逆に傷付けてしまうかもしれないからな。魔力の干渉があるなら尚更慎重にならないと」
「ははぁ…なるほどねぇ」
彼女の用事が終わるまで待つか、と一息吐いた。
武装した人々が希望の武器を求めに武器屋へ吸い込まれていくのを見届ける度に、ヴェスカは中に入って行ったセルシェッタは大丈夫なのだろうかと気掛かりになっていた。ただでさえ血の気の多い輩が旅から戻り、無事に帰還した事で自信が付いて気持ちが大きくなっている最中なのだ。
ちらちらと出入口を見ていた彼に、リシェは呆れながら声をかけた。
「心配なら様子を見てきたらどうだ?」
「いや…別に心配とかそういうんじゃなくてよ」
「単に買い物だけだろう。何をそんなに心配する事がある?」
「ロシュ様の大切なお客さんだろ?こういった物騒な場所に無防備な女が単独で入ったらさ、変な荒くれ者に因縁付けられるかもしんねーじゃん」
たかが買い物如きでいちいち文句を付けられてしまうのか、とリシェは顔を顰める。
「何かあれば俺達に声を掛けてくるだろ…心配なら見に行けば良いじゃないか」
「…まあ、皆そこまで暇じゃ無いだろうけど…」
そう言いながらちらりと店の出入口に目を向けると、セルシェッタは無事に店から出て来た。ヴェスカは「あぁ」とつい安堵の声を上げる。
「ほら。ちゃんと無事じゃないか」
リシェがそう言い負えると、何か違和感に気付き少し眉を寄せた。彼女は至って普通に店から出て来たのだが、何かがおかしい。ヴェスカもそれに気付くと、思わず「何あれ?」と疑問を抱いていた。
店から出てきた彼女の後ろで、屈強な男達が鼻の下を伸ばし恍惚とした表情で見送っているのが見える。
完全に惚れ込んだような雰囲気を撒き散らしながら、彼女の背中を目で追っていた。
「…何だ…?中で何が起きてたんだ?」
ぽかんと口を開きながら、こちらに向かってくるセルシェッタを迎えた。彼女は店に入る前と何ら変わらずに、堅物な眼鏡を掛けたままでお待たせ致しましたと告げる。
「セルシェッタさん」
ヴェスカは暑苦しい男達の視線を気にしながら小声で呼んだ。
「はい。何か?」
彼女はくいっと顔を上げ、ヴェスカに応じる。
「あれ、何?」
「あれ…ですか?」
ちらりと背後を見遣った後、彼女の視線に気付いた男達は嬉しそうな様子で姐さん、姐さん!と意味の分からない歓声を上げている。
まるで憧れのアイドルを見ているかのように。
「……何?」
リシェはぽかんと口を開きながら呆気に取られていた。
夕闇に包まれそうな空の色を見ながら、ロシュは「うーん」と唸った。そろそろ戻って来ても良い頃なのだが、リシェ達はまだ戻って来る気配が無い。
仕事もひと段落終えたので片付けをしていたオーギュは、ロシュが言いたい事を理解しているのか大丈夫でしょうと言った。
「リシェだけなら心配でしょうけど、ヴェスカも居ますし。セルシェッタさんだって大人ですから心配するだけ無駄ですよ」
「まあ、そうなんですけどねぇ…」
大人二人が付いているなら安心なのだが。
大聖堂の門限は毎日同じ時刻に定められているのだが、閉じられた際に臨時で入れる秘密の通路はあらかじめリシェに教えてある。
任務明けで帰還が遅くなってしまった際にはそこを使って戻りなさいと言ってはいたものの、やはり心配だ。
「一応、お客様も一緒ですからねぇ」
「護衛役にヴェスカが付いていれば大丈夫ですよ。あの人はああだけどやる時はやりますから。か弱い女性なら尚更です」
オーギュの足元で獣の姿のファブロスは、退屈そうにあくびをすると『ふん』と拗ねた声を漏らした。
そして主人の膝に頭を擦り付け甘える。
「よしよし…あなたはヴェスカの話をするとすぐに拗ねるんですから」
まるで子供のようだと思いながら、彼はファブロスの頭を撫でて宥めた。
ロシュはふふっと微笑むと、か弱く見えてしまいますか?とオーギュに問う。意味ありげな発言に引っ掛かり、思わずえ?と聞き返してしまった。
「やる時はなかなか好戦的ですよ、セルシェッタは」
好戦的。
…という事は、彼女は護身術どころか人並み以上に戦い慣れをしているという事になる。
「使用人の方がそのような心得があるとは…あなたのご実家で働く人達は最低限の護身術以上の能力を求められるのですか?」
「まさか。ほら、この前実家に戻って惚れ薬の材料を取りに行ったでしょう?その際にセルシェッタにお手伝いして貰ったんです。私が対処出来ない面では大分助かりましたけど…私もそこで初めて知った位ですから」
「あぁ…」
「ですから安全面では問題は無いですよ。無茶しない程度にはね。私が心配なのは揉め事に巻き込まれたりしないかと心配なだけで」
昼間は街の警備の目も明るさの為に行き届いている印象だが、様々な系統が入り混じるだけあり夜間のアストレーゼンは昼と比べて危険が隣り合わせになる場合がある。
外部から来る者は日頃の疲れを癒す為に宿場周辺の酒場に出入りし、更にアストレーゼンの住民も利用する事から常に夜間は賑わいを見せていた。
だがその賑わいの裏では内外問わず酒が入ると気持ちが大きくなり騒ぎ立てる輩も居るのも事実だ。その為に宿や酒場のある区域は、住民が居を構える場所から敢えて離れた場所に位置し、相応の店を構える事を奨励していた。
稀に散歩と言いながら酔ったまま城下街を散策する者も居るが、街を見回る宮廷剣士や警備員によって保護され宿へ強制的に戻される場合もある。
アストレーゼン側は常に旅人を歓迎し、彼らを受け入れている為に、変に騒ぎを起こされて住民と衝突するのを出来るだけ避けなければならなかった。この街に居を構えている者達に不満を抱かせる訳にはいかないのだ。
住民は外部からの来客による多少の出来事には目を瞑り、大聖堂側は問題を最小限に問題を押さえ込む事によって、お互いに理解しながら日々の生活を送っていた。
オーギュは書類を一つに纏め、自分の宿舎に戻る準備を整えるとようやくソファから立ち上がった。
「大人が二人も居るなら変な揉め事があっても大丈夫でしょう。心配し過ぎです」
「そうでしょうかねぇ…」
リシェが居ないのが非常に不安なのも理解出来なくはない。しかし近くに分別の付いた大人が二人も居るので心配する必要は無いと思うのだ。
大切な客人が戻って来ないのも心配だろうが、護衛も居るので決して手出しなどさせないはず。そもそも変な所でロシュは心配性だ。
「私はそろそろお暇しますよ。あなたももう休んでしまいなさい」
「帰っちゃうんですか」
やけに不服そうなロシュに、オーギュは怪訝そうに「帰りますよ」と返す。まだ何かあるのかと。
「リシェも戻らないのに…寂しくなっちゃうじゃないですか」
「何言い出すんです、気色悪い人ですね。帰りますよ。戻ったらやる事もあるんです」
心細さをアピールしてくるのをばっさりと切り捨てると、彼は来た時同様に窓辺に向かう。その後をファブロスがのそのそと追った。
『溜まった洗濯物を片付けないといけないからな』
「…余計な事は言わないで下さい…」
魔法の勉強や研究に没頭する余り、日常では当然の雑用を蔑ろにしていたのをあっさりとバラされた気持ちになった。完全に自分がだらしない人間みたいではないかと内心焦る。
ロシュは目を丸くした後、「なるほど」と理解した。
「むしろ私より、あなたがセルシェッタのような人が必要かもしれませんねぇ。どうです?」
ちょっとばかり悪戯っぽさを含めてロシュは微笑んだ。
出していた洗濯物を普通に片そうとしていた彼女を必死で止めようとする彼の姿を思い出し、オーギュは反射的に嫌そうな顔を向けると必死の形相で反論する。
「絶対嫌です!!お断りします!!」
やられたら絶対恥ずかしい。
あまりの必死さに、ロシュは「そうですかぁ」とにこにこと笑った。
所変わってアストレーゼン城下街、宿場区内。
あまりにもヴェスカが空腹を訴えて来るので、リシェは仕方無くセルシェッタに許可を貰い宿場区内にある酒場が密集する地域へ足を踏み入れていた。
軽装の旅人や地元の住民らが行き交う路地を歩きながら、頃合いの店を探し続ける。当然酒によって完全に出来上がった者もあちこちに見受けられ、道行く人々にふざけた声をかけたり体調を崩しその場に座り込む酔っ払いも視界に映った。
「ここはこういう場なのですね」
大衆向けの酒場とは縁の無かったセルシェッタは、酔い潰れて道で大の字になって寝転がる男を遠目で見てやや不快そうな表情をしていた。一方でその環境に嫌という程慣れているヴェスカは、「そうそう」と軽い感じで返す。
「ここはそういう場所なんだ。日常を忘れるにはぴったりの場所。羽目を外す奴も居るけど、ゆっくり飲みたい奴も居る。ただ変なのが目立つだけだよ。ああいうのは放っておけばいい。変に手出しして揉めたら面倒だ」
「あのままではあまり良くは無い気もしますが…」
「確かにな。俺らも最初は取り締まってはいたんだよ。たまに巡回強化期間を設けて見回るんだけどな。ただ、とにかくキリが無いんだよ、特に外部からの酔っ払いの相手は。とにかく居過ぎて手に負えない。だから酒を提供する際に、住民以外の奴らには飲酒後この区域からは絶対に出ないように同意させてから飲ませる事になってる。たまに出る馬鹿も居るけどさ」
「あまり治安は良くないのですね」
セルシェッタは表情を若干曇らせる。やはり彼女には受け入れ難い様子だ。
「あんたは相当育ちが良いみたいだなあ」
ずっとラウド家に居たので仕方無いのかもしれない。ヴェスカは何事も経験だと言うと、酒場の物色を再開する。
大衆向けの場所は狭い事から、やや広さもあり密接しない程度の落ち着ける場所を選ぶ事にした。
「リシェも居るから比較的うるさくないとこにするか」
あちこちで騒がしい声や変な歌い声を聞きながら、リシェは冷静にもう十分喧しいけどなと溜息を吐く。
夜も深くなりつつあり、どの店に行っても大差無い雰囲気だ。とりあえず何処でも良いから早く飯にありつけば良いとリシェはヴェスカに促した。
「俺は早く戻りたいんだ。夜も遅くなるし」
「分かったよぉ…じゃ、適当に選ぶからな!」
並み居る酒場の中で、ヴェスカはある一軒に目を付けた。店頭前にあった酒樽のオブジェに掛けられていたメニュー一覧をチェックした後、満面の笑みで「ここにするわ」と親指で店を指し示す。
「激辛チョリソーの香菜乗せにだってよ。絶対美味いやつじゃん。サラダもデザートもあるからセルシェッタさんにも良いんじゃないかな」
「お前は肉が食えたらそれで良いからな」
ヴェスカと比べかなりの少食であるリシェはぼそりと呟いた。
「ち、ちゃんと他もバランス良く食べますし!ほらほら、入ろ入ろ!!」
空調を効かせる為か、開け広げていた木製の扉から中に入る。快調な音楽と共に食事や酒を楽しむ客の様子と、店内に充満するアルコールやスパイシーな香りが鼻を突いてきた。
この店は主にスパイス系の料理を取り扱っているようだ。
「腹減ったあ…」
「分かったから早く進め」
店の出入口で突っ立ったまま、料理の匂いに幸せそうな顔を浮かべる大男の背中をリシェは軽く小突いた。
「いらっしゃいませぇ~。三名様?」
麦酒のジョッキを持った女性がこちらに声を掛ける。
「大人二人に子供一人!」
「おい!!」
子供扱いされたくないリシェはすかさず反論した。
「仕方無ぇだろ?お前はまだ十六なんだから。申告はしないといけないしさあ」
「大人二名にお子様一人、ご案内しまぁす!」
「お子様って…!!」
否定が出来ない年齢なのが悔しい。
店員にそのまま導かれ、三人は空いている円形の席に着いた。年季が入っているテーブルのせいか、少しばかり傾いていたが修正している為かそこまで気にはならない。
「何にしますぅ?」
「とりあえず俺は麦酒かな。セルシェッタさんはどうする?お酒、いける?」
「多少なら」
「好きなの選んでいいよ。支払いはこっちに任せてくれていいから。リシェはオレンジジュースか?」
やたら子供扱いをしてくるヴェスカに、リシェは立腹しながら「勝手に決めるな!!」と怒った。
酒場に行けばほとんどオレンジジュースを勧められてしまうので、リシェはメニューを開きながらソフトドリンクの項目を見る。しかしこの店は酒類は充実しているが、アルコールの無い飲み物は少なかった。
ぐぬぬ、とメニューと睨み合いをする。
「ここにはミルクは無いんだぞ」
「うるさい!」
ぷりぷりしながらメニューから顔を上げると、彼は「フルーツジュースで!」と注文する。
普通に似た系統で、ヴェスカはつい突っ込んでしまった。
「同じじゃねえかよ。オレンジジュースと」
リシェはムキになって違う!と怒りだす。
「こっちはフルーツ沢山だ!」
そういう問題か?とヴェスカは苦笑いした。
飲み物と、適当に食べる物を注文して届くのを待つ。
周囲を改めて見回すと、来客のほとんどが軽装の旅人が中心でラフな格好の姿の人間は少数派だった。
ここは主に旅人向けの店なのだろう。メニューも多方面の名物料理がメインの中に含まれている。
「お待たせしましたぁ」
最初に注文した飲み物が卓上に置かれると、ヴェスカは待ってましたとばかりにジョッキに手を掛けた。
「こちらはお子様のお客様にサービスでお付けしているクッキーでぇす」
店員はそう言いながらジュースのグラスの隣に小皿に乗せたクッキー二枚を置いた。リシェはますます複雑そうな顔を見せる。
どこまでも子供扱いされてしまうのかと。
「良かったな、リシェちゃん」
「良いものか…」
テーブルに置かれたジュースと小皿を見つめながら彼は呟いていた。
「さ、とりあえず飲もっかぁ。セルシェッタさんも遠慮無く飲んでくれよ」
「はい。ありがとうございます」
乾杯を済ませ、それぞれの飲み物を口にすると、次々と頼んだ食べ物がテーブルに運ばれてくる。
「やっと食えるな!」
燦然と並べられた食事の数々を見て、待ってましたとばかりにヴェスカは歓声を上げた。リシェは大量の料理を見回した後、隣のセルシェッタを見上げて声をかける。
「こいつの食欲は凄まじいので、先に食べたい物を取り分けた方がいいですよ。とにかく凄いので」
彼女は料理を見回した後、無表情で「はい」と返した。
リシェは彼女に小皿を数枚手渡しながら、牽制するように「欲張って食うんじゃなくてゆっくり食え」とヴェスカに告げる。
「いい大人が食い意地を張って色々手を付けるのはみっともないからな」
「…お子様って言われたからって当て付けのように言うなよ…」
個々で食べたい物を取り分けている最中、見回っていた店員が次の注文を聞きにやって来た。ヴェスカはセルシェッタにメニューを手渡すと、「好きなのがあったら頼むといいよ」と声をかける。
「はい」
「お屋敷で食べる物とはちょっと癖があるかもしれないけど」
「大丈夫です。お屋敷は特別な何かが無い限り、至って普通の食事ですから」
その食事ですら一般庶民とはかけ離れているような気がするのだが。彼らの言う普通とは一体何なのだろうかと思う。
メニューを見通した後、セルシェッタは店員に「こちらを」と指差した。それが何なのかはリシェ達には分からない。
「リシェは?」
「俺はある物でいい。物足りなかったら頼む」
「そっか。んじゃ俺は…」
そもそもヴェスカの頼む食事の量が半端無いのでこちらが追加して頼む必要性が無いのだ。それ位、彼は凄まじい食欲だった。
体も大きく良く動き回るので仕方無いかもしれない。
その為に剣士として相当恵まれた体型になったのだろう。
「リシェ、ちゃんと沢山食えよ。背だって伸びないからな」
「お前のその食欲を見ていれば急激に腹一杯になるんだ…」
「人のせいにすんなよ」
ややむくれながらそう言うと、早速ナイフとフォークを駆使して食事にありついた。
酒と一緒にガツガツと食べていくヴェスカを、セルシェッタは呆気に取られながら見ている。やはりその気持ちのいい食べっぷりが気になったらしい。
「食欲旺盛ですね」
「んんあ?…まぁ、そうかもなぁ。毎度あちこち動いてるからな。遠征とか行けば食いっぱぐれる時もあるし」
「遠征…ですか?」
「ああ、俺らは大聖堂だけじゃなくて、アストレーゼン全域に飛び回ったりしてんの。リシェはロシュ様の護衛役になってからはそうもいかなかったりするけどな」
「なるほど…」
セルシェッタはリシェをちらりと見た。
「護衛役はどうしたらなれるものなのでしょうか」
もしゃもしゃと肉料理を口にするヴェスカ。
リシェは彼女の質問に、複雑そうな表情を見せる。気が付いたらそうなっていたとは言いにくいのだ。
剣技会に参加して、対戦相手と争った末に大量出血で気が遠くなっていたのでそれ以降は全く分からなかった。目を覚ましたらいつの間にかそうなっていたというのがリシェの認識だった。
ただ、自分はロシュに憧れていた為にそれを喜んで受け入れただけの話。
「御前試合でお目に叶ったみたいな感じだっけ。オーギュ様は最初は反対したらしいけどさ。リシェがまだ子供だから」
「やたら俺を子供って強調してくるなお前…」
しつこい、と苦言を呈していると、少し前に注文した物がテーブルに届いた。揚げたての小さな唐揚げを見た瞬間、ヴェスカは「おわっ!?」と声を上げてしまう。
「ガマピグラ緑黄虫スパイス揚げ、ミルトランダの三種ハーブ添えでーす」
揚げた後でも分かるカラフルな芋虫風の揚げ物の皿が眼前に置かれると、びくびくしながら「誰…」と問う。怯えるヴェスカの前で、無表情のセルシェッタは私ですと答えた。
芋虫系統が全く駄目なヴェスカはごめんと謝ると、自分の視界から見えないように皿を配置し直した。
「ほんとごめん」
ずりずりと大きな肉の塊を揚げ物の前に設置する。
「苦手なのですか?」
そんな彼とは完全に真逆のセルシェッタは、普通の唐揚げを食べるような様子で小皿にレモン汁をかける。
「あぁ…ヴェスカは基本的に何でもいけるけど、芋虫とかそういうのが苦手なんです。気にする事はありません」
「はぁ…そうなのですね」
「全然大丈夫なんだ?そういう感じの」
「ええ。美味しいですよ」
レモン汁に付け、ゆっくり食べ始める。
「どんなお味で?」
「甘辛い味がします。素揚げでも美味しいのでたまに食べますが、この見た目なのであまり好まれないかもしれません」
リシェは「へぇ…」と言いながら唐揚げの乗った皿を見る。確かに緑や黄色、黒の奇怪な模様が入り混じる芋虫の揚げ物は決して見映えもいいとは思えない。
「良く見れるなぁ…」
あまりにも普通に口にするのでヴェスカは信じられない様子だった。
「昔からこういうのには慣れていますから」
「昔からって…」
「最初は勿論苦手でした。見るのも嫌でしたが、庭で遊んでいたロシュ様が様々な昆虫とかを私に見せて下さって。それで少しずつ見慣れてきたという感じですね」
話を聞きながらヴェスカはリシェと顔を見合わせる。
最初は嫌だったという相手に、わざわざロシュは見せてきたという事なのだろうか。
「最初は…って事は、結局嫌々見せられたんじゃないですよね…?」
疑問に思った事をすぐに口にして問う。
「見慣れない頃は流石に嫌で逃げ回っていたものですが、ある時を切っ掛けに少しずつ見れるようになりました」
リシェは無言になっていた。
…めちゃくちゃ嫌がらせではないか、と思いながら。
自分の知らぬ所にも関わらず、何故か申し訳無い気持ちに陥る。ヴェスカもリシェの気持ちを察してか、「そ、そうかぁ…」と言葉を濁した。
それでも奇抜なメニューを口に出来るまでになったという事は、結果的に良かったのかもしれない。
良くトラウマにならなかったものだ。
「えっと、セルシェッタさんはロシュ様の小さい頃から知ってるって事だよな?結構やんちゃな性格だったのかな」
「はい。私の家は代々ラウド家に仕えていますので。小さい頃からずっとお屋敷で暮らしています。性格は…どうでしょうか。多少の変化はあるとは思いますが」
「あぁ、だからあまりロシュ様の前でも緊張とかしなかったんだな。普通じゃ結構緊張しちゃうもんだからさ。俺もあの塔に行った時は緊張しちゃったし」
二人の話を聞きながらサラダに手を付けるリシェは、ちょっとばかり彼女が羨ましいと思ってしまった。幼い頃のロシュの姿を間近で見れるなんて、物凄く羨ましい立ち位置だと思うのだ。
彼が好きだから尚更。
「手洗いに行ってくる」
リシェは複雑な気持ちを紛らわせようと、一旦席を離れて気持ちを切り替えようと思った。ヴェスカは「おう」とリシェを見る。
「場所分かるか?こういうとこは色んな奴が居るから気を付けろよ。何かあったらすぐに戻って来い」
「分かってる」
酒場はアルコールによって気持ちが大きくなる場所なので、ちょっとした隙間を狙って変な場面に遭遇しやすい。ましてやリシェのように見るからに綺麗な顔と華奢な容姿となれば、変な輩が惹きつけられてしまう。
男所帯の兵舎でもそうなのだから、本人も慣れているものの不安要素が高いのだ。
リシェが手洗い場の看板を見つけた後、そこへ向かって席を外した後でヴェスカは身を縮め、声を潜めてセルシェッタに質問する。
「セルシェッタさん」
「…はい?」
「小さい頃からロシュ様を知ってるって事はさ、好きとかだったりする?」
直球過ぎる質問を受けたセルシェッタは、食事の手を止めると今まで見た事の無い様子を見せ始めた。酒のせいもあるだろうが、頬が少し紅潮し動揺している。
「はっきりと仰る方ですね」
困惑混じりに言う様子は、明らかに図星を刺された雰囲気だった。
ヴェスカは「ありゃ」と一瞬面食らった顔を見せる。
「なぁんだ、そんな感じか。だろうな。すぐ近くに居てさぁ、しかもあんな美形だもんな」
「私はあくまで使用人の立場ですし」
ぐっとグラスの中にあった酒を飲み干すと、気持ちを落ち着かせる為に一息吐く。そしてヴェスカを軽く一睨みすると、誤解なさらないで下さいと告げた。
あまり他者に知られたく無いのだろう。
ふぅん…と言いながら、ヴェスカはちょっと顔が緩んでしまった。平然とした様子を装ってはいるものの、内心動揺しているのが良く分かってしまう。
「…そういやリシェちゃんは大丈夫かね。この店で迷子とかになってないだろうな」
手洗いに行っている割には戻りが遅い気がする。ふと、吊り下がっている手洗いへの案内看板を見上げた。セルシェッタは火照った顔を不意に上げ、同じように看板を見上げる。
大衆向けの店の手洗い場なので、そこまで混み合っているようには思えない。
店内はいつもの賑わいを見せ、不穏な雰囲気は微塵も無いように思えた。
「…最近物騒でな。普通に人売りしている奴らとか追い剥ぎで金取ろうとしてる奴らが居るもんだから、俺らみてぇなギルド依頼で資金調達してる側にとっては相当迷惑なもんよ。パッと見て悪さしてる奴なんざ、見分けが付かねえからな」
近くで飲み食いしている別グループの男が仲間と談笑している野太い声が飛び込む。
「いくら規律のあるアストレーゼンでもこういう色んな奴らが入ってくる場所じゃ監視の意味も無いからな。しかも外部から来た奴らなんざ取り締まりもままならねぇし。人買いが城下街に居ないとも限らねえしよ。お前も住民なら気を付けた方がいいぞ。娘居るんだろ?」
どうやらこちらの住民と久しぶりに再会した旅人らしい。
まさかなぁ…とジョッキを煽ったが、いきなりそんな危険な目に合う程不運では無いと思いたい。
ヴェスカは話を聞いた後、おもむろに立ち上がった。
「ちょっと見て来るかぁ」
「大丈夫ですか?」
「まぁ、すぐそこだし。何かに当たって苦しんでるかもしれねえしな」
すぐ戻るよ、と笑顔を見せて彼は席から離れた。
セルシェッタは頼んだ揚げ物を再び頬張る。
慣れない喧騒に居続けていたせいか、逆に静寂が恋しくなる。屋敷の中の生活音に慣れていた為に違和感を抱いていた。
狭い店内を行き交う人々の流れを背中に受け、ヴェスカとリシェが戻って来るのを待っていると、三人程の強靭な体躯を持った軽装の旅人が店外に向かう。狭い通路をのしのしと歩いているので進み難く、荒ぶった様子を見せながら退けろと声を掛けて歩いていた。
椅子を蹴られたらしい客は迷惑そうにしながら渋々避け、通過した後で何だあいつらと不愉快そうに愚痴を漏らす。
このような状況は決して珍しくは無いが、治安の悪さを表現していた。
セルシェッタは不意に顔を上げて店を後にしようとする彼らに顔を向けると、ふわりと漂ってきた匂いに思わず立ち上がる。
ロシュと同じ香水の香りが鼻を掠めたのだ。
「…お待ちなさい!!」
いきなり声を上げた彼女に、出ようとした男らは睨みを利かせ一瞬振り返ったがそのまま無視して出て行ってしまった。
「………っ!」
相手が女だからとスルーされたのか。
セルシェッタは奥歯を噛み、追いかけようとする。
同時に彼女の剣幕に驚いた周辺の客も何事かと動きを止めた。
「セルシェッタさん、リシェ戻って来た?」
その時ちょうどヴェスカが戻って来る。セルシェッタは「いいえ!」と言うと、戻って来た彼に告げた。
「今出ていかれた方…あの方達を追ってみます」
「え?」
男達が居なくなった事で店内は再び喧騒が戻り始める。彼らが店から去り、特別変な事はないのだろうと皆が判断したのかもしれない。
セルシェッタは脳裏に浮かんだ直感を無視する事が出来ず、ヴェスカにご馳走の礼を告げるとそのまま店から出ようと動き出す。
「あんた単独じゃ危ねぇって…!待て待て!」
意味が分からずにいるヴェスカは、近くに居た店員に手持ちのお金を多めに出した後で卓上にあった骨付き肉を引っ掴むと、すぐに彼女を追った。
朦朧としながら、リシェはどうにかして今の状況から打破出来るようにひたすら思案していた。
…くそっ、何を嗅がせやがった?
布を全身に被せられたまま抱えられ何処かへ運ばれているのは何となく理解出来たものの、全身が麻痺したように身動きが取れない。
記憶が手洗い場の鏡の前で途切れていたが、少しずつ状況を思い起こす。奥の方で駄弁っていた大きな男達が居たのは記憶にあった。こちらを見るなり嫌な笑みを浮かべていたのが印象的だったが、顔を軽く洗ってからさっさと戻るつもりだったのでスルーを決め込んでいた。しかし後から一人手洗い場に入って来て、口笛が聞こえたかと思うと同時に背後に人影が過ったのだ。
関わると面倒だと退散しようとした瞬間、口元に青臭い何かの匂いがして眠気が襲い意識が飛んでいた。
ヴェスカに同伴して貰えば良かったのだろうが、そこまでして貰いたくは無かった。全身の麻痺状態のままで、リシェは軽く呻くと足を少しばかり動かす。
「目ぼしいものが居ねぇと思ったらとんだ上玉が飛び込んで来たもんだな。身なりもそれなりに良いし、相当価値が上がるぞ」
離れた角度から下品な笑い声と共に声が聞こえてきた。
「その前に少しばかりお手付きさせて貰うか。可愛い顔だし売れる前に味見してもバチは当たらないさ」
自分を抱えている男は、酒臭い息を吐きながら笑う。
がっしりした腕と胸板からして、かなり大柄なタイプなのが布を通して分かった。
どうやら彼らは自分を何処かに売る気でいるらしい。リシェはふざけやがってと全身に力を入れて反抗しようと蠢いた。
「お?…何だ、気がついたのか」
リシェを抱えていた男は彼を包んでいた布を軽く寄せる。
「う…っぐ、貴様…何を」
声すらなかなか出す事が出来ない。かなり強力な薬品を嗅がされたのだろう。精一杯口を開こうとしたが、麻痺状態にある為か思うようにいかなかった。
必死に口を開こうとする余り、端から涎が出てしまう。
「おう、随分と威勢が良いガキだ。待ってろよ、存分に可愛がってやるからな」
馬鹿にされた気がして、リシェは激昂し全身を必死に動かそうとしたが相手にとってはささやかな反抗にしかならないのだろう。
鼻で笑われながらやめとけと言われる始末。
「おい、媚薬は持ってねえのか?」
「あ?ある訳無ぇだろ、お前が馬鹿みたいに使うから」
「…んだよ、人のせいにすんなよな」
男達は酒場の密集地帯から離れ、人の気配の無い路地へ入っていく。宿場区は酒場がひしめき合っている為に、その場に人が密集しやすい。そしてそこから少し奥に進んで距離を置けば、静かな場所へといきなり変化するのだ。
各地からやってきた荒くれ者が集結したこの場は危険地帯となる為、住民でも奥には足を踏み入れたりしなかった。
「この辺りでいいだろ」
不意に動きを止め、リシェは地面に降ろされる。ふわりと被された布が剥がされると、男達の吐息混じりの歓声が聞こえた。
それはリシェの心情を酷く不愉快なものにする。
「薬が無ぇのは残念だな。まあ可愛がっているうちにその気になるだろ。…周りは誰も居ねぇよな?」
男の声は次第に熱量を帯びる。
「居ねぇよ。居ても追っ払うだけだろ」
少しずつ体に力が戻ってきた気がして、寝かされていたリシェは両足を少し動かしてみた。次に、手を動かしてみる。
こんな汚らしい奴らに触られるなんざ御免だ、とゆっくり瞼を動かすと少しずつ上体を起こした。
自分を抱えてきたリーダー格の男は、獣のような雰囲気を撒き散らしながら自らのベルトを外して準備を始める。仲間の二人も暗がりの中だが、下品な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
目の前の男は屈み、リシェに近付きながら薄汚れたズボンのファスナーを下ろす。
大人しくするふりをして様子を伺っていたリシェは全身の力が戻りつつあるのが分かった瞬間、軽度の魔法の詠唱を口ずさみ目の前に光球を出現させた。
「!?」
「何だこのガキ!?何をしやがっ…」
その小さな光の玉は少しずつ大きく膨張し、一気に弾ける。
一般人に対してならこの位の脅しが丁度良い。
「魔法というものを知らないのか?」
リシェは嫌味のニュアンスを含めて小馬鹿にする。
…ようやくまともに口が動いた。
僅かな照明を頼りにしてリシェは目を動かして辺りを見回す。宿場や酒場エリアにばかり照明を集中させるせいで、あからさまに人気の無い区域に関しては明かりが行き届いていないのだろう。
改善の必要がある。
ただでさえ酒場なんてものは店の照明で目立っているようなものだ。区内にある街灯は設置する必要が無い程に明るい。
自分はまだ行く機会が無いので捨て置けばいいが、こんな風に被害を被ると悪い所が目についてしまう。
犯罪者にとって、隠れ蓑としては最適な環境にあることに。
「このクソガキ!」
意外な所で脅され、怒りに任せて向き合う男は怒鳴ってきた。リシェに更に近付こうとするが、それも魔法によって弾かれる。
バチン、と全身に放電を感じて反射的に身を退く。ここにきて無意味な抵抗をしてくる相手に、男は苛立ちを徐々に見せてきた。
「こいつ…」
尻餅をついた状態のままで少しずつ後退りをするリシェは、少しでも時間を稼ごうとしていた。そのうち異変に気付いたヴェスカが探しに来てくれるはずだ。
経験上、人気の無い場所を真っ先に探すだろう。
まだ自分の体が自由に動かないので自分なりに防御しておかないとならない。
城下街でうろつく程度だからと思って、武器を全く持って来なかったのが悔やまれる。おそらくヴェスカも持ってはいないだろうが、持ち前の馬鹿力でどうにかしてくれるはずだ。
そして杖が無いものの、自分には少しばかりの魔力もある。
魔法の心得の無い荒くれ者を引き離す程度には作用してくれるはずだ。
「何処から来たのか知らんが、俺はそう簡単にお前らの手には落ちないぞ」
朧げな明かりの下で強がる少年を見下ろしながら、粗暴な男達は嘲笑混じりに「強がりやがって」と言った。
「今にそう言えなくさせてやる」
「早く喰っちまえ。次がつかえてるんだからよ」
彼らの呼吸は少しずつ荒くなっていった。頭の中では既にこの生意気な少年を犯しているのだろう。逸る気持ちを押さえながら、リーダー格の男を急かしていた。
生きるか死ぬかの状況下で緊張を常に強いられる旅人にとっては、日頃のストレスの発散手段はアルコールかセックス位しか無い。
いずれも金があればどうにかなるが、持ち金が尽きる事が多い無計画なタイプの人間はそれすら叶わなくなってしまう。
酒は少額でどうにかやり過ごせるが、性欲となればそうもいかない。最終手段として、行きずりの相手を強引に攫って秘密裏に行動を起こすしか方法が無かった。
酒場に居る女を攫うのはリスクが大きいので躊躇してしまうが、リシェのように中性的な容姿で後先面倒な事にならない少年なら絶好の相手だ。
しかもこのようなタイプは自分の魅力を理解しているのか、自ら身を差し出し金銭を要求してくる積極性も持つ場合もある。
同じ旅人だと運良く意見が合致する時も多々あるのだ。
現在自分らが目の前にしている少年も、行きずりの旅人を相手に身を売り旅費を稼ぐ人間なのだろうと思っていたのだが予想に反して抵抗の意思を見せていた。
目を凝らして見れば、身なりもしっかりしている気がする。
くたびれた酒場で燻る風には見えない。しかし、その気丈な顔を崩して痴態を眼前に晒された姿を想像すると、全身が熱くなり中心が更に張り詰めた。
暗くても僅かな明かりで分かる相手の美少年は、その辺では滅多にお目にかかれぬ容姿なのだ。逃す訳にはいかない。
まずは自分達で味見して、そこからどの位の高値で売れるか吟味したい。
舌舐めずりしながら、リーダー格の男は再びリシェに近付き「いいから大人しくしろ」と命令する。
「お前も俺らと同じなら資金繰りに困ってんだろ?少しなら工面してやってもいいんだ」
周囲を警戒している三人目の仲間は、人の姿を遠くで確認すると声を潜めながら早く口を塞げと促した。
「叫ばれたら面倒だろが」
「うるせぇな、このガキが抵抗するんだから仕方無ぇだろ」
リシェは馬鹿にするなと鼻で笑った。
「何故品性の無いお前らを俺が相手にしなければならない?その汚らしい顔と手で俺を手籠にしようなどと良く言えたものだ」
素性も分からない人間に好きにされてたまるかと、尻を付いたまま下がる。
「ふん、生意気な口を言えるのは今の内だ。裸にひん剥いてひいひい言わせてやる」
アーモンド型の目は、その醜悪さに思わず細くなっていく。やはり思っていた通り、下半身で物を考える低俗な輩なのだから呆れてしまった。
薄汚い奴めと悪態を吐く。
「おら、大人しくしな…痛いのは嫌だろ!」
向き合う男はリシェに掴み掛かってきた。すかさず小柄な体は身を躱すと、その代わりに左足で勢い良く相手の右足首を蹴飛ばした。
予想も付かなかった反撃に、ぐっと喉を詰まらせバランスを崩す。蹴飛ばした事でようやく自分の身が自由になったのが分かり、リシェはそのまま両足に力を入れて立ち上がると卑怯な荒くれ達から数歩離れた。
もう少しでという所で逃げられたせいか、リーダー以外の男達は舌打ちし「何してんだよ!」と叱咤する。滅多に見ない極上の獲物を逃したく無いのか、持参していたナイフを鞘から抜くとリシェに向けてギラつかせた。
武器を見せれば怖気付くだろうと安易に考えたのだろう。
「おら、怪我したくねぇだろ?なあ。逃がしやしねぇぞ、坊ちゃん」
「こっちは三人居るんだ。完全に不利だよなあ?諦めて俺らと遊んだ方が楽に」
リシェは無言で右手を突き出し、魔法で光球を作り始めた。
この期に及んでまだ抵抗をする気かと表情を曇らせた男達に対し、彼はフンと見下げ果てた様子で口を開く。
「そこまで言うなら遊んでやる…泣いたりするなよ!!」
光球が膨れ上がり、リシェは空に向けて弾き飛ばした。上空に飛び出したそれは激しく木っ端微塵に砕かれ、目を覆いたくなる位に眩く輝きを放つ。
三人の男達は目眩しをされ、思わず顔や目を逸らしながらよろめいてしまう。同時に沸き起こる鼻を刺激するような煙たさで、思わず咳き込んでしまった。
「この…っ、何しやがった」
「遊んでやると言っただろう?ご希望を叶えただけだ。何が不満だ?」
リシェは苦しみだす彼らに吐き捨てるように答える。周辺には大量の材木や金属類が所狭しと並べられていたが、この爆発でガラガラと地面に落下していった。
後始末はどうするかと考える余裕など無い。まずは自分の位置を仲間に知らせるのが優先なのだ。
自分の姿が無い事は既に知っているはずで、探しているだろうと踏んでの行動だった。
捕まって大人しくしている馬鹿は剣士には向いていない。
やがて騒ぎを聞き付けたのかこちらに向けて近付く足音と共に、軽薄そうな声が飛び込む。自分の目論見通りに、リシェは思わずふっと口元に笑みを溢した。
ヴェスカは自分に素直だから、異変があればすぐに駆けつける。少しの異変でも気になる性分だからこの場合も非常に助かった。
「いい目印だなぁ、リシェちゃん。魔法の腕もしっかり磨いてんだな」
「馬鹿正直に聞き付けてくれて良かった」
安心するリシェに対し、荒くれ達は予想外の加勢に不愉快そうに顔を曇らせた。リーダー格の男はくそっ!と悪態を吐いてどこまでも抵抗を続ける少年を睨みつける。
ここまできて邪魔が入るとは思いもしなかったようだ。
「てめぇ…!!」
物事がうまくいかない腹いせをぶつける。
「お前らが三人で遊ぼうって言うなら、こっちも人数が必要だろう?ありがたく思え。こっちの方が頭数足りないけどな」
自分とヴェスカだけで事足りると思っているリシェの言葉を遮るように、声が飛び込んでくる。
ん?とリシェはぴくりと反応した。
「それがさぁ…」
困ったような様子のヴェスカの声。
「二人ではありません」
凛とした声が周囲に響いた。コツリとヒールの音と共に。
「セルシェッタさんも追い掛けてきちゃったんだよねぇ…」
「………は?」
無防備すぎるだろう、とリシェは脱力する。
「ヴェスカ、止めなかったのか?」
武器も無い彼女が来たとしても、危険要素が増えるだけなのだ。
「いや、止められなかったんだよぉ…すいません」
困惑を隠しきれないリシェに、ヴェスカは素直に謝った。
「アホか…」
突然の女性の出現に、相手側もおぉっと歓声に近い声を上げる始末。獲物がまた増えたと言わんばかりに、更に興奮度を上げていった。
「よしよし…まさかの女だよ。さっさとぶっ倒してお楽しみの時間にしてやろうか」
口笛混じりに下品な笑い声を上げると、ヴェスカはつい「あーあ」と残念そうに苦笑いした。
「リシェ、お前自分の素性を明かして無かったのか」
少なくとも正体を示せば、揉め事を回避出来たかもしれないのにと思ったのだ。彼は普通ならば手出し出来ない立場なのだから、外部からやって来た人間でも躊躇うだろう。
リシェは馬鹿言え、と吐き捨てた。
「こんな脳味噌に筋肉が詰まってるような奴らに、こちらの言葉が通じるか知れたもんじゃない」
挑発とも受け取れる発言を受け、相手側の男は生意気に!と激昂し持っていたナイフを振り上げる。リーダー格は「よせ!」と止める間も無く、ナイフの鈍い切先はリシェ目掛け進んで行った。
我慢の限界を超えたのか、三人の中で一番短気なのか、ここまできて馬鹿にされるのは耐えきれなくなったらしい。
ふんと鼻で笑い、迎撃する為に魔力を介し空砲を作りあげていた矢先、ひゅんと何かが空気を斬る音が聞こえる。
「?」
子供が縄跳びをする時の音と非常に似ていた。
「あっ…え??へぇええええ!?」
遠くでヴェスカの変な悲鳴に似た叫び。同時に、リシェの目の前に居る男の動きが止められていた。顔を上げると、彼がナイフを振り上げていた手首がロープのようなものでぐるぐる巻きにされている。
急に武器を持っている手を拘束される形になってしまい、慌てて解こうとするのを見たリシェは力任せに彼の足の腱目掛けてガツリと蹴り飛ばした。
「ぐっ!」
バランスを崩し、同時に持っていたナイフをぽろりと落とす。すかさずリシェはその薄汚れた武器を奪い、ヴェスカの居る方向に向かってダッシュした。
出来るだけ仲間の近くに居る方が攻撃しやすい。若干疲労気味の体を回復させながら、突如飛び出したロープの元を目線で辿る。
予想外の状況だったがそのロープのお陰で助かったのは事実だ。
「………え?」
そしてつい言葉を失う。
「な、何なのそれ!?セルシェッタさん!?」
ロングサイズの鞭を駆使する彼女の姿。左脚に隠されていた収納用のベルトに加え、美しくすらりとした美脚を剥き出し鞭を握る手を強めている。
ロングスカートから覗く黒いガーターベルトと同色のストッキングが目に入り、見慣れぬリシェは妙に恥ずかしくなってしまった。
スカートかと思いきや、内部にざっくりしたスリットが入っている。それが余計艶かしさを剥き出しにしているのだ。
「エロいのは!いけない事だと思います!嬉しいけど!」
あまりの衝撃に、ヴェスカは狂った事を叫ぶ始末。何を言っているのかとリシェは顔を歪めてしまった。
想像すらしなかった彼女の出方に、男達の態度が変化していく。
「伏兵かよ…ふざけやがって」
リーダーは無表情で鞭の手を緩めないセルシェッタを睨んだ。
リシェは奪ってきたナイフをヴェスカに渡す。
「あれ、いいの?」
「何も持ってないだろ。俺は魔法があるし。手ぶらでどうする気だったんだ?」
「その辺の棒でも使おうかなって思ってたんだよ…それに、あまり街の中で暴れる訳にもいかないだろ?適当に追っ払う程度に留めておいた方が」
言い終える前に、怒りの熱量を放ちながら向かってくる拳。
「…余裕かましてんじゃねぇ!!」
言いかけていたヴェスカに向け、顔面を引き攣らせたリーダーが殴り掛かってきた。うおっ!と声を上げ、寸前で回避する。
避けられた為振り上げた拳は空を斬った。回避されればそれ以上に、男達の心証を損なう結果になってしまう。
いずれにせよ、どう足掻いても悪い状況に変わりない。
「この野…」
怒りに歯軋りし、仲間達も苛立ちを見せ始めた。
ヴェスカは「まだ何もしてねぇだろ!!」と叫ぶ。
「勝手にそっちから攻撃しといて逆切れかよ!」
面倒臭いなぁ!と喚く。軽く追い払うつもりでいたのに、相手側はなかなかのガチ具合なので困惑する。
「逃がしはしねぇぞ。舐めやがって」
男達は完全に獲物を狙うかのように息巻き、血走った目でそれぞれの武器を手にしている。
これはあまり良くない傾向だ、とリシェは溜息を吐いた。結局こうして拗れるのかと。
ヴェスカからやや距離の離れた場所に居るセルシェッタは、拘束していた男を一旦解放すると手慣れた様子で持っていた一本鞭を収納すると「退散しましょう」と告げた。
「面倒な事になる前に戻った方が宜しいと思います」
「えぇ…もう面倒な事になってる気がするけど」
彼女の提案に、リシェも同意する。
「ここで大事になってしまえば、大聖堂とロシュ様に余計な傷が付きます。それだけは避けなければならないのではないでしょうか」
夜中に喧嘩沙汰を起こす大聖堂関係者が居ると噂をされては、言い訳も出来なくなってしまう。その中に司聖と深い関わり合いがある人物が含まれているとなれば、世間はどう思うのだろう。
ヴェスカはううんと唸り、確かになとぼやいた。
相手にすればするだけ時間も遅くなってしまう。
「…素直に逃してくれるとは思えないんだけどねぇ」
ここまで頭に血が昇っているとなれば、無事に自分らを返してくれるとは思えない。最悪自分だけ残ってリシェとセルシェッタだけでも先に行かせようか、と考える。
「仕方無ぇな。んじゃリシェ、お前はセルシェッタさんを連れて…」
「余計面倒になる。俺に任せろ」
ちょっと覚悟を決めたにも関わらず、リシェはヴェスカの前に出ながら、先程と同じような魔法の球を出現させる。それは前回より大きく膨れ上がっていた。
「大人しく俺らに捕まってろ!」
リシェの魔法を妨害するべく、三人の荒くれ達が襲い掛かって来る。まだ未熟なリシェの魔法は、詠唱が終わるまでやや数秒の時間がかかった。
途中で遮断されてはならないと思う一方で、邪魔をする相手側に対し苛立ちを見せる。今にも掴みかかろうとする男達から離れようと数歩後退した。
ヴェスカが出ようとしたその瞬間、先にセルシェッタの鞭が鋭く飛ぶ。
しなやかに空を舞ったかと思うと、想像以上の強いしなりで男達を翻弄し、前に出ていたリーダー格の男の体を鞭打った。ピシィッ、と引っ叩く音が聞こえる。ちょうど肌を晒している場所に運悪く当たったのだろう。
彼女の持っている鞭は本格的に作り込まれた物なので、かなりの痛みが生じるはずだ。
痛てぇ!と叫び怯んだ太い声。
その瞬間、リシェはひと思いに完成した目眩し代わりの光球を男達に放った。瞬間、目を覆いたくなるレベルの光が眼前に広がる。
「うわぁああああ!」
「このクソガキ…!!」
先程の攻撃に加え、二度目の目眩しに翻弄された男達は怒声を上げた。躊躇しているのを確認すると、リシェは顔を上げてヴェスカとセルシェッタに声を掛ける。
「逃げるぞ!!」
「ひょえぇえ、眩しいぃいい」
出来るだけ穏便に済ませるのがこれが最適だ。
目眩しで自分達の目も麻痺した状態のまま、リシェ達は一気に来た道を引き返す。
「逃げたもん勝ちってこういう事を言うんだな!」
目を擦りつつヴェスカは勝ち誇ったように叫んだ。
その一方で、残された荒くれ三人衆は激しい目眩しに悶絶しながら、こちらに向かって罵声を浴びせていた。
酒場が密集する地帯を過ぎ、宿場区から出た先の路地まで走り抜けると、流石にここまでは追い掛けてこないと判断してようやく足を止める。
はぁはぁと呼吸を整える中、最後に駆け寄って来たセルシェッタの姿にヴェスカは安心した。
「あぁ、良かった…とりあえず撒いたから一安心だな」
「はい」
セルシェッタは剥き出しにしていた左脚と武器を再びスカートに隠し、普段通りの様子を見せる。
「…てか、その中に隠してるって…いつもそうしてる訳?」
淑女風かと思っていたのだが、ガーターベルトに黒のストッキング、挙句には鞭というスタイルに衝撃を受けたらしい。
「はい。扱っている間はスカートの裾に引っ掛ける部分があって、それをホルダー内の留め具を使っているのです」
「だからあれだけ剥き出して動けるんだ…ははぁ、なるほどぉ…てか、いつもそのままでもいいんじゃ」
「ヴェスカ、お客様に対して失礼だぞ」
通りで武具屋に行った際に他の客が姐さん呼びしていた訳だ、と改めて思った。理知的な眼鏡と厳格そうな表情に加えて、先程の鞭を操るとなれば言いたくなってしまうだろう。
引っ詰めた髪も解けば相当な色気を発するだろう。その姿になってしまえば、彼女を姐さん呼びをしてしまう所か、女王様と呼んで崇めてしまうかもしれない。
「…相当バタバタしたけど、流石に戻んなきゃなんねぇな」
「ああ。宿舎はもう閉まってるんじゃないのか?俺はロシュ様から聞いた抜け道があるから戻れるけど…」
「あー…」
そういえばそうだな、ヴェスカは空を仰ぐ。
宮廷剣士の宿舎は深夜帯に差し掛かる頃、宿舎に繋がる鉄門が完全に閉められてしまうのだ。時間を逃してしまえば別の所で寝泊まりするか、始末書覚悟で兵舎に行って開けて貰うしかない。
遠征班なら例外で融通が効きそうなものだが、夜勤の仲間にそんな手間は掛けられないのが現状。宿舎の管理人を真夜中に起こしてしまう程、宮廷剣士は無神経ではない。
「んじゃ、俺は飲み直してどっかで泊まろうかな。そんなに食えてなかったし。お前、ちゃんとセルシェッタさんを連れて大聖堂まで行けるか?」
「大丈夫だ。流石に変なのは寄り付いて来ないだろ」
「ま、セルシェッタさんも大丈夫そうだしな」
ヴェスカの言葉にセルシェッタもこくりと頷いた。それを見て、ヴェスカも安心する。
「んじゃ、俺は適当にどうにか朝まで時間を潰しとくわ。お前はロシュ様が心配するだろうから、早々に戻った方がいい」
ヴェスカはそう言うと、セルシェッタに目線を向ける。そしてふっと微笑んだ。
「あまりまともにアストレーゼンを案内出来なかったなぁ。俺らも街中散策したりしなかったからさ。お洒落なカフェとか行けたら良かったかもな」
今更そう言っても遅いのだが、申し訳無さそうなヴェスカの気遣いを受けてセルシェッタは首を振る。
「いいえ、楽しかったです。最初から最後までお気遣い有難うございます」
「そんな事言って、本当はお洒落な場所とか行きたかったんじゃないか?」
「いえ…私、あまり可愛らしい物とかに興味が無いので」
「そうなの?まぁ、武具屋に行きたがる段階でおや?っとは思ったけど…ちょっとでも満足してくれたならいいや」
今まで知り合った女性とはちょっと違うタイプだった。
外出して少し帰る時間が遅くなってしまったとはいえ、少しでも満足して貰えれば救われる。
「リシェ、遅くなってしまった理由ちゃんと伝えておけよ」
「分かった。ある意味俺の不注意だったし」
「避けようが無かったから仕方無ぇよ。理由も無く遅くなりましたーって言えば、オーギュ様からこっぴどく叱られるかもしれねえからな。怖い怖い」
客人と未成年を連れて夜遊びしていたと思われては、一番年上であるヴェスカの責任になってしまう。事情があって遅くなってしまったと先にフォローしておけば、流石にオーギュも何も言わないだろう。
リシェは「ちゃんとロシュ様にお伝えしておく」とふっと笑った。
「それじゃあ、俺はどっかで寝泊まりして来るから。後は任せたぞ、リシェ」
そう言い残し、ヴェスカは再び賑わいを見せる宿場区内へ向けて歩き出した。彼を見送った後に、改めてリシェはセルシェッタを見上げる。
「では、戻りましょう。正面からだともう封鎖されて入れませんが、別の抜け道もありますので」
「はい」
宿場区から離れると、人の姿も激減する。照明も最小限の明かりしか無く、心細い雰囲気を醸し出していた。
二人の異なる靴音が響き合う中、お互いに無言の時を過ごす。最初の頃よりは幾分か気まずさは無いが、リシェは何を話したらいいのか分からないままだった。
「リシェさんは、ロシュ様の側にお付きになってどれ位なのですか?」
沈黙を破ったのは意外にもセルシェッタの方だった。
「え?…えっと…半年は経過していると思います。その前は普通の宮廷剣士でしたし」
セルシェッタ程の長い付き合いでは無い。
ロシュの元に来てから濃過ぎる期間を過ごしているからか、まだそれ位だったのかと改めて感じた。
「そうなのですか」
「はい」
そこで少しだけ間が開いた。
静まる街の中を大聖堂を目指してリシェを先頭に歩いている最中、彼女の涼しげな声が耳を通り抜ける。
「あの方が自ら迎え入れる位だから、相当なお気に召し様だと見受けられたので。最初はまだ子供ではないかと思っていたのですが」
「…いえ、本当の事ですので」
否定は出来ないので素直に受け止める。そんなリシェに対して、セルシェッタは話を続けた。
「あなたをロシュ様が選んだ理由が少しだけ分かった気がしました」
その言葉に思わず足を止めてしまう。
くるりと振り返り、背後に居る彼女を見た。
「え?」
「あの方はあなたに絶大な信頼を寄せて、あなたはひたすらロシュ様の事を第一に考えていらっしゃる。野心も無く、ただ純粋に慕っているのが分かります」
「野心…」
確かにロシュに対して自分達の知らない誰かが近付いて来たとなれば、相手は何らかの野心を抱いているのかもしれないと警戒してしまうのだろう。
…それは昔からの知り合いならば尚更。
セルシェッタも例外ではないのだ。彼女は幼馴染のような関係で、ロシュを相当知り尽くしているはず。パッと出てきた人間に不信感を抱いてもおかしくない。
リシェはアストレーゼンとは関係の無い隣国の出身で、向こうの貴族の出ではあるが、表立って名乗れる訳では無い。
自分は婚外子で、影の存在として扱われてきた。薄い後ろ盾があるにせよ、結局は野良の立場である事に変わり無いのだ。
「休暇を得てこちらへ赴く際、ロシュ様のお付きになった相手の方をこの目で見て、あの方に相応ならば何も言うまいと考えていました。相応しく無い相手ならば進言しようと思っていたのです。少しの期間でしたが、ロシュ様のお世話も私が仰せつかっていたので」
「…だから最初はやけに噛み付いていたんですね」
合点がいったらしく、リシェは苦笑する。言いたくなるのも分かる気がした。セルシェッタは「ええ」と返す。
「ほんの僅かな時間ですがロシュ様のご指示とはいえあなたがこちらに細かく配慮して下さる様子を見ていると、私がでしゃばる必要も無いのが分かりました。…それに」
彼女は一旦発言を切り、やや考え込むように口元に手を当てる。リシェは目を丸くしながら首を傾げた。
「あの…?」
「いえ。…ロシュ様が個人に対して、あのように優しく微笑むのを見た事がありませんでした」
「?」
「あなたには普通なのでしょう。まるで愛おしむような目を向けて笑う顔は初めて拝見しました。余程あなたがお気に入りなのだろうと」
いつもの優しい微笑みだとしか思わなかったリシェは、セルシェッタの言葉にきょとんとする。
当人にしては慣れているが、こればかりは他者にしか分からないのかもしれない。
「明日にでも私はお屋敷に戻らせて頂きます。長居も出来ませんし…あまり居過ぎては、嫉妬してしまうので」
「へ…?」
ぼろりと溢れた私情を聞き、リシェはつい変な声を放っていた。間髪入れず彼女は「戻りましょう」と促す。
今、嫉妬って言ったよな…?
先程とは違い、並んで歩くセルシェッタを横目でちらりと見るリシェは微妙な気持ちを抱いてしまう。
「あの…?」
「何か?」
「…いえ…何でも、ないです」
寝静まる城下街に、再び二人の足音が鳴り響いた。
夜中に抜け道を通って大聖堂に戻り、来客専用の部屋へセルシェッタを送り届けた後、司聖の塔へ辿り着いたリシェは待っていたロシュの元へようやく帰還する。
扉を開けた瞬間、長い事待っていたロシュはすぐに駆け寄ると小さな体を抱き締め頬擦りした。
「ああ、良かった…!遅かったので心配していたのですよ!大丈夫ですか?」
「はい。遅くなってすみません」
「何かトラブルでもありましたか?」
「えっと…食事をしている際に少し。俺の不注意だったので、ヴェスカとセルシェッタさんに助けて貰いました」
深く掘り下げて言えば面倒になりかねなかったので、簡単に説明する。やはり攫われたなどとは言えない。
一方のロシュはリシェの身の回りをぽふぽふと軽く触れながら、無事を確認するとようやく安堵した様子で「良かった」と微笑む。
流石に遅くなり過ぎて不安だったようだ。リシェは申し訳無さに「すみませんでした」と素直に謝った。
「あなたがご無事なら何よりです。疲れたでしょう?朝からあちこち出歩いていましたし…お風呂に入りますか?」
言われてみれば朝から動いていたな、と思い出した。全身から疲れがどっと湧いてくる。
リシェはそうですね…と言うと、ロシュの言葉に甘えようと思った。
熱い湯に浸かれば疲れも解れるだろう。
「では、入ってきます」
「ええ、ええ。ゆっくり浸かって下さい」
着ていた服も脱いで楽な格好になりたかった。そのまま自室に戻り、着替えを持って再び浴室のあるロシュの部屋へと戻ると、何故か彼も着替えを手にしている。
にっこりと微笑みながら。リシェは「あれ?」ときょとんとした。
「ロシュ様もまだ入られてなかったのですか?」
リシェの問い掛けに、彼は「ええ」と返す。
「あなたがいつ戻るか心配でつい…」
てっきりもう入浴したのかと思っていた。リシェはふふっと吹き出すと、主人に近付き彼の手を取ると「では」と顔を上げた。
「一緒に入りましょう、ロシュ様」
そう言ってロシュの着替えを持つ。こういうのは自分の役目だ。ロシュは「大丈夫ですよ」と着替えを取り戻そうと手を伸ばすが、彼はふるふると首を振った。
「これは俺の役目ですから」
二人分の着替えを両手に持ち、リシェはロシュを促す。
「お背中流しますね、ロシュ様」
「あなたの方が疲れているのにそこまでしなくてもいいのですってば…」
「いいえ、俺がしたいのです。ロシュ様もデスクワークでお疲れでしょうから」
そう言いつつ、ロシュはリシェの心遣いが嬉しかった。だが自分だけそうされるのは少し気が引ける。
「じゃあ流し合いっこしましょう。それならいいでしょう?」
我ながら名案だと思ったその誘い。
リシェは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐ笑顔を見せると「はい」と快く受け入れた。
「………」
…大変気まずい、とリシェは思った。
先日からロシュの実家のラウド家からやって来たというお抱えの使用人という女性がロシュの部屋に出入りしているのだが、彼の世話を自ら志願して行っている立場のリシェは妙に肩身の狭い気持ちになっている。
世話というより簡単な手伝い程度なのだが。
流石に立派な大人であるロシュは自分の事は自分でこなしているので、リシェはやれる範囲内の事を行っていた。
あまり深入りしない程度に。
だがこの使用人の女性ときたら、全身に動きが染み付いてしまっているのか特にやらなくてもいいような事まで踏み込んでくる。流石に異性の着替えの準備はしなくてもいいのでは無いだろうか。
完全に慣れているのか、普通に無表情で用意しているのを見て「そこまでやらなくても!」とロシュは恥ずかしそうにさけんでいた位だ。
それに対して彼女は無感情に何故ですか?と逆に問いかけてくる始末。
来客の立場なのだから、何もしなくてもいいと何度となく訴えているもののどうやら動かずにはいられないらしい。
そして今、ロシュは仕事の一部である大聖堂内の定例行事を行う為留守にしていた。
リシェは主人の部屋のソファで彼が戻って来るのを待ちながら溜めていた本を読んでいるが、その使用人のセルシェッタは室内の掃除を甲斐甲斐しく行っている。
定期的に部屋の清掃は自分もやっているものの、その文句の付けようもないレベルの清掃の徹底っぷりを見ているとまるでお前の掃除の詰めが甘過ぎると言われているような気がした。
「…あの」
リシェは思わず清掃に夢中になっている彼女に声をかける。
「はい」
その声にくるりと顔をこちらに向け、リシェの方に注目した。いかにも聡明そうな顔を細身の眼鏡で固め、一瞬とっつきにくい印象をひしひしと与えてくる。
タイプはオーギュと似ている気がするが、むしろこちらの方が話しかけにくそうだった。
「常にそうして動いているんですか」
休む事を知らないのだろうか。
さっきからずっと掃除に動いている。ロシュが出てからかれこれ二時間は経過しているだろうか。良くここまで休息も無く延々と動けるものだと感心しそうなレベルだ。
そんなにまでこの部屋が汚れているのだろうか。
セルシェッタは装飾品の小振りな壺を手に取り、綺麗な布で丁寧に拭きながら「ええ」とだけ返事をした。
「それがお仕事ですから」
「………」
どうにも彼女とは波長が合わない。
リシェは困惑する心の内を見られないように、同じように無表情を保ったままそうですか…と返した。
早くロシュが戻ってきてくれないものか…と悩んでいると、階下から激しい魔力の干渉を全身に感じた。
「あ」
下からぐぐっと魔力が噴き上げていく感覚。ぶわっと風が巻き起こり、室内のカーテンが舞った。
硬い靴の着地の音が数回聞こえた後、僅かに開いていた大窓を開けて司聖補佐役が姿を現した。
「おや…おはようございます」
それは彼のいつもの出勤風景だった。リシェはそれに慣れていたが、大聖堂にほとんど寄り付かないセルシェッタは怪訝そうに眉を寄せる。
決して上品な行動では無いのは確かだ。
「オーギュ様。おはようございます」
リシェは見慣れた相手の出現に、何故か助かったと思ってしまう。どうにも彼女と会話がしにくかったのだ。今まで関わってきた異性とは全く異なるタイプなだけに、どうしてもテンポが変に狂ってしまう。
前回会ったリゼラとは別の意味で狂うのだ。
「おはようございます、リシェ」
室内履きに履き替え、彼はいつものように部屋に入る。
「お久しぶりです。ベランダから出勤ですか」
セルシェッタは通常の入り口では無くベランダから入ってきたオーギュを良く思っていない様子だ。そこは確かに正規の出入口では無いのでそう思われても仕方無い。
いかにも不快ですと言わんばかりの言い方をしていた。
「ええ。毎度こうして入っていますが…」
「ちゃんとした入口があるのに何故そこから?」
「そこの螺旋階段が面倒なのです。魔法ならすぐに来れますし時間短縮になりますから」
「………」
両者共、クールな印象を与えそうな顔を持っている為にお互い顔を見合わせると空気が凍りそうな気がしてくる。
リシェは無言で二人を交互に見ていた。
見慣れたオーギュが来てくれたのは良かったが、さっきより居心地が悪くなってきた気がする。ロシュが早く仕事から戻って来てくれないかと今度は主人を望むようになってしまった。
「下から砂塵が入ったら困ります」
「入って来ませんよ。ここは高所ですし」
「その日の状況によって変わります」
「それは気付きませんでした。次からは軽く埃を払ってから室内に入るとしましょうか」
押し問答を繰り返すのも面倒なのか、オーギュはあっさりと引き下がるように言い笑みを浮かべた。
セルシェッタはそれ以上突っ込むのを止めると、再び清掃の手を動かし始める。
「ろ、ロシュ様はまだお仕事ですか?」
沈黙されるのが嫌で、リシェはオーギュに話題を振った。
「そうですね…聖堂に行ってから二時間位ですか。大体時間は三時間程度見積もっていますから、まだだと思いますよ。何か用件がありましたか?」
「い、いいえ…そうでは無いんですけど」
その間にも、セルシェッタは甲斐甲斐しく清掃を続けていた。まるで機械か何かのようだ。黙々と手を動かしている様子は、妙に異質な感じを与えてくる。
この調子だと、ロシュの実家でもそうなのだろう。
オーギュは黙って彼女に目を配らせると、リシェと同じ事を思ったのか「セルシェッタさん」と話しかけた。
彼女はきっちりと纏めた引っ詰め髪の頭をくるりと向け、声を掛けてきたオーギュを見る。
「はい。何でしょうか?」
軽く咳払いをした後、オーギュは完全に仕事モードに入ったままのセルシェッタに話を切り出した。
「あなたはここではお客様です」
「………」
「大切なお客様に、いくらラウド家の子息であるロシュ様の部屋だとしてもお掃除をさせる訳にはいきません。どうかお手を止めてお休み下さい」
至極真っ当なオーギュの言葉だった。しかし彼女は自分の眼鏡を軽く直しながら無表情でオーギュを見返す。
「私はラウド家の使用人ですから」
「………」
「繋がりのあるロシュ様のお世話も仕事のうちだと認識しております。どうかお気遣い無く」
お固すぎる、とオーギュは笑顔を称えながら思った。
やらなくていいと言っているのに、彼女はどうしても自分の仕事を全うしたいのだろう。
「お屋敷から離れたらあなたは使える家の事は考えなくてもいいと思いますよ、セルシェッタさん。ロシュ様もあなたがこちらでも仕事をされているのを知れば止めに入ると思いますが」
リシェは困った様子でセルシェッタを見ていた。
自分の立場では彼女を止めるだけの力は無いので、どうにかしてオーギュに止めて欲しい。
一番いいのは主人であるロシュが早々に戻ってきてくれるのが理想的だ。だが彼はまだ戻る気配が無い。
仕事の手を止めろと言われたセルシェッタは、オーギュに対し怪訝そうに眉を顰めるとこちらに身を向け「そうもいきません」と事務的に返事をする。
「私の仕事はラウド家の内外関わらず主人の身辺や環境を完璧に整える事だと思っております。気になった場所は即対処する。一つの塵も目に付けば取り払うのは当然です」
キツい…とリシェは呻き声を上げた。
だからひたすら室内の清掃をし続けているのだろう。気になったらどこまでも気にするタイプだと思った。
そしてそろそろとオーギュに目を向けると、彼もまた心底やりにくそうに表情を歪めている。
明らかに面倒臭いと言いたげな顔だった。
「ここはラウド家ではありません」
「ええ、存じております」
「やらなくて結構ですよ。むしろやめて下さい」
もう丁寧に説明するのが嫌なのだろう、オーギュは簡潔にやるなと彼女を止めた。
流石にここまで言われては止めてくれるだろう。リシェは少し安心したが、間を置いて彼女が放った言葉にがくりときた。
「嫌です」
嫌です、だと。
ソファに腰掛けていた彼は脱力し、思わずずるりとバランスを崩していた。
完全に拒否の言葉をぶつけられたオーギュは、難敵相手に頭を抱えながら深く溜息を吐くと、困りましたねとできるだけ感情を見せないように呟く。まさか嫌ですとはっきり返されてしまうとは思わなかったようだ。
客人に掃除や雑用をさせる訳にはいかないのに。
ロシュが戻るのを待つべきかもしれない。ラウド家の子息である彼の言葉ならば、セルシェッタの動きを止める事が出来るだろう。
「…分かりました。お好きなようになさって下さい。ですがロシュ様はあなたがここで仕事をされるのは良しとしないと思いますよ」
匙を投げるようにオーギュは彼女に言うと、手にしていた書類をリシェの前に設置されているテーブルに置いた。
リシェは困った顔のままオーギュを見上げる。
「…オーギュ様」
「嫌だと言われればこちらにはどうする事も出来ませんよ。やめろと言っているのに嫌ですって断言するんですから」
「悪い事ではないんですけど、俺もどうしたらいいのか分からなくて」
オーギュ同様、リシェにも彼女を止める抑止力になれない。
居心地の悪さを感じたまま、彼はひたすら動いているセルシェッタの背中を見ていた。
「リシェ」
「は、はい」
「杖の調子はどうですか?」
この妙な空気を退けようと思ったのか、オーギュは思い出したようにリシェに問う。先日魔導具職人のイベリスから教わった方法で杖の石に魔力注入し、魔法の杖としてようやく扱えるようになったものの、それ以降異変が起こっていないか心配だったのだ。
リシェは「は、はい」と顔を上げて返事をする。
「俺がまだ未熟なのでなかなか使いこなせてはいませんが、注入前より魔法の威力が増しています」
「そうですか。何か気になる事があったらいつでも言って下さいね」
「ありがとうございます、オーギュ様。剣がまだ出来ていないのでこの機会に魔法の練習もしようかなって」
現在リシェの手元にあるのは宮廷剣士の支給されたシンプルな造りの剣しか無い。それでも武器としては十分だったが、丁寧に手入れはしているものの、長年様々な剣士が手にしているのもあって耐久度には不安な面もあった。
きっかけはどうあれ、剣の他に魔法の腕も磨きたいというのは教える側の立場は大変嬉しいし有り難い事だ。
「あなたがとても勉強熱心なタイプで私も嬉しいです」
最初にロシュが他国から来たリシェを側に置きたいと言っていた時はどうなるものかと不安だったが、彼は最初の想像をいい意味で裏切ってくれた。
変な意味で引っ掻き回してくれるのではないかと少しだけ疑問視していたのを恥じる位に。まさか相当真面目な性格だとは思ってもいなかったのだ。
見る者を狂わせそうな容姿を持っているだけに、ロシュを凋落させようとしているのではと疑ってしまったのを悔いる。
彼は貪欲に勤勉で、純粋にロシュを心酔し彼を守ろうと日々鍛錬を惜しまない性格だった。まだ若いだけにこれは非常に珍しいタイプだ。
その位の年齢だと、他の誘惑に目を奪われがちなのに。
「俺にはこれしかありませんし…」
褒められ、リシェは照れ臭そうに萎縮していると部屋の扉がゆっくりと開かれた。
「あれ…オーギュ、こちらに来ていたのですね」
「ロシュ様」
ようやくロシュが姿を見せてきた。
「お帰りなさいませ、ロシュ様」
そこでようやく掃除の手を止め、セルシェッタは頭を下げる。リシェはそれを見て何故かホッとした。
ロシュは困った様子でいつも家に居る時と変わらず仕事をしようとする彼女に目を向けると「セルシェッタ」と声を掛ける。
そして無表情のままで「はい」と返す本人は、手には清掃用の布巾と埃取りのモップを持っていた。
「お掃除をするのをお止めなさい」
あなたはお客様なんですから…とオーギュと全く同じ事を告げる。
流石にこれで止まってくれるだろうとリシェは思った。
「こちらでも止めたのですが…セルシェッタさんは非常に真面目過ぎる為か、どうしてもやらずにはいられないみたいで」
若干皮肉めいた言葉だが、とにかく止めてくれないのでどうしようもないとオーギュはロシュに言う。
しかし彼女はちらりとオーギュとリシェに視線を配った後、再びロシュを見た。黙っていれば小顔で顔立ちも美しく、ドレスや華やかな化粧を施せば相当映えそうだが表情は無のままだった。
感情があまり見受けられない。それだけに非常に勿体無い気がする。
セルシェッタはやはり表情一つ変化させずに「困りましたね」と口を開いた。
全然困っているような顔をしていないじゃないかと内心リシェは思ったが、彼女がどう切り返すか気になり無言になっていた。
「こ、困りますか?」
変に弱気になるロシュ。
「ええ。困ります。私の仕事はラウド家の方々の身の回りのお世話全般ですから」
「それは私の実家の中での話です」
「私は場所を離れようと、主人が居る限りは仕えるようにと教えられましたから」
頼むから切り離してくれ、とオーギュは思った。
こんなに固く自分の立場を固辞しようとする人間も見た事が無い。
はぁ、と深い溜息を吐く。
「…でしょう?こんな感じなのですよ…真面目過ぎます。どれだけ使命感に溢れているんですか…」
一体ラウド家でどんな教え方をされてきたのかと勘繰りたくなった。
一方のロシュは頭を抱え、言葉をひたすら選びながら説得を試みる。
「私は自分の事は自分でやれますし、今はリシェも居ます。なのでこちらでは寛いで下さって結構ですよ…」
リシェの名前を聞くと同時に、セルシェッタはソファに腰掛ける小さな剣士に目を向けた。当然のようにその細身をびくつかせるリシェ。
こっち見るな、と思いながら少しばかり縮こまる。
自分に向ける彼女の目が、何となくきつい気がした。
「彼がロシュ様のお世話を?」
「ええ、まぁ…」
「失礼ですがまだ子供ではないですか」
冷や汗を流すリシェは、恐る恐る近くのオーギュを見上げる。彼も何かを察したのか静かに首を振った。
言わせておけと言いたげに。
反論したいが、何故か阻まれる雰囲気を感じてしまう。
「た、確かにまだ幼い部分もありますが、この子は非常にしっかりしているのでとても信頼しているのですよ」
ほんの少しの塵も許さないタイプの彼女の目は、ロシュのフォローが続くに連れてリシェに注がれていく。
そして一方でリシェは、まるで大型動物に強く威嚇された小動物のように身を固くし続ける。
「恐れながらロシュ様」
「へ…」
「私にはこのような年端もいかない方が、あなたのお世話をしっかりして下さっているとは思えないのですが」
完全に敵対視されている。リシェはぞわぞわと全身の毛を逆立てさせながらセルシェッタの言葉を聞いていた。
何なんだこいつは、と思いながら警戒する。
「リシェは主に私の護衛と大聖堂のお仕事も兼ねていますから。私も子供では無いですし、彼にはちょっとしたお手伝いをお願いしているだけですよ」
「…………」
まじまじとした視線が目に刺さる。
「あなたは完璧過ぎるのですよ。少しは楽をする事を覚えた方がいいです」
几帳面過ぎる彼女には難しいのかもしれない。
毎日のように自分の家族や家の為に必死に仕事してくれているので家から離れている間は体を休めて欲しいと思っていたのに、普通にこちらでも動き続けているので驚いた。
少しは自分を甘やかしてもいいのではないだろうか。
「リシェ」
「は…はい」
間を置き、ロシュは縮こまっているリシェに声をかけた。
「ごめんなさいね、セルシェッタはとても真面目な方なのでつい厳しい言い方をしてしまうのですよ」
「い、いえ…俺は別に、気にしてないので…」
悔しいが、まだ一般的には子供だと思われても仕方無い。それはリシェ本人もよく分かっている。
頼り無く見えてしまうのだろう。
「しかしロシュ様。装飾品に埃が付いています。放置しておくと蓄積され、最悪健康被害も受ける可能性もありますが、その辺はどうお考えです?」
「そうなる前に拭きあげますよ…もう、いいですからあなたは落ち着いて休んで下さいってば」
詰問するセルシェッタに近付き、ロシュは彼女の手にある清掃道具をさっと奪うと、さあさあと背中を押しリシェと向き合う形でソファに座らせた。
部屋のソファは長椅子タイプに加えて同じ高さのテーブルを隔てた先に一人掛け用の物も置かれている。これはオーギュと仕事をする際に向かい合えるように後から用意したものだった。基本的に書斎机で仕事をする事が大半だが、たまにゆったりとしたソファに腰を掛けたくなる時があるので非常に重宝している。
ドスンとほぼ強引に座らされたセルシェッタは向かい側に居るリシェを何の遠慮も無くまじまじと見た。
「な…な、何ですか」
まるで厳格な学校の教師のようにも見えてくる。
黙っているオーギュは不意に過去の学生時代の事を思い出してしまった。
こんな感じの人、居たなぁ…とぼんやり考えていると自分の中で寝入っていたファブロスが覚醒する。
そして呑気なあくびを交え、彼は主人に話しかけてきた。
『(んん?…早いな、オーギュ。もうロシュの部屋に居たのか。ちょっと体を伸ばしたいな。出るぞ)』
彼が出てくるという事は、恐らく人の姿ではなく獣姿のままであろう。慣れているロシュやリシェならまだいいが、今は来客中だった。
しかも潔癖極まりないセルシェッタだ。あれだけ散々掃除に回っていたのに、いきなり獰猛な獣が目の前に現れたらどんな事になるだろうか。
しっかり手入れはしているが、流石に動物系の出現は予想もしないだろう。発狂してしまうかもしれない。
「え!!?ちょ…」
それまで黙っていたオーギュが突然声を上げたので、室内に居る面々は同時に彼の方に注目する。
「どうしましたか、オーギュ…」
「いえっ…ファブロスが、起きまして」
「ああ、ファブロスが起きたのですね。どうしたのかと思ってびっくりしましたよぉ」
オーギュは彼が出現する予告を告げる手の紋様を押さえる。だがそれは煌々と輝き、主人の意思に歯向かうかのように魔力の粒子が出現していた。
滅多に見ない光景に、セルシェッタも眼鏡のフレームの位置を直しながら見守る。
「何が起こるんです?」
「セルシェッタさん。これから私の召喚獣が姿を見せますが!どうか卒倒しない様にして下さい!が、外見は獰猛ですが大人しいので!!」
「は…?」
早く出させろ、というファブロスの声に押されるかのように光は更に強くなっていく。わっ、と声を上げながらオーギュは紋様の手を放すと粒子は目の前で姿形を象っていった。
「あ…あれ?」
思ったより具現化が大きくない、とオーギュは思った。
てっきり獣の姿で出てくるのかと思っていた彼は、今の状況を見越して人の姿で出現してくれるのかと少し安堵する。
セルシェッタはその不思議な光景に少しばかり驚いた面持ちで静観していたが、魔力の粒子の招待が明確になっていくにつれて表情を歪めていった。
「ええええええ…!?」
ロシュとリシェも思わず困惑する。
当然だ。人の姿で出たまでは良かったが、彼はその肉体全てを剥き出しにしたままの自然な姿だったのだから。
主人のオーギュは絶句するも、すぐにハッと我に返って叫んだ。
「ちょ…ちょっと!?ファブロス!!」
『ん?』
「何で全裸なんですかっ!!」
リシェは慌ててバスルームまで走っていた。流石に女性が居るのに完全な真っ裸は不味いと思ったのだ。
ファブロスは自分の体を普通に見た後で『ああ』と返す。
『昨日湯を浴びてそのまま寝入ってしまったからな。気付いたらオーギュの中で寝ていたようだ』
あくまでも普通に会話をしているのだが、彼は獣としての時間が長過ぎる為か間近に異性が居ようが気にしていない様子だった。まだ片膝を床に付いたままで、とぼけたようにそんなに慌てなくてもいいだろうと呆れる。
まだ辛うじて全てを晒してはいない。
大判のタオルやバスローブを手にリシェが戻って来る。
「オーギュ様」
「あ…有難うございます、リシェ。さあファブロス、これを」
持って来て貰った物を受け取り、オーギュは彼の体を隠す為にタオルを広げた。
『そんなに慌てる事か?全く』
ファブロスはそう言いながら立ち上がってしまった。
「待ちなさい!せめて隠し…」
浅黒く筋肉質の肉体が剥き出しになると同時に、何かが倒れる音が響いた。
全員、その激しい音のした方に目を向ける。
「あぁあああ!!せ、セルシェッタ!!」
「セルシェッタさん!」
ロシュとオーギュが同時に叫んでいた。
いきなり目の前に出現した全裸の体格の良過ぎる異性を見てショックを受けたらしい。頭が完全にシャットダウンしたのだろう。
彼女はそのまま意識をすっ飛ばし、完全に気絶してしまったのだ。
『ん?何だこの女は』
そしてファブロスはオーギュからタオルをようやく受け取りながら倒れた彼女を見下ろしていた。
「何だじゃないですよ…いきなり丸裸で出られたら当然驚かれますよ」
手遅れだった。
オーギュは溜息を吐くと、せめて今は獣の姿になりなさいと命じた。せめて服を身に付けたままだと良かったのに。
「うーん、ファブロス。なかなか良い体付きですねぇ」
その体格の逞しさをまじまじと見てしまうロシュは思わず感嘆の声を漏らしていた。
気を使う相手が完全に気絶してしまったので遠慮をする必要も無い。つい見惚れそうになるレベルの美丈夫っぷりに素直な感想を述べる。
『そうだろうか』
「ふふ、そうですよ。そして立派なものもお持ちで」
『だろう』
何を言い出すのか。意味深な会話を遮る形でオーギュは二人を止めた。
「今はその話をしていませんよ!セルシェッタさんが倒れたままじゃないですか!もう、どうするんです!」
「あの」
リシェは困り果てているオーギュに声をかける。
「俺の部屋でお休み頂くというのはどうでしょうか」
倒れたまま放置してしまう訳にもいかない。おずおずと手を上げながら申し出てきたリシェに、オーギュはホッと安心する。まだ年若いながらもしっかりしている彼に頼もしさを感じた。
こんな状況なのに変な会話をする誰かさんとは訳が違う。
「宜しいのですか、リシェ?」
「はい。今から別の布団を用意してきますし、その辺は大丈夫です」
定期的に寝具は変えているので、洗い立てのはすぐに用意出来た。自分が使っているのを来客に使わせるのも失礼だろう。
申し出てすぐ、リシェは準備してきますと一言言うと部屋から飛び出した。
「本来ならすぐにあなたが気を使うべきではないですか、ロシュ様。あなたの家に仕えて下さっている方なんですから。変な話をする状況じゃないでしょうに」
ファブロスは腰にタオルを巻き、呆れて説教を始めようとするオーギュに『まあ落ち着け』と宥めた。リシェが持ち出してきたバスローブはどうやらサイズが合わなかったらしい。
それにしても、その逞しさ溢れる肉体は同性ながら羨ましくなってしまう位に筋肉が隆々としていた。
「いやあ、あまりにも良い筋肉ですからね…」
「…まさか倒れてしまうレベルでショックだったなんて」
とりあえずリシェの準備が終わるまでソファに寝かせておきなさいとファブロスに命じると、主人の命令に忠実に従ってセルシェッタを抱えてソファに横たえた。
全裸の男が女性を抱えるという光景がまた異様だったが、幸い気絶した状態のままだった。
『過剰に反応し過ぎなのではないか、この女は』
「逆に私達も女性が全裸で出てくると慌てますよ。それと同じです」
『そんなものなのか』
召喚獣という立場では、羞恥心には鈍いらしい。
そんな会話をしているとリシェが再び室内に入ってきた。
「リシェ」
室内に入って来ると同時に、開け放していた窓の隙間から風が入り込み彼の黒い髪が悪戯に揺れる。
「準備出来ました」
「有難うございます。…早速ですがファブロス、セルシェッタさんをリシェの部屋に運んで差し上げて下さい」
また抱えるのかと少し文句を言いながらも、彼は忠実にセルシェッタを抱えた。
ほぼ全裸のまま女性を抱えるその様は流石に異様な雰囲気を感じずにはいられない。
『リシェの部屋に行けばいいのだな?』
「俺が案内する」
リシェはそう言うと、自分の部屋に繋がる扉を開きに向かった。セルシェッタも、柔らかなベッドで休ませてやればそのうち目を覚ますだろう。
ラウド家と同じ要領で延々と働かれても困る。
リシェとファブロスを見届けた後、オーギュはロシュに改めて問う。
「セルシェッタさんはいつまでこちらに?」
彼女が大聖堂にやって来てまだほんの僅かだったが、最初からこのような調子だと気持ちが落ち着かない。
近くでずっと細やか過ぎる活動をされるのもこちらとしても申し訳無い。止めろと言っても全く聞こうとしない性格なのは、先程の会話で良く分かった。
良く言えば真面目。悪く言えば融通が利かないタイプ。
説得しようにも、なかなか納得してくれなさそうだった。
「そうですねえ…どうやら向こうでも休暇らしい休暇を取ってくれなかったようですし」
「休暇を与えなかったという事ですか?それはいけませんよ」
大問題になりますよとオーギュは眉を顰める。
だがロシュが返す言葉は予想もしないものだった。
「いえ、何度も何度も休みなさいとご本人に申し上げたんですよ。それなのに普通に仕事をしようとするのです」
「…えぇ…?」
休む事をしたがらないという訳か。
大抵の人間は休みたいと常に思っているものだと解釈していたのに、流石に斜め上過ぎた。
単に体を動かすのが好きなタイプなのか、または仕事が好きで好きでたまらないのか。
「ですからこちらも困ってるんですよ。昔からいくら休めと言っても聞かないんですから。多分実家側も、そんな彼女に休暇を与えたくてこちらに寄越してきたのかもしれません。屋敷から離れれば、仕事から解放されますし」
「解放どころか、逆に我が道を行くレベルで動いてましたがね」
あの手際良く清掃をこなしていくセルシェッタを思い出し、オーギュは脱力するように言った。
ううん、とロシュは頭を抱える。
「とりあえずあの人をいつ返せばいいのか具体的に聞かなければならないし…休暇を与えるつもりなら休んで貰いたいですが、肝心の本人がいつも通りなのですから」
再びリシェとファブロスが部屋に戻ってきた。
オーギュはタオル一枚のみのファブロスを見て、流石にこのままではいけないなと思う。
「…ファブロスの着替えを持って来ます。流石にタオル一枚のみはあれでしょうし」
大層な肉体美を延々と披露されても周囲が困惑するだろう。
セルシェッタの件は普通にロシュに任せておけばいいか、と思いオーギュはそれ以上突っ込まないようにした。
「わ、分かりました。私は実家に宛てて伝書の作成でもしましょうかね…ええっと、リシェ」
ロシュはリシェに声をかける。小さな騎士は主人の呼び掛けに、すぐさま「はい」と返す。
「すみませんが、今から作る伝書を私の実家の方へ届けて貰えませんか?一緒に地図も渡しますので、城下街のラントイエ地区の私の実家に届けて欲しいのです」
「は…は、はい!」
ロシュの実家と聞き、リシェは思わず畏まってしまう。
初めて彼の実家に行けるのはいいが、果たして自分が足を踏み入れてもいいのだろうかという漠然とした不安に駆られてしまう。
「あの」
「どうしましたか、リシェ?」
「俺が行っても大丈夫でしょうか?」
臆した様子を見せるリシェに、ロシュはついふっと微笑んだ。そして彼の前まで足を進めた後にそっとその頭を撫でる。
初めて赴くのだから不安がるのも無理は無い。
「いずれはあなたを紹介しようと思っていたのです。私も同行出来れば良いのですけど…お仕事が立て込んでいますからね。あなたの事もちゃんと書いて説明しておきますから安心して下さい」
「分かりました」
口では了承したものの、やはり不安だった。
最愛のロシュの実家に単独で足を運ぶ上に、初めて彼の親族と顔を合わせるとなれば緊張感が増してしまう。
複雑な顔を見せるリシェに、ロシュは「おやおや」と苦笑した。
「私の両親は至って普通ですから大丈夫ですよ」
「それはロシュ様を見れば分かりますが…」
固くなるリシェ。
そして主人を見上げた。
「緊張します」
「単に伝達係として気楽な気持ちで行くと良いですよ。何も取って食べようとしている訳ではありませんから」
「頑張って行こうと思います…」
畏まるリシェの姿勢がまた愛おしく見えてくる。そんな彼の頭を優しく撫でた後、ロシュは待ってて下さいねと書斎机に向かった。
その間、ファブロスはオーギュに言われたのか獣姿に変わり周囲を徘徊する。
『ロシュ』
「はい」
『窓を開けてくれ。ベランダに出たいのだ』
彼は机に向かおうとしていたロシュに訴えた。窓は僅かな隙間だけ開かれていたが、流石に大柄で角の付いた姿ではガラスを割ってしまうかもしれないと察したのだろう。
はいはい、と素直に従うロシュは窓を大きく開いた。
日の光は少しずつ暖かさを増している。
「日向ぼっこですね、ファブロス?」
『そうだ』
「ベランダといっても狭いかもしれませんよ?」
のしのしとその大きな体を揺らしながら外に出たファブロスは、塔を覆う形で張り巡らされる通路のようなベランダを見回す。
巨軀な姿で日向ぼっこをするのは狭いかもしれない。
『上はどうだ?屋根は頑丈か?』
「上ですか?…まあ、定期的にメンテナンスはしていますが乗った事はありませんよ…一応司聖の塔は頑丈そのものですが」
『ふむ…上の方が気持ち良さそうだな』
ファブロスは鼻先を上に向けながら呟く。そして屈強な足に力を込め、ベランダの枠に飛び乗るとそこから更に上の屋根に上がって行った。
ロシュは「うわわ!」と声を上げて驚き、思わずかくりとバランスを崩す。煉瓦造りの屋根は急な重みでガタガタと不穏な音を上げ、稀に粉を落とした。
「だ、大丈夫ですか?ファブロス?」
姿が見えないままの召喚獣に声をかけると、空からファブロスの返事が聞こえた。
『まあ、大丈夫だが不安定だな。ここでは人の姿の方が安全そうだ』
「まあ、確かに…すぐにオーギュが戻って来てくれますから、人の姿になって日向ぼっこをしていて下さい」
『うむ』
まさか自分が生活する司聖の塔の屋根で、全裸の男が普通に日向ぼっこをするのを目の当たりにするとは。
オーギュが戻ってきたらどんな顔をするのだろう。
「ファブロス、危ないので足元には気を付けて下さいねぇ」
見えない場所に居るファブロスに向け、ロシュは心配しながら叫ぶ。
今までの司聖の中で、自分が唯一屋根の上に上がった者を見たかもしれない。流石に高層階とも呼べるべき塔の一番上に上がろうとする者は居るはずもないだろう。
しかもここは尖塔だ。多少は腰掛けられるスペースもあるかもしれないが、それを探すのも厳しいだろう。
『普通に座れるスペースを見つけた。どうだ、ロシュ?』
まるで自分の思っている事を見透かすかのように上から声が降ってきた。
「い…いえ、遠慮しておきますよ。オーギュが戻って来たらこっちに戻っていらっしゃい」
『そうだな。あいつが戻って来たら怒り出すかもしれない』
長く寄り添っていくうちに、どうやら自分の主人がどんな事を嫌がる傾向にあるのかを理解してきたようだ。
それはそれで成長とも言えるのだろう。
彼の場合、危なくなったとしても魔法を持ち合わせているのでそこまで深刻に心配する必要も無い。
ロシュは再び部屋に足を踏み入れると、「さて」と声を放つ。書斎机へと赴くと、早速実家に宛てて書面を認める準備を始めた。
その間、リシェはソファに腰掛けたまま緊張感に満ちた顔を定着させている。やはり初めて向かうロシュの実家へ行くという行動に戦々恐々としているようだった。
「ちなみに」
「は、はい」
「私の実家の近くに、ルイユとルシルの家もあるのですよ。もしかしたら偶然再会するかもしれませんね」
あの強烈な双子の顔を思い出すと、リシェは余計に困惑した。あのトラブルメーカーの二人に会っても、禄な目に合わない気がするのだ。
なるべく会わないように心掛けたい。
「いや…今はロシュ様に与えられた用事だけを済ませたいと思います…」
単にロシュのお使いに行く為に向かうのに、出来れば会いたくない。むしろ、とにかく顔を合わせたくなかった。
苦手というよりは面倒。
「おやおや」
ロシュは今まで散々振り回されていたのを思い出したのか、ついふふっと微笑んだ。彼の気持ちを察したのだろう。
「お使いに向かった後は好きな時間を過ごしても構いませんよ。今日は兵舎の任務も特に無いのでしょう?」
「はい。今日はそんなに任務も無いので…」
行けばそれなりにあるのかもしれないが、現時点では自分の所属する班の与えられた任務は主に座学や小さな仕事ばかりだった。午前中に終了する場合もあり、ある意味休養期間のようなものだ。
自分が行っても士長のゼルエにやる事は特に無いから帰れと言われてしまうだろう。ロシュの元での仕事内容も考慮しての事かもしれないが、こちらでも特別に動きは無いので黙っているしかない。
ロシュもリシェに気を使っているのだ。
「それなら城下の方でいろいろ探索するのもいいかもしれませんよ。今日もとても天気がいい」
そう言われ、リシェは窓の外に顔を向けた。
時間が経過していく度に室内に入り込んでくる風も優しく暖かくなっている。外に出れば気分も高まるかもしれないが、リシェは困ったように眉を寄せた。
「俺、ロシュ様とご一緒だったら楽しめると思うのです」
一人で行っても仕方無いと言わんばかりに少し愚痴を込める。
「嬉しい事を言ってくれるんだから、リシェは」
思いっきり抱き締めてあげたくなってしまうのを抑えつつ、ロシュは用意した便箋にサラサラと文字を認めていった。
公的な文書ならば、上質な紙で特殊な紋様の付いた便箋を主に利用するが、私的に使う場合は出来るだけ簡素な物を使用する。それでも一般に使うものよりは高品質の紙だ。
ペン先に引っ掛けても滲みにくいその紙は、非常に万年筆との相性も良い。
「私の仕事に余裕が出来たら、お忍びでご一緒に遊びに行きましょうね」
しょんぼりしているリシェを慰めるようにロシュは言った。
「前みたいに宮廷魔導師の法衣で変装しましょうか」
出会って間もない頃、変装してリシェと一緒に城下に遊びに行った事を思い出す。お互いまだ緊張していた時期だ。
その頃からリシェが常に自分の側に居てくれたらという気持ちが大きくなっていた。
念願叶って常に一緒に居られる今は、充実感で満たされていた。出来るものなら片時も離れたく無いが、それは我儘というものだろう。
「はい、ロシュ様」
リシェはふっと大人びた微笑みで言葉を返した。
自分の実家へ宛てた手紙を書き終えると、ロシュは丁寧に封書にして椅子から立ち上がる。
「さて…ではこの手紙を私の実家に送って下さい。地図も準備しますね」
「わかりました」
リシェがロシュから封書を受け取っていると、いつもの如く階下から風が巻き起こりカーテンが激しく揺れる。外から着地する靴音が聞こえた後で「ファブロス」と冷静な声が耳に響いた。
「お帰りなさい、オーギュ。ファブロスは屋根の上で日向ぼっこをしていますよ」
「はい?」
衣類を手に戻って来たオーギュは、ロシュの発言に疑問を抱く。やはり意味が分からないようだ。
この塔の屋根に休める場所などあるはずもないと思っているのだ。普通の人間はまず上がる事など不可能なのだから。
「屋根?」
思わず彼は室内の天井を見上げる。
「そう、屋根ですよ。ちょっと待って下さいね」
そう言いベランダに出ると、ロシュは空を仰ぎ見て「ファブロスー」と声をかけた。
『ん?』
「オーギュが戻って来ましたよ。降りて来て下さ…」
そう言い終える前にオーギュは再びベランダに飛び出していく。うわわ、とロシュは思わず怯んだ。
彼は魔法で屋根の上まで浮上すると、同時に呆れた声を上げていた。
「…屋根の上で全裸で寛がないで下さい!!」
彼も今までこんなセリフを叫んだ事は無いだろう。
上から降り注いでくる言葉に、ロシュとリシェはつい顔が綻ぶ。
『獣のままでは壊れると思ってな』
「服を持ってきましたからとりあえず着なさい!!」
『このままでも良いんだが』
「やめて下さいよ、いくら見えにくい場所だろうが全裸だと変に思われます!!」
二人の会話を聞きながら、ロシュは地図をリシェに手渡す。
「ヴェスカの悪い癖が移ったんでしょうか」
「…ヴェスカも全裸になる癖があるんですか?」
「はあ…まぁ」
受け取った地図に目を通した後、リシェは自分の宮廷剣士の制服の胸ポケットの中にそれを折り曲げて突っ込む。
「では早速行ってきます」
「ありがとうございます、リシェ。気を付けて行ってらっしゃい」
書簡を受け取ったリシェは一礼すると、速やかに部屋から出て行った。彼は行動が早いのですぐに結果を持って来てくれるだろう。
さて…と改めて仕事に掛かろうと机に向かっていると、ふわりと風を巻き起こしながらオーギュが室内に戻ってきた。
「ああ、もう」
「お帰りなさい、オーギュ。屋根の上にいいスポットがありましたか?」
「何がですか」
呆れたままのオーギュに対し、ロシュはとぼけた質問をぶつけた。
「日向ぼっこに最適の場所があるのかと思って」
「それを知ってどうするんです?どちらにしろ危ないですよ」
「そうですかぁ…いい場所があったら気分転換にいいかもしれないなって思ったんですが」
無表情のままのオーギュ。
その何の感情も無くこちらを見る視線が妙に怖い。変に刺さってきそうな雰囲気を醸し出してくる。
ただでさえその切れ長の目は非常に冷静極まり無いのに。
「冗談ですよ…怖いからやめて下さいって」
「リシェは?」
「ああ、あの子は私の実家の方へ言伝をお願いしました。ついさっき出て行きましたよ」
そうですか、といつもの法衣の上に纏っていたケープの金具を外すとソファの背もたれにそっと置いた。
「仕事に取り掛かりますか…」
そうオーギュが言うと、司聖の塔と隣り合わせの時計塔が一定の時刻を知らせる鐘が鳴った。近くにある為にその音はかなり響く。
昔ながらの建物の為に、こればかりは対処し難いものだ。場合によっては耳を塞いでやり過ごす時もあった。
風向きなどで、ほぼまともに聞かされたりもするのだ。
「忘れてました」
ロシュは慌てて時計塔側の窓を閉じて鳴り終わるのを待った。オーギュも慣れたように耳を塞ぐ。
全身が鐘の音でビリビリと痺れた感覚に襲われながら、これはあまり健康に宜しくないのではと危惧してしまう。
毎回良く我慢が出来るものだと。
「今更ですが、時計塔側に音を吸収する壁でも探しますか…何もしないよりは良いですしね」
「まあ、一日に数回のものですからね。我慢出来ない訳ではないのですが、びっくりしますよね…」
言いかけたその時、屋上から何かが崩れるような物音がした。不意に天井を見上げたオーギュは「ああ」と呟く。
鐘が鳴り終えると、ほぼ同時にファブロスが部屋に飛び込んで来た。
「お帰りなさい、ファブロス」
『…急に鳴り響くから驚いたぞ!!』
言われた通り、しっかり服を着込んだ彼は若干乱れた姿で叫んでいた。休んでいた所での激し過ぎる爆音だったので余計驚いた様子だ。
オーギュはよろめくファブロスに近付き、彼の服に付いた汚れを丁寧に大判のテープで取り払う。獣の際に体毛が散る時を予測して予め準備をしているようだ。
様々な場所で撒き散らす訳にはいかないと思っているかもしれない。
「隣は時計塔ですからね。離れていてもこちらは近いですから良く響くのですよ。これに懲りて屋上で日向ぼっこはしない事です。しかも全裸で」
オーギュ的には全裸で行動をして欲しくないようだった。獣の姿ならまだ分かるようなものだったが、人の姿では流石に神経を疑うレベルなのだろう。
反論出来ず、ファブロスはぐっと奥歯を噛み締めつつ天井を見上げていた。
司聖の塔の階段を降り、大聖堂の中庭に出る。リシェはロシュの実家に向かう為に正門へ足を進めていた。
常に変化の無い風景を見過ごしながら、出入口へと近付いていく。
「あれ、先輩?」
門番をしている宮廷剣士の一人が、リシェの姿に気付き声をかけてきた。
顔を上げ、正面に目を向けると門番の任務をしているラスと遭遇する。
彼は相変わらず明るい表情をこちらに見せながら手を振ってきた。
「ラス。今日はこっちに回ってきたのか」
「はい。一班の方で人数欠けたみたいで…本当は座学の方だけど、こっちに回った方が楽だし…何より補助手当も来ますからね」
抜け目の無い彼に、リシェはふっと吹き出した。
「現金な奴だ」
「そう言う先輩こそ何処に行くんですか?まさか仕事しに行くとかじゃないですよね」
行っても今日はほとんど仕事なんて無いじゃないですか、と少し疑うかのような目を向ける。真面目なリシェを彼なりに心配しているのだろう。
宮廷剣士の任務の他、別で護衛の仕事をこなそうとする。張り切って動きたがるのだから、ある意味タチが悪い。
スティレンは放っておけと言うが、やはり心配になるのだ。
「いや、今日は用事があって行く場所があるんだ」
「本当ですか?」
まだ疑うような目を向けるラスを見上げ、リシェは「言伝に行くんだよ」と説明する。
「ロシュ様の家に行かなきゃいけないんだ」
「へぇ…」
司聖の実家となれば相当なお屋敷なのだろうな、とラスはぼんやりと考える。そもそも、司祭や魔導士になる人間は家庭環境も申し分無い人間が大半だ。民間から進んで行く者も居るが、それは少数派だと思う。
一般人にとって、特別視される魔法に触れる機会も少ないのだ。
「実家ってどの辺りですか?」
「えっと…ラントイエ地区だな。行く事も無いから地図も貰って来た。ほら」
リシェは自分の制服の胸ポケットから預かった紙を広げてラスに見せる。
「ああ、やっぱりそっちの方向なんですね。貴族階級が良くお屋敷を建てたがる地域ですよ」
「そんな立派な場所なのか」
再び地図の紙をポケットに戻しながら、リシェは更に緊張してきた。果たして自分が入り込んでもいいのだろうかと。
「あそこに入るには住民章とか必要だったりするんですよ。何というか、嫌味な感じがしますよねぇ。先輩、ロシュ様から何か預かっているのですか?」
「え、そうなのか?…うーん、特に何も預かってないのだが…説明して聞き入れてくれるのかな…」
警備する側はロシュの顔を知っていても、リシェの顔までは分からないかもしれない。彼の特別な護衛剣士だとしても。
リシェは一旦戻って許可証が必要か聞いてこようか…と困惑していた矢先、塔の方向から駆け寄って来る足音が聞こえてきた。
ちょうどいいタイミングというべきか。
「リシェ!」
「オーギュ様」
司聖補佐の姿に、ラスも頭を下げた。
「あぁ、良かった…全くロシュ様は肝心な事を忘れるのだから。ラントイエ地区に行く為の許可証を持って行ってないでしょう?」
「あ…は、はい!」
今ちょうどその話をしていた所だったと説明すると、オーギュは安堵した様子で「良かった」と胸を撫で下ろした。
「ラスが教えてくれたのです」
「そうだったのですね。あぁ、呼び止めて下さってとても助かりましたよ」
彼はそう言いながら許可証をリシェに持たせた。
「それを地区の入口の警備員に見せて下さい。すんなり入る事が出来るでしょうから」
「ありがとうございます、オーギュ様」
「あの人は顔パスでしょうから大切な事が抜けるのですよ、本当に。このまま手ぶらで行くとかえって時間の無駄になるというのを忘れてしまうんだから」
文句を言いながらもしっかりロシュのフォローをするのが彼らしい。
「あの辺はとにかく見栄っ張りで嫌味な人が多いんですよ。自分の敷地外から入って来る人間を嫌がる方も少なからずい居ますからね。何かあってもあまり気にしないように振る舞いなさい。幸い、ロシュ様のご実家はそのようなタイプではありませんからその辺は安心して下さい」
「オーギュ様のご実家もこちらの地区に?」
「ええ、そうです。ですが私の所はいいのですよ。見栄っ張りな方ですからね。ある意味世間知らずな家ですので」
「はぁ…」
あまり踏み込んではいけない気がして、リシェはこくりと頷くだけに留まった。自分も似たようなものだ。
オーギュはラスに目を向けると、ふっと微笑み「ありがとうございます」と改めて礼を告げる。
「あなたが足止めをして下さったお陰で移動が最小限に済みましたよ。運動が苦手なのでね」
「いえ!俺はただ、先輩の姿を見かけて呼んだだけですから…」
自分にとって雲の上の存在であるオーギュに礼を言われると、物凄く勿体無い気がしてラスは恐縮してしまった。目の前に居るのですら信じ難いのだ。
ラスはそのままリシェとオーギュに「俺、任務に戻りますので」と一言告げる。
「余裕があったら兵舎にも顔を出して下さいね、先輩」
「ああ。分かった」
見たままの印象では儚げな姿のリシェが彼よりも下に見られがちだが、宮廷剣士の経験ではリシェの方が上だ。
年齢ではなく、剣士は入った順番で立場が決まってくる。
「真面目そうな子ですね」
任務に戻って行ったラスを見送るオーギュはそう言って微笑む。
「はい。よくスティレンと連んでいます。同じ年みたいなので」
「へえ…ではあなたとは一つ年上なのですか」
こくんとリシェは頷く。
「真面目なタイプなのに、我儘過ぎるスティレンと話が合うのはお互い同じ年だからなのでしょうか?」
自分とは喧嘩が多いのだが、ラスはあまり彼と揉めない。自分が知っている限りでは皆無。
あれだけ人と揉め事を起こしがちな要素を持っている従兄弟なのに不思議だった。
「ううん…どうでしょうねぇ。それもあるのかもしれませんが、意外に性格が合うのかもしれませんよ。全くタイプが違うのに妙に一致する事もありますしね」
「オーギュ様はどうなのですか?」
予想もしなかった質問を受け、オーギュは一瞬言葉を詰まらせた。リシェが聞きたいのは常に一緒に居るロシュに対してなのだろう。
自分では合わないと思っているが。慣れ過ぎたせいか、麻痺しているのかもしれない。
「見る限りでは相性が良いと思いますけど…長いお付き合いだと思いますし」
「まあ、付き合いは長いですよ。長ければ長い程お互い知り尽くしますからね。腐れ縁のようなものです」
敢えて合わないとは言わず、ぼかして答えた。
あまりがっかりさせるのも良くない。
「さあ、リシェ。早々に用事を済ませて来なさい。あの面倒な場所は行ってすぐに出るに限りますから」
その言葉で、一体どの位面倒な場所なのだろうかと思ってしまう。
故郷のシャンクレイスの貴族階級と似た感じなのだろうか、と。いずれにしろ特有のしがらみも関係しているのかもしれない。実家から離れた自分達には、非常に面倒だと思う気持ちも分からなくも無かった。
一見華やかに見える反面、上流階級特有の人間の歪みや醜さを感じやすい環境だ。そこから身を離せば、それがいかに異常なのかを理解しやすい。オーギュはそれを良く知っているのだろう。
そこから切り離された自分はまだマシかもしれない、とリシェは思う。
「はい。すぐに戻ります。オーギュ様」
リシェはそう告げると、頭を下げて大聖堂を後にした。
色とりどりの織物を興味深そうに見廻しながら、ヴェスカは「随分と買い込むんだな?」と側で品物を見繕っている少女に声をかけていた。
アストレーゼン城下街の中心部は様々な店舗や路上販売の業者でひしめき合っている。各地方から人々が集中しやすいのもあり、それぞれの特産品や工芸品など多数のジャンルの品物が購入しやすいので挙って店を構える者が多い。
大聖堂お抱えの裁縫師の服を身に纏う活発そうな少女は急に湧いて出たように声をかけてきた大男を、鬱陶しそうな様相で見上げていた。
その細腕には鮮やかな色を放つ生地の入った紙袋を抱えている。
「いきなり何だよ、暇なのか?」
気品を感じさせるデザインの衣装とは逆に、ショートヘアで茶色い髪の活発そうな裁縫師は遠慮の無い言葉使いでヴェスカに問う。頰と鼻に一直線に集中するそばかすが特徴的な彼女は、以前ヴェスカとリシェによって救われたマルテロだった。
「暇っていうか、今日は休みなんだよ」
「あぁ、なるほどね。暇だからこっちに出てきた訳だ」
「そうそう。んでたまたま見つけたから声をかけたっていうね」
マルテロは紙袋を抱えたまま「へえ」と理解した。
「休みなのに誰からも構って貰えないのか」
久しぶりに会ったにも関わらず、あまりの毒舌っぷりにヴェスカはがくりとバランスを崩してしまった。
あまりにもはっきり言わないで欲しい。
「お前なぁ」
「あ、これちょうだい!この青いの」
突っ込もうとするヴェスカを完全にスルーし、マルテロは店の店主に気に入った生地の購入を訴えていた。店主の愛想の良い返事を聞きながら、小馬鹿にされ続ける大柄剣士はややいじけた顔を見せる一方で彼女が大分調子を取り戻した事に安心する。
あの残酷な環境から少しずつ立ち直ってくれれば何も言う事は無い。母親とその恋人が魔力に干渉を受けた獣に食われてしまったのを目の当たりにしたショックは当人でなければ計り知れないものだっただろう。
しかも彼らは反抗的だった彼女を街の外部に捨てようとしていた。
反抗的だったとはいえ、マルテロ自身も母親の愛情に飢えていたに違いない。こちらに来た事で、少しでも他者からの愛情を受けられたらいいと不器用ながらもヴェスカは願っていた。
「いつもありがとうね、マルテロちゃん。少し長くサービスしといたよ」
「本当!?ありがとね、おばちゃん!」
新しい紙袋を受け取ったマルテロは、満面の笑みを見せて礼を告げる。どうやら相当馴染みのある店のようだ。
嬉しそうに金銭のやり取りを済ませた後、彼女はヴェスカを見上げながら「あんたはこの後どうするの?」と問う。
「あたしはもう用事は済ませたし戻るけど」
「何だ、他に用事は無いのか?」
「あまり居過ぎるとお金使っちゃいそうだし。ただでさえ城下街は人がいっぱいで人酔いしちゃいそうだからいつも目的の物を買ったらすぐ戻るようにしてるんだ」
確かに城下街の中で行き交う人々の群れを見るだけでも萎えてくる。彼女のような地方の街出身だと、余計そう感じるのかもしれない。
ミルトランダも決して小さくはない規模の街だが、アストレーゼンは相当な都会なのだ。
ヴェスカは頰を掻きながら「マジかぁ」と呟く。
「暇なら街の案内でもしてやろうと思ってたのに」
「あんた、本当に誰からも相手にされてないのな…」
「そっ、そんなんじゃねえよ!他の奴は任務だったりするんだよ!ひ、人聞きの悪い」
妙に焦る様子のヴェスカをマルテロはへぇ…と疑うような目線で見上げながら、まぁいいけどと返す。
「じゃああたしは戻るよ。街の案内はいずれやって貰おうかな。今日はこれからまたやりたい事があるからさ」
「そっかぁ。残念だなぁ」
これからどうしようか、と考えていると戻ろうとしていたマルテロは少し離れた通りを見て「あれ?」と声を上げていた。
こちらの人通りの多い路地の反対側…馬車の行き交う大通りを挟んだ向こう側で、宮廷剣士の格好をした小柄な少年がとぼとぼと歩いているのが見える。そしてヴェスカに声をかけた。
「何だ、良かったねヴェスカ。お友達が居るじゃん。向こうで歩いてるよ」
「んあ?」
お友達と言われ、思わず彼はその指し示す方向を見る。
「リシェちゃんじゃないか」
リシェはいつもの無表情で一人どこかへ向けて歩いていた。
「リーシェちゃーん!リーシェー!!」
その声は車輪が路面を響かせる音に紛れ、僅かながら向こう側で歩いている最中のリシェの耳に届く。彼は顔を上げてこちらを見ると、自分達の姿を確認し眉を寄せた。
ヴェスカは「おっ」と声を声を上げ、更に手をぶんぶんと振る。
「久しぶりに見たけど全然変わってねぇな」
紙袋を両手いっぱいに抱えながらマルテロがそう言うとほぼ同時に、リシェはこちらを避けるようにして走り始めてしまう。恐らく面倒だったのだろう。
関わりたく無いと言わんばかりにダッシュした。
「なっ!?おいこら!逃げんなー!!!」
逃げるリシェの後を、ヴェスカは大通りの喧騒をうまく回避しながら追った。
…数分後。
リシェは心底嫌そうな様子を剥き出しにしながら「何だよ」とヴェスカを見上げる。
すばしっこい彼を追い掛けた事で少しスタミナを減らしたらしいヴェスカは、息を切らしながらお前こそ何処に行こうとしてたんだと問いかけた。
「凄いな」
一方、ヴェスカのその執着心にマルテロは感心していた。
「一目見て相手から猛ダッシュで逃げられているのに、普通に追い掛けるなんて。普通なら後追いするのをやめようって思うよ。めっちゃ避けられてるのを全く理解してないのが凄いわ」
褒めているのか馬鹿にしているのか分からない発言だったが、恐らく後者なのだろう。それでも相当楽天的なヴェスカは「えへぇ」と能天気な笑顔で照れる。
「それほどでも~」
「こんな所でお前の顔を見なきゃいけないなんて。休みの意味がまるで無いじゃないか」
不愉快そうに愛くるしさのある顔を歪めるリシェ。
「聞いたかヴェスカ?めっちゃ嫌がられてるじゃん」
「リシェちゃんは毒を吐くからなぁ。全く、小憎たらしいっていうか何と言うか。まぁ、そこが可愛いんだけどさ」
リシェは隣に居るマルテロに目を向けると久し振りだなと話しかけた。しばらくぶりに再会する彼女は、リシェの目から見ても雰囲気が以前と変化したように見える。
表情は活気に溢れ、毎日が楽しそうだ。
「久し振りだね、リシェ。前はお世話になったよ」
「元気そうで良かった。…で、何でこいつと一緒だったんだ?買い物でもしてたのか?」
「あたし一人で買い物してたんだよ。んで偶然会った」
「そうそう。俺今日休みじゃん?だから街に出てみたんだよね、久し振りにさ。そう言うお前は何でこっちに出て来たんだ?滅多に城下に出ないくせに」
リシェはヴェスカを見上げると、少し困ったように「行かなきゃいけない場所があるんだ」と答える。
「ん?」
「急遽ロシュ様のご実家に書簡を届けなきゃいけなくて」
やや曇りがちな口調で言うと、ヴェスカは興味深そうな顔をした。
「ロシュ様のご実家って、めっちゃデカいんじゃねえの?」
「だと思う。ご用とはいえ、行くとなると気持ち的に憚られてな」
言いながらリシェは俯いた。
「お貴族様の住宅地にあるんだろ?あれ凄げぇよな、周りは柵で囲まれてて敷地分けしてるんだって。周りには警備員が居て、許可が無いと入れないって場所らしいよ。そりゃ行きにくいだろうさ」
少女らしからぬ粗雑な言葉使いのマルテロは、これからリシェが赴く場所について率直な感想を述べた。
それを改めて耳にすると更に気遅れしてしまうリシェ。
「初めて行くのか。それなら気が進まないだろうな」
ヴェスカは腕組みをしながらううんと唸った。
「何なら俺が付き合ってやろうか?どうせ暇だし」
「いや、いい」
仮にも上司からのありがたい申し出にも関わらず、リシェは即答して拒否しだす。
「どんだけ信用ねえんだよヴェスカ」
鮮やかな拒否っぷりにマルテロは思わず吹き出してしまった。だが全く気にしない様子のヴェスカは「まあまあ」とリシェの目線に合わせるように体を屈め、彼の肩に腕を回す。
「俺が居れば何かしら役に立てるかもしれないじゃんか」
「お前が居れば余計厄介な事が増えるかもしれないじゃないか。無駄に寄り道するし…あぁ、くっついてくるな!暑苦しい!!」
ぐにょぐにょとリシェの頬を捏ねながら、ヴェスカは俺が居て嬉しいだろ?とじゃれついた。
その様子からは非常に仲睦まじい様子だ。明らかに小さなリシェに纏わりつく様は、まるで大型犬のようにも思えてくる。
「仲良いな。…んじゃあたしはここで退散しようかな」
「これの何処に仲の良さが知れるんだ!むしろ連れて帰ってくれ!!」
絡み付いてくる太い腕を必死に避けようと試みるリシェは、荷物を抱えて来た道を帰ろうとするマルテロに訴えた。
しかし彼女はくるりと振り返り、悪戯っぽく笑うと「嫌だね」と突っぱねた。
「あたしのじゃねぇし」
「俺のでも無いぞ!!」
「どっちにしろ暇そうにしてるんだから相手にしてやりなよ。じゃあねぇ」
言うだけ言ってさっさと大聖堂へと戻ってしまうマルテロ。
残されたリシェは、押し付けられたヴェスカの横でがっくりと肩を落とす。
「そんなに嬉しかったか、リシェ?」
どう見てもこちらは落胆しているのに、ヴェスカは真逆の事を言い出していた。
「そんな訳…無いだろ…」
「よしよし、仕方無いから俺が付き合ってやるよ。んもー、リシェちゃんってば素直じゃないんだからなぁ」
「どこをどう聞いたらそんなおめでたい解釈出来るんだ?」
嫌だと言っても彼の場合は強引にくっついてくるのだろう。
リシェは諦めたように溜息を吐く。
「んで、今から行くんだろ?よしよし、着いて行ってやるからな」
「でも中には許可証が無いと入れないんだぞ。お前の分は持って来てないよ」
基本的に許可証は一人に付き一枚。
リシェは単独のつもりで向かっていたので余分は持たされていなかった。しかも後からオーギュが持って来てくれたものだ。
ヴェスカは「いいよ別に」とけろっとして答える。
「ほら、敷地前で待ってりゃいいだろ?」
「まぁ、確かに…」
「お前が行ってる間敷地外で待っててやるからさ。どうせ中は平和で安全なんだから俺が居なくてもいいだろうし」
それ以前に私服で剣すら持ってないじゃないか、とリシェは内心突っ込む。
彼は完全に休みを満喫するような格好だ。
上下全く飾り気の無いシンプルな格好だが、がっしりした逆三角形の体格を一層引き立てるにはちょうど良い。
美形とまではいかずとも、ヴェスカは鼻筋も通っていて均整の取れた顔立ちで、体つきも剣士としては申し分無い頑丈な体格なので異性の目を引きやすかった。
その気になればかなりモテるだろう。
「警備は外より内部の方が厳重だろうしさ」
「まぁ、そうだけど」
「ロシュ様のご実家がどうなってるのかはめっちゃ興味があるけどな。こればっかりは仕方無い」
リシェは顔を上げ、ラントイエ地区方面への道に顔を向けた。たった一人で行くよりは誰か居てくれた方が心強いが、結局内部には個人で向かわなければならない。
さっさと用事を済ませて大聖堂に戻ろう、と意を決した。
気を失っていたセルシェッタは、寝かされていたリシェの部屋を出てすぐロシュの部屋へと戻っていた。
「ロシュ様」
「おや、おはようございますセルシェッタ。良く眠れましたか?」
寝乱れた髪を押さえながら、彼女は部屋の内部を無言で見回す。
「気が付いたら違うお部屋に居ました」
「あはは…まあ、そうですよね…」
いきなり部屋に全裸の男が居ては、流石に驚いたに違いない。ましてやかなり潔癖症な性格だ。
「すみませんでした、セルシェッタさん。私の指導不足でした」
それまで仕事をこなしていたオーギュはソファから腰を上げると、入口付近で立ち尽くしているままの彼女に謝罪の弁を述べた。
普段全裸は楽だとファブロスが言っていたのは分かっていたが、まさかそのままで自分の中に入り込んでいるとは思わなかった。
獣の性質上、素のままなのはごく自然な事だが、せめて人前に出る事を予測しておかなければならないとその都度説明はしていた。
しかし窮屈な服を着ておくより、やはり素裸の爽快感が勝るのだろう。
セルシェッタはオーギュと、彼の側で普通にソファに身を預ける銀髪の美丈夫を見た。そして自らの眼鏡の位置を直しながら「…いえ」と言葉を返す。
「私も大袈裟だったかもしれません」
いつもの調子を取り戻したのか、彼女はきっちりと頭を下げた。
「いや、決してそのような事は…私も驚きましたから、淑女を前にあってはならない行動でした。すみません」
オーギュは側に居るファブロスに「ほら、ファブロス」と促す。
「あなたからもご無礼を謝りなさい」
ファブロスは顔を上げ、渋々ソファから立ち上がると主人の隣に立った。均整の取れた大きな体付きの彼と細身のオーギュとでは、どちらが主なのか分からなくなりそうだ。
強靭な体を衣服で包んでいるものの、見る者に対して威圧感を与えてくる。
セルシェッタも人離れしたファブロスの外見に少し圧を受けているらしく、数歩引き気味に彼を見上げている模様。
『丸裸が気楽な性分なのでな。悪気は無かったのだ』
「全く謝ってませんね。謝りなさい」
謝罪というより自らの癖をただ話しているだけの発言に、オーギュは鮮やかに突っ込んだ。
『うむ。悪かった』
一連の話を聞いていたロシュは、太古からの召喚獣を容易く押さえ付けているオーギュがまるで猛獣使いのように見えてしまう。
ファブロスが相当オーギュに心酔しているのか、彼の言葉には絶対従う様子が見て取れた。思わず「ほう…」と吐息を漏らす。
「ファブロスは本当にオーギュに忠実ですねぇ」
『オーギュが悪いと言ったら私は黙って従うまでだ』
とにかく彼は主人であるオーギュには忠実らしい。
ロシュは「ある意味凄い主従関係ですね…」と感心した。それ程主人の言う事に間違いは無いと絶対的な信頼を寄せているのだろう。
大男と呼べる位の体躯の持ち主が、素直に謝罪をするのを目の当たりにしたセルシェッタは、あまりの意外性にぽかんとした顔をする。
ここまで大きく周囲を圧倒させる雰囲気を持つ者が、予想以上に正直に言われた事に従うのも奇妙に思えたのかもしれない。
『何だ、女』
「呼び方…」
ぶっきら棒なファブロスに言い方に、オーギュは脱力する。
セルシェッタはいつもの表情に戻ると、「いえ」と何でも無い様子を振る舞った。
「私の事はお気遣い不要です。いつものようにご用がありましたら何でもお申し付け下さい」
まだ働くつもりなのか。
気持ちは有難いが、何故こうまで働こうとするのだろう。
「セルシェッタ」
「はい、ロシュ様」
「お使いに頼まれた際に、向こうからこちらのお世話をする様にと言われましたか?」
ロシュの質問に、セルシェッタは軽く頭を傾けさせてから薄い唇を開いた。
「いいえ、特には」
「そうですか。お世話はあなたの独断という訳ですね」
「はい」
「次に、こちらに居る期間はどの位で…?勿論、こちらはいつまでも居て下さっても構いませんけれど向こうにはご両親も居ますでしょう?」
彼女が居る事によって特に困る事も無いが、流石に部屋に来る度に様々な世話をされると逆に悪い気がする。しかも異性の使用人となればやりにくい状況もあるはずだ。
現に自分の着替えだの何だのとかなりプライベートな事まで踏み込みがちなので、そればかりは遠慮して欲しい。
セルシェッタは長い睫毛を揺らし、伏し目がちで「ええ」と答える。
「旦那様からはご用が済み次第、休暇だと思って好きに過ごすようにと」
「休暇…」
どうやら、ラウド家当主からも休めと言われていたようだ。向こうでも彼女の働き過ぎる性質に困っているのかもしれない。
「全く休暇らしい行動をしているようには見えませんがねぇ」
オーギュは思わず心に思った事を口に出してしまう。
『休めと言っても聞かないなら、放っておいたらどうだ』
「お客様ですから…」
遠慮の無いファブロスに、ロシュはもっともらしい意見ですがねぇと苦笑した。昔から知っていたが、彼女は一つの場所では落ち着かない性質だったなと思い出す。
何かしら動いていた記憶しか無い。
それは仕事として完全に身についてしまった悪い癖のようにも思えた。
「セルシェッタ」
「はい、ロシュ様」
今の状況でも尚仕事をしようと動く彼女に、ロシュは声を掛けた。
「あまり大聖堂には立ち寄らない分、珍しい物もあるでしょう。仕事の手を止めて散策してらっしゃい」
「………」
埃取り用のモップを手にしたままの彼女は、冷静そのものの目線でロシュを見る。
「ここではあなたに仕事して欲しくありません」
「お言葉ですがロシュ様。私はずっとラウド家にお仕えしてきたという自負があります。場所がどこであろうとラウド家の為に全身全霊を込めてお仕えするつもりで」
大変嬉しく有難い言葉だったが、その場で黙って聞いていたオーギュは窮屈な感覚を覚えていた。
一体どう育ったらこんな性格になれるのだろうかと。
主人のうんざりしてきた様子を横目で見たファブロスは、彼の言いたい事を察したのか『疲れたな』とぼそりと呟いていた。
それでも一方のロシュは、根気強く彼女に接する姿勢を見せ続ける。
「お気持ちは嬉しいですよ、セルシェッタ。でもやめて下さい。私はね、あなたにお仕事ばかりさせたく無いのですよ。実家でもあなたが異常に働き過ぎるのを心配したのでしょうね。ここに居る期間は、私の言う事に従って貰います」
「…ロシュ様」
ここまで言われては流石に心に響いたのか、彼女は表情を曇らせると若干発言のニュアンスが変化した。
「それは、私が必要では無いと言う事ですか?」
「いえいえ、そんなつもりではありませんよ」
「私はお役に立ちたいと思っているだけで…!」
最後辺りの語気が徐々に弱まっていくのが分かると、同時にロシュは慌て始めた。
「落ち着きなさい、セルシェッタ!」
「ロシュ様は私が必要では無いと!」
次第におかしい方向に向かいつつある模様。
静観していたオーギュは顔を引き攣らせていた。流石に声を出すのが憚られ、ファブロスは心の中で主人に話しかける。
『(面倒臭い事になってきたぞ、オーギュ)』
「(何故こうも面倒な性質が出揃うんでしょう。あぁ、厄介なお方だ)」
ラウド家の面々も色んな意味で厄介な印象だったが、そこに居を構える使用人も似るのだろうか。
ロシュを前にセルシェッタは悲壮感たっぷりを装う。
「私達はあなた様にお仕えするのが使命だと思っています!それをするなと仰るんですか、ロシュ様!あんまりではないでしょうか!」
最初とはまるで人が変わったかのように訴える彼女を、ロシュは「落ち着きなさい!」と制止した。するとぴたっと嘆くのを止める。
またいつもの無表情を決め込むセルシェッタ。唇を真一文字に留め、目はすっと冷静そのものに変わる。
「と、止まるんだ…」
よく溢れ出た感情をぴたりと止められるな、とオーギュは思った。
『おかしな女だな。本当に人間なのか?機械でも入ってるのではないか?』
ここぞとばかりに辛辣な発言をする召喚獣。
そんな彼をオーギュはおよしなさいと嗜めた。
「…いくら何でも失礼ですよファブロス』
大半は無表情を決め込んでいる彼女だったが、多少は感情があるらしい。これを相手にするのも大変だろうなと内心ロシュに同情してしまった。
「…とにかく。あなたは仕事をし過ぎてご自分のプライベートな時間を作るのが下手なようなのでね。ここでは骨休めをして頂きたいのです」
「………」
同じような説明を繰り返している気がしてきた。
二人の会話を黙って聞いていたが、不意にファブロスは隆々とした腕を組みながら『手を抜くというのが出来ない女なのだろう』とぼやいた。
『むしろサボる事が上手い人間が近くに入ればいいのでは無いだろうか』
「彼女とは真逆な性質を持つ人間ですか?そんな人が…」
そう言いかけたオーギュは、不意に一人の男が頭に浮かぶ。
赤い髪の長身でガタイの良い該当者。意識が繋がっているファブロスも、主人とそれを共有し思わず咳払いをした。
そして二人同時に首を振る。
「いやいや、やめときましょう」
『そうか。いくら奴でもそこまでいい加減な人間でもあるまい』
「はは」
生真面目過ぎて堅苦しい性格のセルシェッタに対し、大雑把で雑な性質の彼をぶつけるのは流石に無茶苦茶過ぎる。
向こうは向こうで、忙しい筈。
こちらの面倒な事に巻き込む訳にはいかないのだ。
一方、城下街。
…っくしょぉおい!!という雄々しい叫びと共に、激しくくしゃみをするヴェスカ。
リシェは同時に嫌そうに顔を歪め、「何だお前!!」と怒鳴っていた。
「せめて手で押さえろ!!」
先輩に言う発言では無いが、リシェは反射的に怒っていた。
確かに怒って当然な行為だ。
「んあぁ…ごめん、悪かったよ」
「大人のくせに品が無いな!」
「誰かが俺の噂をしてる気がする」
ヴェスカは悪びれず、ぐしぐしと高い鼻を押さえながら呟いた。
「誰もお前の事など喋って無いだろう。気にし過ぎだ」
「いいや、誰か噂してるに違いないぞ。カッコいいとか頼り甲斐があるとか男前とか言ってるはず」
お花畑を脳内で展開させるヴェスカをスルーするように、リシェは黙って先を歩いていく。
「無視すんな!」
「お前に付き合っていると無駄に時間がかかる」
さっさとラントイエ地区への道を進むリシェの後を、待て待てと言いながら追うヴェスカ。
城下街の中心部から良く見える場所にある貴族の居住区は、一般居住区を一望出来る高台に存在していた。
大聖堂から見て右側に位置し、美しい木々に囲まれた屋敷群。まるでその存在を誇示するかのように目立つ区域。前回リシェが足を踏み入れた貧困層の居住区とは完全に真逆の層が生活する。
その地区へ繋がる坂道をゆっくり進みながら、遠ざかる一般居住区の景色を眺める。高台にある為にここから一望出来るアストレーゼンの街の景色は壮観なものだった。
城下街の様々な色合いだけでは無く、街の外の大自然も目に映り、いかに裕福層の人間が最高の環境で生活しているのかが伺える。彼らは毎日この景色を眺めているのかと。
左手には巨大なアストレーゼンの大聖堂が鎮座し、目にする度に襟を正したくなる。
「ここからの景色は素晴らしいな」
「んあ?」
あまりの景色の良さに足を止めてしまったリシェは思わずぽそりと呟く。
「ああ」
全体を一望出来る景色に目を向け、ヴェスカは同意するように頷いた。
「ここら辺は普段近付かないからな。滅多に見れるもんじゃない。特権階級の奴らのみに許された場所みたいなもんだ。あいつらはやけに高い所に家を建てたがるからな」
「見晴らしのいい場所を取りたい気持ちは分かる気がする」
「景色はめちゃくちゃ良いからな。ただ、高い場所に家があると何かしら不便な事もあるだろ。山にあるから野生の動物も出て来そうだし」
あぁ…とリシェは納得する。
ただこの辺りの住人ならば、頼めばすぐ対処して貰えそうだと思った。
「ほれ、さっさと進め。早く終わらせたいんだろ?」
「ああ」
促されて再びリシェは歩き出す。
途中、豪華な馬車が小気味の良い音を鳴らしながら煉瓦造りの坂道を登って行く。この付近の人々は徒歩で街に向かう事は少ないのだろう。
馬の蹄の遠ざかる音を聞いた後、ヴェスカはリシェに「あれだ」と声をかけた。
「あれが居住区への出入口。通った馬車が止まってるだろ?あの前に警備員が立ってる」
長い坂道にそろそろ嫌気が差していたリシェ。
「………」
ようやく坂道から解放されると安堵した様子で「あれか」と呟いた。黒い鉄柵に囲まれた住宅地とこちらを繋ぐ門の前で停止していた馬車は、ゆっくりと中に入って行くのが見える。
住人でも許可証が必要とは、何と面倒な場所なのかと思いながらリシェは門の前まで進んだ。
かっちりとした制服に身を包む中年の警備員は、近付いて来たリシェとヴェスカを見ると怪訝そうな顔を向けてくる。
「何だ、お前達は?ここはお前達のような子供が入れる場所なんかじゃないぞ」
「俺まで子供扱いかよ…」
確かに自分よりは年上の警備員らしいが、明らかに年下のリシェと同じにされるのはどうなのかと疑問を抱いてしまう。
彼はじろじろと二人を見定め、「遊びに来たのか?」と詰問してきた。
お遊びで見にやって来る者も居るのだろう。そう疑われても仕方無いかもしれない。
最初は来訪者に問いかける事が基本のようだ。
「大切な用件の為に来た。ちゃんと許可証も持っている」
リシェは胸ポケットからオーギュに貰った許可証を取り出すと、疑うような目を向けてくる警備員に広げた。
「俺達は大聖堂から来たんだ」
「………」
許可証に目を通す。これで普通に内部に入れるはず、とリシェは思っていた。
しかし相手は表情を変えずにリシェを見下ろすと、嫌味な様子を剥き出しにしながら本物だろうなと疑い始めた。
「な…!!これが偽物だと言うのか!」
「お前のような子供がアストレーゼンの大聖堂から来たとか信じられると思うか?大方それも偽物なのだろうが」
「ふざけるな、何なら身分証でも提示してやろうか!」
無礼な言い草に、リシェは激昂する。
そのやり取りを見ながら、ヴェスカは「あーあ」と苦笑した。やっぱりこういう事になっちゃうか、と。
「おっちゃん。俺ら大聖堂の宮廷剣士なの」
こう言えば理解してくれるだろう。
ヴェスカはリシェの頭を撫でて宥めながら説明する。すると彼は自分より大きなヴェスカを顰めっ面で見上げた。
「じゃあ身分証を見せろ」
「言われなくても見せてやる!」
怒りに任せながらリシェは自分の身分証を提示し、ヴェスカも同じく提示して見せた。
「身分証だって…?」
アストレーゼン大聖堂お墨付きの歴とした身分証明証を提示され、リシェとヴェスカのを見比べるが、いまいちピンとしない様子だ。リシェは怒りをおさえながらどうだ、と鼻を膨らませる。
「こいつと全く同じだろう!」
確かにまだ幼さの残るリシェが大聖堂の宮廷剣士だと説明されても信じ難いのは理解出来る。だがヴェスカと同じ身分証を持っていれば疑う事も無くなるはずである。
理解したらさっさと通して欲しい、と続けた。
まだ胡散臭そうな様子の警備員は、ヴェスカと交互に見比べた後身分証を返却する。
「まさか偽物じゃないだろうな?最近偽造する輩も増えているからな。念には念を入れろと言われている」
「まだ言うかぁ。…そんなに心配なら監視役として俺も一緒に中に入ってもいいんだぞ。元々こいつの方が中のお屋敷に用事があって、単に俺は着いてきただけだからな。こいつが中に居る間、俺は外で待ってるつもりだったし。それでも信用無いなら兵舎に該当する人間が居るかどうか確認しろって。アストレーゼン大聖堂宮廷剣士第二班班長、ヴェスカ=クレイル=アレイヤードって居るかって聞けばすぐ喋ってくれるぞ」
「お前、ある意味問題児だからな…」
他の班だと照合に時間を要するかもしれないが、ヴェスカの名前を出せば大概の人間は理解する。いい意味でも悪い意味でも目立つタイプなのですぐに所属していると返事をするだろう。
そこまで言われては仕方無いとばかりに、相手は渋々ながら理解する姿勢を見せる。
「宮廷剣士なら中で悪さなどしないとは思うが、一応何処のお宅に向かうのか聞いておこう」
「悪い事なんてするものか。司聖様のご実家のラウド家へのご用件だ。俺はロシュ様の護衛剣士でもある」
「…何?」
ロシュの名前に反応したのか、警備員はぴくりと眉を動かした。
「お前のようなガキが?」
「まだ疑うのか?そんなに信用が無いなら今度は大聖堂側に問い合わせて貰ってもいいんだぞ」
司聖ロシュの専属の護衛剣士はまだ年若い少年剣士だというのは知っていたが、ここで会うとは思いもしなかったらしい。何か言いたげにしながらも、彼は「分かったよ」とようやく豪奢な門の鍵を解除する。
ギギッと重い音を響かせながら「ここでまた難癖付けたら後が面倒だろう」と言った。
「その代わり、お前も保護者として付き添え。お互い監視の意味で通してやる」
何故か許可証の無いヴェスカも同行する条件を付け、中に通る事を許された。
まさか自分も入れるのかと思わず彼は口走る。
「え、俺までいいの?普通にこっちで待っててもいいんだけどな」
「宮廷剣士なら信用に値する立場だろう。どうせ中にも警備員はわんさか居るから目立った事はしないように心掛けろ」
最初から最後まで偉そうだ。
だが結果的に通してくれたので助かった、とリシェは思う。
「いいか。くれぐれもおかしげな事をしようと思うなよ」
「分かってるって、もう。どんだけ信用出来ねぇんだよ…」
「あからさまな子供に加えて、見た目の派手な人間じゃ疑わずにいられないだろうが」
見た目が派手だと、とヴェスカは眉を顰める。
「まさか俺の髪の事を言ってるのか…」
思いっきり自毛なんだけどな、とぶつくさと呟いた。こればかりは直そうにもどうしようもない。
「まぁいいか。さっさとこの嫌味な場所を出るぞ、リシェ」
リシェもまた妙に納得のいかない顔で中へ足を踏み入れた。
正門から内部に入ると、そこは今までとは違う別世界だ。足元の路面ですら一般道より違いを見せる。
美しい煉瓦造りで少しのズレも許せないと言わんばかりにきっちりと敷き詰められていた。馬車が通過する大通りは暖色系の舗装が施されていて、いかにも特別感を醸し出す。
遊歩道も相当な金額投資をしている為か、等間隔に整えられた植木が並び、一般とは格の違いを見せつけていた。
住居も大きく豪華な塀に囲まれた屋敷が立ち並んでいる。維持するのも大変そうだ。
リシェは勿論、ヴェスカも周囲を呆気に取られたような面持ちで見回す。
「うへぇ」
田舎者丸出しで心の声を漏らすヴェスカは、「何だこりゃぁ…」と圧倒されていた。
「初めて入ったけどさぁ…何だよこのお屋敷の数。凄げぇな…てか、こんだけデカくする必要なんてあるのか?」
「そんなの俺に聞かれても」
リシェはロシュから預かったラウド家への地図を広げる。
「ロシュ様の家もこの位大きいんだろうな」
「まぁ、司聖様のご実家だからなぁ…それなりに凄い豪華なんじゃねえの?知らんけど」
適当に物を言うんじゃない、とリシェは軽くヴェスカを突く。ただ、これだけ大きな屋敷ばかりなのだから全てが同じようにも思えてきた。
ラントイエ地区内の住民が散歩したり、家の庭木の様子を見ている姿も見られたが、その出立ちも一般とはかけ離れたように優雅な格好をしていた。
普段着なのだろうが、やはり何かが違って見える。
地図を確認した後、リシェは「こっちだ」とヴェスカに告げた。
「こういう機会なんてそうそう無いからな。ゆっくり美的センスでも磨いてやるか。何かの拍子に芸術の才能が目覚めるかもしれないし」
どうやら豪華な造形物を見てそれなりの肥やしにしたいと思っているようだ。
「屋敷を見て文字が上手になるなら誰も苦労しないと思うぞ」
文字の下手糞さに関しては最低最悪の評価を持つヴェスカに、リシェは正論を言って退けた。刺す所か巨大な鉄球を投げ付けられたような気持ちになるヴェスカは、リシェの小さな頭をがしっと鷲掴みにするとわしゃわしゃと掻き乱す。
「何をする!やめろ!!」
「お前は本当に可愛い顔して可愛くねぇなぁ!!」
二人のじゃれあいを見てなのか、散歩していた住人はこちらに気付き微笑ましい顔で通過していく。
「ああもう、いいから早く行くぞ!時間が勿体無い!」
大きな手を振り払い、乱された髪を直す。
「…んで!ここから近いのか、ロシュ様のお屋敷は?」
リシェは無言で地図をヴェスカに渡した。
「ふんふん。…この通りを真っ直ぐ行って…こうして、この道を曲がるのか。何というか、この地区ってさ、馬鹿みたいにデカい屋敷ばっかりだから逆に分かりやすいかもな。てか、むしろ俺らみたいな一般人だと普通の格好過ぎて怪しまれそうだ。さっさと用事済ませるか」
こちらは普通でもラントイエの高貴な住人には物珍しい姿で、悪目立ちしてしまう。現に通行人の数人は自分らの場違いな姿に眉を寄せ、訝しげな顔を向ける者も居た。
相容れぬ何かを感じるのだろう。
全てがそのような人間だけでは無いのは確かだが、あまりいい感じはしない。
風に揺れる街路樹の下を延々と進む。ちょうど暖かい日光から程良く木陰が遮り、心地良さを心身に感じた。
「良い具合に暖かい」
「そうだな。こういう場所が近くにあればなぁ」
すると対面方向から忙しない足音が聞こえてくる。軽やかな足取りからして、子供のようだ。
リシェとヴェスカは顔を上げ、その賑やかな足音がする方に注目していると、建物の影から元気の良い子犬の散歩をしている少年の姿が飛び出してきた。
「うあ」
それを見るなりリシェは顔を顰めっ面にし、やや後退する。
「お?」
ヴェスカも記憶にある少年に目を見開いた。相手側もこちらを見た瞬間、リードで繋いでいる子犬を止める。
「あっれえええ?何だ、何でここに居るんだよー!久し振りだなお前ら!!」
幼さの残る陽気な声に、リシェは顔を逸らしてしまう。
また面倒な奴が来た、と。
ヴェスカは近付いてきた少年に手を振りながら「おう!」と明るく声を張り上げた。
「久し振りじゃんか、ルイユ…だったよな?元気な方か」
「おう、相変わらずでけぇなヴェスカ!元気だった?」
完全に年上でも全く物怖じしない性格の双子の一人は、懐かしい二人組を見るなり無邪気な顔で言った。
「聞くまでもねぇだろ?お前も元気そうで良かった」
「俺は毎日こんなもんだぞー?」
ルイユはヴェスカの隣で顔を逸らしがちのリシェに目を向けると、連れていた子犬をリードで押さえながら「リシェー」と話しかける。
「…何だ」
「この犬の名前何ていうか知ってるかー?」
「知るか」
よいしょと犬を抱え、彼は満面の笑みで続ける。子犬は真っ白のふわふわした毛並みを持った愛くるしさがあった。
リシェはちらりと横目で見る。
「こないだ新しい家族として迎えたんだ。リシェって名前にしてやった!喜べ!!」
「…んっふ!!!」
それを聞いたヴェスカは思わず噴き出してしまった。
彼は相当リシェが気に入っているらしい。
「何で俺の名前にするんだ!!」
名前を使われた本人は冗談じゃないと言わんばかりにルイユに怒鳴る。だが彼はしれっとして笑顔を見せた。
「何か思いついた名前がそれだった!」
「嘘つけ!最初から決めてたんだろうが!」
「他の候補がしっくりこなかったんだよー」
「だからって何で俺の名前を飼い犬の名前にするんだ!」
全く悪びれず、だって言いやすかったしと膨れる。彼の腕の中の子犬のリシェは主人の胸元に顔をごろごろと擦り付けながら甘えていた。
ルイユはリシェに子犬を近付け、可愛いだろ?と同意を求める。
「可愛がってやれよ、同じリシェだろ?」
「名前どうにかならないのか…」
「もう決まっちゃったから無理!」
けろっとした顔で言って退けた。
完全に狙ってその名前にしたかった様子が見受けられる。恐らく、家庭内でも浸透しているのだろう。
「それにしてもさ、何でこっちに来たんだ?ここ、許可証が無いと入れなかったろ?」
リシェに子犬を手渡しながらルイユは不思議そうに問う。
必死に落とすまいと躍起になるリシェを見下ろしながら、ヴェスカは「ロシュ様のご実家に用があるんだよ、リシェが」と説明した。
「手紙を言付かってるんだ。俺はたまたま街で会って着いてきただけだけどな」
ほえー、とルイユは二人を交互に見た。
「案内してやろっか?地図を確認するよりは安心だろ?」
「いいのか?」
「俺はただリシェの散歩をしていただけだからな」
犬の名を呼んでいるのだが、やはり変な感じが拭えない。複雑そうな顔で抱き締めた子犬を見下ろしていた。
「何で俺の名前を付けちゃうんだ…」
溜息混じりに呟く。
「はー?そんなん、いつでもリシェと一緒に居られるからに決まってるだろ」
「俺はお前と一緒に居たくない」
はっきり断るリシェに対し、ルイユは「別に俺はお前と一緒に居なくていいもん」と突っぱねた。
「リシェと一緒なら寂しくねーし。なっ、リシェ!」
そう言って子犬に語りかける。
だんだん意味が分からなくなってきた…とヴェスカは苦笑いした。
「せめて少し名前を変えろ!!ややこしい!!」
第三者から見ても混乱するだろう。多少呼び方や名前を変えればそこまで違和感を感じないのに。
「やだよ、気に入ってるのに」
「余程リシェが好きなんだな、ルイユ」
無理矢理収めるしかなさそうだと判断したのか、ヴェスカはルイユの頭を撫でる。彼もまた「そうそう」と頷き、文句を言いたげなリシェに諦めろと言った。
「とりあえずさ」
ルイユは周辺を見回し、話を切り出す。
「案内してやるから行こう。この辺の大人達は上品さを押し付けてくるからな、あまりうるさくして変な目で見られそうだし」
ルイユもこのラントイエの住民ながら、周りの大人達に少なからず疑問を抱くのだろう。品位のある地域と自ら謳っている以上、不必要に騒ぎ立てる事は美徳としない様子だ。
道行く住民のこちらに向ける視線がそれを物語っている。
「…じゃ、お願いしよっか」
ヴェスカはルイユに告げると、彼は満面の笑みで「任せとけ!」と言った。
葉の擦れ合う音を耳にしながら、再び子犬のリシェを歩かせ前を進むルイユは意外な場所での再会に嬉しそうな様子だ。
「まさかここで会えるとはなー」
案内されるままに道を進んで行くと、やがてメイン街道から別の道へと入る。同時に通路も真っ白で綺麗な物に変化した。
そのままルイユは慣れたように白を基調としたタイルプレートの路面を悠々と進んで行く。逆に滅多にこの地域には足を踏み入れないリシェとヴェスカは、物珍しそうな様子で辺りを見回しながら後を追っていた。
「うっへ…家の塀ですら豪華だなこれ」
こりゃ警備員もフル活動する訳だ、と呟く。
住宅地に入れば入る程、警戒する彼らの姿があった。ルイユが居なければ、うんざりする程職務質問されていたかもしれない。
道端には有志が設置したのか、色鮮やかな花々が来訪する者達の目を奪う。上流層の彼らが果たして道端の花の手入れをしているのかは甚だ疑問だったが、鮮やかに咲き誇っている所を見れば丁寧に扱っているのだろう。
「ロシュ様のご実家は相当デカいんじゃねえの?」
悠々と前を進むルイユにヴェスカが問い掛ける。
彼は顔をこちらに軽く向けると、「そりゃそうだな!」と返した。
「ラウド家っていえばこの辺でも指に数える位の大貴族の家系だしな。しかも司聖様の実家ってなればもうね…」
「俺らからすれば、この辺の屋敷はみんなデカく見えるけどな…」
確かに、とリシェは思う。シャンクレイスの自分の実家もそれなりに大きかったが、ここまででは無かった気がした。
「かくれんぼには都合いいぞー?ならさ、俺の家でやってみるか?」
無邪気なルイユの申し出に、リシェは「いや、いい」と返した。
「人様の家を荒らす趣味は無い」
「つまんねー奴だなあ、リシェは」
「お前は自分の家だからいいだろうけど、誰でもそう思うぞ」
稀にガラガラと音を立てながら馬車が横を通過していく。
先程見た馬車と同じような華美な車体が日の光に反射して、一瞬強い輝きを見せた。
馬車が遠ざかるのを見送りつつ坂道を登り、こっちこっちとルイユは二人を誘導していく。
「ここの住宅街ってさぁ、あまり狭い道は無いんだよ。近道とかあればいいのになー」
大きな別の通りに言われるまま足を進めて行くと、片側が真っ白で長い外壁がひたすら続く道へと入り込んだ。
高い壁が威圧感を与えてくる。
「この壁、凄げぇだろ?」
ルイユはくるっと振り返り、得意気に笑った。
「中の庭も立派なもんだからな!手入れすんの面倒だろうなぁ」
「もしかしてここがロシュ様のご実家か?」
「そそ、正門はもうちょっと先…ん?どうしたんだ、リシェ?」
最愛のロシュの実家に近付く度にリシェの表情は緊張に張り詰めていた。普段でも日焼けしない肌なのに、更に輪を掛けたように蒼白になっている。
あまりの固まりっぷりに変に思ったのだろう。
「緊張し過ぎじゃねえか…大丈夫かよ」
「大丈夫に見えるか?粗相をしないように振る舞わないと」
「お前も一応いい所の坊ちゃんじゃねえか。こういう場所は俺よりも慣れてるだろ」
「立場が違う」
表情が暗くなっているリシェに、ルイユは「あっは!」と噴き出してしまった。
「仕方無ぇなー!俺が付き添ってやろっか?一応ロシュ様の家族とは顔見知りだし!」
「ほ…それがいい、リシェ。ルイユに甘えて付き添って貰うといい。そんな感じだと初対面の人とまともに話せないぞ」
だろ?とヴェスカの言葉に頷くと、ルイユはリシェの手を握った。
「まーったく、リシェは俺が居ないと駄目なんだからさー」
「駄目な訳じゃない!!」
ムッとしてリシェは彼の手を振り払おうとするが、しっかりと握られてしまい解く事が出来なかった。まるで勝ち誇ったかのようなルイユの表情は、仕方無いなと言うより役に立てる機会を逃すものかと言いたげだ。
その間にも、ロシュの実家の正門前まで辿り着く。
門扉前には両脇を固めるかのように専属の警備役が立っていて、不審な者が近寄らないように目を光らせている。
「うわぁ、さっすが司聖様の実家…家の前でも警備の手が届いてるんだな」
真っ白な外壁が続いていた先にある正門は、複雑な模様を描いた金の柵でしっかり閉じられている。何をやるにも豪華でなければならない決まりでもあるのかと言わんばかりに、その扉の奥の景色も豪華極まりない風景が広がっていた。
警備役の二人は、顔見知りのルイユの姿にそれまで固かった表情を緩める。
「お、坊主。散歩か?」
仮にも貴族の子息に対して言う声掛けでは無いが、ルイユは全く気にせずに「よう!」と元気良く挨拶をする。
「散歩の最中に客連れて来たぞ」
「客?」
二人の警備役はルイユと、その奥に居るリシェとヴェスカを見た。彼らはいつでも不審者を捕捉出来るように腰元に剣を模した警棒を装着し、胸元には家紋入りのプレートを身に付けている。
ラウド家のレベルまでいくと、警備する方にもお金を惜しみ無くかけているらしい。
「この方達は?」
「大聖堂からのお使いだよ。こっちはロシュ様の護衛役のリシェで、こっちの大きいのが宮廷剣士のヴェスカ!何でも手紙を言付かって来たんだってよ。だから通してくんないかなぁ」
リシェはロシュから預かった封書を警備役に見せた。
封書の裏にはラウド系の家紋の付いた封蝋が施されていて、紛れも無い正式な証にもなっていた。その家系の人間しか扱う事が出来ないものだからだ。
警備役はお互い目を合わせた後、ルイユを見下ろす。
「彼らは坊主の知り合いって事でいいんだな?」
「おうよ。ただリシェが緊張しまくってるからさ、俺が付き添っていいか?」
「別に構わないが、そっちの男はどうするんだ?」
警備の一人がヴェスカに目を向ける。
「俺?俺か?俺はリシェの付き添いのつもりで来たから、外で待ってるよ。どうせすぐ帰るだろうし、ロシュ様の許可を得て無いから入る訳にもいかねぇだろ?」
真っ当な発言に、警備役は「お、おう、そうか」と返した。
「じゃあ俺はここで待たせて貰おうかな。あぁ、安心していいぞ。ここで変な動きとかはしないからさ」
そう言いながら彼は真っ白な壁に背を預けながら笑う。
大聖堂に仕える剣士だからこそ、不安を煽るような行動は控えなければならないのは理解しているのだ。
そして目の前にあるのは司聖ロシュの実家となれば。
リシェは固まった表情のまま、ヴェスカに「行ってくる」と声を掛けた。
「おう、行って来い。くれぐれも変な行動はしてくれるなよ」
あまり説得力が無さ過ぎて、反射的にお前じゃあるまいしと不貞腐れたように文句を言った。
「リシェ、ほら。中に入るぞー」
警備役が門扉を開き、屋敷の敷地内へと数歩足を踏み入れた。リシェとルイユが中に入ると同時に門は再び閉められ、外部と遮断された。
不安げな顔でリシェは来た道を振り返ると、ヴェスカが手を振りながら「さっさと用事を済ませて来な」と笑顔を見せる。…緊張の真っ只中だったが、その能天気そうな笑顔に少しだけ救われた。
屋敷に真っ直ぐ通じる石畳が、やけに長い回廊のように見えた。
「ほらぁ、さっさと歩けよリシェー」
ルイユは慣れたように先に悠々と進んでいた。振り返り、なかなか足が進まないリシェを呆れた様子で促す。
「別に普通だぞ、ロシュ様の家族って」
「そうか?会った事が無いから、どんな感じなのか想像も付かないんだ…」
「むしろ、リシェを見たら気に入ってくれると思うけどなぁ。特にロシュ様のお母様とかさ」
「………」
気に入られたいと思わないが、むしろ逆に逆鱗に触れたりはしないだろうかとか変な粗相としてしまわないかと不安になる。
幼い頃は屋敷に閉じ込められていたようなものだったから、知り合いの家に単独で赴くという経験はほぼ無いようなものだ。
これが普通の一般家庭ならばこんなに緊張はしなかっただろう。今入ろうとしているのは大貴族の邸宅で、それもアストレーゼン内では雲の上の存在であるロシュの実家だ。
緊張しなくてもいいと言うには無理がある。
リシェは重い足を一旦止め、前を行くルイユに「ちょっと待て」と言った。
逆に軽やか過ぎる足を進めていた彼は、眉を寄せて何だよと振り返る。
「いつものお前らしくねぇなー」
「お前は慣れているだろうが、俺はしんどいんだ」
「何なら俺が代わりに手紙渡してやろうか?」
「…ダメだ。これは俺がロシュ様から頼まれた案件だ。お前に任せて自分は外で待っていたなんて知られたら恥ずかしいじゃないか」
うぅ、と胸を押さえながらリシェは言う。
「面倒臭っ」
ルイユはそう言うと、リシェの手を強引に掴んだ。あまりにも進もうとしなさすぎる相手に少し苛立ったようだ。
不安に彩られた赤い瞳を見ながら、彼はばっかじゃねえの、と吐き捨てる。
「俺が付いてやるんだから大丈夫だっての!いつもは先にさっさと進む性格のくせに、何ぐだぐだやってんだよ!」
「な…引っ張るな!!」
「引っ張ってやんなきゃお前いつまでたっても進まねぇだろ!ほら、歩け!!」
躊躇うリシェに痺れを切らし、ルイユは彼を引っ張りながら屋敷に近付いていった。
「この敷地内の庭園も凄げぇだろ?通路の両側に同じ位の大きさの噴水があってさぁ…庭木も両側同じ配列だしさ。この庭園の世話師だけで何十人居るって話だぞ」
ルイユが言う通り、内部の庭は完全に左右対称となった造りになっていた。若干違う場所もあるものの、パッと見た限りでは気にならない程度。
屋敷の主人の趣味なのか花専用の庭園もあり、その一帯は遠目から見ても非常に華やかだ。専属世話師の姿もあちこちに姿を見せる。
見慣れた場所ならばゆっくりと見る事が出来るだろうが、今のリシェにはそんな余裕など全く無かった。とにかく目先の物事を片付けなければという意識が先走っている。
逸る気持ちと、前に進みにくいという気持ちがごちゃごちゃになっていた。
「リーシェー」
表情に出ているのか、ルイユはリシェに声を掛ける。
「な、何」
「顔引き攣ってるぞ」
「仕方無いだろ…」
「そこまで固まる必要なんて無いって。もうちょいで屋敷に嫌でも入るんだからさー。結構気さくな人ばっかだからそんなに悲観的になる必要も無いぞ」
何度も言い聞かせるように説明するが、やはり根が真面目な性質なのか気楽な気持ちになれないようだ。
そう言う間にも、二人は屋敷の扉の前まで立つ。
「さーて、入るかー」
金色に縁取られた重厚な茶色い扉にくっついていたトナカイモチーフのノッカーにルイユの手が伸びた。
するとリシェは「待て!」と彼を静止させてしまった。
この後に及んでまだ何かあるのかとルイユは眉を顰める。
「何だよ?」
「ま、待ってくれ…心の準備、が」
いつものリシェらしくない様子に嫌気が差したのか、彼は「うるせえ!」と言いながらノッカーで扉を叩く。
流石に面倒になったらしい。
あわわ、と慌てるリシェ。普段の冷静な彼の顔はどこへ向かったのか、ルイユには珍しさを感じずにはいられなかった。
「仕事だと思えば大丈夫だろ!お前じゃなくてヴェスカに頼めば良かったんじゃねえのか?ロシュ様の護衛剣士なら護衛剣士らしくしっかりしろっての、鬱陶しい!」
…ごもっともな意見だ。リシェは観念したように頭を下げ、中の屋敷の使いを待つ。
任務だと割り切ればどうにか切り抜けられるはずだ、と頭の中で整理していると、分厚い扉の奥から早足で駆けて来る音が聞こえて来た。
重苦しい開閉音と共に、メイド姿の若い女が隙間から姿を見せる。
「よう!お客さん連れてきたぞ!」
ここでもルイユは慣れたように挨拶をした。
「アイリアおば様は?」
「奥様ですか?少々お待ち下さい」
ロシュの母親の名前なのだろう。初めて耳にする最愛の相手の母の名を、リシェは頭の中で記憶させる。
心臓の鼓動が激しく体内で鳴り響く中、メイドが屋敷の奥へと引っ込んで行った。
「な?大丈夫だろ?」
どうだと言わんばかりのルイユだったが、リシェは緊張で喉が渇いて返す言葉も失っている。恐らく今、顔面も蒼白なのだろう。
「何が大丈夫なんだ」
胸元を押さえ、リシェは恨みがましくルイユに吐き捨てる。
「うは…珍しい顔してるなぁ。いつも自信満々な顔してるくせにぃ。やっぱりロシュ様の実家だからかな」
「………」
屋敷の中はこの玄関先でも窺い知る事が出来る程豪奢な内装だった。だがごてごてと調度品の飾り付けは無く、比較的控えめに見える。
リシェの実家の屋敷は無駄に彫刻だの額縁の絵画だのが必ず視界の先にあった為か、特別階級の人間の住居に関してはそんなイメージが先行していた。
床は深みのある赤色の絨毯が敷き詰められ、常に手入れを施されているのか光の加減で所々に艶が目につく。ここを土足で上がる事に躊躇いを感じる位に美しい。
屋敷内の隅から隅、床から天井の梁に至るまで様々な幾何学模様の掘り込みが施され、この家を建てるに当たっての相当な気の入れようを感じた。
「あらまぁ、ルイユちゃんじゃないの!どうしたの、お客様を連れてきたって聞いたけど…」
建物の荘厳さと比べ、不似合いな程の明るい声が飛んで来た。リシェはぴくりと身を反応させる。
ルイユは「こんにちは、おば様!」と手を上げると隣に居るリシェの背中を軽く押した。
「あら?その方は?お友達?」
同年代なので友達と思われているのだろう。目の前のクリーム色のドレスを着た女性はリシェに顔を向け、優しそうな瞳で笑みを称える。
その笑みはロシュと完全に一致していた。
「うん、友達!っていうか、ロシュ様繋がりなんだけど」
リシェは深く頭を下げると、スッと片膝を突く。
「お初にお目に掛かります。リシェ=エルシュ=ウィンダートと申します。ロシュ様の専属護衛剣士を仰せつかっております」
緊張しつつも、一言一言丁寧に自己紹介をした。
「この度は主人のロシュ様より預かった書状をお届けに参りました」
「あら…あらあら…!!まぁまぁ!」
跪き頭を下げる小さな剣士に、彼女は歓声じみた声を上げる。ふわりとフローラルな香りを撒き散らし、彼の目線に軽く合わせるように屈むと「顔を上げてちょうだい」と優しく話しかける。
緊張した面持ちのリシェは、言われるまま顔を上げると思わず息を飲んだ。
目の前にロシュに良く似た女性の顔が飛び込んでくる。
「あぁ…この子なのね、ロシュが言っていた護衛の子って…何て、何て」
「は…」
リシェの顔を優しく両手で包み込む。心なしかカタカタとその手が震えているような気がした。
一瞬、リシェは何か気に入らない事でもしたのだろうかと不安に襲われた。だが、次の瞬間。
「何て可愛らしい子なんでしょう!!」
まるで愛玩動物を見るかの如く、彼女は感激し叫んでいた。
「!?」
「さらさらした黒い髪に大きな赤い目…まるで童話の王子様みたいな格好!しかもこんなに華奢だなんて!素敵よ、素敵!!あぁ、ロシュったら毎日毎日この子を愛でているの!?ずるいわずるいわ!!」
あの息子にこの母親有りと言わんばかりの分かりやすい反応に、ルイユは苦笑混じりにリシェに告げる。どうよ?と。
「な?だからそんなに緊張しなくても大丈夫だって言ったろ?」
「は…あ、あの…??」
「可愛いぃいいい!!」
予想しなかった相手の反応に戸惑うリシェは、ロシュの母親のアイリアによって人形ばりにぎゅうっと抱き付かれていた。
…その一方で、リシェの帰りを待つヴェスカは、門前の警備役と一緒に談笑に夢中になっていた。
彼らは宮廷剣士の仕事に興味があったらしく、所属している彼に任務や業務の内容を聞いていた。
「怪我もするんだろ?」
「そりゃぁ…だけどそれを避けるように教えられてるからな。出来るだけしないようにしてるなぁ。大怪我は運が無いって腹を括らないとやっていけないよ」
そりゃそうだな、と警備役は周囲を警戒しながら言った。
談笑時でも、常に屋敷外の警戒は怠らないようにしているようだ。
「あんたらも毎日ここの警戒で飽きねぇの?」
常に同じ景色ばかり眺め続けるのも苦痛だろう。いくら仕事とはいえキツいと思える。
ヴェスカの質問に、彼らはお互い顔を見合わせて「そうだな」と答えた。
「ラントイエ地区は警備の目も行き届いてるから平和そのものだしな…ただ稀にかい潜って変なのが来るんだよ。そういうのに限ってすばしっこいんだよな。だから念には念を入れてって訳。ラウド家に関しては余計警戒を強める理由があるんだよ、何しろ司聖様の実家だからな」
「ロシュ様の実家だと何かある訳?」
「そりゃ、入り込まれて盗難は勿論、中の人らに危害を与えられたら大変だろ?最悪、人質に取られたら大問題だしな」
あぁ、と納得する。
アストレーゼンの象徴となれば、本人だけではなく血縁者も守られなければならないのだ。こちらに何かあってはロシュも動かざるを得なくなる。
それは自身を無防備に晒す事と同じになるのだ。
ただ、これだけ屋敷の内外に警備役を敷けるなら、侵入者といえど決して無傷では帰れないだろう。
「気の張る仕事だなぁ。…いつ何が起こるか知れたもんじゃないじゃん。ま、その分給料は貰ってんだろ?」
「はは、まぁ…他よりは待遇は良いと思うぞ、他と比べたらな。大聖堂関係の身内の実家の警備の仕事は就職の競争率高いけど、離職率が低いからな。一旦就いたら意地でも離したく無い奴が多い。中にはケチな貴族も居るけど、街の警備よりは羽振りは良い方だ」
そっかあ、とヴェスカは空を見上げる。
大聖堂関係、となればこの近辺にもオーギュの実家があるという事だ。ロシュと幼馴染と言っていたから、家同士顔見知りなのかもしれない。
「司聖補佐様の実家も近くにあるのか?」
それとなく話題に突っ込んでみた。この近辺に詳しいなら、当然オーギュの家の場所も把握しているに違いないと思ったのだ。
すると彼らは表情をやや暗くすると、「まあな」とやけに意味ありげに答えた。
「あの家はラウド家と比べると変わってるからな。大らかな性質の貴族も居れば、そうじゃないのもある」
「………」
「あまり良い印象は無いぞ。司聖補佐役は確か三男坊だよな。あの息子は見る限り親にあまり似てないよな。ロシュ様の補佐をやる程、相当優秀なんだろうけど」
そうなのか?とヴェスカは首を傾げる。
オーギュはあまり家族の事は口にしないので良く分からないのだ。良い印象が無い、と第三者から言われる位酷いのだろうか。
「あくまで噂だけどな」
「?」
「旦那様は三男坊をインザーク家の人間だと認めてないって噂だ」
「へ…?何で?」
小声で耳打ちされると同時に、もう一人の警備役が「おい!」と仲間を小突く。
「噂をすりゃ、ほれ。日課のお散歩中だ」
ヴェスカも顔を上げ、顎で軽く指し示された方に目を向けた。
馬車用の大きな道を挟んだ向こう側の歩道で、日傘を差しながらゆっくり歩く数人の貴婦人の集団。いずれも色とりどりの華やかなドレスを身に纏い、煌びやかな雰囲気を撒きながら闊歩している。
しかし誰を見ても似通った格好で、該当する貴婦人の特定が難しかった。
「どの貴婦人なのかさっぱり分からんわ」
ヴェスカはどれも同じに見える。
一般人にとって、貴族階級の人間は平等に高い場所に居る人間としか認識が無いのだ。
「真ん中の黒いレースの付いてる傘の貴婦人。あれが司聖補佐様の母親だよ」
具体的なヒントを与えられたヴェスカは目を凝らし、その黒い日傘の貴婦人に目を向けた。周囲の貴婦人と比べると、その女性は一際目立つ立ち位置に居るらしく話題の中心人物のように見受けられる。
他の婦人に周りを囲まれながら微笑ましく談笑する様子は、さながら取り巻きを引き連れ駄弁っている印象を受けた。
黒く美しい髪を後ろにきっちりと纏め、シャープ感のあるほっそりした目元は心なしかオーギュに似ている気がする。
色気のある薄い唇も似た雰囲気があった。
だが、軽薄そうに見えてしまう。何故なのか分からないが。
「あぁ」
思わずヴェスカは呟く。
「雰囲気はそうだな、似てるわオーギュ様に」
黒い髪と切れ長の目元。それに薄い唇。
彼が女性ならこういう感じなのかもしれない。
「取り巻きの貴婦人といい、あまり良い話は聞かねぇよ。あれはこの界隈でも見栄っ張りな連中で、身分の低い人間に関しては割と当たりがキツいって話だ」
「…そうなのか?」
「警備の仕事してりゃ、あちこちの家庭の事情は良く回って来るんだよ。インザーク家はその中でもズバ抜けて評価が低いぞ?三男坊のオーギュスティン様は、逃げて正解だって言われる位だ。奥方はキツいし、長男次男は奥方の腰巾着みたいな感じだしな」
控えめで上品な笑い声が聞こえる。遠目で貴婦人達の散歩を見送るながら、ヴェスカはへぇ…と興味深そうに頷いた。
「オーギュスティン様と面識あるみたいだけど、何か聞いてないのか?」
「いや、別に…あまり家族の話はしたがらなそうだし。こういうのって無理に聞くもんじゃねえだろ」
彼から聞く限りでは、特に話す必要も無いと思っているのだろう。だからこちらも聞かないし、聞こうとも思わない。
遠ざかる貴婦人の集団を見届けながら、警備役はふうっと一息吐いた。
「…今回はこっちを見向きもしなかったな」
「?」
「あの奥様方はさっきも言った通り、身分の低い人間の扱いが酷いからな。扇子で口元を隠しながら嘲笑するなんてお手の物だぞ?変な奴の周りには変なのしか寄って来ないって本当なんだってのが良く分かるよ」
ご機嫌で去ってくれて良かったよと吐き捨てた。
もう一人の警備役は全くだなと苦笑いする。
関係の無い人間にそこまで言われるというのも凄い気がする。余程悪評が広まっているのだろう。
息子であるオーギュ個人の評判は相当高いのに、非常に勿体無いと思った。
「そんなに凄いのか…」
「まぁ、貴族様っていっても色々居るからな。ああいうのだけじゃないぞ。現にうちの方は堅苦しそうに見えても結構大らかだから」
ラウド家の印象は彼らから聞く以前に、ロシュ本人を見ていれば良く分かる。相当恵まれた環境で生きてきたのだろうと。自分も波風の立たない環境だったから、共通する何かを感じ取れるのだ。
彼には特有の影が全く無い。
「オーギュ様はめちゃくちゃいい人なんだけどなぁ」
「あの家からさっさと離れて世間に揉まれてるからな。ずっとあの環境に浸かるより余程人間らしい生活をしてるだろうさ。その面でも、オーギュスティン様は賢いってもんだ」
司聖補佐のオーギュに対しては同情を込めた言い方をする。
そして、もう一人の若い警備役も続けた。
「貴族様ってのは意外と世間知らずなんだよ。ずっと恵まれた世界で生きてるようなもんだから、外部の事に関しては相当疎い。外に出たとしても、精々金持ち御用達の店か大聖堂位なもんだ。大聖堂にしても、それなりの持てなしをされるだろ?だからチヤホヤされる事が当然だと思ってるんだよ。仮に無人島に放り出されたら、絶対に生き延びれない。自力でどうにかするっていう意識なんざカケラも無い人種だからな」
民間の出身だけあり、警備役にも壁を隔てた向こう側の人間に対して思う事があるのだろう。
「世間知らずかぁ…」
ヴェスカはそう言い、華やかな屋敷が立ち並ぶラントイエ地区を見回していた。
屋敷の奥に通されたリシェとルイユは、上機嫌なアイリアに丁重に持てなしを受けていた。来客用のリビングに通され、温かい紅茶や手作りケーキを振る舞われ、完全に彼女のペースに飲まれ続ける。
ルイユは慣れているのでいつも通りに遠慮無く食べていたが、完全に初めてのリシェはなかなか進まない様子。
「あら、お口に合わないかしら?」
心配そうにアイリアはリシェに問う。
「い、いえ…」
お茶をしに来た訳では無かったリシェ。
「リシェ、ここに来るのめちゃくちゃ緊張してたからな」
「緊張するなって言われても無理がある」
目の前にあるフルーツてんこ盛りのタルトを眺めたまま手を止めるリシェ。甘い物が好きな彼にとっては最高のおやつなのだが、何よりも緊張し過ぎて食指が伸びないままだ。
「お前が食わないなら俺が食うぞ?」
「い、頂くよ…」
折角出してくれたのに全く手を付けないのは失礼になる。
「嬉しいわ。苦手だったらどうしようって思ったのよ」
両手をぽんと叩き、安心したようにアイリアは微笑んだ。
「おじ様は?」
「今、お仕事でシャンクレイスに行ってるのよ。残念だわ、ロシュの可愛らしい王子様が来てくれたのにねぇ」
「へぇ、忙しいんだなー」
ひたすらタルトを頬張るルイユは、未だにガチガチになったままのリシェをちらりと見遣ると「そうそう」と続ける。
「リシェ、シャンクレイス出身なんだ」
「まあ!向こうの人はあまり日焼けしない肌質だって聞いたけど、確かに色白で綺麗な肌をしているわね…!羨ましいわ…!」
リシェを見る度にソワソワしがちなアイリア。相当気に入った様子だった。一方で、リシェは早く用を済ませないとと内心焦り始める。
丁寧な持てなしは有り難いが、外でヴェスカも待っているのだ。彼の事を思い出したリシェは、アイリアに「あの」と声をかける。
「あら、どうしたの?」
「今日こちらに来たのはロシュ様から手紙を預かって来たからなのです」
席から立ち上がり、胸ポケットから預かって来た封筒を彼女に差し出す。やっと話を切り出す事が出来た、と内心安堵した。
完全に相手側のペースに飲まれていたのだ。
アイリアはあらっ、と少女のような可憐な声を上げた後、リシェからその手紙を受け取るとすぐに開封した。
手紙の中はリシェも見ていないが、この家の使用人であるセルシェッタの件についてしたためられているのは分かっている。
いつまで大聖堂に滞在させて良いのか、と。
本人の意思を尊重したい。しかし彼女が大聖堂に居続けたい希望があるにしろ、ラウド家がそれを容認しなければ彼女を動かす事が出来ないのだ。
「どうやらセルシェッタは大聖堂が気に入ったようねぇ」
んふふ、とにこやかに微笑んだ。
「は、はあ…」
「あの子はずっとラウド家に小さい頃から仕えて来たから、あまり世間の事を知らないの。だから無理矢理休暇を与えるつもりで大聖堂のロシュの元に荷物を送り届けさせて、少し向こうで骨休めをなさいって言ったのだけど…」
「休暇をさせるつもりだったのですか?」
全く止まる事無く仕事をしていたセルシェッタの姿を思い出す。どう見ても仕事をしに来たのでは無いかと思っていたリシェはそう問いかけると、彼女は驚いた表情を見せた。
意外そうに。
「え?」
「むしろこちらでも止まる事無く働いているのです」
その言葉に、アイリアは呆気に取られていた。
「そんな」
「ロシュ様が手紙にも書かれていると思いますが、あのお方は大聖堂のロシュ様のお部屋でもずっとお掃除をしてくれているのです…オーギュ様がお客様にそのような事はさせたくないと止めているにも関わらず、頑として仕事の手を止めようともしてくれません…」
困ったようにリシェは訴えた。実際、客人の立場にも関わらず日常の癖をこちらでも発揮されても困惑してしまうのだ。
一種の職業病なのかもしれない。
仕事をしないと気が済まないという何らかの使命感か、もしくは恐怖心なのか分からないが、とにかく作業という意識が全身に染み付いているのだろう。
今の現状を知ったアイリアは途端に悲しげな顔を見せた。
「はぁ…予想はしていたんだけど…どうしてもそうなってしまうのね…あの子は…」
落胆し、彼女は肩を落とした。
「大聖堂にあの堅物女が来てたんだ?」
ルイユも顔見知りのようだ。堅物女と言って退ける辺り、いかに知り尽くしているのかが分かる。
「あいつ、この屋敷しか他の事知らなさそうだしなぁ。前にスカート捲りした事あったけど、思いっきり無表情でぶん殴られた記憶があるわ。あいつ相当鍛えてるんだな、めちゃくちゃ痛かった」
けろっとした顔で言ってのけるルイユに、リシェは冷たい目線を投げる。それは殴られて当たり前だと。
「困ったわ、あの子ったらずっとロシュが好きだったのね」
困り果てたアイリアの言葉に、リシェは「え」と返した。
「す、好き???…って。え?」
「ええ、ええ。セルシェッタは産まれた時からずっとこの家に居たから。あの子の親同様、私も同じ目線であの子を見てきたのよ…幼い頃からずっと一緒に居るようなものだから、そんな気持ちになっていくのも無理は無いと思ってたのだけど」
「そ、そんな」
リシェは愕然とする。
まさか大聖堂に来てからの彼女の度重なる甲斐がしい行動は、ロシュへの愛情の為せる行動なのかと。
「あら、どうしたのリシェ君?」
「あ、あの…」
「?」
「奥様はずっとそれを知っていたのですか?」
余計食事の手が止まってしまうリシェの横で、ルイユは元気に彼のタルトに乗っている苺の欠片をひょいとフォークで突き自分の口に放り込む。
ロシュの事で頭がいっぱいのリシェは全く気付かないままだ。
「うんめぇ」
もぐもぐと咀嚼しながらリシェを見る。
「知っているも何も。小さい頃から見てきたもの。あの子はこの屋敷内の事が全てだったから、他を良く知らないのよ。成長する度にだんだん分かってくるのもあるわね」
「は…」
「お手紙にはセルシェッタの事について書かれてるけど…」
そこでようやく一番聞きたい話題が出て来た。リシェはハッと我に返ってアイリアの顔を見る。
「そ、そうだった…あの、どうしたらいいのでしょうか。お客様に作業をさせる訳にもいかないのです。止めて下さいって訴えても拒否されてしまいます」
延々と司聖の塔の中で仕事の延長をされては、自分の立場が無くなってしまう。作業を止めて、客人らしく振る舞ってくれればまだマシなのだ。
あのオーギュですら匙を投げる位、彼女は仕事の鬼のようになっている。
アイリアはリシェの訴えに、腕を組みながら「困ったわねぇ」と呟く。眉の寄せ具合も、困惑した顔もロシュにそっくりだ。
「休暇を与えたつもりなんだけど、そっちに行っても同じだとは思わなかったから…」
「俺はロシュ様のお世話係も兼ねているのです。ですから本当に困惑しています」
「あら…」
しょげたようにリシェは肩を落とす。
「こんな可愛い子がロシュのお世話をしてくれているなんて…それは申し訳無い事をしてしまったわ。ごめんなさいね…どうしましょう、休暇を与えた手前戻って来いとも言いにくいわ」
遂にはリシェのタルト本体にまで手を伸ばしてくるルイユは、「他の男でも当てりゃいいんじゃね」と非常に下品な事を言い出してくる。
あまりの品の無さに、リシェは「は?」と眉間に皺を寄せた。
「だってさ、あいつロシュ様しか知らないんだろ?なら別のタイプの奴と顔見知りさせたらいいじゃん。何も男ってロシュ様だけじゃねーんだからさ。他の奴を見て、あの堅物女の視野を広げりゃいいんだよ」
「そんなめちゃくちゃな…他って、オーギュ様とか?」
全く見当も付かない。
ロシュの周りでは彼やファブロスが一番近いが、流石に人化は出来るものの召喚獣は無いだろう。
「オーギュじゃ務まらないって。だってロシュ様と同じ系統だからな。他に居るじゃん、インパクトのある奴がさぁ」
「大聖堂の人間は比較的大人しいタイプしか居ないと思うぞ。誰が居るんだ、別のタイプって」
メイド服の使用人から熱い紅茶のお代わりを貰い、ずずっと啜るルイユは「馬鹿だなぁ」と返した。
「居るじゃん、女慣れしたスケベな奴が」
「だから誰だよ?」
「まだ分かんねえの?さっきまで一緒に居たのによ」
…そこでようやくリシェはハッと該当する人物が居る事に気が付いた。
豪邸の前でひたすら待っていたヴェスカは、やっと姿を見せた仲間の姿を見て安心したように「やっと戻って来たか!」と嬉しそうな声を上げて手を振る。
手土産を持たされて戻って来たリシェは、ヴェスカに待たせたなと告げると「ヴェスカ」と話を切り出した。
正門の扉が再び閉じる音を周囲に響く中、彼は自らの上官に向けて口を開く。
「お前、司聖の塔に来い」
いきなり内容も言わず結論だけ話し始めるリシェ。
説明無しの発言に、流石にルイユも呆れた。
「端折り過ぎだろ…どんだけ口下手なんだよお前」
一方のヴェスカも突然大聖堂の司聖の塔に来いと言われて困惑の色を見せた。
「ええ…おい、何言ってんだお前?俺みたいなのが許可も無く塔まで行ける訳無いだろ…」
いくら顔見知りでも自分は一般人だ。流石にロシュの部屋に行くのは抵抗があった。
段階を踏まえなければ入る事は不可能だろう。
「俺がロシュ様とオーギュ様に話を付けるから。その間お前は中庭で待っててくれればいい」
「俺もそっちに行きたいけどクラウスが許してくれないだろうしなぁ。リシェも居るし。いいなぁ、遊びに行きてー」
ルイユは寂しそうにそう言いながら、愛犬のリシェを抱き締め顔を埋めた。真っ白でふわふわした毛並みの子犬は、きゅうと可愛らしい声を上げて飼い主を見上げている。
やはり紛らわしいとリシェは彼の言葉に思わず眉を寄せた。
ヴェスカは「うーん」と唸る。
「何で俺がいきなりロシュ様の塔に行かなきゃいけない訳?」
「あぁ」
端折り過ぎてしまったので事情を説明するのを忘れていた。
「今から事情を説明してやる」
「んん?俺じゃないといけない何かがあるの?」
自分が一体何の役に立つのか分からない様子で若干不安がるヴェスカに、ルイユは「そうそう」と笑った。
「お前の天性の才能を見越して頼みたい事があるんだって」
にこやかに持ち上げてくる彼に、悪い気がしない様子のヴェスカは何だよ?と少し期待して問う。そこまで言ってくれるならば喜んで協力してやるぞと彼は上機嫌になった。
「絶対適役だと思うぞ、ヴェスカ。これはお前にしか出来ない仕事だ」
「マジか。俺にしか出来ない事って何だよ?人助けか?仕方無ぇなぁ。ま。俺にしか出来ない事なら喜んでやってやるぞ。…で、何だよ?」
自分とは遥かに背の高い相手を見上げたままでルイユは続ける。無邪気な笑顔込みで。
「見るからにコマシとスケベ根性の才能を見越して頼みたいんだってさ!」
「………」
「そういう事だ、ヴェスカ」
「どういう事だよ!?」
立てるだけ立てておいて結局落としてくる。この二人は自分をそういう目線で見ていたのかとガッカリした。
もっと別の見方もあるだろうに。
「そういう事だ」
ルイユの発言に乗っかるかの如くリシェは冷静に告げる。
少年達の決して褒め言葉になっていない言い方に、ヴェスカは唖然とした表情を浮かべてしまった。
数時間後。
リシェは許可を得た後、ヴェスカを連れて司聖の塔へ戻っていた。
初めて見るロシュの私室に、口を開けて呆けた顔のまま「広っ」と初見の感想を述べる。ある程度見回した後、室内に居るオーギュの姿に思わず表情が綻んでいた。
「オーギュ様、久し振りだな!俺が居なくて寂しくなかったか?相変わらず冷めた顔してるって事は寂しかったんじゃねえの?」
隙あらばくっついてこようとする大男に対し、オーギュは面倒そうにあしらいながら「いいえ」と返した。
「私は至っていつも通りですよ。…抱き着くな!」
密着しようとする巨体に腕を押しやり、オーギュは鬱陶しそうにロシュ様の御前ですよと呆れる。
「素直じゃねえなぁ!」
「ふふ、いつも通りで元気そうですねヴェスカ」
いつもと変わり無い笑顔のロシュに対し、ヴェスカは頭を下げ「お久しぶりです」と挨拶をする。
「リシェからお話は聞きましたか?」
「はあ、まぁ…」
それまでリシェやルイユに散々お前が適任だと褒められていた彼は、複雑な気持ちのまま苦笑いをする。
別に自分は女たらしでも何でもないのだが、ここまで向いていると言われると実は自分が知らないだけで、実は周りの目からはそんな風に見えてしまうのだろうかと疑心暗鬼に陥りそうになっていた。何気なくオーギュに目を向けると、依然として無表情のまま。
毎度のように冷静極まりない。
「…オーギュ様」
「何ですか?」
「まさかオーギュ様も俺がスケベで女たらしとか思ってます?」
「……」
彼は眉を若干寄せながら何の話ですかとはぐらかす。真顔でスルーするのはお手の物だろうから、きっとそう思っているのだろう。
一連の話は彼も聞いているはずなのだ。ヴェスカは溜息を吐く。
「まぁいいや…例のメイドさんって今何処に行ってるんですか?」
ある程度の内容を聞いていたので、改めて説明は要らない。
ヴェスカはロシュにそう問いかけると、彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
「今大聖堂の中を散策して貰っていますよ。延々とお部屋のお掃除をさせる訳にもいきませんから。セルシェッタが戻って来たら、そうですね…色んな場所のご案内をして欲しいのです。あの人、私の家以外の事を良く知らないので。普通にご案内だけで構いません。屋敷の中以外の世界も知って欲しいのです」
「案内程度なら別にいいんだけど…それは別に俺じゃなくてもいいのでは?」
これだけ人数が居るのに、誰も案内出来る人間が居ないのもおかしい。
素直な意見を漏らすと、ロシュはこくんと頷く。
「確かにそうですねぇ。そうなんですが、ゆっくりご案内出来る時間があまり持てなくて。オーギュが組み立ててくれたスケジュールを崩す訳にもいかないのです…」
ロシュとオーギュは基本多忙の身だ。それはよく熟知しているが、彼らの隣に居るリシェでもいいのではと小さな護衛剣士に目を向けた。
こっちだって、完全に面識の無い人間に対してすぐに道案内出来る程の器用さは持ち合わせていない。せめて仲間が一人欲しかった。でないと話も続かない。
「んじゃリシェも一緒でもいいですか?やっぱり初対面の相手をするのは俺一人だと心細いし」
ここで引っ張り出してくるのかと名指しされたリシェは驚いて顔を上げた。
反論する合間も無く、ロシュはふ…と微笑むと「ええ、ええ」と快く許可する。
「勿論構いませんよ。リシェ、お願いできますか?」
「うぅ」
あのセルシェッタの相手も自分もしなければならないのかとげんなりしつつ、主人であるロシュの命令には絶対のリシェは「分かりました…」と応じた。
案内するのは一向に構わないが、果たして彼女は自分達に従ってくれるのだろうか。
少し関わった程度だが、オーギュの申し出ですら拒否した位頑ななタイプなのに。
「あぁ、良かった。ならいけるかな」
「…何で俺を巻き込むんだ…」
ロシュ達に聞かれないレベルの小声でリシェは恨みがましくヴェスカに訴える。
まさかの飛び火に気持ちが追い付かない。
「アホ抜かせ、俺だって初対面の女とすんなり話を合わせられる要領なんて持ち合わせて無いんだぞ。二人きりなんて御免だ。お前だって困るだろ」
知らない女達に声を掛けられる度に満面の笑みで喜ぶくせに、と舌打ちする。
ヴェスカは理想的な体格と持ち前の愛想の良さで、度々大聖堂や城下の顔見知りの女達に寄り付かれやすい。リシェはそれを良く知っていた。
言葉の悪いルイユが言っていたように、女たらしの才能は存分に備わっている。同性の自分から見ても、女性受けすると思った。
がっしりしている体格にも関わらず逆三角形に引き締まっていて、剣士になる為に生まれてきたような羨ましい体格。そして誰に対しても平等に接する性格の良さ。普段ふざけている癖に、緊急を要する時は的確な判断が出来る。
仲間の剣士からは散々馬鹿にされ弄られるが、結局有事の際に頼る相手は経験を積み、尚且つ頭の回転の早いヴェスカなのだ。
とにかく男らしさという面で憎たらしい程理想的な人間だった。
「お前は女慣れしてるだろ…俺はどうしたらいいのか分からないんだぞ…」
「なら経験を積んだ方がいいって。お前、あまり同じ年の女と会話しないだろ」
「もうリゼラでいっぱいいっぱいだよ。あんな身勝手な女なんて見た事無い」
「言う程身勝手だったっけ…?」
ヴェスカは彼女より遥かに年下だから可愛く感じる程度なのだろう。同じ位の年齢のリシェにはとにかく面倒だったようだ。
リシェはリゼラの自由奔放な行動を思い出しながら苦々しく「物凄く身勝手だった」と呻くように言った。
「スティレンが女だったらあんな感じだろうな。とにかく面倒臭い。自画自賛しないだけリゼラの方がマシだけど…」
あぁ、とうなだれていると、不意にオーギュが咳払いをする。はっと我に返ったリシェは顔を上げた。
「…セルシェッタさんを存分におもてなしして下さるには、ヴェスカのように人に慣れたタイプの方にお願いするのが一番いいと私も思います。ヴェスカ、どうか宜しくお願いしますね」
事務的な対応をするオーギュに、ヴェスカは若干不服そうな様子を見せた。
「俺とデートしてくれねえくせに他人とデートするのを推奨する訳?割に合わなくね?」
「割に合わないとか…まぁ、確かにそうですけど」
「あのね、俺は今日休みなの。いくら何でも上からの命令で休日出勤みたいにお願いされるのはどうかって思うよ?その辺どう思ってるのさ、オーギュ様?」
ロシュからのお願いとなれば仕方無いとは思う。だが成り行きとはいえ休みにも関わらずリシェに呼び出され、見知らぬ相手の世話をしろとなるとどうにも割に合わないのだ。
しかも他人事のようにオーギュは自分にそれを任せようとする。おまけに形になる礼も無いとなれば、不満を吹っかけてもいいはず。
休日出勤という発言にオーギュはそうですね…と腕を組んで考え込む。
「あんたが丸一日、俺の好きなようにさせてくれるって言うなら喜んでやってもいいけど」
「…じ、冗談じゃない!!」
横暴なヴェスカの言い分に、オーギュは反射的に拒否反応を示した。
流石に彼の好きなようにはされるのは嫌らしい。
「だろ?だったらさぁ、あんたが兵舎に駆け込んで、ゼルエ士長にその日の給金を追加するように言ってくれる位の采配をしてくれてもいいんじゃねえの?」
彼の言い分ももっともだ。
休日で個人の自由にしていい時間を勝手に使おうとしているのだから、不満を吹っ掛けられても文句は言えない。自分も逆の立場なら嫌だと思う。
「…分かりましたよ。向こうに後程掛け合ってきます。別で休暇を取らせて貰えるようにするのと、一日の就業に追加して特別に上乗せする話を付けておきますから」
「はは、言ってみるもんだ。んじゃリシェの分も頼むよ。勿論、兵舎側からじゃなくて大聖堂側から特別手当が支給されるんだよな?あんたらからのお願いって事は大聖堂からのお願いって事なんだからさ」
こいつは…とオーギュは彼のふてぶてしさを疎ましくなったが、明らかに言う事は正論なので反論しなかった。
言い分は当然だ。黙って飲むしかない。それもこちら側からのお願いとなれば、宮廷剣士の兵舎側で余計な支出を避けられる。
頼んできた大聖堂側で出すのが筋だとヴェスカは言いたいのだ。大聖堂の人間からの命令とは言え、一切関係無い兵舎側が所属剣士に謝礼を払うのはどう考えてもおかしい。
「こちらからの頼みですからね。折角の休日を取り上げる形になってしまったのは申し訳無い。その事も踏まえてお願いに向かいます」
「そうそう。あっちだってカツカツで動いてるんだからそれ位して貰わないと」
何も考えていない顔をしているくせに、まさかここで妙に冴えた事を言い出すとは。
「おや、珍しい。オーギュが言い負かされる形になるなんて」
二人のやり取りを眺めていたロシュは、驚いた様子で言った。
「…この人の言い分も当然です。兵舎側の事情も良く知っているからこそ言えるのでしょうから。これでもベテランの班長を務めている位ですし」
「これでもって何だよ!」
「私が分からず屋じゃなくて良かったですね、ヴェスカ。もっと頭の固い人が相手だったら却下した後に強制労働を強いたかもしれません」
にっこりと微笑むオーギュだったが、妙に冷気を纏っている雰囲気を醸し出す。後々の怖さを予告するかのように。
「当然の事を言ったまでですけどぉ!?礼を尽くすのは当然だろうが!」
俺に助けられた事だってあったくせに!と息巻くヴェスカをスルーし、オーギュは「さて」と彼の近くのリシェに目を向けた。
「ヴェスカの監視役としてあなたも同行をお願いします」
「監視役…」
まるで彼が何かを仕出かすかもしれないという前提で頼んできた。
あまりにもオーギュに信用されない上官に、つい情けない気持ちになる。日頃の行いが物を言うのだろうか。
「監視役って何だよ、監視役って!まるで俺が変な事をするみたいじゃないか!」
ムキになって訴えるヴェスカだったが、実際変な事をされたオーギュは氷点下まで下がるレベルの冷たい目線を送る。
彼にされた屈辱の時間を忘れた訳では無いのだ。
どの口でそんな事が言えるのか、と。
あまりの冷めた表情に、ヴェスカはググっと詰まる。
「わ、分かった。分かったよ…すみません」
「?」
リシェは目を丸くして不思議そうな顔をしていた。
「…では、宜しくお願いします」
「すみませんねぇ、ヴェスカ。リシェも折角お休みの所色々お願いしてしまって…」
申し訳無さそうなロシュだったが、リシェは首を振って「いえ」と応える。
「休みと言っても、俺は特にする事がありませんから」
趣味といえば読書や剣の手入れ位しか無い。
しかも今のリシェには支給された宮廷剣士の剣しか手持ちが無く、手入れもすぐに終わってしまうのだ。リンデルロームで破壊された剣の代わりになる物を、ロシュは新しく作ってくれるよう依頼をかけている最中だった。
…更に魔法の力に耐性がある頑丈な剣を。
だが、そうなれば作成するにもかなりの時間を要する。よって、現状手元にあるのは宮廷剣士の簡素な剣とクロネから貰った短かめの特殊な杖のみ。
純正の魔導師ではないので練習を欠かさずに行っているが、未だに杖の扱いに関しては慣れずにいた。
前回ロシュから賜った剣は魔法に関しての耐久性を持っていたが、支給された剣にはそこまでの補強は為されておらずいつものように魔法を絡めて扱う事は出来ない。
流石に剣技に特化している集団に対して、魔法という違うジャンルの能力は求めていないのだ。むしろ問題外の話だろう。
それに現を抜かす位なら剣の技を磨いた方がマシだと。
ある意味剣も扱いたいが魔法も使いたいというリシェは我儘なタイプかもしれない。
主人であるロシュを護りたいという一心でどちらにも力を入れたいという気持ちは分からなくも無いが、普通に考えて剣と魔法の両立は難しいのだ。
どちらもやりたいのは剣士から見れば愚の骨頂。
強さを求める以上、他からどう思われようと二つの能力を生かしたいと彼は考えていた。
彼は新しい剣が手元に来るのを、ひたすら待つ日々を過ごしていた。その剣があれば、家と魔法の両立が叶う。
自分には夢のようなアイテムなのだ。
「ロシュ様からのお願いなら喜んでこなしてみせます」
生真面目なリシェがロシュの言葉に応じている横で、ヴェスカは脱力感たっぷりの普通の発言を口にする。
「まぁ、リシェが一緒なら初対面の女の世話をするのは大丈夫だろうな。どれだけ我が強いか見てみたいっていうのもあるし…理想的なのはエロくて巨乳がいい」
「…最低な男だ…」
どんな状況に置かれても楽天的なヴェスカの横で、リシェは愕然とした顔を見せた。
そうしていると、塔の螺旋階段をゆっくり上がって来る足音が聞こえてきた。噂をすれば、だ。
リシェは顔を上げ、「戻られました」と呟く。
戻って来てすぐ作業をしそうだったので、目に付いた清掃用具をさっさと片付けた。
「あの人の場合、すぐに探し出して掃除しそうですけどね」
どうにかして隠そうとしているリシェの後ろ姿を見守るオーギュは思っていた事を素直に口に出した。
それまでセルシェッタが延々と清掃をしていたのを見てきたリシェは、勘弁して欲しいと言わんばかりに首を振る。
「これ以上やられては俺の立場が」
「へぇ、何も言わなくても掃除してくれるのか。いいな、俺の部屋もやって欲しい位だ」
うまく隠し終えたリシェは、能天気なヴェスカの言葉に「お前の部屋は絶対やらないと思うぞ」と辛辣に切り捨てた。
彼女が動くのはラウド家の人間に対してのみ。
しかもロシュの母アイリアが言っていたように、密やかに恋慕している可能性のある相手の部屋なら甲斐甲斐しく働かざるを得ないのだろう。
部屋の扉が軽くノックされる。
「はぁい」
いつもののんびりしたロシュの返事の後、ゆっくりと厚い扉が開かれた。
「只今戻りました、ロシュ様」
クラシカル風の黒いメイド服に身を包むセルシェッタは、恭しく一礼する。出先なのでエプロンは外していたが、いかにも生真面目さが滲み出ていた。
ロシュはにっこりと微笑むとお帰りなさい、と室内に勧める。
「セルシェッタ、どうでしたか?大聖堂は」
「思っていた以上に人でいっぱいでした」
「ふふ、ここは色んな目的を持って来て下さる方で入り乱れますからね。ちょっとソファでゆっくり休んでいなさい。今お茶を淹れますからね」
セルシェッタは前より人数が増えた事に少し怪訝そうに眉を寄せる。
「お茶なら私が」
「いいえ、あなたはお客様ですから」
一連の会話を聞いていたヴェスカは、再び隣に付いたリシェをちらりと見た。
「なるほどねぇ…」
こういう感じなのか、と納得する。リシェは非常に居心地の悪そうな顔のまま溜息を吐いた。
護衛の役割の他にその他の世話を好んでするリシェには、大層困惑してしまうようだ。
彼女は静かに部屋の隅に進んでいく。あくまでも自分の立ち位置は脇役側だと言わんばかりに、慣れた様子で隅に立っていた。
ロシュは自ら来客用のお茶を淹れる為にカップを選び始める。その間にもセルシェッタは手伝おうとするが、「まぁまぁ」とソファに押し戻していた。
そんな状況を見て、彼女は常に動かないと死ぬ病気なのか…とヴェスカは思ってしまう。動きもどこか人間的では無い雰囲気に見えた。折角美女の類に入るのに、愛想もほぼ皆無とは非常に勿体無い。
「先程リシェにお願いして、あなたがいつまで滞在出来るのかを実家まで聞きに行ってくれたんですよ。ずっとお仕事を頑張ってくれていましたからね」
「はい」
「あなたが存分に骨休めして欲しいとこちらにあなたを寄越してくれたみたいなのでね…制限は特に設けて無かったらしいので、たまにはゆっくり休暇を楽しんで下さい。お部屋は常にあなたが過ごしやすいように致しますから」
仕える家の主にそう言われるのは若干違和感を覚えるのだろう。
セルシェッタは客人という側に立った事が無いらしく、反論の言葉を探そうとするが出て来ないようだ。むず痒そうな表情を浮かべている。
「リシェ」
「は、はい!」
不意に呼び掛けられ、リシェは反射的に顔を上げた。
「手伝って貰えますか?」
カシャン、と茶器が軽くぶつかる音を響かせ、ロシュが微笑んだ。
彼からの申し出に、強く頷き返事をする。
「あなたはとても良いお茶を淹れてくれますからね」
そう言ってリシェの頭を撫でる。ロシュなりに、こちらに気を使ってくれているのだろう。
「常にロシュ様にはいいお茶をご用意したいので」
「とても嬉しいです」
リシェは照れ隠しをしつつ準備の手伝いを始めた。
二人がお茶の用意をしている間、ヴェスカは手元の書類をちら見しているオーギュに目を向ける。
彼は視線に気付かないまま、書類を数枚捲っていた。
毎度こうしてデスクワークするのか、と思いながら「オーギュ様」と声を掛ける。
「何です?」
オーギュは声を掛けてきた大男に顔を向けた。聡明さを物語る眼鏡姿も良いが、眼鏡を掛けない状態の彼も違う雰囲気を与えてきそうだ。
眼鏡姿も悪くないが、非常に勿体無い。
「あんたの休みは無いもんなのか?」
「は…?休み?どういう事ですか?」
「いや、ほら。俺、あんたの休みとか把握出来ないし」
「………」
把握してどうする、とオーギュは眉を顰める。
自分の休みは特に定めてはいない。暇な時期を選んでそこに充てている具合なので明確には決めていなかった。
仕事の合間にも出来る時は休息をしているし、自分の体力の程度は分かっているので無理の無い程度にこなしているのだ。
疲れが溜まればさっさと休むので、一般民のように丸一日ぶっ続けの勤務とは異なる。
だが、それをヴェスカが知ってどうするのか。自分の休みなど彼には全く関係無いではないか。
「特に決めて無いので…私のを知ろうとしても意味はありませんよ。不定期なので」
「不定期って…マジかぁ。何だよ、デートしようにも誘えないじゃん」
「デートって…誰が行くんです」
おかしげな事を言い放つヴェスカを、オーギュは脱力しそうになりながら問う。
正直、彼の相手をするのも面倒臭い。
こちらはこちらでやる事があるのに構わないで欲しかった。
「誰って…決まってるじゃん」
「…決まってるって…」
「あんたと、俺」
自分の中に居る召喚獣が眠っていて良かったと思った。
彼の言葉を聞いたらきっと、冗談を言うなと荒ぶるであろう。にこにこと笑いながら変な事を言い放つヴェスカに対し、オーギュははぁ…と溜息を漏らし頭を垂れてしまった。
「しませんよ。お断りします」
「嫌だ。してくれ」
「嫌だじゃないでしょう。そんな暇があったら仕事します」
「この堅物め」
あまりのつれなさに、ヴェスカは拗ねた。
ふんわりと爽やかなお茶の香りが漂ってきた。同時にロシュの声が飛び込んでくる。
「セルシェッタ」
「はい」
ほぼ強引にソファに座らされていたセルシェッタはロシュの呼び掛けに返事をする。その声ですら、どこか事務的に聞こえた。
テーブルとカップを乗せたソーサーの音が鳴る。
少しばかり開け放した窓から流れる風も手伝って、茶葉が放つ最高の香りが室内に広がっていった。
「こちらを飲んでゆっくりリラックスして下さい」
彼女に今一番必要なのは自由な時間だ。だが、本人はその自由な時間の取り方が分からない様子。
こうしてお茶をゆっくり嗜むという事も無かったのかもしれない。
飴色に揺れるカップ内の紅茶に視線を落としていたセルシェッタは、ロシュに礼を告げるとゆっくりとそれを喉に通す。
ロシュは彼女の隣にそっと腰掛け、優しい口調で告げた。
「熱いのでゆっくりお飲みなさい」
「しかし、作業の時間もあるのであまりゆっくりするのは」
「ここはあなたの仕事場ではありませんよ」
そう諭され、彼女はカップの手を止める。
「落ち着いたら、大聖堂や他の施設等のご案内をさせて頂きます。あなたはお屋敷の中だけの生活ばかりで非常に勿体無いですし、滅多にこちらにいらっしゃらなかったのでいい機会だと思うのです」
「?」
ふわっと微笑むロシュは、顔をリシェとヴェスカに向けた後で「本来なら私が動かなければなりませんが」と前置きした。
「リシェとヴェスカにお願いしていますから、何か分からない事がありましたら遠慮無く言って下さい」
セルシェッタはリシェと見知らぬ大男をちらりと見た。初めての顔に思わず眉を寄せるも、彼女は「はい」と返事をする。
「一般の方ですか?」
完全に休日モード全開のラフな格好のヴェスカを見て、流石に違和感を覚えたのかもしれない。安易に一般人を受け入れられる場所なのだろうかと疑問が沸いたのだろう。
ロシュは「いいえ」と首を振る。
「彼は護衛として良く旅の動向に付き合って下さっているのですよ。リシェと同じくベテランの宮廷剣士です」
そこまで警戒されてしまうとはと流石のヴェスカも困惑を隠せなかった。
まるで不審者を見るような目だ、と萎えそうになる。
「うぅん…こっちに来る前に制服でも着てくりゃ良かったかな…」
「制服を着ても結局怪しまれるんだから、特に気にしなくても良いんじゃないか?」
普通過ぎるのも信頼に欠けるのかと心配になるヴェスカに、リシェは遠慮も無く言い放っていた。
「人をおかしげな目線で見るなよ!」
「リシェ」
言い過ぎですよ、とオーギュは困惑しながら嗜める。
お、とヴェスカは珍しく自分をフォローするオーギュを有難そうに拝んだ。
「オーギュ様、たまには優しさを見せるんだな!」
しかし彼は真顔を保ったまま、ヴェスカの期待を裏切るように優しく無い発言を放つ。
「流石に頭で思っていても、正直に口にしては失礼に当たります。慎む事も覚えておきなさい」
「フォローどころかめちゃくちゃ落としてるじゃねえか!」
少し位俺にも気を使ってくれ!と訴えた。
「まぁまぁ…そこまで言う事も無いでしょうに。ヴェスカはこう言われていますが相当信用に値する剣士ですし」
最終的にロシュがちゃんとしたフォローをしてくれたので、そこでヴェスカはようやく溜飲を下げた。
そうだろ?流石ロシュ様だなぁと満更でもない様子。
リシェは肩を落としながら「そうやって調子に乗ると碌な事が無いぞ」と呆れた。
彼は褒めれば褒める程墓穴を掘りやすい性質だというのを、常に一緒に居るリシェは知っているのだ。城下の住民の手助けをして感謝されればその場で排水用の側溝に埋まるし、困っている女性に手を差し伸べれば相手の交際中の男に謎の因縁を付けられたりもする。
何故か彼はそういう状況に遭遇しがちだった。
「今回は普通に案内みたいな事をすればいいんだろ?そんなに難しくないじゃないか」
「ええ、ヴェスカ。どうかお願いします…セルシェッタは街中に慣れていないので、圧倒されてしまうかもしれませんが紳士的に接して差し上げて下さい」
紅茶を嗜んでいるセルシェッタは、ちらりとヴェスカとリシェに目を向けた。目を合わせた彼は反射的ににっこりと笑いかける。
「任せておいて下さいって。俺、物凄く紳士なんで」
「はは」
自ら紳士と名乗りだすので、ついリシェは乾いた笑いを放っていた。
少しの休息を経た後、ロシュから命じられるままリシェとヴェスカはセルシェッタの相手をする事になった。
彼女は今まで関わってきた異性とは全くタイプが異なっていて、何を話すにも非常に事務的な返事しかしてこない。
どちらかと言えば軟派なヴェスカも、このタイプには全く遭遇した事が無いらしく稀に反応に詰まった。
「本当に遊びに行くっていう概念が無かったんだろうなぁ」
素顔は非常に美しさを垣間見せるのに、堅物そうで近付き難い雰囲気をひたすら放つのは非常に勿体無い。真面目さを引き立たせる眼鏡を外し、格好も堅苦しさを思わせるロングスカート型のメイド服を変えれば格段に見違えそうなのに。
大聖堂の中庭で一旦立ち止まり、併設されているカフェをちらりと見た後で「特に腹が減ってる訳でもないだろうしな」と考え込む。
「ええっと…セルシェッタさん?」
ラウド家から来た彼女の呼び方を考えていたが、結局普通にさん付けする事にしたリシェは、伺うような口調で彼女に問いかける。
女性にしては少し目立つ位の背の高さを持つ彼女は、リシェの呼び掛けに「はい」と応えて見下ろしてきた。
変に威圧感を感じるが、物怖じしてはいけないと何も気にしていない風を装い「何か得意としている物とかはあるのですか?」と聞いてみた。
セルシェッタはやや眉を寄せ、少し考え込む。
「得意…ですか?」
「ええ。俺は剣技の練習とか読書とか好きなので何も無い時は図書館や剣の腕を磨く為に練習に出たり、剣の手入れをしています」
少女のような風貌をしていながら、口からは物騒な事を言うリシェに不審そうな顔を向けた。
「それも全て、腕や知識を蓄えてロシュ様をお守りする為に必要な事だと思っているからです」
「………」
ロシュ様、というキーワードが功を奏したのか。
そこでようやく彼女は若干固かった表情を緩めた。
「そうですね」
掛けている眼鏡を直しながら、リシェの質問に答えた。
「私も少しではありますが護身術のような物を嗜んでおります。それも屋敷を守る為には必要ですから」
リシェはヴェスカの顔を見上げる。
少しだけ道筋は見えたな、と頷いた。
「ならさ、ちょっとだけ兵舎でも見学してみる?男しか居ねぇけど、護身の稽古位なら覗けると思うし」
その言葉に、彼女は一瞬目を輝かせる。
どうやら武芸方面に興味がある模様だ。
「ええ、ぜひ」
パッと見れば貞淑そうな印象なのに、男臭い兵舎に興味があるとは。見かけに寄らないもんだな…と食いついてきた様子を確認したヴェスカは苦笑いする。
とは言え、リシェが話題を切り出してくれたのもあり最初の案内する場所は確定した。
リシェはヴェスカを見上げ、「出来る範囲内なら別に見学してもいいだろう?」と聞いてきた。一応許可を得なければならないのかと不安になったようだ。
「ああ、全然構わないぞ。むしろどこに行けばいいか悩んでたからな。お前が話を進めてくれて助かるよ」
「それなら良かった」
中庭をそのまま通過し、大聖堂の正面入口へ進む。
時刻は昼を少し超えた位だろうか。あまりにも一日の前半に起こった内容が濃過ぎて、もう夕方なのではないかと思える程だ。休暇と言えど起床が早いので長く感じてしまう。
勤務する時間によって休む時間や起床時間も変化するが、リシェのようにロシュの護衛を兼ねる特殊なケースだと日勤が主となる。
特に護衛の用件が無ければ普段の宮廷剣士とは変わらないので、休日でも癖がついて早朝から目覚めてしまうのだ。
「むさ苦しい場所だけど平気?」
「ええ、大丈夫です」
普通ならば汗臭い上に筋肉質のむさ苦しい場所など女性は好まないだろうに、大丈夫だと言ってのけるあたり耐性は付いているのだろう。
正門前を通過し、一般人や関係者が行き交っているのをやり過ごした後、階段を降り切る途中で兵舎側への道に入り込む。大聖堂の関係者は宮廷剣士が闊歩する兵舎近辺は敬遠しがちだったが、何も知らない観光客などは遠慮無く敷地内に入る場合もある。
物怖じしない者も稀に居て、屈強な剣士が集中する練習場に勝手に足を踏み入れる時もあるので見学する際はあらかじめ指定場を設けていた。
状況によっては危険を伴う可能性もあったり、血気盛んな剣士の気分を阻害されてしまいかねないのだ。
誰しもが平和を守る穏やかな性質では無いのは、仲間を見ているヴェスカでも分かる。何度か仲間と物怖じしない来客と言い争う光景も見ているのだ。
流石に一般人と諍いを起こすなど、格式の高いアストレーゼン大聖堂お抱えの宮廷剣士の立場では許される訳が無い。
例え自分が悪くなくても、結局はこちら側の責任が大きくなってしまう。
何度目か繰り返されるいざこざに辟易し、士長のゼルエは来客向けに見学可能の場を設ける事を指示した事で、無駄ないざこざを回避させる為の采配を行った。前回よりは彼らの衝突は少なくなったが、年に数回は似たような事が起きる。
ただ規制をする事で回数は減った事から、士長のやり方は決して無意味では無かったようだ。
見慣れぬ土地で浮かれてしまう気持ちも決して分からなくも無いが、羽目を外して予想外の行動を起こす者に対しては、なるべく穏便にしつつ退去を頼む事しか対処出来ないのだ。
「俺らはいつもここの通路を使って兵舎の中に入っています。ここから大聖堂の中の任務だったり、外の任務だったり…班ごとに部隊は分けられていて、剣士の数も多いのです」
リシェはセルシェッタに対して、慣れたように宮廷剣士の事を説明していく。最初の頃と比べて、かなり言葉の数も増えてきたなとヴェスカは感心した。
彼はとにかく大人しいタイプだと思っていたのだ。顔を初めて合わせた当初はとにかく他人と喋りたがらない性質で、やりにくさも感じていた。
そんな彼がこうして道案内出来るまで話すようになったのは相当成長したのだと思う。
「ううん、リシェちゃん」
「?…何だ、ヴェスカ」
「いやぁ…何ていうか、本当成長してくれたもんだなぁって」
急にしみじみしだす彼に、リシェは眉を顰めて「何言ってるんだ」と怪訝そうに問う。
そんな事を言われると反応に困るようだ。非常に複雑な表情を見せる。
「喋りが苦手だと思ってたからな」
「………」
そのまま足を進めていくと、剣士達が日々腕を磨いている大型練習場の敷地内へ入っていく。遠巻きに聞こえていた声も明確に聞き取れるようになり、汗臭さと泥臭さが混じった空気も鼻を突いた。
「ここはどういう時に使うのですか?」
それまで無言だったセルシェッタが口を開く。
「あぁ、ここ?そうだな。日課に組み込む事が大半だけど、個人的に練習したいって時も許可を得た上で練習も出来るよ。リシェみたいなのは一日の任務が終わった後で使ったりするし」
「座学で始まって座学で終わる時は体が鈍るんだ」
「はぁ…なるほど」
野太い声が聞こえる最中、自分達の居る場から離れた所で窓辺に貼り付きながら見学している法衣姿の女性の姿が見えた。その法衣はどこかで見た事のあるデザインで、非常に細身の体型を引き立てている。
腰まで長い銀色の髪は、風に遊ばれ揺れ動いていた。
ヴェスカは「あれ?」と不思議そうな面持ちでその女性を見る。
「どっかで見たような格好だな…」
ぽそりと呟かれ、リシェも彼の視線の先に目を向けた。そして思い出したかのようにあぁ、と返す。
「宮廷魔導師の方じゃないのか?あの格好、オーギュ様と丸っ切り同じだし…」
「ほえぇ…他の人を初めて見た。あまりお目にかかれないからな!でも何してるんだろ、あの人」
完全に練習場に釘付けになっている様子だ。
声をかけてみるか、とヴェスカは自ら進んで彼女に近付く。だがこちらの気配に全く気付いている様子は無く、むしろ自分の世界に浸っているのか見物する事に非常に夢中になっている模様。
「あのー」
とりあえず声を掛けてみる。
しかし一向にこちらに気付く様子も無く、頰を赤らめ目を燦々と輝かせながら練習場の内部を覗く事に集中しているようだ。
「…はぁ…何て肉肉しい筋肉…汗塗れで絡み合って…堪らない、とてもいいわ…!」
ぶつぶつと一人悦に入り込んでいる模様。
筋肉が死ぬ程好きらしい。
肉肉しいというフレーズが発せられた段階で、ヴェスカは思わず声を掛けるのを躊躇ってしまった。
「あの、もしもし?」
少し声のトーンを上げると、そこでようやく相手はこちらに気付く。そしてヴェスカの姿に、彼女は反射的に勢い良く飛び退いた。
「んんんんっ!?…あひゃぁああああああ!!」
「うわ!!」
興奮冷め止まない様子だったが、目の前の大男に非常に驚いたらしく悲鳴を上げる。おかしい位に驚かれ、ヴェスカもまた彼女から数歩後退して離れてしまった。
「ななな、何ですか!?俺そんな変なとこあった!?」
自分に非があったのかと思い、つい慌てる。
数メートル離れた同じ場所で、リシェとセルシェッタは無言でお互いの顔を見合わせた後再びヴェスカと女性の方に目を向けた。
急に出現した相手を前に、女性は一旦落ち着こうと呼吸を整えようとしたが、その相手の屈強さに再び興奮の坩堝に入り込んでしまった。
「あぁあああ!!き、筋肉質!!まさか目の前で見れるなんてえええ!!」
「へ…!?は!?」
「第二班の班長のヴェスカさんでしょう!!」
美しい顔を両手で押さえ、歓喜の笑みを浮かべながら叫ぶ。
それまで宮廷魔導師は堅苦しいイメージがこびりついていた為か、その激しい勢いについたじろいでしまう。
「な、何で俺の名前!?」
初対面ですよね!?と不思議そうに質問した。
「お前、何かしたんじゃないのか?」
こちらに近付きながらリシェは自分の上司を疑う発言を放った。こいつならやりかねないと思っているのだろう。
慌てながら「んな訳あるかい!!」と叱咤を込めてリシェに言った後、再び目の前で興奮する女性宮廷魔導師に向き直った。
ヴェスカにしては全く見覚えが無い人間だ。
そもそも、普通に一般人として生きていれば宮廷魔導師と関わる事など無いのだ。術者の中でも特に秀でた能力を持つ魔導師の中から特に高魔力を保持する選ばれた五人が、大聖堂付きの魔導師に選別される。
よって一般には禁止されている危険で難易度の高い魔法の研究を許され、図書館の利用や魔法に関する設備も使い放題だという。その代わり一生涯大聖堂側に仕え、利になる結果をもたらす為に日々魔法の鍛錬と研究を励むよう約束させられる。
彼らは研究中心の生活の為に、あまり外部に出る事は無いのだ。ロシュ自ら指名されたオーギュは、その宮廷魔導師から引っ張られ補佐になった為に特殊な待遇に当たった。
大抵の人間は宮廷魔導師の顔や名前は知らない。
オーギュは司聖補佐という立場の為に、人々からの認知度があるだけなのだ。
「勿論知っていますわ、良く見知った筋肉…いえ!!剣士様ですから!」
「今筋肉って…」
ヴェスカはつい反応する。絶対筋肉って言ったよな、と。
リシェもそう聞こえ、ついセルシェッタを見上げた。彼女もまたこくりと頷く。
興奮の余り、涎を垂らしそうになるのを押さえ、気持ちを落ち着かせようと胸に手を当てて深呼吸をした。
すぅ、はあ、すぅ、はあ…と繰り返す様子を、一行は無言で待つようにして眺める。
「というか…」
やや間を置き、リシェは呟いた。
「見知った筋肉って何だよ…」
「良く知った筋肉の意味ではないですか?」
普通に返事をするセルシェッタに、リシェはつい表情を歪めてしまう。
「やっぱりヴェスカは女たらしなのか」
何故かそんな結論に辿り着き、リシェは勝手にドン引きしてしまう。彼のような軟派なタイプならあちこちに手を出しそうだと思ったらしい。
ヴェスカは慌てて「アホか!!」と怒り出した。
「俺はそこまで遊び人じゃねえし!」
焦って否定した後で、改めて相手を見直す。
「…んで、何で俺の事を?」
とりあえず本人に聞いてみないと先に進まない。自分の知る宮廷魔導師はオーギュしか居ないので、別の魔導師が自分を知るはずが無いのだ。
オーギュ本人が自分の話をしていれば話は別だが。
間を開け、ようやく彼女は落ち着きを取り戻したのか深く一息吐くと自らの身なりを整えてようやく口を開いた。
「それは良く…存じていますとも…!私、どうにも筋肉隆々の殿方がとてもとても好きで…っんんっ、目の前に理想的な筋肉を持つ方が居るととにかく、もう興奮してしまって…ふぅうう…今までずっと、このように遠くからひっそり見学させて貰っていたものですから、いきなり前に出て下さるとなると…!!はぁああ、感極まってしまって」
興奮のあまり息切れ寸前状態で喋っている。
宮廷魔導師はお堅い職業だと思っていたが、とリシェは興奮極まりない状態の相手を見ていた。やはりオーギュのイメージが強いようだ。
「どうやらこのお方はお前じゃなくて、お前の筋肉に興味があるみたいだぞ」
残念だったなと言わんばかりのリシェに、ヴェスカは脱力し、再度振り返って反論した。
「ええい、だまらっしゃい!!」
地味にショックを受けたらしい。
「その人の目線辿ってみろ。どう見てもお前の全身にしか向いていないぞ」
そんなリシェの言い方に、堅物なセルシェッタは反射的に「破廉恥な」と眉を寄せていた。
一目惚れしたとかなら少しは格好つけられそうなのに、とヴェスカは複雑な心境に陥る。
相手の着眼点が普通の人と全く違うのが残念だ。
「し、失礼しました…私、エルレアリと申します。未熟者ではありますが、大聖堂に所属する宮廷魔導師です」
「あはぁ、やっぱりか。オーギュ様と全く同じ服だからそうだろうとは思ってたけど…」
エルレアリという女魔導師は、良く知った仲間の名前に反応してヴェスカを見上げた。改めて相手の顔を見ると、目尻が垂れ下がった形になっていて柔和な印象を受ける。お淑やかで非常に女性的だが、宮廷魔導師となる程高火力の魔法の使い手なのだろう。
…あまりイメージが湧かない。
「オーギュをご存知で?」
「はあ…かなりご存知ですよ。よく護衛を頼まれたりするんで」
ようやく落ち着きを取り戻したのか、エルレアリは冷静に話すようになっていた。
「そうだったのですね。ほら、あの人司聖の塔に入り浸りで、あまり研究室に顔を出せないから…元気そうなら何よりだけど」
リシェはオーギュ以外の宮廷魔導師に内心気持ちを騒つかせていた。こちらからすれば、五人という少人数ながらも非常に尊敬に値する立場だった。
彼らも大聖堂の有事の際には宮廷剣士同様、更なる強力な護衛として、自分達の背後に付く役目も仰せつかっているのだから。
エルレアリはヴェスカの奥に居るリシェをちらりと見た後、目を合わせにっこりと微笑んだ。
「う…」
ついドキリとするリシェ。
「あなたがロシュを護衛している白い騎士様?」
久しぶりのフレーズに、リシェは背筋を伸ばし「は、はい」と返事をした。彼を呼び捨てに出来るのも昔同僚だった故なのだろう。
つい畏まってしまう。
「初めてお会いしたかしら?」
「はい」
彼女はリシェの前に少し進むと、目線に合わせるように軽く屈んだ。今まで出会った異性の中では、彼女が一番身長が高く見える。百七十以上はあるだろうか。
やや垂れ気味の目は優しい性格を思わせてきた。
「たまにロシュやオーギュから話は聞いているの。とても頼もしい剣士様だって」
褒められ、思わずリシェは謙遜しながら「そんな事は」と照れ隠しをする。ただ自分は、自分の出来る事をしているだけなのだ。
「ほー!リシェちゃん、良かったなぁ、褒められちゃったじゃん」
「冷やかすな」
「褒められる時は素直に受け取った方が印象がいいぞ」
リシェはエルレアリを見上げ、ありがとうございますと礼を告げた。
褒められる事に決して悪い気はしない。ただ、慣れない自分には妙にくすぐったさを感じてしまう。
「ええっと…んで、こんな場所に良く来られるんですか?」
何となく来た理由が分かったが、エルレアリは結構な頻度で見学しにやって来るのだろうか。
ヴェスカの問い掛けを受け、彼女は体を起こしくるりと振り返ると満面の笑みで「ええ、ええ」と返した。
「私、とにかく筋肉質の方が好きで…時間があればこうしてひっそりと兵舎に覗きに伺っていたのです。練習用の道着から覗く筋肉もたまらなく好きなんですが、大抵のお方は専用の制服で剣の稽古をされているので物凄く残念で…むしろ、上半身裸でも私は一向に構わないのに」
自分も結構な頻度で練習場に居たが、全く気が付かなかった。もしかしたら身を潜めて覗いていたのかもしれない。
それはそうと、彼女の発言がどう考えてもおかしい。内容がいちいちマニアック過ぎて、返事に詰まってしまう。
これだけの美女にも関わらず、筋肉に対しての感想が変態的に聞こえてきた。それ位好きなのだろう。
「そんなに好きなら誰かしらに声を掛ければ良かったのに」
「そ、そそそそんな!!私から声を掛けるなんて、き、ききき筋肉を見せて下さいなんて言える訳が!!」
興奮のあまり、勢い良く声が跳ね上がった。
折角落ち着いたのに、とリシェは呆れる。
「今は流石に練習も終わりそうだし、また来た時に俺が居ればいつでも声を掛けて貰えれば」
「ほ、ほほ本当ですか!!!?」
相当嬉しいのだろう。声は更に裏返り、表情は歓喜で満たされていた。
「嬉しいです…!!またの機会がありましたら、ぜひお声を掛けさせて貰いますね!あぁ、もっと時間があれば良かったのに…そろそろお暇しなければなりません」
エルレアリは名残惜しそうに練習場とヴェスカを交互に見た後で「度々覗かせて貰いますね…」と言った。
「宮廷魔導師のお仕事もご多忙を極めるのですか?」
リシェは残念がる彼女に問う。普段ならば決して近付けない職種なのでどんな仕事をこなしているのか想像が付かないようだ。
「うふふ…主に研究中心なので思っているよりは気が楽な職業よ。今は魔法と薬草を合成する研究をしている最中です」
「へぇ…興味深い。俺、魔法を教わったばかりなのであまり良く分からないのですが、薬草と組み合わせるとやはり危険性も高くなるのでしょうか」
「そうですね…薬草の成分によっては、魔法との相性によって毒素を放つ物もあるから…ある意味危険な作業も入ります。吸い込みを予防する為にバリアを張ったりしますし」
やはりそこまでするには相当な能力の持ち主でなければ、高位の研究などはさせて貰えないのだろう。
リシェは質問に答えてくれたエルレアリにぺこりと頭を下げる。
「なるほど…やはり素人には難しいな。ありがとうございます」
ふんわりと彼女は微笑むと、それではこれで失礼致しますと礼儀正しく告げて去っていった。
まるで嵐を思わせるように、感情が激しかったり落ち着いたりと忙しい人物だったと思う。何か疲れたな…とヴェスカは呟いていた。
「感情の豊かな方でしたね」
それまで何も喋らずにいたセルシェッタは、ここでようやく口を開いた。
「あんたも少し位は感情出しても良いんだぞ?」
茶化すようにヴェスカは無感情のメイドに対してちくりと刺すが、セルシェッタは依然として表情を変えないまま。
「ご身分のある方々を差し置いて自ら率先して話すなど、もっての外です」
「えぇ…あんた、そうやって育ってきた訳?」
「使用人として当然です」
民間人であるヴェスカには信じ難い言葉だった。喋るのに身分の事を気にする必要性など全く無いのに。ラウド家はそういう家系なのだろうかとも考えたが、リシェの話を聞く限りそこまで規律に満ちた印象は無い。
あまりにも身分を弁え過ぎてやしないだろうか。
「ううん…何て言うかな、どうにも控えめじゃないの?リシェ、どう思う?」
いきなり話題を振られ、リシェは「は?」とヴェスカを見上げた。
「周りに遠慮しがちなんじゃねえのかってさ」
「…身に付いてしまったのは仕方無いのでは?」
変えようにも変えにくいのだろう。ただ、慎み過ぎるのも良くない気がする。
「まあ、俺らには普通にしていいんだぞセルシェッタさん。俺は民間人だし、リシェはアストレーゼンでは俺と同じ立場のようなもんだ」
ヴェスカに同調するかのように、リシェも無言で頷いた。
「とりあえず、練習場の中でも見たら?見たかったんだろ?」
インパクトのある先客の為にまだセルシェッタは内部を見ていない。促され、ようやく彼女は練習場の許された場所から中を見学する。
色んな匂いと熱気が混じり合う練習場の内部では、自分達から数メートル程離れた場所で模造刀を用いての剣技の稽古が繰り広げられていた。
道着姿の剣士達が数十人。お互いに野太く気合の籠った声を発しながら叩き合いをしている。
セルシェッタは安全柵に手を掛け、まじまじと眺めていた。
「…興味ある?」
「ええ」
…清楚なメイド服の淑女が気に入るようなものでは無いのだが。
ヴェスカは不思議そうな様子で真顔のまま練習場を覗く彼女を見ていた。その後に彼女から少し離れ、そそそっとリシェの元へ近付く。
そして不意に沸き出た疑問を投げかけた。
「まさかとは思うんだけど、剣とか武器系を使えたりするとか無いよな…」
「まさか。そんな様子は一切見せなかったぞ」
初めて出会ってから彼女は延々とロシュの周りの世話しかしていないのだ。剣の覚えがあるなどと一切知らされていない。
リシェの目にはひたすら掃除をするセルシェッタの姿しか見ていないのだ。
「だよなあ」
単に興味があるだけか、と自らを納得させた。
リシェとヴェスカがセルシェッタを連れて行ってくれたので、ロシュ達は周囲を気にする事無く仕事の続きを黙々とこなしていた。
書面と睨めっこしていたオーギュは、眼精疲労を感じる度にそこから目を離してその都度眼鏡を外してマッサージを繰り返す。
やはりデスクワークになると固まった体がきつい。
「静かになれば仕事はとても捗りますがあちこち体が痛みますね」
首元のマッサージを自分でしながらぽそりと口にする。
「ソファで作業するのも無理があるのでしょう。ですから言ってたじゃないですか、あなた専用の机を用意したいって…なのに頑なに断るんですから。あなたさえ良ければ体にぴったりな椅子や机を作らせますって」
部屋は決して狭くは無い。むしろ広いので、同じような机や椅子を設置してもレイアウト次第でどうにかなる。
自分だけ書斎机で仕事しているのに、補佐してくれるオーギュがソファでの作業だとそのうち体に影響が出てくるに違いないのだ。
「いつまでも若いつもりじゃ通用しないのですよ」
ちょっとした嫌味に、オーギュは内心ムッとする。年齢はほぼ一緒の彼に若くないと言われた気がして、変に引っかかってしまった。
ちょっとばかりの苛立ちを含めながら反論する。
「同じ位でしょうが」
疲れを感じた主人を察したのか、足元で休んでいたファブロスは人の姿へと変化するとおもむろにオーギュの背後に立った。
「ん?」
背後にすっと影が入り込み、オーギュは振り返る。
「どうしましたか、ファブロス?」
『疲れているようだからな』
背丈のある美丈夫は憮然とした表情でそう言うと、オーギュの肩をゆっくりマッサージし始めた。おやおや、とロシュは微笑む。
「何て優しい。良かったですね、オーギュ?」
ぎゅ、ぎゅと揉み込まれ、思わず心地の良い溜息を吐いた。
「く、く…あぁ、そこいいです…」
『そうか。なるべく加減しているからな。力一杯だとお前の肩が壊れてしまう。痛かったら言え』
「うぅうう…!!」
肩揉みをされているオーギュを見ながら、ロシュはやはり机がもう一つ必要だと改めて思ってしまった。流石に無理はさせられない。
「やっぱり必要ですよ。この先の事を考えるとね」
「だっ…だい、じょうぶですから…!!」
「あなたの体格に沿った設計にして、丁度良く作業出来るような高さに調節して…そうそう、作業がしやすいように引き出しも沢山付けて貰いましょう。それならあなたがいちいち重い書類や書物をこっちに持ち込まなくてもいいですし、手ぶらでこちらに来れますからね」
勝手に話を進めていくロシュ。
ぎりぎりといい具合に肩揉みをされ続けるオーギュは、「ですからっ」と彼の勢いを止めようとする。
「私の事はっ…大丈夫ですから…!!」
「それだとお部屋の模様替えもしなければ…ええっと、私の机と近い方がいいから…テーブルとソファをちょっと寄せて…」
「勝手に、話を…!!」
大体、その机の分のお金だってどこから捻出するのか。
自費ならともかく、他の財源からわざわざ自分の為に使うのは流石にいい気分では無い。それなら自腹を切った方がまだ気分がマシだ。
『気持ちいいか、オーギュ?その様子だととても気持ち良さそうだな。何度でもしてやるぞ』
ファブロスのマッサージが酷くピンポイントだったらしく、オーギュは会話をしようにも口が止まってしまう。
ここぞと決めたら止まらないタイプのロシュを止めようとするにも、じんわりと温かくなっていく肩が気持ちいい。
「ろ…ロシュ…様…!!人の話を聞きなさ…!!」
ファブロスに骨抜きにされたままのオーギュは、ロシュの勝手な暴走を止めようと躍起になっていた。
さて、次はどこに行こうかなぁ。
心ゆくまで練習風景を見学したセルシェッタは、そんな能天気なヴェスカの言葉に「私はもう満足しましたが」と口を挟む。
「ロシュ様にお願いされた手前、一ヶ所しか行きませんでしたって報告出来ると思う?俺らはこの辺の案内っていうか、あんたを楽しませなきゃいけないの。すぐ戻ったら突っ込まれちゃうよ。やけに早いお帰りですねってさ」
「そうですか」
ここまで一緒に居るが、一向に彼女は表情は一定のままだ。
リシェは城下に行くかとヴェスカに提案する。
「大聖堂の敷地内だとそんなに楽しい物は無いだろうし。多分下に降りた方が見どころがあるかもしれない」
「そりゃそうだな。あちこち案内した後酒場にでも行くか」
「それは一番お前が行きたいんじゃないか…」
がくりとリシェは肩を落とす。休暇をどう使おうが本人の勝手だが、それに付き合わなければいけないのかと嫌な気持ちになってしまう。
リシェは不意に顔を上げ、セルシェッタを見る。
「セルシェッタさんはお酒は飲めるのですか?」
年を聞くのも野暮だと思い、とりあえず飲めるかどうか質問する。日の光の加減で、掛けている眼鏡のフレームが反射し一瞬だけリシェの目が眩んだ。
「あまり嗜みません」
「あまりって事は、少しはいけるって事か。良かった」
「飲み過ぎると翌日の仕事に差し障ります」
どこまでも真面目過ぎる意見だった。
リシェはふっと笑みを溢すと、比較するようにヴェスカに言う。
「誰かさんとは大違いだな」
突っ込まれ、ヴェスカはぐぐっと口元を尖らせた。
「おっ…大人にはつい羽目を外したくなる時があるんだよ!」
飲み過ぎて次の日までに持ち越す回数が多い彼は、必死に言い訳をする。三十を優に超えている人間なのに、こればかりはとにかく学習しない。
二日酔いの状態で任務をしようとする度に、リシェは内心こんなだらしない大人には決してなるまいと心から誓うのだった。
「そうと決まれば城下に行くか。流石にずっとここに居るのはキツいだろ、汗臭いし」
「買いたい物があればお付き合いしますけど、何かありますか?」
あくまでゲストをもてなす目的を忘れないリシェは、改めてセルシェッタに問う。その気持ちが伝わったのか、彼女は若干表情に変化をもたらした。
ふっと軽く微笑むと、「今の所は特にありません」と答える。
「そうですか。もし行きがけに必要な物を思い出したらいつでも言って下さい。俺は店に詳しくないですが、ヴェスカなら分かるかもしれないので」
「はい」
何気にこちらに押し付けてくるリシェに、ついヴェスカは「おいおい」と苦笑した。
「いくら俺でも知ってる事は限られてるぞ」
そう言いながらも、決して悪い気がしなかった。
「俺、行く場所は大概決まってるからな。遊び人のお前なら良く知ってると思って」
「褒めてるのか馬鹿にしてるのかどっちなのよ…」
三人は兵舎を離れ、アストレーゼン大聖堂に繋がる石段へ再び足を踏み入れると今度は城下街方面へと向かった。
遠方からようやく戻って来た宮廷剣士のグループとちょうど行き交い、それぞれ挨拶をした後でようやく街の入口へ入る。
住民や観光客で賑わう街中を見回すと、ヴェスカは「うーん」と声を上げた。
「あまり人混みも好きじゃないだろうし、落ち着いた場所でも目指すかね」
「そうだな」
大通りからはひっきりなしに馬車の車輪の音が聞こえる。
街中の移動手段や、遠方からやって来る専用の大型馬車が絶え間なく通行するので少し離れた所でも良く車輪と蹄の音が耳に入って来るのだ。
ヴェスカはセルシェッタをちらりと見た。
「迷子にならないようにちゃんと着いて来てくれよな」
「はい。それは大丈夫です」
人の通りが多いメイン街道や商店街が立ち並ぶ通りは、それなりに人の通りが多く子供ならば迷子になりやすい。
大人でも人の波に圧倒され、帯同者を見失う事もあるのだ。
「あー…セルシェッタさん、割と身長があるからな。俺に着いて来ればそんなに迷わないか…」
彼女の背の高さだと、ヴェスカの目立つ頭を目印にすれば迷わずに済みそうな気がする。
あまり心配無さそうだと納得した。
その後に、明らかに身長差のあるリシェを見下ろす。
流石に何が言いたいのか理解したのだろう。彼は不愉快そうな様子でヴェスカに「何だよ」と問う。
「いや、何でも…リシェ、迷子になるなよ」
「なるか!!なったら黙って大聖堂に戻るから安心しろ!」
馬鹿にするな!と感情を剥き出しにした。確かに、彼が言うようにわざわざ同行する者を探すよりは大人しく大聖堂に戻った方が確実だ。
「まぁ、俺が居るから大丈夫だって。いじけるなよリシェ」
「大木みたいに伸びてるからって馬鹿にしやがって」
「そんなささくれ立ってるリシェちゃんの為にもまずは公園に行くか。何か催し物とかやってるかもしれないし」
催し物、と聞いてリシェは過去に変装したロシュと一緒に公園に行った際に開催していた意味の分からないイベントに参加していたヴェスカを思い出した。
「お前、昔激辛手羽先早食い大会に参加していただろう」
凄まじいスピードかつ手慣れた感じで手羽先を食べ尽くしていた記憶を呼び起こし、本人に突っ込んだ。ヴェスカはええっと目を見開く。
何故リシェが知っているのかと。当時、暇を持て余し城下に出ていた際に偶然開催していたイベントへ飛び入りで参加していたのだ。
基本参加料を支払ってイベント参加するのだが、食欲自慢の挑戦者は無料で参加出来ると聞いたのでつい遊びで飛び入り参加したのだ。
ちょうど空腹だったし、と。
まさかリシェが見ていたとは思わなかった。
「何で知ってんの?」
「見たから。遠くで」
「えええ…声掛けてくれなかったのかよ」
その言葉に、リシェは顔をヴェスカから逸らした。
仲間だと思われたくなかった、とは言えない。
「ロシュ様と一緒だったし…」
「そんなん理由になるかい!」
「人が集まってたから入りにくかったんだ」
「あー、確かにいっぱいだったからな」
確かにそうだったなと納得しながら、ヴェスカは公園に向かって足を進める。
アストレーゼンの城下の中心に存在する大型の大通公園。新緑に包まれた観光名所の一部として知られている。
訪れた者を圧倒させる大きな噴水も健在で、時折勢い良く水を天高く噴射しては訪れる人間を驚かせ楽しませていた。
子供達がはしゃぐ声が噴水周りを中心に聞こえてくる。
天気が良い日は常に水は噴き上がっているので、癒しを求めに公園へ立ち寄り休憩する者が多かった。
「やっぱり人が居るな」
平日の為か、目立った催し物は行われていない様子だ。何かしら開催されていれば更に人が集まるだろう。噴水を横目で見ながら、三人は公園内をぶらつく。
体に感じる程度の風を感じながら空いているベンチを見つけた後、ヴェスカは同行するセルシェッタに「少し休憩する?」と問う。流石に疲れる頃ではないかと察した。
「あちこち歩いてるだろうしな」
セルシェッタははい、と頷くと言われるままベンチに腰を下ろした。
「何か飲み物でも買ってきますか?」
「いえ…大丈夫です。ありがとうございます」
それならいいのですが、とリシェも同じようにベンチに座った。絶えず噴水の音を聞きながら、ゆったりとした時間に身を任せていく。
「あまり街に出る機会は無いもんなの?」
ヴェスカはベンチに座る二人に向かい合う形で立ったまま休憩していた。身長もあるせいか、こちらが座ると彼の足は更に長く見えてしまう。
何気にバランスが良い体格だ。
ただデカいだけでは無いのかとリシェは妙に悔しくなった。
「私は主にお屋敷の中の仕事を仰せ付かっていますので」
「休みはちゃんとあるんだろ?」
「あります」
「休みは何してる訳?」
「…特にする事は無いのでほとんどお屋敷の作業とか」
休みじゃねえじゃん、と話を聞いたヴェスカは苦笑する。
これではロシュ様も困るはずだ。
「そうだなー。あんたは少し羽目を外す事が必要なんじゃねえの?ま、確かに仕事をする事はいい事なんだけどな」
外見からして固そうだしな…と思った。
明るめの茶系の長い髪を編み込んで引っ詰めた乱れの無い髪型や、ロングタイプの黒いメイド用のワンピースはまだ若いにも関わらず非常に地味な雰囲気を撒き散らしている。
堅苦しい眼鏡を掛け、飾りっ気も無い。
素材は決して悪くは無いのだ。
「いかにも真面目そうだもんなあ」
「お前は不真面目だからな」
リシェがまるで真逆だと無表情で返すと、ヴェスカは余計な事は言わない!と言いながら彼の頭をぐりぐり撫でた。
「まるで俺がしょうもない奴だと思われるだろうが!」
「しょうもない奴じゃなきゃ何だというのだ!」
大きなヴェスカに対し、小さなリシェが必死に反論しているのを目の当たりにするセルシェッタは呆気に取られていたが、それが変に滑稽に見えたのかついくすりと笑ってしまう。
「…あぁ」
その一瞬を捕らえたリシェはつい口に出した。
「笑った」
セルシェッタはハッと我に返る。つい口元に手を当てると、「失礼しました」と姿勢を正した。
「謝らなくてもいいのに。悪い事ではないのですから」
「………」
その時、遠くから叫び声と同時にこちらの方へ近付く足音が聞こえて来た。
あぁ?と気の抜けた声を出しながらヴェスカは声がした方へ顔を向ける。生来の耳の良さなのか、剣士として様々な音を聞いてきた為なのか、彼は非常に聴力が良い。夜間だとその能力は存分に発揮されるのだ。
「何だ?」
リシェとセルシェッタもそれに気付く。
「誰かあの人を捕まえてちょうだい!!泥棒よ泥棒!!」
けたたましく叫び続けている女性の声に紛れ、一緒に追いかけている数人の住民達の怒声が平和な公園内に飛び込んできた。
その先頭で彼らに追われているのは冒険者崩れの格好をした薄汚くひょろっとした男。恐らく手持ちの資金が底を尽き、自棄になった末の行動なのだろう。
様々な街で困っている者の手伝いなどをして旅費を稼ぐ旅人が多い中、稀にこうして極端な方法を取る輩も出現するのだ。そのようなタイプは依頼を受けても、無責任に終わらせようとする傾向がある。
また、依頼者に前払いをさせておきながら仕事をしない悪質な人間も存在した。彼らは各地を転々としている為に、明確な住民の登録も無いので罰する事が難しい。それを理解している為なのか、やりたい放題悪事を働いてしまう。
基本的に旅をする場合、旅人専用のギルド登録を推奨している。身分の証明が難しい彼らにとっては一種の保険のようなもので、旅先でアクシデントがあった場合にしっかりと保証して貰える。その代わりに、月に一度、ギルドに対して補償金額を支払わなければならない。それは旅人達にとっては割高だが、資金が尽きた際に各地に点在するギルド施設に赴けば短期間の仕事も紹介して貰えるのだ。
何の準備も無く、ギルドの登録をしないまま持ち金を渋る旅人はこのように間違ったやり方で資金を稼ごうとしてしまう。
最終的には牢屋の中で一生を過ごしてしまう者も居た。
「おっや…」
ヴェスカはこちらに向かって進んでくる男を見るなり、運が悪いなぁとぼやいた。
血走った目で男は近付き、三人の目の前を通過しようとする。手には女性の持ち物のバッグを抱えたまま。
彼は前方に居る邪魔な人間達を確認するなり、苛立った様相で「どけ!!」と怒鳴ってきた。
リシェはヴェスカをちらりと見る。元々は黒い色だった為か、彼の魔力負けした赤い瞳は若干黒味がかり更に深みを増していた。
彼のさらさらした黒髪と良くマッチしていて、非常に持ち前の魅力を引き出してくる。
「おい」
やれと言わんばかりの彼に、ヴェスカは渋々了承する。
「分かったよ…」
こういう場合は大柄な男が一番適任なのだ。リシェは最初から良く分かっていた。
自分が行けば確実に舐められてしまう。
猛ダッシュしてくる相手の前にスッと立つと、ヴェスカは強気な笑みを見せながら両手を広げた。
「…どけぇえええ!!!」
いきなり壁のように出現した見知らぬ男に、盗っ人は激昂する。しかし全くそれに動じない歴戦の剣士。
完全に壁となる邪魔者に、男は手元に隠していたナイフをするりと鞘から抜いた。
「どかねぇとどうなるか分からねぇぞ!!」
明らかに危害を与えそうな勢いに、セルシェッタは思わず危ないですと声を上げた。リシェは自らが壁になるべく彼女の前にスッと立つ。
「大丈夫です。多少の怪我は覚悟の上ですから」
「ですが」
非常に冷静なリシェに、セルシェッタは困惑する。
手を広げたままのヴェスカは、明らかに挑発するかのように「ほら」とせせら嗤った。
「やれるもんならやってみろ」
迫り来る男とヴェスカの体格差は一目見ただけでも歴然の差がある。如何にもひょろっとした体を持った盗っ人では、どう見てもヴェスカに対抗するのは厳しい。
…だからこそ武器に頼るのだ。
「邪魔するんじゃねぇ!!」
咆哮を思わせるような怒鳴り声を放ちながら、男はヴェスカにナイフを振り上げる。ギラつく刃物を見るや、居合わせた人々は口々に異質なものを見たかのような叫びを上げた。
側から見れば武器も持たない人間が無防備に立ち塞がるなど、気でもおかしくなったのかと思われるだろう。
あちこちで逃げろという忠告まで聞こえてくる始末。
「相手を誰だと思ってんっ…だっての!!」
そんな助言を軽く無視するかのようにヴェスカは男の振り下ろしてくる腕を自らの右腕で強く払い退けると、相手の鳩尾目掛け重い膝蹴りを突っ込んだ。
ズンと重苦しく痛む腹。盗っ人はそこで一瞬動きを止め、ごほっと呼吸が出来ずに咳き込む。持っていたナイフが利き手から離れ、カシャンと乾いた音が煉瓦造りの路面に響いた。
「うごっ…がはっ」
筋肉まみれの硬すぎる足から繰り出される蹴りが相当効いたのか、相手はその場で崩れるように膝を着く。
リシェはすかさず男が落としたナイフと、続けて強奪したバッグを引ったくると馬鹿な事をと吐き捨てた。
「…あぁ、良かった!!ありがとうございます!」
追いかけていた女が息切れしながらも安心した様子でこちらに辿り着く。リシェは盗っ人から取り戻したバッグを彼女に手渡すと、「一応確認した方がいい」と告げた。
慌てて中を改めた後、彼女は大丈夫でしたと頭を下げる。
「そうか。良かったな」
ドスン、という何かが落ちる音と共に、ヴェスカの怒声が耳に飛び込んできた。完全に相手をダウンさせた模様。
「おら、観念しろって」
男は押さえ込まれたヴェスカの下でしぶとく必死に足掻いていた。筋肉ダルマのような相手に完全に動きをホールドされては、もう観念するしかないのだがそれでも少しの隙を窺っては逃げようと画策しているようだ。
その間にも街の警備員数人が通報を受けて公園に駆け寄って来た。
「離せ!このデカブツが!」
悪足掻きをしながらヴェスカに対して罵声を浴びせるが、一方の彼は押さえ込みながら鼻で笑う。
「黙ってろヒョロガリ。しょぼい図体でやる事がいちいちセコいんだよ、みっともねえ」
警備員達がようやく男を見つけると、固い縄を手にしながら協力したヴェスカに礼を告げる。
「ご協力ありがとうございます!」
「いや、単にこいつがこっちに来たから捕まえただけで。運が良かったよ、お互いに。なぁ?」
満面の笑みを浮かべながら、彼は押さえていた盗っ人を強引に起こすと逃げないように押さえ警備員達に引き渡した。その間にも、男は悔しい面持ちでヴェスカを睨む。
余程腹が立ったのだろう。
「いらねぇ事しやがって!」
「いらねぇ事って…アホ抜かせ。俺は大聖堂の宮廷剣士だっての。街ん中で変な問題が起きたら真っ先に前に出るのが仕事なんだよ、バーカ。覚えとけ」
そう言いながら拘束された相手の額を強く小突いた。
「はっ…!?」
やけにガタイが良すぎるのも納得したらしく、盗っ人はみるみる勢いを失ってしまう。
リシェはほらな、と溜息を吐く。自分が出れば相手は確実に納得せずに馬鹿にしてくるだろう。ヴェスカのような大柄で屈強な体型だと、捕まっても仕方無いと諦めてしまう。
悔しいが、それが普通だ。
「じゃあこちらで後は処理しますので。ご協力、ありがとうございました」
警備員が被害者の女性にも同行を求め、盗っ人を連れて管轄の施設に戻るのを見届けた後、ようやく公園内も平穏ないつも通りの姿を取り戻していく。殺気立っていた周辺の人々もそれぞれの行きたい場所へ散っていった。
「動いたら腹が減ったんだけど」
見送った後、ヴェスカの開口一番がそれだった。
リシェは無表情のまま「そうか」と返し空を見上げた。
時間は夕方近くになっている。今日は妙に時間の経過が遅いなと感じた。
早くから動いていたせいだろうか。
「セルシェッタさん。何かご入用の物とかあればお付き合いしますけど…」
「そうですね…」
流石にヴェスカの空腹を先に優先するのもどうかと思う。彼は相当な量を食べる上にその分時間もかかるので、待っていれば夜に持ち越してしまうだろう。
セルシェッタはしばらく考えた後、「ああ」と何かを思い出す。リシェは顔を上げ、どうしましたか?と聞いた。
彼女から要望があれば大変有り難い。
すると、やや言いにくそうに周辺を見回しながら口を開く。
「この辺りで武具系統の雑貨を取り扱っているお店はありますか?」
妙にしおらしい様子を見せながら言い出した物騒なフレーズに、思わずヴェスカは変な声を上げた。
「んえっ??」
「ぶ、武具?ですか??」
それはリシェも同じで、彼女が一体何を欲しているのか疑問を抱く。
こくりと頷くセルシェッタ。生真面目そうな眼鏡が光った。
「はい」
「何を買う気で…?」
「収納用にベルトが欲しいのです。そろそろ古くなってきましたので」
リシェとヴェスカはお互いに顔を見合わせると、なるほどと頷いた。日用品の何かに使う物が欲しいのだと。
こんな時にも仕事の事を考えてしまうのかと困ったが、別に悪い事ではないのでリシェは分かりました、と頷く。
「ヴェスカ」
「専門の店なら色々あるけど、近いとこに行ってみるか。どういった感じのかは行ってみなきゃ分からないしな」
専門店ならそれなりに品揃えもあるはず。
アストレーゼン内は旅人向けの旅の道具の他に、護身用の武器も多方面から取り寄せて販売しているので不足する事は無い。剣士向けの武器は勿論、魔導師や司祭向けの杖も場所によって展開されている。
ただ杖に関しては、普通の武器屋より完全にその道を熟知した魔導具屋に赴いた方が正解だろう。大抵の魔法使いは新しい杖や杖に使う魔石を求めて魔導具屋を利用する。
一方で初心者の魔導師は未熟故に簡素な杖でも事足りるので、武器屋で販売している初級レベルの杖を購入しても問題は無かった。
武器の専門店は武器だけではなく、それを収納する道具やケア用品も手広く扱っていた。街の外を出歩く旅人には欠かせない店である。安値で質の良い物をふんだんに取り入れているので、旅をしながら頑丈な毛皮や頭骨などを中心に狩猟をする冒険者にとってこの城下街に点在する専門店は非常に魅力的だった。
司祭の国であるアストレーゼンにおいては、動植物に対し殺生をする行為は善しとはしないものの、住民や旅人にそれを強いる事は無く個々の自由としている。常に人々は魔力を取り巻いている環境に置かれている為、外部の動植物がそれに干渉されてしまう可能性があり人命に危害を及ぼす恐れがあった。
緊急事態に遭遇すれば、正当防衛として攻撃も止むなしと許可しているのだ。
「行った先でセルシェッタさんが気にいる物があればいいんだけど…」
「大丈夫です。それ程こだわりは無いので」
「そっか。んじゃ案内するよ」
白い歯を見せながらヴェスカは言った。
少しでも彼女の意に叶う事が出来ればいいと思っていたので、希望を述べてくれると行動しやすくなる。彼女は話す限りでは全く欲が無く、行き先に苦心してしまうので余計にそう思う。仮に普通の一般的な同年代の女性だったらこうはならないだろう。
それまでヴェスカが付き合っていた異性と比べれば、セルシェッタは非常に扱い難いタイプだ。どこどこに行きたい、あれが食べたいと言わないので目的地が定まらないのだから。
こういうのも居るんだな、と思った。
「まあ、武器屋とかはさ。俺らも良く行くから何の問題も無いけど…意外な場所に行きたがるもんだな」
「そうですか?」
「護身術に使う物なら色々揃ってるから大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
行き先が定まったので、三人はオレンジ色に染まりつつある公園を後にすると再び大通りに入った。変わりなく馬車が行き交う大通りをタイミング良く横切り、歩行者専用道路へ滑り込む。
前よりは人の通りが減った気がした。皆それぞれの帰路に着き始めたのだろう。ただ、武装した旅人の姿が増えた印象だ。
この時間帯は外部からの旅人らが街に辿り着き、休息を得る為に宿を探しに徘徊する頃なのだ。日中の活気ある賑やかさとは少し様相が変化し、若干物々しい雰囲気を醸し出す。同時に揉め事も起こりやすい時間帯で、街の警備が厳しくなる頃合いだった。
「この通りに一軒あったな。リシェ、お前も剣の研ぎ石とか何かを買えば良いんじゃねえの?」
賑わう道を進みながら、ヴェスカはリシェに提案する。
「まだ剣が出来てないからな…」
「あぁ、まだなのか。あれから結構時間かかってんな…」
リンデルロームでの出来事でリシェがロシュから賜った剣が砕かれた為に、次は更に頑丈な剣を造らせますから!とロシュ本人が俄然張り切ってしまったので、制作にかなりの時間を要するらしい。
リシェが凹んだ以上にロシュが凹んでしまい、自分のせいでこうなったのだからと自分の護衛剣士を慰めると次は高魔力の干渉に負けないレベルの素材を使って剣を作りますからと言って退けたのだ。
恐らく制作過程の段階で自ら魔力を注入し負荷を与えつつ、魔力に強い素材を練り合わせ、その都度相談しながら鍛治職人に作らせているのだろう。
「前と同じでも構わないって言ったんだけどな」
「あぁ…何か、あれだよ。責任感じてるんだよ…操られてたとはいえ相当な暴れ様だったからな。もうあんなん相手にしたくねぇよ…」
思い出すだけでヴェスカはげっそりしてしまう。
司祭職という制御が掛かっていて良かったとすら思う位に、ロシュの魔法があまりにも酷過ぎた。あれから老朽化していた遺跡は完全に地中に沈み、丁重な供養と共に埋め立てられ石碑が作られたらしい。相当な負荷が掛けられていたので無理も無かった。
むしろ自分達が地下に居る段階で良く落ちなかったと思う。
運が悪ければ全員生き埋めにされていたはずだ。
「閉店時間は…ああ、良かった。まだ大丈夫だ。着いたよ、セルシェッタさん」
目的地の武器屋の前に立つと、セルシェッタを案内する。
茶色い煉瓦造りの頑丈な店先には重厚な鎧や剣が展示され、様々な系統の旅人の出入りも多い。
どう見ても完全に一般民の姿であるセルシェッタには不釣り合いな場所だが、彼女は普段通りに眼鏡のフレームを少し直すと案内してくれた二人に礼を告げた。
「ありがとうございます。では行ってきます」
「リシェ。お前は?」
スタスタと店内に入って行くセルシェッタを見送りながら、ヴェスカはリシェに問う。
「新しい剣の系統が分かったら考える。まだ研ぎ石は残ってるし、素材によっては逆に傷付けてしまうかもしれないからな。魔力の干渉があるなら尚更慎重にならないと」
「ははぁ…なるほどねぇ」
彼女の用事が終わるまで待つか、と一息吐いた。
武装した人々が希望の武器を求めに武器屋へ吸い込まれていくのを見届ける度に、ヴェスカは中に入って行ったセルシェッタは大丈夫なのだろうかと気掛かりになっていた。ただでさえ血の気の多い輩が旅から戻り、無事に帰還した事で自信が付いて気持ちが大きくなっている最中なのだ。
ちらちらと出入口を見ていた彼に、リシェは呆れながら声をかけた。
「心配なら様子を見てきたらどうだ?」
「いや…別に心配とかそういうんじゃなくてよ」
「単に買い物だけだろう。何をそんなに心配する事がある?」
「ロシュ様の大切なお客さんだろ?こういった物騒な場所に無防備な女が単独で入ったらさ、変な荒くれ者に因縁付けられるかもしんねーじゃん」
たかが買い物如きでいちいち文句を付けられてしまうのか、とリシェは顔を顰める。
「何かあれば俺達に声を掛けてくるだろ…心配なら見に行けば良いじゃないか」
「…まあ、皆そこまで暇じゃ無いだろうけど…」
そう言いながらちらりと店の出入口に目を向けると、セルシェッタは無事に店から出て来た。ヴェスカは「あぁ」とつい安堵の声を上げる。
「ほら。ちゃんと無事じゃないか」
リシェがそう言い負えると、何か違和感に気付き少し眉を寄せた。彼女は至って普通に店から出て来たのだが、何かがおかしい。ヴェスカもそれに気付くと、思わず「何あれ?」と疑問を抱いていた。
店から出てきた彼女の後ろで、屈強な男達が鼻の下を伸ばし恍惚とした表情で見送っているのが見える。
完全に惚れ込んだような雰囲気を撒き散らしながら、彼女の背中を目で追っていた。
「…何だ…?中で何が起きてたんだ?」
ぽかんと口を開きながら、こちらに向かってくるセルシェッタを迎えた。彼女は店に入る前と何ら変わらずに、堅物な眼鏡を掛けたままでお待たせ致しましたと告げる。
「セルシェッタさん」
ヴェスカは暑苦しい男達の視線を気にしながら小声で呼んだ。
「はい。何か?」
彼女はくいっと顔を上げ、ヴェスカに応じる。
「あれ、何?」
「あれ…ですか?」
ちらりと背後を見遣った後、彼女の視線に気付いた男達は嬉しそうな様子で姐さん、姐さん!と意味の分からない歓声を上げている。
まるで憧れのアイドルを見ているかのように。
「……何?」
リシェはぽかんと口を開きながら呆気に取られていた。
夕闇に包まれそうな空の色を見ながら、ロシュは「うーん」と唸った。そろそろ戻って来ても良い頃なのだが、リシェ達はまだ戻って来る気配が無い。
仕事もひと段落終えたので片付けをしていたオーギュは、ロシュが言いたい事を理解しているのか大丈夫でしょうと言った。
「リシェだけなら心配でしょうけど、ヴェスカも居ますし。セルシェッタさんだって大人ですから心配するだけ無駄ですよ」
「まあ、そうなんですけどねぇ…」
大人二人が付いているなら安心なのだが。
大聖堂の門限は毎日同じ時刻に定められているのだが、閉じられた際に臨時で入れる秘密の通路はあらかじめリシェに教えてある。
任務明けで帰還が遅くなってしまった際にはそこを使って戻りなさいと言ってはいたものの、やはり心配だ。
「一応、お客様も一緒ですからねぇ」
「護衛役にヴェスカが付いていれば大丈夫ですよ。あの人はああだけどやる時はやりますから。か弱い女性なら尚更です」
オーギュの足元で獣の姿のファブロスは、退屈そうにあくびをすると『ふん』と拗ねた声を漏らした。
そして主人の膝に頭を擦り付け甘える。
「よしよし…あなたはヴェスカの話をするとすぐに拗ねるんですから」
まるで子供のようだと思いながら、彼はファブロスの頭を撫でて宥めた。
ロシュはふふっと微笑むと、か弱く見えてしまいますか?とオーギュに問う。意味ありげな発言に引っ掛かり、思わずえ?と聞き返してしまった。
「やる時はなかなか好戦的ですよ、セルシェッタは」
好戦的。
…という事は、彼女は護身術どころか人並み以上に戦い慣れをしているという事になる。
「使用人の方がそのような心得があるとは…あなたのご実家で働く人達は最低限の護身術以上の能力を求められるのですか?」
「まさか。ほら、この前実家に戻って惚れ薬の材料を取りに行ったでしょう?その際にセルシェッタにお手伝いして貰ったんです。私が対処出来ない面では大分助かりましたけど…私もそこで初めて知った位ですから」
「あぁ…」
「ですから安全面では問題は無いですよ。無茶しない程度にはね。私が心配なのは揉め事に巻き込まれたりしないかと心配なだけで」
昼間は街の警備の目も明るさの為に行き届いている印象だが、様々な系統が入り混じるだけあり夜間のアストレーゼンは昼と比べて危険が隣り合わせになる場合がある。
外部から来る者は日頃の疲れを癒す為に宿場周辺の酒場に出入りし、更にアストレーゼンの住民も利用する事から常に夜間は賑わいを見せていた。
だがその賑わいの裏では内外問わず酒が入ると気持ちが大きくなり騒ぎ立てる輩も居るのも事実だ。その為に宿や酒場のある区域は、住民が居を構える場所から敢えて離れた場所に位置し、相応の店を構える事を奨励していた。
稀に散歩と言いながら酔ったまま城下街を散策する者も居るが、街を見回る宮廷剣士や警備員によって保護され宿へ強制的に戻される場合もある。
アストレーゼン側は常に旅人を歓迎し、彼らを受け入れている為に、変に騒ぎを起こされて住民と衝突するのを出来るだけ避けなければならなかった。この街に居を構えている者達に不満を抱かせる訳にはいかないのだ。
住民は外部からの来客による多少の出来事には目を瞑り、大聖堂側は問題を最小限に問題を押さえ込む事によって、お互いに理解しながら日々の生活を送っていた。
オーギュは書類を一つに纏め、自分の宿舎に戻る準備を整えるとようやくソファから立ち上がった。
「大人が二人も居るなら変な揉め事があっても大丈夫でしょう。心配し過ぎです」
「そうでしょうかねぇ…」
リシェが居ないのが非常に不安なのも理解出来なくはない。しかし近くに分別の付いた大人が二人も居るので心配する必要は無いと思うのだ。
大切な客人が戻って来ないのも心配だろうが、護衛も居るので決して手出しなどさせないはず。そもそも変な所でロシュは心配性だ。
「私はそろそろお暇しますよ。あなたももう休んでしまいなさい」
「帰っちゃうんですか」
やけに不服そうなロシュに、オーギュは怪訝そうに「帰りますよ」と返す。まだ何かあるのかと。
「リシェも戻らないのに…寂しくなっちゃうじゃないですか」
「何言い出すんです、気色悪い人ですね。帰りますよ。戻ったらやる事もあるんです」
心細さをアピールしてくるのをばっさりと切り捨てると、彼は来た時同様に窓辺に向かう。その後をファブロスがのそのそと追った。
『溜まった洗濯物を片付けないといけないからな』
「…余計な事は言わないで下さい…」
魔法の勉強や研究に没頭する余り、日常では当然の雑用を蔑ろにしていたのをあっさりとバラされた気持ちになった。完全に自分がだらしない人間みたいではないかと内心焦る。
ロシュは目を丸くした後、「なるほど」と理解した。
「むしろ私より、あなたがセルシェッタのような人が必要かもしれませんねぇ。どうです?」
ちょっとばかり悪戯っぽさを含めてロシュは微笑んだ。
出していた洗濯物を普通に片そうとしていた彼女を必死で止めようとする彼の姿を思い出し、オーギュは反射的に嫌そうな顔を向けると必死の形相で反論する。
「絶対嫌です!!お断りします!!」
やられたら絶対恥ずかしい。
あまりの必死さに、ロシュは「そうですかぁ」とにこにこと笑った。
所変わってアストレーゼン城下街、宿場区内。
あまりにもヴェスカが空腹を訴えて来るので、リシェは仕方無くセルシェッタに許可を貰い宿場区内にある酒場が密集する地域へ足を踏み入れていた。
軽装の旅人や地元の住民らが行き交う路地を歩きながら、頃合いの店を探し続ける。当然酒によって完全に出来上がった者もあちこちに見受けられ、道行く人々にふざけた声をかけたり体調を崩しその場に座り込む酔っ払いも視界に映った。
「ここはこういう場なのですね」
大衆向けの酒場とは縁の無かったセルシェッタは、酔い潰れて道で大の字になって寝転がる男を遠目で見てやや不快そうな表情をしていた。一方でその環境に嫌という程慣れているヴェスカは、「そうそう」と軽い感じで返す。
「ここはそういう場所なんだ。日常を忘れるにはぴったりの場所。羽目を外す奴も居るけど、ゆっくり飲みたい奴も居る。ただ変なのが目立つだけだよ。ああいうのは放っておけばいい。変に手出しして揉めたら面倒だ」
「あのままではあまり良くは無い気もしますが…」
「確かにな。俺らも最初は取り締まってはいたんだよ。たまに巡回強化期間を設けて見回るんだけどな。ただ、とにかくキリが無いんだよ、特に外部からの酔っ払いの相手は。とにかく居過ぎて手に負えない。だから酒を提供する際に、住民以外の奴らには飲酒後この区域からは絶対に出ないように同意させてから飲ませる事になってる。たまに出る馬鹿も居るけどさ」
「あまり治安は良くないのですね」
セルシェッタは表情を若干曇らせる。やはり彼女には受け入れ難い様子だ。
「あんたは相当育ちが良いみたいだなあ」
ずっとラウド家に居たので仕方無いのかもしれない。ヴェスカは何事も経験だと言うと、酒場の物色を再開する。
大衆向けの場所は狭い事から、やや広さもあり密接しない程度の落ち着ける場所を選ぶ事にした。
「リシェも居るから比較的うるさくないとこにするか」
あちこちで騒がしい声や変な歌い声を聞きながら、リシェは冷静にもう十分喧しいけどなと溜息を吐く。
夜も深くなりつつあり、どの店に行っても大差無い雰囲気だ。とりあえず何処でも良いから早く飯にありつけば良いとリシェはヴェスカに促した。
「俺は早く戻りたいんだ。夜も遅くなるし」
「分かったよぉ…じゃ、適当に選ぶからな!」
並み居る酒場の中で、ヴェスカはある一軒に目を付けた。店頭前にあった酒樽のオブジェに掛けられていたメニュー一覧をチェックした後、満面の笑みで「ここにするわ」と親指で店を指し示す。
「激辛チョリソーの香菜乗せにだってよ。絶対美味いやつじゃん。サラダもデザートもあるからセルシェッタさんにも良いんじゃないかな」
「お前は肉が食えたらそれで良いからな」
ヴェスカと比べかなりの少食であるリシェはぼそりと呟いた。
「ち、ちゃんと他もバランス良く食べますし!ほらほら、入ろ入ろ!!」
空調を効かせる為か、開け広げていた木製の扉から中に入る。快調な音楽と共に食事や酒を楽しむ客の様子と、店内に充満するアルコールやスパイシーな香りが鼻を突いてきた。
この店は主にスパイス系の料理を取り扱っているようだ。
「腹減ったあ…」
「分かったから早く進め」
店の出入口で突っ立ったまま、料理の匂いに幸せそうな顔を浮かべる大男の背中をリシェは軽く小突いた。
「いらっしゃいませぇ~。三名様?」
麦酒のジョッキを持った女性がこちらに声を掛ける。
「大人二人に子供一人!」
「おい!!」
子供扱いされたくないリシェはすかさず反論した。
「仕方無ぇだろ?お前はまだ十六なんだから。申告はしないといけないしさあ」
「大人二名にお子様一人、ご案内しまぁす!」
「お子様って…!!」
否定が出来ない年齢なのが悔しい。
店員にそのまま導かれ、三人は空いている円形の席に着いた。年季が入っているテーブルのせいか、少しばかり傾いていたが修正している為かそこまで気にはならない。
「何にしますぅ?」
「とりあえず俺は麦酒かな。セルシェッタさんはどうする?お酒、いける?」
「多少なら」
「好きなの選んでいいよ。支払いはこっちに任せてくれていいから。リシェはオレンジジュースか?」
やたら子供扱いをしてくるヴェスカに、リシェは立腹しながら「勝手に決めるな!!」と怒った。
酒場に行けばほとんどオレンジジュースを勧められてしまうので、リシェはメニューを開きながらソフトドリンクの項目を見る。しかしこの店は酒類は充実しているが、アルコールの無い飲み物は少なかった。
ぐぬぬ、とメニューと睨み合いをする。
「ここにはミルクは無いんだぞ」
「うるさい!」
ぷりぷりしながらメニューから顔を上げると、彼は「フルーツジュースで!」と注文する。
普通に似た系統で、ヴェスカはつい突っ込んでしまった。
「同じじゃねえかよ。オレンジジュースと」
リシェはムキになって違う!と怒りだす。
「こっちはフルーツ沢山だ!」
そういう問題か?とヴェスカは苦笑いした。
飲み物と、適当に食べる物を注文して届くのを待つ。
周囲を改めて見回すと、来客のほとんどが軽装の旅人が中心でラフな格好の姿の人間は少数派だった。
ここは主に旅人向けの店なのだろう。メニューも多方面の名物料理がメインの中に含まれている。
「お待たせしましたぁ」
最初に注文した飲み物が卓上に置かれると、ヴェスカは待ってましたとばかりにジョッキに手を掛けた。
「こちらはお子様のお客様にサービスでお付けしているクッキーでぇす」
店員はそう言いながらジュースのグラスの隣に小皿に乗せたクッキー二枚を置いた。リシェはますます複雑そうな顔を見せる。
どこまでも子供扱いされてしまうのかと。
「良かったな、リシェちゃん」
「良いものか…」
テーブルに置かれたジュースと小皿を見つめながら彼は呟いていた。
「さ、とりあえず飲もっかぁ。セルシェッタさんも遠慮無く飲んでくれよ」
「はい。ありがとうございます」
乾杯を済ませ、それぞれの飲み物を口にすると、次々と頼んだ食べ物がテーブルに運ばれてくる。
「やっと食えるな!」
燦然と並べられた食事の数々を見て、待ってましたとばかりにヴェスカは歓声を上げた。リシェは大量の料理を見回した後、隣のセルシェッタを見上げて声をかける。
「こいつの食欲は凄まじいので、先に食べたい物を取り分けた方がいいですよ。とにかく凄いので」
彼女は料理を見回した後、無表情で「はい」と返した。
リシェは彼女に小皿を数枚手渡しながら、牽制するように「欲張って食うんじゃなくてゆっくり食え」とヴェスカに告げる。
「いい大人が食い意地を張って色々手を付けるのはみっともないからな」
「…お子様って言われたからって当て付けのように言うなよ…」
個々で食べたい物を取り分けている最中、見回っていた店員が次の注文を聞きにやって来た。ヴェスカはセルシェッタにメニューを手渡すと、「好きなのがあったら頼むといいよ」と声をかける。
「はい」
「お屋敷で食べる物とはちょっと癖があるかもしれないけど」
「大丈夫です。お屋敷は特別な何かが無い限り、至って普通の食事ですから」
その食事ですら一般庶民とはかけ離れているような気がするのだが。彼らの言う普通とは一体何なのだろうかと思う。
メニューを見通した後、セルシェッタは店員に「こちらを」と指差した。それが何なのかはリシェ達には分からない。
「リシェは?」
「俺はある物でいい。物足りなかったら頼む」
「そっか。んじゃ俺は…」
そもそもヴェスカの頼む食事の量が半端無いのでこちらが追加して頼む必要性が無いのだ。それ位、彼は凄まじい食欲だった。
体も大きく良く動き回るので仕方無いかもしれない。
その為に剣士として相当恵まれた体型になったのだろう。
「リシェ、ちゃんと沢山食えよ。背だって伸びないからな」
「お前のその食欲を見ていれば急激に腹一杯になるんだ…」
「人のせいにすんなよ」
ややむくれながらそう言うと、早速ナイフとフォークを駆使して食事にありついた。
酒と一緒にガツガツと食べていくヴェスカを、セルシェッタは呆気に取られながら見ている。やはりその気持ちのいい食べっぷりが気になったらしい。
「食欲旺盛ですね」
「んんあ?…まぁ、そうかもなぁ。毎度あちこち動いてるからな。遠征とか行けば食いっぱぐれる時もあるし」
「遠征…ですか?」
「ああ、俺らは大聖堂だけじゃなくて、アストレーゼン全域に飛び回ったりしてんの。リシェはロシュ様の護衛役になってからはそうもいかなかったりするけどな」
「なるほど…」
セルシェッタはリシェをちらりと見た。
「護衛役はどうしたらなれるものなのでしょうか」
もしゃもしゃと肉料理を口にするヴェスカ。
リシェは彼女の質問に、複雑そうな表情を見せる。気が付いたらそうなっていたとは言いにくいのだ。
剣技会に参加して、対戦相手と争った末に大量出血で気が遠くなっていたのでそれ以降は全く分からなかった。目を覚ましたらいつの間にかそうなっていたというのがリシェの認識だった。
ただ、自分はロシュに憧れていた為にそれを喜んで受け入れただけの話。
「御前試合でお目に叶ったみたいな感じだっけ。オーギュ様は最初は反対したらしいけどさ。リシェがまだ子供だから」
「やたら俺を子供って強調してくるなお前…」
しつこい、と苦言を呈していると、少し前に注文した物がテーブルに届いた。揚げたての小さな唐揚げを見た瞬間、ヴェスカは「おわっ!?」と声を上げてしまう。
「ガマピグラ緑黄虫スパイス揚げ、ミルトランダの三種ハーブ添えでーす」
揚げた後でも分かるカラフルな芋虫風の揚げ物の皿が眼前に置かれると、びくびくしながら「誰…」と問う。怯えるヴェスカの前で、無表情のセルシェッタは私ですと答えた。
芋虫系統が全く駄目なヴェスカはごめんと謝ると、自分の視界から見えないように皿を配置し直した。
「ほんとごめん」
ずりずりと大きな肉の塊を揚げ物の前に設置する。
「苦手なのですか?」
そんな彼とは完全に真逆のセルシェッタは、普通の唐揚げを食べるような様子で小皿にレモン汁をかける。
「あぁ…ヴェスカは基本的に何でもいけるけど、芋虫とかそういうのが苦手なんです。気にする事はありません」
「はぁ…そうなのですね」
「全然大丈夫なんだ?そういう感じの」
「ええ。美味しいですよ」
レモン汁に付け、ゆっくり食べ始める。
「どんなお味で?」
「甘辛い味がします。素揚げでも美味しいのでたまに食べますが、この見た目なのであまり好まれないかもしれません」
リシェは「へぇ…」と言いながら唐揚げの乗った皿を見る。確かに緑や黄色、黒の奇怪な模様が入り混じる芋虫の揚げ物は決して見映えもいいとは思えない。
「良く見れるなぁ…」
あまりにも普通に口にするのでヴェスカは信じられない様子だった。
「昔からこういうのには慣れていますから」
「昔からって…」
「最初は勿論苦手でした。見るのも嫌でしたが、庭で遊んでいたロシュ様が様々な昆虫とかを私に見せて下さって。それで少しずつ見慣れてきたという感じですね」
話を聞きながらヴェスカはリシェと顔を見合わせる。
最初は嫌だったという相手に、わざわざロシュは見せてきたという事なのだろうか。
「最初は…って事は、結局嫌々見せられたんじゃないですよね…?」
疑問に思った事をすぐに口にして問う。
「見慣れない頃は流石に嫌で逃げ回っていたものですが、ある時を切っ掛けに少しずつ見れるようになりました」
リシェは無言になっていた。
…めちゃくちゃ嫌がらせではないか、と思いながら。
自分の知らぬ所にも関わらず、何故か申し訳無い気持ちに陥る。ヴェスカもリシェの気持ちを察してか、「そ、そうかぁ…」と言葉を濁した。
それでも奇抜なメニューを口に出来るまでになったという事は、結果的に良かったのかもしれない。
良くトラウマにならなかったものだ。
「えっと、セルシェッタさんはロシュ様の小さい頃から知ってるって事だよな?結構やんちゃな性格だったのかな」
「はい。私の家は代々ラウド家に仕えていますので。小さい頃からずっとお屋敷で暮らしています。性格は…どうでしょうか。多少の変化はあるとは思いますが」
「あぁ、だからあまりロシュ様の前でも緊張とかしなかったんだな。普通じゃ結構緊張しちゃうもんだからさ。俺もあの塔に行った時は緊張しちゃったし」
二人の話を聞きながらサラダに手を付けるリシェは、ちょっとばかり彼女が羨ましいと思ってしまった。幼い頃のロシュの姿を間近で見れるなんて、物凄く羨ましい立ち位置だと思うのだ。
彼が好きだから尚更。
「手洗いに行ってくる」
リシェは複雑な気持ちを紛らわせようと、一旦席を離れて気持ちを切り替えようと思った。ヴェスカは「おう」とリシェを見る。
「場所分かるか?こういうとこは色んな奴が居るから気を付けろよ。何かあったらすぐに戻って来い」
「分かってる」
酒場はアルコールによって気持ちが大きくなる場所なので、ちょっとした隙間を狙って変な場面に遭遇しやすい。ましてやリシェのように見るからに綺麗な顔と華奢な容姿となれば、変な輩が惹きつけられてしまう。
男所帯の兵舎でもそうなのだから、本人も慣れているものの不安要素が高いのだ。
リシェが手洗い場の看板を見つけた後、そこへ向かって席を外した後でヴェスカは身を縮め、声を潜めてセルシェッタに質問する。
「セルシェッタさん」
「…はい?」
「小さい頃からロシュ様を知ってるって事はさ、好きとかだったりする?」
直球過ぎる質問を受けたセルシェッタは、食事の手を止めると今まで見た事の無い様子を見せ始めた。酒のせいもあるだろうが、頬が少し紅潮し動揺している。
「はっきりと仰る方ですね」
困惑混じりに言う様子は、明らかに図星を刺された雰囲気だった。
ヴェスカは「ありゃ」と一瞬面食らった顔を見せる。
「なぁんだ、そんな感じか。だろうな。すぐ近くに居てさぁ、しかもあんな美形だもんな」
「私はあくまで使用人の立場ですし」
ぐっとグラスの中にあった酒を飲み干すと、気持ちを落ち着かせる為に一息吐く。そしてヴェスカを軽く一睨みすると、誤解なさらないで下さいと告げた。
あまり他者に知られたく無いのだろう。
ふぅん…と言いながら、ヴェスカはちょっと顔が緩んでしまった。平然とした様子を装ってはいるものの、内心動揺しているのが良く分かってしまう。
「…そういやリシェちゃんは大丈夫かね。この店で迷子とかになってないだろうな」
手洗いに行っている割には戻りが遅い気がする。ふと、吊り下がっている手洗いへの案内看板を見上げた。セルシェッタは火照った顔を不意に上げ、同じように看板を見上げる。
大衆向けの店の手洗い場なので、そこまで混み合っているようには思えない。
店内はいつもの賑わいを見せ、不穏な雰囲気は微塵も無いように思えた。
「…最近物騒でな。普通に人売りしている奴らとか追い剥ぎで金取ろうとしてる奴らが居るもんだから、俺らみてぇなギルド依頼で資金調達してる側にとっては相当迷惑なもんよ。パッと見て悪さしてる奴なんざ、見分けが付かねえからな」
近くで飲み食いしている別グループの男が仲間と談笑している野太い声が飛び込む。
「いくら規律のあるアストレーゼンでもこういう色んな奴らが入ってくる場所じゃ監視の意味も無いからな。しかも外部から来た奴らなんざ取り締まりもままならねぇし。人買いが城下街に居ないとも限らねえしよ。お前も住民なら気を付けた方がいいぞ。娘居るんだろ?」
どうやらこちらの住民と久しぶりに再会した旅人らしい。
まさかなぁ…とジョッキを煽ったが、いきなりそんな危険な目に合う程不運では無いと思いたい。
ヴェスカは話を聞いた後、おもむろに立ち上がった。
「ちょっと見て来るかぁ」
「大丈夫ですか?」
「まぁ、すぐそこだし。何かに当たって苦しんでるかもしれねえしな」
すぐ戻るよ、と笑顔を見せて彼は席から離れた。
セルシェッタは頼んだ揚げ物を再び頬張る。
慣れない喧騒に居続けていたせいか、逆に静寂が恋しくなる。屋敷の中の生活音に慣れていた為に違和感を抱いていた。
狭い店内を行き交う人々の流れを背中に受け、ヴェスカとリシェが戻って来るのを待っていると、三人程の強靭な体躯を持った軽装の旅人が店外に向かう。狭い通路をのしのしと歩いているので進み難く、荒ぶった様子を見せながら退けろと声を掛けて歩いていた。
椅子を蹴られたらしい客は迷惑そうにしながら渋々避け、通過した後で何だあいつらと不愉快そうに愚痴を漏らす。
このような状況は決して珍しくは無いが、治安の悪さを表現していた。
セルシェッタは不意に顔を上げて店を後にしようとする彼らに顔を向けると、ふわりと漂ってきた匂いに思わず立ち上がる。
ロシュと同じ香水の香りが鼻を掠めたのだ。
「…お待ちなさい!!」
いきなり声を上げた彼女に、出ようとした男らは睨みを利かせ一瞬振り返ったがそのまま無視して出て行ってしまった。
「………っ!」
相手が女だからとスルーされたのか。
セルシェッタは奥歯を噛み、追いかけようとする。
同時に彼女の剣幕に驚いた周辺の客も何事かと動きを止めた。
「セルシェッタさん、リシェ戻って来た?」
その時ちょうどヴェスカが戻って来る。セルシェッタは「いいえ!」と言うと、戻って来た彼に告げた。
「今出ていかれた方…あの方達を追ってみます」
「え?」
男達が居なくなった事で店内は再び喧騒が戻り始める。彼らが店から去り、特別変な事はないのだろうと皆が判断したのかもしれない。
セルシェッタは脳裏に浮かんだ直感を無視する事が出来ず、ヴェスカにご馳走の礼を告げるとそのまま店から出ようと動き出す。
「あんた単独じゃ危ねぇって…!待て待て!」
意味が分からずにいるヴェスカは、近くに居た店員に手持ちのお金を多めに出した後で卓上にあった骨付き肉を引っ掴むと、すぐに彼女を追った。
朦朧としながら、リシェはどうにかして今の状況から打破出来るようにひたすら思案していた。
…くそっ、何を嗅がせやがった?
布を全身に被せられたまま抱えられ何処かへ運ばれているのは何となく理解出来たものの、全身が麻痺したように身動きが取れない。
記憶が手洗い場の鏡の前で途切れていたが、少しずつ状況を思い起こす。奥の方で駄弁っていた大きな男達が居たのは記憶にあった。こちらを見るなり嫌な笑みを浮かべていたのが印象的だったが、顔を軽く洗ってからさっさと戻るつもりだったのでスルーを決め込んでいた。しかし後から一人手洗い場に入って来て、口笛が聞こえたかと思うと同時に背後に人影が過ったのだ。
関わると面倒だと退散しようとした瞬間、口元に青臭い何かの匂いがして眠気が襲い意識が飛んでいた。
ヴェスカに同伴して貰えば良かったのだろうが、そこまでして貰いたくは無かった。全身の麻痺状態のままで、リシェは軽く呻くと足を少しばかり動かす。
「目ぼしいものが居ねぇと思ったらとんだ上玉が飛び込んで来たもんだな。身なりもそれなりに良いし、相当価値が上がるぞ」
離れた角度から下品な笑い声と共に声が聞こえてきた。
「その前に少しばかりお手付きさせて貰うか。可愛い顔だし売れる前に味見してもバチは当たらないさ」
自分を抱えている男は、酒臭い息を吐きながら笑う。
がっしりした腕と胸板からして、かなり大柄なタイプなのが布を通して分かった。
どうやら彼らは自分を何処かに売る気でいるらしい。リシェはふざけやがってと全身に力を入れて反抗しようと蠢いた。
「お?…何だ、気がついたのか」
リシェを抱えていた男は彼を包んでいた布を軽く寄せる。
「う…っぐ、貴様…何を」
声すらなかなか出す事が出来ない。かなり強力な薬品を嗅がされたのだろう。精一杯口を開こうとしたが、麻痺状態にある為か思うようにいかなかった。
必死に口を開こうとする余り、端から涎が出てしまう。
「おう、随分と威勢が良いガキだ。待ってろよ、存分に可愛がってやるからな」
馬鹿にされた気がして、リシェは激昂し全身を必死に動かそうとしたが相手にとってはささやかな反抗にしかならないのだろう。
鼻で笑われながらやめとけと言われる始末。
「おい、媚薬は持ってねえのか?」
「あ?ある訳無ぇだろ、お前が馬鹿みたいに使うから」
「…んだよ、人のせいにすんなよな」
男達は酒場の密集地帯から離れ、人の気配の無い路地へ入っていく。宿場区は酒場がひしめき合っている為に、その場に人が密集しやすい。そしてそこから少し奥に進んで距離を置けば、静かな場所へといきなり変化するのだ。
各地からやってきた荒くれ者が集結したこの場は危険地帯となる為、住民でも奥には足を踏み入れたりしなかった。
「この辺りでいいだろ」
不意に動きを止め、リシェは地面に降ろされる。ふわりと被された布が剥がされると、男達の吐息混じりの歓声が聞こえた。
それはリシェの心情を酷く不愉快なものにする。
「薬が無ぇのは残念だな。まあ可愛がっているうちにその気になるだろ。…周りは誰も居ねぇよな?」
男の声は次第に熱量を帯びる。
「居ねぇよ。居ても追っ払うだけだろ」
少しずつ体に力が戻ってきた気がして、寝かされていたリシェは両足を少し動かしてみた。次に、手を動かしてみる。
こんな汚らしい奴らに触られるなんざ御免だ、とゆっくり瞼を動かすと少しずつ上体を起こした。
自分を抱えてきたリーダー格の男は、獣のような雰囲気を撒き散らしながら自らのベルトを外して準備を始める。仲間の二人も暗がりの中だが、下品な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
目の前の男は屈み、リシェに近付きながら薄汚れたズボンのファスナーを下ろす。
大人しくするふりをして様子を伺っていたリシェは全身の力が戻りつつあるのが分かった瞬間、軽度の魔法の詠唱を口ずさみ目の前に光球を出現させた。
「!?」
「何だこのガキ!?何をしやがっ…」
その小さな光の玉は少しずつ大きく膨張し、一気に弾ける。
一般人に対してならこの位の脅しが丁度良い。
「魔法というものを知らないのか?」
リシェは嫌味のニュアンスを含めて小馬鹿にする。
…ようやくまともに口が動いた。
僅かな照明を頼りにしてリシェは目を動かして辺りを見回す。宿場や酒場エリアにばかり照明を集中させるせいで、あからさまに人気の無い区域に関しては明かりが行き届いていないのだろう。
改善の必要がある。
ただでさえ酒場なんてものは店の照明で目立っているようなものだ。区内にある街灯は設置する必要が無い程に明るい。
自分はまだ行く機会が無いので捨て置けばいいが、こんな風に被害を被ると悪い所が目についてしまう。
犯罪者にとって、隠れ蓑としては最適な環境にあることに。
「このクソガキ!」
意外な所で脅され、怒りに任せて向き合う男は怒鳴ってきた。リシェに更に近付こうとするが、それも魔法によって弾かれる。
バチン、と全身に放電を感じて反射的に身を退く。ここにきて無意味な抵抗をしてくる相手に、男は苛立ちを徐々に見せてきた。
「こいつ…」
尻餅をついた状態のままで少しずつ後退りをするリシェは、少しでも時間を稼ごうとしていた。そのうち異変に気付いたヴェスカが探しに来てくれるはずだ。
経験上、人気の無い場所を真っ先に探すだろう。
まだ自分の体が自由に動かないので自分なりに防御しておかないとならない。
城下街でうろつく程度だからと思って、武器を全く持って来なかったのが悔やまれる。おそらくヴェスカも持ってはいないだろうが、持ち前の馬鹿力でどうにかしてくれるはずだ。
そして杖が無いものの、自分には少しばかりの魔力もある。
魔法の心得の無い荒くれ者を引き離す程度には作用してくれるはずだ。
「何処から来たのか知らんが、俺はそう簡単にお前らの手には落ちないぞ」
朧げな明かりの下で強がる少年を見下ろしながら、粗暴な男達は嘲笑混じりに「強がりやがって」と言った。
「今にそう言えなくさせてやる」
「早く喰っちまえ。次がつかえてるんだからよ」
彼らの呼吸は少しずつ荒くなっていった。頭の中では既にこの生意気な少年を犯しているのだろう。逸る気持ちを押さえながら、リーダー格の男を急かしていた。
生きるか死ぬかの状況下で緊張を常に強いられる旅人にとっては、日頃のストレスの発散手段はアルコールかセックス位しか無い。
いずれも金があればどうにかなるが、持ち金が尽きる事が多い無計画なタイプの人間はそれすら叶わなくなってしまう。
酒は少額でどうにかやり過ごせるが、性欲となればそうもいかない。最終手段として、行きずりの相手を強引に攫って秘密裏に行動を起こすしか方法が無かった。
酒場に居る女を攫うのはリスクが大きいので躊躇してしまうが、リシェのように中性的な容姿で後先面倒な事にならない少年なら絶好の相手だ。
しかもこのようなタイプは自分の魅力を理解しているのか、自ら身を差し出し金銭を要求してくる積極性も持つ場合もある。
同じ旅人だと運良く意見が合致する時も多々あるのだ。
現在自分らが目の前にしている少年も、行きずりの旅人を相手に身を売り旅費を稼ぐ人間なのだろうと思っていたのだが予想に反して抵抗の意思を見せていた。
目を凝らして見れば、身なりもしっかりしている気がする。
くたびれた酒場で燻る風には見えない。しかし、その気丈な顔を崩して痴態を眼前に晒された姿を想像すると、全身が熱くなり中心が更に張り詰めた。
暗くても僅かな明かりで分かる相手の美少年は、その辺では滅多にお目にかかれぬ容姿なのだ。逃す訳にはいかない。
まずは自分達で味見して、そこからどの位の高値で売れるか吟味したい。
舌舐めずりしながら、リーダー格の男は再びリシェに近付き「いいから大人しくしろ」と命令する。
「お前も俺らと同じなら資金繰りに困ってんだろ?少しなら工面してやってもいいんだ」
周囲を警戒している三人目の仲間は、人の姿を遠くで確認すると声を潜めながら早く口を塞げと促した。
「叫ばれたら面倒だろが」
「うるせぇな、このガキが抵抗するんだから仕方無ぇだろ」
リシェは馬鹿にするなと鼻で笑った。
「何故品性の無いお前らを俺が相手にしなければならない?その汚らしい顔と手で俺を手籠にしようなどと良く言えたものだ」
素性も分からない人間に好きにされてたまるかと、尻を付いたまま下がる。
「ふん、生意気な口を言えるのは今の内だ。裸にひん剥いてひいひい言わせてやる」
アーモンド型の目は、その醜悪さに思わず細くなっていく。やはり思っていた通り、下半身で物を考える低俗な輩なのだから呆れてしまった。
薄汚い奴めと悪態を吐く。
「おら、大人しくしな…痛いのは嫌だろ!」
向き合う男はリシェに掴み掛かってきた。すかさず小柄な体は身を躱すと、その代わりに左足で勢い良く相手の右足首を蹴飛ばした。
予想も付かなかった反撃に、ぐっと喉を詰まらせバランスを崩す。蹴飛ばした事でようやく自分の身が自由になったのが分かり、リシェはそのまま両足に力を入れて立ち上がると卑怯な荒くれ達から数歩離れた。
もう少しでという所で逃げられたせいか、リーダー以外の男達は舌打ちし「何してんだよ!」と叱咤する。滅多に見ない極上の獲物を逃したく無いのか、持参していたナイフを鞘から抜くとリシェに向けてギラつかせた。
武器を見せれば怖気付くだろうと安易に考えたのだろう。
「おら、怪我したくねぇだろ?なあ。逃がしやしねぇぞ、坊ちゃん」
「こっちは三人居るんだ。完全に不利だよなあ?諦めて俺らと遊んだ方が楽に」
リシェは無言で右手を突き出し、魔法で光球を作り始めた。
この期に及んでまだ抵抗をする気かと表情を曇らせた男達に対し、彼はフンと見下げ果てた様子で口を開く。
「そこまで言うなら遊んでやる…泣いたりするなよ!!」
光球が膨れ上がり、リシェは空に向けて弾き飛ばした。上空に飛び出したそれは激しく木っ端微塵に砕かれ、目を覆いたくなる位に眩く輝きを放つ。
三人の男達は目眩しをされ、思わず顔や目を逸らしながらよろめいてしまう。同時に沸き起こる鼻を刺激するような煙たさで、思わず咳き込んでしまった。
「この…っ、何しやがった」
「遊んでやると言っただろう?ご希望を叶えただけだ。何が不満だ?」
リシェは苦しみだす彼らに吐き捨てるように答える。周辺には大量の材木や金属類が所狭しと並べられていたが、この爆発でガラガラと地面に落下していった。
後始末はどうするかと考える余裕など無い。まずは自分の位置を仲間に知らせるのが優先なのだ。
自分の姿が無い事は既に知っているはずで、探しているだろうと踏んでの行動だった。
捕まって大人しくしている馬鹿は剣士には向いていない。
やがて騒ぎを聞き付けたのかこちらに向けて近付く足音と共に、軽薄そうな声が飛び込む。自分の目論見通りに、リシェは思わずふっと口元に笑みを溢した。
ヴェスカは自分に素直だから、異変があればすぐに駆けつける。少しの異変でも気になる性分だからこの場合も非常に助かった。
「いい目印だなぁ、リシェちゃん。魔法の腕もしっかり磨いてんだな」
「馬鹿正直に聞き付けてくれて良かった」
安心するリシェに対し、荒くれ達は予想外の加勢に不愉快そうに顔を曇らせた。リーダー格の男はくそっ!と悪態を吐いてどこまでも抵抗を続ける少年を睨みつける。
ここまできて邪魔が入るとは思いもしなかったようだ。
「てめぇ…!!」
物事がうまくいかない腹いせをぶつける。
「お前らが三人で遊ぼうって言うなら、こっちも人数が必要だろう?ありがたく思え。こっちの方が頭数足りないけどな」
自分とヴェスカだけで事足りると思っているリシェの言葉を遮るように、声が飛び込んでくる。
ん?とリシェはぴくりと反応した。
「それがさぁ…」
困ったような様子のヴェスカの声。
「二人ではありません」
凛とした声が周囲に響いた。コツリとヒールの音と共に。
「セルシェッタさんも追い掛けてきちゃったんだよねぇ…」
「………は?」
無防備すぎるだろう、とリシェは脱力する。
「ヴェスカ、止めなかったのか?」
武器も無い彼女が来たとしても、危険要素が増えるだけなのだ。
「いや、止められなかったんだよぉ…すいません」
困惑を隠しきれないリシェに、ヴェスカは素直に謝った。
「アホか…」
突然の女性の出現に、相手側もおぉっと歓声に近い声を上げる始末。獲物がまた増えたと言わんばかりに、更に興奮度を上げていった。
「よしよし…まさかの女だよ。さっさとぶっ倒してお楽しみの時間にしてやろうか」
口笛混じりに下品な笑い声を上げると、ヴェスカはつい「あーあ」と残念そうに苦笑いした。
「リシェ、お前自分の素性を明かして無かったのか」
少なくとも正体を示せば、揉め事を回避出来たかもしれないのにと思ったのだ。彼は普通ならば手出し出来ない立場なのだから、外部からやって来た人間でも躊躇うだろう。
リシェは馬鹿言え、と吐き捨てた。
「こんな脳味噌に筋肉が詰まってるような奴らに、こちらの言葉が通じるか知れたもんじゃない」
挑発とも受け取れる発言を受け、相手側の男は生意気に!と激昂し持っていたナイフを振り上げる。リーダー格は「よせ!」と止める間も無く、ナイフの鈍い切先はリシェ目掛け進んで行った。
我慢の限界を超えたのか、三人の中で一番短気なのか、ここまできて馬鹿にされるのは耐えきれなくなったらしい。
ふんと鼻で笑い、迎撃する為に魔力を介し空砲を作りあげていた矢先、ひゅんと何かが空気を斬る音が聞こえる。
「?」
子供が縄跳びをする時の音と非常に似ていた。
「あっ…え??へぇええええ!?」
遠くでヴェスカの変な悲鳴に似た叫び。同時に、リシェの目の前に居る男の動きが止められていた。顔を上げると、彼がナイフを振り上げていた手首がロープのようなものでぐるぐる巻きにされている。
急に武器を持っている手を拘束される形になってしまい、慌てて解こうとするのを見たリシェは力任せに彼の足の腱目掛けてガツリと蹴り飛ばした。
「ぐっ!」
バランスを崩し、同時に持っていたナイフをぽろりと落とす。すかさずリシェはその薄汚れた武器を奪い、ヴェスカの居る方向に向かってダッシュした。
出来るだけ仲間の近くに居る方が攻撃しやすい。若干疲労気味の体を回復させながら、突如飛び出したロープの元を目線で辿る。
予想外の状況だったがそのロープのお陰で助かったのは事実だ。
「………え?」
そしてつい言葉を失う。
「な、何なのそれ!?セルシェッタさん!?」
ロングサイズの鞭を駆使する彼女の姿。左脚に隠されていた収納用のベルトに加え、美しくすらりとした美脚を剥き出し鞭を握る手を強めている。
ロングスカートから覗く黒いガーターベルトと同色のストッキングが目に入り、見慣れぬリシェは妙に恥ずかしくなってしまった。
スカートかと思いきや、内部にざっくりしたスリットが入っている。それが余計艶かしさを剥き出しにしているのだ。
「エロいのは!いけない事だと思います!嬉しいけど!」
あまりの衝撃に、ヴェスカは狂った事を叫ぶ始末。何を言っているのかとリシェは顔を歪めてしまった。
想像すらしなかった彼女の出方に、男達の態度が変化していく。
「伏兵かよ…ふざけやがって」
リーダーは無表情で鞭の手を緩めないセルシェッタを睨んだ。
リシェは奪ってきたナイフをヴェスカに渡す。
「あれ、いいの?」
「何も持ってないだろ。俺は魔法があるし。手ぶらでどうする気だったんだ?」
「その辺の棒でも使おうかなって思ってたんだよ…それに、あまり街の中で暴れる訳にもいかないだろ?適当に追っ払う程度に留めておいた方が」
言い終える前に、怒りの熱量を放ちながら向かってくる拳。
「…余裕かましてんじゃねぇ!!」
言いかけていたヴェスカに向け、顔面を引き攣らせたリーダーが殴り掛かってきた。うおっ!と声を上げ、寸前で回避する。
避けられた為振り上げた拳は空を斬った。回避されればそれ以上に、男達の心証を損なう結果になってしまう。
いずれにせよ、どう足掻いても悪い状況に変わりない。
「この野…」
怒りに歯軋りし、仲間達も苛立ちを見せ始めた。
ヴェスカは「まだ何もしてねぇだろ!!」と叫ぶ。
「勝手にそっちから攻撃しといて逆切れかよ!」
面倒臭いなぁ!と喚く。軽く追い払うつもりでいたのに、相手側はなかなかのガチ具合なので困惑する。
「逃がしはしねぇぞ。舐めやがって」
男達は完全に獲物を狙うかのように息巻き、血走った目でそれぞれの武器を手にしている。
これはあまり良くない傾向だ、とリシェは溜息を吐いた。結局こうして拗れるのかと。
ヴェスカからやや距離の離れた場所に居るセルシェッタは、拘束していた男を一旦解放すると手慣れた様子で持っていた一本鞭を収納すると「退散しましょう」と告げた。
「面倒な事になる前に戻った方が宜しいと思います」
「えぇ…もう面倒な事になってる気がするけど」
彼女の提案に、リシェも同意する。
「ここで大事になってしまえば、大聖堂とロシュ様に余計な傷が付きます。それだけは避けなければならないのではないでしょうか」
夜中に喧嘩沙汰を起こす大聖堂関係者が居ると噂をされては、言い訳も出来なくなってしまう。その中に司聖と深い関わり合いがある人物が含まれているとなれば、世間はどう思うのだろう。
ヴェスカはううんと唸り、確かになとぼやいた。
相手にすればするだけ時間も遅くなってしまう。
「…素直に逃してくれるとは思えないんだけどねぇ」
ここまで頭に血が昇っているとなれば、無事に自分らを返してくれるとは思えない。最悪自分だけ残ってリシェとセルシェッタだけでも先に行かせようか、と考える。
「仕方無ぇな。んじゃリシェ、お前はセルシェッタさんを連れて…」
「余計面倒になる。俺に任せろ」
ちょっと覚悟を決めたにも関わらず、リシェはヴェスカの前に出ながら、先程と同じような魔法の球を出現させる。それは前回より大きく膨れ上がっていた。
「大人しく俺らに捕まってろ!」
リシェの魔法を妨害するべく、三人の荒くれ達が襲い掛かって来る。まだ未熟なリシェの魔法は、詠唱が終わるまでやや数秒の時間がかかった。
途中で遮断されてはならないと思う一方で、邪魔をする相手側に対し苛立ちを見せる。今にも掴みかかろうとする男達から離れようと数歩後退した。
ヴェスカが出ようとしたその瞬間、先にセルシェッタの鞭が鋭く飛ぶ。
しなやかに空を舞ったかと思うと、想像以上の強いしなりで男達を翻弄し、前に出ていたリーダー格の男の体を鞭打った。ピシィッ、と引っ叩く音が聞こえる。ちょうど肌を晒している場所に運悪く当たったのだろう。
彼女の持っている鞭は本格的に作り込まれた物なので、かなりの痛みが生じるはずだ。
痛てぇ!と叫び怯んだ太い声。
その瞬間、リシェはひと思いに完成した目眩し代わりの光球を男達に放った。瞬間、目を覆いたくなるレベルの光が眼前に広がる。
「うわぁああああ!」
「このクソガキ…!!」
先程の攻撃に加え、二度目の目眩しに翻弄された男達は怒声を上げた。躊躇しているのを確認すると、リシェは顔を上げてヴェスカとセルシェッタに声を掛ける。
「逃げるぞ!!」
「ひょえぇえ、眩しいぃいい」
出来るだけ穏便に済ませるのがこれが最適だ。
目眩しで自分達の目も麻痺した状態のまま、リシェ達は一気に来た道を引き返す。
「逃げたもん勝ちってこういう事を言うんだな!」
目を擦りつつヴェスカは勝ち誇ったように叫んだ。
その一方で、残された荒くれ三人衆は激しい目眩しに悶絶しながら、こちらに向かって罵声を浴びせていた。
酒場が密集する地帯を過ぎ、宿場区から出た先の路地まで走り抜けると、流石にここまでは追い掛けてこないと判断してようやく足を止める。
はぁはぁと呼吸を整える中、最後に駆け寄って来たセルシェッタの姿にヴェスカは安心した。
「あぁ、良かった…とりあえず撒いたから一安心だな」
「はい」
セルシェッタは剥き出しにしていた左脚と武器を再びスカートに隠し、普段通りの様子を見せる。
「…てか、その中に隠してるって…いつもそうしてる訳?」
淑女風かと思っていたのだが、ガーターベルトに黒のストッキング、挙句には鞭というスタイルに衝撃を受けたらしい。
「はい。扱っている間はスカートの裾に引っ掛ける部分があって、それをホルダー内の留め具を使っているのです」
「だからあれだけ剥き出して動けるんだ…ははぁ、なるほどぉ…てか、いつもそのままでもいいんじゃ」
「ヴェスカ、お客様に対して失礼だぞ」
通りで武具屋に行った際に他の客が姐さん呼びしていた訳だ、と改めて思った。理知的な眼鏡と厳格そうな表情に加えて、先程の鞭を操るとなれば言いたくなってしまうだろう。
引っ詰めた髪も解けば相当な色気を発するだろう。その姿になってしまえば、彼女を姐さん呼びをしてしまう所か、女王様と呼んで崇めてしまうかもしれない。
「…相当バタバタしたけど、流石に戻んなきゃなんねぇな」
「ああ。宿舎はもう閉まってるんじゃないのか?俺はロシュ様から聞いた抜け道があるから戻れるけど…」
「あー…」
そういえばそうだな、ヴェスカは空を仰ぐ。
宮廷剣士の宿舎は深夜帯に差し掛かる頃、宿舎に繋がる鉄門が完全に閉められてしまうのだ。時間を逃してしまえば別の所で寝泊まりするか、始末書覚悟で兵舎に行って開けて貰うしかない。
遠征班なら例外で融通が効きそうなものだが、夜勤の仲間にそんな手間は掛けられないのが現状。宿舎の管理人を真夜中に起こしてしまう程、宮廷剣士は無神経ではない。
「んじゃ、俺は飲み直してどっかで泊まろうかな。そんなに食えてなかったし。お前、ちゃんとセルシェッタさんを連れて大聖堂まで行けるか?」
「大丈夫だ。流石に変なのは寄り付いて来ないだろ」
「ま、セルシェッタさんも大丈夫そうだしな」
ヴェスカの言葉にセルシェッタもこくりと頷いた。それを見て、ヴェスカも安心する。
「んじゃ、俺は適当にどうにか朝まで時間を潰しとくわ。お前はロシュ様が心配するだろうから、早々に戻った方がいい」
ヴェスカはそう言うと、セルシェッタに目線を向ける。そしてふっと微笑んだ。
「あまりまともにアストレーゼンを案内出来なかったなぁ。俺らも街中散策したりしなかったからさ。お洒落なカフェとか行けたら良かったかもな」
今更そう言っても遅いのだが、申し訳無さそうなヴェスカの気遣いを受けてセルシェッタは首を振る。
「いいえ、楽しかったです。最初から最後までお気遣い有難うございます」
「そんな事言って、本当はお洒落な場所とか行きたかったんじゃないか?」
「いえ…私、あまり可愛らしい物とかに興味が無いので」
「そうなの?まぁ、武具屋に行きたがる段階でおや?っとは思ったけど…ちょっとでも満足してくれたならいいや」
今まで知り合った女性とはちょっと違うタイプだった。
外出して少し帰る時間が遅くなってしまったとはいえ、少しでも満足して貰えれば救われる。
「リシェ、遅くなってしまった理由ちゃんと伝えておけよ」
「分かった。ある意味俺の不注意だったし」
「避けようが無かったから仕方無ぇよ。理由も無く遅くなりましたーって言えば、オーギュ様からこっぴどく叱られるかもしれねえからな。怖い怖い」
客人と未成年を連れて夜遊びしていたと思われては、一番年上であるヴェスカの責任になってしまう。事情があって遅くなってしまったと先にフォローしておけば、流石にオーギュも何も言わないだろう。
リシェは「ちゃんとロシュ様にお伝えしておく」とふっと笑った。
「それじゃあ、俺はどっかで寝泊まりして来るから。後は任せたぞ、リシェ」
そう言い残し、ヴェスカは再び賑わいを見せる宿場区内へ向けて歩き出した。彼を見送った後に、改めてリシェはセルシェッタを見上げる。
「では、戻りましょう。正面からだともう封鎖されて入れませんが、別の抜け道もありますので」
「はい」
宿場区から離れると、人の姿も激減する。照明も最小限の明かりしか無く、心細い雰囲気を醸し出していた。
二人の異なる靴音が響き合う中、お互いに無言の時を過ごす。最初の頃よりは幾分か気まずさは無いが、リシェは何を話したらいいのか分からないままだった。
「リシェさんは、ロシュ様の側にお付きになってどれ位なのですか?」
沈黙を破ったのは意外にもセルシェッタの方だった。
「え?…えっと…半年は経過していると思います。その前は普通の宮廷剣士でしたし」
セルシェッタ程の長い付き合いでは無い。
ロシュの元に来てから濃過ぎる期間を過ごしているからか、まだそれ位だったのかと改めて感じた。
「そうなのですか」
「はい」
そこで少しだけ間が開いた。
静まる街の中を大聖堂を目指してリシェを先頭に歩いている最中、彼女の涼しげな声が耳を通り抜ける。
「あの方が自ら迎え入れる位だから、相当なお気に召し様だと見受けられたので。最初はまだ子供ではないかと思っていたのですが」
「…いえ、本当の事ですので」
否定は出来ないので素直に受け止める。そんなリシェに対して、セルシェッタは話を続けた。
「あなたをロシュ様が選んだ理由が少しだけ分かった気がしました」
その言葉に思わず足を止めてしまう。
くるりと振り返り、背後に居る彼女を見た。
「え?」
「あの方はあなたに絶大な信頼を寄せて、あなたはひたすらロシュ様の事を第一に考えていらっしゃる。野心も無く、ただ純粋に慕っているのが分かります」
「野心…」
確かにロシュに対して自分達の知らない誰かが近付いて来たとなれば、相手は何らかの野心を抱いているのかもしれないと警戒してしまうのだろう。
…それは昔からの知り合いならば尚更。
セルシェッタも例外ではないのだ。彼女は幼馴染のような関係で、ロシュを相当知り尽くしているはず。パッと出てきた人間に不信感を抱いてもおかしくない。
リシェはアストレーゼンとは関係の無い隣国の出身で、向こうの貴族の出ではあるが、表立って名乗れる訳では無い。
自分は婚外子で、影の存在として扱われてきた。薄い後ろ盾があるにせよ、結局は野良の立場である事に変わり無いのだ。
「休暇を得てこちらへ赴く際、ロシュ様のお付きになった相手の方をこの目で見て、あの方に相応ならば何も言うまいと考えていました。相応しく無い相手ならば進言しようと思っていたのです。少しの期間でしたが、ロシュ様のお世話も私が仰せつかっていたので」
「…だから最初はやけに噛み付いていたんですね」
合点がいったらしく、リシェは苦笑する。言いたくなるのも分かる気がした。セルシェッタは「ええ」と返す。
「ほんの僅かな時間ですがロシュ様のご指示とはいえあなたがこちらに細かく配慮して下さる様子を見ていると、私がでしゃばる必要も無いのが分かりました。…それに」
彼女は一旦発言を切り、やや考え込むように口元に手を当てる。リシェは目を丸くしながら首を傾げた。
「あの…?」
「いえ。…ロシュ様が個人に対して、あのように優しく微笑むのを見た事がありませんでした」
「?」
「あなたには普通なのでしょう。まるで愛おしむような目を向けて笑う顔は初めて拝見しました。余程あなたがお気に入りなのだろうと」
いつもの優しい微笑みだとしか思わなかったリシェは、セルシェッタの言葉にきょとんとする。
当人にしては慣れているが、こればかりは他者にしか分からないのかもしれない。
「明日にでも私はお屋敷に戻らせて頂きます。長居も出来ませんし…あまり居過ぎては、嫉妬してしまうので」
「へ…?」
ぼろりと溢れた私情を聞き、リシェはつい変な声を放っていた。間髪入れず彼女は「戻りましょう」と促す。
今、嫉妬って言ったよな…?
先程とは違い、並んで歩くセルシェッタを横目でちらりと見るリシェは微妙な気持ちを抱いてしまう。
「あの…?」
「何か?」
「…いえ…何でも、ないです」
寝静まる城下街に、再び二人の足音が鳴り響いた。
夜中に抜け道を通って大聖堂に戻り、来客専用の部屋へセルシェッタを送り届けた後、司聖の塔へ辿り着いたリシェは待っていたロシュの元へようやく帰還する。
扉を開けた瞬間、長い事待っていたロシュはすぐに駆け寄ると小さな体を抱き締め頬擦りした。
「ああ、良かった…!遅かったので心配していたのですよ!大丈夫ですか?」
「はい。遅くなってすみません」
「何かトラブルでもありましたか?」
「えっと…食事をしている際に少し。俺の不注意だったので、ヴェスカとセルシェッタさんに助けて貰いました」
深く掘り下げて言えば面倒になりかねなかったので、簡単に説明する。やはり攫われたなどとは言えない。
一方のロシュはリシェの身の回りをぽふぽふと軽く触れながら、無事を確認するとようやく安堵した様子で「良かった」と微笑む。
流石に遅くなり過ぎて不安だったようだ。リシェは申し訳無さに「すみませんでした」と素直に謝った。
「あなたがご無事なら何よりです。疲れたでしょう?朝からあちこち出歩いていましたし…お風呂に入りますか?」
言われてみれば朝から動いていたな、と思い出した。全身から疲れがどっと湧いてくる。
リシェはそうですね…と言うと、ロシュの言葉に甘えようと思った。
熱い湯に浸かれば疲れも解れるだろう。
「では、入ってきます」
「ええ、ええ。ゆっくり浸かって下さい」
着ていた服も脱いで楽な格好になりたかった。そのまま自室に戻り、着替えを持って再び浴室のあるロシュの部屋へと戻ると、何故か彼も着替えを手にしている。
にっこりと微笑みながら。リシェは「あれ?」ときょとんとした。
「ロシュ様もまだ入られてなかったのですか?」
リシェの問い掛けに、彼は「ええ」と返す。
「あなたがいつ戻るか心配でつい…」
てっきりもう入浴したのかと思っていた。リシェはふふっと吹き出すと、主人に近付き彼の手を取ると「では」と顔を上げた。
「一緒に入りましょう、ロシュ様」
そう言ってロシュの着替えを持つ。こういうのは自分の役目だ。ロシュは「大丈夫ですよ」と着替えを取り戻そうと手を伸ばすが、彼はふるふると首を振った。
「これは俺の役目ですから」
二人分の着替えを両手に持ち、リシェはロシュを促す。
「お背中流しますね、ロシュ様」
「あなたの方が疲れているのにそこまでしなくてもいいのですってば…」
「いいえ、俺がしたいのです。ロシュ様もデスクワークでお疲れでしょうから」
そう言いつつ、ロシュはリシェの心遣いが嬉しかった。だが自分だけそうされるのは少し気が引ける。
「じゃあ流し合いっこしましょう。それならいいでしょう?」
我ながら名案だと思ったその誘い。
リシェは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐ笑顔を見せると「はい」と快く受け入れた。
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