異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―

橘靖竜

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第六章 奪われた座標

第七十一話 白い廊下の入口

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【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線】

扉が、軋んだ。

金属が擦れる低い音が、通路の空気を削り取っていく。

ハレルの掌に伝わる冷たさは、ただの金属の温度じゃない。

皮膚の下――骨の内側まで、ひやりと染みてくる。

「短く――」

木崎の声が背後で落ちる。

覗くな。入るなら入れ。

ハレルは頷き、力を込めた。

扉は、ほんの数センチ開いた。


次の瞬間。

白い光が、隙間から漏れた。
病院の蛍光灯の白じゃない。

もっと“乾いた白”。

影が存在できない白。

そして、匂いがした。

焦げた匂い。

それから――ガラスを削ったような、冷たい粉の匂い。

(……白い廊下)

佐伯と村瀬が口にした“そこ”が、今、目の前にある。

サキが息を呑む。

だがハレルは、視線を正面に固定しなかった。

扉の隙間を“見る”のは、必要最低限。
輪郭だけ。

光の流れだけ。

白の向こうには、廊下があった。

まっすぐで、妙に遠近感のない通路。

壁は石でもコンクリでもなく、薄い膜みたいに光っている。

床は、ガラスに似ているのに、足音を吸う。

そして――数字みたいな光粒が、ゆっくり落ちていた。

サキのスマホが、掌の中で震えた。

画面が勝手に点く。

《二人だけ》

《鍵と、もう一つの鍵》

《……彼は戻れ》

「……は?」
木崎が短く呟いた。

その瞬間、ハレルの胸元で主観測鍵が熱を増す。

熱が、合図みたいに二度、脈打った。

バッグの中で、薄緑が弱く揺れた。

日下部のコア。

従来どおり薄緑――なのに、光が薄い。

黒い粒が混ざって、脈が途切れかける。

(持ってるのに、遠い)

(“向こう”に引っ張られてる)

サキが小さく言った。

「お兄ちゃん……“もう一つの鍵”って……私?」

ハレルは答えかけて、喉で止めた。

言葉にした瞬間、確定する。

だが――サキの目は、もう逃げていなかった。

木崎が、舌打ちした。

「……趣味悪い選別だな」

「木崎さん」
ハレルが振り返る。


木崎は、いつものように口が悪い顔をしているのに、目だけが真剣だった。

「ユナは倉庫に置いてきた。……それでいい」

「だが今、ここで俺が一緒に入ったら――“餌”が増える」

「でも――」

「お前らが入るなら、俺は戻る」

木崎は言い切った。

「戻って、倉庫を押さえる。城ヶ峰にも連絡入れる。……錨は必要だろ」

“錨”。
合言葉みたいに、胸に刺さる。

サキが唇を噛んだ。

「木崎さん……」

木崎は一瞬だけ、サキの頭に手を置きかけて――やめた。

触れたら、別れが確定する気がしたのかもしれない。

「行け」
それだけ言う。

ハレルは扉をもう少し押し開けた。


白い廊下の空気が、現実の通路に滲み出す。

壁材の色が一拍だけ変わった。

コンクリの灰が、石畳の灰に“見えた”。

サキのスマホが、最後に一行だけ出す。

《入ったら、戻れない》

《――でも、戻す》

ハレルは息を吸う。


サキの指が、彼の袖を掴んだ。
「……私も、行く」

震えているのに、声は折れていない。

「分かった」

二人は、同時に踏み出した。
白い廊下へ。

背後で木崎が扉に手を掛ける気配がする。

閉じるためじゃない。

“境界が飲み込むのを止める”ために、あの人はそこに残る。

「――ハレル!」

木崎の声が、遠くなる。

扉が、勝手に閉まり始めた。

金属の音が、白に吸われて消える。

◆ ◆ ◆

【異世界・オルタ・スパイア/塔内部・基礎区画】

基礎区画の空気は、熱かった。

赤黒い線が床を走り、杭の紋が脈打つたび、空間そのものが息をする。

右の杭は折れている。

残るのは、真ん中――引きずり込みの杭。

そして左――固定の杭。

「真ん中、先に折るな」

アデルが低く命じる。

「反動で“向こう”が落ちる」

リオは歯を食いしばり、腕輪の熱に耐えた。

熱は痛みに近い。

皮膚の下で、金属が生きている。

イヤーカフからノノの声が飛ぶ。

「右は折れた! 次、左を縫って! 固定だけ先に殺して!」

「真ん中は最後! 最後に一気に抜く!」

「分かってる」
リオは短く返し、床に走る赤い線を睨む。

赤線の揺れ方が変だ。

昨日の“揺れ”じゃない。
もっと、早い。
誰かが回してる。

――その“誰か”の気配が、区画の奥から滲んできた。

黒い影。

ローブの裾。

顔は見えない。
見えないのに、こちらを“見ている”。

アデルが剣を抜く。
銀の刃が赤い光を割った。

「来たか」
リオは腕輪に魔力を通す。

鎖の術式が床を走り、黒ローブの足元へ噛みつく。

だが黒ローブは、戦う気配が薄い。

攻撃でも防御でもない。

“杭の維持”。
儀式の補助。

ただそれだけで、空間を支配している。

ノノの声が少し掠れた。

「やばい、寄りが……寄りが勝手に進んでる!」

「リオ、アデル! 今、現実側が入った!」

リオの心臓が跳ねる。

(入った――ハレルが)

その瞬間、基礎区画の壁が、一拍だけ透明になった。

白い廊下。
数字の光粒。

そして――黒い制服の少年と、隣の少女。

薄い。
ガラス越しみたいに薄い。

だが、確かに“そこにいる”。

リオは反射で視線を固定しそうになって、噛み殺す。

見るな。固定される。

アデルが、息だけで言う。

「……受け止めるぞ」

「当たり前だ」
真ん中の杭が、赤く強く脈打った。

まるで“歓迎”するように。

◆ ◆ ◆

【中間層・白い廊下】

白い。

壁も、床も、天井も――
塗り潰したみたいな白で、距離感だけが狂っている。

足音が、やけに遅れて返ってきた。

コツ、と鳴ったはずの音が、薄い綿に吸われて、
忘れた頃にまた耳の奥で鳴る。

(――夢で見た)

ハレルの喉が、乾いたまま動かない。

第六感じゃない。
もっと単純で、もっと嫌な感覚。

“知っている場所”に、知らないやり方で連れてこられた。

胸元のネックレスが、じわりと熱い。

主鍵が脈を打つたび、白い廊下の空気がわずかに粒立つ。
数字みたいな光の粒が、ふわりと浮いて――消える。

隣で、サキが息を呑む音がした。

握りしめたスマホが、震えている。

「……サキ?」

「……来た……」

サキの指先が、画面をなぞる。

通知の表示が、勝手に立ち上がっていた。

《巻き込んでごめん》

《でも、君がいないと“扉”は開かない》

「……なに、これ……」

サキの声がかすれる。
削除しようとしても、スワイプしても、消えない。

まるで端末そのものが“そういう仕様”になったみたいに、居座っている。

ハレルは、サキの手元と自分の胸元を交互に見た。

スマホが震えるたび、ペンダントの熱が同じリズムで強くなる。

(……父さんの癖だ)

説明できるはずがないのに、直感だけが確信に変わっていく。

誰かが作った。“この揺れ”を、繋げるために。

その時だった。
白い廊下の奥――
空気の粒立ちが、ひときわ濃くなる。

霧のようなノイズが、一本の線になって、輪郭を描き始めた。

最初は、光の糸。

次に、ひとの形。
そして――髪が、揺れた。
銀灰色。雨上がりの風にほどけるみたいな色。

青い瞳が、こちらをまっすぐに捉える。

白い衣装の裾には、祈りの文様みたいな繊細な刺繍が走っている。
宗教の匂いはあるのに、どこにも十字の形はない――“意図的に外した”みたいに。

ハレルの息が止まった。

「……セラ」

名前が、勝手に口から落ちた。

あの夜。大臣の“記録”の地下で、
彼女は光に包まれて――粒子になって消えた。

《失わないで》と言い残して。

それからは、声だけだった。

システム音みたいに。夢の端っこみたいに。

でも今は、ちゃんと“形”がある。

サキが一歩引き、でも逃げないまま、震える声で言う。

「……ほんもの、なの……?」

セラは、ゆっくりと瞬きをした。

その瞬きだけで、廊下の白が少しだけ現実に寄る。
壁の遠近が、ほんのわずか戻る。

「……お待たせしました」

落ち着いた、柔らかい声。

案内役の声だ。橋渡しの声だ。
――逃げ腰の声じゃない。

「消えていたのではありません。形を保てなかっただけです。

 あの時、あなたが“確定させた”代償で……私は、ここに留まれなくなった」

ハレルの指が、無意識にペンダントを握る。

熱い。痛いほど熱い。

「じゃあ今は……どうして」

「扉が開いたからです」

セラの視線が、サキのスマホに移る。

次に、ハレルの主鍵。
まるで二つを一本の線で結んでいるみたいに。

「あなたたちが、同じ歩幅でここまで来た。

 だから、私は“案内する形”を取り戻せます」

サキが、息を吸い込んだ。

怖いのに、目が離せない顔をしている。
ハレルも同じだった。

(……やっと、繋がったのか)

(それとも――繋げられた?)

白い廊下の奥で、見えないはずの“もう一つの景色”が、薄く滲む。

石畳みたいな影。冷たい風。遠い鐘の音。

セラが、静かに言った。

「行きましょう。

 “奪われた座標”は、もう待ってくれません」

ハレルは、サキの肩に手を置く。

サキが小さくうなずく。

そして二人は、白い廊下の先へ一歩踏み出した。
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