異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―

橘靖竜

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第六章 奪われた座標

第七十二話 もうひとつの鍵

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【中間層・白い廊下】

サキが、震える息を吐く。

「……あそこに、いる……」

その言葉に合わせたみたいに、
白い廊下の“白”が一拍だけ薄くなる。

膜が撓む。遠近が歪む。

――そして、奥の空気が「別の温度」を混ぜた。

冷たい風。
石を濡らした匂い。

それから、焦げた鉄の熱。

セラの輪郭の向こう側に、ありえない景色が滲んだ。

白の壁が、ほんの一瞬だけ赤黒い線を走らせる。
床に杭の紋。脈打つような光。

(……塔の、内側)

見えないはずの“向こう”が、ガラス越しみたいに重なる。

その薄い重なりの中に――人影が、二つ。

黒髪の青年。右手首に鈍い光。

銀髪を長く編んだ剣士。
白い外套の裾が風に揺れ、刃が一瞬だけ反射する。

透けている。

なのに、腕輪の熱だけが痛いほど鮮明で。

こちらの主鍵の熱と、同じリズムで脈を打った。

ハレルの喉が、きゅっと詰まる。

名前を呼びそうになって、奥歯を噛んだ。

呼べば、確定する。確定したら――拾われる。

サキが、小さく息を呑む。

「……人が……いる……」

セラは、白の中でゆっくりと瞬きをした。

その瞬きに合わせて、重なりはふっと薄くなる。

まるで“今はこれ以上見せない”と制御しているみたいに。

セラは視線だけを動かし、二人の足元を見た。

「立ち止まらないで。歩幅を揃えて」

「……歩幅?」

「ここは、“間”です。呼吸と視線と声で形が変わる」

白い廊下の壁が、ほんの一拍だけ膜のように揺れた。
遠近感が崩れ、床が一段だけ深く見える。
落ちたら終わる、と直感が叫ぶ。

(……見るな)

(でも、見ないと進めない)

矛盾が、最初から刺さっている。

これが中間層。
――観測の罠。

サキのスマホが、また震えた。

画面が勝手に点き、《》の文字が滑る。

《巻き込んでごめん》

《でも、君がいないと“扉”は開かない》

《二人だけ》

《鍵と、もう一つの鍵》

「……お兄ちゃん、これ……」

サキが差し出した画面の隅に、見覚えのないアイコンが増えていた。

白い円の中に、細い線が二本。
――まるで鍵穴と、戻り線。

「消せない……」

サキが長押しする。
削除を探す。

でも、メニューが出ない。
最初から“OSの機能”みたいに溶け込んでいる。

ハレルは、指先で画面に触れそうになって、止めた。

触れれば固定される気がした。

何が固定されるのかは分からないのに、嫌な確信だけがある。

「それは、あなたのお父様が残した導線です」

セラの言葉は淡いのに、刃みたいにまっすぐだった。

「父さんが……?」

「“扉”の外にいる誰かに、あなたたちを渡すためのものではありません。

 あなたたちが、戻すためのものです」

戻す。

薄緑の脈が、バッグの中で一度だけ弱く鳴った。

日下部のコア。

従来どおり薄緑――なのに、光が薄い。

黒い粒が混ざり、脈が途切れかける。
まるで、遠くで呼吸を止められているみたいに。

サキが唇を噛み、バッグを抱え直す。

「……持ってるのに、遠い」

「引かれています」

セラは廊下の奥を見た。

その視線の先で、数字みたいな光粒が、
雪のようにゆっくり落ちている。

落ちて、消えて、また落ちる。
――時間そのものが、薄い。

「奪われた座標が、日下部さんを“器ごと”呼んでいる。

 そして、あなたが持つ薄緑も、そこへ縫われかけている」

ハレルは、息を浅くした。

深呼吸すると、廊下の白が濃くなる気がした。

――呼吸ですら、観測だ。

「……木崎さんは?」

セラは一拍だけ沈黙してから、静かに言う。

「錨になります。
ここから先は、二人の鍵が必要です。

 だから……“彼は戻れ”と、あなたのスマホが言った」

サキが、画面を見た。

確かに、さっきまで出ていた
《……彼は戻れ》の文字は、もう消えている。

言うべきことだけ言って、消える。
――父さんの癖。
ハレルの知っている癖。

(……ほんとに、父さんなのか)

(それとも、父さんの真似をする誰かか)

セラが、白い廊下の“曲がり角”もないはずの場所へ手を伸ばす。

指先が空気を撫でると、そこに薄い段差が現れた。
見えなかった“継ぎ目”。

「ここから先、名前を多く呼ばないで」

「……呼ばない?」

「呼ぶと、確定します。確定すると、向こうが拾う」

向こう。

カシウスの実験場。
奪われた座標。

想像しただけで、背中が冷たくなる。

サキが小さく頷いた。
震えているのに、視線は折れていない。

「……分かった」

セラは、頷いた。

「歩幅を揃えて。止まらないで。

 もし怖くなったら――袖を掴んで。言葉はいらない」

ハレルはサキの手元を見た。

サキの指先が、彼の袖に触れるか触れないかのところで止まっている。

その距離が、今の二人のすべてだった。

「行くぞ」

サキが、息だけで返事をした。

白い廊下の奥で、微かに別の匂いが混ざった。

熱い鉄。赤黒い焦げ。
――異世界の、あの塔の匂い。

(……近い)

ハレルの胸元で主鍵が二度脈打つ。


サキのスマホの画面が、初めて“通知”じゃない表示に変わった。

白い円。
二本の線。
そして、細い文字。

《KEY-1》

《KEY-2》

《SYNC:進行中》

ハレルの背筋が、ぞくりとした。

“進行中”。止められない言い方。
父さんは、こういう言い方をしない。

(……誰の言葉だ)

【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線】

扉の前で、木崎は一人になった。

閉まりかけた金属の隙間から白が漏れ、
コンクリの壁が一拍だけ石畳に“見えた”。

見えただけだ。だが、見えた瞬間に世界が少し削られる。

「……チッ」

舌打ちは、癖で出た。

怖いからじゃない。
怖いまま動くのが、自分の仕事だからだ。

木崎は扉に掌を当て、力を込める。

閉じるのを止めるんじゃない。
――飲み込まれる速度を遅らせる。

「……行け」

誰にも届かない声を落とし、踵を返した。

錨になる。
戻る。
倉庫を押さえる。
城ヶ峰に繋ぐ。

“現実”を残さなきゃ、あいつらは戻る場所ごと失う。

サービス階段を駆け下りながら、ポケットの端末を取り出す。

指が勝手に番号を選ぶ。

「……城ヶ峰。今、入った。二人だけだ」

返事を待つ暇はない。

背後で、タワーの空気が一瞬だけ薄くなった。

境界が、息をする。
――世界の肺が、こちらにもある。

◆ ◆ ◆


【異世界・オルタ・スパイア/塔内部・基礎区画】

基礎区画の床に走る赤黒い線が、さっきより速く脈打っていた。

杭の紋が光るたび、空間が引き攣る。
壁が、呼吸する。

アデルが低く言う。
「左を縫え。固定を殺す」

リオはうなずき、腕輪に魔力を通した。

鎖の術式が床を走り、左杭の根元に噛みつく。

だが、噛んだ瞬間、鎖が熱で弾ける。
焼ける匂い。鉄を噛んだ匂い。

「……っ」

「焦るな」

アデルの声は冷たいが、刃は迷わない。

銀の剣が赤い線を断ち、封印の術式が上書きされる。

イヤーカフからノノの声が飛ぶ。
「固定、縫える! いける!
 ――でも中央、勝手に脈が上がってる!」

「誰か回してる! これ、黒ローブだけじゃない!」

「分かってる」

リオは短く返し、奥の影を睨む。

黒ローブは戦わない。
儀式を保つだけ。

それが一番厄介だ。
――壊すしかない。

その時、基礎区画の壁が一拍だけ透明になった。

白い。
白い廊下。
数字の光粒。

そして、黒い制服の少年と、隣の少女。

――薄い。薄すぎる。
けれど、今までの“気配”より、ずっと強い。

リオは反射で視線を固定しそうになって、歯を食いしばった。

見るな。固定される。

固定されたら、向こうの実験に使われる。

「……ハレ――」

名前が喉まで出て、アデルの息だけの声が刺さった。

「呼ぶな」

リオは、拳を握り直す。

拳の中で腕輪が生き物みたいに熱い。

中央杭が、赤く強く脈打った。

歓迎みたいに。
招待みたいに。

ノノが叫ぶ。
「やばい! 寄りが――寄りが加速してる!
 このままだと二段階で“重なる”!」

二段階。

――次の脈で、世界が“重なる”。

そういう確信だけが、炎みたいに胸に落ちた。
止められない、という意味の熱だった。

アデルが剣先を中央杭へ向ける。
「……受け止めるぞ」

「当たり前だ」

リオは鎖の術式を引き直し、固定杭の根元にもう一度噛ませた。

今度は、切れる。

赤線が、一瞬だけ弱くなる。

その瞬間――白い廊下の向こうから、微かな音がした。

足音。
二人ぶん。
止まらない歩幅。

リオは、呼吸を浅くした。

向こうも、同じことをしている気がした。

◆ ◆ ◆


【異世界・王都/解析室】

ノノ=シュタインは水晶板に顔を近づけ、瞳孔が揺れた。

境界地図の青点と赤点が、いつもの揺れ方じゃない。

“寄り”が、自分の計算より先に進んでいる。
誰かが回してる。

それも、ゆっくりじゃない。
――手慣れた回し方だ。

「……合ってない」

口から漏れた言葉が、自分でも嫌だった。

数値は嘘をつかない。
嘘をつかないはずなのに、数値が“勝手に揃い始めている”。

イヤーカフを指で叩く。
「リオ! アデル!
 今、現実側が二人で入った! 鍵が二つになってる!」

「主鍵だけじゃない、もう一つ……女の子の方、あれが“鍵”になってる!」

返事が来る前に、画面の一角が点滅した。

薄緑の信号。
――日下部のコア。

(……うわ、マジか)

脈が飛ぶ。
光が薄い。

黒いノイズ粒が混ざって、信号が途切れかける。
コアが“中身を上書きされかけてる”時の波形に似ている。

ノノは唇を噛んだ。
「……日下部、やばい」

「薄緑、切れかけてる。黒混ざってる。向こうが引っ張ってる」

そして、赤点――中央杭の座標が跳ねた。

歓迎の脈。招待の脈。

“奪われた座標”が、こちらから奪い返される前に、
向こうへ引きずり込もうとしている。

「二段階で重なる……」

独り言が、喉で凍った。


一度目は“見える”。

二度目で“同じ場所になる”。

「……このままだと、重なり切る……!」

ノノは水晶板を叩き、息を吐く。
「二段階で終わりじゃない。
次の波で“同じ場所”になる……! 時間がない!」
「リオ、アデル。固定だけ先に殺して!
 中央は最後! 最後まで触んないで!」

「向こうが“歓迎”してる。
歓迎に乗ったら――全部持ってかれる!」

返事の代わりに、イヤーカフの向こうで剣が風を切る音がした。

戦っている。耐えている。

現実側も、白い廊下を歩いている。

ノノは画面の端に、
見えないはずの白い線が一本引かれていくのを見た。

白い廊下。
導線。
鍵と鍵の間を縫う線。

(……誰が作った)

(雲賀の父? それとも……カシウス?)

答えはまだ出ない。
だが、時間だけが進む。

ノノは小さく吐き捨てた。

「――間に合って」

その瞬間、解析室の水晶板が一拍だけ白く瞬いた。

まるで、向こうの廊下がこちらを覗いたみたいに。
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