真田三代記

赤井よろい

文字の大きさ
4 / 4

勇将 真田幸村(信繁)

しおりを挟む
当時の古文書に幸村という名前は見当たらない。いずれも「信繁」とある。どうやら「幸村」という名前は江戸時代人が勝手に名前を創作したようだ。信繁は神君家康公を苦しめたのではばかりを気にしたようである。

慶長19年(1614)
大阪の冬の陣に際して、家康は西へ進軍して浜松城にさしかかった時、大阪城に真田殿入城の注進を受けた。
すると日本最高権力者の家康の顔が急に引きつりガタガタと震えだしたという。あがった息で、
「真田は親か息子か」
親はとうに死んでいるのは周知の事実だったので周囲はいぶかしんだ。
「息子に候」
家康はやっと震えが収まったという。

幸村は九度山に居た時豊臣から莫大な支度金をもらい募兵を開始した。幸村に集まってきたのは信州の昌幸の旧臣が多かった。幸村は九度山に14年間配流された。九度山の猟師も応募が多かった。猟師には手当を弾んだ。徳川とは兵力差がありすぎるので鉄砲で打撃を与える以外なかった。

天文12年(1543)九州の種子島にポルトガル船が漂着して2丁鉄砲が領主に買われた。この時70年が経過したが既に鉄砲の国産化は目覚ましく進み日本はアジア1位の鉄砲保有国になっていた。
この時代の地球はヨーロッパ人がどんどん植民地を増やしていた。
日本にやって来たスペインの伝道師は
「日本は鉄砲の保有数がアジア1位である。植民地化は難しい」と本国に伝えている。
ちなみにはるか後年の幕末、アメリカのペリー提督が日本の工業技術力の高さに驚き将来欧米の強力な競争相手になるだろうと予言している。

旧武田軍の隠密〝透破〟からも人を集めた。
幸村の関心は家康の現在位置であった。
織田信長の桶狭間の戦いのように、総大将徳川家康一人が死ねば戦さは勝ちである。

三方ヶ原合戦から42年後大坂の陣。
豊臣秀吉の血筋を絶やすべく徳川家康は日本中から大軍を集めて大坂城に攻め寄せた。大坂城主秀吉の遺児秀頼は浪人を集めて防戦した。
大坂方は真田昌幸(武藤喜兵衛)の息子の真田幸村が、日本史に残る大奮闘をして戦死した。

幸村は昌幸が言っていたように豊臣軍の総大将にはなれず、一兵団長に過ぎなかった。
いきなり大坂城に籠城するのではなく故人となった昌幸が練った出撃作戦を幸村は主張したが拒否された。
大坂城は西は海、北は天満川、東は沼、南は丘陵地帯なので、徳川軍主力は南からの攻撃以外になかった。
幸村は大坂冬の陣では大坂城の南方に真田丸という出丸を造り徳川方に大出血を強いることになる。

真田丸の正面には日本最大の大大名加賀100万石前田利常が対峙していた。
前田の後備へは徳川秀忠、その後ろには徳川家康の本陣が控えていた。
前田は必ず後ろの目を気にして真田丸に大兵力で我攻め、つまり無理押しをしてくる。
権力者の目ばかり気にするのはいつの時代も変わらない。特に前田は徳川にビクビクしてる。
幸村は喜んだ。

関ヶ原以前の話しになるが、利常の父前田利家は、若い頃から織田家中で槍の又左と言われた身長6尺(182cm)の豪傑であった。戦場に出れば必ず槍働きの手柄を上げた。その頃から豊臣秀吉と昵懇で豊臣政権が樹立すると五大老及び秀吉の遺児秀頼の後見人であった。
秀吉が死んで8か月後に利家は病死するが、初代前田藩主となる長男の利長に恐るべきことを遺言した。
『秀頼に異変あらば、家康を討て』
家康の天下取りは既に始まっているのである。家康は火の無い所に煙を立てねばならない。
家康は前田家に、
「家康の暗殺を謀った」と根も葉もない難癖をつけて前田家討伐の準備を始めた。
家康は火の無い所に煙を立てて兵を挙げ、徳川に文句がある奴を次々と討ってゆく作業が待っていた。

この時関ヶ原以前の石高は
1 徳川家康 255万石
2毛利輝元 120万石
3上杉景勝 120万石
4前田利長 83万石
(略)
石田三成 19万石
真田昌幸 6.5万石

前田家家臣の武闘派は家康の挑発に激怒した。前田利家の若い頃は無鉄砲で喧嘩っ早い〝歌舞伎者〟で身なりからして奇怪な派手さだった、その頃の利家は柄が悪そうな輩を見かけると「喧嘩買おうぞ」と叫び尾張で知らぬ人がいない位有名人であった。
利長が父の若い頃とそっくりなら、会って話したいと近寄り、先日まで同僚であった老齢の家康のシワシワの頬にいきなり拳骨をお見舞いしてたに違いない。
しかし利長は父の若い頃と違い普通人である。
利長は強大な権力の理不尽にはひたすら平身低頭で応じた。いつの時代もこれが処世術というもので真田が日本史上まれな特別人間ということをご理解願いたい。
前田家はつい先ごろまで家康とは五大老で同僚であったが、結局母のお松を家康に人質として差し出した。
この日前田家は徳川の私的な家来になった。

真田丸では、機会到来よと喜んだ幸村は自ら各鉄砲頭の持ち場持ち場を回り、敵が堀を越え城壁に取り付くまで発砲を禁ず、我が命があるまで発砲を禁ずと念を押して回った。
若い鉄砲頭には戦は初めてかと声を掛け、去り際には頼んだぞと声をかけるのを忘れなかった。
真田丸の将兵は上機嫌の幸村を見て安心した。

10万の籠る大坂城を20万の徳川勢が囲んでいる。真田丸には5~6000の兵がいた。
慶長19年(1614)12月
大坂城で爆発音がした。
徳川勢は「大坂城内の我が間者が城内に火をかけたのだ、今ぞ、一期に踏み潰せ」
各地で激戦が始まった。
爆発音は鉄砲足軽が城内で火のついた火縄を誤って火薬桶に落としたものだった。
真田丸の銃眼は沈黙していた。
前田勢は太鼓を鳴らして津波のように押し寄せ、後ろからくる人波に抗しきれず兵が堀にどんどん落下した。
城壁に取り付き上り始めたが真田丸は沈黙していた。
前田勢の押し太鼓が乱打され前田勢が塀の先端に手をかけて、城内に飛び込もうとした時真田丸は一斉に射撃を始めた。
城壁を上っていたものが傷を負い落下、みるみる堀が死体で埋まってゆく。
前田勢は一旦退き盾を持って自軍の兵力にものをいわせて2次攻撃を開始したが、真田丸の射撃は活発で死者が増えるばかりなので怯んだ。突然真田丸の門が開き幸村の長子大助(15)と伊木七郎右衛門の500の騎馬隊が前田勢を襲い前田勢は大混乱して退いた。
大坂城の各部署もよく戦い石垣をよじ登る徳川勢に女子供が石や瓦を投げた。
家康の使番が退却を叫びながら各戦場を回った。
この日の戦闘は未明から始まり、午後4時頃まで続いた。

「大坂方は衣食住を求めて入城した乞食の集まりなり」
大坂方は食い詰め浪人が多かったので、徳川方はこう称していたが、死体の山を築いたのは徳川勢だった。
大坂城は傷一つついてない。

再び我攻めをすればこの寒空の中で徳川勢が空しく滅びる。
家康はヨーロッパから輸入した大砲を据えて国産砲と計300門で大坂城を砲撃した。輸入砲は国産とは比較にならない射程距離があった。
4日間昼夜連続で大砲を撃ちまくった。
無論大坂城からも砲撃したが、徳川方が質と数で圧倒した。
そのうちの一弾が城主の淀殿(秀頼の母親)の侍女7~8名に命中して、驚いた淀殿は徳川と講和することにしたのである。
講和直後幸村は家康に夜襲をかけようとしたが、豊臣家から拒否された。

大坂城はヨーロッパの宣教師が東洋一の要塞と記した程の堅固さである。家康は一旦和睦を結び和睦の条件として大坂城の堀を埋めた。
家康は若い頃から大国に挟まれ、今川義元、織田信長、豊臣秀吉に臣従して理不尽なことにも平伏して耐えに耐えた。若い頃は織田信長のように天下を取るなど露程考えたこともなかったが、秀吉が死にそうになると潮目が変わってきた。長生きはするものだと思った。豊臣家を残しては乱の種になりそうであった。
家康の後継者の秀忠は正直者の凡庸な人柄であった。乱を鎮圧するのは親のひいき目で見ても無理であった。
なにしろ秀吉が生きていた時、秀吉の遺児秀頼を守り立ててゆく、という起請文を家康は何度も書いている。
若い頃律儀で通った家康は実は嘘つきと天下にバレているのである。
家康の死後秀頼を担いで、嘘をついて天下を取ったあの徳川を討てと乱の種になりそうであった。
今は徳川体制に組み込まれたとはいえ関ヶ原で敗者になった島津、毛利、上杉、佐竹や関ヶ原で徳川方についた、福島、伊達も徳川に強い不満をもっているのは明白であった。団結するには旗印がいる。秀頼を担いで束になって攻めてこられると徳川は危うい。
関ヶ原の時伊達政宗には家康についたら60万石から100万石にしてやると家康は約束したが政宗は内通を疑われる行為があり100万石は沙汰止みになった。
福島正則は秀吉子飼いの大名で酔うと大声で家康の悪口を言っているらしい。
福島正則は関ヶ原の主力決戦で先鋒を務めた為20万石から50万石にしてやったのに家康にしてみれば不愉快であった。
家康は秀吉生存時にやむなく秀頼に忠誠を誓うと何度か起請文を書いたが、一度秀頼を攻めている。
やはり秀頼は殺さねばならない。

大坂城は堀を埋めて籠城戦は不可能になったが、まだ大坂城にあの男がいる。親子二代で家康に恥をかかせたあの男が。
家康は流言作戦を用いた。
家康は真田幸村に、信州一国をやるから大坂城から出てくれと交渉した。
無論幸村は応じ無い。
大坂方では次回攻められれば敗北と観測する武将が多く、自ら志願して徳川の間諜になる者が多かった。それらの口からこの話しは大坂城内に広がった。
大坂城の何人かがその信州一国の話しが城中に広がっていると驚きながら幸村に告にきた。
「信州には大名家が多数ある。ワシが信州一国もらったら信州中の全ての侍は浪人かの」
幸村は笑いながら返答した。
幸村は無口で温和な性格であった。
一国中の武士という武士が理由もなく突然失業して路頭に放り出されたら、社会不安を引き起こして徳川幕府は崩れ去ってしまう。
つまり信州一国は家康のらちも無い大嘘である。
誰でもちょっと考えればわかることだが、いつの時代でも自分の頭で考えない思考停止の人は多い。

上役から聞いたから間違いない。
「真田殿は合戦が始まれば、大坂城に火を着けて城から退去して信州一国をもらうらしい」
「まさか」
「では何故信州一国もらえるのにこの大坂城を退去しないのだ」
こんな流言も広がっていた。

家康(73)の寿命が近づいている。
家康は近々再び攻めてくる。
堀の無い城なので野戦で勝つ以外になく、幸村はその対応に忙しかったが幸村を疑う者も少なくなかった。
「よろず気遣いばかり多く」
幸村は姉夫婦への書簡にこう記した。

家康は再び大坂方に難癖をつけて大坂夏の陣が始まった。

翌年大坂夏の陣。
堀を埋められた大坂方は籠城しても勝ち目が無い。
大坂方は三倍以上の兵力の徳川軍と野戦で戦わねばならない。
大坂冬の陣で武名を上げた幸村を慕う将兵は多くなり、是非幸村殿の組下に入れてくだされと希望者が多く、幸村の隊は寄せ集めとはいえ統制が取れていた。
幸村はあらかじめ作戦を立てて兵の進退を円滑にする為予定進撃路の路普請を念入りにしたり、徳川方に間者として自分の配下を送りこんだり事前の準備に抜かりはなかった。

冬の陣は2日間に渡り激戦が展開された。
大坂方は家康の首を目指してよく戦った。
ヨーロッパ人宣教師の記録ではこうある。

「屍は河中に積み重なって、足を濡らさずその上を渡ることが出来たという」

2日目の戦いでは赤旗を立てた真田兵団は鉄砲隊と騎馬隊を巧みに進退させて敵陣を混乱させた。
「今ぞ」
真田兵団はさらに槍足軽隊を突撃させた。

徳川の大軍が浮き足だつのを見て、各豊臣の兵団が家康の本陣を目指して狂ったような突撃を始めた。
徳川の各部隊は隣の味方が潰走するのを見て、我も我もと雪崩れのように逃げ散ってゆく。
豊臣軍は今一瞬に全てを賭けた。
豊臣軍は今の一瞬狂わないと明日がないのは誰もが知っていた。

何層もある敵陣をついに切り崩した。
さらに徳川軍に裏切りが出たと徳川軍に潜ませた真田の配下達に連呼させた。
さらに幸村の影武者数人を各戦線に出没させ、自身は浮き足立つ家康の本陣に突撃して家康は自害を2回口ばしり逃げ回った。
やがて予備隊の無い大坂方は力尽き大坂城に引き上げ始めると徳川の大軍は波が押し寄せるように追撃した。
恐怖にかられた敵の首を獲ることはたやすい。なにしろ逃げることが先なのでもう指揮系統もなく闘志もなく反撃してこない。
勢いづく徳川軍の追撃中数カ所で轟音がした。
耳が鳴りほこりが視界をさえぎり徳川軍は茫然とした。
幸村が仕掛けた地雷火が調子に乗る徳川軍を吹き飛ばしたが家康の首を取るまで至らなかった。
幸村は安居天神で力尽き戦死した。
幸村の周囲には真田譜代の士145人が幸村と運命を共にして討死した。
行年49歳。

武藤喜兵衛(真田昌幸)は、そなた(幸村)では大坂城に入城しても武名を上げるのは無理だと言って3年前に死んだ。

幸村は関ヶ原の戦いまで戦国武将であった。関ヶ原の戦いで負けて流人となり紀州九度山で父と軟禁生活をおくっていたが、兄の信之は信州の大名であり仕送りもあって生活に不自由はなかった。
大坂方から入城の招きがあった時、平穏に長生きするか勝ち目のない戦さに身を投じるかの選択があったが父の影響を受けすぎ戦国武将として死ぬことを選んだ。
ただ幸村が無様な負け方をすれば、天下の笑い者になり父の武名を汚すことになる。

真田昌幸が権現様(徳川家康)に勝ったのはたまたま運が良かったからよ。
そう、た~ま,たまよ。神君家康公が負けるわけなかろう。
こんなことがずっと語り継がれてしまう。
既に家康は、金地院崇伝や天海といった怪僧と「家康様の死後はいっそのこと神様になりませ」といった謀議が始まっていた。

幸村は死の直前、かすむ意識の中で"親父殿はあの世でわしを誉めてくれるかのう"とただそれだけを思った。
出血で目も耳も効かないのに、目の前に親父殿と自分が子供の頃見かけた信玄公が甲冑姿で立っていた。
喜兵衛の息子はよくやったのう。
信玄公が親父殿に語ると、親父殿は無言で信玄公に照れくさそうな笑顔を浮かべていた。
幸村は槍で突かれ、地べたに転がり首を斬られた。
身体から魂が抜けて逝く。
祖父(幸隆)と片目の小男が二人並んで立っている。
山本勘助殿だ。
二人とも笑っている。
幸隆が話し、勘助殿は嬉しそうにうなずいていた。
「勘助殿から教わったことはワシは昌幸に伝えて、昌幸も幸村に伝えたようじゃの」

彼らのおかげで自分は武功を上げれたのだ。


徳川方の記録ではこうある。

「真田日本一の兵」

「真田古今にこれなき大手柄」

イエズス会の記録では。

「大坂方はいいあらわせぬほどの勇気を持って戦った。…また内府(家康)も失望に陥り、日本の風習に従い腹を切ろうとした」

家康はこの翌年寿命で死ぬ。享年75歳
しかし家康は夏の陣で幸村から逃げ回っていた時槍で突かれて死亡して、その後は影武者が家康のふりをしていたという伝説がある。

秀頼は大坂城落城時に自害して豊臣に焼かれ死体は判別不明であった。しかし実は薩摩藩が秀頼を船で救出して本国に匿ったという伝説がある。

幸村生存伝説まである。その後幸村は山伏になって北陸から奥羽に向かったという。現在東北には幸村の子孫と伝わる家が珍しくない。

歴史は勝者の記録、伝説は敗者の真実という言葉もある。生存説の真偽は不明である。

幸村の兄信之は、松代藩10万石初代藩主として明暦4年(1658)93歳の天寿を全うした。

真田幸村の死をもって100年以上続いた長い長い乱世がやっと終息した。
と同時に名誉と勇気を尊ぶサムライの時代は終わった。天下泰平の世になり、サムライははいつしか"役人"になっていった。
名誉と勇気は死語になった。

江戸時代200年以上時を経て幕末動乱の時代がやってくると役人になった元サムライは戦士として使い物にならなかった。
そんな中、浪人農民町民の集団がサムライとして登場した。
彼らは京都守護職会津藩お預かり"新撰組"と名乗り幕末動乱に飛び込んで行く。



編集後記

埼玉県上里町雲陽院。武田信玄の正室三条夫人の墓がある。
三条夫人は元亀元年(1570)50歳で病没と記録にある。

歴史は勝者の記録で伝説は敗者の真実。

武田信玄の正室三条夫人は武田信玄より三年程早く病死したと記録されていた。しかし伝説が敗者の真実とするなら、実は信玄よりずっと長生きしてたのね。
日本史の戦乱というのは外敵があまり来ない為、ほとんどが骨肉の争いである。
常勝軍団戦国武田家でも、武田信玄と嫡子義信が今川家の領地である駿河侵攻を巡って対立した。
駿河を支配下におきたい信玄と駿河今川家と同盟関係を続けたい義信と激しく対立した。
今川義元は不覚にも桶狭間で少数の織田信長に討たれて、駿河は義元の嫡子、蹴鞠の名人の今川氏真が統治していた。
義信の妻は氏真の妹である。
「妻の機嫌と国の行く末どちらが大切なのか、そちの器量国主に向かん」
と大河ドラマ武田信玄では、信玄は青筋たてながら義信に怒鳴っていましたね。

やがて信玄暗殺計画まで発展して多くの処罰者が出た。
駿河侵攻に大反対する義信を信玄は幽閉し自害させた。(病死説あり)
義信の母親三条夫人は失意の中病死と記録ではなっているが、死んだことにして隠棲していたのね。
三条夫人は信玄の弟河窪信実に預けて、ひと目につかぬよう信実の領地である甲斐武蔵の国境の山岳地に隠棲したようです。
三条夫人は信実の息子信俊を養育した。三条夫人は京都の公家の出なので教養は十分で養育者として最適でした。
この時代の地方の侍などは読み書きが不十分な者は大勢いた。
信俊は三条夫人を養母と呼んでいます。
三条夫人は小説では信玄の側室諏訪御料人を引き立たせる為、実家の名門公家を鼻にかける不器量で意地悪な悪役になっているが、快川和尚の記録では

「大変にお美しく、仏への信仰が篤く、周りにいる人々を包み込む、春の陽光のように温かくておだやかなお人柄で、信玄さまとの夫婦仲も、むつまじいご様子でした」
といっている。

常勝武田軍団内部にも不満分子は少なくない。戦争に継ぐ戦争で税も高く、武将も出費の多さに苦しんでいる。
他国からの調略も多い。
息子を殺された三条夫人を焚きつけて、反乱が起きないとも限らない。
三条夫人は死んだことにしておこう。
三条夫人は50歳で病没したことになった。

その後ほどなく信玄は天下取りのいくさ、西上作戦中に病没した。享年51歳。
西上作戦では三河の徳川家康を三方原の戦いで粉砕して、天下布武を宣言した織田信長との決戦を前にしての病没だった。
三方ヶ原の戦いでは、徳川軍が敗走した後家康は目立たぬよう少人数で居城の浜松城を目指していたが、武田騎馬隊にしつこく追いかけ回され、恐怖のあまり失禁してしまった。
その後諏訪御料人の息子四郎勝頼が武田家を継いだ。やがて武田家は織田信長により滅び、その数ヶ月後織田信長も本能寺で死んだ。
関東の覇王北条家も豊臣秀吉によって滅ぼされた。
徳川家は滅びた武田家の旧臣を多く召し抱えて関東に転封した。徳川家臣となっていた武田信玄の甥河窪信俊は埼玉県の上里町に領地をもらい一族郎党を連れて金窪城に移住した。
その中に三条夫人がいた。
三条夫人は金窪城から程近い陽雲寺に住んだ。
この時死んだとされてから、20年が経ち三条夫人は70歳になっていた。
小説のように不器量で意地悪な性格なら、周りは匿ってくれなかったであろう。

三条夫人の娘見性院は、徳川家康から特別に保護され江戸城北の丸に住みやがて二代将軍秀忠の息子保科正之の養育者となる。

元和元年、大阪夏の陣が終わり100年以上続いた戦乱が収束した。
元和二年天下人徳川家康死去。享年75歳。
武田信玄があと数ヶ月元気で長生きしてたら、家康は首が飛んでいたか、信玄の家来になっていたであろう。さらにいうと三条夫人の息子の義信が父の信玄に楯突かなかったら、駿河侵攻が早くなり、信玄が天下を取っていたに間違いなかった。

広々とした武蔵野の青空に、雲が流れてゆく。
あの戦乱の時代、軍神とまで言われた、武田信玄、上杉謙信は遠い遠い伝説となった。

「元気で長生きした方が勝ちですね」
長年三条夫人に仕えていた侍女が言った。
三条夫人は微笑みながら静かにうなずいた。
「そうね。長生きしてよかったわ、泰平の世も見れたのよ」 

馬鹿息子の義信と違い、信俊は戦場へ出るたびに手柄を上げ続け天晴れな武将となった。
信俊は三条夫人を慕い養母様と呼んでとても大切にしてくれている。

慶長20年大坂の陣が収束して元号は元和となった。
真田幸村の首は影武者で、幸村は落城の大坂城を脱出して家康の命を狙っているという噂話を三条夫人は侍女から聞いた時、
「うちの旦那(信玄)は世間を騙すのは得意だったからねぇ」
少し笑いながら答えた。

その家康も大坂夏の陣の翌年病没した。
享年75歳。

元和偃武。
人は武器を納めた。人が人を殺さず、人が人を警戒することもない。
女にとってこれほど嬉しいことは無い。
塀の外で子供達がはしゃいでいる。
三条夫人は泰平になった世を見つめながら、穏やかに元和四年この地で亡くなった。
享年97歳。

なお三条夫人の娘見性院は会津藩祖保科正之の養育者だったので、見性院の墓は幕末まで代々の会津藩主から大切にされた。
三条夫人にとってこれほど嬉しいことは無い。

医学が進歩していない当時も長寿の人は他にも大勢いますよ~


参考資料「陽雲寺の案内看板」
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

処理中です...