居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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97 / 228
7巻

7-1

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 紫煙の漂う先






 空は晴れ上がり、ところどころに小さな雲が浮かんでいる。秋の深まりをそのまま示しているような濃い青の下、東京下町の商店街で居酒屋『ぼったくり』をいとな美音みねは、魚屋を目指してせっせと歩いていた。
 しばらくして、馴染なじみの魚屋、魚辰うおたつに辿り着くと、ガラスケースを覗き込んで目尻を下げる。
 ――うわあ……今日のさば、すごくいいわ……


 秋はいろいろなものが美味しくなる季節であるが、九月から十月、冬に向けてあぶらを蓄え始める鯖も例外ではない。
 ちまたでは庶民の味だと言われがちで、高級料理店でお目にかかることは少ないようだが、鯖は居酒屋にとってなくてはならない食材である。
 元々、美音は秋刀魚さんまいわしといった青魚を好むが、とりわけ鯖はお気に入り。秋になるとうきうきしながら『本日のおすすめ』に鯖という文字を書き連ねる。
 品書きに鯖を使った料理を見つけて、「おっ?」なんて嬉しそうな顔をする客を見るのは、美音の秋の楽しみのひとつだった。

「ミチヤさん!」

 美音は、鯖の鮮やかな縞模様と澄んだ目を確かめ、元気いっぱいに声をかける。ミチヤはそんな美音を、片手を上げて制した。

「おう、わかってる、皆まで言うな。今日の鯖は、飛びきり新鮮で脂もたっぷり、文句なしの一押しだ。でかいとこ持っていきな!」

 ミチヤはいかにも魚屋らしい威勢のいい言葉を返してくる。
 いつもならば、店で使う魚は前日のうちに注文し、ミチヤの都合のいい時間にまとめて配達してもらうことになっている。だが、鯖だけは別だった。
 これぞという鯖を見つけたとき、美音は配達を待たずに自分で持って帰る。一刻も早く処理をしたいからだ。さばが旬を迎えあぶらがのりきるこの時期、朝一番に魚辰を覗くのもそのためである。

「今日のおすすめは鯖で決まりだな」

 ミチヤが持ちおもりのする鯖の包みを差し出した。美音は返事もそこそこに、駆け出さんばかりの勢いで『ぼったくり』に向かう。

「あんまり慌てると転ぶぞー!」

 そんな笑い声まじりの台詞せりふが、美音の背中を追いかけてきた。


かおる、見て見て! 今日の鯖はすごいわよー!」

 美音は店の引き戸を開けるなり、大声を上げて妹の馨の注意を引く。

「いい鯖があったんだ。秋もさかりだねー。にしても、そんなに喜ばなくても」

 毎年同じやり取りをしている馨は、美音よりずっと冷めている。その温度差が、美音は微妙に面白くない。もう少し盛り上がってくれてもいいのに、と思ってしまう。

「だって鯖よ、秋鯖! しかもこんなに新しくて、脂がのってるのよ!」
「はいはい、わかりました。大急ぎで塩で締めるんでしょ?」
「そのとおり。上の棚からいつものバットを出して」
「了解」

 答えるなり、馨はついっと手を伸ばし、天井近くの棚からステンレス製のバットを取り出す。
 なんでこの鯖のすごさがわからないのかしら……とぶつぶつ言いながら、美音はミチヤが三枚に下ろしてくれた鯖にびっしりと塩を振る。丁寧に骨まで抜いてくれているのが嬉しかった。
 今時は魚離れ対策とやらで、スーパーでも三枚に下ろすぐらいはしてくれる。スーパー呉竹くれたけでも頼めば断られることなどないはずだ。けれど、こんなに丁寧に骨を抜いてくれることはない。それはやはり町の魚屋ならではのサービスだと美音は思う。
 美音だって料理人の端くれ、本マグロならいざ知らず、鯖ぐらいの大きさの魚ならさばける。けれど、魚のプロが処理してくれるのならそのほうがいいに決まっていた。
 鯖を入れたバットを冷蔵庫にしまい、美音はほっと一息ついた。エプロンの下に違和感を覚えて確かめると、財布や鍵を入れた小さなポシェットが、斜めがけのままになっている。これを外す間も惜しんで鯖の下拵したごしらえを始めたのか……と自分でもおかしくなった。
『ぼったくり』を開いた父は、鯖を仕入れるたびに『鯖の生きぐされ』という言葉を口にし、時計の針と追いかけっこをするように料理していた。美音は居酒屋店主として必要なあれこれを、すべて父親から教えられたけれど、こんなところまで受け継ぐとは思ってもいなかった。
 そんな美音の思いを見透みすかしたように、馨が言う。

「ほんと、お姉ちゃんってお父さんそっくり。で、残りのさばはどうするの?」

 そう言いつつも、馨はフライパンに油を入れている。彼女の中では、残りの鯖の料理方法は既に決まっているのだろう。

「とかなんとか言っちゃって。あれを作りたいから油を用意してるんでしょ?」
「ばれたか……」

 馨は片栗粉を取り出しながら、少々ばつが悪そうに笑った。


     †


早紀さきちゃん、早いね」

 その後、仕込みを終えた美音は、外の掃除をしてしまおうと引き戸から出た。
 そこに通りかかったのは、『ぼったくり』の裏にあるアパートに住んでいる早紀だった。まるで、去年の夏、スーパーでうなぎを見ていたときのような難しい顔をしている。中学校の制服を着ていないところを見ると、一度帰宅してからどこかに出かけてきたのだろう。

「あ、美音さん、こんにちは」

 うしの日の孝行娘は相変わらずの親孝行ぶりで、あの鰻のちらし寿司を作ったあと、時々美音に簡単なレシピを教わりにきたり、休みの日にスーパー呉竹などで会ったときに旬を迎えた食材や、その選び方をいたりしてきた。
 料理の腕もどんどん上達しているようで、たまに顔を合わせる彼女の両親から美音は随分感謝されている。

「どうしたの? 難しい顔して……。また何か問題でも?」
「そうじゃないんですけど……。あ、でも、やっぱり問題かも……」

 そう言うと、早紀は困ったように手提げ袋に目をやった。
 以前、近くの公園からこんな風に袋を提げて、思案顔で戻ってきたお客様がいたな……と思い出した美音は、つい訊いてしまった。

「なに? まさか、ネコでも拾ったとか?」
「ネコなら嬉しいぐらいです。うちでは飼えませんけど」
「そっか……じゃあ?」

 おそるおそる手提げ袋を覗き込む美音を笑いながら、早紀が取り出したのは一冊の本だった。

「なんだ、本なの。あらでも、それ……」

 それは、魔法使いの少年の冒険をモチーフにし、映画化もされた大ベストセラー小説のシリーズ最新刊だった。大人でも十分楽しめる作品のため、美音姉妹も大のお気に入り。つい最近も続編刊行にあたって、復習がてら既刊を読み返したばかりだ。
 だが、その本がいったいどうしたというのだろう。蔵書シールが貼ってあるから図書館で借りたものだろうけれど、それ以外に変わったところは見られない。そもそも読みたい本が手に入らないならまだしも、すでに手にしているのだから困ることなんてないはずなのに……と美音は首を傾げた。
 そのとき、早紀が困り果てたような声で言った。

「この本、すごく読みたかったんです。でも私には高くて買えないから、図書館で予約して、ずーっと待って、やっと順番が回ってきたんですよ」

 自分も弟の直也なおやもこのシリーズが大好きで、映画のほうも映画館では無理だけど、テレビで放送されるときは欠かさず見ている。もちろん、これまで出版された本も全部借りて読んだ。完結したときはがっかりしたけど、続きが出ると聞いてすごく嬉しかった。順番がくるのをずっとずっと楽しみにしてきて、連絡が来るなり図書館に駆けつけた。
 それなのに……と、早紀は哀しそうに言う。

「くさいんです」
「え……くさい?」

 怪訝けげんな顔になった美音に、早紀は黙ってその本を差し出した。

「あ……ほんと、これはひどいわ……」

 受け取ってページを開く前に、たばこのにおいが鼻にまとわりついてきた。
 ヘビースモーカーが狭い部屋で立て続けにたばこを吸ったときに染みつく臭い。それが、本全体に絡みついていた。

「今すぐにでも読みたいんです。でも、この臭いのせいで読む楽しみが半減しそう。それにこれを家に持って帰ったら家までたばこくさくなりそうな気がして。直也も楽しみにしてるのに……」

 美音には早紀の気持ちがとてもよくわかった。
 実は美音も、たばこという嗜好品しこうひんにはあまり魅力を感じていない。
 愛煙家の人から、一種のいやし効果があると聞いたことはあるが、やはりニコチンやタールが与える身体への影響、わけても味蕾みらいへの影響が気になった。
 味覚をつかさどる器官である味蕾は、ただでさえ年齢とともにおとろえると言われている。
 料理をあきなう人間としては、味覚の衰えをニコチンやタールによって助長させるわけにはいかなかった。
 それでも、居酒屋という商売上、店内全面禁煙にするにはかなり勇気がいる。一説によると、酒を呑むとたばこを吸いたくなる人もいるらしい。禁煙席を設けられるような店の造りではないこともあって、父の代から『ぼったくり』ではたばこは不問に付す、ということになっていた。
 とはいえ『ぼったくり』の常連には、チェーンスモーカーはひとりもいなかったし、たまに来る愛煙家の客も、店内では喫煙を控えてくれる人がほとんどである。
 たばこで間を持たせるよりも酒と料理に集中して楽しみたい、と誰もが言ってくれるのは、本当にありがたいことだと美音は感謝していた。
 早紀は依然として眉間に深いしわを寄せて嘆く。

「図書館の本にこんなにおいを付けて返すなんてひどい……」
「自分ではなかなか気がつかないものらしいわよ。でも、身近にたばこを吸う人がいない人間にとっては、ものすごく気になるよね……」

 日常的にたばこに縁がない人間がたばこの煙に接すると、そうではない人間の何倍も鋭敏にその臭いを感じ取るし、嫌な思いもする。
 早紀の両親はたばこを吸わないから、家の中にたばこの臭いを放つ本があるなんて耐えがたいはずだ。弟の直也にしたって、この臭いは嫌に決まっている。

「あーあ……魔法でこの臭いを消しちゃえないかなあ……」

 諦めきれない顔で早紀は言う。どれだけたばこくさくても、この本は読みたい。だから我慢して持って帰るしかない、と……
 美音は、引き戸から店の中に首を突っ込み、壁に掛かっている時計を見た。
 開店までには、まだ三十分ぐらい時間がある。これなら大丈夫、と確認したあと、中で掃除をしていた馨に声をかけた。

「馨、ちょっと家に戻ってくるね」
「え、なに? 忘れ物? お姉ちゃんにしては珍しいね」
「違うわよ。本を取りに行こうと思って」
「本?」

 何事かと出てきた馨は、早紀が持っている本に目をやり、続いてその臭いに気がついた。

「うわ……すごいね、この臭い」
「でしょ? これを読むのはちょっと辛そうだから、貸してあげようと思って。ねえ、早紀ちゃん、これと同じ本、うちにもあるんだ。それを貸してあげるから、その本は図書館に返しちゃったらどうかしら?」
「え……でも、そんなのご迷惑じゃ……」

 お店の準備だってあるのに……と、困った顔になった早紀に、美音はひときわ明るい声で返す。

「平気、仕込みはほとんど終わってるし、残りは馨に任せるから。馨、自転車を貸してね」

 ところが、そう言って店の裏に回ろうとした美音を、馨が呼び止めた。

「ちょっと待って、お姉ちゃん。あたしが行く」
「あら、そう……?」
「あたしのほうがずっと早いよ! なんてったって、若いし!」
「一言多い! っていうか、あんた、お店の準備したくないだけじゃないの?」

 文句を言う美音にお構いなしに、馨は愛車にまたがって、颯爽さっそうと走り去った。
 ため息満載で見送ったあと、美音は早紀を振り返った。

「ということで、図書館に行ってらっしゃい。できれば図書館の人に、においが付いてるって伝えてみて。もしかしたら臭いを消す方法があるかもしれないし」
「わかりました! 行ってきます」

 そして、早紀は、図書館への道を猛ダッシュで引き返していった。


「お待たせー!」

 馨はすごい勢いで自転車を飛ばしたらしく、予想よりずっと早く、そして、ずっと大荷物で戻ってきた。
 これまた猛スピードで図書館から戻り、店の前で背伸びせんばかりに馨の帰りを待っていた早紀は、手渡された紙袋の重さにびっくり仰天ぎょうてんである。

「うわあ、馨さん……これって……」
「うん。ぜーんぶ持ってきたよ。最新刊読んだら、絶対また最初から読みたくなるから」

 えっへん、とばかりに馨が言った。美音も馨もそうだったから、早紀もきっと同じだと見越したのだろう。

「ありがとう!!」

 早紀の眉間のしわはきれいさっぱり消えせた。大好きなシリーズが全巻揃って目の前にあることを、飛び上がらんばかりに喜んでいる。

「ゆーっくり読んでいいからね。あたしたちはもう、覚えちゃうぐらい読んじゃったし。あ、もちろん直也くんにも読んでもらってね」
「馨さん、ありがとうございます!」

 早紀の輝くような笑顔を見て、馨もとても嬉しそうだった。

「馨、グッジョブ!」
「普通だよ、普通」

 照れ隠しのように言うと、馨は自転車を裏に置きに行った。

「美音さんもありがとうございます。私、本当にこの本が大好きで……」
「うん、わかるわかる。すっごく面白いものね。早く帰って読んだら?」

 お礼なんていいから、と美音は早紀をかす。きっと直也も、早紀の帰りを待っているだろう。

「はい!」

 そして早紀は、さっき図書館に駆けていったとき以上の勢いで、裏のアパートに戻っていった。


     †


 その夜、美音は、カウンターに座ったマサに早紀の一件を話し、小さくため息をついた。マサは植木職人で、『ぼったくり』の常連のひとりである。

嗜好品しこうひんですから、お好きな方は吸われればいいとは思うんですけど……」

 マサはいつもの『朝日山あさひやま 百寿盃ひゃくじゅはい』を、秋らしくぬるめのかんで呑みながら相槌あいづちを打つ。
 目の前に出されているのは、少し血の色を残すぐらいに仕上げられた、しめさば。酢に搾り込んだ酢橘すだちがほのかに香っていた。
 新鮮な鯖だからこそできるレア仕上げの一切れに、マサはわさび醤油じょうゆをちょっとつけて口に入れる。鯖のまったりとしたあぶらが合わせ酢に助けられ、得も言われぬさっぱり感を呼ぶ。旬ならではの味をしばし噛みしめたあと、マサは言葉を返してきた。

「とはいえ、時と場所を選ぶ必要はあるよな……」
「そうですよね……ご自分が吸われるのは自由ですけど、その結果、図書館の本にまでにおいが染みついちゃうっていうのは困りものですね」
「でもよー、多分、気がついてないんじゃねえの? どんだけ自分の家がたばこくさいかなんて」
「やっぱりそうなんでしょうか?」
「そうに決まってるさ。吸わねえ人間は気になるけどな。たばこを吸ってる奴ってけっこうわかるじゃないか。なんとなく服とかからも臭うし、どうかすると手帳とかも……。紙ってわりと臭いを吸うんだよな」
「あ、それわかります。現場で渡された図面がたばこくさいってこともありますからね」

 そこに口を挟んできたのはアキラだった。アキラは家電製品の取り付け工事を請け負っている関係で、引き渡し前の新築マンションにエアコンを取り付けに行ったりもする。
 現場監督が愛煙家で車の中でもたばこを吸うらしく、打ち合わせに持ってくる図面からたばこの臭いがする、と困ったように言う。

「吸う場所がないから車の中で、って気持ちはわからないでもないんだけど、こっちは慣れてないからつい気になっちゃって」
「やっぱりなあ……今は、建物の中も路上も禁煙マークばっかりになってるから、たばこを吸う奴は小さくなって車の中でぷかり……ぐらいしかやりようがねえもんな」

 気の毒といえば気の毒だ、とマサは同情を示した。

「でも、図書館の本は公共のものだろ? 特に、今の話に出てきた本なんて、子どもに大人気のやつじゃないか。たばこのにおいとか付いてて大丈夫なのかな……」

 アキラは、身体に影響とかないのかな……と首を傾げている。そう言いたくなるほど『臭い付きの図面』に出くわす機会が多いのかもしれない。
 確かに美音も、身体への影響は気になる。
 大人にも子どもにも人気が高い本だけに、早紀の前にあの本を借りた人は、紫煙をくゆらせながら読書を楽しんだのかもしれない。美音自身、今日ほどひどくないにしても、図書館で借りた本にたばこの臭いを感じたことは一度や二度ではなかった。早紀は頻繁に図書館を利用しているし、他にも図書館の本を借りて読む子どもは多いだろう。臭いだけでも身体に悪影響があるのかどうかは、気になるところだった。

「一度、シンゾウさんか太田おおた先生にいてみますね。どっちにしても、消臭剤で臭いは取れるかもしれませんけど、それはそれで本もいたむでしょうし、最初から臭いをつけないにこしたことはありませんよね」

 公共の物は大事にしろ、って当たり前のことなんだけど、破ったり、汚したり以外に臭いにも気をつけないとな……とアキラがため息をついた。

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