Arrive 0

黒文鳥

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1章

0.1

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 よろしく、ユーグレイ。

 差し出されたその手を握り返さなかった。
 相手は少し驚いたような表情をしたが、それを咎めることはなかった。
 鈍感なのか、臆病なのか。
 どちらにせよ無害そうだ。
 アトリという人間に対してユーグレイが最初に下した評価は、そんな呆気ないものだった。

 
 ユーグレイ・フレンシッドは、0地点のある東エドラ大海に面した皇国の生まれだ。
 皇国の一地方を治める領主の次男として生を受けたユーグレイは、けれど珍しくもない話で庶子という立場にあった。
 ユーグレイの母は出産後数日で亡くなってしまったが、幸運なことに父は生まれた子を邸に迎え入れ「息子」として遇してくれた。
 ただ子供にはあまり興味がない人で、ユーグレイに接する態度は殆どが事務的で温かみのある会話をした覚えはない。
 形式上は母となった人も、当然ユーグレイに対して良い感情は抱いてはいなかったようだ。
 結果として、ユーグレイは感情の起伏に乏しい少年に育った。
 とはいえ食べ物に困ることもなく教育も受けさせてもらえた自身は、とても幸運であるとユーグレイは理解している。
 だから別段反発をすることもなくまして愛情を乞うようなこともなく、彼は淡々と自身を取り巻く環境を受け入れた。

 ユーグレイの幼少期に唯一揺らぎがあるとしたら、それは兄の存在だろう。

 十も年の離れた腹違いの兄は、首都の学校に通っており年に二回ほど領地に帰って来た。
 どんな人だったか、と言われても説明は難しい。
 両親であれば、とても出来の良い跡継ぎだと賛辞を並べるだろう。
 そういう外面の良さはあった。
 けれど邸の厨房に忍び込んで焼き上がったばかりのケーキを盗み食いしたり、使用人たちとこっそり街に遊びに行って朝まで帰って来なかったり羽目を外す一面があったことも確かだ。
 兄はただ一人、ユーグレイを「肉親」として扱った。
 可愛がられたと言うよりはその悪さに巻き込まれたと言うべきだったかもしれないが、兄が領地に帰って来る時期を待ち遠しく思っていたことは覚えている。
 他人の日記を読むような、現実感のない記憶。
 それはユーグレイが十四になった年、色を失う。
 その夏結婚を控えた兄は、婚約者とユーグレイを海辺の小さな街に連れて行った。
 次期領主としてすでに多忙を極めていた兄にしてみれば、かつての秘密の外出の延長だったのかもしれない。
 潮の匂い。
 夕暮れを映す波に素足を晒して笑う、優しい面影の人。
 兄が愛した女性は、その海で人魚に飲まれた。
 

 
「ーーーーおーい、聞いとる? ユーグレイ」

 おっとりとした大柄の管理員は、大きな手をひらひらと振って問う。
 ユーグレイは淡々と、聞いていますと答えた。
 ただでさえ混み合う時間帯の食堂は様々な音で溢れかえっていて、恐らくユーグレイの返答は掻き消されてしまったのだろう。
 管理員は困ったように眉を下げて、「多少は上手くやる努力をしような」と言った。
 あの夏から、僅か一年。
 ユーグレイは十五歳で、人魚狩りの最前線カンディードという組織に所属するに至った。
 もう何も取り戻せないと理解してはいたが、それでも他に何もなかったのだ。
 本当に、他に何もなかった。
 どんな仕事でも良いからやらせて欲しいと組織を訪ねたユーグレイは、皮肉なことに自身がセルと呼ばれる素養持ちであることを知る。
 人魚に対する唯一の戦力、不完全な魔術師。
 その力があるのなら、人魚を狩るのは運命のように思えた。
 研修を担当したこの管理員はユーグレイの才を高く評価し、早々に銀剣所持の資格試験を受けるよう勧めてくれた。
 結果ユーグレイ・フレンシッドはカンディード所属半年にして、同期たちの誰より早く研修を終え銀剣持ちの資格を有することになったのである。
 だが、それもどうでも良いことだ。
 早く海に出て、人魚を狩る。
 けれどそうするために不可欠なペアだけが、一向に決まらなかったのである。

「良くも悪くも目立っちまったからな、お前さんは。ペアがなかなか決まらんってのもお前だけのせいじゃないんだが」

 そうですか。
 と、ユーグレイは他に言いようもなく答える。
 決まらない、と言うのは語弊がある。
 ペアになりたいという希望者は、それこそ後を絶たなかった。
 けれど顔合わせをして二人での実地研修を終える頃には、やっぱりやっていけそうにないと誰もがペア解消を申し出て来るのである。
 毎回、同じパターンだ。
 無論、纏わりついて媚を売るだけのエルたちに未練はない。
 誰も彼もが装飾品か希少種を求めるように群がって来ただけで、その名前も顔も何一つ記憶には残っていなかった。
 が、いつまで経ってもペアが定まらないのは支障がある。
 だから去ろうとする相手に、一度だけ理由を聞いたのだ。

 あなたの魔力は氷のようだ。
 それを受け取ると、全身が凍りついて死んでしまうのではないかと思う。
 怖くて、とても耐えられない。

 それは酷く納得の行く返答だった。
 色のない、温度のないもの。
 息をしているだけの死人。
 間違いようもなく、それはユーグレイの本質だ。

「ーーーーだからな、もしかしたら逆に上手く行くんじゃないかって思っとるんだよ。良いやつだし、ペアとしてやってけなくても同年代の友達ってのは必要だろう?」

 管理員の諭すような声。
 けれど新しいペア候補に関する話は、殆どが耳に入って来なかった。
 覚えておく必要性は感じられない。
 また数日経てば他人に戻るのだ。
 そもそも。
 家族でさえ得られなかった人間に、友など望めるはずもない。
 管理員はユーグレイの表情を窺って、「あー、何か飲んで待ってるか?」とついに気を遣い出す。
 ユーグレイは首を振った。
 困りきった様子の管理員が口を噤み、食堂の喧騒だけが響く。
 この管理員を困らせたい訳ではなかった。
 ユーグレイとしては「辞めたい」と言われさえしなければ、誰がペアでも構わない。
 幸い自身は銀剣持ちだ。
 危険性は上がるが、エルに頼らなくても人魚に対することは可能である。
 セルとエルは必ずペアを組んで活動しろというが、ユーグレイであればやりようはあるのだ。

「先輩」

 呼びかけに、目の前の管理員はどこかほっとしたように笑顔を見せる。
 その声の主。
 食堂の混雑をすり抜けるようにしてこちらに向かって来た黒髪の少年は、管理員に挨拶をした後ユーグレイに視線をやった。
 支給のローブに、中は少しゆったりしたシャツとパンツ。
 黒髪に黒い瞳というのは、カンディードでも少し珍しいだろうか。
 やや細身だが、華奢というよりはどこか野生の生き物を思わせる。
 事実向けられた視線は今まで向けられて来た値踏みするようなそれとは違い、薄い警戒心が含まれていた。
 かつて領地で見かけた野生動物と同じで、触ろうと近づいたら一目散に逃げて行きそうだ。
 けれどそれを悟らせない気安さで、彼は「どうも」と柔らかく笑って名前を名乗った。
 アトリという名に姓が続かなかったのは、名乗りたくても名乗れないからか、そもそもそれを持たないかのどちらだろうか。
 促されて腰を下ろした彼に、ユーグレイは端的に名乗り返した。
 
「悪いなあ、アトリ。無理言っちまって」

「全然。嫌なら嫌って言ってますし。いやでも、本当に俺で良いんですか? ペアになりたいってやつ腐るほどいるだろ?」

 管理員にそう答えた彼は、自然とユーグレイにも話を向ける。
 その口ぶりから、彼がこれまでの候補者たちとは違い管理員に請われてここに来たのだと理解する。

「まあ、その通りなんだがこいつと気の合う相手がなかなか見つからなくてな。いやもちろん皆、良いやつだったんだが」

「先輩にかかれば、みーんな『良いやつ』でしょうが」
 
 その言葉の端には、ユーグレイに対する若干の同情が見て取れた。
 物珍しいものとして扱われる自身の噂を、多少なりとも知っているのだろう。
 彼はユーグレイに向き直る。
 
「どうせ俺も『良いやつだから』って紹介されてんだろ?」

「………そうだな」

「やっぱりなー。俺も、お前のこと『良いやつだ』って聞いてるよ」
 
 距離の測り方が上手いと思った。
 恐らくユーグレイとは真逆で、周囲には知らず人が集まるタイプだろう。
 その根底に他者への警戒心があろうと、それを無意識下に仕舞い込むだけの強かさを持ち合わせているように見えた。
 いっそ驚くほどに、不快感のない相手だ。

「何か、詐欺みたいで悪いな。俺やっと研修終わったばっかの落ちこぼれ組でお前とは釣り合わないんだけど、それでも構わなければ」
 
 卑下するというよりはこういう巡り合わせになったことが可笑しいようで、彼は楽しそうに笑う。
 それなら彼で良いと思った。
 接触は可能な限り避け、現場では銀剣を振るえば良い。
 形だけのペアとして、これまでより少し長く続けばそれで十分だ。

「よろしく、ユーグレイ」
 
 だから差し出された手を、握り返すことはしなかった。
 ただ「こちらこそ」と答えたユーグレイに、彼は少し驚いたような表情をしたものの気分を害した様子はなかった。
 二人のやりとりを見守っていた管理員の視線で、流石に今の握手は応じるべきだったのだろうと思い至る。
 彼は全く不自然に見えない所作で、するりと手を引いた。
 何事もなかったかのような表情に、裏は見えない。
 鈍感なのか、臆病なのか。
 どちらにせよ、無害には違いない。
 アトリという少年を、ユーグレイは単純にそう評価した。



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