39 / 230
2章
7
いや、怖いから。
気分は逃げ場を失った獲物だ。
え、そんなに怒ってんの。
いや、怒ってるのは当然かもしれないけど。
目が据わってるし、完全に仕留めるつもりの顔してんじゃん。
当たり障りのない会話なんて、試みた瞬間に引っ叩かれそうだ。
逃げろと警告する脳に対して、身体は竦んだまま動かない。
ああ、もう。
「アトリ」
びくりと身体が跳ねた。
ユーグレイの影が、視界を覆う。
縋るように壁に背を預けたまま、身体が触れるほどの距離に息を呑む。
聞き慣れた心地の良い声は、少しだけ掠れて震えていた。
そんな風に名前を呼ぶな。
首筋に牙を立てられたような恐怖に、倒錯的な興奮が混ざった。
到底顔を見られるはずがなく、視線は彼の肩で縫い止められる。
ユーグレイってば、とロッタが責めるような声で呼びかけるのが聞こえた。
ねぇ、と返事を催促されているのに彼は振り返りもしない。
「…………呼ばれ、てるけど? ユーグ」
辛うじて発した言葉に、ユーグレイは低く笑った。
だから、怖いってば。
「君は、そんなことを気にしている場合か?」
仰る通りですが。
ユーグレイの手がゆっくりと持ち上がるのが見えて、アトリは必然的に歯を食いしばった。
彼が感情のまま実力行使に踏み切るほどの仕打ちは、残念ながらした覚えがある。
それで気が済むのなら、彼に殴られるくらいは別段どうということはない。
ただそれが終わったら頑張ってきちんと謝るから、喋れるくらいには手加減して欲しいと思った。
けれど。
その手は、結局アトリに触れなかった。
「アトリさん」
驚いたように小さく声を上げたのは、多分ロッタだろう。
唐突に腕を掴まれて、横に引っ張られる。
僅かに開いた距離。
華奢な身体がユーグレイとの間に割って入るのが見えた。
ふわふわした金髪が、乱れる呼吸のままに揺れる。
リン。
「アトリさんごめんなさい、お待たせしてしまって。第三区画に出るってお話でしたけど、私、やっぱりまだ魔力の受け渡し訓練をしておきたくて。今日、予定を変更して頂いても良いですか?」
慌ただしく一気に紡がれた言葉に、半分も理解が出来ないまま頷く。
良かったと言いながら、リンは急かすようにアトリの身体を押した。
一歩二歩、その勢いに抗うことなく後ずさる。
リンはほっとしたような表情をして、肩越しにユーグレイを振り返った。
あれ、これはどういう状況だ。
「悪いが部外者は黙っていてくれ。話の途中だ」
ユーグレイがどういう表情をしているか、窺う余裕はなかった。
けれど温度のない彼の声に、リンは怯まない。
「部外者って、誰のことですか?」
ユーグレイの背後で、ロッタが気の抜けるような歓声を上げた。
リンは彼を見上げたまま、一歩も引かない。
「私、部外者じゃありません。ユーグレイさんこそ、今更アトリさんに何のご用なんですか?」
「リン」
いや、違う。
ユーグレイは悪くないし、リンがそこまで必死になる必要もない。
呼びかけに、彼女は視線を戻す。
強張った顔をした後輩は、「行きましょう」とアトリの手を引いた。
僅かな沈黙を破って、ユーグレイはその背に言葉を投げかける。
「そこまで言うのなら、隣に立つ相手の顔色くらい気にかけろ」
「……そんなこと、貴方にだけは言われたくありません」
刹那言い返したリンが、歩き出す。
彼女の白い手は、指先まで緊張で冷え切っている。
熱を分けるようにその手を握り返すと、リンは足を止めずに震えるような息を微かに吐き出した。
ユーグレイは、追っては来ない。
「リン」
第四防壁の門は、あっという間に見えなくなった。
長く続く広い廊下は、照明に照らされて白く明るい。
誰かの話し声が響いて、突然現実に戻って来たような感覚がした。
ごめんなさい、と呟いてリンはようやく足を止める。
幅の広い階段の脇。
休憩でもしていたのか、少し先の談話室から数人の男女が笑いながら出てくる。
彼らはこちらに気づいた様子もなく、楽しそうに冗談を言いながら去って行った。
その背を見送って、アトリはゆっくりと口を開く。
「リンが謝ることなんて、何もないだろ」
「…………でも、私」
薄い肩が小刻みに震えるのを、堪らない気持ちで見た。
何でこの子にまで迷惑かけてんだろう。
項垂れる頭をそっと撫でると、リンはやっとアトリを振り返った。
蜂蜜色の瞳は、やはり涙で濡れている。
「ごめん、リン。情けない先輩でほんと申し訳ない。あいつが悪いんじゃないけど、でも、助かったよ」
ふるふると首を振ったリンは、やはり「ごめんなさい」と繰り返した。
「違うんです。ごめんなさい、アトリさん。私、アトリさんが辛いの、ちゃんと気付いていました。多分、私の研修なんかに付き合うべきじゃないんだろうって。でも、一緒にいられるの、嬉しかったから、ずっと気が付かないふりをしてて」
ああ、そんなこと。
リンが気にする必要なんて全くない。
赤く染まった目元を、彼女はローブの袖で強く拭った。
そんな風にしたら、痛いだろうに。
「んとに、良い子だな。リンは」
「…………っ」
違います、と言おうとした唇をきゅっと噛んで、リンは突然アトリの腕の中に飛び込んで来る。
華奢な身体を抱きとめると、躊躇いなく背中に腕が回される。
その警戒心のなさに苦笑して、アトリはなるべく優しく彼女の頭を撫でた。
「俺が黙ってたんだから、んなことは気にしなくて良いんだって。それに、ちゃんと気ぃ遣ってくれてたろ?」
「でも……、全然、意味なかったです」
「そんなことないって」
そもそもリンがアトリを必要としてくれなかったら、今頃どうしていたのかわからないのに。
断る理由がないからと引き受けた話だけれど、ここまで来て後悔なんてしているはずがない。
「ちゃんと独り立ちまで、側にいさせて欲しい。リン」
嗚咽のような返事。
背中を軽く叩くと、リンは少しだけ顔を上げた。
まだ遠慮のある瞳に、また涙が溢れる。
全く何でこの子はこんな可愛いんだか。
「ほら、さっきまでの格好良いリンはどこ行った?」
「…………格好、良かったですか? 私」
子どものように幼く聞き返されて、アトリは思わず吹き出す。
ユーグレイ相手に、あれだけ言い返しておいて自覚なしとは。
「格好良かったって。俺、ちょっとヒロインな気分だったけど?」
思い返すと酷く情けないのだが、まあ仕方がない。
リンはようやく微かに笑った。
はらりと涙の粒が頬を零れ落ちて、けれどそれっきり。
もう落ち着いただろうか。
そっと肩を押してあげると、彼女は身体を離してアトリを見た。
「一つだけ、聞いても、良いですか? アトリさん」
「どうぞ?」
「ユーグレイさんのこと、どう、思っています?」
喧嘩でもしているように見えたのだろうし、そう聞かれることに自体に驚きはなかった。
けれど、どう、と問われて説明は難しい。
あんなにも会うのが怖くて、迫られたら正直身動き一つまともに取れなかったのに。
結局いつだって、ユーグレイのことを考えている。
「どう、って言われると。あいつ怒ると怖いし、理屈っぽいし、サボりとか普通に許してくんないし」
とても、大切な方なんですね。
ラルフにそう言われて、アトリもそうだと答えた。
どこにいても何をしていても、彼自身にどう思われていても。
答えはずっと変わらない。
「でもやっぱ、大切だよ。何すんのもあいつとが一番楽しかったし、一緒にいんのが当然だって思ってた。俺にとってはペアってあいつのことで、それ以外は考えられない」
「…………どうして、辞めちゃったんですか? ペア」
「どうして、かー。俺があいつに酷いことしたから、かな」
リンは一瞬息を呑んで、それから疑わしそうに眉を顰める。
逆じゃなくてですか、と聞き返されては笑うしかない。
ほらあんな怖い顔するから、後輩からの評価が駄々下がりじゃねぇの。
けれどそれ以上を説明することは、やはり出来なかった。
アトリは白い天井を見上げる。
窓のない閉塞空間。
少し、冷たい空気が吸いたいなとアトリは思った。
言葉の続きを待つ気配に気付きながら、ちゃんと予定を組み直すから相談しよう、と話を切り替える。
リンは静かに「はい」と頷いた。
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科
空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する
高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体
それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった
至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する
意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク”
消える教師
山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー
『病弱な幼馴染を優先してください』と言った妻が消えた翌日、夫は領地の会計書類が全て白紙になっていることに気づいた
歩人
ファンタジー
侯爵家に嫁いで五年。ルチアは夫エミルの領地会計・社交・使用人管理を全て一人で担ってきた。だがエミルはいつも幼馴染のアリーチェを優先する。「アリーチェは体が弱いんだ、お前とは違う」——その言葉を百回聞いた日、ルチアは微笑んで離縁届に署名した。「ええ、私は丈夫ですから。どうぞ幼馴染様をお大事に」。翌朝、エミルが目にしたのは——税務報告の締切、領民からの陳情の山、そして紅茶の淹れ方すら知らない自分。三ヶ月後、かつて「地味な妻」と呼ばれたルチアは、辺境伯の財務顧問として辣腕を振るっていた。
処刑される悪役令息に転生したらなぜか推しの騎士団長がグイグイ近づいてくる
猫に小判
BL
交通事故で死んだはずの会社員・田中悠人は、気がつくとBL小説『恋と陰謀~はじまりは夜に~』の世界に転生していた。
しかも転生先は、原作で処刑される悪役令息エリオット。
当然そんな未来は回避したい。
原作知識を頼りに慎重に立ち回るつもりだったのに、気づけば王宮を揺るがす事件に巻き込まれていき――。
さらに困ったことに、原作で一番の推しだった騎士団長ガイウスがやたらと距離を詰めてきて……?
平穏に生きたい元悪役令息と、過保護な騎士団長がじれじれ距離を縮める話。
ガイウス(騎士団長)×エリオット(元悪役令息)