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2章
7
しおりを挟むいや、怖いから。
気分は逃げ場を失った獲物だ。
え、そんなに怒ってんの。
いや、怒ってるのは当然かもしれないけど。
目が据わってるし、完全に仕留めるつもりの顔してんじゃん。
当たり障りのない会話なんて、試みた瞬間に引っ叩かれそうだ。
逃げろと警告する脳に対して、身体は竦んだまま動かない。
ああ、もう。
「アトリ」
びくりと身体が跳ねた。
ユーグレイの影が、視界を覆う。
縋るように壁に背を預けたまま、身体が触れるほどの距離に息を呑む。
聞き慣れた心地の良い声は、少しだけ掠れて震えていた。
そんな風に名前を呼ぶな。
首筋に牙を立てられたような恐怖に、倒錯的な興奮が混ざった。
到底顔を見られるはずがなく、視線は彼の肩で縫い止められる。
ユーグレイってば、とロッタが責めるような声で呼びかけるのが聞こえた。
ねぇ、と返事を催促されているのに彼は振り返りもしない。
「…………呼ばれ、てるけど? ユーグ」
辛うじて発した言葉に、ユーグレイは低く笑った。
だから、怖いってば。
「君は、そんなことを気にしている場合か?」
仰る通りですが。
ユーグレイの手がゆっくりと持ち上がるのが見えて、アトリは必然的に歯を食いしばった。
彼が感情のまま実力行使に踏み切るほどの仕打ちは、残念ながらした覚えがある。
それで気が済むのなら、彼に殴られるくらいは別段どうということはない。
ただそれが終わったら頑張ってきちんと謝るから、喋れるくらいには手加減して欲しいと思った。
けれど。
その手は、結局アトリに触れなかった。
「アトリさん」
驚いたように小さく声を上げたのは、多分ロッタだろう。
唐突に腕を掴まれて、横に引っ張られる。
僅かに開いた距離。
華奢な身体がユーグレイとの間に割って入るのが見えた。
ふわふわした金髪が、乱れる呼吸のままに揺れる。
リン。
「アトリさんごめんなさい、お待たせしてしまって。第三区画に出るってお話でしたけど、私、やっぱりまだ魔力の受け渡し訓練をしておきたくて。今日、予定を変更して頂いても良いですか?」
慌ただしく一気に紡がれた言葉に、半分も理解が出来ないまま頷く。
良かったと言いながら、リンは急かすようにアトリの身体を押した。
一歩二歩、その勢いに抗うことなく後ずさる。
リンはほっとしたような表情をして、肩越しにユーグレイを振り返った。
あれ、これはどういう状況だ。
「悪いが部外者は黙っていてくれ。話の途中だ」
ユーグレイがどういう表情をしているか、窺う余裕はなかった。
けれど温度のない彼の声に、リンは怯まない。
「部外者って、誰のことですか?」
ユーグレイの背後で、ロッタが気の抜けるような歓声を上げた。
リンは彼を見上げたまま、一歩も引かない。
「私、部外者じゃありません。ユーグレイさんこそ、今更アトリさんに何のご用なんですか?」
「リン」
いや、違う。
ユーグレイは悪くないし、リンがそこまで必死になる必要もない。
呼びかけに、彼女は視線を戻す。
強張った顔をした後輩は、「行きましょう」とアトリの手を引いた。
僅かな沈黙を破って、ユーグレイはその背に言葉を投げかける。
「そこまで言うのなら、隣に立つ相手の顔色くらい気にかけろ」
「……そんなこと、貴方にだけは言われたくありません」
刹那言い返したリンが、歩き出す。
彼女の白い手は、指先まで緊張で冷え切っている。
熱を分けるようにその手を握り返すと、リンは足を止めずに震えるような息を微かに吐き出した。
ユーグレイは、追っては来ない。
「リン」
第四防壁の門は、あっという間に見えなくなった。
長く続く広い廊下は、照明に照らされて白く明るい。
誰かの話し声が響いて、突然現実に戻って来たような感覚がした。
ごめんなさい、と呟いてリンはようやく足を止める。
幅の広い階段の脇。
休憩でもしていたのか、少し先の談話室から数人の男女が笑いながら出てくる。
彼らはこちらに気づいた様子もなく、楽しそうに冗談を言いながら去って行った。
その背を見送って、アトリはゆっくりと口を開く。
「リンが謝ることなんて、何もないだろ」
「…………でも、私」
薄い肩が小刻みに震えるのを、堪らない気持ちで見た。
何でこの子にまで迷惑かけてんだろう。
項垂れる頭をそっと撫でると、リンはやっとアトリを振り返った。
蜂蜜色の瞳は、やはり涙で濡れている。
「ごめん、リン。情けない先輩でほんと申し訳ない。あいつが悪いんじゃないけど、でも、助かったよ」
ふるふると首を振ったリンは、やはり「ごめんなさい」と繰り返した。
「違うんです。ごめんなさい、アトリさん。私、アトリさんが辛いの、ちゃんと気付いていました。多分、私の研修なんかに付き合うべきじゃないんだろうって。でも、一緒にいられるの、嬉しかったから、ずっと気が付かないふりをしてて」
ああ、そんなこと。
リンが気にする必要なんて全くない。
赤く染まった目元を、彼女はローブの袖で強く拭った。
そんな風にしたら、痛いだろうに。
「んとに、良い子だな。リンは」
「…………っ」
違います、と言おうとした唇をきゅっと噛んで、リンは突然アトリの腕の中に飛び込んで来る。
華奢な身体を抱きとめると、躊躇いなく背中に腕が回される。
その警戒心のなさに苦笑して、アトリはなるべく優しく彼女の頭を撫でた。
「俺が黙ってたんだから、んなことは気にしなくて良いんだって。それに、ちゃんと気ぃ遣ってくれてたろ?」
「でも……、全然、意味なかったです」
「そんなことないって」
そもそもリンがアトリを必要としてくれなかったら、今頃どうしていたのかわからないのに。
断る理由がないからと引き受けた話だけれど、ここまで来て後悔なんてしているはずがない。
「ちゃんと独り立ちまで、側にいさせて欲しい。リン」
嗚咽のような返事。
背中を軽く叩くと、リンは少しだけ顔を上げた。
まだ遠慮のある瞳に、また涙が溢れる。
全く何でこの子はこんな可愛いんだか。
「ほら、さっきまでの格好良いリンはどこ行った?」
「…………格好、良かったですか? 私」
子どものように幼く聞き返されて、アトリは思わず吹き出す。
ユーグレイ相手に、あれだけ言い返しておいて自覚なしとは。
「格好良かったって。俺、ちょっとヒロインな気分だったけど?」
思い返すと酷く情けないのだが、まあ仕方がない。
リンはようやく微かに笑った。
はらりと涙の粒が頬を零れ落ちて、けれどそれっきり。
もう落ち着いただろうか。
そっと肩を押してあげると、彼女は身体を離してアトリを見た。
「一つだけ、聞いても、良いですか? アトリさん」
「どうぞ?」
「ユーグレイさんのこと、どう、思っています?」
喧嘩でもしているように見えたのだろうし、そう聞かれることに自体に驚きはなかった。
けれど、どう、と問われて説明は難しい。
あんなにも会うのが怖くて、迫られたら正直身動き一つまともに取れなかったのに。
結局いつだって、ユーグレイのことを考えている。
「どう、って言われると。あいつ怒ると怖いし、理屈っぽいし、サボりとか普通に許してくんないし」
とても、大切な方なんですね。
ラルフにそう言われて、アトリもそうだと答えた。
どこにいても何をしていても、彼自身にどう思われていても。
答えはずっと変わらない。
「でもやっぱ、大切だよ。何すんのもあいつとが一番楽しかったし、一緒にいんのが当然だって思ってた。俺にとってはペアってあいつのことで、それ以外は考えられない」
「…………どうして、辞めちゃったんですか? ペア」
「どうして、かー。俺があいつに酷いことしたから、かな」
リンは一瞬息を呑んで、それから疑わしそうに眉を顰める。
逆じゃなくてですか、と聞き返されては笑うしかない。
ほらあんな怖い顔するから、後輩からの評価が駄々下がりじゃねぇの。
けれどそれ以上を説明することは、やはり出来なかった。
アトリは白い天井を見上げる。
窓のない閉塞空間。
少し、冷たい空気が吸いたいなとアトリは思った。
言葉の続きを待つ気配に気付きながら、ちゃんと予定を組み直すから相談しよう、と話を切り替える。
リンは静かに「はい」と頷いた。
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