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2章
10
近いうちに必ず、なんて。
悠長なことを言っている場合ではなかったと思い知ったのは、すぐ翌日のことだった。
哨戒訓練のため、リンを連れて改めて訪れた第三区画。
午後の少し遅い時間から周り出して、探知をしながら通常の哨戒任務と同程度の時間を海で過ごす。
現場では担当の二組がすでに哨戒をしていたため、いっそ一度人魚の対応に当たらないかと不謹慎な期待をしたがそこはそう都合良く行かないらしい。
それでもまあ第四区画より遥かに危険性が高い区画をこれだけ歩いたのだから、それなりの訓練にはなっただろう。
「……どっちかつうと、俺の方がヤバいけど」
何度目かの探知。
安全性は高まるから、その魔術の出力が狂っていることは悪いことばかりではない。
その分の負担があることは当然のことと理解もしている。
一方のリンは魔力切れの様子もなく、緊張はしているようだが周囲を警戒しつつアトリとの会話も普段通りと手がかからない。
「アトリさん?」
魔力を渡すために繋いだ手をそっと離して、リンは心配そうにアトリの顔色を窺う。
もちろん大丈夫と、アトリは平気な顔で頷いた。
煌めくような水色の海は、いつの間にか夕闇を映している。
刻一刻と移り変わる空の色。
昼と夜の合間、一時の黄昏は息を飲むほどに美しい。
哨戒に当たっていたペアが、任務を終えて門へと戻って行く。
第四防壁の銀色の門が、ゆっくりと開かれるのが見えた。
「俺たちもそろそろ上がるか。見た感じは全然問題なさそうだったけど、どう?」
「はい。緊張はしましたけど、一応。でもやっぱり体力はもっと付けなきゃですね」
「無理ない程度でな。色々頑張んなきゃってなるとこの仕事は結構しんどいだろ。安全確保が第一で、適度にゆるーくやんのが一番だよ」
リンはふわりと髪を揺らして、小さく笑う。
じゃあ行こうか、と声をかけて。
門に向かって歩き出そうとしたアトリのローブを、彼女はふいに指先で引っ張った。
まだ立ち止まったままの彼女を振り返る。
辛うじて残る夕日で、金色の髪が透けるように光った。
「アトリさん」
「…………ん?」
向かい合って、先を促した。
リンはどこか吹っ切れたような表情で微笑む。
「研修、付き合って頂いて、本当にありがとうございました」
「気が早いなー。まだ今日で終わりって訳じゃないけど?」
リンだってわかっているだろう。
眩しそうに大きな瞳を細めて、彼女は「はい」と答える。
一瞬震えたように見えた唇は、もう一度アトリの名を紡ぐ。
「アトリさん、私の、ペアになってくれませんか?」
リンが口にしたその言葉に、動揺はしなかった。
慕ってくれているのはわかっていたし、初めて会った時も同じようなことを言われた。
だが恐らくは研修を通して、アトリがエルとして優秀ではないともう気付いているだろうに。
情けないところも見せたのに未だにそう言ってくれることは、ただ、嬉しい。
「ありがとな、リン」
「………………」
波のない海は、静かだ。
防壁の影がゆっくりと辺りを包む。
薄闇の中、アトリはリンの頭を撫でた。
「ペアになってやれなくて、ごめん。でもリンは特別大事な後輩だから、誰より応援はさせて欲しい」
「…………はい」
まるでその答えがわかっていたかのように、リンは頷く。
きっと彼女であれば、良いペアが見つかる。
以前そうであって欲しいと願ったのとは違い、どこか確信を持ってそう思った。
リンは微笑んだまま、悪戯っぽく肩を竦める。
「これでも、アトリさんのこと見てるつもりでしたから、断られちゃうってわかってました。だから、ごめんなさい。私が、ただ、言っておきたかっただけなんです」
「そっか」
「でもあの人がちゃんとしないなら、私、無理にでもアトリさんを連れてくつもりなので。その時は諦めて私の手を取って下さいね」
本当に、可愛らしい外見とは裏腹に格好良い子だ。
本人も言っていておかしくなって来たのか、微かに肩を震わせて笑っている。
ひやりとした風がその声を攫って、アトリは「帰ろう」と彼女を促した。
門を振り返ろうとしたアトリの手を、リンはぎゅっと握る。
どうした、と軽く問うには痛々しいほどに真摯な瞳だった。
「何でも良いです。辛くなかったら、もう一回だけ、魔術を使ってくれませんか?」
別にこれが最後という訳ではない。
けれど気持ちを切り替えるのに必要なら、全く構わなかった。
脳の奥の方が麻痺しかけているが、一回くらいはどうということはない。
良いよと頷くと、握られた手から魔力が流れ込んで来る。
小さな熱がいくつも弾けた。
瞼の裏の暗闇が、ちらちらと光るような錯覚。
もう暗いからと探知は視覚ではなく、知覚に頼る。
足元の水から、波紋のように魔術が広がった。
放っておくと全方位の情報をどこまでも拾い続けるから、気をつけなければいけない。
薄暗い海。
海底に沈む半透明の砂利。
息を潜めるものは、いない。
スイッチを切るように魔術を解くのは多分良くはないのだろうが、それ以外に方法を知らなかった。
リンの手の感触を頼りに、どこかに飛びそうな意識を繋ぎ止める。
「…………これで」
良いか、と訊こうとした。
戻ってきた視界。
目の前のリンと、目が合わなかった。
拗ねたような少し怒ったようなその顔に、アトリは首を傾げる。
何を見ているのかと、その視線を追って振り返る間もなかった。
リンと繋いだ左手を、誰かが奪うようにして掴んだ。
少しだけ冷たい、大きな手。
なんで。
「ユーグ」
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