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3章
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しおりを挟む「…………お気付きとは思いますが、まず前提として皇国の名を負って来ている以上誰であれここで下手なことはしないと考えます」
そう言って、ラルフは静かに視線を落とした。
「それでも実際に何かあるのだとしたら、それは絶対にバレない自信があるか、或いは実施側も意図していない不慮の事象であるかのどちらかでしょう」
冷静にそう続けて、彼は申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。私も研究員ではありますがそのカウンセリングには関わっていないので、何とも」
「いや、ラルフさんが謝んなくても」
それが上辺だけの謝罪だったとしたら、ラルフは相当な役者だろう。
テーブルに両肘をついて、彼は頭を抱えた。
綺麗に整えられた髪に指を突っ込んで、うーんと唸る。
「せっかくここ一番で頼って頂いたのに、こんな当然のお話だけではがっかりですよね。いえ、でも、ああ」
ぱっと顔を上げたラルフは、自身の眼鏡を指先で摘んだ。
「お話を聞く限りでは、そのカウンセリングはイレーナさんが担当でしょうね。眼鏡の怖いーー、お仕事出来る感じの美女でしょう?」
彼女のことであれば多少は、と彼は胸を叩く。
同じ研究院から来ているだけあって、当然その人のことを知ってはいるらしい。
イレーナ。
ようやく名前が出てきた。
ラルフはテーブルの隅に置いた分厚い本をちらと見て、肩を竦めた。
「彼女の研究は、皇国でとても優遇されているんです。研究院で知らない人間はまずいないと思います」
色々とあるのだろう。
ラルフの声には静かな諦観が滲んでいる。
とはいえ研究の話をされてもアトリにはさっぱりだ。
単純な話であるならともかく、この手の話題ならユーグレイの方が適任である。
ただ聞いてはいるのだろうが、相棒は相槌すら打たない。
ラルフは「簡単に言うと、もっと強い魔術を効率良く行使するための研究です」とあっさり言った。
なるほど。
なるほど?
そんなことが可能なら、さっさと教えて欲しかったのだが。
ラルフはアトリの心情を悟ったように、困った顔で笑う。
「アトリさんは、ご自身の意思でどういう魔術を行使するか決めていますよね?」
「そう、ですけど」
それ以外に何があると言うのか。
セルはエルに魔力を渡し、エルは渡された魔力で魔術を紡ぐ。
だからどういう魔術を行使するかは、エルであるアトリに決定権がある。
ラルフはアトリの困惑を理解した様子ではあった。
「でも本当は魔力を渡す側であるセルも、どういう魔術を作り出すかある程度決めることが出来ると言われています」
渡す魔力に扱いやすさの傾向が見られる程度ですが、と彼は続ける。
「魔術を生み出すエルほどの強い方向性はありません。お互いが別の魔術をイメージしたなら、当然エルの方向性が優先されます。ただそうして行使される魔術は強いものにはなりません。そしてエルの負担も大きいことがわかっています」
曰く。
セルとエルが同じ魔術を使おうとした時、それは威力が上がり魔術を紡ぐエルの負担は少ない。
反対にセルとエルが別の魔術を使おうとした時、それは威力が下がりエルの負担は大きくなる。
「まあ、殆ど誤差の範囲ではあります。寧ろ現場でセルとエルが別の魔術を想定するなんてことの方が少ないでしょう」
ですね、とアトリは頷く。
それぞれが別の魔術を使おうと考えているなんていうのは、場合によっては命に関わるすれ違いである。
ただそうだとしたら、結局ペアは最も効率の良い方法で魔術を使っていることになる。
やはりそう上手い話はないのか。
ラルフは「イレーナさんの発想に、私はちょっと付いていけませんが」と前置きをする。
「このことから、彼女は魔術行使の主導をセルに移譲するべきだと考えたようです」
「……何故?」
黙り込んでいたユーグレイが低く問う。
「魔力を渡しているだけのセルに対して、エルは魔力を受け取り魔術を構築して行使するという多くの役割を担っている。だからその負担を分散することで、より強い魔術を効率良く扱えるのではないかと仮定したようです。それによって、カンディードの活動に大きく貢献が出来るだろうと」
「建前だな」
「え、建前なん?」
ばっさりと言い切った相棒に、アトリは咄嗟に聞き返した。
ユーグレイはラルフを見据えたまま、頷く。
「皇国は魔術の軍事転用に積極的だ。0地点の脅威がある限りはそう大々的に推し進められることではないが、その話の体であればいくらでも言い訳が出来るだろう」
「……仰る通り、国としてはそういう考えでしょう。イレーナさん自身はどうかわかりませんが、研究自体はかなりの補助を受けて進められているようです」
ラルフはまるで自分の咎であるかのように、重く息を吐いた。
「表向きはどうあれ良い気分はしませんよね。エルの意思とは無関係に、魔術を使わせると言っているのですから」
「……俺は、ユーグがやるってんなら別に構わないけど」
彼が望むように魔術を使うのであれば、別段悪い話には聞こえなかった。
魔術行使の際の負担も軽いというのなら、アトリの現状からは酷く有益な話にも聞こえる。
ただ。
不意にラルフはテーブルに置いていた手を伸ばして、アトリの指先を掴んだ。
ぎ、とすぐ隣で椅子が軋む音がする。
僅かに腰を浮かすユーグレイ。
けれど相棒がそれ以上動く前に、アトリは反射的に掴まれた指先を振り払っていた。
「ーーすみませ、ん」
自分でも理解出来ないが、明確に「嫌だ」と思った。
それを、彼以外に許してはいけないと。
ラルフは気にした様子もなく、「構いません」と首を振る。
「ユーグレイさんが相手ならばと言うのはわかります。けれどイレーナさんの研究が形になれば、今の一瞬で私はアトリさんに自分が望むように魔術を使わせることが出来る。恐らくですが、それは心身を掌握される行為に等しいでしょう。忌避反応があって、安心しました」
ああ、だからこその嫌悪感だったのか。
失礼しました、と言ってからラルフは思い出したようにコーヒーを一口飲んだ。
見知った談話室に満ちる沈黙は、どこか異常な気配がして息苦しい。
「私が知っているのは、ここまでです。イレーナさんの研究が現在どういう形で進行しているのか、どういった方法でエルの意思を無視して魔術を使わせるのかまでは存じ上げません。彼女がその研究の一環で使節団に加わっているのかも、わからない」
「…………一つ、聞きたい」
そうですかと言いかけたアトリの隣で、ユーグレイが口を開く。
「セルがエルに代わって魔術を構築するというのは、特殊な方法でしか出来ないことか?」
「いえ、意図すれば多少は出来るものだと思います。実戦で使うには練習が必要かもしれませんが、相性が良ければそう難しくはないかと。ただ感覚として『どうやるのか』は私ではわかりません。他人の身体を操るようなものだと推測は出来ますが」
興味があるのですか、とラルフは意外そうな表情でユーグレイを見る。
一瞬アトリに向けられた視線には案ずるような気配があった。
「ペアであるお二人のことに口を出すのはどうかと思いますが、敢えてやるようなことではないかと。アトリさんの能力であればそれ以上を求める必要性はないでしょう? 危険性があるとは言いませんが、気分の良いものだとは思いませんし」
「…………」
ユーグレイの視線に、アトリは黙り込んだ。
何故ラルフがアトリの能力を評価しているのか、疑問なのだろう。
流れで彼の視力を強化したことまでは話していない。
いや、別に怒られる謂れはないと思うのだが。
気まずい空気を察知して、ラルフは明るく「今日は暗い話ばかりになってしまいましたね」と話題を変える。
「こうしてアトリさんの大切な方ともお会い出来ましたし、今度はぜひ食堂でぱーっとお食事でもしましょう」
大切な方、とユーグレイは微かに繰り返した。
珍しく呆気に取られたようにその碧眼が瞬く。
何よりも優先したかったし、大切にしたかった。
もう二度とユーグレイの隣には立てないと思っていたあの時、アトリは確かにそう言った。
ラルフの認識は、それに基づくものだろう。
敢えてそれをアトリの言だとまでは言わないが、ユーグレイは果たして気付いただろうか。
出来れば、気が付かないでいて欲しい。
「……そーですね」
アトリは適当な返事をしながら、片手で顔を覆った。
指先が触れた自身の頬は、何故か酷く熱かった。
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