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4章
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しおりを挟む白い礼服の背。
回廊を歩くその姿をはっきりと捉えて、アトリは安堵した。
ちゃんと視えている。
彼はまだ観光客のいない静かな回廊を抜け、突き当たりの階段を上がって行く。
石の段を踏み締める靴音が重く響いた。
代筆はするなと念は押した。
このまま目的の少女の元まで素直に行ってくれれば良いのだが。
階段を登り切ると、頑丈そうな格子が嵌められた小窓からノティスの街並みが見えた。
位置としては建物のどの辺りなのだろうか。
思考に反応するように、視界は一瞬加速して空を映した。
やはり威力と同じで緻密なコントロールが効かないらしい。
思わず手に力が入った。
繋いだままのユーグレイの手の感触。
アトリが急にその手を強く握ったからだろう。
応えるように握り返されて、息を吐く。
集中しろ。
もう一度、アトリは目を凝らした。
ぐんと視界が引っ張られる。
窓の少ない薄暗い廊下の先。
広い背中が扉を抜けて行く。
戻れた。
アトリは見失わないよう、その後を追う。
狭くなった通路。
また一つ階段を上がると、錠前の付いた木製の扉があった。
レクターはそこで立ち止まると、礼服の懐から鎖の付いた鍵を取り出す。
鍵穴に差し込まれたそれは、擦れるような音を立てて回された。
押し開けられた扉の先は、個室になっているようだ。
どこかの貴族が使うような天蓋付きのベッド。
磨かれた木の床には、何かの紋章をモチーフにした大きなカーペットが敷かれている。
一つだけある窓の側、他の家具に比べて小さな机があった。
どこかの学校でも使っていそうな、それだけは質素な机と椅子。
その椅子に、少女が腰掛けている。
「クレハ」
レクターが呼びかける。
腰の辺りまである癖のない黒髪は、濡れたように滑らかだ。
婚姻の話があるなんて思えないほどに、背を向けたままの身体は華奢で幼く見える。
「クレハ」
二度目の呼びかけに、彼女はようやく振り返った。
父親のそれと似た白い礼服。
赤みがかった琥珀色の瞳がこちらに向けられる。
聖女と噂されるのも納得出来る。
どこか神秘的な雰囲気を纏った少女は、はっとするほどに整った容貌をしていた。
十代半ばくらいだろうか。
人形のように感情のない顔。
生気はないが、熱があって体調が悪いようには見えない。
レクターは娘の傍に立つと、その肩に手を置いた。
何も置かれていない机の上に、彼はアトリが書いた手紙を広げる。
「カンディードの方からお前に手紙だよ。どうしても今、返事が欲しいそうだ。書いてくれるかな?」
少女は何も言わない。
瞳を伏せるようにして、アトリの手紙を読んでいるようだった。
レクターは笑う。
「もしも貴方が困難を抱えているのであれば、私たちは貴方の力になりたいと思っている。私たちの助けは必要だろうか?」
単純な問いかけだ。
手紙を読み上げたレクターは、娘の肩を優しく叩く。
「返事を書きなさい、クレハ。彼らもそれで『納得する』と仰せだからね」
少女の横顔に浮かぶものはない。
白く細い手が、机の引き出しからガラスペンを取り出す。
「カンディードに目を付けられた時は面倒なことになったと思ったけれど、話のわかる方々で本当に良かった。お前はもうすぐ大切な時期だから、心配していたんだ」
レクター・ヴェルテットの印象は、アトリとしては最悪の一言に尽きる。
何かをされた訳ではないのに、どうしても受け入れられない。
ただ彼は少女の父親で、彼女という人間がどういう意思を持っているのかもわからなかった。
もしかしたら、彼女にとっては「良い父親」なのかもしれない。
或いは、彼女自身も彼に同調して動いているのかもしれない。
だから何か少しでもサインがあれば。
「ああ、そうだ。この手紙を書いてくれた人は、お前の母親と同じ黒髪に黒い目をしていたよ。もしかしたら同郷なのかもしれないな」
「………………」
ガラスペンを持ったまま、少女は顔を上げた。
レクターは瞳を細めて微笑む。
「お前の母と同じだけの素養を持っているのならば欲しいところではあるが、どうかな? クレハ。権力はあるが、婚約者殿はあまり良い遺伝子を持っていなさそうだからね。子を産むのであれば、より良い相手を見繕った方が良いだろう。何よりお前に、こうやって手紙を書いてくれる人だ。興味はあるだろう?」
ぐっと湧き上がったのは、嫌悪から来る吐き気だった。
遺伝子、子を産む、より良い相手。
待て。
この男は、自分の娘に、何を言っている?
「クレハ、手が止まっているようだ。返事を書きなさい」
父親の顔から視線を逸らして、彼女はガラスペンを握り直す。
けれど紙に置かれたペン先はインクを滲ませただけで、字を綴り出そうとはしない。
クレハ、と声が響く。
レクターは指先で手紙をとんと突いた。
「どうした? 『困っていることは何もありません』と、そう一言書くだけで良い。簡単だろう?」
嫌だと言ってくれれば良い。
言葉にしなくても、首を振ってくれるだけで良い。
けれど結局、少女は何の抵抗の意思も見せなかった。
ゆっくりと動き出したガラスペンが、細く美しい文字を描いていく。
一言一句父親の望む通りの返事を書き切って、彼女は躊躇ったように手を止め「けれどそのお心遣いに感謝致します」と小さく付け加える。
ありがとう、と締め括られた返事。
その言葉だけは、本物だ。
「淑女らしい良い返事だ。ああ、先程のことは私が良いように手筈を整えてあげよう。お前は何も、心配しなくて良い」
レクターは指先で持ち上げた手紙を眺めると、満足そうに頷く。
いつも通り良い子にしていなさい、と言い残して彼はさっさと踵を返し扉を閉めた。
がちゃりと鍵の締まる音。
部屋の内側に、鍵は付いていない。
少女は父親の許しなくしてここから出ることさえ叶わないらしい。
じっと扉を見つめていたクレハは、しばらくして窓辺に視線を戻した。
ぎゅうっと強く手を握られる感覚がある。
アトリ、と呼ぶのはユーグレイだ。
確かにもう随分と視ている。
レクターが戻って来る前に、アトリも魔術を解かなければ。
けれど目が離せなかった。
何を思っているのだろうか。
彼女は、焦がれるように窓から空を仰いでいる。
その心の中まで、視ることが出来れば良かったのに。
いや、十分だろう。
こんなことが、許されて良いはずがない。
少女の両手がふいに机の上に置かれた。
ぎぃっと木が軋む音がする。
彼女の膝が机に乗った。
ちょっと、待て。
ここにはない心臓が痛いほどに跳ねた。
机の上に膝立ちになったクレハは、両手を窓に押し当てる。
差し込んでいる陽光に眩しそうに瞳を細め、その手に力を入れた。
窓枠が、嫌な音を立てる。
それが外れたら、この少女は当然のように外に飛び出していくだろう。
ふわりと宙を舞って、地面に叩きつけられて、それで終わりだ。
やめろ。
ただ視ているだけであることなど、もう意識にはなかった。
伸ばそうとした手はなく、声も届かない。
何でも良い。
どうにかしてこの子を。
「ーーーーっ!?」
ぱっと長い髪が舞って、少女は机から床に飛び降りる。
同時に弾かれたように振り返った彼女が、赤い瞳を見開いた。
目が、合う。
誰、と淡い色の唇が言葉を紡ぐ。
気付かれた。
何故、いや、そんなことより。
刹那。
纏まらない思考を押し潰すように、目から頭の奥へと貫かれたような激痛が走った。
視線を飛ばしていた自身が破裂するような、生々しい感覚。
ぶつりと展開していた魔術が壊れたのがわかって。
視界は、一瞬で黒く塗り潰された。
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