Arrive 0

黒文鳥

文字の大きさ
89 / 217
4章

9

しおりを挟む

「う゛、ッ、痛ぅ……!」

 片手が硬い木の縁を掴んだ。
 これは、テーブルだ。
 鮮明な身体の感覚に、あの場から戻ることが出来たのだと実感した。
 喜びや達成感を得る余裕はない。
 ずぐりと抉られるような痛みが、頭の奥で脈動している。
 支え切れずに椅子から傾いた身体を、誰かが抱き止めてくれた。

「アトリ!」

 ユーグレイだ。
 返事をしたいのに、喉の奥からは掠れた音しか出て来ない。
 灼けたように熱を持った眼を無意識に押さえると、少し乱暴にその手を取られた。
 ひんやりとした指先が、瞼を押し上げる。
 切羽詰まった表情のユーグレイ。
 フォックスも腰を上げて心配そうにこちらを見ている。
 
「ユー、グ」

「……見えているな?」

 アトリは呻くように「ああ」と答える。
 痛みに対して、目の機能には全く異常がない。
 
「ちょっと尋常じゃない感じだけど何事!? 医者呼ぼっか?」

 焦ったようなフォックスの問いに、アトリは小さく首を振った。
 外傷ではない。
 何が起こったのかよくわからないが、少なくともこれは魔術に起因する痛みだろう。
 医者を呼んでもらっても処置の仕様がない。
 防衛反応が、またおかしいのか。
 或いは別のダメージなのか。
 肩で息をしながら、どちらにしてもこれはちょっと酷そうだとアトリは思う。
 
「強行、手段を、取って良い」

 何よりまず得た情報を吐き出しておかなければ。
 ここでアトリが何も言わずに倒れたら、それだけ手を打つのが遅くなる。
 
「クレハ・ヴェルテットが置かれている状況は、俺たちが思っているより、ずっと、悪い」

「もういい、アトリ」

 視界には問題がないのに、目を開けているのが辛くて仕方がない。
 苦痛を誤魔化すように息を吐くが、その息さえ震えが止まらなかった。
 目を覆って背中を丸めると、ユーグレイが脂汗の滲んだ首筋を労わるように撫でてくれる。
 彼女には、いるのだろうか。
 こうやってその身を案じ優しく触れてくれる誰かが。
 もしいないのであれば、出来る限り早くあそこから連れ出さないと。
 きっと、何もかも手遅れになる。
 扉が開く音がして意図せず肩が震えた。
 この痛みがなかったら、アトリは素知らぬ顔で入って来たその人に詰め寄っていただろう。

「お待たせ致しました。おや、如何されましたか?」

 礼服が擦れるような音。
 窺うようにそう言いながらレクターが近付いて来るのがわかった。

「……具合が良くないようですね。よろしければ部屋をお貸ししましょう。少しゆっくりと休まれていくと良い」

 感情に比例するように、痛みが激しくなる。
 指の間から僅かに視線を上げると、心配そうな顔したレクターが手を伸ばすのが見えた。
 気持ちが悪い。
 嫌だ。

「触るな」

 拒絶の言葉は、アトリ自身ではなくユーグレイが発したものだった。
 それは容赦なく鋭く、冷たい。
 肩に回した手で、彼はアトリの身体を少し引き寄せる。
 格好良いなぁ全く、とくすぐったく思ったがいつものような軽口にはならない。
 アトリはユーグレイの腕の中で大人しく息を潜めた。
 気圧されたようにレクターが息を呑む音が聞こえる。

「ああ、返事は自分が預かりますよ、旦那。押しかけておいて悪いがどうも彼、体調が戻り切ってなかったみたいでサ。うっかりすると吐きそうなんだと。さっさとホテルに戻ることにしますわ」

 のんびりとした声が、張り詰めた空気を緩めるように響く。
 そうですか、と答えるレクターから返事が書かれた手紙を受け取って、フォックスはアトリたちを促す。
 
「ほーい、撤収撤収! てか歩けるかいな?」

「…………たぶん」

 アトリはテーブルに手を置いて、ユーグレイの腕を支えに腰を上げる。
 一瞬。
 高所からノティスの街並みを見下ろしている幻覚に襲われた。
 古い石造りの建物。
 細く入り組んだ道。
 真下に見えるのは、回廊の細長い屋根と石畳の広場。
 この風景は、あの少女が窓から見たものと同じだろう。
 足元がするりと崩れて、そのまま落ちて行くような恐怖。
 何か、強い違和感があった。
 先程まで少女を視ていた魔術はすでに解けている。
 それなのにまだ、どこか繋がっているような。
 
「ーーーーへ、あ?」

 ふわりと実際に身体浮いて、呆気に取られた声が出た。
 膝裏に腕を回してアトリを抱えたユーグレイは、何か文句でもあるのかと言いたげに眉を寄せる。
 ひゅう、と口笛を吹いたのはフォックスだ。
 防壁では最早揶揄われることもないが、流石に羞恥が勝る。
 ただ文句を口にする気力はすでになかった。
 脳を貫く激痛は、一向に引かない。
 もう別に良いか、とアトリはユーグレイの肩口に額を寄せる。
 彼の低い体温が酷く心地良い。
 
「……熱いな」

 ユーグレイが顔を顰めてそう言った。
 確かに、熱い。
 さっきまで焼かれるような熱を感じていたのは目だけだったのに、いつの間にか全身が熱かった。

「しんどい」

 端的に心情を口にすると、ユーグレイは「だろうな」とあっさり答える。
 だろうなって。
 もうちょっとこう優しい言葉は出て来ないものかと笑いたかったが、引き攣るような息が溢れただけだった。
 フォックスが軽い調子でレクターに挨拶をするのが、微かに聞こえる。
 
「……毎回、悪いけど、まかせた」
 
「任された」
 
 当然のように返って来たユーグレイの言葉を聞いて、アトリは瞼を閉じた。



しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

強制悪役劣等生、レベル99の超人達の激重愛に逃げられない

砂糖犬
BL
悪名高い乙女ゲームの悪役令息に生まれ変わった主人公。 自分の未来は自分で変えると強制力に抗う事に。 ただ平穏に暮らしたい、それだけだった。 とあるきっかけフラグのせいで、友情ルートは崩れ去っていく。 恋愛ルートを認めない弱々キャラにわからせ愛を仕掛ける攻略キャラクター達。 ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。 落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!? 最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。 12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生

R指定

ヤミイ
BL
ハードです。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

魔王に飼われる勇者

たみしげ
BL
BLすけべ小説です。 敵の屋敷に攻め込んだ勇者が逆に捕まって淫紋を刻まれて飼われる話です。

処理中です...