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4章
0.3
しおりを挟むぎしりとベッドが軋む音がした。
緊張の滲む吐息と怯えたようにこちらを窺う気配。
照明を落として数時間が経っている。
すぐ隣のベッドで横になったユーグレイが身動ぎ一つしないことを確認して、彼はようやくほっとしたように緊張を緩めた。
見張っていた訳ではなかったが、結果的に微睡もしなかったことが幸いしたようだ。
足音を忍ばせて、彼は部屋を出て行く。
扉が閉められるのと同時に、ユーグレイは身体を起こした。
一時の夢のように、時が解決してくれる事態ではないのだと理解する。
けれど実際のところ何が起こっているのか把握出来ている訳ではない。
ここにいるのはアトリではない。
全く異質な他者だと、そう感じたのは確かだ。
ただそんなことが起こり得るのかと懐疑的な自身もいる。
極めて複雑な記憶障害だと結論付けるのが、適当である気もした。
「……では、何故逃げる」
記憶に欠落があるのであれば、そうと申告するだけで良い。
囚われていた場所から隙を見て逃げ出すような真似は、しなくて良いはずである。
苦々しく吐き出した言葉に、返答はない。
ユーグレイは見慣れた人影を追って部屋を出た。
視線を集める事情を聞いてからは必ず隠すようにしていた黒髪を晒したまま、彼は戸惑うような素振りを見せながらもホテルのロビーへと下りる。
どこに行くつもりなのか。
フロントスタッフの心配そうな視線にさえ気が付かないところを見ると、本人もあまり余裕はなさそうだ。
ユーグレイは声をかけようとしたスタッフに目配せをして、彼の後に続いた。
少し肌寒い夜の街。
こうして黙って出て行くからには目的があるのだろうと思ったが、通りを少し進んだところでその人は途方に暮れたように足を止める。
街並みを見渡して、けれどどこに向かえば良いのかわからないのだろう。
「アトリ」
まだ声をかけるつもりはなかった。
それでも、迷子のような表情で立ち竦むその姿を前に言葉は自然と口をついて出た。
けれど呼びかけに、その人は反応しない。
そもそも、彼はユーグレイに気付かれずに部屋を出たなどと思っている。
こうして後をつけられているなんて思いもしていない。
その思考自体が、アトリという人間からかけ離れている。
それでも、幾許かの希望を持って繰り返さずにはいられなかった。
振り返って安堵したような顔で、いつものように名を呼んでくれるだけで良い。
それだけで良かったのだ。
「アトリ」
自身が呼ばれていると、ようやく気が付いたのだろう。
数メートル先で、彼はぱっとユーグレイを振り返った。
驚きで見開かれた瞳。
そこに、信頼も親愛も見て取れない。
「………………」
彼が僅かに後ずさったのを見て、ユーグレイは静かに息を吐いた。
「君は、何か言うべきことがあるんじゃないのか?」
「…………言うべき、こと」
固い声で繰り返したその人はそう呟いたきり黙り込む。
長くは待てなかった。
「君は、誰だ」
ここにいるのは、アトリではない。
ユーグレイが唯一欲しいと焦がれる相手ではない。
身体の芯が冷えて行く。
返答次第では、自制が出来る気がしなかった。
薄暗い通りに響いたその問いに、彼の姿をした人は息を飲んで。
それから、何もかも諦めたように微かに笑った。
「……わかるんだね」
それはアトリの声ではあったが、彼の口調や息継ぎとは明らかに異なっていた。
ユーグレイを見つめる瞳には、ただ色のない諦観が浮かんでいる。
「おとぎ話じゃないんだし、普通『中身』がおかしいって思わないんじゃないかな。調子が悪いだけだって納得してくれるかと思ったのに」
「答えを聞いていない。君は誰だ」
冷ややかなユーグレイの声に、その人は僅かに肩を震わせた。
ただもう吹っ切れたのか、「怒らないで」と淡々と言う。
「……アトリさんは、貴方にとって大切な人なんだね」
その言葉に込められた感情を、ユーグレイは測れない。
自身の根底に断りもなく踏み込まれたような不快感に、咄嗟に数歩踏み込む。
目の前の相手に害意がないとしても、この状況は決して許されるものではない。
ユーグレイの手が触れる寸前。
彼は自分の首元を両手で押さえた。
指先が皮膚に食い込む。
「…………動かないで。この身体に、何かあったら、困るでしょう?」
苦痛に顔を歪めてそれでもそう言い切った相手を、ユーグレイは睨みつける。
指先から力を抜いて苦しそうに呼吸をした彼は、「お願いがあるの」と続けた。
この状況下でアトリの存在を盾にした上での「お願い」など、脅迫以外の何物でもない。
だがそれがどんな荒唐無稽な願いでも、アトリに代えられない以上ユーグレイはそれを飲むしかない。
癖のない黒髪が、夜風にはらはらと遊ばれる。
見たことのない思い詰めた表情。
アトリではない誰かは、何の温度もない声で言う。
「レクター・ヴェルテットを殺すのを、手伝って欲しい」
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