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5章
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しおりを挟む喉が渇いたなと思った。
纏わりつくような怠さと頭痛の名残があったが、身体を起こせない程ではない。
どちらかと言えば体調は良くなっている方だ。
うん、やっぱりやばい時は寝るに限る。
柔らかい枕に額を押し付けてから、ゆっくりと目を開けた。
部屋は暗く人気がない。
一つだけある窓の向こうは、まだ夜が広がっているようだった。
相棒はどこに行ったのだろうか。
ぼんやりと彼の気配がないことを察して、身体を起こす。
ベッドのすぐ脇、チェストの上に置いてあった水差しを傾けて水を飲んだ。
剥き出しの肩から、するりと何かが滑り落ちる。
癖のない長い黒髪。
意味もわからないままそれを指先で摘むと、頭が同時に傾いた。
もしかしなくても、自分の髪らしい。
「…………いや、えっ? んんっ!?」
自身が発した音は、普段のそれとはあまりに異なった。
高くか細い少女の声だ。
咄嗟に喉を押さえて、ベッドから下りる。
薄闇の中でもそうとわかる、白く華奢な脚。
待て待て、これはどういう。
ふわふわと力の入らなかった身体は、そのまま床に崩れ落ちた。
ぶつけた膝の痛みとひやりとした床の感触に頭を抱える。
身に纏っていた薄手の夜着はレースが付いた可愛らしいワンピースだ。
最早、笑うしかない。
「ちょ……待った。は、えぇ?」
何度聞いてもそれは自分の声ではなく。
見下ろす身体は、どう見ても少女のそれである。
夢か。
夢ということにしたい。
確信を求めるように、薄暗い部屋を見渡す。
天蓋付きのベッド。
窓際には小さな机と椅子。
その上に乗り上げて窓の向こうを眺める少女を、あの時確かに視た。
そうか。
ここは、彼女の部屋だ。
ふらりと立ち上がって机に向かう。
引き出しの中には、ガラスペンが入っていた。
手紙の返事に感謝を綴ったのは、このペンだったはずだ。
「クレハ・ヴェルテット」
頬に手を当てて、その名を口にした。
長い黒髪。
華奢な体躯の少女。
ではこの身体は、彼女のものだろうか。
さぁっと血の気が引く感覚がした。
けれどこの自我は確かに、アトリのものだ。
まだ、視ているのだろうか。
視る魔術に関しては威力の変化が激しかったから、やろうと思えば他者の視界で物を視るくらいは可能かもしれない。
だがこれは、クレハの視界で物を視ているだけではない。
彼女の身体は確実にアトリの意思で動いている。
こんなのは、あまりに。
「や、ばぁ……」
頬を軽く叩いても、別段何も起きない。
この現実味のある夢が覚めるわけでも、クレハ・ヴェルテットが我に返るわけでもなかった。
どうなってんだと叫びたいのを堪えて、アトリはベッドに戻る。
こういう難解な事象はユーグレイの担当なのに、肝心の彼はここにいない。
きっと流石のユーグもこれには驚くだろうな、とアトリは自棄になって笑う。
いや、笑っている場合ではない。
アトリ一人の問題であれば構わないが、このままでは当然色々と不味い。
見も知らぬ男に身体を乗っ取られている状態とか、クレハ本人からしたら最悪の最上級。
そもそも彼女の意識はどうなっているのか。
アトリが気付けないだけで、この身体を共有しているのか。
或いはアトリの意識で、彼女の意識を封じ込めてしまっている可能性だってある。
「…………ああ、もう、何やらかしてんだ。俺ぇ」
何故こんなことになっているのかはわからない。
けれど彼女を視ようと行使した魔術が変異したのだと言われたら、納得が出来なくもなかった。
のろのろと肌触りの良い毛布に潜り込む。
ひとまずまた意識を手放そうとアトリは目を閉じた。
一時的に起こっている現象なら、もう一度眠ることで解決したりしないだろうか。
して欲しい。
「というか、そんくらいしか思いつかない……。ホント、申し訳、ない」
焦りと混乱で眠れるだろうかと案じたのも束の間。
身体の方は、まだ休息を欲していたようだ。
ぐんと重くなる身体に引き摺られて、思考が途切れるのがわかった。
ああ、でも。
もしも、次に目を覚ました時もこのままだったら。
一体どうしたら良いのだろうか。
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